| 写真 | タイトル | 説明 | 登録日 |
---|
1 | | 3D富部一里塚 | 江戸日本橋から53里、甲州道中最後の一里塚である。ここから十余町(1km余り)、下諏訪宿で中山道に合流する。
| 2024-06-11 |
2 | | 鎌倉街道ロマンの道 | 観光遊歩道として昭和58年(1983)に整備された。歴史上の鎌倉街道とは異なる。諏訪大社秋宮から霞が城跡ー唐糸・万寿姫供養塔ー鎌倉街道ー桜城跡(山城)ー 一念石 ー大岩不動ー真清(ますみ)神社ー来迎寺かな焼き地蔵ー青塚古墳ー綿の湯ー秋宮、全行程1.5キロ徒歩1時間余。写真は大岩不動の入り口にある看板である。 | 2024-05-22 |
3 | | 一念石(座禅石) | 金刺盛澄は流鏑馬の名手で、精神統一のためこの地で座禅を結んだと言い伝えられている。盛澄の子、盛隆も父に倣いここに座したといういわれもあり、座禅石を置き「一念」と刻んだ石碑が設置されている。 | 2024-05-22 |
4 | | 室戸台風の被害に遭った下諏訪共同倉庫 | 昭和9年9月22日撮影とある。前日の室戸台風によって屋根が吹き飛んだ下諏訪共同倉庫(後の信濃蚕業)の繭蔵。下諏訪共同倉庫は大正中期に四王で創業した。手前に鉄道が見える。
下の写真は令和6年3月に同じ場所から撮影したイングスシナノ。 | 2024-03-19 |
5 | | ジャスコ下諏訪店の閉店 | 長年愛されたジャスコ下諏訪店が閉店。写真は閉店セールの模様。閉店当時はすでにイオン | 2024-03-19 |
6 | | 中央デパート | 国道20号線大社通り交差点(四ツ角交差点)にある衣料品店「中央デパート」は長年にわたり下諏訪町民に親しまれてきたが、令和6(2024)年3月、74年の歴史に幕を下ろした。写真は開店前の店先、入口の看板。
以前は手前茶色い建物は菓子店、白い建物は文房具店、人形店、中央デパートと店が並んでいた。 | 2024-03-26 |
7 | | 信州ジャスコ下諏訪店 | 信州ジャスコ下諏訪店。撮影は昭和50年代。開店直後の頃と思われる。 | 2024-03-19 |
8 | | 長野県下諏訪町立下諏訪南小学校 | 耐震のため新校舎に建て替えが行われた後の校舎。 | 2024-03-17 |
9 | | 3D町民力の碑 | 秋宮へ向かう八幡坂の途中、高札場の片隅にある石碑。
裏側には、町民の力で町の文化、風土、正義を守ってきた歴史が刻まれている。
この詳細については、秋宮近くの根津八紘美術館に資料が展示してある。
※再生ボタンを押すと3Dの画像で見ることができます。(端末によって正常に動作しない場合があります。)
| 2024-03-31 |
10 | | 旅客列車 | D51旅客列車
手前の電柱は国鉄の通信線の「はえたたき」
*「はえたたき」日本国有鉄道収容感染の線路沿いに立ち並んだ電柱(鉄道電信柱)の通称名。 | 2024-02-12 |
11 | | 照光寺の仁王像(四王の由来) | 照光寺の仁王像は2メートルを超える本格的な中世の仏像。言い伝えによると、文明14年(1472)の大洪水で宮川安国寺から流出し、諏訪湖を漂流した後、下諏訪に打ち上げられたという。像は加須加(春日)仏師の作とも、運慶の作とも伝えられている。当初は上座堂という仏堂に安置されていたというが、後に下社神宮寺の仁王門に移された。製作年は14~15世紀とされている。明治維新で廃仏毀釈が行われ、下社神宮寺所蔵の多くの仏像が照光寺に移管された。仁王像が2体打ち上げられたことが四王の由来とされている。由来については諸説ある。下諏訪町誌民俗編に詳細が記載されている。また、位置情報には仁王門のあったと思われる場所を記載した。 | 2023-12-17 |
12 | | 隠岐のあごなし地蔵・愛宕地蔵尊 | 昔、神殿(ごうどの)【大祝居館(おおほうりやかた)、現下諏訪中学校地籍】の西つづきに、犬射馬場(いぬいばば)と呼ばれた練武場があり、武士たちが日々練武に励んでいた。ある日、武士の流矢が隣の空き地で遊んでいた子どもたちの中に飛び込んだ。子どもの泣き声があがり、武士が顔色を変えて駈け寄ると、子どもたちに囲まれて下あごに矢を受けられたお地蔵様が横たわっていた。抱き起こすとお地蔵様の下あごが削れ落ちたという。
村人は、子どもたちの身代わりになられたお地蔵様の功徳に感謝し、馬場に隣接して祠(ほこら)を設け、懇(ねんご)ろにおまつりして「隠岐(おき)のあごなし地蔵」と呼んだ。なぜ「隠岐」とつけたかは明らかではない。 | 2023-12-03 |
13 | | 準急列車リゾートふるさと | 「リゾートビューふるさと」JR東日本が開発した次世代型ハイブリット気動車【エネルギーを貯蔵する鉄道車輌】。2014(平成26)年5月17・18日、6月14・15日の4日間長野エリアのハイブリット観光気動車・HB-E300系「リゾートビューふるさと」による臨時快速列車『リゾートビュー八ヶ岳』が、松本~中込間で運行されたのに伴い下諏訪通過。
小海線を走った。 | 2024-02-17 |
14 | | 準急列車 | キハ58準急列車リゾートビューふるさと
線路を挟み右側は現在の中部電力の社屋、左側は金作木材貯木所(現在は住宅地)になっている。 | 2024-02-17 |
15 | | 砥川鉄橋 | 砥川鉄橋を走る電車。 | 2024-02-17 |
16 | | 旧あずさ色「特急あずさ」 | 183系旧あずさ色による「特急あずさ」
1992(平成4)年に高原とアルプスをイメージしたものへ塗装変更し、特急のシンボルマークが撤去されている。
諏訪湖上花火大会の臨時列車。 | 2024-02-17 |
17 | | はまかいじ号 | 「はまかいじ号」が中央東線に登場したのは1994(平成6)年春の臨時列車から、横浜駅から横浜線・中央本線・篠ノ井線~松本駅を結ぶ週末の臨時特急となっていたが2019(平成31)年春運行終了・廃止が決定した。 | 2024-02-15 |
18 | | 普通列車 | 飯田線豊橋行き普通列車、砥川鉄橋を行く。 | 2024-02-15 |
19 | | 183系特急電車 | 183系特急電車 181系の次に配置された特急電車で国鉄色最後の特急だった。
その後クリームと赤い線の入ったグレードアップ車、長野色などに変化したが2005(平成17)年の今年も千葉の車両が時々乗り入れてくる。 | 2024-02-15 |
20 | | D51蒸気機関車 | D51473が牽く長野行き普通列車。 | 2024-02-12 |
21 | | 砥川鉄橋 | 下諏訪砥川鉄橋を走るEF13(国鉄EF13型電気機関車) | 2024-02-15 |
22 | | 80系電車 | 砥川鉄橋を渡る80系電車。
後方が下諏訪町。 | 2024-02-15 |
23 | | D51蒸気機関車 | 電化前のD51、中央東線下諏訪砥川鉄橋にかかるところ。 | 2024-02-15 |
24 | | 承知川鉄橋 | 下諏訪町承知側の氾濫により不通になっている中央東線承知川鉄橋へ「マルチプルタイタンパー」略してマルタイが出動。開通へ向けての作業中。
いつもは夜間の作業が多いこの車輌、日中に動くことは大変珍しい。 | 2023-11-23 |
25 | | 清水橋 | 清水橋より見た、平成18(2006)年7月豪雨災害時の砥川の様子。 | 2024-02-15 |
26 | | 社東町付近 | 社東町付近の砥川の様子
砥川の水面(川の流れ)が住宅地より高い(天井川)ということがよくわかる。 | 2024-02-15 |
27 | | 回送列車 | 赤砂を回送するC12 | 2024-02-14 |
28 | | 準急列車 | 松本行き準急列車キハ58 | 2024-02-14 |
29 | | 回送列車 | 下諏訪‐岡谷間の533回送列車C12牽引。 | 2024-02-14 |
30 | | 80系電車 | 80系電車 | 2024-02-12 |
31 | | C12 回送列車 | 冬の赤砂を回送するC12。 | 2024-02-14 |
32 | | 回送列車 | 先頭車両はC12、岡谷へ向かう回送列車、EF13は最後尾 | 2024-02-14 |
33 | | E233列車 | 普段はここを走ることのない列車だが諏訪湖上花火大会、新作花火大会では首都圏の列車が臨時で花火客を乗せせて茅野-松本間を走る。
背後に見える「日本電産サンキョー」の看板も2023(令和5)年3月をもって消えた。 | 2024-02-08 |
34 | | 横河川 | 右側が横河川の桜並木。
「ナショナル」の看板と電車。 | 2024-02-12 |
35 | | 看板と電車 | 「ナショナル」の松下電器の看板だけが目立つ。
田園風景の中を走る電車。桜並木は横河川。 | 2024-02-12 |
36 | | 旧型電車 | 飯田線から来た旧型電車。 | 2024-02-12 |
37 | | 腕木信号機 | 下諏訪駅遠方信号。
腕木信号機。 | 2024-02-12 |
38 | | 80系電車 | 砥川鉄橋脇から岡谷方面を見る。
80系電車がはるかに望まれる。 | 2024-02-12 |
39 | | 蒸気機関車最後の日 | 中央線下諏訪赤砂付近
蒸気機関車最後のころ
D5129混合列車 辰野から上諏訪まで部分電化した年で、架線が張られている。
上諏訪からD51が消える1年8か月前で、この「カマ(蒸気機関車)」にはその後、函館本線で行き合っている。
40年後この場所はそのころの面影は全くない。 | 2024-02-12 |
40 | | D51蒸気機関車 | 下諏訪へ向かうD51旅客列車。
10系客車5両を含む客車9両はこの辺りでは長い列車であった。 | 2024-02-12 |
41 | | 旧型電車 | 飯田線からの旧型電車4両編成
80系とこの列車だけが4両であとは2両編成だった。 | 2024-02-12 |
42 | | C12 回送列車 | 先頭はC12、岡谷へ向かう回送列車、EF13は最後尾。 | 2024-02-11 |
43 | | 赤砂踏切 | 「赤砂踏切」と呼ばれていたが通れるのはバイクまで、
車が少ない時代の姿。 | 2024-02-11 |
44 | | D51 蒸気機関車 | 1963(昭和38)年~1967(昭和42)年ごろの岡谷市長地地区に隣接しの赤砂の中央線の風景。下諏訪町の砥川から横河川の間で撮影したもので飯田線から旧型電車とキハ58の準急、D51客車列車、80系電車などが見られた。また西大路通りの開通は1950(昭和55)年
写真は中央線岡谷~下諏訪間 上り列車
辰野~神手話間が部分電化され中央線に乗り入れて来た頃の写真でD51が客車を牽いていた
この場所も住宅、工場のためよく見えるところではなくなった。 | 2024-02-11 |
45 | | フォーク夢列車 | 乗車記念パネル。 | 2024-02-11 |
46 | | 115系列車 | 飯田線 普通列車豊橋行き115系列車。
これはJR東海の115系で湘南職と呼ばれていた。 | 2024-02-11 |
47 | | 電気機関車 | 国鉄EF64形電気機関車では通常は貨物列車牽引の機関車。
20系客車 20系寝台車がブルトレ運用(ブルートレイン)から離脱後中央線にもその姿を見せるようになり修学旅行・スキー団体臨時列車などで運用されていた。
列車は一世を風靡したブルートレイン。 | 2024-02-08 |
