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登録リスト(該当:9件)
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1
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写真
タイトル
説明
登録日
1
松本藩士の墓
元治元(1864)年、水戸浪士と高島・松本両藩の樋橋合戦の際、松本藩の戦死者4名を葬った墓である。建立は松本藩の隊長であった稲村元良で、当初浪士塚の近くに埋葬したところ、高島藩から反対されこの地に改葬されたという。
2023-07-09
2
藤森稲荷社
富部稲荷平にある小和田村藤森巻祝神の稲荷社で「小和田のお稲荷さま」と呼び富部村の人々に親しまれていた。 高島藩の藩主より諏訪湖の漁業とこの辺りを網干場として拝領し、藤森巻20軒ほどの守り神として稲荷社を祀った。 今は小和田の所有の畑はないが社は藤森巻で祀っている。御柱祭も旧慣にしたがい湖上を舟で曳いてくる。
2021-12-23
3
浪人塚
元治元(1864)年10月、水戸の天狗党は武田耕雲斎を総大将にして、京都にいた一橋慶喜に尊王攘夷の実行を迫るため軍を進め、11月20日に800人余りの勢力で和田峠を越えてきた。幕命を受けた高島藩は家老千野孫九郎を総大将に総動員し、松本藩350人とともにこれを迎え撃った。この合戦で戦死した者は高島藩6名、松本藩4名、浪士軍は10数名であった。明治4(1871)年、高島藩は浪士軍の戦死塚を造り変えることになり、石工山田金右ヱ門がその碑を刻んだ。現在でも慰霊祭が引き継がれ行われている。
2022-03-19
4
白鷺山
宝光院(敬愛社)の「お山」とされている。古くから修験の場で、古く山上の岩に不動の二字を刻んで本尊とし、安永6年に石尊大権現を還座したといわれる。のち高島藩家老千野家の庇護を受けながら白鷺稲荷大明神を祀ったり、文政9年(1826)には山の中腹に大日如来・阿弥陀如来・観世音菩薩を祀って熱心に修業したと伝わる。急峻な山道沿いにたくさんの神仏碑が祀られており、現在でも敬愛社の社員が御柱の年にこの白鷺山山頂で紫灯護摩が行われている。
2021-06-23
5
水戸浪士25年祭
浪人塚(水戸浪士の墓) 元治元年(1864)11月20日水戸浪人(天狗塔)の総勢千余名が、和田峠で、待受けた松本・高島藩士と争い、多数の死傷を出した。写真は水戸浪士25年祭。中央の日の丸の後方が浪人塚で、まだ木は大きくなっていない。
2022-03-19
6
魁塚
赤報隊幹部処刑の地、魁塚。慶応4(1868)年、江戸城後略の「官軍先鋒嚮導(きょうどう)隊」の旗を掲げて下諏訪宿入りした「官軍赤報隊」は東山道軍総督から偽官軍の烙印を押され、捕らえられた相楽総三ら幹部8人は3月3日、下諏訪宿外れの「はっつけ田」で斬首された。 魁塚正面中央の碑が相楽以下8人の墓碑、向かって左に渋谷総司贈従五位の碑、その隣が追分坂本で戦死した金原忠蔵ら4人の招魂碑。中央墓碑に向かった右が相楽総三贈正五位の碑、その右が高島藩で勤王の先駆をなした石城(いしがき)東山の招魂碑。地元の相楽会を中心に毎年4月第一日曜日に供養祭を行っている。
2020-03-06
7
児湯と子宝地蔵
遊泉ハウス児湯。児湯は古くは小湯と書かれ、子宝に恵まれるというので児湯とも書かれた、他の温泉に比べ湯量が少なかったが、よく温まると湯効は早くから認められていた。高島藩主忠虎などもこの湯に入りに来たと伝えられている。綿の湯が閉湯となった時、遊泉ハウス児湯としてリニューアルし温泉の前に昭和63(1988)年4月子宝地蔵が祭られ、パワースポットの一つとして紹介されたりしている。
2020-03-06
8
看板「西餅屋邸小口金右衛門」
西餅屋は江戸時代中山道下諏訪宿と和田宿の五里十八丁の峠路に設けられた「立場(たてば)」(人馬が休息する所)であった。金右衛門、日野屋六兵衛、竹屋清右衛門、小松屋嘉助の四軒があり藩堺にあったので、ときには、穀留番所が置かれた。幕末の砥沢口合戦のときは、高島藩の作戦で焼失されたが、すぐに再建された。現在は道の「曲之手(まきのて)と茶屋あとが残っている。昭和41(1966)年11月10日小口金一郎氏より
2020-03-06
9
万治の石仏 下の原念仏講
浮島横の万治(まんじ)の石仏。この写真は大正15(1926)年に河西政常氏により撮影されたもの。地元の人々は「あみだ様」「みたらしの石仏」と呼んで信心を続けてきた。下の原念仏講では長く万治石仏前で念仏の行事を行ってきた。 伝説では高島藩三代藩主忠晴候が春宮に石の鳥居を寄進しようとしたとき、石工がノミを入れると石から血が出たと伝えられ、のち石に阿弥陀如来と刻んで供養したという話も伝えられる。 石仏の側面に「万治三年」の年号や、「願主明誉浄光・心誉廣春」と刻まれていること、万治3(1660)年から70年後の諏訪藩主手元絵図には石仏ではなく「えぼし岩」と書かれていることなどから、木喰行者弾誓(たんせい)一派の信者が残したものではないかとする見方もある。 石仏としては首と胴がちぐはぐであったり、胸に袈裟と
2020-03-06
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