| 写真 | タイトル | 説明 | 登録日 |
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1 | | 北向観音堂 | 平安時代初期に比叡山延暦寺座主慈覚大師円仁が開いた
霊場。北向きの本堂(本所は千手観音菩離像)は全国でも珍しく、南向きの善光寺本堂と相対しているとされる。「極楽往生」を願う善光寺と「両参り」し、ここで「現世利益」を祈ることで、より御利益があるとされる。かつて参道脇に長楽寺(常楽寺、交楽寺とともに天台宗の「別所三楽寺」のひとつ)があったが、現在は常楽寺を本坊とする。昭和36(1961)年に善光寺本堂と同じく、「撞木造り」の建物として増改築された。なお、手水舎には境内から湧出している温泉が使われている。
北向観音は『「極楽往生」を願う善光寺と「両参り」』というのをキーワードに、観光業に活かせると感じた。北向観音は、実際に自分で現地に行かないと感じないようなパワーがあると私は考えている。よって | 2024-02-13 |
2 | | 沓掛酒造 蔵見学 PART2 | 今回は発酵を行う場所の投稿だ!!ここでは糖化(でんぷんをブドウ糖に)とアルコール発酵(ブドウ糖をアルコールに)の2つの化学反応が起こっている。温度管理が大切で、タンクに巻き付けた布団のようなものに水を入れて調節しているそうだ。 | 2024-02-13 |
3 | | 水の移動経路 | 川やため池の水は、直接そこに雨が降ったものだけでなく、周囲の高地から流れ込んできたものも多い。高い山があれば、雪解け水も入ってくる。このため、降水量が少ない地域であっても、上流の降水量が多かったり、山脈に面していたりすれば、十分な水を確保できる。
水底は田より低いため、水位が低いときは用水として使いにくい。洪水のリスクが高まるため、底を上げればよいというものでもない。水位が低い場合は、ポンプを使うようだ。
しかし、近代的なポンプは、ため池が造られた江戸時代にはなかった。現在のため池を見ると、当時は底近くに水路を引いたり、水位が一定以上のときのみ水を水路に送っていたと考えられる。現在も、水位が高いときはポンプとは別に排水するようだ。 | 2024-02-11 |
4 | | ため池の自然における役割 | 天然の湖や池が少なく、川も浅い塩田地域では、ため池が水鳥のすみかとなっている。
また、水草が多く茂っているため池もある。その中には水辺にすむ昆虫などが生息していると考えられる。草が多いため池は十分に管理されていない可能性があり、自然に還りつつあるとの見方もできる。
水が少ない地域では、ため池は生き物にとっても貴重な水場である。しかし、ため池はあくまでも人工的な環境である。石やコンクリート、金属で作られた箇所が多く存在する。
ため池を人が利用し続けるなら、人工的な部分を残してもよいだろう。しかし、野生生物のためだけに保存するのであれば、パイプなどの人工物は撤去するべきだと考える。ため池を使い続けるのかどうか、はっきりと決める必要がある。 | 2024-02-10 |
5 | | 6代松平忠優(忠固)はどんな人物か | 下の画像:ミッチーの画像を引用
上田市中央にある願行寺の松平氏の墓所を訪れた。写真に見えるのは、四角い石碑を外して、右手側から、上田藩6代藩主の松平忠優(ただます)またの名を忠固(ただかた)、4代藩主の松平忠済、そして忠済の嫡男で20歳くらいで若くして亡くなった忠英(ただつね)の墓である。この記事では、松平忠固の功績を取り上げたい。
忠固を一言で表すとすれば、幕府の体制を、開国つまり外国と貿易を始めるよう向かわせた人物である(オランダ、中国、朝鮮は入らない)。なぜか。忠固は二度、幕府の中枢つまり幕閣で老中という役職を務めている。そして、忠固の一度目の就任期間時には、幕府は日米和親条約を締結し、二度目の就任期間時には、幕府は日米修好通商条約を締結している。忠固は開国派の立場を | 2024-02-08 |
6 | | 北向観音 | 北向観音堂は、平安時代初期の天長2年(825年)、比叡山延暦寺座主の慈覚大師円仁により開創された霊場。
北向観音は北向に建立され 千手観音を御本尊として現世利益を願いう。また善光寺様は南向きに建立され阿弥陀様を御本尊として未来往生を願う。
北向観音と善光寺両方をお詣りしたほうが縁起が良い。
北向観音の手水は温泉であるところが、別所温泉らしくて観光地として魅力を感じた。善光寺と本堂の造りが類似しているところも興味深い。 | 2024-01-25 |
7 | | 宮原上池 | 長野大学の近くにあるため池。規模は小さいが、水量は充実しているように見える。
近くにある迎原上池、迎原下池と比べれば状態が良いようだ。 | 2023-11-14 |
8 | | 農林水産省 全国ため池百選 塩田平のため池群 | ここに写真を挙げた瓢箪池、男池、女池などは、「塩田平のため池群」という1項目として農林水産省の全国ため池百選に選定されている。No.という表記があるためややこしいが、この番号は「塩田平のため池群」の内部で上田市が独自につけたものだ。「塩田平のため池群」は、全国ため池百選の中ではNo,30が振られている。
塩田平のため池の多くは、17、18世紀の江戸時代に築造されている。しかし、江戸時代以前からため池は存在したようである。それらは残っていないようだ。
写真のようにため池には看板がつけられているが、倒れたり隠れたりしてしまっているものもある。状態の悪い看板は、保全されないため池が江戸時代以前のため池のように廃れていくことを示唆している。
参考 農林水産省のため池百選についてのパンフレッ | 2023-11-13 |
9 | | 長池 | 倉升地区にあるため池。塩田平からは外れた場所であり、別所線沿線では最も上田駅に近いため池といえる。規模は塩田平のため池と比べると小さいが、実際に訪れて見ると小さくは感じない。
周囲に創造館、倉升公民館、長池公園、上田南幼稚園といった施設があることから、地元の子どもには馴染み深い。
長池のすぐ近くには、倉升マンホールポンプ場がある。長池の水の管理は、このポンプ場で行われているのだろう。
ため池は取水するための水源であるはずだが、長池に注ぐ水路がある。水路は山の方からつながっていることから、長池に直接降った雨だけでなく、周囲の山間に降った雨水も貯めるものと考えられる。 | 2023-11-13 |
10 | | 女池 | 中塩田駅の近くにあるため池。
水量もそれなりにあるが、背の高い草が大量に茂っていることが特徴。使われていないのだろうか。草を生やすことによる利点があるのかもしれないが、管理が十分でないようにも見える。 | 2023-11-10 |
11 | | 男池 | 中塩田駅の近くにあるため池。
同日に訪れた中野前池とは異なり、干上がっておらず十分な水量があった。ただ、水量があるというのは、用水に使われていないという可能性がある。
町中にあるため池としては非常に大きい。 | 2023-11-10 |
12 | | 瓢箪池(塩田運動公園) | 長野大学の隣の、塩田運動公園(上田自然運動公園)内にある。公園として整備されているため、田に囲まれたものと比べて行きやすい。
用水路はつながっているようだが、ため池として現役で使用されているかは不明。 | 2023-11-07 |
13 | | 長野大学付近のため池(夫婦池) | 長野大学の近くにある、その付近では比較的大型のため池。降水量の少ない塩田平では、このようなため池が多く存在する。
あふれないようにするためか、高い土手で囲まれている。土手の下からは用水路が出ている。ここから田へ取水するのだろう。
撮影日の数週間前から雨が降っていなかったが、水量は多いように見えた。撮影時点ではすでに稲刈りが終えられていたため、水の消費量が少ない時期と考えられる。 | 2023-11-07 |
14 | | 2代松平忠愛と尼ヶ淵 | 上田城南側に切り立つ崖の下段には、横に長く敷き詰められた石垣がある。この石垣は、松平忠愛(ただざね)が築造したものだ。享保17年(1732)に大雨で増水した千曲川がこの崖面を大きく削ったため、護岸工事を行ったそうだ。(戌の満水)
上田城南側の芝生広場を訪れた際に感じてほしいのは、江戸時代にはその地に広場はなく、尼が淵という千曲川の分流が流れていたということだ。そのため、崖面を見ることができている我々は貴重な体験をしている。そして、下段の石垣は強固に見えるが、敵が登ってくるのをを防ぐために築かれたのではないことも知ってほしい。
二度の上田合戦や大坂の陣で名を轟かせた真田氏の居城であったからこそ、忠愛は、南櫓、西櫓を崩れささせたくなかったのだろうと私は思った。
| 2023-10-23 |
15 | | 須波三穂神社東の宮(スワミホジンジャヒガシノミヤ) | こちらの神社は、上田バイパスを「上田市緑ヶ丘」の信号で南に降りた先の右側に存在する。
須波三穂神社西の宮とは異なり、「神社人」という神社に関わることが記されているサイトに情報が記載されておらず(2023年5月現在)、創建された年は不明である。また、定礎が記されているものも埋め込まれていないため、改装された年なども不明だ。しかし、手水鉢に記されている名前が「絶主 柳澤○右衛門」(○の部分は読むことが出来ませんでした)と西の宮と同一であるため、1770年代には存在したのではないかと推測される。また常夜灯には寛政十年(1798年)と記されていた。
西の宮には存在した石のほこらは東の宮にはなく、代わりに大きな石が置かれていた。 | 2023-05-10 |
16 | | 須波三穂神社西の宮(スワミホジンジャニシノミヤ) | こちらの神社は上田市の住宅街と上田バイパスの間に存在している。神社についてまとめられている「神社人」というサイトによると創建は天暦6年(952年)とされていた。その後、何度か改装されているためか、神社の建物には定礎昭和59年(1984年)と埋め込まれており、手水鉢にはおそらく安永2年(1773年)と記されていた。
神社には、賽銭箱と見受けられる物は見当たらなかったが、神社の西側には小さな石で作られたほこらがあり、一円玉がお供えされていた。おそらく、賽銭箱の代わりに石のほこらへお供えするルールがあるのではないかと考えられる。
参考文献
国際教養振興協会ICPA.「須波三穂神社西の宮」.