48 | | しなの鉄道 | 2015(平成27)年3月14日北陸新幹線金沢延伸に伴って、
信越本線長野~直江津が経営分離され、このうち長野~妙高高原が「しなの鉄道北しなの線」として再スタートを切った。
2010(平成22)年7月4日長野総合車両センターの115系団体臨時列車「フォーク夢列車」が下諏訪-神城間で運行されたが、これはその時と同じ列車である。
この時すでに運用が終わっていたのでやはり臨時団体列車だったかもしれない。 | 2024-02-08 |
49 | | 209系ナハ | 209系ナハ54編成が長野総合車両センターへ輸送されました。車両は狭小トンネル未対応のため、パンタグラフが外された状態で回送されました。
首都圏で引退した車両の廃車解体場所が長野総合車両センターで主に行われるようになったために、中央・篠ノ井線を自走出来ない車両の改装にこの電気機関車が使用されたため俗称「死神」というあだ名がついた。
車両
EF64-1030長岡+209系中原社・ナハ54編成6両 @明科 | 2024-02-08 |
50 | | 213系 | 飯田線の顔として多く使用されている2130系列車。
飯田線は豊橋駅(愛知県)と辰野(タツノ)駅を結ぶ全長195.7㎞のJR東海の路線。
上諏訪・茅野まで乗り入れていた。乗り換えなしで全線乗る事が出来る長大路線。約7時間の乗車。 | 2024-02-08 |
51 | | はまかいじ | はまかいじ号が登場したのは1994(平成6)年は春の臨時列車から。
横浜線・中央本線・篠ノ井線~松本駅を結ぶ臨時特急となっていたが2019(令和元)春運行終了・廃止が決定された。使い勝手の良い列車であった。 | 2024-02-08 |
52 | | 飯田線 | JR東海飯田線213系 豊橋行き
飯田線の列車はJR東日本の中央本線に乗り入れていた。 | 2024-02-07 |
53 | | 普通列車 | 国鉄211系電車 飯田線の普通列車
1985(昭和60)年に登場した直流近郊型電車である。
当時は日本国有鉄道(国鉄)が国鉄分割民営化後は東日本旅客鉄道(JR東日本)、東海旅客鉄道(JR東海)、西日本旅客鉄道(JR西日本)により設計・製造された。中央本線を走行する211系はJR東海の運用。 | 2024-02-07 |
54 | | SL モノクロ | 100周年記念で西大路ガード上を行くD51498
モノクロ撮影 | 2024-02-07 |
55 | | SL 記念列車 | 100周年で西大路ガード上を行くD51498
試運転の日 | 2024-02-07 |
56 | | 20系客車 | 20系寝台車両が「ブルートレイン」運用から離脱後中央線にもその姿を見せるようになり修学旅行、スキー団体臨時列車などで運用された。初めの頃は10両以上の列車もあり、見通しの良い場所を見つけては撮っていたが編成も少しづつ短くなって客両車4両に電源車などもあった。(百瀬氏) | 2024-02-06 |
57 | | 「あさま」色の車両 | 1997(平成9)~1998(平成10)年
信越線から来た189系「あさま」色の車両が「あずさ」に使用された。
写真上 2005(平成17)年11月撮影 183系特急電車
181系の次に中央線に配置された特急車で国鉄色最後の特急だった。その後クリームと赤い線の入ったグレードアップ車、長野色に変化したが2005年現在も千葉の車両が時々乗り入れている。
写真下 2012(平成24)年 5月3日撮影
何かの臨時列車 エンブレムなし。 | 2024-02-06 |
58 | | 花火列車 | 諏訪湖祭湖上花火大会開催時は、普段は都心で走行しているれっさyが応援に來る。こちらは中央線快速列車に使用されている201系。
※ 諏訪湖湖上花火大会も他の花火大会と同様、多数の花火客に対応するため臨時列車が運転されます。
特に諏訪湖湖上花火大会開催時は、周辺に配置されている車両のみでは足りないため、都心で走行している車両も駆けつけます。普段その列車が走行しない地域で運転されるため、その珍しさから多くの鉄道ファンが撮影に訪れます。撮影者も花火打ち上げまで暇つぶしのためしばらくその様子を眺めていました。(百瀬氏) | 2024-01-28 |
59 | | 彩 いろどり | 彩 いろどりのロゴマークと社内 | 2024-01-28 |
60 | | 初詣列車 | 初詣列車「浪漫」とEF6442
「浪漫」は長野総合車両センター所属で同年3月老朽化のため廃車となった。 | 2023-11-23 |
61 | | 検測専用電車 | 下諏訪~岡谷間
クモヤ443系は日本国有鉄道が1975年に製造した。
線路や架線の状態などを測る「検測専用電車」で下諏訪へも時々姿を見せていた。
民営化後はJR東日本が所有していたが車両は2003(平成15)年に廃車となった。 | 2024-01-28 |
62 | | 検測専用電車 | JR貨物EH200の量産1号機が4月下旬から中央東線入線。
901号と入れ替わりで運用されている。車体は901の運転台窓からセンターピーラーがなくなっているなど多少のへhh化がある。名前がついていて「ブルーサンダー」間もなく本格的に塗り替えられるようだ。(百瀬氏) | 2024-01-28 |
63 | | あずさ2号 | 中央東線史m諏訪西大路ガード付近、松本運転所M8編成。
2月2日の「あずさ2号」の運転用として新宿へ回送されたときの写真。
2002(平成14)年2月2日午前8時2分新宿発松本行き「あずさ2号」はJR東日本が新型車両の運行記念として国鉄時代と同じクリーム色の車体に赤いライン、当時と同じプレートを付けた。「183系」のイベント列車が20年振りに走った。
これは日付に「あずさ2号」という曲のタイトルである「2」が並んだこと、長年同列車に使用されてきた183・189系の「あずさ」での営業運転終了が迫ったことを記念した特別列車であった。 | 2024-01-28 |
64 | | 新型あずさ | 新型あずさ E257系試運転。
JR東日本中央線 特急電車「あずさ」当時使用されていた183系・189系車両は2001(平成13)年にはすべてこの車両に置き換えられた。 | 2024-01-28 |
65 | | 国鉄シキ800形 | 国鉄シキ800形貨車が変圧器を輸送してきた国内最大の貨車。機関車は「ブルーサンダー」。シキ800形は発電所や変電所に設置される特大の変圧器を輸送するための貨車である。 | 2024-01-25 |
66 | | 中央線紀行号 | 停車する快速「中央線紀行号」と御柱の引き綱 | 2024-01-25 |
67 | | 中央線紀行号 | 快速中央線紀行号として旧型客車3両が松本~富士見間を辰野経由で1往復した。 | 2024-01-25 |
68 | | 新型お召列車 | 「E655新型お召列車」
JR東日本の皇室・海外国賓向けハイグレード車両E655。「お召列車 なごみ」 | 2024-01-25 |
69 | | クモヤ145形 | 「クモヤ145形」は旧型車の改造により使用されていた牽引車・救援車の置き換えを目的として、国鉄時代の1980(昭和55)年代に101系電車を改造して誕生した直流区間用の牽引車です。民営化後はJR東日本・JR東海・JR東日本に継承された。 | 2024-01-25 |
70 | | パノラマエクスプレスアルプス | 165系「パノラマアルプス」国鉄最後の年に改造された、
「団臨車(団体専用臨時列車)」用の列車で、展望車のあるジョイフルトレイン。
何回か乗ったがとても良い列車であった。(百瀬氏) | 2024-01-25 |
71 | | 貨車 | 国鉄シキ800形貨車は1973(昭和48)年から1996(平成8)年にかけて計3両が製造された日本国有鉄道の大物車である。 | 2024-01-25 |
72 | | いろどり | 「いろどり」何かのイベント列車、雪があるから初詣列車か 東日本旅客鉄道(JR東日本)が2007(平成19)年~2017(平成29)年まで保有していた鉄道車両(電車)で、ジョイフルトレイン(団体専用列車など)と呼ばれる車両。JR東日本長野支社が1995(平成7)年から所蔵していたジョイフルトレイン「浪漫」の後継列車。 | 2024-01-25 |
73 | | 「浪漫」EF6442 | 初詣列車「浪漫」 | 2024-01-24 |
74 | | 蒸気機関車 C1266 | 現在真岡(モオカ)鉄道にいる「カマ(機関車)」の30年前の姿。
当時上諏訪機関区には3両のC12がいた。C1267は茅野市に保存展示されている。
C1266は木曽福島から会津若松、そして旧川俣線が廃止される前日の営業最終列車の後、自力で川俣駅へ回送されたと聞いている。
ここで保存された後真岡鉄道で復活、NHK4の朝ドラにも出演、地味な現役時代とはまたひと味違った姿になっている。
復活後はまだ見ていないがそのうち会いに行こうと思う。
【百瀬氏文】
C12形式SL 文化財として27両が全国的に保存されている。C1266とC12777号が動態保存に復元されて、それぞれ真岡(モオカ)鉄道と大井川鉄道で運転されている。 | 2024-01-24 |
75 | | 蒸気機関車C56 | 下諏訪駅での533列車。
上諏訪機関区 入換専用機C56 102
C56は「国鉄C56形蒸気機関車」国鉄の前身鉄道省が製造した小型軽量テンダー式。
愛称は「シゴロク」「シーコロ」 | 2024-01-18 |
76 | | 石投げ場 | 明治38(1905)年の山崩れ(写真上の山崩れの現場に地図)の現場をゆくEF64。 | 2024-01-13 |
77 | | 流鏑馬 | 諏訪大社下社春宮通り(大門通り)にて流鏑馬。
後ろに見えるのは春宮大門の大鳥居。 | 2024-01-13 |
78 | | 奉納演武 | 奉納演武 下諏訪 諏訪大社下社 春宮にて
下諏訪町にある澄心館(チョウシンカン)林憲一氏による奉納演武(全剣連制定居合、夢想神伝琉、関口琉抜刀流) | 2024-01-13 |
79 | | 彩(いろどり) | イベント列車
(雪があるから初詣列車か)
東日本旅客鉄道(JR東日本)が2007(平成19)年から20017(平成29)年まで保有していた鉄道車両(電車)で「ジョイフルトレイン」と呼ばれた車両。
JR東日本長野支社が1995(平成6)年から所蔵していたジョイフルトレイン「浪漫」の後継列車。 | 2024-01-28 |
80 | | 記念切手 | 下諏訪観光協会発行の下諏訪駅100周年記念切手シート。
昭和40ー50年代撮影のSLの切手。 | 2024-01-13 |
81 | | 記念ポスター | 鉄道100周年、下諏訪駅開業100周年記念ポスター。
下諏訪の飲食店とのタイアップで作ったと思われる。 | 2024-01-11 |
82 | | D51記念ヘッドマーク | 100周年記念ヘッドマークに書かれた文字は上から
「中央本線開業100周年」
「1905-2005」
「富士見-茅野-上諏訪-下諏訪-岡谷」
「100th」
「茅野駅-岡谷駅 2005.10.28.29.30」
「100周年記念SL号」 と読める。
| 2024-01-11 |
83 | | 入場券 | 中央本線開通100周年記念として売り出された各駅の記念入場券の展示。 | 2024-01-11 |
84 | | D51ガード上を行く | 下諏訪駅100周年記念で西大路ガード上を行くD51498、本運転の日。
