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1日本国憲法 第二章日本国憲法 第二章今も変わらず残っている大日本国憲法の第九条の制定についての記事を見つけた。 この憲法が今も残っているおかげで他の国との武力的な大きな衝突なく平和に過ごせているのだと思うと感慨深い。 面白記事とは少しずれてしまっているかもしれないが一番興味深いと感じたのでこの記事をピックアップした。 ▼この記事は以下から参照できます https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0967.jpg2022-12-25
2野菜のゆでかた野菜のゆでかた野菜をゆでる際のコツが書かれた記事を見つけました。料理が下手な自分にとっては、結構参考になりました。あと、右上にミッキーマウス(?)が描かれているのが気になりました。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1168 『西塩田公報』 第57号(1952年4月1日)4頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns16_post041to060.pdf2022-12-25
3K君の日記K君の日記弟妹のけんかしている描写から始まるK君の日記。何気ない日常の中に現在の弟妹の姿から昔の自信を連想し懐かしんだりしているところに面白みを感じた。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1183『西塩田公報』第62号(1952年11月5日)3頁 2022-12-25
4みんな輪になれみんな輪になれこの曲が発売されたのは昭和16年8月とされている。当時の踊りと言えば盆踊りが主流とされていたが軍歌に振り付けを付けて子供たちに教えていた人たちがいたそうだ。まさに軍国世界の音頭である。 ▼この記事は以下から参照できます。 『西塩田村公報』第7号(1943年3月30日)6頁 2022-12-25
5お嬢様試験の問題集ーアナタは如何?ー(『西塩田時報』第31号(1949年10月20日)4頁)お嬢様試験の問題集ーアナタは如何?ー(『西塩田時報』第31号(1949年10月20日)4頁)10個の質問で自分がどのくらいのお嬢様かどうかを知ることが出来る記事。古い記事や堅い内容の記事が西塩田時報の中で非常にカジュアルな内容で目に留まった。お嬢様とはこうあるべきという心持を学ぶことが出来る。現代にも通じる内容などもあり、興味深いものだった。2022-12-25
6君たちは幸福だ君たちは幸福だ人の妻と心中したA氏と彼の後を追った若者達について書かれている。A氏を崇拝した若者達への皮肉がこもっている。 ▼この記事は以下から参照できます。 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0008.jpg2022-12-25
7学力試験問題学力試験問題試験問題 当時の時勢が試験問題に現れている。 ▼この記事は以下から参照できます。 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0001.jpg2022-12-25
8暦の話『西塩田時報』第92号(1931年7月1日)1頁)暦の話『西塩田時報』第92号(1931年7月1日)1頁)学者たちは、現在の暦はよく出来ているが不都合な点も多いため、もっと合理的で便利な暦を作ろうと長年研究していた。その結果、一年が13ヶ月からなる暦が作られ、それが国際会議に提案され採択されそうになっている。この機会に、暦の編み方、暦の歴史などについて書いてみるという内容の記事です。 まず1年が13ヶ月の暦が開発され採択されそうになっていた事実に驚きました。また、筆者は6ヶ月に渡り太陽や月、その他惑星について詳しく解説しており、この記事を読むだけで科学について学べそうだと感じました。 ▼この記事は以下から参照できます。 #397『西塩田時報』第92号(1931年7月1日)1頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0397.jpg2022-12-25
9壮丁学力検査問題(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)1頁)壮丁学力検査問題(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)1頁)明治時代、徴兵制度に基づいて満20歳の青年全員に行われた「壮丁検査学力試験」の問題が載っていました。壮丁検査とは、徴兵検査受検義務者を壮丁と称し、教育や学力の程度を測るための調査です。 「人の本分は何か」という問いや、「我等の進むべき道」という題の作文がありました。また、書取では「議会協賛」や「心身鍛錬」などが出題されていました。問題から、戦争が身近にあり、求められているのは化学的な知識や学力ではなく、愛国心や天皇や国策に関する理解だったことが読み取れました。 この記事は以下から参照できます。 #1『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)1頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0001.jpg2022-12-25
10部落ニュース部落ニュースこの記事は西塩田時報の中で2番目に興味深いと思った記事である。これをなぜ選んだか、それは今ではあまり良い印象で使われない用語とされている「部落」という言葉が日常で使われていたということをしっかりと確認出来る生地だからである。 時代の移り変わりをしっかりと認識させる、そんな1枚であるなと思い昔のことに思いをはせながら読める記事である。 ▼この記事は以下から参照できます。 #567 『西塩田時報』第128号(1934年7月1日)3頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0567.jpg2022-12-25
11イスカの嘴イスカの嘴私が西塩田時報の中で一番面白いと思ったものは「イスカの嘴」というタイトルの上田劇場で披露する予定の物語 今では使われないような「お役人」という言い回しもさることながら、文末が「エへヽヽヽヽ」で終わっているところにとても惹かれた。 村長にお願いする文言が書かれていたりしており、文末の「エへヽヽヽヽ」があることにより、下の立場のものらしい小物感がとても醸し出されていて読んでて面白い文章であった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #5 『西塩田公報』第号(1923年9月1日)1頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0005.jpg 2022-12-25
12青年期の問題に就て(『西塩田時報』第65号(1929年4月1日)2頁)青年期の問題に就て(『西塩田時報』第65号(1929年4月1日)2頁)青年期の問題について記載されており、その内容の中でも結婚年齢が徐々に遅れているという内容が現代と通じていて面白いと思った。この頃から「青年」や「壮年」が何歳からと規定されていたことを知り、驚いた。昔は15~25歳を青年と呼んでいたが、時が経つにつれ年齢が変化しているということを知った。 ▼この記事は以下から参照できます。 #284『西塩田時報』第65号(1929年4月1日)2頁2022-12-24
13お嬢様試験の問題集ーアナタは如何?ー(『西塩田時報』第31号(1949年10月20日)4頁)お嬢様試験の問題集ーアナタは如何?ー(『西塩田時報』第31号(1949年10月20日)4頁)「お嬢様なら○○であるでしょうね」と書かれた10個の問題があり、自分はどのくらいお嬢様であるか知ることができる記事だ。 男の友達を持っている、化粧が上手、花嫁修業のお稽古に忙しい等がお嬢様の条件とあり、偏見のことばかりが書かれているように思えるが、自分に当てはめて考えてみると面白いと思うので、是非ご覧いただきたい。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1068『西塩田時報』第31号(1949年10月20日)4頁2022-12-23