神社人-日本を楽しむポータル&コミュニティ.http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=9727(2023/05/10) | 2023-05-10 |
17 | | 青空と1羽の飛ぶ鳥 | 2023年4月27日14時頃の上田市の空です。
青色~水色のきれいなグラデーションが出来ています。
風に乗って飛ぶ鳥にのどかさを感じます。 | 2023-05-09 |
18 | | 番外編:湯の橋 | 大正橋からさらに堤防を通って上流へ...と進むことはせず、少し回り道して戸倉の温泉街に。
以前の上田での調査の際、入り組んだ街並みには案外面白い発見があると学んだため、いざ温泉街へ。
そこで見つけたのが、この「湯の橋」。温泉に相応しい名前ですね。橋と言って良いのかと首を傾げるくらいにはこぢんまりとした橋でしたが、下を覗くと蔦まみれの建物に草の茂った用水路...とレトロさが味わえてなんとも気に入ってしまいました。
風景をより魅力的にする、というのも橋の利点なのかもしれません。 | 2023-05-07 |
19 | | 平和橋 | 千曲市でも有数の長さを誇るのが、この平和橋。
その長さは約580mで、川幅の広いこの一帯を繋ぐ必要不可欠な橋です。
平和橋の「平和」というネーミングは、初めてここに本格的な橋が架けられた1951年が、サンフランシスコ平和条約と同年であったことから、それにちなんで付けられたようです。
水色のボディが青空に映えて、景観と馴染んでいるのも良いと思いました。 | 2023-05-07 |
20 | | 御言橋 | 千曲橋を離れ、堤防を通って上流を目指します。
すると見つけたのがこの「御言橋」。千曲川の分流に架かる橋のようで、下を覗くと砂利と礫を転がす小気味良い水流を眺めることができます。
ここには二つ似たような橋があったのですが、両方が同じ御言橋という名前を冠していました。双子の橋、という印象がみられます。 | 2023-05-07 |
21 | | 千曲川水管橋 | 千曲橋と並んで目を引くのが、この「千曲川水管橋」です。人を運ぶ橋とは違い、水を運ぶのがこの橋の役割です。
真っ白で細いそのフォルムはまるで脊椎のようで、どこか先進的。こちらも千曲橋と同じくインパクトある景観を創り出しています。 | 2023-05-07 |
22 | | まとめ |
https://jpsearch.go.jp/item/dignl-848938
明治時代と現代の美容について比較してわかったことは、いまも昔も変わらず日本人女性の美意識は高いことである。
年相応で、素材を活かす化粧が愛されるのは昔から変わっておらず、日本人女性の繊細な美意識からくるものであることがわかった。
意外だった点は、化粧水、パーソナルカラー、色の組み合わせの概念が明治時代からあった点である。
この分析を通して、一人の日本人女性として「日本人の美しさ」を大切にしていきたいと思った。 | 2023-02-08 |
23 | | 明治時代のスキンケア、パーソナルカラー | 日傘は廃れ、西洋風の小型な蝙蝠傘が流行っていた。雨の時は不便であるが、「流行のため仕方がない」と言われているのが面白い。
流行に振り回される当時の人の苦労が垣間見えた。
青みがかった顔色の人は紅色、茶色の傘を選ぶと顔色とうまく調和する。青、紫、緑は顔が尚更青ざめてみえ、黄色の顔色が悪く見える。
赤みがかった顔色の人は、青、紫、緑色の傘を選ぶと顔色とうまく調和する。紅、茶色は顔が尚更赤く見える。
現代の「ブルーベース」「イエローベース」は最近生まれた概念だと思っていたが、明治時代から存在していた。
明治時代の人はグリセリンを水に溶いたものを顔に塗り保湿していた。現代の化粧水の主な成分にグリセリンは含まれている。また、肌が白いのが美しいとされている価値観は明治時代から変わっていな | 2023-02-08 |
24 | | 戸隠山九頭龍大権現〔信州の浮世絵〕 | 江戸時代の浮世絵師、二代歌川広重による錦絵の揃物「諸国名所百景」の一つ。
初代広重の門人で、師の亡き後その画風を継承した二代広重が、安政6年(1859)から文久元年(1861)にかけて制作した。版元は、初代広重晩年の作「名所江戸百景」を出版した魚屋栄吉。徳川家の手厚い保護を受け、戸隠山顕光寺として信仰を集めた神仏混合の時代を描く。九頭龍大権現(現在の九頭龍社)の右に奥院(奥社)、江戸末期の狩野派絵師河鍋暁斎作の「龍の天井絵」がある中院(中社)、右下の石階段の先が宝光院(宝光社)とみられる。参道には杉木立の合間に院坊が立ち並び、参拝者や商人らが行き交う門前町として栄えた当時の様子を描いている。九頭龍社は古くから地主神として祀られてきた。
水の神、雨乞いの神、虫歯の神、縁結びの神として信仰を | 2023-02-01 |
25 | | 恩田緑蔭(おくだりょくいん) | 文政2年松代生まれ。本名はゆり。桜雲亭緑蔭、桂月由里などとも称した。松代藩絵師の山田島寅や青木雪卿に師事、葛飾北斎や与謝蕪村にも私淑して作品を模写している。花鳥図や松代の風景、藩にゆかりのある人々の肖像を描いた。平成17年、長野市の水野美術館で「恩田緑蔭展~知られざる信州の元祖女流画家~」が開催された。明治7年、55歳で死去した。
※図は「写生集壱」
https://yuagariart.com/uag/nagano09/ | 2023-02-01 |
26 | | 笹沢檪亭 (ささざわれきてい) | 檪亭は、安政2年(1855)、小県郡坂井村(現上田市塩川)に生まれ、本名を清十といい、幼い頃より画才に富み、花鳥画を描いては村人を感嘆させたといいます。早くに父を亡くし苦労して育ちますが、母の理解もあって、明治6年(1873)、18歳の折に島田桃渓とうけいに師事して絵の指導を受けたのを手始めに、明治18年(1885)、29歳の時には、水戸の木下華圃かほに師事。この頃から専業画家としての道を歩むことを真剣に考え始めたものと思われます。
明治19年(1866)、31歳の折には終生の師となる児玉果亭に入門を許され、果亭より檪亭の雅号を受けました。この檪亭が入門した明治19年は、第2回内国絵画共進会に出品した果亭の即品が天覧に供され、出品2点のうち1点が宮内省買上げ、1点が銀杯(こ | 2023-02-01 |
27 | | 林倭衛 (はやししずえ) | 父は、倭衛が小学校在学中に製糸工場経営に失敗し、明治40年の春、倭衛と弟を実家の小林家にに預けたまま夜逃げ同様に東京へと出てしまいました。実家は上田駅に近い北天神町通りで蚕種用の和紙などを商っていましたが、倭衛は友人たちから離れ孤独にさいなまれましたが、同じ頃に同じ北天神町に移り住んだ馬場衛まさるが、生涯の友となりました。約1年の後にようやく父母の下に引き取られはしたものの、何かにつけて旧士族出身にこだわって失敗を繰り返す父に対して、倭衛は激しく不信を覚え続け、やがて少年の孤独感は次第に不屈な自立心へと成長していくのでした。
明治43年には印刷会社の給仕となり月給を得るようになると、近くの水彩画研究所の夜間部に入り、明るく旺盛な好奇心のままに、生涯にわたる美術関係の友人を | 2023-02-01 |
28 | | お菓子の歴史(洋菓子輸入時代) | 明治頃に、文明開化が始まり、外国の文化が日本に取り入れられ生活が変化していったが、それは菓子も含まれる。明治10年に洋菓子の輸入が5千円であったが、20年には1万円、30年には2万5千円で、38年には一躍して23万5千円とまで上昇し、短期間で需要がかなり増えた。洋菓子製法技術や洋風食材が導入され、相手先もオランダ、ポルトガルから、イギリス、フランス、アメリカに変化した。