記念のヘッドマークがSLの正面についている。 | 2024-01-11 |
85 | | 記念切手シート | 下諏訪駅100周年記念事業、記念切手シート。 | 2023-12-28 |
86 | | テレホンカード | 国鉄(日本国有鉄道)最後の記念のテレホンカード。
このカードは昭和62年4月に国鉄分割民営化されたときに作られた。 | 2023-12-28 |
87 | | 記念バッジ | 開業100周年記念バッジ。
各地で催されている記念事業の内下諏訪駅は10月15・16日に行われた。
町おこしのタイアップで多彩な行事が予定された。
「記念ピンバッチ」 | 2023-12-27 |
88 | | 儀象堂記念腕時計 | 下諏訪駅開業100周年記念に作られた「儀象堂記念入場券腕時計」7月から始まった関連行事、「時の科学館・儀象堂」の記念入場券を兼ねた腕時計の絵柄。
※「諏訪湖時の科学館儀象堂」(下諏訪町)にて11月30日まで写真展示(140枚)・鉄道グッズ(あずさのヘッドマーク・D51番号板・行き先表示板など)の展示販売。Nゲージ・アニメキャラクターなどの鉄道模型。
また、入場にはD51の写真を文字盤に利用した「腕時計フリーパスポート券」(1500円)で期間中、何度でも入場可能。その他、鉄道時計を展示。〔明治時代のウォルサム(米国)から2000(平成12)年復刻のセイコーまでの25点〕時計のフリーパスポート券は通常価格2500円の商品、かなりお値打ちで記念になりそう。 | 2023-12-17 |
89 | | D51 蒸気機関車 | 中央本線開業100周年記念。
100周年記念SL号「D51824」
建設中の建物は中部電力の社屋。 | 2023-12-26 |
90 | | D51蒸気機関車 | 撮影者の自宅からの撮影。
社東町は現在は住宅が立ち並び以前ほどの見通しはなく、絵にはならないが一度はどうしても撮りたかった一枚。 | 2023-12-19 |
91 | | SL旅客列車走行 | 西大路ガード上を走る「D51498」。
記念のヘッドマークがついたD51+12系6両+EF6442が、茅野~岡谷間を運転した。
40年ぶりに諏訪地方にSL旅客列車院展で沿線には連日多くの人出があり、賑やかに「D51列車」に手を振っていた。
JRになり長野県内のSLの運転は8回目、約15㎞を1時間40分で運転。場所を移動しての運転も可能で各所、各列車の通過時間には大変な賑わいとなった。
※ 12系・・・12系客車
EF6442・・64形電気機関車 | 2023-12-14 |
92 | | D51蒸気機関車 | 中央線開通100周年記念SL号のD5149。
下諏訪-岡谷間を40年ぶりに力走。
秋の諏訪平を走り抜けた。
中央線富士見-岡谷間開業100周年記念SL号(D51498)
1905(明治38)年中央線富士見-岡谷間が開通して100年。
鉄道によって産業が盛んになり大きな変化を地域にもたらした。
地域は駅を拠点として発展してきたが時代の変遷とともに社会構造も変化した。 | 2023-12-14 |
93 | | D51機関車長野行き | 中央東線下諏訪赤砂付近。
現在この場所は住宅街になっているが当時は田園風景が広がっていた。
D51824は諏訪湖畔に静態保存され多くの市民に憩いの場として親しまれている。
※「D51」(1D1型テンダ式 形式D51)貨物用機関車で国産化標準機の第一号として誕生し、1936(昭和11)年~1945(昭和20)年の間に1115両が製造された。
性能は1923(大正12)年、大型貨物用D50の改良形で幹線の貨物列車牽引(けいいん)、勾配(こうはい)線区では客貨兼用で1115両という1形式で最多数のが生産され、標準型・準戦時型・戦時型の3種類があった。
最多の新製両数、輸送の貢献度などから日本蒸気機関車の最高傑作の一つです。
現在文化財として全国各地に保存されている。 | 2023-12-09 |
94 | | 蒸気機関車C12 | 回送列車を牽いて中央東線「下諏訪駅」を出発する。
入れ替え用のC12が空車の8両の客車を持って走るこの列車は諏訪で最後に見られた列車。
現在この汽車は下諏訪町に保存されている。 | 2023-11-29 |
95 | | あすなろ公園のSL | 下諏訪町のあすなろ公園に展示保存されているCC12171。
このSLは国鉄OBにより大切に管理されいます。 | 2023-11-22 |
96 | | 石投げ場を行くC12 | 雪の日の朝、諏訪湖畔(石投げ場)を行く533回送列車。上諏訪機関区最後のSL仕業、また石投げ場は明治38(1970)年に山崩れががあった。
※「C12型式SL」(国鉄蒸気機関車C12)は簡易線用として1932年にC10・C11型が進出できない簡易線区で使用することを目的とした小型近代タンク式、線区の建設や完成後の使用を目的とした軽量小型の機関車。
画期的な製造技術を採用し、軸重軽減・製造コスト削減、メンテナンスコスト等も低減した強力な機関車で戦後までの16年間に293両が生産された。 | 2023-11-26 |
97 | | 敬愛社の御柱2 | 7年目ごとに行われる大祭。申と寅年の10月に執り行われる。以前は丁使番の家を宿としていたが、昭和43年から宝光院で行われるようになった。
白鷺稲荷の御位をはじめ、一山の諸神諸仏の像、掛け軸、法具等を山伏姿の講員が奉持し、数十人の行列を整えて宝光院を出発、法螺貝を先頭に区内を一巡して白鷺山に登り、山上で柴灯護摩を焚いて祈願する。なお白鷺稲荷、石尊大権現、宝光院の弥栄富神社など主な社には御柱を建てる。 | 2023-09-29 |
98 | | 敬愛社の御柱 | 7年目ごとに行われる大祭。申と寅年の10月に執り行われる。以前は丁使番の家を宿としていたが、昭和43年から宝光院で行われるようになった。
白鷺稲荷の御位をはじめ、一山の諸神諸仏の像、掛け軸、法具等を山伏姿の講員が奉持し、数十人の行列を整えて宝光院を出発、法螺貝を先頭に区内を一巡して白鷺山に登り、山上で柴灯護摩を焚いて祈願する。なお白鷺稲荷、石尊大権現、宝光院の弥栄富神社など主な社には御柱を建てる。 | 2023-09-29 |
99 | | 敬愛社の宝光院 | 宝光院は敬愛社の道場として大正9年12月25日に造築された。棟梁は原田佐蔵。大正10年に本尊不動尊両童子付木像が奉祀された。武田苞信作。同年護摩壇が新調された。院内正面に不動尊像は安置されておりその手前に護摩壇がある。正面左手には仏像・祖霊壇(昭和8年築)が祀られている。ここに神仏習合の形態が見られる。 | 2023-09-29 |
100 | | 敬愛社の心霊術講習 | 写真には「昭和11年心霊術講習」との記載があるが、「敬愛社小誌」の年表によると、昭和10年の欄の続きに「真言秘密法、甲賀流兵法の講習会を開く」との記述がある。 | 2023-09-24 |
101 | | 敬愛社の神変大菩薩と聖寶理源大師の碑 | 神変大菩薩の碑は昭和7年9月真言宗醍醐派修験道諏訪宗務支庁設置記念として建立された。書は真言宗醍醐派管長大僧正平之亮禅。高さ1.86m。神変大菩薩とは役の行者(役小角えんのおづぬ)のことで、1799年(寛政11)には,朝廷から役の行者に対して神変大菩薩という諡号(しごう)が贈られた。役の行者は奈良時代大和金峰山の修験僧として密教を修業したと伝えられている。
聖寶理源大師の碑は昭和7年9月信濃分教会設立記念として建立。高さ1.38m。聖寶は当山派修験の祖と仰がれる平安初期の真言僧で、理源大師はおくりなである。醍醐寺を創建し、金峯山で金剛蔵王菩薩を祀り、また大峰山の中興者ともされる。 | 2023-09-24 |
102 | | 敬愛社の法光不動と泰力不動 | 昭和13年9月、敬愛社に法光不動碑と泰力不動碑が建立された。法光不動碑は高さ0.95m、泰力不動碑は高さ0.97m。写真には唐木石工場の文字の入った法被を着た職人がみられる。 | 2023-09-23 |
103 | | 宝光院の不動明王像 | この不動明王像は右手に剣、左手に羂索を持ち、姿は三尊形式で、不動明王の右(向かって左)に制吒迦童子(セイタカドウジ)、左(向かって右)に矜羯羅童子(コンガラドウジ)を配置している。大正9年宝光院の建物が造成されたときに作られたと思われる。写真左は不動明王の製作者 仏師武田包信。当時下諏訪町在住。 | 2023-09-23 |
104 | | 宝光院落成 | 大正9年、19坪(63㎡)の道場「宝光院」を造築した。
それまでは講頭や社長の家で修業や祭事を行っていたものである。 | 2023-09-23 |
105 | | 宝光院の滝 | 慈雲寺石段改築に伴い宝光院前に大滝を作る。 | 2023-09-23 |
106 | | 白鷺山 | 正平年間(1350年代)下の原村の北方にある千鳥の山の中央の岩が燦然と光るので苔を払ったところ不動の2文字が現れ、村人は不動明王が姿を現したとして崇めたと伝えられている。そののち宝暦のころ白鷺が巣をかける兆しがあったので以後白鷺山と呼ぶようになった。敬愛社は修験道の伝承を今日に伝え活動をしているが、白鷺山中央の岩に不動の2字を刻んで本尊とし、その岩上に石尊大権現の小祠を祭って崇敬していた。安永6(1777)年下の原村の旧堂に奉詞していた石尊大権現の御社を白鷺山に遷座した。 | 2023-09-20 |
107 | | 町道田中線歩道改良工事 | 昭和5年10月に竣工した町道田中線は、何回かの改修を経て、役場前から西大路・砥川西信号までケヤキの並木があり町民から親しまれていたが、令和5年(2023)の田中線歩道改良工事でケヤキ57本を伐採する計画があった。しかし「もったいない」という反対意見等があり、31本は残し、工事は砥川西信号から下諏訪消防署前までの工事となり、比較的歩道が広い区間は伐採を保留した。また、二本は赤砂崎公園に移植することになった。 | 2023-07-29 |
108 | | 大相撲荒汐部屋夏合宿 | 大相撲荒汐部屋の下諏訪町での合宿が、コロナ禍を経て4年ぶりに下諏訪南小学校校庭で復活した。荒汐部屋後援会長夫人の藤井明日香さんが下諏訪町出身だった縁で、平成30年(2018年)と平成31年(2019年)に合宿が行われ、翌年には諏訪湖後援会が発足していた。当時は所属力士の蒼国来関(現荒汐親方)と町内の小学校児童との交流が行われた。今回の合宿には関脇の若元春ら力士13人をはじめ、新大関の霧島関も出稽古で訪れた。朝稽古は連日100~200人以上の相撲ファンでにぎわい、多い日には400人に達した日もあった。 | 2023-07-20 |
109 | | 中川旅館 | 下諏訪宿の最後の旅籠、現在は中川旅館として営業しています。 | 2023-10-31 |
110 | | 旦過湯 | 下諏訪三湯(綿の湯・小湯・旦過湯)の中で最も高温の湯で傷・吹き出物に効果があるといわれている。
慈雲寺旦過寮(修行僧が修行明けの朝入った)があった所からその名があるといわれています。 | 2023-11-09 |
111 | | 番屋跡 | 下諏訪宿の曲の手と番屋跡。
甲州道中は秋宮の石垣の線が自然に曲の手をなしている。ここを宿の入り口として番屋がありました。 | 2023-07-05 |
112 | | 千尋社と千尋池 | 江戸時代に甲州道中が通じ下諏訪宿が拡大したため
池が狭められ一坪ほどの小池になった。大正15(1926)年以来秋宮の舎域7拡張により紀元二千六百年記念事業として池周辺整備が進められた。
