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写真タイトル説明登録日
1富士アイス 松田時計店富士アイス 松田時計店この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一、二枚目が平成11年のアーケード取壊し前、三枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
2海野町会館海野町会館この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
3カメラ東京カメラ東京この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
4キムラ自動車商会キムラ自動車商会この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
5セシモ洋服店セシモ洋服店この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成16年の新アーケード建設後、二枚目が平成11年のアーケード取壊し前、三枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
6つかだ電機つかだ電機この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
7海野町ふれあいホールちょこっと海野町ふれあいホールちょこっとこの写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成16年の新アーケード開設後、二枚目が平成11年のアーケード取壊し前、三枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
8うえしん海野町支店うえしん海野町支店この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-13
9丸山商店丸山商店この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。2022-02-08
10アルファアルファこの写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-08
11いも平いも平この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-08
12キクチ洋装店キクチ洋装店この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-08
13銀座食堂銀座食堂この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-08
14海野町ふれあいサロン海野町ふれあいサロンこの写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目は平成16年の新アーケード開設後、二枚目は平成11年のアーケード取壊し前、三枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-08
15堀内紙店堀内紙店この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-07
16仲よし衣裳店仲よし衣裳店この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。 一枚目が平成11年のアーケード取壊し前、二枚目が昭和41年の海野町拡幅工事前に撮影された写真である。2022-02-07
17市民の日曜広場市民の日曜広場この写真は、海野町商店街にある海野町会館が所蔵する一枚である。2022-02-07
18醋屋呉服店醋屋呉服店この写真は、海野町商店街にあるすや呉服店が所蔵する一枚である。2022-02-05
19謎の球体謎の球体この写真は、海野町商店街にあるすや呉服店が所蔵する一枚である。2022-02-05
20田園風景田園風景この写真は、海野町商店街にあるすや呉服店が所蔵する一枚である。2022-02-05
21石柱碑石柱碑この写真は、海野町商店街にあるすや呉服店が所蔵する一枚である。2022-02-05
22醋屋呉服店醋屋呉服店この写真は、海野町商店街にあるすや呉服店が所蔵する一枚である。2022-02-04
23松代藩最大の犠牲160人松代藩最大の犠牲160人松代藩で最大の犠牲を出したのが、岩野村(長野市松代町岩野)。「松代満水の記」は「岩野村、男五拾八人、女百弐人流死」とある。村の人口の3分の1が死亡したという。かつての谷街道の笹崎よりに「川流溺死万霊供養塔」が建っている。ここ岩野村で160人の流死者が出た背景には、大雨で雨が降り続いた後、土砂崩れになり一気に水が来たためである。従来より雨が降り続くと、上田地域から1時間で水が来ると言われており、当時は気象情報などが迅速に伝わるようにはなっていなかったためと考えられる。 また2019年10月12日には、台風19号による集中豪雨で松代地区の河川や建物、田畑等に甚大な被害をもたらした。人的被害が無かったものの、建物や千曲川河川敷の畑や農機具、自動車等浸水被害は多岐にわたっている。松2022-01-30
