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1イトーヨーカドー上田店2007/11/02イトーヨーカドー上田店2007/11/02イトーヨーカドー上田店は、現在のアリオ上田店に移転する以前は上田駅前にありました。この日2007/11/02、横浜から帰った時にたまたま撮った写真があるので、こちらに掲載しておきます。2023-02-25
2LIVIN上田店2007/12/30LIVIN上田店2007/12/30上田市のホテルルートインGrand上田駅前が建っている場所にはLIVIN上田店がありました。LIVINは西友系列の店舗です。2007/12/30に記録した写真があるので掲載しておきます。この建物が取り壊される時の風景を記録した写真もあるのですが、いつだったか、今は探し出せません。2023-02-25
3実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座[第3回]実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座[第3回]【オンデマンド講座】 ★DA講座2-3皆さんのデジタルアーカイブ/地域学習企画披露会 182分 【講座タイムテーブル】 講師:前川道博(長野大学企業情報学部教授) ゲスト講師:桂木惠さん(上田小県近現代史研究会事務局長)、朝倉久美さん(デジタルアーキビスト) 第3回 2月18日(土) 13:00~16:30 皆さんのデジタルアーカイブ(DA)/地域学習企画披露会 13:00 はじめに、ゲスト講師紹介 13:10 DA/地域学習企画披露会 Part1 (14:20 休憩) 14:30 DA/地域学習企画披露会 Part2 16:20 講評・まとめ 16:30 終了 《披露会の発表者と発表テーマ》敬称略。発表資料は以下に掲載してあります。 ①島津千登世/下河辺淳+戦後国土計画関連資料アーカイヴス  →下河辺淳アーカイヴス  →2023-02-19
4西南戦争をたどる②西南戦争をたどる②田原坂の戦いで敗れた薩摩軍が敗走した道になります。2023-02-17
5西南戦争をたどる①西南戦争をたどる①田原坂の戦いで敗れた薩摩軍が敗走した道になります。2023-02-17
6上田電鉄の重要性とは?上田電鉄の重要性とは?ここまで、上田電鉄の歴史と存廃問題、新たな転換方法について発表してきました。では、上田電鉄の重要性とは何なのでしょうか。私なりの意見として、上田電鉄は存在自体が重要であるということを述べたいと思います。上田市生まれの作曲家・コカリナ奏者である黒坂黒太郎氏は、自身の曲「別所線牧歌」においてスライドのような歌詞を綴っています。この歌は「上田市はこんなに素晴らしい里だ」「そこに走る別所線が好きだ」という板であり、ここに上田電鉄の重要性が詰まっていると感じています。 つまり、上田市という素晴らしい街、そこに別所線とい電車が走る。上田電鉄別所線はただあるだけでいい、そんな路線なのです。2023-02-15
7上田電鉄がなくなったら・・・?②上田電鉄がなくなったら・・・?②では、上田電鉄がなくなることのデメリットを見てみましょう。鉄道路線の廃止転換方法の代表的なものとして、バス転換があります。もし上田電鉄をバスに転換した場合、塩田方面に向かうバスを新設せねばなりません。別所温泉に行ったことのある方ならわかるかもしれませんが、別所温泉をはじめとした塩田地域は道が狭く、バスは交通の妨げとなる可能性があります。そのほかのバスによる弊害は数多くあり、運賃の高騰、車両当たりの乗客定員が減少するほか、バス特有の予測できない遅延壁があります。別所線の廃止を望む声は多くないですが、デメリットは数多くありそうです。2023-02-15
8上田電鉄がなくなったら・・・?上田電鉄がなくなったら・・・?では、もし上田電鉄がなくなってしまったらどうなるでしょうか。まず、メリットから考えてみましょう。上田電鉄がなくなった結果得られるメリットは「踏切の撤廃による道路交通の円滑化」が挙げられます。車社会の上田市には、踏切が煩わしいと感じる場面が多々あるでしょう。踏切の撤廃は道路交通という面で最高のメリットになり得ます。 もう一つのメリットは、上田電鉄に向けた上田市の補助金が余剰になり、上田市の財政が潤沢になるという点です。これを用いて公共事業などにあてれば、上田市は確実に良い方向に向かうことができるでしょう。2023-02-15
9上田電鉄とは?②上田電鉄とは?②ここから見るに、昔の上田電鉄は長大路線の地元の足、 現在の上田電鉄は幾多の経営危機を住民とともに乗り越えてきた、上田市民の結束を表すシンボルに近いものであると言えます。2023-02-15
10上田電鉄とは?上田電鉄とは?上田地域にはたくさんの企業や施設、団体があり、それぞれ星の数ほどに課題があります。一般企業も数多くありますが、せっかく上田市のことを学ぶので、上田地域にしかない企業はどうだろう、上田市の象徴のような企業はどうだろうと考え付きました。そこで、中心地の上田駅から塩田平を経て別所温泉へ至る上田電鉄について考えることにしました。 上田電鉄別所線は1921年に川西線として開通し、以降上で気を中心に放射状の路線が広がっていきました。 70年代にはモータリゼーションによって経営危機、実際にその十年後には同様の理由で真田・傍陽線などが廃止されました。 しかし別所線だけは観光需要もあってか存続され、税金が源泉の補助金によって経営状態は回復しました。結果的に積極的な設備投資や新幹線の開通もあり、2023-02-15
11コピーヌクラブ演奏会 「小諸唱歌」「信濃の国」「糸(中島みゆき)」「ピチカート」コピーヌクラブ演奏会 「小諸唱歌」「信濃の国」「糸(中島みゆき)」「ピチカート」 【目次】 0:00 コピーヌクラブ紹介 2:16 「信濃の国」 5:29 「小諸唱歌」 8:01 「糸(中島みゆき)」 13:45 「ピチカート」 【動画説明】 2022/11/3に開かれた特定非営利法人 糸のまち・こもろプロジェクト主催「民間で始まる蚕糸業ものがたり」内で演奏されています。 「民間で始まる蚕糸業ものがたり」 「コピーヌクラブ」  コピーヌクラブは2009年に結成された女性3人演奏家グループで、東信地域を中心にホテル、イベント会場などで演奏活動を続けています。ピアニストの竹鼻恵子さん、フルート奏者の椎名真美子さん、バイオリニストの吉田枝理佳さんで構成されていて、動画では竹鼻さんと吉田さんが出演しています。 「信濃の2023-02-15
12講義「信州上田学A」報告講義「信州上田学A」報告2023/02/11信州上田学成果発表会資料2023-02-11
13学生による地域キュレーション2022(信州上田学A受講生)学生による地域キュレーション2022(信州上田学A受講生)長野大学の地域科目「信州上田学A」を受講した学生が「信州上田」を接点とした地域キュレーションの学習成果です。タイトルを選ぶとその学生のマイサイトを表示します。 ▼カテゴリ1:蚕都上田 【1】 長野県の中でなぜ上田市が蚕都で有名なのか 【2】 上田の養蚕の歴史を掘り下げ、伝え続けるには。 【3】 蚕都上田の歴史と未来 【4】 製糸業の歴史 【5】 蚕都上田の歴史 【6】 蚕都上田2023-02-10
14情報通信文化論 まとめ情報通信文化論 まとめ今回の調査を通して、真田氏はもちろん、仙石氏と松平氏という上田の発展に尽力した三家について知ることが出来た。特に真田氏以外の2家は今回の調査を通して初めて知る事も多かった。真田氏のみがフォーカスされているのが現状なので、もっと人々に知られる機会を作るのが良いかもしれないと感じた。2023-02-08