写真は現在の様子です。 | 2023-11-09 |
113 | | 令和5年の秋宮リンク | 秋宮リンクに子供たちの声が響く。写真は下諏訪北小学校の一年生のスケート教室の様子。近年は暖冬で毎年利用できないことも多いが、この年は年初の冷え込みがあって、三学期に入りスケート教室ができるようになった。下諏訪南小学校と北小学校の子供たちがスケートを楽しんでいる。昔と違いフィギュアスケート用の靴を履く子供の方が多いが、中にはスピード用の靴で見事に滑走する子供もいるの体制で。わずか一時間弱だが、子供たちの成長は早い。常時4人の体制で管理している。また、親の見守る風景も昔とあまり変わらない。ただ残念なことに氷の状況は長続きせず、この年も「氷上祭」は中止となった。 | 2023-01-21 |
114 | | まつや呉服店 | まつや呉服店は現在はまつや洋品店は下諏訪町矢木東に移転している。まつや呉服店があった場所は平成12(2000)年まで荒井書店が営業していた。
旗や看板等が見え、恵比寿講で多くの人々で賑わっている。 | 2023-01-24 |
115 | | えびす講売り出し | 御田劇場内で開かれたゑびす講大売り出し。
まつや呉服店による売り出し風景。
反物や洋傘、ブラウスなどが所狭しとと並べられている。御田劇場があった跡地には、諏訪信用金庫御田町支店の建物が建っている。 | 2023-01-24 |
116 | | 国道142号線1年ぶりに開通 | 2021(令和3)年8月の大雨災害で道路が陥没し、通行止めになっていた下諏訪町新町上の国道142号約1キロ区間が8月10日開通した。崩落した石積みを大型ブロック塀に替え、国道下の水路は「30年に一度の大雨に耐えられる流下能力」を確保したという。 | 2022-09-14 |
117 | | ダイヤ豆腐 | JR菅野町踏切横(現大和電機附近)にあったダイヤ豆腐の工場内の作業風景。 | 2023-02-22 |
118 | | 片倉製糸 | 後ろの蔵に丸六の屋号、片倉製糸、記念写真。 | 2023-02-23 |
119 | | 羽田家慰霊祭 | 和田嶺東餅屋にある、羽田家祖先の墳墓の改修を行った。供養塔の開眼式・祖霊祭の参列者の記念撮影。 | 2023-02-26 |
120 | | 長野県水産試験場 | 昭和15(1940)年6月、下原小字蚊無川(春宮南西・浮島の南)に長野県水産試験場が建設された。この時本館と試験地が設置、同時に富部下の漁業組合の幼魚地を借用。翌16(1941)年高浜旅館の温泉プールを買収し、試験地とする。
写真は昭和17(1942)年侍従を迎えて撮影。 | 2023-02-18 |
121 | | ポンプ車 | ポンプ車 | 2023-04-15 |
122 | | 床屋さん研修風景 | 御田町「イイジマ理髪店」研修風景。
カメラ(8mmカメラ?)で撮影している男性は先々代の飯島床屋の店主さん。
窓の向こう側に見えるのは「荒井書店」現在は「ちいとこ商店」になっている。 | 2023-02-23 |
123 | | 方言館 | 下諏訪駅前オルゴール通り下諏訪商栄会が、地域の人などのふれあの休憩所として開設した「方言館 およりなんしょ」懐かしい言葉に会えるなど、好評の、広瀬町、方言館がテレビ出演した時の様子。 | 2023-02-26 |
124 | | 方言館開所式 | 下諏訪駅前オルゴール通り商栄会が作った「方言館」。
館内には備え付けのノートがあり、地元下諏訪、諏訪、岡谷をはじめ県外観光客の感想などがたくさん書かれていた。中には方言を交えた感想も書かれていた。 | 2023-02-26 |
125 | | 広瀬町誌の編集会議中 | 方言館にて町誌の編集会議の様子。
皆さん真剣な顔。 | 2023-02-26 |
126 | | 聖火リレー | 国体の聖火リレーが駅前通りを通過。 | 2022-07-07 |
127 | | 子どもみこし | 子どもみこがお舟祭りの日に披露。
国道20号、友之町附近での撮影。 | 2023-02-23 |
128 | | 広告祭コンクール | 「ありがたや時代」「駅通商工会」の文字 | 2024-04-02 |
129 | | 歩行者天国 | 駅前通り歩行者天国、商店主のチンドンON隊出演。 | 2023-02-26 |
130 | | 歩行者天国 | 広瀬町歩行者天国 | 2023-02-26 |
131 | | 抽選会場 | 三角八丁駅通り会場。 | 2023-02-26 |
132 | | 歩行者天国 | 広瀬町、お舟祭り宵祭りの夜の歩行者天国風景。
こちらでは切り花を売っていた。 | 2023-02-26 |
133 | | 歩行者天国 | 広瀬町歩行者天国 | 2023-02-26 |
134 | | 歩行者天国 | 広瀬町の歩行者天国。
大森接骨院の駐車場で行われたウナギのつかみ取り風景。 | 2023-02-26 |
135 | | 初詣 | 初詣で駅より降りた人・人 | 2023-02-26 |
136 | | 初詣 | 初詣駅前商栄会の皆さんのふるまい風景。 | 2023-02-26 |
137 | | 初売り | 駅前商栄会の初売り風景。手前に見えるのは福袋。 | 2023-02-26 |
138 | | 下諏訪駅通り | 畠山菓子店、伊東時計店、ディスコナポリほか店が並ぶ駅前通り。 | 2023-02-26 |
139 | | 駅前通り | 広瀬町の店並み、スナックアトリエ、藤田クリーニング、ヘアーサロン勝野ほか | 2022-09-14 |
140 | | 歩行者天国 | 広瀬町の歩行者天国の様子。 | 2023-02-26 |
141 | | 歩行者天国 | オルゴール通りの歩行者天国。 | 2022-08-09 |
142 | | 歩行者天国 | 広瀬町歩行者天国のセレモニー風景。
写真中央に高木町長の姿も見える。 | 2022-08-09 |
143 | | 顔ハメパネル設置 | 下諏訪観光協会は令和4(2022)年4月28日、下諏訪向陽高校3年生3人がデザインした顔ハメパネル3種類を町内3カ所に一基ずつ設置した。前年の中高生による模擬議会「しもすわ未来議会」で提案されたことがきっかけで実現したもの。パネルの大きさはいずれも180センチ四方、スチール製で生徒のデザイン画を拡大印刷している。JR下諏訪駅には下社里引きに合わせて行われる騎馬行列や長持ちのパレードが、おんばしら館よいさには御柱祭木落の場面が、しもすわ今昔館おいでやには秋宮境内のデザインが画かれている。 | 2022-05-21 |
144 | | 湯けむり広場完成 | 下諏訪四つ角に「湯けむりひろば」が完成する。令和4(2022)年4月、下社秋宮参道の上り口の整備が進み、元武井医院のあった場所に観光客の利便性向上に役立つよう公園が作られた。 | 2022-05-21 |
145 | | 御騎馬行列の豆人形 | この作品は御柱祭里曳の神賑わいのパレードで披露される騎馬行列を再現した豆人形です。人形は2013年に他界した故田中とくさん(下諏訪町富士見町)の作品です。旧制高等女学校で手芸などを学び、若かりし頃の恩師の教えを受けて製作。人形は15~20cmほどの大きさ、「騎馬大将」「曲傘」「草履取り」「先ほこ」「旗持ち」「長持ち」など38体が並んでいます。 | 2022-04-20 |
146 | | 下諏訪町立図書館 | 令和4年春の図書館。コロナ感染防止のためこども未来バスも利用をお休みしています。
その中でもあすなろ公園の桜は満開です。 | 2022-04-20 |
147 | | 移動販売車とくし丸 | 高齢化が進んできたり、商店の大型化などで地域を支えてきた小規模な商店が減少し、自宅近くで買い物が不自由になってきた地域(買物難民などと呼ばれたりする)のために、「自動車による移動販売車」が登場してきた。写真は下諏訪町南四王の駐車場で毎週時間を決めて移動販売に来る「とくし丸」の風景である。写真のとくし丸は地域のスーパーの商品(主にし生鮮食料品や日用雑貨)を扱っている。お米など車にないものは注文をしておくと後日配達してくれる。下諏訪町南四王に来る移動スーパーとくし丸は岡谷生鮮市場と提携している。 | 2022-03-24 |
148 | | チャレステしもすわ開所 | 下諏訪商工会議所は、JR下諏訪駅構内にあった売店跡の空き店舗を改修し、創業支援や地域活性化などを目的に活動しようとする個人や団体に貸し出すチャレンジショップを令和4年3月6日に開所した。広さは15平方メートル、料金は1日2000円。当面5月までは特別キャンペーンとして無料で提供する。写真は3月19日で、この日はケーキの販売が行われていた。 | 2022-03-24 |
149 | | 棚木場 | 雪の棚木場の風景。
御柱祭山出しは、下諏訪町東俣大平の棚木場から曳行を始めます。 | 2022-01-24 |
150 | | 春宮神楽殿に新調大注連縄 | 下諏訪町第一区の若者を中心とした有志でつくる春遊会(中村智彦会長)は12月19日、諏訪大社下社春宮に新調した大注連縄を奉納した。同会が奉納するのは5回目で、会員は約30人。以前は総区内の中高年有志でつくる「浮島会」が制作を担っていたが、1997年から春遊会が引き継いだ。製作は春宮駐車場の一角の作業テントで10月31日から開始していた。長さは約6,3m、重さ約350kg。稲わらは約700束が使われた。 | 2022-03-13 |
151 | | 町道御田町線の美装化完了 | 下諏訪町が2017年度から5年計画で進めてきた町道御田町線の美装化工事がおおむね完了した令和3年(2021)12月の様子。並行して整備してきた町営友之町駐車場から大社通信号交差点までの北側歩道の石畳化もほぼ完了している。この後、交差点北側の小公園の整備が完了すると街歩き環境が整うことになる。工事は車道と歩道の段差をなくし、統一感ある商店街の景観を整備したもので、国土交通省の「街なみ環境整備事業」を活用した。 | 2022-01-13 |
152 | | 徳本上人の名号塔(赤砂崎) | 下諏訪町に4カ所ある名号塔の一つです。
赤砂墓地の入口右手に「南無阿弥陀佛」と刻まれた念佛徳本直筆の碑(写真二枚目)念佛徳本は宝暦8(1758)年和歌山に生まれた名高い行者、関東地方一帯を行脚布教した。諏訪には、舟にて湖水の西岸から赤砂の地に至る。
土橋源蔵宅に立ち寄り宿泊した際に「南無阿弥陀佛」と二幅書かれそのうちの一枚を使い源蔵が碑を造ったという。 | 2021-12-21 |
153 | | 徳本上人の名号塔(浪人塚) | 下諏訪町に4カ所ある名号塔の一つ。幕末の動乱期、尊王攘夷の熱意に燃えた武田耕雲斎(こうううんさい)率いる水戸の天狗党浪人隊が、尊攘の心情を京都にいる一橋慶喜に訴えるため上洛の途についた。中山道の要所でもある下諏訪宿は藩主忠誠が幕閣入りしていたこともあり激戦の場となり被害も大きかった。この戦いを和田合戦・砥沢口合戦・樋橋戦争と呼ぶ。戦いの後、千草山のふもとに亡くなった浪士を改葬し塚を作ったこれが浪人塚で当時は戦死塚といった。 | 2022-03-19 |
154 | | 徳本上人の名号塔(来迎寺) | 下諏訪町に4カ所ある徳本上人の名号塔の一つ。
来迎寺にある日は比較的新しい。 | 2022-04-19 |
155 | | 徳本上人名号塔(髙木薬師堂跡) | 下諏訪町に4カ所ある名号塔の一つ。