ビスケット、キャンディ、チョコレート、キャラメル、クッキーなどが輸入され、日本での消費が増えると国内生産の方が儲かると考える人が出てきて、製造が始まった。日本で最初に作られた洋菓子は明治8年のビスケットで、東京京橋の風月堂が始めた。明治中期になると森永太一郎が森永製菓会社を作り、ビスケットやドロップス、キャラメルなどの洋菓子生産 | 2023-01-29 |
29 | | 戦前長野の農業形態② | まず始めに触れたいのが稲作である。資料に記載されているように川による豊富な水源、肥沃な土、夏期に暖かく、基本的に冷涼な気候であることから稲作が行われていたことがわかる。稲作に適する条件が現代と同じであり、当時から盛んに行われていたことがわかる。左のデータには作付量、反別、収穫高などが記載されている。
「信濃産業誌 完」
https://api.ro-da.jp/v1/shinshu-dcommons/library/02BK0102152899/images/75b5398006c44bf0b725eedac59bc2f7.jp2/620,642,1725,3035/308,542/0/default.jpg | 2023-01-28 |
30 | | お菓子の歴史(京菓子・上菓子時代) | 京菓子とは、一般的に京都で作られたお菓子のことをいい、江戸が中心だった江戸時代において、都である京の菓子を地方のものと区別して呼び始めた。
また、京都では宮中や公家、茶寺や茶家に献上する菓子のことを上菓子と呼んでいるが、江戸では駄菓子(雑菓子)の対抗する意味として使われた。当時の菓子司が作るものは、蒸菓子、干菓子、駄菓子(雑菓子)であり、上菓子司の作る雑菓子には、白砂糖が用いられ、品質こそ上菓子であった。安永・天明期になると、和菓子の技巧は江戸独特の個性も加わり、かなり発展している。
守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-28) | 2023-01-28 |
31 | | お菓子の歴史(南蛮菓子時代) | 室町時代末期、ポルトガル人やスペイン人によって南蛮菓子が渡来した。南蛮菓子は、カステイラ(カステラ)、ボーロ、パン、金平糖、カルメラ、ビスカウト(ビスケット)などがあり、これらの菓子が後世の菓子に非常に大きい影響を与えています。
南蛮菓子は、砂糖の大量輸入と、砂糖菓子の製法を伝えて、無糖時代と有糖時代の間に明確な一線を引いただろう。
守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27) | 2023-01-27 |
32 | | お菓子の歴史(点心時代) | 菓子は一日二回の食事の間に食べる間食用として長く続いていたが、鎌倉時代になると都会では三食制となったため、菓子は嗜好品になり、一般庶民からは縁のないものになった。
そのころ、茶が日本に渡来して、喫茶が流行した。その際に使用する菓子を「点心」と呼ぶ。もともと、点心とは定食と定食との間の小食であり、間食やおやつを意味する。点心には主に羹(あつもの)という汁と、まんじゅう類があり、それぞれ多くの種類がある。これらが和菓子の発展に繋がっていった。
守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27) | 2023-01-27 |
33 | | お土産の定番! 信濃路うさぎやのくるみそば | 引用元:https://www.usagiya-ueda.com/
上田お土産の代表格ともいえる、蕎麦粉の皮で餡を包んだ、素朴で美味なお菓子「くるみそば」。
サクッ ホロッとした風味漂う皮部分に上に乗ったたっぷりのくるみ、中に詰められたネットリ食感の飴・餡、上田市民含め多くの人たちに愛され続けています。
この製品のデザインを見ていったとき一に目につくのは、パッケージの背景として描かれた水彩画調の植物の数々でしょう。原料に自然豊かな地だからこそのそばやくるみを使用しているこの製品らしさが表れているように思います。またタイポグラフィーも習字調で歴史ある製品なのだなということを強く感じさせてくれます。 | 2023-01-27 |
34 | | 長野伝統のお菓子 みすゞ飴 | 引用元:https://misuzuame.com/sp/ame/
みすゞ飴は、国産果実を寒天・グラニュー糖・水飴で固めた、長野県の伝統的な乾燥ゼリー菓子です。
その歴史は長く、100年も前から信州上田のちでも愛され続けています。
上田土産の代表格のような存在であるこの製品のデザインは、製品同様オレンジを基調とした色彩豊かなデザインで、また習字調のような少々独特な字体で印刷された商品名は、伝統を重んじ、歴史ある信州地域の名産らしさをある意味表しているようでなんともしっくりくるように感じます。パッケージデザインには製品に使用されている果実も印刷されており、一目見て商品の要素が伝わることも良さの一つでしょう。 | 2023-01-27 |
35 | | お菓子の歴史(上古時代~唐菓子時代) | 日本のお菓子の歴史はとても古く、約2000年前の上古時代といわれている。菓子の名称については色々な説があるが、初めは「古能美(このみ、木の実)」、「久多毛能(くたもの、果物)」であり、現在でいう菓子とは違っている。
現在の菓子は唐菓子時代(奈良朝平安朝初期)に輸入された唐菓子が始まりとされている。
守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27) | 2023-01-27 |
36 | | 岳の幟 | 塩田平の西辺に位置する別所温泉地区には、「岳の幟」と呼ぶ雨乞〔あまご〕いの祭りが伝わっています。この塩田地方は昔から水不足で大変悩まされてきた所で、灌漑〔かんがい〕用の溜〔ため〕池も多く造られ、雨乞い行事もいろいろ行われてきました。
ー中略ー
祭日は例年七月十五日(近年その日に近い日曜に変更)として、別所の上手〔わで〕・院内〔いんない〕・大湯〔おおゆ〕それに昭和四十九年大湯から独立した分去の四地区で、輪番〔りんばん〕に幟の役に当ります。夜明前に、上部に笹のついた竹竿と巻いた布を担いで夫神岳に登り、日の出と共に九頭竜神の石祠に布と神酒を供え、郷中の安全と五穀豊饒〔ごこくほうじょう〕を祈ります。
ー中略ー
支度を整えて日影公民館に待機をしていた三頭獅子とささら踊りの一行がそれに加わり | 2023-01-25 |
37 | | 別所温泉 | 別所温泉JR上田駅から電車で25分、バス30分、海抜650メートル静かな高原の湯の里。温泉は54度C単純硫化水素泉で無色透明。宿は20軒、平安貴族の別荘があったところから別所という。
http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=2691013より引用 | 2023-01-25 |
38 | | 新国立劇場とオペラ文化の進化 | ★新国立劇場
新国立劇場が開館して今年2022年で25周年になります。昨日、久しぶりに新国立劇場を訪れました。グルックの『オルフェオとエウリディーチェ』が演目。なかなかによかった。それと共に改めて感じたことは日本のオペラ文化の著しい進化です。上演の高い質が保証されているかのように、こうした上演が当たり前に行われるようになっていることにここ数十年の進化があります。「ローマは一日にしにしてならず」のたとえの通り、我が国におけるオペラが長年の人々の努力・英知によって積み上げられ、磨き上げられてきたものであることを思います。
私がオペラを劇場でも聞き始めたのは1979年から。大学生の時分です。日本人による二期会の上演に接し、がんばってやっているなあ、と思ったのがその頃 | 2022-05-22 |