14女性の心理(『西塩田時報』第3号(1946年10月20日)3頁)女性の心理(『西塩田時報』第3号(1946年10月20日)3頁)女性は感情性が強く、その感情が女性の心情を支配するものだと記されている。 同年4月に、女性に参政権が与えられた。「女性として、最も大切なことは慈愛心であり、柔順にして判断力が強く、徒に感情に走らず、事に嘗つては堪え忍ぶ底力の強いのが日本女性の美点とする處である。」という文章が、男女平等、女性を下に見ないために書かれた記事なのかと推測できる。 ▼この記事は以下から参照できます #961「西塩田時報」第3号(1946年10月20日)3頁2022-12-23
15シベリアの想いで(『西塩田時報[戦後]』第24号3頁)シベリアの想いで(『西塩田時報[戦後]』第24号3頁)ロシアの捕虜として満洲からシベリアに送られた人が書いた記事である。 シベリア送りになった捕虜は辛い目にあったんだろうなと悲惨な状況を想像して読んだが、想像していたものとは違い心温まる話だった。捕虜になった人々の悲惨な話はよくニュース等で聞くが、この記事のような温かい話は聞いたことも読んだこともなかったので新鮮だった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1043 『西塩田時報[戦後]』第24号(1949年3月25日)3頁2022-12-23
16米の節約!勝利の一歩(『西塩田時報』第198号1項)米の節約!勝利の一歩(『西塩田時報』第198号1項)日中戦争時、東京などの都市だけでなく、地方でも節米運動が行なわれていたことが分かる記事である。白米ではなく、麺類や七分づき米、雑穀米を代用として食べるように書かれている。戦時中、栄養不足にならないために栄養豊富である雑穀米などを食べていたのだと考えていたが、日本の物資不足も要因の一つであったことが分かった。 また、「勝利への第一歩」という言葉から、国民の戦争意欲を高めようとしていることがうかがえる。戦時中という時代背景を強く実感できる記事のタイトルだと感じた。 ▼この記事は以下から参照できます。 #879 『西塩田時報』第198号(1940年5月1日)1頁2022-12-23
17別所温泉  (四) 第142別所温泉  (四) 第142最初は何度読んでも理解できなくて、この中に脅迫文でも描かれているのかと思ったのですが、よく見たら右から読む形態の文で少し驚いた。 この記事だけではなく様々なところで右から読む文を見つけて時代を感じた。 また、部落ニュースや歌など現代にはあまり耳なじみのないテーマを扱っている割に、この記事は別所温泉という身近なものを見つけて、近いようで遠い存在だと感じた。 参照元↓ https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns11_181to204.pdf https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p1261.jpg2022-12-22
18おまるのめのひ (六)第181おまるのめのひ (六)第181不思議な日記を読んでいるようでした。昔の言葉なのに全部ひらがなで書いてあるのが面白いなと思いました。今の新聞でいうとあんずちゃん的な位置にある子供用の文章なのかと思いました。 私が子供だったらきっとこの文を読まずに外に遊びに行っているだろうなと思います。 参照元↓ https://mmdb.net/mlab/uedagaku/pdf/nishishioda/ns11_181to204.pdf https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p1261.jpg2022-12-22
19お願ひ(『西塩田時報』第4号(1924年1月1日)4頁)お願ひ(『西塩田時報』第4号(1924年1月1日)4頁)個人的な忘れ物についてのお願いが、公的な発行物に平然と載っている様が面白いと感じた。 現代にはおそらく見られないような記事だと思う。 ▼この記事は以下から参照できます。 #18 『西塩田時報』第4号(1924年1月1日)4頁2022-12-22
20禁酒禁酒この記事は禁酒を周知するための真面目な内容かと思っていたのですが、詩っぽく韻も踏んでいて現代のラップ調な感じの文章でした。ポップに禁酒についての記事を書いていて読み手を飽きさせないような内容でした。 ●この記事は以下から参照できます。 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0004.jpg2022-12-22
21茄子料理茄子料理この記事には当時の家庭料理の調理例が書いてあります。この時代の調理方法は初めて見る調理例もあってどのような味がするのか気になりました。 また住民の生活によりそった記事がある事にほっこりしました。 ●この記事は以下から参照できます。 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p1022.jpg2022-12-22
22引揚者を暖かい気持ちをもって迎えましょう引揚者を暖かい気持ちをもって迎えましょう過酷な環境から帰ってくる引揚者の人々に冷たい態度をとらず暖かく迎えましょうと呼びかける内容です。 第二次世界大戦が終わった後の記事で海外にとどまることを強いられた人々への思いやりや終戦後の日本の一体感が読み取れる記事です。 #965 『西塩田青年団報』第4号(1946年11月25日)3頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0965.jpg2022-12-21
23火の用心火の用心他の災害と比較して火事は我々の意識で防ぐことができあるという内容をユーモアを交えて訴えかけた記事です。 地震雷火事親父という今でも耳にする言葉を用いられていて、当時から親父の部分に疑問を持つような書き方がされていて、そのうえ火事への注意喚起は真面目に訴えかけている点が面白いと感じました。 #957 『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)3頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0957.jpg2022-12-21
24青年の聲 【『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁】青年の聲 【『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁】これは当時の太平洋戦争が終わりポツダム宣言を受諾した日本の意見が良く分かる記事です。おそらくこの記事のようにポツダム宣言に賛成した派と否定派で激しく争ったように感じ取れます。そのような昔の雰囲気を感じ取れる記事として面白く思えました。 ▼この記事は以下から参照できます。 #985 『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p1261.jpg2022-12-21
25火の用心 【『西塩田青年団報(戦後)』第2号(1946年9月20日)3頁】火の用心 【『西塩田青年団報(戦後)』第2号(1946年9月20日)3頁】この記事は当時はかなりの災害だった火災に対する恐ろしさとその対策について書かれている記事です。しかし単なる災害防止の記事だけでなく読みやすいようユーモアがある筆者の独白なども書かれていて面白いです。 ▼ この記事は以下から参照できます。 #957 『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)3頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p1261.jpg2022-12-21
