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登録リスト(該当:20件)
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1
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写真
タイトル
説明
登録日
1
本陣
中山道沿いにある本陣。
2023-10-31
2
本陣跡
下諏訪宿本陣遺構。本陣は最初小口氏が務めたが、のち岩波氏に代わった。文久元(1861)年の図面では、建屋280坪、建物並びに庭545坪、畳数232畳、総坪825坪と記されている。現在の本陣遺構とホテル聴泉閣かめやを合わせた敷地にあたる。 本陣の業務は大名・幕府役人の宿泊であるが、運営の費用は問屋業の収益でまかなわれた。
2022-03-19
3
柿蔭山房
アララギ派の島木赤彦(本名久保田俊彦)が明治30(1897)年から没する大正15(1926)年まで住んでいた住宅で、アララギ派の島木赤彦(本名久保田俊彦)が明治30(1897)年から没する大正15(1926)年まで住んでいた住宅で、柿蔭山房(しいんさんぼう)と呼ばれている。庭には樹齢300年のもなるという見事な枝ぶりのアカマツがある。町指定文化財となっている。
2021-06-03
4
記念写真
慈雲寺裏の庭園での記念写真と思われるが、詳細不明。 中心近くに高木十吉氏がいる。(高木十吉氏 第16,19代町長 S7-8 S18-19)
2023-11-14
5
下諏訪町総合文化センター
平成元(1989)年にオープンした下諏訪町総合文化センター前の庭。庭の中央にあるブロンズ像は立川義明作「翔」の像。立川氏は諏訪市出身、立川流立川家の子孫。なおセンターの庭の南側には「梶の木」が植え込まれている。
2020-03-06
6
注連縄作り
下の原注連縄作り講習会の風景。正月をひかえ注連縄つくりの講習会が行われた。ふるさとの民俗を残そうと区の公民館主催でこの催しが毎年続けられている。
2020-03-06
7
和菓子屋さん
賃餅(ちんもち)の注文殺到で大忙しの和菓子屋さん、餅つきも機械化で大量の注文をこなすことができる。この年の賃餅料は一升900円(切賃300円)。正月用のもちは28日に搗く家が多いが、サラリーマン家庭などでは家で搗く時間的なゆとりがないとあって、賃餅に出す家が年々増えてきていた。さらに現代にあっては、スーパーなどに出来合いの鏡餅や袋入りの餅が大量に並ぶ。
2020-03-06
8
第7保育園(所)入園式
第7保育園(所)入園式。統廃合のため今年度限りで廃園が決まった。この保育園は昭和49(1974)年開園していた。園庭には総合遊具が設置さてていた。第4・7保育園は統廃合の後一つ浜地籍(農協スタンド近く)に新しい保育園ができた。現みずべ保育園。写真は最後の入園式に焼てきた親子。
2020-03-06
9
蕉鹿庵前の酒宴
写真は大正15(1926)年10月31日撮影、水月会が蕉鹿庵の前で観楓会を開いた時のもの。写真裏に右から中村春吉、中村尚(其梅)、吉沢兼之助(晩雪)河西庄三郎、中村卯一郎(如佛)、中村橲一、中村茂重(柳月)、浜平三郎(木章)、林巻平(渓月)中村牧五郎(梅屋)と名前が記録されている。 大正4(1915)年天龍道人壱百年忌記念事業にあたって慈雲寺庭前に天龍道人の詩碑を建て、遺墨展を開いた。この時、水月園の正岡子規碑左手にの観月堂のある平の一角に蕉鹿庵を茶室として建設した。8坪ほどの茶室風の建物で、句会やお花見などに利用されたが、昭和25(1950)年の台風により倒壊し除去された。 ちなみに焦鹿というのは天龍道人が愛用した「焦鹿」という言葉に由来している。。
2020-03-06
10
和田義盛の刀石
明治37(1904)年古峠(旧中山道)の石小屋下にあった和田義盛の刀石が、水月会員の出払で慈雲寺中庭に移された。この石は砥川石(安山岩)の側面に刀を突き通したという穴が三つあいている、(樹形と推定される)鉱物学的に貴重なもの。和田義盛は鎌倉時代初め(1147-1213)の人。侍所別当だったが北条氏と対立し挙兵したが、一族とともに滅ぼされた。