39 | | 川 | リフレッシュパークあおきにて。
この川で渓流釣りができる。
水が綺麗で、山の中での体験がよりリアルに感じられる。 | 2022-05-12 |
40 | | 辰巳公園 | 灌漑用のため池として使われていた辰巳池が象徴的な辰巳公園です。池と隣接している水車小屋は、周りの木々や辰巳池とのコントラストによって、自然あふれる落ち着いた佇まいとなっています。辰巳公園には、この地で生まれた詩人「茂呂何丸(もろなにまる)」の句碑があり、地元で愛されていた詩人であることが伺えました。 | 2022-05-10 |
41 | | 小諸市 花川親水公園 | 小諸市の旧北国街道付近に流れる川沿いにある公園。桜の木が多く、春は壮観。
新町という地域の三大桜名所のひとつであり、地域住民のコミュニティ活動の場にもなっている。
花川という名前は、名代(伝)が桜という小諸の民話に由来する。朝日がさせばその影が善光寺まで、夕日がさせば碓氷峠までとどき、その花びらが田んぼにたまって苗代の準備ができないほどの桜の大木が花川付近にあった、そこから名付けられたと伝わっている。 | 2022-05-10 |
42 | | 上田市塩田平 舌喰池 | 上田市塩田平に存在するため池群のひとつである。西暦700年頃の奈良時代に築造されたと伝わる。雨乞い行事の「百八手」の舞台でもある。
江戸時代に2度の改修工事が行われ、現代に至る。昭和には養鯉産業で栄える。
平成では植生調査の実施から多様な植物が確認され、「舌喰池 憩いの広場」という緑地公園も造成された。東屋もあり、自然環境も豊かであることから、安らげる場所である。
舌喰池は大池とも呼ばれる。舌喰池という名称は、造築の際に水が溜まらず、人柱に選ばれた娘が悲しみから自らの舌を喰い切って池に身を投げた民話に由来する。 | 2022-05-09 |
43 | | イナゴを食べる | 平成 25 年 12 月に、「和食;日本人の伝統的な食文化」がユネスコの無形文化遺産に登録されました。
長野県の伝統的な食文化であるイナゴについてもおいしく食べて楽しく学ぼう!
〈農林水産省も推奨!!イナゴの佃煮の作り方〉
1 いなごは熱湯をかけ、足と羽を取り、よく水洗いし、水切りをする。
2 熱したフライパンにいなごを入れ、弱火で3~5分空煎りする。
3 鍋に砂糖・醤油・酒を入れて煮立て、いなごを入れ、強火で煎り煮する。
4 汁気がなくなる直前に、みりんを入れ照りをだす。
5 汁気がなくなったら火を止めて塩をからめる。(カラっとする)
6 ※いなごの足はすり鉢ですりつぶし味噌、砂糖などお好みの味でいなご味噌を作る。
7 ※いなごの下処理の別法:いなごをとった布袋のまま、熱湯でゆでた後、 | 2022-02-15 |
44 | | じまん焼きの歴史と比較 | 引用 「富士アイス下諏訪店」で自慢焼き・上田店と食べ比べ
https://simple-yuumin.com/wp-content/uploads/2018/04/IMG_3920-2-e1522716309126.jpg
上田のソウルフードの一つであるじまん焼きを作っているのが富士アイスという店だ。富士アイスは上田以外に長野県にいくつかある。岡谷店と下諏訪店だ。富士アイス上田店は昭和10年にオープンに対して岡谷店は昭和48年創業、そして下諏訪店は昭和58年に始まっており、割と最近になってから開業した。下諏訪店はあんこの水分が上田店より少ないなど、店によって皮とあんこの固さに違いがあり、それがまた個性となっている。
参考文献
「富士アイス下諏訪店」で自慢焼き・上田店と食べ比べ
https://simple-yuumin.com/fujiaisu-3044 | 2022-02-14 |
45 | | 日米和親条約と日米修好通商条約 | 出典:Wikipedia 下関戦争https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
最後に、忠固が関わった二つの条約について詳しく見ていきたい。
日米和親条約の調印前に忠固(当時は忠優)は徳川斉昭との論争を制し、城中評議の場で五年後の交易承認という結論が出ていた。評議の翌日、斉昭は抗議の意思から参与辞職の意向を、自らの参与就任を推薦した老中首座の阿部正弘に伝えた。これを受けて阿部は、参与辞職を思いとどまらせるために会議の結論を覆し、交易の承認をしないという決定をした。そして日米和親条約は交渉術で勝った日本がアメリカから譲歩を引き出し、漂流民の人道的な扱いや食料・薪水・石炭の供与、長崎・下田・函館の開港などの内容に留まった。日米和親条約締結後、斉昭はアメリカの条約に基づいた「下田三箇条」と呼 | 2022-02-14 |
46 | | まとめ | ため池のつくられた歴史や、民話などを調べることで、ため池自体ができた経緯は降水量の関係で同じだったことがわかった。しかし、そのため池一つ一つには違ったエピソードが存在することがわかりおもしろかった。
現実離れした民話が多く残っており、特に、舌喰池に残っている伝説は印象的で、このように残酷な話が残っていることが衝撃だった。
面白い話を知ることができたし、知らなかった歴史を学ぶことはできたが、ネット上では思うように深掘りをして調べことができなかったように感じる。そのため、受け売りとなる二次情報ではなく自ら調べる一次情報の重要さを実感した。
〈参照した資料〉
Googleマップ
信州上田 塩田の里 http://www.shiodanosato.jp/
長野県上田市塩田地域におけるため池群の維持管理と存続https://www.geoenv.tsukuba | 2022-02-12 |
47 | | 塩野池(しおのいけ) | 塩野池は、西前山境東前山の小字「市来」にある。池のある市来が、西前山の小字「塩野間」「塩野」に隣接していることや、独鈷山から流れ出す「塩野川」などの塩野と関係して「塩野池」と名付けられたと考えられる。
塩田平の多くのため池は、山麓または平地にあるが、塩野池は標高約560mとやや高く、山の傾斜に造られている。また、塩野池は、雨乞いの山・独鈷山の水だけを純粋に集めて成り立っているため池である。
〈参考文献〉
信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php | 2022-02-12 |
48 | | 舌喰池(したくいけ) | 舌喰池は塩田の里交流館(とっこ館)の近くに位置するため池であり、手塚自治会によって管理されている。貯水量は13万㎥もある。
耐震のための改修工事や、田園空間整備事業による水辺景観の整備が行われている。また、百八手という千駄焚きを行って雨乞いをする祭りや、舌喰池付近の芝生でコンサートの開催を行うなど、文化遺産やレクリエーションの取り組みを行っている。
舌喰池には悲しい伝説が伝えられているので紹介したいと思う。
昔この池がつくられた頃、土手から水が漏れて十分に水をためることができなかった。そこで池の改修をするに当たり、土手に「人柱」を入れなければ水がたまらないという話が出回った。悩んだ結果くじ引きで決めることになり、美しい娘が人柱に選ばれた。
娘は日夜悲しみに明け暮れたが、人柱に | 2022-02-09 |
49 | | 甲田池(こうだいけ) | 甲田池は塩田平の中でも大きなため池で、水源は一級河川産川からの導水に依存する典型的な中継的ため池である。一般に皿池と呼ばれ、景観が良い。水抜き用の底樋は岸から5m程沖にあるため、橋が渡されている。
また、この池にはカッパにまつわる民話が残されているので紹介したい。
昔、十人村の甲田池に一匹のカッパが住んでいた。
