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1石投げ場から見た諏訪湖石投げ場から見た諏訪湖石投げ場から見た高木、中央東線、国道20号、諏訪湖の様子。 中央東線は架線がない。国道20号には車はほとんどなく、オートバイと歩行者ばかりである。 *こちらの写真は白黒写真をソフトを使いカラー写真にしたものです。2024-03-27
2承知川の河川工事承知川の河川工事平成18(2006)年7月19日の豪雨災害後の河川工事の続く承知川。千代田ポンプ付近から諏訪湖に向かっての様子。2023-07-09
3社中学校社中学校昭和57年(1982年)4月に下諏訪中学校から分かれて開校した下諏訪社中学校。眼下に諏訪湖を望み、遥かに南アルプスと霊峰富士を望める望湖台に建つ。 「絆」を建学の精神とし、学校教育目標「強く、賢く、頼もしく」(平成23年度改定) を掲げている。2022-03-19
4石投場・石碑石投場・石碑明治13(1880)年、明治天皇は甲信地方の民情視察を行った。6月24日、石投げ場に車を止められ、諏訪湖の風景をめでられ、漁撈をご覧になられた。この日は小雨であったが、漁師たちは目のした3尺の大鯉を献上したと伝えられている。「石投げ場」の名前は、名前の通り石を投げれば諏訪湖に届くくらいだったところからつけられた名称である。この「明治天皇駐輦(ちゅうれん)の碑」と並んで「南信八名所石投場」の碑も建てられている。2021-06-10
5橋本政屋橋本政屋甲州道中の下諏訪宿と上諏訪宿の間の茶屋として栄えた。表は千本格子で、二階は出梁作りとなっている。諏訪湖を一望でき江戸時代の面影が残る建物。こて絵の力蔵(りきぐら)、高島城より拝領のおひねりの松・石燈など見どころも多い。2021-06-10
6航空写真 四王上空航空写真 四王上空写真中央を右から左へ中央東線が走っている。左端が下諏訪駅。右上に弧を描いて走る道路は国道20号線。写真中央鉄道線路の下を横切っているのは、四王ガードで線路北から諏訪湖に向かう道路(古川通)である。写真では家が立ち並んでいるが、四王ガードより南側(写真下側)はかつては田んぼや諏訪湖畔の低湿地が広がっていた。また、写真右下の工場は大和電機である。2021-04-18
7下諏訪町立博物館下諏訪町立博物館昭和26(1951)年12月3日下諏訪町に文化財保存会が出来翌27(1952)年秋宮神饌(しんせん)を借用して神社共有の博物館がた開館した。建物は「諏訪大社宝物陳列場」に併設されていた。 昭和46(1971)年4月1日、高浜湾岸に鉄筋コンクリート二階建ての博物館が出来た。 平成5(1993)年6月、「諏訪湖博物館・赤彦記念館」として湖岸通りの西高木にオープンした。2024-03-20
8下諏訪小学校下諏訪小学校写真上は下諏訪小学校(現下諏訪南小学校の旧校舎)の校門と玄関。写真下は諏訪湖方面からの撮影、学校のまわりは田んぼに囲まれている。 下諏訪学校の「南校」(低学年)が南四王に開設されたのは大正12(1923)年である。さらに昭和22(1947)年に戦後の新しい戦後教育制度のもと「下諏訪小学校」が発足している。また、児童の増加から昭和46(1971)年には新たに「下諏訪北小学校」が開設され、それまでの「下諏訪小学校」は「下諏訪南小学校」として新しい歴史を刻んできている。2022-01-20
9明治天皇駐輦址明治天皇駐輦址明治13(1880)年、明治天皇は甲信地方の民情視察を行った。6月24日、石投げ場に車を止められ、諏訪湖の風景をめでられ、漁撈をご覧になられた。この日は小雨であったが、漁師たちは目のした3尺の大鯉を献上したという。後日「明治天皇駐輦(ちゅうれん)の記念碑」を建立した。 ちなみに、石投げ場の名前は、ここから石を投げれば諏訪湖に届くところから生まれた名称である。2021-12-26