15山極勝三郎山極勝三郎山極勝三郎は世界で初めて人口癌を作り、癌研究の世界的先駆者となった人物です。 世界初の人口癌発生の偉業はノーベル賞候補にもなったほどでした。 参考…上田人物伝 https://museum.umic.jp/jinbutu/data/031.html2023-02-08
16三吉米熊三吉米熊三吉米熊は1860年、年長州長府藩士三吉慎蔵の長男として長門国(現在の山口県)豊浦郡長府村に生まれた。三吉米熊は自ら西ケ原蚕病試験場に行って研修するなど、積極的に技術・知識を習得し、その後、本格的に蚕糸業の指導にあたるようになり、県下各地の伝習所・講習所で講師を務めた。また、明治22年から24年まで2年間にわたり、フランスなどで視察・研修を行った。当時、蚕業教育の必要性を感じていた小県郡長中島精一は蚕業学校設立を提唱していたが、明治25年3月の小県郡会で設立案が可決され、小県郡立蚕業学校(現・長野県上田東高等学校)が明治25年5月に開校しました。外遊から帰国したばかりの三吉は、この蚕業学校に迎えられ、初代校長に就任した。 大正14年に蚕糸教育の功績によって勲三等瑞宝章が授与され2023-02-08
17花岡みよし花岡みよし花岡は、明治25年鍛冶町に生まれた。太平洋戦争の終戦を期に、女性の積年の願いであった婦人参政権が認められ、昭和21年の総選挙は女性の初参加で行われ、国会の女性議員は39名という驚異的な結果となった。女性の政治への進出は地方にも波及し、「女性議員を出そう」の機運は上田でも高まっていった。市議会議員候補者に何人か上がったが、最後はともに婦人団体活動でリーダーを長く経験した花岡と金子ふじが候補者として選ばれた。 女性の権利が認められていないことが多い時代に女性が活躍していけるように努力を続けた人だった。 参考…上田人物伝 https://museum.umic.jp/jinbutu/data/023.html2023-02-08
18上田の映画館上田の映画館サマーウォーズの舞台にもなった上田市の映画館は、どのような特徴を持ち、どのような価値を持っているかと思い私は上田の映画館について調べてみた。 この写真は上田劇場だ。上田劇場はロケセットを観光資源とするとておユニークな営業を行っている。 そのほかに上田には映画館はたくさんある。しかし上田にあったイトーヨーカドーは2020年6月に閉店が決定した。2022年には「綿半スーパーセンター」ができるそうだ。 このように有名な映画の舞台になった上田の映画館は工夫がないと大型商業施設であってもつぶれてしまうのが現状だ。その背景にあるのはサブスクライブの登場だろう。 今後どのように映画館が変化していくのか楽しみである。2023-02-08
19まとめまとめ上田電鉄別所線の各駅周辺は、数多くの作品の聖地となっていることが分かりました。これからも上田市がロケ地と活用されるよう、期待したいです。2023-02-08
20~番外編~~番外編~映画「サマーウォーズ」(2009)も上田市が舞台となった映画です! 上田駅周辺の「上田城跡公園」「海野町商店街」、別所線からは少し外れますが、「砥石・米山城跡」「上田高校」などがモデルとなっているシーンが登場します。 上田駅構内や別所線の特徴でもある丸窓が描かれているシーンもあります。 https://nagano-ueda.gr.jp/s-wars/guidemap.html2023-02-08
21真田昌幸真田昌幸真田昌幸は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。武田信玄・勝頼に仕え、武田氏滅亡後には自立した。子には真田信之、真田信繁らがいる。 上田合戦で徳川軍を2度に渡って撃退し、徳川家康を大いに恐れさせたという逸話があるすごい人物だ。2023-02-08
22八木沢周辺の聖地八木沢周辺の聖地「八木沢駅」もロケ地として利用されてきました。 ・「夏風」(2002) ・「いくつもの、ひとりの朝」(2006) ・「たとえ世界が終わっても」(2007) ・「ロスト・ハーモニー/Lost Harmony」(2011) ・「ナナとカオル 第2章」(2012) ・「あの電燈」(2014) ・「赤い糸の女」(2012) などがあります。 上田電鉄別所線の駅舎がロケ地となることも多いようですね。2023-02-08
23舞田駅周辺の聖地舞田駅周辺の聖地お次は、舞田駅周辺のロケ地。「舞田駅」がロケ地となった作品があります。 ・「男はつらいよ 寅次郎恋愛塾」(1985) などがあります。 上田は「男はつらいよ」シリーズにロケ地として度々利用されていますね。2023-02-08
24中塩田駅周辺のロケ地中塩田駅周辺のロケ地中塩田駅周辺では、まさに「中塩田駅」がロケ地となっています。 ・「告別」(2001) ・「零 ゼロ」(2004) などがあります。2023-02-08
25大学前駅周辺の聖地(JA信州うえだ塩田東山観光農園)大学前駅周辺の聖地(JA信州うえだ塩田東山観光農園)大学前駅周辺の聖地、最後は「JA信州うえだ塩田東山観光農園」がロケ地となった作品です。いちご狩りなどが楽しめる人気のスポットですよね! ・「零 ゼロ」(2004) ・「博士の愛した数式」(2006) ・「たとえ世界が終わっても」(2007) ・「それでも、生きてゆく」(2011) ・「赤い糸の女」(2012) などがあります。2023-02-08
26大学前駅周辺の聖地(自然運動公園)大学前駅周辺の聖地(自然運動公園)大学前駅周辺のロケ地、2つ目は「自然運動公園」がロケ地となった作品は以下の通りです。 ・「あの電燈」(2014) ・「真田丸」(2016) などがあります。大河ドラマ「真田丸」のワンシーンに登場していたとは!もう一度録画を見返してみようかな…(笑)2023-02-08
27上田駅周辺の聖地上田駅周辺の聖地まずは上田駅周辺のロケ地。上田駅周辺には紹介しきれないほどのロケ実績があります。ここでは特に、「上田城跡公園・野球場」で行われた作品をご紹介。 ・「乃木大将幼年時代」(1923) ・「荒城の月」(1937) ・「次男坊」(1953) ・「風来坊物語」(1963) ・「けんかえれじい」(1966) ・「姿三四郎」(1977) ・「およう」(2002) ・「博士の愛した数式」(2006) ・「恋する日曜日」(2006) ・「監督・ばんざい」(2007) ・「ラストゲームー最後の早慶戦ー」(2008) 最も古くの作品は何と約100年前のもの!!昔から数多くの作品でロケ地として利用されているようです。 https://map.umic.jp/loca_map/map.html2023-02-08
28塩田町駅周辺の聖地塩田町駅周辺の聖地塩田駅周辺には、「塩田中学校」があります。頻繁にロケ地として使われている中学校です。在学生が羨ましい…! 塩田中学校では、 ・「さよなら、クロ~世界一幸せな犬の物語~」(2003) ・「血と骨」(2004) ・「嫌われ松子の一生」(2006) などのロケ地となりました。 https://map.umic.jp/loca_map/map.html2023-02-08
29上田蚕糸専門学校上田蚕糸専門学校また、明治43年には上田蚕糸専門学校(現・信州大学)が設立された。中等教育期間である小県産業高校と、高等教育機関である上田蚕糸専門学校が上田に作られたことは、上田の養蚕業・蚕糸業の繁栄ぶりが窺える。 現在の信州大学繊維学部は、日本で唯一の繊維学部である。 参考サイト:みんなでつくる信州上田デジタルマップ ▼この資料は以下から参照できます ぶ「信州大学繊維学部」 https://d-commons.net/uedagaku?c=&p=11526 (2023/02/06)2023-02-08