26家庭心得帖(『西塩田時報』第60号(1952年9月5日第2頁))家庭心得帖(『西塩田時報』第60号(1952年9月5日第2頁))料理や洗濯、予定の立て方など、生活がプラスになる情報が掲載されています。 主婦の知恵などが新聞に載っているのは読んでいても面白く、実際に使える知識なのでためになると思いました。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1180 『西塩田公報』第60号(1952年9月5日)2頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p1180.jpg2022-12-21
27幼女児おかっぱすすめ(『西塩田時報』第84号(1930年11月1日)2頁)幼女児おかっぱすすめ(『西塩田時報』第84号(1930年11月1日)2頁)学校便りのようなものに、運動するときや勉強するときに邪魔にならないために髪型をおかっぱにすることを進めている記事がありました。 昔の女の子はおかっぱのイメージがありますが、こんな理由でおかっぱの子が多かったのかなと思いました。 ▼この記事は以下から参照できます。 #364 #364 『西塩田時報』第84号(1930年11月1日)2頁 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0364.jpg2022-12-21
28民主化は先ず家庭から…(『西塩田公報』第35号(1950年3月5日)4頁)民主化は先ず家庭から…(『西塩田公報』第35号(1950年3月5日)4頁)世間は民主化が進んできているが、家庭内では夫が妻に対して亭主関白ぶりを発揮している様子が見て取れる。 自分でできることは自分でやる、そうすることで双方にとって無駄な労力の消費を防ぐことができると述べられている。 現代の社会でも同様に言う事が出来、家庭内だけではなく学校や会社の中でも同様だろう。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1082 『西塩田公報』第35号(1950年3月5日)4頁2021-12-16
29草木染の仕方(『西塩田時報』第132号(1934年11月1日)2頁)草木染の仕方(『西塩田時報』第132号(1934年11月1日)2頁)この記事は草木染の復興の経緯と染色手順が記されている。手染の良さや使う草木によって染まり方の違いが細かく書かれている。 手染は確かに手間がかかるが、その分自分好みの味わいのある素敵なものができる。また使う草木によってこんなにも色合いのバリエーションがあることに驚いた。実際に自分も行ってみたいと感じた。 ▼この記事は以下から確認できます。 584 『西塩田時報』第132号(1934年11月1日)2頁2021-12-16
30親の愛(『西塩田時報』第117号(1933年8月1日)4頁)親の愛(『西塩田時報』第117号(1933年8月1日)4頁)この記事は親は我が子の欲望をどれだけ叶えてあげられるのかが話題になっている。それは子供が成長するにつれて難しくなってくると書かれている。 子供が愛されているという前提で書かれていたが、今日では親が子供を虐待といった問題も多く考え方が変わるのではないか。こういった今と昔の考え方の違いが面白いと感じた。 ▼この記事は以下から参照できます。 520 『西塩田時報』第117号(1933年8月1日)4頁2021-12-16
31電力危機回避(『西塩田時報[戦後]』第7・8号(1947年8月20日)4頁)電力危機回避(『西塩田時報[戦後]』第7・8号(1947年8月20日)4頁)電力危機回避の記事です。電力不足から脱却した嬉しさが語られています。 ▼この記事は以下から参照できます。 『西塩田時報[戦後]』第7・8号(1947年8月20日)4頁2021-12-15
32団体の規則(『西塩田時報』第74号(1930年1月1日)1頁)団体の規則(『西塩田時報』第74号(1930年1月1日)1頁)塩田地区の団体の規則を見ることができます。その当時にあったもので、とても興味深い内容になっています。 ▼この記事は以下から参照できます。 『西塩田時報』第74号(1930年1月1日)1頁2021-12-15
33電力危機突破について『西塩田時報「戦後」』第10・11号(1947年11月30日)1頁電力危機突破について『西塩田時報「戦後」』第10・11号(1947年11月30日)1頁戦後間もない時期の深刻な電力不足に陥ってる状況がとてもよく分かる記事です。2021-12-15
34参院選挙投票率は79% (『西塩田公報』第38号(1950年6月5日)1頁)参院選挙投票率は79% (『西塩田公報』第38号(1950年6月5日)1頁)この記事は、参院選の投票率と結果について書かれている。個人的に面白く感じた点は、「投票余談」の部分だ。その当時、何を考えて投票したのかが具体的に書かれており、面白く感じた。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1091 『西塩田公報』第38号(1950年6月5日)1頁2021-12-15
35民主政府は総選挙で(『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁)民主政府は総選挙で(『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁)この記事には、戦後の当時の選挙に対するとてもあつい雰囲気がうかがえる。「私たちが幸福になるためによく考える」という点は今でも変わらないものだ。 ▼この記事は以下から参照できます #985 『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁2021-12-15
36家庭メモ(『西塩田時報』第73号(1953年10月5日)4頁家庭メモ(『西塩田時報』第73号(1953年10月5日)4頁当時の法務省民事局参事官平賀健太氏が講義を行った「戸籍」についての記事である。 戸籍の話から住民票や選挙権、戦没者の身分証明に至るまで、戸籍の重要性を講義している。 戸籍の届け出が正確ではなかった当時の様子がうかがえる内容である。 ▼この記事は以下から参照できます。 #318 『西塩田時報』第73号(1929年12月1日)4頁2021-12-15
37禁酒(西塩田時報第1号(1923年7月1日)4頁)禁酒(西塩田時報第1号(1923年7月1日)4頁)酒でよほど痛い目を見たのか、端から否定派なのか、、 禁酒を進めるというよりかは酒を飲む人を全否定する言葉を並べてある。 しかし、軽快でストレートな表現が嫌味でなくて面白い。 ▼この記事は以下から参照できます。 #4 『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁2021-12-15
38農民への問いかけ農民への問いかけ地元の農民に対して役人に搾取される人生で良いのかと、もっと考えながら生きた方が良いと問いかけていたのが、面白かった。 ▼この記事は以下から参照できます。 『西塩田時報』https://d-commons.net/admin/content_edit.php?id=5840#photo_gallery2021-12-15
39戸籍の話(『西塩田時報』第73号(1953年10月5日)4頁戸籍の話(『西塩田時報』第73号(1953年10月5日)4頁当時の法務省民事局参事官平賀健太氏が講義を行った「戸籍」についての記事である。 戸籍の話から住民票や選挙権、戦没者の身分証明に至るまで、戸籍の重要性を講義している。 戸籍の届け出が正確ではなかった当時の様子がうかがえる内容である。 ▼この記事は以下から参照できます。 #318 『西塩田時報』第73号(1929年12月1日)4頁2021-12-15
40『家庭欄 茄子料理』(『塩田時報』第17号(1948年7月25日)4頁)『家庭欄 茄子料理』(『塩田時報』第17号(1948年7月25日)4頁)茄子料理の説明がされている。 ほんわかして好きだ。村人に寄り添った記事が出ていることが何となく好ましく感じた。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1022 『西塩田時報[戦後]』第17号(1948年7月25日)4頁2021-12-14