「諏訪藩一村限村地図」にも記されている諏訪百番の西25番札所。明治6(1873)年に念仏堂は、高木学校になりその後下諏訪学校に合併。現在は取り壊されている。
薬師堂にあった石造物(庚申塔・三十三夜供養塔・地蔵尊)は道路わきに移し並べられている。 | 2022-03-19 |
156 | | ワダソウ解体図 | ワダソウ(ナデシコ科)和田草
※和田峠に多かったので命名。
和田峠に多くあるので「ワダソウ」。山の草原に生える多年草。地下に1個の塊根があり、茎は枝を分けず直立。葉は対生。花弁5枚で先がへこみ、雄しべ10、花柱3本。ワチガイソウ・ヒゲネワチガイソウなど、この属の特徴として、下方の節から閉鎖花を出し、球形の果実を結ぶ。
赤い雄しべは目立つが、花粉を出す前までで、葯の袋が破けると、中から花粉が出て黄色に。 | 2022-01-16 |
157 | | レンプクソウ解体図 | 山地の林内に生える多年草。フクジュソウに長い地下茎が続いているように見た人が、連福草と言い出して名がついた。
花が5個付くのでゴリンバナとも。 | 2022-03-15 |
158 | | レンゲツツジ解体図 | レンゲツツジ(ツツジ科)蓮華躑躅
「蓮華」:大きく鮮やかに、枝先に固まって咲く様が、美しい蓮(はす)を思わせる。
「躑躅」:昔、中国で「羊躑躅」(羊がつつじを食べて、足ずりし、酩酊する)との漢名が日本に伝わる中で、「羊」が取れてしまい、「躑躅(てきちょく)」のみ残った。
※躑躅①足ぶみすること②ためらうこと③つつじ(広辞苑)
全木、花・葉も有毒、密もしかり。
草原・牧場にレンゲツツジが群生するのは、牛や馬が食べないため、有毒成分は嘔吐・痙攣を起こす。キレンゲツツジ(黄色)、コウレンゲ(濃朱色)、帯紅黄色(カバレンゲ)、ウラジロレンゲツツジ(葉裏が白) | 2022-03-15 |
159 | | ヨツバヒヨドリ解体図 | ヨツバヒヨドリ(キク科)四葉鵯
ヨツバヒヨドリの仲間
・ヒヨドリバナ 葉は対生し、短い枝がある。茎は多く枝分かれし、花白色。
・サワヒヨドリ 葉に柄がなく、対生。葉は大小4~6枚ある。
・フジバカマ 葉は対生し、下方のものは普通深く3裂する。植栽が多い。
ヨツバヒヨドリは通常3~4枚が輪生し、葉柄は短い。中部以北の高原に普通の多年草。小花は一般に淡紅紫色。花期8~10月。
※写真は八方尾根鎌池付近で、同じゾーンに3、4、5、6枚と輪生した4タイプが見られた。
※この仲間をアサギマダラが好み、呼び寄せるためにたくさん植栽している場所もある。
※ヨツバヒヨドリには、三葉も、四葉、五葉、そして六葉もあるよ。 | 2022-03-15 |
160 | | ヨツバヒヨドリ・ヒヨドリバナ・サワヒヨドリ解体図 | ヨツバヒヨドリ・ヒヨドリバナ・サワヒヨドリ
1.ヨツバヒヨドリ(四葉鵯)
葉が3~4枚輪生。茎は直立し、下部からほとんど枝を出さない。花は赤みを帯びるが、白っぽいものも時々見られる。
2.ヒヨドリバナ(鵯花)
葉は2枚ずつつく。茎は多く、枝分かれする。
3.サワヒヨドリ(沢鵯)
葉は細長く、2枚対生し、柄がないことが特徴。茎は多い。
4.キレハサワギク(切れ葉~)
葉2枚がさらに3裂する。 | 2021-11-12 |
161 | | ヨウシュヤマゴボウ解体図 | ヨウシュヤマゴボウ(ヤマゴボウ科)洋種山牛蒡
北アメリカ原産の帰化植物。多年草草本。
全体無毛で、茎や葉柄は通常赤紫色を帯びる。中部以上でよく分岐し、高さ2mになる。夏に15cmほどの花序を出し、淡紅色で、花弁のない花を穂状につける。
萼片5、雄しべ10~12、雌しべ1。
子房は若いうちは緑色で、心皮の数が10。
よく見えるが、熟すと黒色で外からは数が分からなくなる。
明治はじめに渡来し、現在は山野にどこでも見られる。
インクベリー:実は熟すと、濃い黒紫色になり、つぶす
と赤い汁が出るので、アメリカではインクベリーと
呼ぶ。有毒なので、テストの範囲で実際書いてみよう。
赤と黒で鳥を呼ぶ:実は熟すと黒紫色となり、その時、
実の柄部分は真っ赤に変化する。
こ | 2021-11-11 |
162 | | ユモトマムシグサ解体図 | ユモトマムシグサ(サトイモ科テンナンショウ属)湯元蝮草
全体に緑色な種、付属体も緑色。付属体は有柄で棍棒状。葉の枚数はマムシグサと同じく2枚で、小葉は5(7)枚。
4枚目:マムシグサ(参考)葉は2枚、小葉7~15. | 2021-11-11 |
163 | | ユキワリソウ解体図 | ユキワリソウ(サクラソウ科)雪割草
1枚目:ユキワリソウ
低山帯~亜高山帯の岩場や草地に生え、高さ10~15cm。名は雪が解ける直後に開花するから。白花品をシロバナユキワリソウという。
2枚目:オオミスミソウ(キンポウゲ科)
山地の木陰に生える。3~4月に開花し葉は越冬して花後に新葉に変わる。花色は変異が多い。
葉の形や大きさでスハマソウ、ミスミソウにわける。
3枚目:ユキワリソウ葉裏
新潟ユキワリソウ街道で有名な花は、実はミスミソウ・オオミスミソウをいう。下段左写真はオオミスミソウ。また、同右写真の葉裏はユキワリソウで、金色に輝く。ユキワリソウは八方尾根で、7月17日撮影分 | 2021-11-11 |
164 | | ヤマシャクヤク解体図 | ヤマシャクヤク(キンポウゲ科)山芍薬
山陰の多年草。花は白色、茎頂に1個つき、萼片は緑色で3枚、花弁は白色5枚あって完全に開かない。雄しべ多数、雌しべ2~4個。同種に、花は淡紅色のベニバナヤマシャクヤクがある。 | 2021-11-11 |
165 | | ムラサキキスゲ解体図 | ムラサキキスゲ(ニッコウキスゲ亜種)八島ケ原湿原
5,6枚目はニッコウキスゲ。 | 2021-10-26 |
166 | | マルバスミレ解体図 | マルバスミレ(スミレ科)丸葉菫
花も葉も丸みがあり、毛のあるものが多い。花は白色丸弁で重なり気味。
従来「ケマルバスミレ」と呼ばれたが、普通毛があるので、「ケ」を取った。 | 2021-11-11 |
167 | | ママコノシリヌグイ解体図 | ママコノシリヌグイ(タデ科)継子の尻拭い
ママコノシリヌグイ:野原・水辺に多い1年草。葉はほぼ3角形。花弁はなく、ピンクの萼5裂、雄しべ8、雌しべ1。
アキノウナギツカミ:水辺に多い1年草。葉は丸く細長い。 | 2021-11-11 |
168 | | マツムシソウ解体図 | マツムシソウ(マツムシソウ科)松虫草
蕾~開花~果実 霧ヶ峰観察記録 2013.8.22
※マツムシソウは周りの舌状花から開き、その内側の筒状花から、そして中心部分からも順次開花する。舌状花は上唇は小さく2裂、下唇は大きく3裂。筒状花も雄しべ4本
※名前の由来は巡礼が家々を回り、鐘をたたいてお布施を乞うた。その鐘を昔から松虫と呼んで、果実の形が似ていることから。
もう1説は、マツムシが鳴く頃咲くので。
※2年草で、当年の花の咲くものを移植しても、もう花は咲かない。 | 2021-11-11 |
169 | | マツムシソウ果実散布 | マツムシソウ(マツムシソウ科)果実散布 | 2021-11-11 |
170 | | ホツツジ・ミヤマホツツジ解体図 | ホツツジ・ミヤマホツツジ
ホツツジ
山地の林緑や岩場に生える落葉低木で高さ1~2m。枝先の長さ5~10cmのと円錐花序に多数の花をつける。名は花が穂になるから。
ミヤマホツツジ
亜高山帯~高山帯の湿原や林緑に生える落葉低木。高さ20~100cm。
葉の先端が丸いか凹状、花柱は長く上向きに大きく曲がる。 | 2021-11-11 |
171 | | フユノハナワラビ解体図 | フユノハナワラビ(ハナヤスリ科)冬の花蕨
夏場は休眠し、秋から地に低く、鳥の羽状の葉が出る。秋から写真のような「胞子葉」を出し、寒くなると、胞子嚢が破れ、胞子を飛ばす。この穂状のものが、陽に当たると黄金色に輝き、花と見立てて「フユノハナワラビ」という。
野辺の草地に生える人里植物で、草丈10~20cmの多年草。
春先、栄養葉だけの個体を教えてもらうが、胞子葉のない段階では・・・ワラビの和名がピンときませんでした。
ここにはあるのは、栄養葉のみです。 | 2021-11-11 |
172 | | フサザクラ解体図 | フサザクラ(フサザクラ科)房桜
花の姿から、この名がある。山地沢沿いなど湿り気のある場所。普通5mほどの木が多い。花には花弁がなく、雄しべが目立つ。
葉の先端は極端に突出する。果実は扁平・倒卵形の翼果。
上から、
・花模様
・果実
・花
サクラと縁遠く、プラタナス・カツラに近い仲間。
赤く目立つ雄しべの基部に雌しべが多数ある。3~4月に開花する。
果実は9~10月に熟す。フサザクラは諏訪地方にも結構ある。 | 2021-11-09 |
173 | | フキノトウ解体図 | フキ(キク科)
蕗の董に、雄・雌があるので、この春は確かめて!! | 2021-11-09 |
174 | | フイリシハイスミレ解体図 | フイリシハイスミレ(スミレ科)斑入り紫背菫
葉の表面に白い斑が入る。西南日本に多いシハイスミレの仲間で長野県内に多い。 | 2021-11-09 |
175 | | ヒュウガミズキ・トサミズキ解体図 | ヒュウガミズキ(日向水木)・トサミズキ(土佐水木)マンサク科
ヒュウガミズキ:花序に花を2~3個つける。長さ1~2cm。九州に自生せず、本州日本海側。
トサミズキ:花序長さ4cm、7~8個の花をつける、軸に毛を密生。球形のさく果に星状毛密生。高知。
コウヤミズキ(ミヤマトサミズキ)には花序の軸やさく果に毛がない。(赤沢美林で見た) | 2021-11-09 |
176 | | ヒゴスミレ・エイザンスミレ解体図 | ヒゴスミレ(肥後菫)
葉は基部で五分裂し更に細かく分裂。白色・芳香。
エイザンスミレ(叡山菫)
葉は三分裂し更に分裂。淡紅紫色・芳香。 | 2021-11-09 |
177 | | ヒゲネワチガイソウ解体図 | ヒゲネワチガイソウ(ナデシコ科)髭根輪違草
ヒゲネワチガイソウ:花びらは細長く、茎の頂に白い花を1個だけつける。
ワチガイソウ:花びらは少し丸みを帯び、花は脇から出る。閉鎖花つける。 | 2021-11-09 |
178 | | ハネミギク(ハチミツソウ)解体図 | ハネミギク(ハチミツソウ)キク科
町外れの道路沿いや里山に一歩入ると、8月には黄色い目立つ大型植物。
一般図鑑には一切掲載されていないので、なかなか同定できなかった。
帰化植物は古代から、特に明治以降には増大してきたが、こうした新顔にこれから付き合うことになる。
茎はあまり分岐せず、高さ1.8mほどになる。茎には翼がある。直径4cmほどの黄色い頭状花を多数つける。舌状花は3~8枚で、開花後下方に垂れる。 | 2021-10-26 |
179 | | ハナイカダ解体図 | ハナイカダ(ミズキ科)花筏 雌雄異株
山地の木陰や谷間などに生える落葉低木で、高さは1.5mぐらいになる。葉のほぼ中央に花をつける。これが、いかだに似ているので名付けられた。
新芽は食用、実のある枝は茶花として茶席に生ける。 | 2021-11-09 |
180 | | バイケイソウ・コバイケイソウ解体図 | バイケイソウ・コバイケイソウ(ユリ科)
バイケイソウ(1,2枚目)
深山の林の中。1~1.5m。花は径25mm、花被片6はやや淡緑色。
雄しべは花被片より短く、外側に反り返る。子房は有毛。花柱3本は
外に曲がる。花期6~8月。
コバイケイソウ群落(3枚目)
有毒:山菜と誤食が毎年発生!