30西塩田時報から学ぶライフハック④西塩田時報から学ぶライフハック④ 西塩田公報には『家庭メモ』というコラムがあり、生活に役立つコツやレシピなどを紹介している。  ここでは私が気になった記事を紹介していく。 ~この記事で知ることができるライフハック一覧~ ・味噌のカビを防ぐには笹の葉を表面に敷き詰める ・食塩をさらさらのまま保存するには、容器の底に粉炭を入れてその上にザラ紙(新聞紙などのわら半紙)を12枚敷き詰めておく ・水虫対策には、煎茶を患部に当てる ・切り傷に応急手当には、煙草の粉を患部に当てておくと出血が止まる ・醤油の白カビを防ぐには容器に焼酎を入れておく ・やけどをしたときにはきゅうりの種を綿にしみこませて患部に当てると痛みも引き水ぶくれにもならない。 今回は応急手当だったり、調味料の保存法の知恵ですね。私が気になったのは「煙草の粉」2023-02-08
31西塩田時報から学ぶライフハック③西塩田時報から学ぶライフハック③ 西塩田時報には『家庭メモ』というコラムがあり、生活に役立つコツやレシピなどを紹介している。  ここでは私が気になった記事を紹介していく。 ~この記事で知ることができるライフハック一覧~ ・玉ねぎを調理するとき、ぬるま湯の中で皮をむくと涙も出ないし、手にも臭みが残らない ・天ぷらの衣にはすりおろしたとろろ芋やベーキングパウダー、重曹を混ぜると軽くておいしい衣になる ・魚を焦がさずに焼くには、尾やヒレなどの焦げやすい部分に塩を塗ってから焼くとよい。また二をかぶせて焼くと熱が逃げないので、上手に焼ける パンを薄く切るには包丁を熱い湯につけて温めてから切るときれいに切れる ・革物の汚れには揮発性のもので洗った後、コールドクリームか靴クリームを薄く塗る 今回は調理の知恵が多いです。天2023-02-08
32小県蚕業学校小県蚕業学校現・上田市付近である当時の長野県小県郡では、明治25年に小県蚕業学校(現・上田東高校)が全国に先立てて設立された。蚕業教育の充実化が図られていたため、先ほどの小説が作成された明治29年当時も、小県郡の蚕産業は盛んだったことが推測できる。 参考サイト:みんなでつくる信州上田デジタルマップ ▼この資料は以下から参照できます。 ミッチー「小県蚕業学校(『上田市史』下巻1940)」 https://d-commons.net/uedagaku?c=&p=2303 (2023/02/06閲覧)2023-02-06
33村のトピック村のトピック村での些細な出来事を取りあげられている。お祭りや講演などのイベントから、火の用心といった注意喚起まで、町中の出来事が掲載されている。 現在の広報と似ている部分であり、何年経っても続いているのが面白いと思った。 「西塩田公報」昭和26年6月10日 https://www.mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/vol2.pdf2023-02-08
34農事メモ農事メモ農業で大切になるポイントや注意すること、栽培方法などがメモとしてまとめられている。 「馬鈴薯の収穫は必ず乾燥した時に実施して下さい」など、農業初めての人でも読んだら分かりやすく、ここまで詳しく説明する広報は見たことがないため、面白いと感じた。 「西塩田公報」第59号 昭和27年7月5日 https://www.mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/vol2.pdf2023-02-08
35昔の地図を使った冒険昔の地図を使った冒険今の自分の住んでいるアパートや通っているバイト先が昔はどんな姿だったのかと考えたことはあるだろうか? そういったものをこのような絵図と見比べてみても面白いのではないだろうか? 自分のアパートは昔どういう役割を持っている建物だったのか?1つ前は八百屋だったのか?その前はだれの、どのような家だったのか? そのようなことを考えながら、友達の家を巡ってみるのも、この春休みの良い暇つぶしになるのではないだろうか。 引用画像 信州デジタルコモンズ 上田城下町絵図 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03MP14000600012023-02-08
36太田水穂太田水穂太田水穂 歌人。 広丘村(現塩尻市広丘原新田)生まれ。 本名貞一。 長野師範に進学、島崎藤村に傾倒する。島木赤彦(久保田俊彦)とは同級生であった。 卒業後、革新和歌団体「この花会」を和田の地に結成し、松本平を支配する保守的桂園歌人に対抗して信州文壇に大きな刺激を投じた。この時、窪田空穂と親交をもつ。 明治41年上京、大正四年歌誌「潮音(ちょうおん)」を創刊し、歌人、研究者の道を歩む。象徴的観想の作風。「短歌のふるさと塩尻」の中心人物の一人。 引用:長野県塩尻市公式ホームページ(https://www.city.shiojiri.lg.jp/soshiki/64/3840.html)2023-02-07
37島木赤彦島木赤彦島木赤彦 歌人。 上諏訪町(現諏訪市)生まれ。 本名久保田俊彦。 長野師範卒業後、明治42年に広丘尋常高等小学校長として赴任。在職中に広丘歌会(広丘アララギ短歌会)を開き、中原静子らを育成する。 早くから伊藤左千夫に傾倒し、「馬酔木」(あしび)に参加し、左千夫の死後上京して「アララギ」の編集を担当し、斎藤茂吉・中村憲吉らと写実主義「アララギ」を歌壇の中核に高めた。 歌集に「馬鈴薯(ばれいしょ)の花」等があり、寂寥感(せきりょうかん)の漂う写実的な作風。下諏訪町に赤彦記念館がある。 引用:長野県塩尻市公式ホームページ(https://www.city.shiojiri.lg.jp/soshiki/64/3836.html)2023-02-07
38信州大学 繊維学部 講堂信州大学 繊維学部 講堂中には入っていないが、素敵な講堂を見つけた。 これは、信州大学繊維学部の前身である上田天蚕専門学校の講堂である。この講堂の特徴は、蚕糸のシンボルである桑・繭・蛾が各所に意匠として付けられている点である。口の天井の換気口には繭と蛾、ステージの柱には桑、アーチ の縁飾りには蛾と桑、演台には蛾と繭、脇台には桑が使われている。映画のロケ地としても使われている。 参考文献 「信州シルクロード」より https://shinshu-silkroad.jp/%E4%BF%A1%E5%B7%9E%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E7%B9%8A%E7%B6%AD%E5%AD%A6%E9%83%A8%E8%AC%9B%E5%A0%82/2023-02-06
39岩村田商店街岩村田商店街岩村田商店街は、中山道22番目の宿場町として古くから栄えた商業の街でありますが、2000年以降は閉店してしまうお店も多く、夏の祇園祭の時に行く場所として認知している若者も少なくないでしょう。しかし、近年では「子供の居場所」をテーマに地域コミュニティの担い手になったり、フィットネスクラブや佐久の郷土料理を提供するカフェもあり、賑わいを見せ始めています。商店街という概念を覆すような、個性あふれるお店も進出し魅力あふれる場所になっているように感じました。 今回のテーマを振り返ると、佐久市にはたくさんの素敵な場所があって、たくさんのおいしい食があります。すべては紹介しきれませんでしたが感じたことは、このような場所・食をこれからを担う若者に対してどのように伝えていくか、つまり「継承」が2023-02-05
40はじめにはじめに現在上田の温泉地として有名な別所温泉だが、どのような歴史から成り立っているのか興味が湧き、上記のテーマでキュレーションを行っていく。2023-02-05
41元旦の広告欄元旦の広告欄ページ全体の2/5が別所温泉 花屋ホテルの広告となっている。 #16 『西塩田時報』第4号(1924年1月1日)2頁2023-02-05