41明るい村に(『西塩田時報』第17号(1948年7月25日)4項)明るい村に(『西塩田時報』第17号(1948年7月25日)4項)この記事には、戦後の上田の人々の様子が書かれており、政府が取った政策を機に住み良い国を作ろうという想いが述べられている。 「町行く女の華々しき姿と色失せた人々の顔」という文からは、貧富の格差が大きい事が分かる。 戦後で荒れている世の中の様子が読み取る事ができ、興味のひかれる記事だった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1022 『西塩田時報[戦後]』第17号(1948年7月25日)4頁2021-12-14
42『衛星メモ』(『塩田田時報』第15号(1948年5月25日)1頁)『衛星メモ』(『塩田田時報』第15号(1948年5月25日)1頁)本記事では家庭の雑学のようなものがいくつか取り上げられている。 現代なら検索すればすぐに得られるような知識であるが、当時の人々からはこういった豆知識のようなものが重要だったのかもしれない。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1015 『西塩田時報[戦後]』第15号(1948年5月25日)1頁2021-12-14
43家庭の改造と女性の地位(『西塩田時報』第2・3号(1947年3月10日)2項)家庭の改造と女性の地位(『西塩田時報』第2・3号(1947年3月10日)2項)この記事は、この時代までの男尊女卑の風潮を批判したものである。 この記事が発行された前年に女性は参政権を獲得したものの、女性の立場は家庭内や社会でほとんど変わっていない、というということが読み取れる。 現在の様子との違いをとても感じさせられる文章だった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #980 『西塩田時報[戦後]』第2・3号(1947年3月10日)2頁2021-12-14
44入學前の家庭教育に就て(『西塩田時報』第1号(1947年1月25日)2頁)入學前の家庭教育に就て(『西塩田時報』第1号(1947年1月25日)2頁)初等科一年生を受け持つ先生が保護者へ向けて書いた、入学前までにできるようになっていてほしいことを示したもの。カタカナの読み書きの習得から毎朝顔を洗うなんてことまで書かれている。 今の新聞ではあまり見られない記事で、当時と今の新聞の在り方の違いが感じられる。 さらにタイトル横の“父兄の皆様”という言葉も最近は聞かなくなったなと。 ▼このページは以下から参照できます。 #976 『西塩田時報[戦後]』第1号(1947年1月25日)2頁2021-12-14
45ポツダム宣言を味読せよ(『西塩田時報』第4号(1947年4月20日)1頁)ポツダム宣言を味読せよ(『西塩田時報』第4号(1947年4月20日)1頁)日本が受諾したポツダム宣言は、連合国側からの一方的に押し付けではなく、日本の将来を考えて行われた最高の要請であると述べられている。 また、これに則って制定された日本国憲法の「すべて国民は健康で文化的な最低生活を営む権利を有する」という部分に対し、現状の生活ではそれを達成できていないと述べられている。その中で、自分たちの役目を果たすだけではなく、自ら行動していかなければならないという強い意志を感じることができる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #985 『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁2021-12-14
46卒業生名簿(『西塩田公報』第47号(1951年3月10日)2頁)卒業生名簿(『西塩田公報』第47号(1951年3月10日)2頁)この記事は、当時の卒業生の名前が書かれており、しかもフルネームである。 現代の学校では名簿を世間に出すことさえも厳重な取り扱いを求められているが、この時代には時報に載っている。 個人情報保護などは考えられていなかった時代ならではの記事で面白いと思った。 ▼この記事は以下から参照できます #1124 『西塩田公報』第47号(1951年3月10日)2頁2021-12-14
47児童の体格について(『西塩田時報』第2号(1923年9月1日3頁))児童の体格について(『西塩田時報』第2号(1923年9月1日3頁))この記事は当時の児童の体格について書かれている。また、日本全国と長野、西塩田小学校の3つの児童の体格の平均が比較されている。比較した後に、身体の発達に家庭でも一層のご注意を、などといった文面も見受けられる。 現代においても、このような記事を目にすることは多いのではないか。当時の記録がデータとしてしっかり残っている点が興味深かった。 ▼この記事は以下から参照できます #7 『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)3頁2021-12-14
48「西塩田時報」13号(1948年3月25日)1頁「西塩田時報」13号(1948年3月25日)1頁自分は企業情報学にいるため新聞業の規範というタイトルに興味を持った。新聞業の人間が持つ責任や義務、その他の教訓のようなものが長々と書かれていた。自分たちも近代になり誰でも莫大な量の情報を扱えるようになった以上、見習うべきことや考えさせられることがあると感じた。#59 『西塩田時報』第13号(1924年12月1日)1頁  この記事は以下から参照できます2021-12-14
49「西塩田時報」第4号(1946年11月25日)2頁「西塩田時報」第4号(1946年11月25日)2頁「武士道は死ぬことと見つけたり」という有名な言葉が目にとまり、その後のこの言葉をオマージュしているのを見てとても興味をそそられた。ことわざと実数値を使い食事という者の重要性をとき、人間的な生活の成立を軸に記事が立てられている。食事という行為について考えさせられる記事だ。#16 『西塩田時報』第4号(1924年1月1日)2頁2021-12-14
50さよなら「西塩田公報」過去の苦楽もまたなつかしい(『西塩田公報』第104号(1956年5月5日)4頁)さよなら「西塩田公報」過去の苦楽もまたなつかしい(『西塩田公報』第104号(1956年5月5日)4頁)この記事は西塩田時報の最終刊の投稿である。 西塩田時報が地域で長く親しまれ人々に影響をどれだけ与えてきたのかが分かる内容だった。 西塩田時報がどれだけ優れた公報だったのか、どのような苦労や地域との関わりがあったのか読んでいてとても面白かった。 最終刊にあたり長く親しまれてきた公報が戦争を受けた言論統制以外での理由で廃刊を受けた人々の惜しい気持ちが当時の西塩田時報の立ち位置を示しているようで興味深かった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1346 『西塩田公報』第104号(1956年5月5日)4頁2021-12-14
51火鉢を囲んで (『西塩田時報』第4号(1924年1月1日)4頁)火鉢を囲んで (『西塩田時報』第4号(1924年1月1日)4頁)この記事は人間にとって幸福とは何かについて文化生活論的な内容が小説のように書かれていた。 少々哲学的な内容に感じたが戦争が現在よりかは身近な時代に人々の争いについてどのように考えるのか記述があり、とても興味の引かれる内容だった。 人間にとっての幸せとは何なのか、どのような自覚を持つべきなのか考えさせられる文だった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #24 『西塩田時報』第4号(1924年4月1日)4頁2021-12-14
52ビタミンの話(『西塩田青年団報』第5号(1946年12月25日)3頁)ビタミンの話(『西塩田青年団報』第5号(1946年12月25日)3頁)記事では、ビタミンは人間が生きていくうえで不可欠な物質であるとした上で、摂取すべき食材が各ビタミンごとに示されている。 ビタミンB1不足によって起こる脚気はかつて国民病であったというが、戦後になって知識が広まり、食料不足も次第に解消されたことで、ようやく解決に向かったのだろう。 ▼この記事は以下から参照できます。 #973 『西塩田青年団報』第5号(1946年12月25日)3頁2021-12-14