コバイケイソウ(4,5枚目)
高山の高原。高さ0.6~1.0m。花は径8mm。花被片6、雄しべ6雌しべ1。雄しべは花被片より長く、子房は無毛、花柱は直立。
花期7~9月。 | 2021-11-09 |
181 | | バアソブ解体図 | バアソブ(キキョウ科)婆雀斑
バアソブ:花の色をばあさんの雀斑(そばかす)に例えた。茎や葉に毛が多く、花紫かっ色。ジイソブ(ツルニンジン)はほとんど毛がない。ジイソブ低地、バアソブ高地。 | 2021-11-09 |
182 | | ノボロギク・サワギク解体図 | ノボロギク&ボロギク(サワギク)キク科
ノボロギク
ヨーロッパ原産の1年草で、明治初期に帰化した。
道端や畑に生え一年中花が咲いている。和名は野に
生えるボロギクという意味で、繁殖力が強い。
サワギク
サワギクは別名ボロギクという。沢筋や林縁など、湿
ったところに咲く多年草。花期6~8月。
葉は深く羽状に裂ける。頭花は舌状花を7~10個付
け、果実の冠毛の様子からボロギクと。
※史前帰化植物ー有史以前日本に移住した人により、稲
などにまざって運ばれたもの。水田や畑の雑草が多
い。オナモミ・エノコログサ・カヤツリグサ・オヒシ
バ・アキノノゲシなど。
※旧帰化植物ー大陸との国交が開始された江戸時代中
期。畑などで春開花し、夏までに実になる雑草が多い。
※新帰 | 2021-11-09 |
183 | | ニリンソウ群落 | ニリンソウ群落(キンポウゲ科)二輪草
新緑の中で、ひときわ白く輝くニリンソウの
群落。上高地で明神池から徳沢にかけて、山道の両脇に見事に咲き誇っている。地下茎が横に這い、その先から数枚の根生葉と、1~2本の花茎を立て、林の中に繁茂。
写真は徳沢園のハルニレの大樹の根元を覆い尽くしていた。足元にはヤマエンゴサクの青紫色や桃色のものが、またタカネザクラのさわやかな淡紅色の花が近くに咲き誇っていた。 | 2021-11-09 |
184 | | ニッコウネコノメ解体図 | ニッコウネコノメ(ユキノシタ科)日光猫の目
ニッコウネコノメ
山の谷沿いに生える小さな多年草。根生葉は花時には
ない。花は茎頂に10個あまり付き、径5mmほど。
萼片は平らに近いまで開き、卵形で先は尖らない。雄
しべは8本、まれに4本、長さ4mm、葯は若い時は
暗紅色、後に黒色に変わる。花のすぐ下の包葉は円形
に近く、花時淡黄緑色、
この属イワボタンの仲間は、全体無毛、葉は対生、中
央脈以外もはっきり見える。東北南部から中部地方の
太平洋側。4~5月。
イワボタン
別名ミヤマネコノメソウ。葯は黄色、花時にも根生葉
があることが多い。
花の横につく葉は細い。ホクリクネコノメもイワボタ
ンも、雄しべの周りの萼が完全に開かず、直立するか
斜めに開く。関東以西の | 2021-11-09 |
185 | | ニッコウキスゲ(ゼンテイカ)解体図 | ニッコウキスゲ(ユリ)日光黄菅
本州中部以北の高原に生える多年草。夏の高原を大群落で埋め尽くす。鹿の食害で面影を残すだけの場所もあるが。
橙黄色(オレンジ色)の花は花茎に数個つくが、ひとつの花は朝に咲いて夕方にしぼむ「一日花」。しかし、順番にひとつずつ咲くので、長期に楽しめる。花期6~7月。
よく似たユウスゲ(夕菅)は明るい黄色で、夕方に開いて夜間咲く。他にノカンゾウ、ヤブカンゾウなどある。
写真は八方尾根の2011年7月のもの。 | 2021-11-02 |
186 | | ニガナの仲間 | ニガナ(キク科)苦菜の仲間
ニガナ:花弁5~6枚。
ハナニガナ(別名オオニガナ);7~12枚
シロニガナ(別名シロバナニガナ):花弁5~6枚。
シロバナハナニガナ:8~11枚 | 2021-11-02 |
187 | | トキワハゼ解体図 | サギゴケよりやや湿気の少ない所に生える1年草。サギゴケに似ているが、地をはう枝を出さないこと、花が小さいことなどで異なる。 | 2021-11-02 |
188 | | ツユクサ解体図 | 田畑のあぜや道ばたに生える1年草。朝露がさかんにおりるころ、花が咲くので、露を帯びた草という意味からこの名。
俗名トンボグサ。 | 2021-11-02 |
189 | | トウゴクミツバツツジ解体図 | 山地に普通に見られる落葉低木。ミツバツツジは雄しべを5本有するのに対し、この種は10本有す。
主に関東の山地に多いのでこの名。 | 2021-11-02 |
190 | | ドイツスズラン解体図 | ドイツスズラン(ユリ科)独逸鈴蘭
スズランは別名「君影草」、多くのファンもいる。高原に生える多年草。葉は2枚で、花は葉のかげに隠れて咲く、白色で香りが高い。葯・花粉;鮮黄色。
自生のスズランとそっくりの種類がドイツスズランで、よく植栽される。スズランと対比すると、花は直径に比べ高さが低く、葯も花粉も淡緑色で、葉が厚めでやや色が濃い。どちらも有毒で、家畜は食べないので、牧場でも取り残され、繁殖している。 | 2021-10-26 |
191 | | ツルドクダミ・ヒヨドリジョウゴ | ツルドクダミ(ガシュウ) タデ科
地中の大きな塊根を「何首烏」ガシュウという。何という老人が、これを服用し、髪の毛が常に烏のように黒かった伝説。根は滋養強壮剤、茎は失眠症によい。享保5年1770中国から吉宗の時代に小石川植物園で栽培した。今は野生品が多い。
ヒヨドリジョウゴ(ナス科) 鵯上戸
ヒヨドリが赤い実を喜んで食べることから名が付いた。道端や山にはえるつる性の多年草。
全草にやわらかい腺毛が密生する。葉は裂けないものと、3~5裂するものとある。
花はナスの花同様、白色で深く5裂する。
果実は球形で、赤く熟す。花期8~10月。小生は小諸で初見し、今回2回目に見た。
図鑑では、普通にあると記されているが、なかなか目にできない。(石川記) | 2021-11-02 |
192 | | タンポポの仲間帰化植物 | タンポポの仲間(帰化)
在来タンポポ:花の下の総苞が反り返らず。
セイヨウタンポポ:反り返る。
在来:シロバナタンポポ・エゾタンポポ・トウカイタンポポ・カントウタンポポ
シナノタンポポ:総苞が卵型~広卵型で、角状突起はないか、あっても小さい。 | 2021-11-18 |
193 | | ダンコウバイ解体図 | ダンコウバイ(クスノキ科)檀香梅
別名 ウコンバナ(欝金花) 俗名 ジシャ
上♂ 下♀;葉は異形葉。
早春、他の木が芽吹かないうちに、黄色の花をつける。雌雄異株。 | 2021-11-02 |
194 | | タラヨウ(ハガキの木)解体図 | タラヨウ(モチノキ科)多羅葉 はがきの木
昔の人のメモ紙―「葉書」の木。
葉の裏の細かい棒で、文字や絵を書くと、その部分が黒く浮き出す。この特徴からインドで葉に経を書いた多羅樹になぞらえた。
仏教の聖木の多羅樹との兼ね合いから、お寺に植えられていることが多い。
暖地の川沿いや湿り気の多い谷間などに生える。高さが10mほどになる常緑
高木だが、個体数はあまり多くない。
葉は分厚い皮質で、縁に鋭い鋸歯があり、雌雄異株。開花5~6月。淡黄色の花を塊状に多数つける。
果実は球形の核果で、11~12月に赤く熟す。
分布は本州静岡県以西・四国・九州の丘陵帯。 | 2021-11-02 |
195 | | タムラソウ集約雄蕊 | タムラソウ(キク科)田村草 (集葯雄ずい)
筒状花だけからなる頭状花。集葯雄ずい(雄しべの葯5本合生し、1本の筒となり、、花糸だけが離れている。
葯は熟すと、花粉が筒の中にたまり、雌しべの花柱はやがて筒の中で伸びて、花粉を押し出す。
花粉は花柱の表面に付くが、割れた柱頭は左右からぴったりついているので、自分の花粉が柱頭には付かず葯の外に高く伸びだすと、先が左右に分かれ、柱頭面が露出し、他の花粉を受ける。自家受粉を避ける。
その様子が左上から下、そして右側写真となる。
キク科の小花は同じ集葯雄ずいなので観察しよう。 | 2021-11-02 |
196 | | タニギキョウ解体図 | タニギキョウ(キキョウ科)谷桔梗
最初見つけるまで、時間がかかった1種でした。他のキキョウ科の仲間のイメージと様変わりで、木陰でひっそり生える小さな多年草。茎は細く柔らかく10cmほど。ハコベ類と見まがうが、葉を切れば白い乳液が出る。花は径8mmほどで、深く5裂し、白色に紫色の筋が入る。花期5~8月。 | 2021-11-02 |
197 | | センボンヤリ解体図 | センボンヤリ(キク科)千本槍
別名 ムラサキタンポポ。低山の草原・路傍に生える2年草。葉はすべて根生葉。
花に2型あり。
春:舌状花は白色で、下面は紫に染まり、ムラサキタンポポの所以。
秋:閉鎖花で自家受粉する。花茎は大きく伸びて、春にも残り、センボンヤリの所以。 | 2021-11-02 |
198 | | スミレの仲間 | 上から
・プリケアナ
北米産でパピリオナケアの仲間。白花の基部は紅紫色で紫条が入り、二色咲きとなる。繫殖力が旺盛で、庭先から逸出したものが野生化して各所で群生を見る。
・パピリオナケア
北アメリカ原産で、スミレマニアなどの手によって、各地に広まっている。濃い紫色だが、側弁に毛が多く、花弁の基部は白く見える。
・アカネスミレ
丘陵地~山地の路傍や林緑など向陽地から半陰地に自生する。花は中形の濃紫~紅紫色~紫青~薄色・白色と変異がある。全体的に多毛で、側弁、距、子房にまで毛がある。距は細長く花色にほぼ等しい。
・タチツボスミレ
全土の海岸線から標高2000m前後までの草地~落葉樹林の向陽地~陰地・乾燥地~半湿地など生息範囲が広い。個体数も多いために花の色・葉の形態などに | 2022-06-12 |
199 | | スギナ・ツクシ解体図 | ツクシ(土筆・継く子) 胞子茎
・生きている化石
スギナは仲間のトクサとともに、シダ植物の中でも原始的な一群で、「生きた化石」である。今こそ手のひらサイズだが、古生代石炭紀(3億年前)は高さ30mもある先祖から、今に生きながらえている。
胞子で増えるシダの仲間
ツクシの頭部は、六角形の「胞子嚢」がびっしり詰まり、成熟すると、隙間ができ、そこから1本のツクシで200万個の胞子を飛散させる。胞子は湿った地面で芽を出し、ゼニゴケに似た「雄の前葉体(造精器)と雌の前葉体(造卵器)」に育ち、受精すると「スギナ」に育つ。
・育つ土壌
田畑など栄養分の多い所ではスギナばかり出てツクシはあまりない。栄養分のない荒地ではツクシが多い。ツクシはスギナの胞子茎で、茎には退化した葉(はかま) | 2021-11-02 |
200 | | シラン解体図 | シラン(ラン科)紫蘭
ラン科の受粉