42早稲田演劇博物館早稲田演劇博物館2022年12月。念願叶って初めて行きました。2023-02-05
43はじめにはじめに今回は別所温泉がどのような場所なのかについて上田市デジタルアーカイブポータルサイトを使用して探求する。 上田市デジタルアーカイブポータルサイト | 上田市の貴重な文化財や映像をデジタル化して公開 https://museum.umic.jp/index.html2023-02-04
44ふれあいの里公園ふれあいの里公園塩田の館を中心とした庭園風の公園です。独鈷山を背景に四季を通じて楽しめるよう、さまざまな樹木が植えられています。また高台の地形を生かしてあるため、塩田平が一望できます。 引用元 Ueda City Database ( 2032014) https://museum.umic.jp/johogura/nishishioda/2032014/2032014.html2023-02-04
45「藤本蚕業アーカイブ構築」を振り返って「藤本蚕業アーカイブ構築」を振り返って 私はこの一年間地域資料のデジタルアーカイブ活動を行い、活用機会が無い地域資料の撮影とネット上の公開をしました。その中で藤本蚕業アーカイブについて紹介します。  藤本蚕業アーカイブは藤本蚕業歴史館史料をネット上に公開するアーカイブであり、かつて蚕の卵である蚕種の日本最大製造地であった上塩尻の中心であった佐藤家(藤本蚕業)所蔵の史料を扱っています。歴史館では蚕種にとどまらず歴史、文化、地理に関わる文書・書籍も多く有しており、アーカイブでも見ることが出来ます。私は当アーカイブにおいて主に史料の撮影、記事の投稿を担当しました。  実際の資料を紹介します。  1925年11月に発行された上田市図書館報第三号では、最も興味深い点として新刊の発表に法学系冊子を真っ先に乗せている点で、大正デモクラシ2023-02-03
46実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座[第2回]実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座[第2回]【講座タイムテーブル】  ゲスト出演:朝倉久美さん(デジタルアーキビスト) 第2回 2月5日(日) 10:00~16:00 地域資料デジタルアーカイブの構築に向けて 10:00 はじめに 10:30 地域社会におけるデジタルアーカイブの課題 11:00 地域アーカイブサイト参照 (12:00 休憩) 13:00 地域デジタルコモンズ「信州上田デジタルマップ」 14:00 ミニ実習 (14:20 休憩) 14:30 デジタルアーカイブ構築の企画立案・実践・Q&A 16:00 終了 【オンデマンド講座】 (1)午前の部:地域アーカイブの課題 83分   83分 (2)午後の部1:地域デジタルコモンズ 98分   98分 (3)午後の部2:DA企画披露会に向けて 43分   43分 ★オンデマンド講座 ・資料の分類とメタデータ 30分 ・著作権と資料の権利処理 30分
2023-02-03
47実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座[第1回]実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座[第1回]【講座タイムテーブル】  ゲスト講師:小平千文さん(上田小県近現代史研究会会長)、桂木恵さん(同事務局長) 10:00 講座のねらいと概要 10:15 藤本蚕業歴史館・概要 10:30 藤本蚕業歴史館・バックヤード資料見聞 11:00 藤本蚕業の資料整理をふり返る (12:00 休憩) 13:00 資料整理の課題と方法、資料目録の作成~藤本蚕業所蔵資料を例に~ (14:20 休憩) 14:30 受講者の皆さんのデジタルアーカイブ構築課題を聴きあう 16:00 終了 【オンデマンド講座(当日の講座記録)】 ▼①午前の部:講座のねらい/未整理史料見聞  講師:前川道博+桂木恵+小平千文 94分 ▼②午後の部1:資料整理の課題と方法~藤本蚕業所蔵資料を例に~  講師:前川道博 65分 ▼③午後の部2:皆さんのアーカイブ課題を聴い2023-02-03
48あんかけ焼きそばあんかけ焼きそば中華料理の定番メニューとして知られているが、上田市に訪れたときは一度は食べておきたいご当地グルメ。 蒸した中華麺を油で焼きつけるようにして炒めるか、油で揚げたものの上に、肉や魚介、野菜などを炒めて、調味料やスープ、片栗粉を加えて作った餡をかけたものである。上田市であんかけ焼きそばが有名な店として「日昌亭」「福昇亭」などが挙げられる。 引用元https://d-commons.net/uedagaku?c=&p=10786 https://mecicolle.gnavi.co.jp/report/detail/5785/2023-02-01
49おやきおやき「おやき」は、小麦粉と蕎麦粉を水または湯で溶いて練り、薄くのばした皮にあんや野菜など旬のものを包み焼いたもので、信州を代表する郷土料理。 地域によっては「やきもち」とも呼ばれる。平成21年10月に、おやき事業者20社により「信州おやき協議会」が設立され、信州おやきの文化を守り発展させていくこと、全国的認知度を向上させていくこと、顧客満足のための品質向上を図ることを目的とし、おやきに関する各種イベントや勉強会、おやきつくり教室などをおこなっている。 引用元https://d-commons.net/uedagaku?c=&p=54244 https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/oyaki_nagano.html#:~:text=%E3%80%8C%E3%81%8A%E3%82%84%E3%81%8D%E3%80%8D%E3%81%AF%E3%80%81%E5%B0%8F%E9%BA%A6%E7%B2%89%E3%81%A8,%E3%81%8C%E7%99%BA%E8%A6%8B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%822023-02-01
50野沢菜野沢菜地元の親戚から野沢菜をお土産に買ってきて欲しいと言われるくらい、長野では有名な郷土料理。野沢菜漬けの原料「野沢菜」は、アブラナ科の植物で、菜の花の仲間。野沢菜は漬物が有名だが、栽培の際に間引かれたものは地元ではお浸しなどにして食べられている。また、上田市で有名な「おやき」の具材としてもよく使われている。 引用元https://d-commons.net/uedagaku?c=28&p=4078 https://mail.google.com/mail/u/1/?tab=wm&ogbl#inbox2023-02-01
51桔梗ヶ原〔信州の浮世絵〕桔梗ヶ原〔信州の浮世絵〕江戸時代の浮世絵師、二代歌川広重による錦絵の揃物「諸国名所百景」の一つ。 初代広重の門人で、師の亡き後その画風を継承した二代広重が、安政6年(1859)から文久元年(1861)にかけて制作した。版元は、初代広重晩年の作「名所江戸百景」を出版した魚屋栄吉。「桔梗の原」は天文年間(1532~55)に武田信玄と小笠原長時が相対した合戦場で、左にある「勘助子そだての松」は、合戦の最中に山本勘助が乳児を救い、その根元に置いて戦の後に戻ったところ、松の葉から落ちる雫を母親の乳房から出る乳のように口に含んでいたという伝説がある。その後、中山道の一里塚が築かれた。江戸日本橋の基点から59番目、江戸へ55里、京へ85里の道標で、塩尻市宗賀平出には、道を挟んだもう一方の塚が松の木とともに残されており、現存する数少ない一対2023-02-01