53通知表の見方に就いて(『西塩田時報』第35号(1926年10月1日)3頁)通知表の見方に就いて(『西塩田時報』第35号(1926年10月1日)3頁)通知表の評価についての小学校からの説明である。 「うちの子の評価がいつもより低いのはどうしてだ」というクレームを受けての記事だという。 しつこい保護者はこの時代にもいたんだなと思った。 ▼この記事は以下から参照できます。 #31 『西塩田時報』第5号(1924年6月1日)3頁2021-12-14
54廢刊の御挨拶(『西塩田時報』第204号(1940年10月30日)1頁)廢刊の御挨拶(『西塩田時報』第204号(1940年10月30日)1頁)西塩田青年団が発行した『西塩田時報』が廃刊となる旨を伝える記事である。 1923年の発刊から高い志を持って続いてきた情報紙が、言論統制・防諜・資源節約を理由として廃刊になることに対し、発行人の無念が読み取れる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #911 『西塩田時報』第204号(1940年10月31日)1頁2021-12-14
55かつての成人の願い(『西塩田時報』第78号(1930年5月1日)3頁)かつての成人の願い(『西塩田時報』第78号(1930年5月1日)3頁)コラムを書いた筆者が、戦争の傷が残る子ども時代に見た大人の世界は、 生きるために血眼で戦う醜い世界。 そんな時代の先で彼が望んだのは、何か世の中の役に立つ人間になることだった。 生きるために戦うことの醜さを知らない現代の日本の大人たちは、 戦いの時代になったら、彼にとっての醜い大人になってしまうのだろうか。 私は世の中の役に立つ大人になりたいとは思うものの、そういう人にならない確証は無い。 なるべく避けたいものだなと思った。 現代では多分考えないだろうこの価値観が面白いと思った。 ▼この記事は以下より参照できます #337 『西塩田時報』第78号(1930年5月1日)3頁2021-12-14
56靑年團廻れ右!軍隊化を目指す文相新體制案 (『西塩田時報』第203号(1940年10月1日)1頁)靑年團廻れ右!軍隊化を目指す文相新體制案 (『西塩田時報』第203号(1940年10月1日)1頁)この記事は、政府が地方を把握しきれていないと批判し、改善を提案している。 国民を機械にすることが新体制であるとまで言っており、日本が強くなる過程で国民が政府に絶対服従することは容認しつつ、逆に政府も完璧であることを求めているところが興味深い。 ▼この記事は以下から参照できます。 #907 『西塩田時報』第203号(1940年10月1日)1頁2021-12-14
57禁酒(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁)禁酒(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁)「禁酒」という分かりやすいタイトルのもとに、健康のために禁酒をしましょう的な真面目な勧告文が書かれているかと思えば、今でいうラップのように韻を踏んでいる唄なのである。内容は禁酒を進めるものであるのだが、酒飲みをこれでもかとディスっている。ふざけているように見えるが、実際に堅苦しい文章よりも読み進めやすく、タイトルもデカデカと「禁酒」の2文字で目に留まりやすい。意外と考えられている記事なのかもしれない。 ▼元記事はこちら  https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0004.jpg2021-12-14
58働くものが幸福になる! 民主政府は總選擧で 總選擧に當り國民はいかにその貴き一票を行使するか?聞け!!村民の血の叫びを!(『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁)働くものが幸福になる! 民主政府は總選擧で 總選擧に當り國民はいかにその貴き一票を行使するか?聞け!!村民の血の叫びを!(『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁)選挙において、よく考えて投票することを呼びかけている。 よく調べずに「名前を聞いたことのある人だから」という理由だけで投票してしまったことがあるので、とても身に沁みる。自分の一票が政治を変えるのだとよく意識して投票するべきだと感じた。 この記事は以下から参照できます。 #985 『西塩田時報[戦後]』第4号(1947年4月20日)1頁2021-12-14
59鄕土出身將兵 慰問原稿募集!(『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)3頁)鄕土出身將兵 慰問原稿募集!(『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)3頁)兵士への慰問品を募集している。 寫生畫は写生画、漫畫は漫画、寫眞は写真のことである。 兵士は人間であり、苦しい中戦っていたということを認識させられた。 この記事は以下から参照できます。 #939 『西塩田村公報』第8号(1943年5月5日)3頁2021-12-14
60悲しみ多し(『西塩田時報』第16号(1925年3月1日)1頁)悲しみ多し(『西塩田時報』第16号(1925年3月1日)1頁)これには自分や周りの人に対するふがいなさ、情けなさが書かれている。しかし終わりには「いまにみろ。」と強い言葉がある。 弱い者が自分や人に対してイライラすること。「ただ言われっぱなし、やられっぱなしなのではなく、いつか見返してやる日のために耐えているのだ。」と心の中には闘志がある様子。これらの見下されている人間の心情がよく感じられとても心引かれる記事だった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #71 『西塩田時報』第16号(1925年3月1日)1頁2021-12-14
61心得『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)4頁心得『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)4頁「お互いに用心しましょう」という小見出しで火の元の管理や衛生環境への注意が促されていて、発行されてから間もない時期はどんな記事を書くのか疑問でしたがこのような日常生活への注意もされていたのだなと思いました。2021-12-14
62趣味に就いて(『西塩田時報[戦後]』第2・3号(1947年3月10日)6頁)趣味に就いて(『西塩田時報[戦後]』第2・3号(1947年3月10日)6頁)この記事の作者は人々に趣味を見つけることを勧めている。趣味を見つけることで良い友情を結び、視野を広げ、豊富な経験や知識を効率的に持つことができると書かれている。 まるで現代文の教科書を読んでいるような気分になり、私も趣味を見つけて人生を豊かにしたいと思った。 ▼この記事は以下から参照できます。 #984 『西塩田時報[戦後]』第2・3号(1947年3月10日)6頁2021-12-14
63何を意識するの?? (『西塩田時報』第94号(1931年9月1日)4頁)何を意識するの?? (『西塩田時報』第94号(1931年9月1日)4頁) 現在皆さんは何を考えて生きていますか? 自分のこと、他の人のこと、また他のことを考えて 過ごしていると思います。ただこの時代は現在と違った 美徳について意識するように。と書かれている。 現在とは違った価値観が感じられる記事となっている。    皆さんも他の人とは違う美徳を目指してみては? 出典元:  『西塩田時報』第94号(1931年9月1日)4頁2021-12-14
64『火事』( 『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)3頁)『火事』( 『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)3頁)地震・火事・雷は恐ろしく、地震と雷は不可抗力であるが火事はまったく不可抗力ではない。といったことが述べられている。 お互いに注意をすれば火事を未然に防ぎ、もし起こったとしても被害を最小限に抑えられるという小さいことだがとても大切なことであると気づかされた。 この記事は以下から参照できます #957 『西塩田青年団報』第2号(1946年9月20日)3頁2021-12-14
