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写真タイトル説明登録日
1松本藩士の墓松本藩士の墓元治元(1864)年、水戸浪士と高島・松本両藩の樋橋合戦の際、松本藩の戦死者4名を葬った墓である。建立は松本藩の隊長であった稲村元良で、当初浪士塚の近くに埋葬したところ、高島藩から反対されこの地に改葬されたという。2023-07-09
2樋橋茶屋跡樋橋茶屋跡集落の中央がかぎの手になっているのは多くの宿場に見られる形態である。本陣の「嘉登屋(かどや)」は曲がり角にあり、大名・公家たちのお小休みなどに使われた。宝暦4(1754)年にかどや火事があったとき、藩は何の抵当もなしに米12俵を貸している。文久元(1861)年、和宮下向の折にお小休みのために御殿を建てたが、樋橋大火で焼失してしまった。さらに江戸末には水戸浪士と高島・松本藩の和田峠の合戦の舞台にもなっている。諏訪の歴史の中では忘れられない場所の一つである。2022-03-24
3浪人塚浪人塚元治元(1864)年10月、水戸の天狗党は武田耕雲斎を総大将にして、京都にいた一橋慶喜に尊王攘夷の実行を迫るため軍を進め、11月20日に800人余りの勢力で和田峠を越えてきた。幕命を受けた高島藩は家老千野孫九郎を総大将に総動員し、松本藩350人とともにこれを迎え撃った。この合戦で戦死した者は高島藩6名、松本藩4名、浪士軍は10数名であった。明治4(1871)年、高島藩は浪士軍の戦死塚を造り変えることになり、石工山田金右ヱ門がその碑を刻んだ。現在でも慰霊祭が引き継がれ行われている。2022-03-19
4浪人塚の例祭浪人塚の例祭浪人塚の例祭、塚を守っている樋橋部落のご老人たち。毎年この時期には供養祭をしている。明治4(1871)年に諏訪藩が建てた墓碑には6人の名が刻まれている。幕末元治元(1864)年10月20日、京都を目ざす水戸の天狗党約800人の軍勢と和田峠の樋橋で待ち伏せた諏訪・松本藩連合軍とがぶつかった樋橋戦争の水戸側の戦死者11人を葬ってある浪人塚。2020-03-06
5和田嶺合戦90年祭和田嶺合戦90年祭元治元(1864)年、総勢1000人の水戸浪士軍は尊皇攘夷の実行を迫るため中山道を上って来た。11月20日、これを迎え撃つ諏訪藩・松本藩と雨中の戦いとなった。この合戦の戦死者は諏訪藩6名、松本藩4名、浪士軍10数名であった。のちに両軍戦没者を慰霊する浪人塚が立てられた。 和田嶺合戦90年祭。昭和29(1954)年10月20日撮影。2020-03-06
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