52信州そば信州そば長野県と言えば「信州そば」と言われるほど有名な郷土料理。時期を問わず食べられているが、そばは年二回の収穫時期があり、収穫仕立ての新そばが美味しいと言われている。信州の新そばは一般的に10月中旬から11月上旬に出回る。 引用元https://d-commons.net/uedagaku?c=&p=115812023-02-01
53別所温泉駅周辺の聖地別所温泉駅周辺の聖地最後に別所温泉駅周辺のロケ地! 「別所温泉駅」で撮影が行われたり、舞台となった作品は以下の通りです。 ・「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」(1976) ・「ROUND1」(2003) ・「君のままで」(2003) ・「いくつもの、ひとりの朝」(2006) ・「呪われたパワースポット」(2011) ・「シグナル~月曜日のルカ~」(2012) ・「時代屋の女房」(2006) ・「鉄道むすめ~Girls Be ambitious!~ 上田電鉄・別所温泉駅駅長 八木沢まい」(2008) ・「赤い糸の女」(2012) などがあります。 写真は「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」での実際のワンシーンです。上田電鉄 別所線 別所温泉駅とその周辺が映っています。現在は手前の木造の建物は確認できませんでしたが、駅舎はそっくりそのまま残っています。寅さんも上田を訪れていたんですね~。 https://2023-02-01
54別所線で巡る上田市ロケ地MAP別所線で巡る上田市ロケ地MAP映画やテレビドラマなどの映像作品のロケ地となった上田市のスポットを探求する。特に、上田電鉄別所線の駅から徒歩圏内の場所を紹介し、観光客や車を持たない地元の人も訪れることが出来る場所を紹介する。2023-02-01
551997年の上田駅 新幹線開通に向けて1997年の上田駅 新幹線開通に向けて今回は1997年6月、新幹線開通に向けて改装工事中の上田駅を見ていく 画像は前回と同じく「さいきの駅舎訪問様(http://ekisya.net/A-GENEKI/160-SINETU/161-UEDA.html)」より引用する 1997年、長野駅高崎駅間が開通された それに際し、上田駅は駅舎を改築、現在の上田駅駅舎の形へと変化を遂げた。2023-02-01
561909年の上田の気候1909年の上田の気候長野地方測候所の記録によると、1909年の上田(小県郡上田町)の最高気温は7月18日の35.2度、最低気温は1月2日のマイナス13.7度だったことが分かる。これは1910年の記録とほとんど変わらない。 ただ最大積雪量を記録したのは3月23日の六寸(約18センチ)であり、翌年の1910年の記録よりかなり少なかった。2023-02-01
571950年の上田駅1950年の上田駅こちらは1950年の上田駅の様子だ (さいきの駅舎訪問より引用  http://ekisya.net/A-GENEKI/160-SINETU/161-UEDA.html) 1950年11月に上田駅は改築されたようで土産物屋のある観光指向の強い駅舎であるということが窺える。2023-02-01
58恩田緑蔭(おくだりょくいん)恩田緑蔭(おくだりょくいん)文政2年松代生まれ。本名はゆり。桜雲亭緑蔭、桂月由里などとも称した。松代藩絵師の山田島寅や青木雪卿に師事、葛飾北斎や与謝蕪村にも私淑して作品を模写している。花鳥図や松代の風景、藩にゆかりのある人々の肖像を描いた。平成17年、長野市の水野美術館で「恩田緑蔭展~知られざる信州の元祖女流画家~」が開催された。明治7年、55歳で死去した。 ※図は「写生集壱」 https://yuagariart.com/uag/nagano09/2023-02-01
59上田紬の現在上田紬の現在これまで上田紬の歴史を振り返ってきたのですが、最後に現在の在り方についてまとめたいと思います。 現在着物市場は、ピーク時の6分の1となっており、織元も10分の1以下まで縮小しました。 そんな今でも小岩井紬工房さんを筆頭に、上田紬の伝統は受け継がれています。着物としての在り方以外にも、ポーチや財布、イヤリングなど現代の様式に合わせて様々な在り方に変わってきています。オンラインショップも導入しており、全国各地に速攻で届くようになっています。また、地域の学生と共同で上田紬のイベント開催も行っているようです。 今回の活動を振り返ると、上田紬を歴史的に見ると、時代の背景に準ずるように繁栄したり衰退している様子がとても興味深かったです。。しかし、現在は時代の流れに関係なくとも衰退の一途を辿っ2023-02-01
601970年の上田駅1970年の上田駅上田駅の開業は別所線開業の更に昔 1888年である。 添付画像は1970年頃の上田駅の様子だ。 (地方私鉄1960年代の回想より引用  https://umemado.blogspot.com/2019/06/blog-post_28.html ) 現在の上田駅とは駅舎の雰囲気含め、大きく違う事が窺えるだろう。 次の記事では更に過去に遡り、1950年代の上田駅を見ていこうと思う。2023-02-01
61sakumo 佐久市子ども未来館sakumo 佐久市子ども未来館岩村田駅から徒歩10分ほど行くとある佐久市子ども未来館は、ただコミュニケーションを取ったり、遊ぶだけではなく1つの遊具でもワンパターンの遊び方ではなく、多種多様な遊び方があり、それを説明ではなく実践から学ぶ事ができ、先人達の知恵や知識を自然と吸収する事が出来る施設ではないかと思います。 参考文献 http://kodomomiraikan.jp/2023-02-01
62別所線開通別所線開通私達が普段使う別所線 かつて上田盆地には全長57.2kmもの鉄道が張り巡らされており、別所線以外にも営業が行われていた。 現在上田盆地を走る鉄道は、1921年に開通した別所線11.6kmを残すのみである。 別所温泉駅は1921年に温泉客の交通手段として開通 当初は川西線としての開通であった。 その後1924年に川西線から別所線に改名されている。2023-02-01
63サントミューゼサントミューゼ上田市には上田市交流文化センター「サントミューゼ」がある。サントミューゼという名前は「蚕都(さんと)」に由来する。立派な大ホールでは、しばしばミュージカル、演劇など様々な芸術を鑑賞することができるので、興味を持った方がいたらぜひ足を運んでほしい。 参考サイト:みんなでつくる信州上田デジタルマップ ▼この資料は以下から参照できます yin「市民の交流の場 サントミューゼ」 https://d-commons.net/uedagaku?c=&p=11229 (2023/01/27) 以上のことから、上田と養蚕は切っても切れない関係であることがわかった。上田市の発展は、養蚕の発展によるものと言っても過言ではない。また、養蚕と演劇にも関係があることがわかった。演劇は、リアルに、生で感情や想いを伝えられる・受けとれる手段であり、養蚕の歴史を残すための手2023-01-27
64そばは手打ち…うどんは?そばは手打ち…うどんは?上田市の観光課があげている、別所温泉の写真だ。実際に行って見ないと、今もこうなっているのかは、分からない。しかし、写真を見る限り、古い記事ではないのであろう。 https://museum.umic.jp/johogura/bessho/2691013/2691013.html2023-02-01
65上田は暖地?上田は暖地?1896年に東京で発行された「信濃地理 生徒用」には上田は飯田に次ぐ暖地で追分(現在の軽井沢辺り)は信濃で一番の寒冷地であるという記述がある。 県内でも上田が暖地とは到底思えないのだが、なぜこのような書き方をされたのだろうか。2023-02-01