65『児童の体格について』(『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)3頁)『児童の体格について』(『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)3頁)記事では日本全国・長野・西塩田小学校の児童の体格の平均を比べたもので、この村の児童の体格があまり良くないということが述べられている。 3つのデータから、どういった児童がどのような部分で全国・長野の平均を上回っているのかがよくわかる。 地域を感じさせる記事で興味深かった。 この記事は以下から参照できます #7 『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)3頁2021-12-14
66カメラ『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)4頁カメラ『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)4頁これは日常を題材にした短編小説のような記事だ。 A氏について書かれており、死や幸福など対比的な内容が魅力的だと感じた。 割と文章全体が短くてすぐに読めたので面白いと感じました。 この記事は以下から参照できます。 『西塩田時報』第2号(1923年9月1日)4頁2021-12-13
67戦後前の記事戦後前の記事戦前の最後の記事を見て、思ったよりも平和であり、地域のため池の話などをしている点が面白かった。 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0974.jpg2021-12-13
68ああ、感激の優勝旗(『西塩田時報』第204号(1940年10月31日)6頁)ああ、感激の優勝旗(『西塩田時報』第204号(1940年10月31日)6頁)この資料は、上田市営運動場という場所で行われた体育大会の様子を記している。上田市営運動場という場所を調べて見たがどの施設のことを指しているのかがハッキリしなかった。というのも、この運動会が開催された昭和15年(1940年)には上田城跡公園陸上競技場はあったが、当時から陸上競技場という名で呼ばれていたと思われるため(勝俣英吉郎の銅像に記されている碑文に陸上競技場と記されていることから)、運動場という名前で新聞に載せるかどうかが怪しいと判断したためである。この体育大会では現在も競技として残っている100M走や800Mリレーの他に、バトンの代わりに俵を用いたリレーや手榴弾投という現在にはあまり聞かない競技が記されている。 現在の新聞では大会が開催されたことを掲載する際は、結果しか載せないことが多い2021-12-13
69農村の若人に(一)(『西塩田時報』第121号(1933年12月1日)4頁)農村の若人に(一)(『西塩田時報』第121号(1933年12月1日)4頁)この文章は、匿名のYさんから農村の若者に向けた物である。 世界は戦争や疫病により、落ちぶれてしまっている。世界では資本主義や社会主義、科学を主体とする思想も広がっている。日本もそれを色々と真似ようとしているが、執筆者から見たら、立派な青年(日本)が不良な青年(外国)と遊んでいて悪い癖を覚えさせられているように感じられているそうだ。現に世界恐慌の際、労働者と資本家も苦しんでいる中で、大資本家や国際的な資本家は卑しく笑っていた。また、人間は自ら見つけた科学を全力で成長させてきた。その科学は完全に人間の上に立ち、一切の指令権を持つようになり、人間は科学に職を追われ科学の犠牲になりつつある。歴史ある美しき日本を守れ。そして、大和魂を持って世界を再生することが使命である。 ある程度理解2021-12-12
70新學制の教科について(『西塩田時報[戦後]』第5号(1947年5月20日)3頁)新學制の教科について(『西塩田時報[戦後]』第5号(1947年5月20日)3頁)この記事には学校で習う教科の変更について書かれている。ここでいう社会科が私たちの思うそれとは異なっている。ここでいう社会科とは「社会生活についての良識と性格とを学ぶこと」が目的になっていて、そのギャップが面白く感じた。 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0991.jpg2021-12-12
71禁酒(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁)禁酒(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁)まず、タイトルに惹かれた。「禁酒」と書かれていてどうしても気になった。作者が記されておらず、誰が何のために書いたのかすらわからない。どこか唄のような感じで述べられていて読みやすい。この文章の中で「やけのヤン八喧嘩野郎」の語呂とリズムが心地よく感じた。 この文章自体が謎すぎてクスッと笑ってしまった。 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0004.jpg2021-12-12
72家庭心得帖『西塩田公報』第67号(1953年4月5日)4頁家庭心得帖『西塩田公報』第67号(1953年4月5日)4頁「家庭心得帖」というタイトルで、包丁のサビのとり方 や料理のレシピなどが掲載されている。 西塩田時報の記事の中にとても家庭向けの内容が書いてあったので驚いた。 この記事は以下から参照できます。 #1198 『西塩田公報』第67号(1953年4月5日)4頁2021-12-11
73知って居て重宝な家庭メモ『西塩田公報』第95号(1955年8月5日)4頁知って居て重宝な家庭メモ『西塩田公報』第95号(1955年8月5日)4頁「知って居て重宝な家庭メモ」というタイトルで、衣類にチューインガムがついた時の取り方など生活の豆知識が記載されている。 地域の出来事が多く書かれているイメージだったのでこの様な内容が書かれていて面白いと感じた。 この記事は以下から参照できます。 #1310 『西塩田公報』第95号(1955年8月5日)4頁2021-12-11
74第三農村の疲弊(『西塩田時報』第124号(1934年3月1日)1頁)第三農村の疲弊(『西塩田時報』第124号(1934年3月1日)1頁)私が興味を引かれたのは、「第三農村の疲弊」という記事。 インフレ景気において利潤を得る都市部の市場と比較し、経済状況に苦しむ地方農村の状況を述べている記事だった。 私が面白いと思ったのは、地元紙であるからこうした苦境に立たされている農村の人々に寄り添い、政治に批判的な内容を書くのかと思いきや、逆に自分たちの批判的な心を改めるべきだと述べている事だ。戦争が近づく中で、国に対する忠誠心なども高められてきたことも関係しているのだろうか、と推測でき、興味深かった。 この記事は以下から参照できます。 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0549.jpg2021-12-11
75朝鮮人の結婚式(『西塩田時報』第4号(1924年4月1日)4頁)朝鮮人の結婚式(『西塩田時報』第4号(1924年4月1日)4頁)私が興味を引かれたのは、「朝鮮人の結婚式」という記事。 これは朝鮮人の結婚形態を日本との違いも踏まえて紹介した記事だったが、興味を引かれたポイントはその内容ではなく、この記事が発行された年。 この記事が発行されたのは大正13年(西暦1924年)で、大正12年の朝鮮人大虐殺が起こった関東大震災の一年後だった。関東では朝鮮人への憎悪が残っていたであろうこの時代に、地方では朝鮮人の和やかな記事が出せたというのは、当時はそれだけ都市と地方が隔絶していて情報が行き届いていなかったのだろうか、とか、地方の人々はそもそも他人事で憎悪を感じていなかったのか、といういくつかの推測を私に抱かせた。 真偽のほどは不明だが、歴史的背景を含めて考察ができるというのも、貴重な価値を持つ文献だと思った。 この記事は以2021-12-11