2020-03-06
11
柴金桃あずまや
小口正衛は第2代村長、第5代町長を務めた人。趣味が広く柴庭庵金桃と称し俳句をした。柴金桃は後年の俳号である。武居台地の先端部、宮司家宅裏の柴金桃あずまや。「名月や虫の髭ふる草の上」の句碑が赤砂砥川先の赤砂公民館前に残されている。
2020-03-06
12
宮坂喜十先生胸像
昭和4(1929)年11月18日、宮坂喜十先生謝恩会で胸像を下諏訪小学校南校の校庭入口に建立。昭和18(1943)年3月10日、大東亜戦争で供出したが、昭和26(1951)年10月7日ブロンズに復元する。製作者武井直也。宮坂喜十先生が教職についたのは明治18(1885)年以来44年間ひとすじに教育に尽くしてきた。下諏訪の初等教育の原点を担ったお一人である。「下諏訪の史話」「諏訪大神の信仰」などの郷土史の著者でもある。
2020-03-06
13
金馬簾(きんばれん)披露式
写真後ろの建物は明治9(1876)年建築の下諏訪学校。第3回金馬簾(きんばれん)披露式が明治37(1904)年9月23日下諏訪学校校庭にて挙行されたときの記念撮影。下諏訪町消防組は公設消防としてその功績が認められ、明治35(1902)年10月23日金馬簾一条の使用を許された。馬簾とは纏(まとい)の飾りのこと。
2020-03-06
14
四阿屋(あづまや)
明治25年、紫庭庵金桃(本名小口正衛 安政6年生まれ第2代村長・第5代町長)が武居の雨後庵町長の庭先へ四阿(あづまや)を建てる。この四阿は郡内の俳人を読んで句会開催するため、諏訪湖を一望できる武居の高台に建てたもの。 俳人金桃らもしばしば句会開いた武居の雨後庵前の四阿屋(あずまや)。
2020-03-06
15
第一保育園
久保(現下諏訪中学校庭南)に大正15(1926)年1月19日下諏訪保育園を設立。この保育園は県下保育施設の草分けだった。大正時代に入ると町の国用製糸は一層盛んになり大正14(1925)年には62工場、就業者数1240人に達した。その工女の半数が既婚で共働きが多かった。乳幼児を抱えた就業は大きな課題となっていた。大正14(1925)年6月に友之町にテスト会所した託児所を保育園として開設したものである。
2020-03-06
16
下諏訪中学校庭
下諏訪中学校グラウンド(バックネット前)。
2020-03-06
17
慈雲寺庭園
慈雲寺の庭園は「中村勝五郎日記」によると天保8(1837)年に築庭されたものという。その後、何度か改修、拡張がされ現在の姿となっている。水月公園山稜を借景とし、園池を中心とした多数の庭石が組まれ閑静な景観をみせている。町内に残る見事な庭園のひとつといってよい。庭園改修記念の写真。
2020-03-06
18
家族写真
家族写真、「親子7人」「兄弟4人。
2021-04-06
19
広瀬町町少年団
広瀬町少年団の団旗完成記念写真。 昭和12(1937)年7月7日に支那事変が勃発。 この時、町内の組長や在郷軍人等の要望により結成、小学1年から高等科2年の男子全員が毎週日曜日の朝6時に新道(三国座通り)へ集合、駆け足で諏訪大社秋宮へ必勝祈願し、その後帰町して町内道路と駅庭の清掃を実施した。そろいの帽子と腕章に少年たちの真摯(しんし)な眼(まなざし)が並ぶ。
2021-04-15
20
みどり幼稚園
新町下にあったみどり幼稚園の園庭にて、保護者・園関係者の記念写真。前列中央は園長の山田与八氏。 下諏訪教会では戦前の昭和10(1935)年から幼稚園経営をしていたが戦争中は町保育所に吸収され園舎は軍事工場に使用されていた。 戦後の昭和26(1951)年仮免許で始め、再び幼稚園を翌年正式の設立認可を得てみどり幼稚園と改名した。
2020-03-06
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