10石投げ場石投げ場北高木付近から見た諏訪湖岸の風景。上諏訪方面からSLが煙を出し走っている。№1544の写真と比べると湖畔の整備が進み桜やカリンの並木が整えられ、大きくなっているのがわかる。また線路北側の開発も進んでいる。2020-03-06
11石投げ場石投げ場昭和40(1965)年の北高木付近から見た諏訪湖岸の風景。埋め立てが終わっているが、湖畔の整備はまだ途中で桜やカリンの並木はもちろん湖畔道路も整備途中で波打っているように見える。2020-03-06
12旧中部電力旧中部電力立町の中部電力㈱下諏訪営業所を、リノベーションをし、現在は「しもすわ今昔館おいでや」(旧諏訪湖時の科学館儀象堂)になっている。工事作業中の写真。この建物の角に「諏訪電気発祥の地」の碑がたてられている。 1枚目の写真はみなと屋側から撮影。奴の看板が見える。2020-03-06
13大社通り大社通り大社通り「有賀商店」。手前の小路は「稲荷小路」。道向かいは諏訪湖オルゴール博物館奏鳴館(旧下諏訪町役場の地旧公民館、現在はオルゴール博物館すわのね)2020-03-06
14大社通り大社通り大社通り有賀商店。右隣は第一交通タクシー。2020-03-06
15高浜付近高浜付近新田中線沿いにあった「サンアイ」・「諏訪湖市場」の看板付近と右手前は高浜運動公園のフェンス。2020-03-06
16下諏訪町上空下諏訪町上空写真中央の白く輝く屋根は荻原製作所(昭和42(1967)年に下諏訪町に移転してきた本社工場、平成29(2017)年に伊那市へ移転。その右にはひかり味噌、左上にジャスコ(イオン)、右上には諏訪湖、右下すみに野球場・陸上競技場が見える。2020-03-06
17高浜公衆トイレ高浜公衆トイレ湖岸に設けられた公衆トイレ。2020-03-06
18大鯉大鯉諏訪湖で捕獲された大鯉。昭和18(1943)年3月夜半に諏訪湖中心部の湖底の粗朶(そだ:木の枝のこと)にひそむ大鯉を友之町小口元雄が投網で捕獲。身長4尺(約1m20cm)、胴回り3.5尺(約1m05cm)目方8貫匁(約30kg)。2020-03-06
19ナンバナンバ諏訪湖周辺の湿田で昭和初めに、地下足袋、ゴム長靴の出るまで使用された。右が板ナンバ、左が桶ナンバ。泥沼のような水田での作業はいろいろ工夫された農具があった。素足で歩けないので板ナンバや桶ナンバと呼ばれるものも使用した。重い荷物は田舟にのせて運んだ。特に諏訪市の湖岸に多かった。2020-03-06
20朝日公園から岡谷市街地を望む朝日公園から岡谷市街地を望む昔の岡谷の市街地と製糸工場。諏訪湖と天竜川が見え、岡谷の市街地には黒い煙をあげる煙突が林立し、間に繭倉も見える。撮影は山手町の高台あたりからか、山の斜面は桑の木で埋め尽くされている。2020-03-06
21飛行訓練飛行訓練飛行機の機体下にロープが見える。水上からの離発着を試みているようだ。湖での飛行訓練。 昭和3(1928)年1月、諏訪飛行協会を結成。3月に格納庫ができる。4月6日藤森飛行士が赤砂に着陸、翌4(1929)年には、複葉機で郡内を飛ぶなどした。2022-05-21
22飛行訓練飛行訓練湖での飛行訓練。昭和3(1928)年1月、諏訪飛行協会を結成。3月に格納庫ができる。4月6日藤森飛行士が赤砂に着陸、翌4(1929)年には、複葉機で郡内を飛ぶなどした。2021-12-26
23赤砂飛行場赤砂飛行場赤砂飛行場。昭和3(1928)年1月、諏訪飛行協会を結成。3月に格納庫ができる。4月6日藤森飛行士が赤砂に着陸、翌4(1929)年には、複葉機で郡内を飛ぶなどした。2020-03-06
24砥川河口の橋砥川河口の橋完成した砥川河口橋。橋の右岸(写真左手)にはわかさぎの孵化場がある。当時は左岸に町営プールがあり、その北側にはホテルが3社あった。この橋は湖岸管理道路としての架橋で幅6メートル、長さ32メートル。これに伴い湖岸約1.7キロメートルに高さ1メートルの築堤が始まった。その後この一帯は、赤砂崎公園として多目的グラウンドや多目的広場、ヘリポートなどに再整備されている。2020-03-06