ある日、村のお百姓さんが池の土手に馬をつないでおいたところ、いたずら好きのカッパは馬を池の中へ引っ張った。ところが馬は驚いてカッパを引きずってお百姓さんの家の馬屋に帰ってしまった。お皿の水がなくなって動けなくなったカッパは「助けてくれれば、この家にお祝いごとがあるときにはお膳を用意してさしあげます。」と言った。優しいお百姓さんはその言葉を信じてカッパを放してあげた。それ | 2022-02-09 |
50 | | 米じゃなくて麦? 麥の増産に就て(『西塩田時報』第11号(1943年11月10日)1頁) | 日本はお米のイメージがあるがこの記事では麦の生産が奨励されている。お米は水も多く使うし、時間もかかるということでこの時期は早く生産できる麦が奨励されていたのでは。
私達が毎日食べてられるのは農家さんであったり、漁師さんのおかげである。今こうやって食べられる時代に感謝をしたい。
出典元:
『西塩田時報』第11号(1943年11月10日)1頁 | 2022-02-09 |
51 | | 老中としての松平忠固 | 出典:横浜美術館「コレクション紹介」https://yokohama.art.museum/collection/collection.html
忠固は、すでに日米和親条約の頃から閣内で交易通商論を唱えており、ペリーとの条約交渉の当初から交易通商を条約に含めようとしていた。そこに立ちふさがったのが徳川御三家の水戸の前藩主で、尊王攘夷思想の震源徳川斉昭である。日米和親条約調印の翌年、斉昭によって失脚に追い込まれたもののハリスとの通商条約交渉に際して忠固は老中に復帰し、井伊直弼の調印には勅許を必要とするとの訴えを押し切って調印を断行した。その後責任を負い失脚した。
以上の老中としての行動からは、忠固の信念強さがうかがえる。 | 2022-02-08 |
52 | | ため池と防災 | 地震によって堤体に亀裂が入ったり、大雨によって水位が上昇したりして、決壊の危険性が高まることがある。これに対して、上田市はハザードマップを出している。ため池ハザードマップ|上田市ホームページまた、ため池は減災にも役に立っている。保水能力が高く、洪水を防いだり、土石流をせき止めたりすることもある。
実際に大雨被害では平成16年の台風23号によって淡路島だけで1013箇所のため池が被災し、内178か所が決壊してしまった。地震では平成23年の東日本大震災では、3700か所のため池が被災し、被害額約400億円の被害を出した。
参考
ため池の災害事例から見た減災機能と維持管理|茨城大学農学部毛利栄征
| 2022-01-30 |
53 | | ため池の現状と様々な機能 | 長野県のため池の数は全国26位の1892か所であり、全国的にため池は、瀬戸内海式気候の場所に多いことがわかる。この気候区は降水量が少なく比較的晴天率が高いという、上田市と同じような特徴を持っている。
ため池は様々な機能を持っている。
その土地独自の生態系を保ったり、地域の歴史的な文化の保持などが挙げられる。山間部のため池では、洪水調節機能や、土砂流出防止機能なども挙げられる。
また、現在、全国ではため池の様々な利用が進んでいる。福岡県福岡市では、蓮花寺池というため池に、水上太陽光発電を設置し利用を進めており、約400世帯の電気を発電している。
参考・引用
ため池をめぐる状況について|農林水産省農村振興局整備部防災課
| 2022-01-30 |
54 | | 6 松根油の生産について | 画像は「長崎ディープブログ「長崎街道11~松並木と松根油と」」から転載
http://blog.nadeg.jp/?eid=43&imageviewer&image=20171028_726412.jpg
年表・数字からひもといた中で、特に「航空燃料用の松根油」の生産に関して注目したいと感じた。
興味を感じた理由は下記の二つである。
①自分の生まれ育った地域、しかも長野県の山の中で航空機の燃料を作っていたことを全く知らなかった。日本の山奥で航空燃料を生産するに至るまでに、どのような経緯があったのか調べたい。
②のちに記すが、坂井村誌内の記述によると、私の実家の近く、小学校の通学路の橋の袂で生産を行っていたらしい。そのためより身近に感じた。
村誌内の記述
下記は坂井村誌内に記述されている、松根油に関する記述である。
--------------------
松根油
昭和20年に入ると、松根 | 2022-01-29 |
55 | | 4 年表からひもとく | 坂井村誌内の年表を一部引用し、特に重要な部分をまとめた。
昭和12年(1937年)
・盧溝橋事件が勃発。村内の予備兵に召集下令があり、村内に一気に緊張感が流れた。
・銃後後援会(後に奉公会)結成、村防護団結成・応召家庭の農作業奉仕。
・軍の指示により、初めて防空演習が行われる。
・国防婦人会結成(全村)、国民精神総動員長野県実行委員会(会長・県知事)坂井村支部(支部長・村長)結成。
⇒日中全面戦争の開始に伴って始められた、国民の戦争協力を促す官製国民運動。「精動」と略されることもある。1937年(昭和12)8月第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は「国民精神総動員実施要綱」を閣議決定し、同年10月「挙国一致、尽忠(じんちゅう)報国、堅忍(けんにん)持久」のスローガンのもとに国民精神総動員 | 2022-01-29 |
56 | | 駿河と甲府の交通 | 戦国時代から江戸時代までは、駿州中道往還という陸路に加え富士川沿いの河内路、甲州沼津往還、そして富士川を利用した舟での輸送といった方法があった。
この富士川を利用した舟での輸送は危険を伴っており、明治18年には6名死亡、15名行方不明という水難事故があり、その後も多発した。 | 2022-01-27 |
57 | | 上田地域の地形概要 | 上田地域の地形は、太郎山や小牧山に囲まれたほぼ三角形の盆地地形となっており、「上田盆地」とも言われている。上田盆地の標高は約400~500メートルである。
市内には、千曲川が流れているが、地殻変動によって湖水が干上がり、千曲川が流れるようになった。
市の中心市街地は、千曲川沿いの低平地に立地している。その低平地のなかでも、千曲川沿いに千曲川河床から比べて、数m~数十m程度の急な崖も存在しており、その崖の上に上田城跡、市役所、学校などが立地している。低平地と言えど、少し離れただけで急な崖となっている、上田地域の特徴的な地形であると言える。
参考文献
・上田地域千曲川自然電子図鑑 上田地域の地形・地質
・ | 2022-01-26 |
58 | | ため池の必要性 | そもそもなぜ塩田平にはため池が必要だったのでしょうか。それは、全国でも有数の寡雨地域であったからです。雨が少なく年間の降水量は890mmであり、稲作をするときに必要と言われる降水量である1000mmを下回ります。そのため、稲作をするためには厳しい土地でした。幸い、土壌は元々塩田平は湖であったことなどから肥沃だったため、水が足りないという課題を灌漑で解決すれば稲作ができました。用水路を使った灌漑などが長野では多いですが、塩田平を流れる川は、どれもたくさんの農地を潤すほどの水量はありませんでした。そこで、塩田平ではため池灌漑という長野県では珍しい灌漑方法がとられています。
参考:ため池のれきし-信州上田|塩田の里|とっこ館
| 2022-01-26 |
59 | | 別所温泉の効能について | 別所温泉の泉質は皮脂を溶かして古い角質層を軟化させ、その効用で肌がすべすべになるという弱アルカリ性です。
地下から湧き出している温泉水は「還元性」であり還元性は美白や疲労回復、老化防止に効果があるとされています。
