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登録リスト(該当:12件)
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1
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写真
タイトル
説明
登録日
1
慈雲寺
臨済宗白華山慈雲寺。鎌倉幕府に仕えた金刺光貞の依頼で、中国の高僧、一山一寧が1300年に開山した。参道入り口に一山一寧の諏訪の名所を謳った漢詩「諏訪八景」の石碑がある。火災により焼失したが武田信玄により再興された。そのため本堂屋根には梶の葉紋と武田菱が掲げられている。境内には和田義盛の刀石がある。
2024-06-11
2
樋橋茶屋跡
集落の中央がかぎの手になっているのは多くの宿場に見られる形態である。本陣の「嘉登屋(かどや)」は曲がり角にあり、大名・公家たちのお小休みなどに使われた。宝暦4(1754)年にかどや火事があったとき、藩は何の抵当もなしに米12俵を貸している。文久元(1861)年、和宮下向の折にお小休みのために御殿を建てたが、樋橋大火で焼失してしまった。さらに江戸末には水戸浪士と高島・松本藩の和田峠の合戦の舞台にもなっている。諏訪の歴史の中では忘れられない場所の一つである。
2022-03-24
3
萩倉薬師
信濃三薬師(辰野の七蔵薬師・長谷の戸倉薬師・萩倉薬師)の一つ。由緒ははっきりしないが、一説には東山田小田野に萩倉薬師跡と伝えられる地名があるところから、ここから移転したのではないかと推定されている。明治30(1903)年に焼失したため、明治36(1903)年に再建されている。堂は堅牢、彫刻も優れているという。
2022-03-24
4
東明館・地鎮祭
中村勝五郎文書に「明治三十三年十二月二十六日湯田町集会所建る」とある。この集会所(東明館)は明治40(1907)年の来迎寺の火事の後間もなく焼失したので、大正4(1915)年に現在地(新町上)に再建された。 1772から1777までは東明館建て替え工事の一連の写真。この写真はこの大正4年に建てられた建物の建て替え工事のための地鎮祭の様子。なおこの工事がいつ行われたかは調査中。
2022-01-12
5
東明館の解体作業
中村勝五郎文書に「明治三十三年十二月二十六日湯田町集会所建る」とある。この集会所(東明館)は明治40(1907)年の来迎寺の火事の後間もなく焼失したので、大正4(1915)年に現在地(新町上)に再建された。写真はこの時建設された建物を建て替える際の解体工事写真と思われる。解体前の東明館は1772から1777参照。 なお、この工事がいつ行われたかはまだ未確認。調査中。
2022-01-12
6
東明館集会所
中村勝五郎文書に「明治三十三年十二月二十六日湯田町集会所建る」とある。この集会所(東明館)は明治40(1907)年の来迎寺の火事の後間もなく焼失したので、大正4(1915)年に現在地(新町上)に再建された。 なお、下諏訪町誌民俗編(417p)には明治32年に湯田町・新町に東明館が建てられたと書かれているので中村勝五郎の文書と一年違っている。 東明館建て替え工事の一連の写真。なおこの工事がいつ行われたかは調査中。
2020-07-23
7
祢宜太夫邸焼失
明け方、借家人の失火から住居部分を全焼した。この家には武田晴信(信玄)安堵状など「祢宜太夫家文書」が伝えられていたが文書類は焼失。焼け残った祢宜太夫屋敷の土蔵。こちらは焼失後の写真。
2020-03-06
8
土蔵
桃井屋敷と消失前の土蔵。8月21日に焼失。「すわ湖の町の平成元年」80pには焼失した写真が掲載されている。 №1047参照。
2020-03-06
9
小路の奥にも製糸の名残
右手は昭和34・35年頃まで操業していた「ヤマカ河西製糸所」の再繰部の建物。三協精機の創業者が、昭和23(1948)年の暮れ、この工場の一部を借り受け、旋盤機などをすえつけて旗揚げを図ったが、操業開始の前夜工場を焼失、やむなく諏訪市へ工場を移して創業したというエピソードがある。
2021-04-13
10
河西製糸所
小路の奥に製糸の名残り。昭和34(1959)・35年ころまで操業していた「ヤマカ社河西製糸所」の建物。三協精機の創業者が、昭和23(1958)年の暮れ、この工場の一部を借り受け、旋盤機などをすえつけて旗揚げを図ったが、操業開始の前夜工場を焼失、やむなく諏訪市へ工場を移して創業したというエピソードがあると「諏訪湖の町の平成元年」に紹介されている。
2021-04-04
11
禰宜太夫屋敷
諏訪大社下社五官のひとつ禰宜太夫家。当主が東京へ去り借家人が住んでいたが平成元(1989)年8月21日焼失した。
2020-03-06
12
看板「西餅屋邸小口金右衛門」
西餅屋は江戸時代中山道下諏訪宿と和田宿の五里十八丁の峠路に設けられた「立場(たてば)」(人馬が休息する所)であった。金右衛門、日野屋六兵衛、竹屋清右衛門、小松屋嘉助の四軒があり藩堺にあったので、ときには、穀留番所が置かれた。幕末の砥沢口合戦のときは、高島藩の作戦で焼失されたが、すぐに再建された。現在は道の「曲之手(まきのて)と茶屋あとが残っている。昭和41(1966)年11月10日小口金一郎氏より
2020-03-06
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1
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