25カワヤナギの並木カワヤナギの並木昔の諏訪湖の汀線に自生したカワヤナギの並木。この辺りは埋め立て前は「ヨナ」などの小魚が遊ぶ美しいなぎさだったという。「ヨナ」はトンコよりやや小さく体長が2cm位の細長い魚。並木の北側にジャンボ滑り台が見えるのは「みずべ公園」。天候がよければ八ヶ岳の裾に富士山が見え、時間によっては湖上で練習に励むボート選手の姿も見える。2020-03-06
26木村氏木村氏俳誌「夏爐」の発行所。諏訪湖畔四王の里の自宅で来客と話す俳人木村蕪城氏。虚子直門の一人。鳥取県の生まれだが縁あって信州に住むことになって47年になり、、主催する「夏爐」もこの月で473号に達した。句集に『一位』『寒泉』『山容』『走り穂』(前年刊)主がある。俳人協会名誉会員。作品に「大いなる一つ傾く霜がこひ」(「夏爐」十二月号)2020-03-06
27富士遠望(夕景)富士遠望(夕景)東山田から富士遠望(夕景)(信濃医療センターから) 手前、三協精機社宅。晴れた日には下諏訪町から諏訪湖越しに富士山を望むことができ、地名に「富士見町」「富士見橋」などの名前も残っている。天候が安定し大気が澄み渡る晩春から冬にかけての眺望はよい。 それにしても、中部山岳地帯の盆地の底から、二百キロの彼方の富士山を望見できるというのは、フォッサマグナという大地溝帯(糸魚川静岡構造線)が作り出した特異な景観である。富士山も八ヶ岳も大地溝帯のまん中に噴出した火山で、、諏訪湖はその地溝帯の西縁に沿って走る断層などによって生まれた構造湖なのだという。2020-03-06
28公共下水道工事公共下水道工事進む公共下水道建設、200mm管渠の敷設工事。諏訪湖流域下水道は、昭和43(1968)年秋に起きた湖水の重金属汚染騒ぎから、政府のてこ入れもあって建設が急がれた。昭和49(1974)年着工、昭和54(1979)年に一部開始された。工業配水も受け入れたため、終末汚泥の処理が悩みの種となっている。この町の下水道普及率はこの年の3月末で79.0%で県下一だった。現在はほぼ100%。2020-03-06
29諏訪湖クリーン祭り諏訪湖クリーン祭りみずべ公園のステージを中心に行われた第9回諏訪湖クリーン祭り。2020-03-06
30諏訪湖清掃諏訪湖清掃第9回目「諏訪湖クリーン祭り」湖岸の清掃をする人たち。全町一丸式の運動の形をとって進められている。2020-03-06
31アカウオ釣りアカウオ釣り早朝、市街地の小川(諏訪湖に流れ込む古川の河口近く)へのぼるアカウオを釣る男性。下水道の普及で市街地を流れる川もきれいになり魚たちが戻ってきている。諏訪地方でアカウオと呼ぶのははコイ科の魚で、産卵期になると体が婚姻色で赤みを帯びてくるウグイをさすことが多い。河川に群で上がる姿が見られる。2020-03-06
32諏訪湖岸諏訪湖岸連日の猛暑でアオコの湖に。下水道の普及とともに、湖の水質はわずかながら改善されてきているのだが、晴天続きでアオコが急速に増殖し、湖面は緑のペンキのような色になって、岸うつ波もべったりと重い。さらににおいも伴うこともあり目にも鼻にも早い改善が望まれる状態だった。2020-03-06
33「樋門」を新設する工事「樋門」を新設する工事湖へ注ぐ小河川(古川)の河口へ「樋門(ひもん)」を新設する工事。湖の洪水防止のため、護岸提を1mをかさ上げし、さらに川の河口へ樋門造り増水時に逆流するのを防ぐ工事という。将来は樋門へポンプを設ける計画というが、こうした不自然な治水計画に首を傾ける住民が多い。2020-03-06
34砥川の風景砥川の風景立秋、霧ケ峰から諏訪湖へ流れる砥川で「カジカ」を追う子どもたち。砥川の清流と呼ばれてきたが、近頃はだいぶ汚れてきて、「カジカ」はほとんどとれない。河岸の草の穂に秋を感じさせる風景。2020-03-06