花粉を塊ごと虫の体にくっつけて運ばせる。その独特な仕掛けが「花粉塊」。ランは雌しべと雄しべが合体し、蕊柱をつくり、その裏側に花粉塊をしのばせ、
密を吸いにきた昆虫の頭にその粘着体とともに花粉塊がついて運ばれる。
花粉塊を運ばれた花は雌しべが残り、昆虫が他の花から運ぶ花粉塊を待ち受ける。
3番目の写真は爪楊枝で花粉塊をつけたもので、ネジバナなどラン科の花があったら、試してみよう。
ラン科の特徴を学ぶには格好のシラン。自然よりは
園芸で見られる。
ずい柱(蕊柱)は雌しべと雄しべが合成したもの。
その先に、花粉塊が付く。
花期5月。 | 2021-11-02 |
201 | | ショウキラン解体図 | ショウキラン(ラン科)鐘旭蘭
ラン科ショウキラン属。腐生植物で、光合成を行わず、菌根を形成し、共生。通年地下茎の形で生育し、7~8月の花期に花茎を地上に伸ばす。花茎の高さは10~25cm、鱗片状の葉を持つが、目立たないので、地表から唐突に花序だけ出た姿に見える。
花は美しいピンク色で、1週間程度で黒くしおれる。
分布日本全国、山地の日当たりの悪い場所に生育する。
近縁種にキバナノショウキラン、シナノショウキランがあるが、固体数は少ない。
写真:平成26年6月30日、下諏訪町観音沢。下左は
蕾状態のもの。
和名は花の形を「烏帽子をかぶった鐘旭の姿」に見立てたもの。 | 2021-11-02 |
202 | | シュンラン解体図 | 山地の明るい林内に生える。葉は幅1cm内外で常緑。唇片は白色で赤紫色の斑点がある。名は早春に開花するから。 | 2021-11-02 |
203 | | シャクヤクとアリ | シャクヤク 芍薬
蕾にアリがゾロゾロ
蕾は昆虫に甘い蜜を提供し、食害を避けている。
植物は進化の過程で、さまざまな工夫やからくりを持ち合わせている。
庭先に花々もよく見ると、新しい発見がある。 | 2021-11-02 |
204 | | シナノタンポポ・セイヨウタンポポ解体図 | シナノタンポポとセイヨウタンポポの見分け方
萼のような部分(総苞片)
シナノタンポポ:丸まる
セイヨウタンポポ:反り返る。
自然度の高い所にシナノタンポポが多く見られます。 | 2021-11-02 |
205 | | シナノキ解体図 | シナノキ(シナノキ科)科の木
「信濃国」の名前の由来と言われるシナノキ「科の木」。長野県に多かった。
特徴は、5cmほどの長い葉柄で、鋸歯も目立つ。
シナとはアイヌ語で、縛る・結ぶ・くくるという意味。樹皮の繊維が強いので、布を織ったり,縄をなったりするのに使われた。約15年サイクルで伐採し、繊維などに使われた。
また、花にはよい香りがあり、蜂蜜源としても利用される。
シナノキ縄や糸づくり
1.伐採。・皮はぎ・煮沸
10~20年程度の木を伐採し、その場で皮を剥ぐ。
内皮のみ持ち帰り、大釜で一昼夜煮沸する。
2.仕上げ
翌日しごくと、師部の1年成長分(年輪に当たる部分)が1枚1枚剥がれそれを約1週間1枚1枚干す。
3.縄ない・糸づくり
乾燥した材料 | 2021-11-02 |
206 | | シオデ解体図 | シオデ(ユリ科)牛尾菜 雌雄異株
アイヌ語「シュウオンデ」が転訛。秋田「秀子」シオデ⇒シオデコ⇒ショデコ⇒シデコ⇒ヒデコ。山のアスパラガス。
秋田民謡「秀子」
十七八ナ今朝ナ 若草何処刈ったナこのヒデコナ
何処で刈ったナ日干ナ 長根のその下でナこのヒデコナ
その下でナ葛のナ 若萌葉広草ナこのヒデコナ
葉広草ナ馬にナつければ ゆさゆさとナこのヒデコナ
1:シオデ詳細 *発芽は翌々年春となる。
2:アスパラガスのような若芽
3:つる状の茎
4:雌花 雌しべ1
5:雄花 雄しべ6
6:葉 主脈目立つ
7:果実は熟すと黒くなる。 | 2021-11-02 |
207 | | サンシュユ解体図 | サンシュユ(ハルコガネバナ)(ミズキ科)
春一番に庭先・公園で黄色い目立つ花。
落葉高木で、樹高10~15m。朝鮮・中国原産。
花は両性で、3~4月開花。葉の出る前に、短枝の先端から散形花序を出し、径2~3cm。総苞片は長さ0.6~0.8cm。花弁4個。果実は長い楕円形の核果で、9~10月に赤く熟す。
類似種
ヤマボウシ・ベニバナヤマボウシ
アメリカヤマボウシ(ハナミズキ)・ベニバナハナミズキ | 2022-08-27 |
208 | | サクラあれこれ | 桜あれこれ 2012.5.12林業センター
上より。
・かたおかザクラ(片丘桜) 花弁数:5枚
カスミザクラの栽培品。幼木でもよく花をつける、塩尻市片丘で見つける。樹高4mほど。
・しょうげつ(松月) 花弁数:20~30
サトザクラの栽培品種。明治期の荒川堤から広がった。名前の由来は不明。
・楊貴妃 花弁数:15~20
サトザクラの栽培品種。奈良の興福寺にいた玄宗という僧侶が庭の桜に愛情を注いだことから、その桜を「楊貴妃」と呼ぶようになったといわれる。
・紅玉錦
・フゲンゾウ(普賢象) 20~50
サトザクラの栽培品種。2本の雌しべが葉化し、これを歯、八重の花弁を鼻と、普賢菩薩の乗る白象に見立てた。
・北鵬
・普賢象
・かんざん(関山) 花弁数:20~50
| 2021-11-02 |
209 | | コバイケイソウ解体図 | コバイケイソウ(ユリ科)小梅蕙草
コバイケイソウの花穂の中央の大きく突き出た部分は両性花。その他雄花であり、果実の付くのは下段写真のとおり、両性花部分のみ。有毒植物。 | 2021-10-29 |
210 | | コクサギ解体図 | コクサギ(ミカン科)小臭木
木が小さく、全体にいやな臭いがあるので、この名。雌雄異株。沢沿いなどに群生。茎や葉に有毒アルカロイド、煎じて家畜のシラミ殺しに使用した。
雄花は4cmほどの花序に10個ほど、雌花は独立して一つずつ付く。若枝につく葉は2枚ずつ交互に生え、コクサギ型葉序という。
名前のとおり、葉をちぎると強い臭いがする。里山・山地に多く、樹高1~2mの落葉低木。雄花は萼片・花弁・雄しべが各4個、雌花は萼片・花弁4個、雌しべ1個、退化した雄しべ4個。果実は7~10月熟し、さく果3~4個。 | 2021-10-29 |
211 | | コオニユリ解体図 | コオニユリ(ユリ科)小鬼百合
オニユリに比べ全体にやせ型で、「むかご」ができない。花は普通数個がつき、花被片は長さ6~8cm(オニユリ7~10cm)。日本全土の海岸から山地まで生える。花粉は大きさがそろい、よく結実する。オニユリは人里近くに自生するが、中国原産の栽培品が野生化しただろうという。地下の白い鱗茎は食用となる。
葉の基部に黒紫色の球芽をつけ、落ちて発芽する。花粉は大小不同で結実しない。コオニユリは結実し、増える。 | 2021-10-29 |
212 | | クリンユキフデ解体図 | クリンユキフデ(タデ科)九輪雪筆
早春、山地の少し湿った所に生える。高さ20~40cm。
茎の先端と葉の脇に白い穂状の花をつける。花びらのようなものは萼。
白い花を雪に、穂の様を筆に例えて「雪筆」、また花が輪になって段になって
いる様子を、五重塔の先端の「九輪」に例えた。
よく似た「ハルトラノオ」は、穂状花穂はただ1個花茎の先につける。葉は茎を抱くことはない。花期4~6月。
クリンユキフデ:葉の基部は茎を抱く。また、茎頂だけ
でなく、葉の基部にも花穂がついて段
となる。花期5~7月。 | 2021-10-29 |
213 | | クサボタン解体図 | クサボタン(キンポウゲ科)草牡丹
クサボタン;雌雄異株。花は花弁を欠き、萼片が4枚。淡い紫色で外面に毛が密生。後に先が反り返り、雄しべ・雌しべを現す。
雌花の方が花が短く小さい。雄花・雌花ともにおしべ・めしべを持つが、雄花は雌しべが、雌花は雄しべが退化縮小して役にたたない。
果実は長い羽毛状の毛があり、風散布する。 | 2021-10-29 |
214 | | クガイソウ・ヒメトラノオ解体図 | クガイソウ・ヒメトラノオ(ゴマノハグサ科)
九蓋草:葉が輪生し、数段になる。別名トラノオ。花冠は
筒形で、浅く4裂。雄しべ2本は雌しべとともに
花冠を突き出す。
姫虎の尾:葉は対生、花冠はよく開く。両種は隣接も。 | 2021-10-29 |
215 | | ギンラン・ササバギンラン解体図 | ギンラン・ササバギンラン(ラン科)銀蘭・笹葉銀蘭
ギンラン:葉は短く尖らない。包葉は花序より短い。唇弁
の距はやや長く突き出す。8月。
ササバギンラン:葉は長く細く尖る。包葉は長く花序より
上へ。唇弁の距は短く丸い。5~6月。 | 2021-10-29 |
216 | | キランソウ解体図 | キランソウ(シソ科)金瘡小草
道端や岩の多い草地など、乾いた所に生える多年草。
紫の古語「き」、藍色の藍の字か重なって、青みの強い紫といういわれもある。
別名「地獄の釜の蓋」:根出葉がしっかり地面を覆い、
蓋をしているから。
別名「医者殺し」:薬効が鮮やかで、皆が医者通いの必
要がなく、医者が収入が途絶える。
この花のように、根生葉の広がりを「ロゼット」と呼び、ロゼットはローズ(バラ)からきており、上からみるとバラ模様です。身近な冬越しの植物のロゼットを探してみましょう。 | 2021-10-29 |
217 | | キバナバラモンジン解体図 | キバナバラモンジン(バラモンギク)キク科 黄花婆羅門参
・一昨年今頃、下諏訪富士見橋近くの砥川べりにて初
見。その後確認してきたが、再見できず、和名は分か
らず、幻の花だった。
・今回南箕輪村上伊那農業高校中の原農場入り口脇の水
路フェンス側に見つけた。手持ち図鑑では該当がな
く、果実の様子からキク科をHPで調べ、ようやくキ
バナバラモンジン(バラモンギク){バラモンジン
属}と判明。
果実はタンポポの果実を巨大化したようで、すでに風
散布で散ったものがある。草丈は大きいものは50c
mほど、道端の痩せ地では15cmほどで、いつか砥
川べりでみたものとほぼ同じ大きさであった。欧州・
西アジア原産。1877年頃食用or鑑賞用に渡来。1
911年までに逸出し、帰化 | 2021-10-29 |
218 | | カワラケツメイ解体図 | カワラケツメイ(マメ科)河原決明
日当たりのよい河原・草原に群生し、昔から浜茶・豆茶・弘法茶と呼ばれ、お茶の代用として広く親しまれてきたそうです。薬効もあり、草丈は30~60cmほど。花は少しだけ開く。中国の同じ仲間のエビスグサを「決明」といい、日本でもそのまま決明と呼んだ。葉のフォルムは見事です。羽状複葉は15~35対集まり、茎は紫褐色で毛がいっぱいです。お茶でいけます! | 2021-10-29 |