76私の『西塩田時報』面白記事ピックアップ②私の『西塩田時報』面白記事ピックアップ②『ムシ歯予防デー(昭和12年6月1日)』通しp732 『ムシ歯予防デー(昭和12年6月1日)』についての私の意見を述べる。『歯の衛生と農村保健運動とは重大な関係を持つて居ります。』という書き出しにインパクトを感じ選んだ。現在の「歯と口の健康習慣」(6月4日~10日)はこの虫歯予防デーが元である。私は予防医療が浸透した時代に生まれたが、予防医療の発達以前はどのような取組み・姿勢だったのか興味がある。当該記事では『病は口より入る』の諺や『私達の病気は口から入つていくと言つてもいい位で、言はば病気の通路みたいなものと言へる』と、概念的に理解しやすいような記述が見られる。2021-01-10
77私の『西塩田時報』面白記事ピックアップ①私の『西塩田時報』面白記事ピックアップ①『部落ニュース(昭和12年5月7日)』通しp727~728 私が面白いと思ったのは『部落ニュース(昭和12年5月7日)』だ。部落ごとのあらゆる事柄が記録されている。現在でいう町内会単位での出来事が書かれていることにたいへん驚いた。というのも、決定事項や行事に関する事柄についての記録は現在であれば町内会・自治会で共有される枠を超えることは少ないからである。そういった比較的クローズドな記録が西塩田全域で共有されていることに、地域ネットワークとしての西塩田時報の範囲の広さを感じた。また、昭和12年(1937年)当時は戦時下ということで、女性の連帯組織の活動がたいへん多かったのだと分かる。「倉野」の欄には、「女子消防組」や「パン講習」の記録がある。いずれも戦時下での空襲対策や食糧確保の一環としての講習会であろ2021-01-10
78HOWTO本(『西塩田時報』第31号(1926年6月1日)1頁)HOWTO本(『西塩田時報』第31号(1926年6月1日)1頁)「乳児の育て方」と言うタイトルで、小さい赤ちゃんの様子から、どの様にお世話したら良いのかが細かく書いてあります。 離乳食のレシピや、外出についてのアドバイスなど、 読んでいてとても面白かったです。 「地域の記録」と言うイメージが強かった為、この様な内容の記事もあるのだなと驚きました。2020-12-22
79驚くべき不正肥料(『西塩田時報』第33号(1926年8月1日)4頁)驚くべき不正肥料(『西塩田時報』第33号(1926年8月1日)4頁)数多くある記事の中でも、タイトルが目についたのでつい読んでしまいました。 「とんでもない成分が入っていて、ぐんぐん育っちゃう肥料なのだろうか」と想像しながら読んだのですが、 書いてあるのは、 「表示されている成分量と、実際に入っている成分量が違う」という「不正肥料」でした。 今も昔も問題になる事は同じですね…2020-12-22
80『西塩田時報』第20号(1925年7月1日)2頁『西塩田時報』第20号(1925年7月1日)2頁犬に鑑礼をすることを記事にしており、納税人の便宜上各町村長より交付されることが書かれている。少しクスっと笑ってしまった記事であった。 https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p0088.jpg2020-12-20
81卒業生の名簿(『西塩田公報』第47号(1951年3月10日)2頁)卒業生の名簿(『西塩田公報』第47号(1951年3月10日)2頁)この記事は西塩田時報に載っていた当時昭和26年3月の卒業生の名前が書かれています。 この記事の面白いところは今では恐らくあり得ないということです。 卒業生の名簿は顔写真が載っていないとしても名前は立派な個人情報です。 今の世の中で例えるならば、新聞にどこの学校を卒業した何組の誰さんと載る訳で様々な親御さんがいる中、このようなことになれば当然のごとくクレームが入るのではないかと思います。 誰でも読むことができる時報に公に個人情報を載せられるのはこの時代だからこそだと思うので、今とは異なるという意味で面白いなと感じました。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1124 『西塩田公報』第47号(1951年3月10日)2頁2020-12-16
82思い浮かぶまで『西塩田時報』第109号(1932年12月1日)4頁思い浮かぶまで『西塩田時報』第109号(1932年12月1日)4頁この記事はどこか悲しい冬の思いを語られています。 幼いときからの思い出など、冬になると思い出し春が訪れるのを待っています。 ▼この記事は以下から参照できます。 #480 『西塩田時報』第109号(1932年12月1日)4頁2020-12-15
83雑草 (『西塩田時報[戦前]』第30号(大正13年12月1日)4頁)雑草 (『西塩田時報[戦前]』第30号(大正13年12月1日)4頁)この記事は大正13年12月1日に書かれた記事です。 雑草という題名と季節に惹かれて選びました。12月のはじめという冬の寒さを表しており、水槽の水の色も草の色も変わり冬本番を表した記事になっています。 冬の様子や景色など書かれていてとうじの冬を感じられます。 ▼この記事は以下から参照できます。 #62 『西塩田時報』第13号(1924年12月1日)4頁2020-12-15
84家庭心得帖 (『西塩田公報』第69号(1953年6月5日)4頁)家庭心得帖 (『西塩田公報』第69号(1953年6月5日)4頁)古くなった鏡の手入れや油ビンの洗い方など、日常生活において役立つ様々な情報が書かれている。 また、「ごま汁かけうどん」や「ゆでキャベツのカラシみそ」という美味しそうな料理の作り方まで書かれており、実際に作って食べてみたくなった。非常に読みやすく、家庭に寄り添った記事に興味を持ち採り上げた。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1206 『西塩田公報』第69号(1953年6月5日)4頁2020-12-14
85ビタミンの話(『西塩田時報』第5号(1946年12月25日)3頁)ビタミンの話(『西塩田時報』第5号(1946年12月25日)3頁)ビタミンについて説明している記事である。(一)ビタミンの人体内に於ける役割、(二)ビタミンの種類、(三)主なるビタミンの分布並に缺乏性という3つの小見出しがある。昭和21年12月25日までに見つかっていた主なビタミンの種類や効果が文章や表形式で分かりやすく説明されている。 ビタミンをVと略していることや、昭和21年12月25日までのビタミンについての情報が分かりやすく書かれていて面白いと思ったため、この記事を採り上げた。 ▼この記事は以下から参照できます。 #973 『西塩田青年団報』第5号(1946年12月25日)3頁2020-12-14
86夏の料理『西塩田時報[戦後]』第16号(1948年6月25日)2頁夏の料理『西塩田時報[戦後]』第16号(1948年6月25日)2頁家庭で作る夏の料理のレシピを紹介した記事。 「いかの桃和え」や「れんこん飯」「エッグのプラントサラダ茄子のサラド」など馴染みのないレシピが紹介されている。 文字を追って工程を想像するだけでも楽しい。 これを参考にすれば昭和の料理を味わうことができるかもしれない。 名前の間違いがペンで直されているのもレアではないだろうか。 ▼この記事は以下から参照できます。 『西塩田時報[戦後]』第16号(1948年6月25日)2頁2020-12-14
87入学前の家庭教育に就て(『西塩田時報[戦後]』第1号(1947年1月25日)2頁)入学前の家庭教育に就て(『西塩田時報[戦後]』第1号(1947年1月25日)2頁)この記事は、親御さん宛に、小学校入学前の子どもに教育しておいてほしいことが書かれている。 親であれば教えているような基本的な内容ではあるが、箇条書きで、マナーから、友達や先生との接し方、家庭での生活に関わることまで、とても細かく書かれていて驚いた。 わたしが小学校に入学するときに「これはできていないとだめ」「せんせいやともだちとはなかよくしなさい」などと教育された覚えがない。当時西塩田地域では記事のように徹底して教育されていたのだろうか。この記事を読んでから、この時代の教育に興味が湧いた。 ▼この記事は以下から参照できます。 #976 『西塩田時報[戦後]』第1号(1947年1月25日)2頁2020-12-14
88吾が村の養蠶業を探る(『西塩田公報』第81号(1954年6月5日)3頁)吾が村の養蠶業を探る(『西塩田公報』第81号(1954年6月5日)3頁)私の地元である岡谷市でも蚕業が盛んだったため、この記事に興味を持った。 桑芽が予想外の晩霜のため凍害となったことや、広報部員が飼育所を訪問した際に給桑室から楽しそうな合唱の歌声が流れて来たことなどが書かれており、当時の養蚕業の様子を事細かに知ることができる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1251 『西塩田公報』第81号(1954年6月5日)3頁2020-12-14