24私の課題探求私の課題探求なぜその探求テーマを選んだのか テーマを考える最中、上田紬のイベントが最近あったことを思い出したことがきっかけだ。またメンバー全員が服が好きということもあって上田紬に興味関心があったためこのテーマに設定した。 何を探求しアウトプットするのか 上田紬の歴史や庶民的なものから高級品に変化するまでの過程を調べ、どのようにしたら現代の若者にとって身近になるかを考える。 具体的にどのような資料を調べるのか インターネットのサイトや可能であれば上田紬の工房に足を運び実物を実際に見てみる。また先生から送って頂いた上田市立博物館図録を参照する。2022-01-27
25上塩尻の集落の模型(1992年)発見上塩尻の集落の模型(1992年)発見【上】集落模型(佐藤家住宅の部分)1992年 【下】集落模型(佐藤家住宅[佐藤尾之七邸宅])1897年(『日本博覧図』所載、上田市立博物館所蔵) 蚕種製造民家群が数多く残る上塩尻の民家は1989年度から1991年度にかけて当時の工学院大学山崎弘研究室によって調査されました。それからかれこれ30年近くが経過し、その調査を知る人も少なくなったばかりでなく、所在がわからなくなっていた調査資料を最近になってやっと探り当てることができました。そのことだけでも大きな感動です。 そしてつい先日、その調査で作成された上塩尻の集落のミニチュアが発見され、眼前で確認しました。「長野県上田市上塩尻の養蚕民家集落 Scale:1/500 1992.3.28 工学院大学 山崎研究室」と記されています。 山崎研究室の調査では、上塩尻の蚕種製造民家のうち23軒が調査2022-01-12
26標高605m標高605m上田駅発の菅平線バスに乗り、揺られること20数分… スポットライトに照らされた「幸村の里」の大きな看板を目印に、降車を決意しました。 降りたのは「殿城口」というバス停でした。 この写真は、歩道を歩いていて目に入ってきた看板を撮影したものです。上田市は上り坂も下り坂も多く、山の上にいる事を体感しますが、こうして看板を見ると、より山の上にいることを実感します。2021-12-15
27上田らしさ上田らしさ上田駅のすぐ近くにあるこの水車。そして銅像。初めて上田駅に訪れた時から感じてはいたが、駅の改札を抜けてからここまで市の特徴が入りやすい駅は興味深い。というのも、私は、駅はその場所のファーストインプレッションであり、その地域の雰囲気を掴む大切な場所だと考えている。駅の中で目にしたモチーフ、上田であれば真田という大きな売り出しポントが駅の中にも、街の中にも全面的に出されているのが非常に面白く、街を歩くのが楽しかった。2021-12-20
28鍛冶職人の世界鍛冶職人の世界鍛冶職人を集めて住まわせた上田の鍛冶町では、1706年の記録によると、32軒の鍛冶屋があった。それが、明治末には半数以下に減少してきた。 一人前の鍛冶職人になるためには、親方のところに弟子入りして、一定の年季をかけて修行した。これを徒弟制度といいい、親方は弟子に厳しく技を仕込んだ。 鍛冶町の鍛冶屋では、桑こき、稲こきや馬耕用の犂先なども生産したが、回して開ける柏錠もよく作られた。2021-12-15
29機械縫裁機械縫裁この写真は、海野町商店街にあるすや呉服店が所蔵する一枚である。 この写真の写る人々の服装から、このお店は裕福だったことが分かる。2021-12-13
30醋屋(すや)呉服店醋屋(すや)呉服店この写真は、海野町商店街にあるすや呉服店が所蔵する一枚である。 日本の伝統的な着物を身にまとい、まっすぐ立っている男性は、醋屋呉服店の主人の御遺族である。 瓦屋根の建物の入り口の上に「二五三番」と書かれている。これは住所を表示している。その上の提灯に書かれてる文字は濁って読めない。2021-07-24
31上田染谷丘高等学校上田染谷丘高等学校この写真は、海野町商店街にあるすや呉服店が所蔵する一枚である。 明治34年「小県郡立上田高等女学校」として設立された。写真の建物が建てられたのは、現在の上田城跡公園の東側、清明小学校がある場所である。 明治42年には女子中等教育の充実を図るため、郡立から県立へ移管され、「長野県立上田高等女学校」と変更された。 大正 5年に校舎は、上田城近くの丸堀校舎から、上田町鍛冶町裏の新校舎へ移転となった。 現在の「上田染谷丘高等学校」になったのは、昭和 23年4月である。2021-07-24
32奉祝提灯行列奉祝提灯行列この写真は、海野町商店街にあるすや呉服店が所蔵している一枚である。 「奉祝」と書かれた旗や提灯を掲げていることから、祝い事だということが分かる。また、真ん中に書かれている文字をよく見ると「銀婚式祀念」と書かれていることから、誰かの銀婚式を祝っているということも分かる。昔の祝い事には着物や浴衣を着ている人もいれば、スーツを着ている人もいて、今とあまり変わらない。2021-07-24
33旧上田市役所旧上田市役所この写真は海野町商店街にあるすや呉服店が所蔵している一枚である。 写真には、旧上田市役所の全体が鮮明に映っている。建物の設計がシンメトリになっているので、バランスの良い安定した建物であると感じる。 この建物は、現在の上田商工会議所の場所に建っていた。2021-07-24