66まとめまとめ今回の「上田市と太郎山」のキュレーションで分かったことは、太郎山は上田市民と文化的に密接に関わっていたということだ。 今も昔も変わらず上田の地を上から見下ろす太郎山は、上田に住む人々にとって信仰の対象であったり、故郷の思い出として残るものであったりと、様々な形で上田市民の中にあることだろう。 私も去年一度登ったことがあるがとても登りやすく初心者にもおすすめで、山頂からは上田市が一望できる最高の山なので、是非一度登ってみてはいかがだろうか。 https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_008_08432023-02-01
67うどん屋があげられている!うどん屋があげられている!上田市制70周年記念タイムスリップ手作り城下町という記事があった。 400年前の城下町を再現しようというものだった。写真は、多くの人が訪れている様子がある。 お茶屋、うどん屋、野菜売り。そば屋がいない! http://db.umic.ueda.nagano.jp/data/johogura/datadisp.php?arg_sano=20490582023-02-01
68上田映劇の歴史上田映劇の歴史1917年に建てられたのが上田映劇の前身「上田劇場」です。当時一階には桟敷(さじき)と花道があり、回り舞台仕様歌舞伎座と同じような作りをしていました。長い歴史の中でDVDプレーヤーの普及などから客足が遠のき一度定期上演を終了するも、 2014年5月 上田映劇をメイン舞台とした「晴天の霹靂」が上映される。そして 2016年12月「映画の街上田」のシンボルとして再起動させていくために「上田映劇再起動プロジェクト」が開始され、 2017年4月 「上田映劇再起動準備会」として定期上演を再開した今もなお地元のひとの愛のおかげでシンボルとして立っているのだと感じた。2023-02-01
69太郎山とハリー・K・シゲタ太郎山とハリー・K・シゲタ写真は国際的商業写真家として活躍した写真家、上田出身のハリー・K・シゲタが撮影した、千曲川と太郎山の写真「上田橋より太郎山を望む」である。 昔から現在まで変わらず太郎山は上田市民と密接に関係しているものだと分かる。 https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_008_06442023-02-01
70こね鉢こね鉢上田博物館の資料である。 そば、うどん、団子などを作るときに、粉に水分を加えて、粘りけを出すためにこねるが、このときに用いる鉢。これは木をえぐった鉢だそうだ。 この時点では、まだ、そば一筋ではなく、うどんが生きている。 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/collection/item/0111.html2023-02-01
71上田紬の歴史<復活>上田紬の歴史<復活>主に世界大恐慌により衰退した上田紬ですが、1945年頃の社会全体として終戦後の文化復興の動きに準じて、復活する動きが始まりました。 また、その動きに加え、高度成長期を機に、着物ブームが到来し、上田紬を作る織元が50軒ほどに増加しました。当時はまだ、地方では着物を着る文化が残っていたため、需要が多くありました。 その後は、1980年代のバブル景気時がピークとなり、バブル崩壊や洋服形態の変化などにより、需要が減っていきました。2023-02-01
72太郎山と上田のイベント太郎山と上田のイベント上田市民はイベントとしてこの太郎山を登るという事もある。 上田市政70周年記念として行われたのは、れん台に乗った女性を担いで、太郎山一番のりを目指す「めざせ十勇士’89戦国ラリー」である。 30チームが参加し、黄金沢の不動滝から太郎山の大鳥居まで裏参道を登って順位を競った。 https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_008_07512023-02-01
73上田紬の歴史<衰退>上田紬の歴史<衰退>前回の投稿で繁栄した上田紬はその後衰退していきました。今回はその背景をまとめます。 盛んだった上田紬は、明治維新後に絹糸の輸出が盛んに行われるようになり、生産量が減り始めました。 その後は1930年代に世界大恐慌があり、糸代の大暴落によって蚕種業が壊滅的な状況になり、戦争が始まってからは衰退の一途を辿りました。2023-02-01
74上田紬の歴史<繁栄>上田紬の歴史<繁栄>今回は上田紬がいつどうやって繁栄していったのかをまとめました。 上田紬は400年ほど前に戦国武将の1人して名高い真田昌幸が上田城が築いた時に、地場産業として奨励された真田家が麻つくった「真田織」が元になっています。 その後、上田地域の気候や風土が向いていたということもあり、蚕種業や養蚕業が盛んに行われ、現在の上田紬が形成され、江戸中期には京都や江戸の多くの人々に愛用され、日本三大紬の1つとなりました。2023-02-01
75鹿教湯温泉の歴史と五台橋鹿教湯温泉の歴史と五台橋鹿教湯温泉は20件ほどの宿泊施設が立ち並ぶ山間の温泉地です。上田市と松本市の間にあり、環境庁選定国民保養地として認定されています。そのため、健康の郷としても有名です。そのため、散策をしながら自然の癒しを感じることもできます。 鹿教湯温泉の歴史の始まりは地名がついた由来にも関連しています。漁師から矢傷を受けた鹿が温泉の場所を教えてくれたことから温泉地としての歴史をスタートし、1200年の長い歴史を誇ります。 湯量は非常に多く、20件ほどの温泉施設では24時間かけ流しの施設も。源泉の温度は46℃ほど。また、色は無色・透明。泉質は弱アルカリ性低張性高温泉となっており、高血圧、脳卒中の後遺症、疲労回復に対して効能があります。 また、写真は鹿教湯温泉の付近にある文殊堂へとつながる橋である五台橋の画像2023-02-01
76終わりに終わりに西塩田時報を読み進めていく中で、自分のテーマと関係のない面白い記事がいくつかあり、探求に時間がかかってしまった。 戦前の記事からは、まず「食」に関する記事を探すことが難しく、記事があっても、材料の栽培方法や保存方法について書かれていることが多いという印象を受けた。 戦後の記事からは、たくさんの「食」に関する記事を見つけることができ「家庭メモ」や「季節の料理」のような記事が多い印象を受けた。その中には現代でも食べられているメニューやレシピがあったが、食材の違いや、栄養素の偏りといった面で、現在とは大きく異なっていた。 戦前と戦後の記事から、戦前は材料の栽培保存、戦後はレシピや栄養素について書かれていることが多いと感じた。 このことから戦後は戦前に比べ、他国の食文化が普及したり、2023-02-01
77青木雪卿(あおきせっけい)青木雪卿(あおきせっけい)現在の長野市松代町岩野に生まれる。通称八重八、号を雪卿とした。川中島の更級雄斎 に絵を学んだとされる。松代城の障壁画を描き、多くの肖像画を描いたと伝えられる。 弘化 4 年(1847)に起こった善光寺地震後の被災地を、8代藩主真田幸貫の巡行どお りに描いた『感応公丁未震災後封内巡視図』は、被災地を写実的に描いた彼の代表作であり、災害史の重要な記録である。パノラマ写真のような眺望図や、実景を尊重する極めて 写実的な表現は、写真の影響を想像させるような、新しい表現が見られる。 https://nagano-citypromotion.com/learning/person.html https://www.sonpo.or.jp/report/publish/bousai/yobou_jihou/pdf/ybja_ez/ybja-ez-174.pdf ※図は『感応公丁未震災後封内巡視図』の一部である。2023-02-01