89禁酒(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁)禁酒(『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁)禁酒を勧めている記事である。酒を飲むことで起こる影響が多く書かれている。 一文の終わりが「~ない。」と書かれている文章が多いため、韻を踏んでいるラップ調に見えることと、酒を飲んでだらしなくなった人の様子が想像できるほど、酒による影響が直接的で分かりやすく表現されていて面白いと思ったため、この記事を採り上げた。 ▼この記事は以下から参照できます。 #4 『西塩田時報』第1号(1923年7月1日)4頁2020-12-14
90緑化運動に寄せて『西塩田時報[戦後]』第14号(1948年4月25日)1頁緑化運動に寄せて『西塩田時報[戦後]』第14号(1948年4月25日)1頁緑化運動についての意見が書かれた記事。戦争によって失われた信州の情景の美しさ心の豊かさを説き、気持ちを奮い起こさせている。 『戦いは破壊のみに終つた。』 戦後の景色と人々の思いが伝わってくる最初の一文。 戦後まだ間もない人たちの、緑を、信州を愛する思いに触れ、私たちも今一度、森林問題について関心を向けるべきであると思わせられる。 ▼この記事は以下から参照できます。 『西塩田時報[戦後]』第14号(1948年4月25日)1頁2020-12-14
91第一回女性討論會開かる(『西塩田時報[戦後]』第13号(1948年3月25日)3頁)第一回女性討論會開かる(『西塩田時報[戦後]』第13号(1948年3月25日)3頁)この記事は、昭和23年3月11日に女性のみが集まって行われた討論会の内容について書かれている。 この記事の面白いところは、当時の女性たちの抱えていた問題や、彼女たちの考えを知ることができるという点である。 特に「結婚上の問題について」という項目から、当時らしい寵愛結婚か見合結婚かという議論や、現代でも増えている結婚の簡略化や結婚費用の問題などについて討論されていたことに対して、興味深く感じられた。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1009 『西塩田時報[戦後]』第13号(1948年3月25日)3頁2020-12-14
92皆様と共に(『西塩田青年時報』第1号(1946年8月25日)1頁)皆様と共に(『西塩田青年時報』第1号(1946年8月25日)1頁)私が気になったのは、この投稿の内容ではなく、この投稿自体に関してである。左下に原稿募集の文字がある。つまり、これは市民投稿によって成り立つ地域誌であるということがわかる。住んでいる人に寄り添った記事作りもさることながら、一緒に作り上げるという意味でこれは非常に有益であると考える。2020-12-14
93『西塩田時報』第3号(1923年11月30日)1頁『西塩田時報』第3号(1923年11月30日)1頁『弱きものよ、汝の名は農民なり』という題名の、秀三という人の詩のようなものが載せられている。 この詩は、サブタイトルに「~わが農村の人たちへ送る~」とあるように、西塩田の農民の人たちを鼓舞し励ましつつも政府を風刺している。 この記事は、西塩田時報が西塩田の人々に寄り添ったものであることがよくわかる記事で、詩の内容もとてもいい詩だなと感じられるものだった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #9『西塩田時報』第3号(1923年11月30日)1頁2020-12-14
94人間のくひもの(『西塩田時報』第67号(1929年6月1日)4頁)人間のくひもの(『西塩田時報』第67号(1929年6月1日)4頁)この記事は「人間のくひもの」という見出しで、恐らく川邊時報を見た人が書いたと思われるものです。 人が食べるものを6つの項目に分けてその特徴と共に書かれています。 この記事では、今で言う五大栄養素のようなものだと思いますが、5番目に「液体をあたへるもの」と書かれているのを見た時に、急に項目の毛色が変わったように感じ面白いなと思いました。 また、最後のそれぞれの項目に当てはめた6つのアドバイスのようなものを見た時には思わずクスッと笑ってしまいました。 ▼この記事は以下から参照できます。 #294 『西塩田時報』第67号(1929年6月1日)4頁2020-12-14
95『西塩田時報』第15号(1925年2月1日)1頁『西塩田時報』第15号(1925年2月1日)1頁この記事の主な内容は、補習教育についてである。 現代より前から補習というものがあったことがわかる。 「人間の改良こそ、凡ての改良案の出発点で到着点であらねばなりません。」という文章があり、補習教育がどのような目的であるのか改めて理解できる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #67『西塩田時報』第15号(1925年2月1日)1頁2020-12-14
96『西塩田時報』第3号(1923年11月30日)1頁『西塩田時報』第3号(1923年11月30日)1頁『弱きものよ、汝の名は農民なり』という題名の、秀三という人の詩のようなものが載せられている。 この詩は、サブタイトルに「~わが農村の人たちへ送る~」とあるように、西塩田の農民の人たちを鼓舞し励ましつつも政府を風刺している。 この記事は、西塩田時報が西塩田の人々に寄り添ったものであることがよくわかる記事で、詩の内容もとてもいい詩だなと感じられるものだった。 ▼この記事は以下から参照できます。 #9『西塩田時報』第3号(1923年11月30日)1頁2020-12-14
97祝 成人(『西塩田時報』第78号(1954年2月5日)1貢)祝 成人(『西塩田時報』第78号(1954年2月5日)1貢)モノクロではあるが成人式の様子として写真が載っていて目にとまった。 日本文化を継承し創造、発展させる責任があることを自覚するように書かれていたり、若い人の元気や良さを失わないようにと書かれている。 今年成人になるので成人としての自覚を持って行動するべきだと感じた。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1231 『西塩田公報』第78号(1954年2月5日)1頁2020-12-14
98桑樹栽培法(『西塩田時報』第48号(1927年11月1日)1貢)桑樹栽培法(『西塩田時報』第48号(1927年11月1日)1貢)蚕都上田と呼ばれるほど蚕業が盛んであった上田であるが、餌となる桑の品質管理の大変さや飼育の苦労さが書かれている。 長野県は春は掃立と呼ばれる附加した蚕を蚕座に移して飼育する作業が遅く、秋は早く寒くなってしまうため成長期間が短い。長ければ長いほど良いため改正する必要がある。 小学校の時に蚕を飼育したことがあるのでこの記事に興味を持った。 ▼この記事は以下から参照できます。 #207 『西塩田時報』第48号(1927年11月1日)1頁2020-12-14
99「西塩田時報」第4号(1946年11月25日)1項「西塩田時報」第4号(1946年11月25日)1項日本国憲法が掲載されている。記事の日付からも確認できるだろうが、日本国憲法の公布日は1946年11月3日であるのに対しこの記事は25日の記事だ。つまり当時としてはまだ交付されたばかりの憲法は非常に重要でタイムリーな情報だったのであろうことがわかる。2020-12-14
100「西塩田時報」第119号(1933年10月1日)4項「西塩田時報」第119号(1933年10月1日)4項西塩田時報」第119号(1933年10月1日)4項に掲載された記事。中でも「野尻湖遊覧の今昔」という記事は私たちにとっての昔の記事が、その私たちにとっての昔という時系列的な地点から見た昔を考察するという点において非常に面白いものである。2020-12-14
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