34醋屋本チラシ醋屋本チラシこの写真は、海野町商店街にあるすや呉服店が所蔵しているチラシである。 明治23年11月信州上田海野町のチラシで、醋屋呉服店の広告が掲載されているほか、干支や節分・お彼岸などの行事が書かれている。 現在とは全く異なったチラシに価値を感じる。2021-07-04
35醋屋藤金物店醋屋藤金物店 海野町商店街にある醋屋呉服店が所蔵している写真の一枚である。  この写真の店舗は、現在の海野町商店街にはない醋屋藤金物店である。昔は醋屋という名前の店舗はいくつかあった。しかし、今は醋屋(すや)呉服店のみとなっている。  一般的に金物店では、「鍋・釜」類、「利器・工具」、「建築金物」「家具金物」などの種類に分類されるが、どのようなものが販売されていたのか興味がある。2021-06-11
36別所線開通別所線開通令和3年3月28日上田~城下間が開通し別所線全線開通しました。上田~城下間は台風19号により橋が落ちていた。そのため約1年半の間代行バスによって運行していた。2021-05-26
37上田市新庁舎上田市新庁舎令和2年12月の現場状況 →連結棟の建設が急ピッチで進められています。 また、3月の竣工に向け内装工事も終盤を迎えています。 令和元年9月から工事を進めていました新本庁舎の建設工事が完了しました。2021-05-16
38上田市のネット広報上田市のネット広報上田市の取り組みにハッシュタグを利用した 広報などを行っていた。2021-05-06
39上田市ホームページ上田市ホームページ上田市シティプロモーションのホームページ。 パンフレットなども様々な年齢層に向けて作られている と感じた。2021-05-06
40真田城下町看板真田城下町看板上田駅前の商店街に置かれていた看板。 真田ゆかりの地を巡れるようになっている。2021-05-06
41上田駅に真田の広告上田駅に真田の広告上田駅内に何枚か張られていた広告。 駅内に数枚張られていて真田を売りにしているという ことがとても伝わった。2021-05-06
42上田市パンフレット上田市パンフレット観光案内所に伺って上田市のパンフレットをいただいた。 真田関連のものに偏っているものが多くあった。2021-05-06
43保野公民館保野公民館地域にある公民館であり、通常であればその地域に生む住民の方々に向けたイベントや子供たちを集めてイベントを行っている。コロナ禍前は人が集まっており、じっくり調べてみたいと思い選んだ。このような公民館を見るとどこか懐かしい気持ちになった。掲示板もあり、更新されていればその地域特有の情報が入ってくると思った。2021-05-03
44神畑公園神畑公園寺下駅から歩いてすぐの場所にある公園。近くを通ると、かなり人が多くいて地域の方々に人気のある公園なのではないかと思い選んだ。子供が遊べる遊具やキャッチボールや走り回ることができるグラウンドがあり、親子連れの方々や子供たちが集まっている公園である。決して大きくはない公園ではあるが、どこか懐かしい気持ちになると思った。2021-05-03
45海野町史-海野町の誕生海野町史-海野町の誕生海野町は、真田安房守昌幸が先祖の地である海野郷から住人を移住させて、街並みをつくらせたのが起源である。また、三年遅れて、原の郷から招致したのが原町である。この海野町と原町を上田城下の元町という。海野町と原町は、真田・仙台・松平時代から明治・大正・昭和まで上田の中心枢要な位置にあり、共に商業経済の発展に貢献している。 海野町へ移住して来た人々は、海野郷大平寺村の住人で、氏神様の深海神社の祠(ほこら)だけを残し、全村挙って五十八家族が移住した。その人々は、思い思いに農村風の家を作り、大方南側に向き、従来に出入り口のない家や瓦をのせず床もない素朴な家に住んでいたという歴史が残っている。(海野町史第1章より)2021-01-31
46山本宣治 高倉・テル 齋藤房雄 記念碑山本宣治 高倉・テル 齋藤房雄 記念碑別所温泉の交番から安楽寺へ向かう途中右手上に、建てられている。 説明板のテキスト 山本宣治 高倉・テル 記念碑について 齋藤 房雄 昭和初期の大恐慌の中、上小(上田・小県)農民組合連合会が結成 され、小作料値下げ、土地取り上げ反対などの運動に立ち上がった。 これよりまえ、上田自由大学の講師として別所に在住していたタカ クラ・テル(高知県出身、文学者、日本共産党衆・参議院議員)は 農民運動・民主主義と社会進歩の運動に指導的役割を果たした。 一九二九年三月一日、上小農民組合連合会は第二回総会にタカクラ の義兄弟にあたる山本宣治(京都府出身、生物学者、労農党代議士 『山宣』)を招く。 この記念講演は「千名を超える聴衆に深い感動を与えた。 この講演から四日後の三月五日、山宣は治安維持法改悪承認の議2020-12-30
47私の地域探求私の地域探求私は上田市の商店街のルーツについて調べようと考えています。 商店街の歴史やどのようにしてできたのか。また現在の商店街と比べてどのような所が違うのかなどを資料と実際の商店街を照らし合わせたいと考えています。2020-12-18
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