効能は以下の通りです。
一般適応性:神経痛、筋肉痛、五十肩、運動麻痺、間接のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔病、冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進
利用別適応性:浴用/慢性皮膚病、慢性婦人病、きりきず、糖尿病。 飲用/糖尿病、痛風、便秘 | 2022-01-26 |
60 | | 小島大池(こじまおおいけ) | 小島大池は塩田平の中でも大きなため池であり、1618年に造られたものである。そんな小島大池の1689年に起きた事件についての民話を紹介していきたい。
下之郷山から降りてきた沢山の猪によって田んぼが荒らされ、田んぼの稲を守ろうと玉の入っていない鉄砲を一発打った。驚いた猪は小島大池に飛び込んでしまい、22匹のうち5匹が溺死してしまった。
騒ぎが大きくなり上田藩に届け出たところ、役人から「入念に猪の死骸を埋め、猪が死んだ理由を書いた木札を立て、周りを竹矢来で囲みなさい」といった処置が命じられた。
なぜ猪のためにこれほど大騒ぎになったのか。それは、当時徳川幕府の将軍綱吉が「生類憐みの令」を出しており、動物に危害を加えた場合重い罰が与えられたからである。
なお、小島大池に実際に行ったところ、現在工 | 2022-01-26 |
61 | | 空池(からいけ) | 空池は、1734年5月に西前山の庄屋児玉伝兵衛がため池を造る許可を上田藩に願い出たことで作られた。1737年2月14日から毎日5~600人、延べ10,167名もの人足が動員され、1ヶ月後の3月15日に完成し、翌3月16日に完成届(目録書)が上田藩に差し出された。
しかし、水が思うようにたまらず1736年4月14日から6日間、約600人の人足をかけ、1737年には2,240人の人足をかけて池の修繕をしたが、漏水が多く2~3年後には空池となってしまった。
現在は公民館と付近の畑が池の跡地である。
〈参考文献〉
信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/mukashi.php | 2022-01-26 |
62 | | 手洗池(てあらいけ) | 手洗池には二つの名前の由来がある。こららを紹介したいと思う。
昔、柳沢村(現上田市古安曽)に幹が6メートルもある大きなけやきの木がありました。ある秋、このけやきの木の枝が折れてしまい、村人は何か変わったことが起きるのではないかと心配していました。すると翌年の夏、すさまじい嵐が起こりました。このため山のほとんどの木が風や落雷のために倒れてしまい、村人は途方に暮れました。さらにこの年も大きなけやきの木の枝が折れてしまい、その翌年もまた大荒れに見舞われました。村人たちは、大きなけやきのせいではないかと考えるようになり、どのようにしたらよいか考えていました。
ちょうどその時、木曽義仲に仕えていた手塚太郎金刺光盛という人が、丸子のお城から手塚へ帰る途中、柳沢を通られましたので、相談した | 2022-01-26 |
63 | | 山田池(やまだいけ) | 山田池は1938年に沢山池が造られるまで塩田平一の大きなため池だった。
池の歴史は古いため増築年は不詳だが、1650年にそれまで並んでいた2つの池を1つにまとめ現在の池ができた。
この池では、1840年頃に養鯉を試みたり、上田藩の事業として薬草の栽培をしたりしていた。古くから農業用水の確保としてだけでなく、様々なことに利用されていたことが分かる。
〈参考文献〉
信州上田 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/rekishi.php | 2022-01-26 |
64 | | ため池の歴史② | ため池は農業用水を確保するためだけに使われていたと思っていたが、歴史を遡るとそれ以外にも利用されてきた歴史があった。
例として挙げられるのは食用鯉の養殖である。塩田地域のため池は水温が高く、養蚕が盛んであったことから、鯉の餌としてたんぱく質の豊富な蚕の蛹が多く採れた。このような地域特徴から鯉の養殖に使われてたが、1980年代末には鯉の養殖は衰退し、今はフナの養殖に非常に少数のため池が使われているだけである。
〈参考文献〉
長野県上田市塩田地域におけるため池群の維持管理と存続
https://www.geoenv.tsukuba.ac.jp/~chicho/nenpo/43/08.pdf | 2022-01-26 |
65 | | ため池の歴史① | 塩田には多くのため池がみられる。その理由は降水量と土地が関係している。上田市は年間降水量が全国で最も少なく、その中でも塩田平は最少の地域であった。しかし、気温も低すぎず肥沃な土地で、水田農業に最適の地域だった。そこで農民は農業用水を確保するためにため池を作ることにしたのだ。この地域の土壌が粘土質で、ため池の土地を作るのに好都合だったことも影響していたのだろう。
〈参考文献〉
信州上田の里 塩田の里
http://www.shiodanosato.jp/tameike/rekishi.php | 2022-01-26 |
66 | | 地元の食文化 | 私が今回焦点を当てたテーマは、佐久市で食されている、鯉や鮒といった県外では食用として馴染みが少ない食材に焦点を当てました。
佐久鯉の歴史は古く、江戸時代、天明元年に佐久桜井村の臼田丹右衛門が、「大阪淀川産」から親鯉数尾を佐久に持ち帰り飼育したことが始まりとされています。交通網が発達していない時代、内陸県の佐久市において、鯉は貴重なたんぱく源であり、当時から人々が集まるような大きな席では必ずと言っていいほど並んでいたほどなので、当時の時点でかなり浸透していたと考えられます。
鯉自体、他の魚の中でも群を抜くほど栄養素が高くも中国では古来から「薬用魚」と言われており、重宝されていたそうです。
そして鯉や鮒が佐久市に根付いた他の理由として佐久市は当時主流であった二毛作が難し | 2022-02-08 |
67 | | 上田の蚕種業 | 【上田の養蚕業】
江戸の末期から昭和にかけ、全国一の養蚕地帯でった長野県。特に上田地方は千曲川から広がる桑の栽培に適した地形と降水量の少ない養蚕に適した気候、そして蚕種の改良から日本一の蚕種製造地帯であった。中でも上田盆地は春蚕の生産地であり、松本盆地の夏秋蚕と対比されていた歴史がある。
【上田の蚕種の歴史】
-蚕種の始まり-
長野県では上田地方がいち早く、藤本善右衛門家によって1661年~1673年に蚕種製造がはじめらた。
上田地方の蚕種製造は
①奥州産蚕種を仕入れ販売(仕入種)
②奥州へ出向き蚕種製造(手作種)
③自家製造(地種)
と順を追って成長し全国に販路を広げていく。
-蚕種製造が盛んになった背景-
① 江戸時代、経済が発達による養蚕業や織物業の奨励
② 蚕種・養蚕・製糸の分業化
この | 2021-12-22 |
68 | | 千曲川の歴史 | 日本一の長さを誇る信濃川の上流を流れる千曲川。
川はいつの時代も人々の暮らしに恩恵を与えます。
しかし、一方で洪水や決壊によって猛威を振るうということが2019年の台風19号による災害で分かりました。
そこで、先人たちはどのようにして千曲川と関わってきたのか関係資料を中心に調べていきたいと思います。 | 2021-12-21 |
69 | | そば処 倉乃 | 上田市真田町渋沢標高1000mの霧下で、自家栽培、自家製粉したそば粉を、四阿山からの湧き水で打つ拘りの手打田舎そばのお店です。別所温泉の途中にあるのですが、別所温泉は上田市街地とは離れているため、目にする機会が少ないと思うので、投稿を通じて色んな人に知っていただけたらと思います。 | 2021-07-23 |