78飯島保作(花月)(いいじまほさく(かげつ))飯島保作(花月)(いいじまほさく(かげつ))飯島保作は、文久3年(1863)に飯島家の長男として横町に生まれました。明治6年(1873)上田街学校に入学し、明治10年(1877)に上等小学校全科を卒業しました。上田街学校の教員補助の職は、天皇の御巡幸が終わった後退職し、家業(質屋)に従事しました。  自らが作成した年賦には「家業のかたわら独学」とあります。向学心旺盛な青年で、この向学心が実業家飯島保作を生み、このころから雑誌に狂歌、川柳等々の投稿を始め、後の上田地方の庶民文学のリーダーとしての文学上の資質を開花させたのです。  保作は、上田商工会議所会頭、第十九銀行の頭取を歴任して生涯を閉じた上田を代表する傑出けっしゅつした実業家でした。明治15年(1882)10月、上田郵便局に採用され、最初の職業の第一歩を踏み出し、2023-02-01
79西塩田時報から学ぶライフハック②西塩田時報から学ぶライフハック② 西塩田公報には『家庭メモ』というコラムがあり、生活に役立つコツやレシピなどを紹介している。  ここでは私が気になった記事を紹介していく。 ~この記事で知ることができるライフハック一覧~ ・壁についたインクや墨汚れを落とすには白布に食酢を二倍に薄めたものをぬらして拭く ・手についた魚臭さはミカンの皮を茹で、その煙を手に当てると匂いは消える ・鼻が詰まるとき、洗ったドクダミの葉を塩でもみ、細かく刻んだものを鼻の中に入れる。30分から1時間ほど待機×3回ほど行うと鼻詰まりが解消される。  薬が簡単に手に入らない時代だと思うので、こういった身近な植物を使った治療法が良く記載されています。  現代でもこの知識は活用され、薬という風に形を変えて存在しているものも数多くあります。昔の人の知識2023-02-01
80西塩田公報から学ぶライフハック①西塩田公報から学ぶライフハック① 西塩田公報には『家庭メモ』というコラムがあり、生活に役立つコツやレシピなどを紹介している。  ここでは私が気になった記事を紹介していく。 ~この記事で知ることができるライフハック一覧~ ・サビた包丁には大根の切り口に歯磨き粉をつけて磨く ・おでき(ニキビ?)には患部に直接ゴボウの葉を当てて縛っておくと膿が抜ける ・新品の歯ブラシを使う前に熱い塩水に水が冷めるまでつけておき、しっかりと乾かしてから使うと二倍長持ち ・味付けをする際、塩は砂糖よりも材料にしみこむ速度が速いため、砂糖は先に使うこと  現代では用途によってさまざまな洗剤や掃除用具が存在 していますが、この記事掲載時(昭和28年4月5日)にはまだそういったものはなく、知恵を用いて生活をしていたことがうかがえます。  また、2023-02-01
81笹沢檪亭 (ささざわれきてい)笹沢檪亭 (ささざわれきてい)檪亭は、安政2年(1855)、小県郡坂井村(現上田市塩川)に生まれ、本名を清十といい、幼い頃より画才に富み、花鳥画を描いては村人を感嘆させたといいます。早くに父を亡くし苦労して育ちますが、母の理解もあって、明治6年(1873)、18歳の折に島田桃渓とうけいに師事して絵の指導を受けたのを手始めに、明治18年(1885)、29歳の時には、水戸の木下華圃かほに師事。この頃から専業画家としての道を歩むことを真剣に考え始めたものと思われます。  明治19年(1866)、31歳の折には終生の師となる児玉果亭に入門を許され、果亭より檪亭の雅号を受けました。この檪亭が入門した明治19年は、第2回内国絵画共進会に出品した果亭の即品が天覧に供され、出品2点のうち1点が宮内省買上げ、1点が銀杯(こ2023-02-01
82林倭衛 (はやししずえ)林倭衛 (はやししずえ)父は、倭衛が小学校在学中に製糸工場経営に失敗し、明治40年の春、倭衛と弟を実家の小林家にに預けたまま夜逃げ同様に東京へと出てしまいました。実家は上田駅に近い北天神町通りで蚕種用の和紙などを商っていましたが、倭衛は友人たちから離れ孤独にさいなまれましたが、同じ頃に同じ北天神町に移り住んだ馬場衛まさるが、生涯の友となりました。約1年の後にようやく父母の下に引き取られはしたものの、何かにつけて旧士族出身にこだわって失敗を繰り返す父に対して、倭衛は激しく不信を覚え続け、やがて少年の孤独感は次第に不屈な自立心へと成長していくのでした。  明治43年には印刷会社の給仕となり月給を得るようになると、近くの水彩画研究所の夜間部に入り、明るく旺盛な好奇心のままに、生涯にわたる美術関係の友人を2023-02-01
83西川小扇八 (にしかわこせんぱち)西川小扇八 (にしかわこせんぱち)上田地方だけでなく、広く東信地方から県内にかけて日本舞踊の普及に尽力した小扇八は、明治38年東京浅草瓦かわら町に生まれました。小扇八(本名金子光みつ)の育った浅草界隈は、古くから歌舞音曲かぶおんぎょくの盛んな土地柄でした。生まれつき体の弱かった光を心配した両親は、健康のために芸事を身につけさようと、長唄や日本舞踊、華道、茶道など日本古来の伝統芸能を一通り習得させました。  とりわけ光は日本舞踊に強く興味を示し、自ら進んで西川流に入門し、稽古に励みました。縁あって18歳で結婚しますが、婚家になじまず実家に戻ります。浅草に戻った光は生涯進むべき道を日本舞踊と決め、西川扇五郎に師事します。再び踊りの世界に没頭し、厳しい稽古に耐え、艱難かんなんを克服して次第に頭角とうかくを現あらわ2023-02-01
84中村直人 (なかむらなおんど)中村直人 (なかむらなおんど)大正期中ごろ山本鼎が提唱した「農民美術」と「児童自由画教育」の二つの運動の、発祥の地、神川で少年期を過ごした直人は、リアルタイムに農民美術、児童自由画教育の誕生を直視し、その渦中で小学校時代を過ごしました。  15歳の時、山本鼎の世話で上京し、木彫家吉田白嶺の木心社に入門。兄弟子松村外次郎より木彫の手ほどきを受け、小杉法庵にデッサンを習い、自己の彫刻表現の模索が始まりました。大正14年、直人21歳で院展初入選、以後連続入選し大正15年に日本美術院賞を受賞。昭和10年には院展同人(会員)に推挙され日本の彫刻界の新風として頭角を現し始めました。  終戦後は、新日本美術会創設に参加し、各種展覧会に出品しました。その後、以前から親交を深めていた画家で彫刻家の藤田嗣治がフランスに渡り、2023-02-01
85久米正雄(くめまさお)久米正雄(くめまさお)久米は、明治24年上田片平町(大手町)で生まれました。父由太郎は明治28年小県郡立高等小学校兼上田尋常小学校校長として勤務していましたが、明治31年、父が校長を務めていた上田尋常高等小学校上田分教場が焼失。その責めを負って父が自刃してしまったため、一家は母の実家福島県安積あさか郡桑野村へ転居し、ここで久米は中学時代を過ごしました。  この時代に、安積中学校の教頭と国語教師に指導を受け、俳人としての才能を見込まれ、将来を嘱望されるまでになりました。中学校在学中に「笹鳴吟社」を結成、また、学校教員の集まりである「群峰社」にも参加。桑野村を訪れた正岡子規や河東碧梧桐かわひがしへきごとうの影響を受け、新俳句会への道を進み、一高時代には碧門下の日本派俳人として知られるようになりました2023-02-01
86上田城下町絵図上田城下町絵図2023-02-01
87上田城跡公園上田城跡公園真田信繁(のぶしげ)こと、幸村は、上田で青年期を過ごしたといわれています。上田城の築城がはじまってしばらくの後、上杉家に人質に出され、そこで、兼続と出会ったのです。2023-02-01