35砥川土手砥川土手オオマツヨイグサの咲く砥川の土手。富士見橋付近から諏訪湖方面を写している。2020-03-06
36砥川土手砥川土手砥川の土手富士見橋付近から諏訪湖に向かって撮影。林工業(西弥生町)の看板が見えるが、ここには弥生町にあった旧諏訪女子学園があった。2020-03-06
37諏訪湖開き諏訪湖開き諏訪湖開き、下諏訪港桟橋へやってきた「ジェットライナーすわこ」。この高速艇、岡谷-上諏訪間の定期航路に就航していた。2020-03-06
38金色のなまず金色のなまず諏訪湖でとれた金色のなまず。3月5日下諏訪町の砥川先でつかまり、諏訪市水族館(湖畔のSLが置いてある辺り)入りしたなまず。黄色の色素が強すぎて黒色の色素がないための現象らしい。「アサヒグラフ」3月24日号「サカナだって金満時代」の見出しの記事とともに紹介、話題を集めた。水族館は現在はなくなっている。2020-03-06
39高浜より、立春薄氷の湖を望む高浜より、立春薄氷の湖を望む高浜より、立春、薄氷の湖と湖畔の町を望む。この日、-9,0度(平年比2,0度低)と冷え込み、湖は三度目の結氷となったが、昼過ぎには解氷。2月立春となれば、朝の凍みはきつくても、陽は濃くなっていく。2020-03-06
40高木村の風景高木村の風景高木の村内。2020-03-06
41高木村の風景高木村の風景高木の村内。2020-03-06
42高木村の風景高木村の風景高木の村の風景。 4枚目の写真は津島神社への登り口。 坂を上った右手には旧第六保育園があった。2020-03-06
43暖冬の街暖冬の街暖冬の町(左手前は施行近い町文化センター)。この日最高気温は10.4度まで上がり春先のよう。この年の1月の平均気温は3月上旬並み。諏訪湖は3年連続御神渡りの見られない明海(あけうみ)に終わった。2020-03-06
44山王閣屋上からの眺望山王閣屋上からの眺望白鳥がシベリアへ去った日の諏訪湖と湖の町、諏訪大社秋宮外苑の旧山ホテル王閣屋上からの町並み。現在建物はなく駐車場になっている。2020-03-06
45山王閣屋上からの眺望山王閣屋上からの眺望白鳥がシベリアへ去った日の諏訪湖と湖の町、諏訪大社秋宮外苑の旧「ホテル山王閣」屋上からの町並み。現在建物はなくなり駐車場になっている。2020-03-06
46みぞれ降る町みぞれ降る町みぞれでひと足の途絶えた夜の街、南岸低気圧によるカミ雪(県下北部に多い降雪が春が近づいた頃県下南部に降る雪のこと)で、中南部を中心に大雪となった。高地の諏訪湖周辺がなぜかみぞれ。春の前ぶれカミ雪がひと月以上も早く訪れるのは異変。2020-03-06
47諏訪湖岸諏訪湖岸諏訪湖岸 コンクリートで固められていたあ2020-03-06
48砥川先砥川先昭和38(1963)年撮影の砥川先の風景。2020-03-06
49諏訪湖遠景諏訪湖遠景大正元年の撮影。諏訪湖遠望。2020-03-06
50下諏訪全景下諏訪全景中央の森が青塚、左の森が秋宮。砥川が諏訪湖に突き出たように中洲をつくっている。2020-03-06
51中部電力株式会社(特級)営業所中部電力株式会社(特級)営業所昭和26(1951)年中部電力下諏訪営業所となり、昭和40(1965)年11月鉄筋コンクリートの新社屋に改造される。 平成8(1996)年諏訪湖時の科学館儀象堂に改築され、現在は「しもすわ今昔館おいでや」として下諏訪町観光の拠点となっている。2020-03-06
52水月園より諏訪湖を望む水月園より諏訪湖を望む萩倉合名会社を中心に水月園より下諏訪町を望む。萩倉合名会社(現小口克郎氏宅上)萩倉の製糸創業は明治11(1888)年篠藤・小河原氏等が機械製糸を繰業し中山道による物流(鉄道未施工),豊富な森林資源、用水の便などにより発展した。しかし明治30年代の石炭の利用、明治35(1902)年の篠ノ井線の開通、明治38(1906)年中央東線が岡谷駅まで開通、森林資源の枯渇等により立地条件が逆転し明治38(1905)年春宮下へ移転し萩倉での製糸は終止符を打った。2020-03-06