70 | | 赤田ビーチ | 山口県下関市にある赤田海水浴場です。
透明度はもちろん、砂浜がさらさらで本当に気持ちが良いです。
夕焼けが綺麗に見えます。 | 2021-05-05 |
71 | | 大頭龍神社 | 大頭龍神社は静岡県菊川市加茂の高台に鎮座し、古くから疫病鎮護、水難除けの神様として崇敬されている。境内には江戸時代中期に建てられた青銅の大鳥居や、推定樹齢300年以上の巨樹、スダジイなどがある。祈願をする際にはお世話になった。 | 2021-05-03 |
72 | | 三ツ池公園 | 毎年4月の第一度土曜日に開催される水源祭の会場となる公園である。この水源祭では水の恵みや水害防止、五穀豊穣などを祈願。餅つきや宝探しなど、子供からお年寄りまで楽しめる。野猿という渓谷を楽に渡るための乗り物がありスリリングな気分を味わえる。 | 2021-05-03 |
73 | | 上田市と岡谷市における蚕業の比較 まとめ | 私は、上田市と岡谷市の蚕糸業の比較として、蚕糸業における様々な施設についてまとめた。その中で理解した相違点や共通点、蚕の今後の展望についてまとめる。
・相違点
同じ蚕糸業で栄えた上田市と岡谷市だが、上田市は「上田蚕種協業組合事務棟」や「常田館製糸場」の現存から養蚕業や製糸業を行っていたことがわかる。一方で岡谷は、「岡谷蚕糸博物館」に展示されている多数の繰糸機や「宮坂製糸所」の現存から製糸業で栄えたといえる。
・共通点
岡谷市の工女さんは、1910年には岡谷の人口2万3000人に対して、工女さん1万5000人と65%を占めていた。その後、1930年には岡谷の人口7万6500人に対して、工女さん3万4500人と45%を占めており、工女さん達は岡谷市の支えとなっていた。工女さんは10代半ばから20代前半の若い女性で、重要な | 2021-02-10 |
74 | | 野沢菜漬け | 野沢菜の発祥は、一説には野沢温泉村にある健命寺の8代目住職が宝歴6年(1756年)に京都から持ち帰った天王寺かぶの種を寺畠にまいた際、その天王寺かぶの種から違った形のかぶ菜ができ、その後、系統選抜をして育てたものが最初とされていましたが、
この説は近年の研究で、天王寺かぶの系統ではないというDNA鑑定の結果が出ており、かぶに由来する別の変種と考えられています。
野沢菜漬けの材料
野沢菜80g、塩2.5~2.8kg、醤油1.8L、酒または焼酎1.8L、だし昆布、唐辛子
一般的な作り方としては、洗う、塩水に漬けるを繰り返しその後発酵・熟成させると出来上がるようです。
漬けて2~3週間後から食べられますが味の安定は1か月かかるそうです。
参考文献:「つけものの味ふるさとの味」長野県農業改良協会、「信州の発酵食」小泉武 | 2021-02-10 |
75 | | ミヤサカシルク トリートメントソープ(岡谷蚕糸博物館・宮坂製糸所) | 岡谷蚕糸博物館のショップでは、蚕のシルクを活用したスキンケア商品を販売している。石鹸や化粧水、クリームなどを販売しており、ネット通販も行っている。
私は、岡谷蚕糸博物館に併設されている宮坂製糸場で、「ミヤサカシルク トリートメントソープ」と「ミヤサカシルククリーム」を体験させていただいた。シルクソープは無香料・無着色・合成界面活性剤不使用で肌にも優しく、少量できめ細やかな泡が立ち、使用後はお肌がすべすべになった。シルククリームはシルクの主成分であるフィブロインが配合されており、使用後はお肌がしっとりとして潤いが戻ったと感じた。少々高価ではあるもののプレミアム感があり、プレゼントにも良いと思った。お土産コーナーには他にも生糸やバッグ、ストールや、虫の佃煮や桑の実ジャムといっ | 2021-02-10 |
76 | | 埴輪 盾持人 | 【作品】
埴輪 盾持人
【所在地】
群馬県太田市:若水塚古墳
【若水塚古墳】
他8基の古墳が確認済み。中央部には埋葬施設が残存し、方形の板石を組み合わせた箱式の石棺と判明。棺内からは、互い違いに置かれた男女2体の遺体と、ヒスイの勾玉(まがたま)1個、ガラス製の小玉7個が発見された。棺や玉類からみて、5世紀代に造られたものと思われている。
【作品説明】
3世紀から6世紀、権力者の墓の上やまわりに立て並べられた土製品である埴輪(はにわ)。この埴輪の役割は、古墳を守ること。盾持人は全国で見つかっているが、ほとんどが古墳の中心から離れた縁(ふち)に置かれていたことから、古墳を背に盾を持って立ち、邪悪なものの侵入を防いでいたと考えられる。
【参考資料】
・文化遺産オンライン:http://bunka.nii.ac.jp/herit | 2021-02-09 |
77 | | サントミューゼ美術館概要 | 〈美術館概要〉
常設展示室、企画展示室を2階に配置し、ゆったりと作品をご鑑賞いただける空間としました。大ホールとの行き来もしやすく、公演の前や後にもお立ち寄りいただけます。
1階には、市民アトリエ・ギャラリーや子どもアトリエなどを設置。貸し出しも行っており、誰もが気軽に創作や発表を行うことができます。
〈美術館施設〉
◆企画展示室
鑑賞しやすいシンプルな形状、自由度が高く広い展示壁が特徴の展示室です。
5枚の可動壁と2箇所の展示ケースを設置し、大型の作品や資料まで多様な展示計画に対応できます。
◆常設展示室
常設展示室では、作品・資料などの展示を通じて郷土上田にゆかりのある作家の顕彰を行います。
◆市民アトリエ・ギャラリー
市民の誰もが気軽に、日ごろの創作活動の成果を発表できる場と | 2021-02-01 |
78 | | チョロギのビート漬 | チョロギのビート漬は、上田盆地で縁起物としてお正月の食卓に並ぶものの一つだそうで長老喜とも呼ばれています。
材料はチョロギ、塩、食用ビート、砂糖、酢です。
水洗いしたチョロギに塩をまぶし二日間下漬けした後、ビートと交互に重ね、砂糖と酢で混ぜ合わせたものを注ぎ入れ、20日程漬けると食べごろになるお漬物の一種だそうです。
参考:「信州の味ふるさと料理三〇〇種」長野県農業改良協会 | 2021-01-27 |
79 | | 海野宿の起源 | 海野宿は、1625年(寛永2年)に馬で荷物や人を運ぶことを主な仕事とする、田中宿を助ける宿として作られたとされている。しかし、1742年(寛保2年)の大洪水、戌の満水で、田中宿に大きな被害が出てからは、田中宿より被害の少なかった海野宿が本宿になった。
海野宿のある地は豪族の海野氏の本拠地であった。現在の白鳥団地に海野氏の居館があった。
参考資料
「東部町誌歴史編上」東部町誌編纂委員会
「東部町誌歴史編上」東部町誌編纂委員会 | 2021-01-27 |
80 | | 栗の木川 |
地元の番組企画の映像である。ここにもあるように、現在の新潟の主要な道路は元々水路であったものが多い。栗の木バイパスもそれに該当する。栗の木排水場はバイパス開通の六年前(1963)に新潟地震で被災、役目を終えた。栗の木排水場に関してはメモを参照。 | 2021-01-27 |
81 | | 木やりと岩万燈 |
亀田の祭りで行われている木やりという掛け声である。これは古くは水路を利用する船頭による歌だが、亀田をたたえ、奮い立たせるような節回しは、祭りのために作られたような感覚さえする。
亀田の夏祭りの大きな特徴はこの木やり及び亀田大岩万燈(以下岩万燈)にある。大きなみこしをぶつけ合うその姿はまさに喧嘩祭りである。
おおむね一日目に亀田甚句流し、二日目にこの岩万燈が行われる。動画では岩万燈の一連の流れが記録してある。大きな声で木やりをかけるむさくるしい様子をぜひ見てほしい。
そもそもこの祭りが行われるようになった経緯にも、もちろん土地が関 | 2021-01-27 |