88錦絵真田幸村巡見図錦絵真田幸村巡見図大坂の陣で大久保彦左衛門とともに身を隠す徳川家康(左下)と、それを捜す幸村を描いている。明治期の錦絵。作者は月岡芳年。芳年は明治に入って近代的な感覚を盛り込んだ歴史画に本領を発揮した人で、特に欧米で評価が高い。2023-02-01
89錦絵真田幸村勇戦之図錦絵真田幸村勇戦之図慶長20年(1615)5月の大坂夏の陣における真田幸村の有名な奮戦ぶりを描いている。中央馬上が幸村、右にやはり馬上のその長男大助。幕末期の錦絵。 作者は歌川芳虎。芳虎は号を孟斎または一孟斎という。天保年間(1830年代)より明治にかけて活躍した浮世絵師で、武者絵を得意とした。2023-02-01
90真田幸村真田幸村幸村(信繁)は上田城を築いた真田昌幸の次男(信之〔のぶゆき〕の弟)として生まれ、2度にわたる徳川軍による上田城攻撃を父とともに退けている。 そして、大坂の役にあたっては、豊臣秀頼の大坂城に招かれ、徳川勢を相手に華々しい活躍ののちに討死〔うちじ〕にし、名を後世に残した。2023-02-01
91上田のスポーツ上田のスポーツ塩田地域では青年たちによるスポーツの大会が開かれており、競技は野球とバレーでした。記事の内容には競技のなかでのスポーツマンシップについてやどんなプレーがでたのかが書かれていました。 それとは別にも村の体育祭も開催されていました。多様な種目にわたるものになっており、おもしろい名前の競技もありました。「まずいっぷく」や「2百才リレー」などがとても興味をもちました。 また、現在でも上田オール西部というソフトボールチームが存在しています。大会に優勝し北海道での全国大会に行くことも書かれています。同様にバレーもママさんバレーとしてチームがあり、こちらも優勝を経て全国大会に行っています。これらも過去の歴史として地域で盛んだったスポーツの熱が残っていることが一つの地域の伝統なのではないでし2023-02-01
92小学校だより 運動部小学校だより 運動部学校だよりの内容はいまの小学生がもらってくるものと同じで保護者向けのものでした。しかし今よりも謙っておりとても丁寧に固い表現な印象をうけました。 運動部の欄では野球部の部分のみを投稿しているがそれぞれの部活動のメンバーがフルネームで掲載されていました。プライバシー面で今は論争が巻き起こりそうですね。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1260 『西塩田公報』第83号(1954年8月5日)4頁 リンクする場合は以下のようにHTMLで記述する “”は付けないこと https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p1261.jpg2023-01-31
93川西野球排球大会川西野球排球大会塩田の地区でスポーツの大会が開かれていたことを初めて知りました。こども達のリトルやクラブチームの試合は現在でもありますが、地域で試合が開かれていたことに驚きです。中塩田や室賀などのいまでも知っている地名が野球やバレーができるほどに人数が集まっていたことが一番の驚きです。いまもやってほしいですね。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1260 『西塩田公報』第83号(1954年8月5日)4頁 リンクする場合は以下のようにHTMLで記述する “”は付けないこと https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p1261.jpg2023-01-31
94まとめまとめ上田市、特に私の住んでいる神川地区の芸術家について探求してみました。 きっかけとして私は山本鼎が初めて自由画教育行った神川小学校にも通っていて小さい頃が馴染みがありました。また「山本鼎先生の部屋」という教室があり、当時の生徒が描いた作品が保管されていました。私が小学校の時も山本鼎について学んだり、農民美術も飾ってあったりと、とても身近な存在に感じていました。 そこで山本鼎のような芸術家はどのような影響を与えたかを探求してみたいと思いました。 多くの芸術家は農民などにあまり縁のなかった芸術に触れてもらおうと活発な運動をしていて、上田に対する愛を感じました。また芸術の他にも教育や行政にも関わることも行っていて上田市民のために動いた芸術家が多くいることが分かりました。今まで上田で暮2023-01-31
95中村直人中村直人大正期中ごろ山本鼎が提唱した「農民美術」と「児童自由画教育」の二つの運動の、発祥の地、神川で少年期を過ごした直人は、リアルタイムに農民美術、児童自由画教育の誕生を直視し、その中で小学校時代を過ごしました。 15歳の時、山本鼎の世話で上京し、木彫家吉田白嶺の木心社に入門。昭和10年には院展同人(会員)に推挙され日本の彫刻界の新風として頭角を現し始めました。 その後日本で活躍し、47歳でパリに渡りました。昭和28年のパリ展で大成功し、その後何度か個展を開き話題となり、滞欧12年の間に彫刻家から国際的な画家に見事な変身を遂げました。 昭和39年日本へ帰国。同年滞欧作展でパリ生活12年の成果を証明しました。その後二科会に招かれ、昭和55年には内閣総理大臣賞を受賞しました。帰国後は、様々な分2023-01-31
96兎束武雄兎束武雄上田町大手の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれた武雄は、幼い頃から音楽に特別な興味を示す子どもでした。母親の影響で琴を習っていたそうです。音楽に興味を示していた幼少期ですが、父親からは反対されていたそうです。 上田中学校(現上田高校)を卒業し、東洋音楽学校に入り勉強に励みましたが、東洋音楽大学だけの勉強では満足できず、他の大学でも聴講し、作曲やピアノ、チェロなどを勉強しました。大学を卒業した武雄は、高等学校の教師になることを決意して上田に帰ってきました。武雄は、音楽の楽しさや喜びを多くの人々と分かち合いたいと考え、地域の音楽活動に力を注ぎました。昭和8年、28歳のとき、梅花幼稚園の同窓生に声をかけ、「からたち合唱団」を創りました。当時、県下で混声合唱団と呼ばれるものはなく、上田2023-01-31
97はじめにはじめに西塩田時報の斜め読みで見つけた「うつかり喰へない菓子」という記事に面白みを感じ、当時の食生活をテーマにキュレーションを行うことにした。 時代の変化に伴う食生活の違いに興味を持ったため「戦前と戦後の食生活の違い」をテーマに記事をまとめた。 各記事の説明欄には、当該資料の私なりの要約が書かれている。 「終わりに」には資料を読んだ私なりの考察が書かれている。2023-01-31
98太郎山とは太郎山とは太郎山は上田市の北部に位置し、標高は1164mである。 山頂までは2時間ほどで登ることができ、老若男女問わず気軽に登ることができる山として上田市民や登山好きに親しまれている。 https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_008_08432023-01-30
99記事3記事3 この記事は戦事の状況の報告である、「帝国」や「正義」などの語彙で、今の所で見ればは妙な体験だ。 参考資料:西塩田時報(1937~)第161号~第180号 昭和十二年八月号2023-01-30
100記事2記事2 これらの記事から、満州事変後に、満洲国の移民の宣伝である、東京以外の地方ではそういう宣伝があれば全方位で、特にあの時代で影響力が高いの新聞で宣伝が多ければ、全面戦争の始まりのサインではないかと思う。 参考資料:西塩田時報(1937~)第161号~第180号 昭和十二年四月号 昭和十二年七月号 2023-01-30
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