53建設途中の山王閣建設途中の山王閣山王台に竣工した国民宿舎山王閣。手前に手入れの行き届いた桑畑が残っているのがわかる。№520,521と比較して見ていただきたい。2020-03-06
54建設途中の山王閣建設途中の山王閣建設工事中の山王閣。秋宮南隣りの神宮寺大坊跡から裏側を撮影。山王閣は景勝地山王台に昭和40(1965)年12月24日、「国民宿舎下諏訪観光会館・山王閣」として施工した。残念ながら平成17(2006)年3月31日で営業を終了し、その後取り壊されている。100%かけ流しの天然温泉は「美人の湯」として知られ、諏訪湖を見下ろす展望の良さも売り物だった。武居源湯からの引湯であった。 №520,525と比較して見ていただきたい。2020-03-06
55山王閣山王閣国民宿舎山王閣を秋宮側からその正面を撮影。山王閣は景勝地山王台に昭和40(1965)年12月24日、「国民宿舎下諏訪観光会館・山王閣」として施工した。残念ながら平成17(2006)年3月31日で営業を終了し、その後取り壊されている。100%かけ流しの天然温泉は「美人の湯」として知られ、諏訪湖を見下ろす展望の良さも売り物だった。武居源湯からの引湯であった。 №521,525と比較して見ていただきたい。2020-03-06
56山王閣山王閣山王閣(久保海道方面からの撮影)左手の平屋の建物は諏訪湖が一望できる大浴場。武居源湯から引湯。2020-03-06
57四阿屋(あづまや)四阿屋(あづまや)明治25年、紫庭庵金桃(本名小口正衛 安政6年生まれ第2代村長・第5代町長)が武居の雨後庵町長の庭先へ四阿(あづまや)を建てる。この四阿は郡内の俳人を読んで句会開催するため、諏訪湖を一望できる武居の高台に建てたもの。 俳人金桃らもしばしば句会開いた武居の雨後庵前の四阿屋(あずまや)。2020-03-06
58砥川改修前の天井川砥川改修前の天井川砥川改修前の天井川。 「諏訪湖の研究」からの複写と思われる。2020-03-06
59諏訪湖付近の富士諏訪湖付近の富士絵葉書「諏訪名勝 諏訪湖付近の富士」2020-03-06
60石投げ場石投げ場石投げ場から望む諏訪湖。湖岸の埋立がすすみ湖岸の形が変化し運動公園ができ湖岸道路もある。№425と比較するとその変化がよくわかる。2020-03-06
61石投げ場より石投げ場より石投げ場から諏訪湖を望む。こののち埋め立てが行われ景色は一変する。国道と並行して中央東線を蒸気機関車が走る。№426と比較するとその変化がよくわかる。2020-03-06
62高浜の信号高浜の信号国道20号から湖岸道路へ行く高浜の信号付近。2020-03-06
63西高木より諏訪湖を望む西高木より諏訪湖を望む西高木から望む諏訪湖(現諏訪湖博物館辺り)。後ろにスペアータイヤを積んだボンネットバスが2台見える。2020-03-06
64高浜高浜高浜。ここに温泉湧出し、旅館街があった。眺望のよさは諏訪湖周辺随一で、附近に舟遊場・釣り堀・温泉プール、水族館等があった。後ろには懐かしいボンネットバスが停まっている。 看板は「高浜釣堀」。2020-03-06
65高浜湾高浜湾高浜湾の風景。湖岸の道路に柳の木が見える。2020-03-06
66高浜高浜今はなつかしい、諏訪湖の遠浅の湖岸。 付近に温泉が湧出し、旅館街があった。また温泉プール・釣り堀・水族館もこの付近にあった。2020-03-06
67石投げ場から諏訪湖を望む石投げ場から諏訪湖を望む石投げ場から望む諏訪湖。湖岸の埋立がすすみ湖岸の形が大きく変化した。運動公園ができ湖岸道路もできている。 №409の写真と比較すると変化がよくわかる。2020-03-06
68石投げ場から諏訪湖を望む石投げ場から諏訪湖を望む石投げ場から望む諏訪湖。湖岸が国道付近にある。2020-03-06