82 | | 增産の暦(『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)2頁) | 生産に関する水利や代作などについての記事。
植付不能地があれば代作の作付や潅水せず抑制はなしにするなどひたすら食糧を作ることをしなければないような状況になっていることが見て取れる。
▼この記事は以下から参照できます。
#942 『西塩田村公報』第9号(1943年6月15日)2頁 | 2021-01-27 |
83 | | 銅水瓶 | 【作品】
銅水瓶
【所在地】
群馬県高崎市:綿貫観音山古墳
【綿貫観音山古墳】
全長98mの前方後円墳である。6世紀頃の古墳で高崎を支配した豪族の古墳と考えられているが、正確な情報は不明である。ここからは他にも多くの金銅製品等が出土しており、それらは6世紀後半の東国を代表する出土品として国宝に指定されている。
【作品説明】
中国・南北朝時代の庫狄廻洛墓から同類の水瓶が発見さたことから中国伝来と考えられている。ちなみに綿貫観音山古墳から出土したものは国内最古の水瓶で、古墳出土でほぼ完形品であるのは世界でこれだけである。
【参考資料】
・群馬県 文化財ライブラリィ:https://www.pref.gunma.jp/03/x0100616.html
・綿貫観音山古墳の世界「オンライン展示品解説 第1回 銅水瓶」: | 2021-01-27 |
84 | | 水鳥形埴輪 | 【作品】
水鳥方埴輪の頭部
【所在地】
群馬県太田市:太田天神山古墳
【太田天神山古墳】
太田天神古墳群に属す全長210mの前方後円墳である。東日本最大の大きさを誇り、東日本では2つしかない大王級の古墳のひとつである。(もう一つは同じく群馬県伊勢崎市にあるお富士山古墳)主は崇神天皇の皇子「豊城入彦命」を祖「上毛野氏」であるとされている。
【作品説明】
鳥形埴輪にも様々なモノがあり、鳥の種類によってつくられたいとは異なるとされている。古代において鳥と人間には精神的に深いかかわりがあったのではないかと考えられており、水鳥形埴輪も人間の水鳥に対する思いを反映して作られたものではないかと考えられている。
【参考資料】
・群馬県太田市 太田天神山古墳:https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/bun | 2021-01-26 |
85 | | 舌喰池とは・舌喰池の名前の由来 | 舌喰池とは、上田市手塚に存在するため池である。築造年は1641年であり、堤高7mで堤長485m。貯水量は13万7900tに及ぶ。
舌喰池には「犬池」という名前も持っているが、主に「舌喰池」と呼ばれるようになった理由は、一つの悲しい物語があるからである。舌喰池が新設された時、土手から水が漏れ、水を十分に溜めることができなかった。その時、生きた人間を土に埋めて祈ることで土手が固まるという話がどこからか伝わってきた。領主の命令もあり村の役人は、土中に埋める人間、即ち「人柱」を立てることを決定した。
人柱はくじ引きで決定することにし、その結果、村に住む若い娘さんが人柱に選ばれた。しかし、娘さんは悲しみにより、人柱に立つ前の晩に舌を食いちぎり、池に身を投げて死んでしまった。この悲しく残酷な出来事もあり、池 | 2021-01-25 |
86 | | ため池とは?何故塩田にため池が作られたのか? | 画像は上田市の「舌喰池」
ため池とは、雨量が少なく河川がない地域などで、灌漑用水を確保するために人の手によって作られた池である。また、ため池の多くは江戸時代以前に築造されたものである。
塩田に数多のため池が作られた理由も、降水量の少なさが原因である。しかし、降水量が少ないという事は、晴天の日が多いという事でもある。塩田は気温や肥沃が良好で、用水さえ確保できれば水田農業に適している土地であった。従って、農民達は塩田にため池を造成したのである。
参考文献
ため池のれきし - 信州上田|塩田の里|とっこ
ため池:農林水産省 | 2021-01-25 |
87 | | 小池水産 | 1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。
現在も営業しているのかは分からないのだが、特に大きな変化はなく、そのまま残されている。
(2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用) | 2021-01-24 |
88 | | 清水書店 | 1枚目が2012年、2枚目が現在の外見を表した写真である。
全体的に変化していないのが特徴であり、まさに歴史を感じやすいお店・建物である。
(2012年の写真→Googleマップ・ストリートビューより引用) | 2021-01-24 |
89 | | 亀田の土地・排水に関しての歴史(メモ) | 調べたことに関して、本からの引用が著作権上厳しかったので手書きにした。
WW2中に栗の木排水場が完成し、その後設備の老朽化に伴って親松排水場ができた。マーカー付きの地図に示してあるのが、そのポンプの位置である。有事の際には黄色部分から水をくみ上げ、ピンクの位置に排水する。略図であるため分かりにくいが、この黄色とピンクのマーカーの位置には水が流れている。黄色の位置はかなり幅が細い部分であり、すぐに水が溢れてしまうのだが、それを組み上げて比較的広い川幅を持っているピンクの位置に排水することで、大水を防いでいる。記してある通り、7km×12kmの地図であるため、非常に細かくポンプが配置されていることがわかる。
下の図は新潟の大体どの位置に亀田があるかを示している。 | 2021-01-22 |
90 | | 新潟亀田の土地の特性と生活習慣 | 私の地元亀田は海抜が低く、つねに浸水しているような場所であった。しかし、稲作をし、港町から近いということもあって物流も盛んだった。困難な状況でも人々は亀田の土地を選び生活していた。その特殊な状況で人々は何を考えてどのように生活していたのか知りたいと考えた。
また、現在、海抜が温暖化の影響で高くなることが問題となっている。世界を知るためにも、まずは身近にあった事例から見ていくべきだと感じた。海抜が高くなることで、人々の生活はどのように変容するのかもここから見れればいいと考えている。
調べる時には、亀田図書館に行き、資料を探す予定である。さらに、越後佐渡デジタルライブラリーからも資料を探すことにする。
https://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/?page_id=1129 | 2020-12-21 |
91 | | 歴博の「上塩尻」蚕種製造に関する展示 | 2017/10/15、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館(歴博)を訪れてきました。目的は、上塩尻の蚕種製造に関わる展示を見学するためです。展示場所は第三展示室の「知識と技術」のコーナーです。
「蚕を飼う」「養蚕技術の普及」「桑の葉の収集」「『蚕書の里』上塩尻村」「商品と技術と風雅の交流」「繭の歴年標本」「世界に知られた日本の養蚕技術」というパネル構成です。このうち、「繭の歴年標本」は奥州本場蚕種の梁川の展示。他は全て上塩尻です。
資料として展示されているものは次のとおりです。
・清水金左衛門『養蚕教弘録』1847
・清水金左衛門『養蚕乾湿計用方』メガルカヤを利用した養蚕乾湿計
・座間神社句合わせ
・いははな集 1800年
・「いははな集」参加村と蚕種の行商先
など。
展示は杉仁氏の著作『近世の地域と | 2020-07-18 |