69下諏訪遠景下諏訪遠景諏訪湖遠景。手前下に信金御田町支店、JUSCOの赤い看板や下諏訪南小学校も見える。また諏訪湖の対岸に上川の橋も見える。2020-03-06
70下諏訪遠景下諏訪遠景諏訪湖遠景。写真手前の左側の建物は片倉製糸、右側が入一製糸、左端の樹木は秋宮の森、その隣が現下諏訪中学校。2020-03-06
71旧下諏訪町役場旧下諏訪町役場大正14(1925)年7月18日大社通りに移転した旧下諏訪町役場。現在は日本電産サンキョーオルゴール館として利用されている。役場庁舎は昭和45(1970)年にさらに西鷹野町の現庁舎へ新築再移転している。2020-03-06
72旧下諏訪町役場棟上旧下諏訪町役場棟上明治7(1974)年に下諏訪村成立した。旧本陣、下諏訪学校、来迎寺と仮役場を移転し青塚東方に新役場ができた。さらに大正14(1925)年7月18日大社通りに移転した旧下諏訪町役場。博物館の写真では、大正13(1924)年11月25日検査執行となっている。落成は翌大正14(1925)年7月18日である。2020-03-06
73空から見た下諏訪・諏訪湖空から見た下諏訪・諏訪湖航空写真。冬の諏訪盆地。 富士山や八ヶ岳、赤砂先、下諏訪の街並みなどがわかる。2020-03-06
74風薫る高浜湾風薫る高浜湾写真の説明に、「風薫る高浜湾」の文字がある。昭和6年度町勢覧に同様の写真がある。2020-03-06
75諏訪湖のアオコ諏訪湖のアオコアオコ1や水草が目に付く諏訪湖畔。2020-03-06
76航空写真  赤砂崎付近航空写真  赤砂崎付近空から見た諏訪湖。赤砂崎、漕艇場を望む。2020-03-06
77航空写真 砥川河口付近 航空写真 砥川河口付近 空から見た諏訪湖。赤砂崎、漕艇場を望む。2020-03-06
78航空写真 漕艇場付近航空写真 漕艇場付近空から見た諏訪湖。漕艇場。2020-03-06
79航空写真 下諏訪町市街地航空写真 下諏訪町市街地空から見た下諏訪町と諏訪湖。写真右下に漕艇場が見える。昭和52(1977)年当時は西大路通りがまだできていないのと同様諏訪湖の湖周道路も未完成である。2020-03-06
80宅地化する前の湖浜地区宅地化する前の湖浜地区上空から見た下諏訪南小学校。旧木造校舎、旧講堂、旧小体育館、50Mプールも見える。校舎から諏訪湖畔までは水田が広がっている。2020-03-06
81尾掛松(杉の木神社)尾掛松(杉の木神社)絵葉書になった「尾掛松」。古代の「松之木湛(たたえ)」神事の地と伝えられている。「湛」とは「たたり」のことで、尾掛松に神霊が大空より降臨することを信じて祀ったものである。「杉の木様」とも呼ばれていた。 樹種はヒノキ科ビャクシンで、住民はもとより甲州道中を旅する人も参拝したという。 また諏訪湖上で漁をする人の目印の巨木でもあったが、枯れ死していたので、平成16(2004)年1月に安全上の配慮から伐採され幹だけが残る。 この尾掛松には諏訪明神様が出雲出へ掛けた時、竜神が頭だけ出したので、他の神様が尾はどこにあるのか聞いたところ、「尾は(大和)諏訪湖のそばの高い木(高木)に掛けてある」と答えたことから、それが大和・高木の地名の起源と伝えられている。なお地名の語源には諸説あります。現在は「杉の木神社」2020-03-06
82殿村遺跡発掘調査殿村遺跡発掘調査殿村遺跡緊急発掘調査作業の様子。昭和23(1948)年6月、地主の長崎氏が耕作中、地中からほぼ完形の土器がでてきて、今井広亀氏及び下諏訪史談会会員の主唱により発掘調査をした。住居跡の発見の他、石錘(すい)や土錘が出土し諏訪湖で漁業をしていた様子が分かる。その他石鏃(ぞく)、石匙(さじ)、打石斧(せきふ)などの石器や、復元して完全になった壺や顔面把手付の土器も見つかており、縄文中期の貴重な遺跡である。昭和29(1954)年に発見さた第三号竪穴には復元上屋がかけられた。2020-03-06
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