219 | | オサバグサ解体図 | オサバグサ(ケシ科)筬葉草
北八ヶ岳では目にするが、他では未見。この個体は
御泉水の森で、蓼仙(りょうせん)の滝周回コースの途上。
機織の「筬(おさ)」にケシ科と思えない葉の形から名づけられた。
深山の木陰に生える多年草。葉は多数根生し、深く羽状に裂け、裂片は10~25対もあり、裂片の先は丸い。花茎は長さ20cm内外で、まばらに小さな白花をつけ、穂(総状花序)となる。花弁は4枚、雄しべ4、雌しべ1。
本州(北・中部)の亜高山帯に生え、1属1種の日本特産。 | 2021-10-29 |
220 | | ウワズミザクラ解体図 | ウワミズザク(バラ科)上溝桜
山野に生える高木で、高さ10mくらいになる。
昔この材の上面に溝を彫って占いに使ったので上溝といい、和名は、そのウワミゾザクラの転化したものである。
果実の未熟で緑色のものを塩づけにして食用とする。 | 2021-10-29 |
221 | | イワガラミ・ツルアジサイ解体図2 | 紛らわしい仲間たち(いずれも山地帯の落葉つる性木本)
ツルアジサイ 装飾花の萼片3~4個
葉の鋸歯は細かく、片側30個以上
イワガラミ 装飾花の萼片1枚
葉の鋸歯は大きく、片側20個以内 | 2021-10-29 |
222 | | イワガラミ・ツルアジサイ解体図1 | イワガラミ(ユキノシタ科/岩絡み)とツルアジサイ(ユキノシタ科/蔓紫陽花)。
イワガラミ
山地の林内に生える落葉のつる性植物。
茎はところどころから根を出して岩や木に絡み高い所へ登ることからこの名がある。
ツルアジサイ
山地の林内に生えるつる性の木本。気根を出して他物を這い上がる。
別名ゴトウヅル。 | 2021-10-29 |
223 | | イブキジャコウソウ解体図 | イブキジャコウソウ(シソ科)伊吹麝香草
山地から高山まで、よく目にする多年草で、木本。
地面にぴったり張り付いて、一斉に咲くとピンクのカーペットのようです。漢名(中国の和名に相当する)で「百(ひゃく)里香(りこう)」と言い、その香りが遠くまで達する意で、さわやかな芳香は楽しめます。
香りを楽しめるものを列挙。
木本:クロモジ・アブラチャン・ダンコウバイ
カツラ・ホオノキ・コブシ・サンショウ
ハリエンジュ・コクサギ・クサギ・クリ
ヒイラギ・ウメ・モモ・ボケ・ロウバイ
ノイバラ・ハマナス・シラタマノキ
ミズメ(ヨグソミネバリ)・シキミ
ハクモクレン・ライラック・ミツマタ
ジンチョウゲ・キンモクセイ・オオヤマレンゲ
ブッドレア・スイカズラ | 2021-10-29 |
224 | | イタチササゲ解体図 | イタチササゲ(マメ科)鼬豇豆
鼬(いたち)の毛色に、花の色がクリーム色から黄褐色に変化するがそれに似る。「ささげ」は果実の様から。
山の草原に生える、つる性の多年草。茎は高さ80~150cm。若いうちは直立し、葉の先の巻きひげで絡みつく。葉は4~小葉からなる羽状複葉。
茎から葉の出るところに小葉とまちがえそうな大きな托葉がつく。
園芸種のスィートピーはこの仲間。
*以下のものは、大きな托葉のない、属の異なる種類。
クサフジ ナヨクサフジ カラスノエンドウ スズメノエンドウ カスマグサ 等 | 2021-10-29 |
225 | | イカリソウ解体図 | イカリソウ(メギ科)錨草 別名三枝九葉草
山の木陰に生える多年草。葉柄は長く、その先が三枝に分かれ、その先に3枚の小葉が付く。
花は4枚の萼片と4枚の花弁が付き、花弁の先に長い距が付き、密を入れる。
種子にはエライオソーム(種枕)が付き、アリ散布。
薬草として「淫羊霍(いんようかく)」と呼ばれ、老いた牡羊も食べれば元気百倍、昔の人のバイアグラ。また、別名の「放杖草」は、この草を煎じて飲んだ老人が杖を放り出すほど元気になるからとか。男性ホルモンの分泌を促進する化学成分を含み、今も市販の強壮ドリンクなどに使われる。日本海側には常緑のトキワイカリソウがある。 | 2021-10-29 |
226 | | アツモリソウ解体図 | 山地の草原に生える。
高さ30~50cm、花期6月。
花が美しく、乱獲されて野生のものは見られなくなった。名は袋状の唇弁を平敦盛の母衣に見立てた。 | 2021-10-28 |
227 | | アヤメの仲間 | 上から
・カキツバタ:湿原や湿原の水の流れに沿ったところに生える多年草。高さは40~80cm。
・ヒオウギアヤメ:高さ50~80cm。名は葉がヒオウギに、花はアヤメに似るから。
・アヤメ:高原に生える多年草。高さ30~60cm。
・ヤツガタケヒオウギアヤメ
・ノハナショウブ:山地や野原の湿ったところに生える多年草。高さ60~90cm。
ハナショウブの原種。
・ヒオウギ(ヌバタマ)
・キショウブ
・ジャーマンアイリス | 2021-10-28 |
228 | | アケボノスミレ解体図 | アケボノスミレ(スミレ科)曙菫
低い山地の半日陰に多く生え、花赤みが強く、大きな花弁。花開き、後に葉が伸びる。太平洋側、葉に艶なし。 | 2021-10-28 |
229 | | アキノキリンソウ解体図 | アキノキリンソウ(キク科)秋の麒麟草
日当たりのよい山地に普通な多年草。茎は高さ30~80cmながら、環境で矮小(わいしょう)のものもあり、葉にも茎にも細かい毛がある。変種で「キリガミネアキノキリンソウ」がある。
春・夏の花は花茎の下から順次咲いていくが、秋の花は標高の高いところから、また花茎の一番上から咲く。短期間で結実するための知恵なのだろうか。 (こんな目で見ると、キク科をはじめ秋の花々は、上から咲いてきている)
別名アワダチソウ。豊かに盛り上がる花の集まりを酒をかもしたときの泡に見立て、つけられた。 | 2021-10-28 |
230 | | アキカラマツ解体図 | アキカラマツ(キンポウゲ科)秋唐松
別名「高遠草」、葉に苦味あり健胃剤。
雄しべの柄が細く、花粉を出す葯(やく)だけが目立ち、花が黄色く見える。また、萼片(がくへん)が早く落ち、花弁はない。白く見える他のカラマツソウの仲間は先端の葯より柄の方が太く白く見える。雄しべ多数、雌しべ数個。草原。高さ40~
130cm。花期7~9月。
「高遠草」;高遠藩で薬草として販売したという。
白い花穂の仲間;カラマツソウ・ミヤマカラマツ・モミジカラマツ 等 | 2021-10-28 |
231 | | アオイスミレ解体図 | アオイスミレ(スミレ科)葵菫
まん丸な葉。アリの喜ぶ種枕(しゅちん=エライオソーム)が最大、ランナーで増える。
*種枕とは…蟻を誘引する物質の塊のこと | 2021-10-28 |
232 | | オトシブミ | 粋な名前の木の葉、虫のゆりかご。「落とし文」とは、SNSと時代が違います。 | 2021-10-15 |
233 | | オニシモツケ踊場湿原 | シモツケソウの仲間の中で一番大柄なのがオニシモツケ。 | 2021-10-15 |
234 | | 東山魁夷「夕明かり」八島ヶ原湿原 | 白馬シリーズ御射鹿池の「緑響く」同様に、八島の「夕明かり」を喧伝したい! | 2021-10-15 |
235 | | コブシ・万治の石仏 | コブシの花は春を告げる。砥川のほとりのコブシの花越しに万治の石仏を望む。 | 2021-10-15 |
236 | | 八島ヶ原湿原シモツケソウ | 鎌ヶ池から旧御射山社へ向かう右側湿原にシモツケソウの大群落が素晴らしい。 | 2021-10-15 |
237 | | 八島ヶ原湿原 7月 | 八島ヶ原湿原の一体にシモツケソウの仲間が咲き誇る。 | 2021-10-15 |
238 | | 八島ヶ原湿原 夏 | 湿原の緑は濃く、花は盛り。 | 2021-10-15 |
239 | | 八島レンゲツツジ | 多くのファンのいる霧ヶ峰のレンゲツツジ。八島周辺でも鹿食害に会わず健在。 | 2021-10-15 |
240 | | 日本海要素 | 長野県も新潟県寄りになるほど、日本海要素の樹木、草木が多くなる。 | 2021-10-15 |
241 | | 虫こぶ | 多くの昆虫のしわざで、多種多様な虫こぶを見ることができる。 | 2021-11-18 |
242 | | 北横岳縞枯れ | 縞枯れ現象は多くの研究者で原因が究明されているが、一つの景観で楽しめる。 | 2021-10-15 |
243 | | 八島ヶ原湿原の鹿 | 多大な鹿の食害で、侵入防止フェンスが今は設けられているが、過去貴重な記録写真。 | 2021-10-15 |
244 | | 彩雲 | 数多く山行すると、多種多様な自然現象に数多く出会え、その光景に魅入る。 | 2024-02-17 |
245 | | トケイソウ | 氷見市海浜植物園で初見。なんともユニークな花のつくりにほとほと感心した次第。 | 2021-11-12 |
246 | | 四手(しで) | シデシャジンやシデコブシのシデは、この「四手」に似ることから名づけられた。 | 2021-10-14 |
247 | | 根上がり木 | 人気の赤沢美林などで目にするが、その生い立ちを知るとなるほどとなる。 | 2021-11-16 |
248 | | 花の基本構造 | 各々の花は特徴あるしくみを持つが、基本的構造を理解した上で、違いを見たい。 | 2021-10-14 |
249 | | ワニグチソウ | ホウチャクソウに似るが、花枝の先に2~3枚の苞葉があり、花を抱きかかえる。 | 2021-10-14 |
250 | | リュウノウギク | ノコンギク・ユウガギク等と同時期に咲き、その香りは龍脳に似る。 | 2021-10-14 |
251 | | ユキノシタ | 斑が入った葉はよく見るが、初夏に咲く花は5枚の花弁の内3枚に濃い紅色の斑紋。 | 2021-10-14 |
252 | | ヤマホトトギス | ヤマジノホトトギスも本種に類似するが、ヤマホトトギスの方が花数が多い。 | 2021-10-14 |
253 | | ヤマブドウ | ヤマブドウの紅葉は、その葉が大きく、山地でも目に付く。 | 2021-10-14 |
254 | | ヤマドリゼンマイ | 諏訪地方ではゼッタの名前で、ゼンマイ同様に山菜として使われる。水辺に生育。 | 2021-10-14 |
255 | | モリアザミ | ヤマゴボウの名でつけもので売られているのは本種の根。 | 2021-10-14 |
256 | | メナモミ | 鱗片も総苞片も粘液腺があり、べたつく。山地や道端に生える一年草。 | 2021-10-14 |
257 | | ミヤマニガイチゴ | ニガイチゴよりも標高の高いところに生え、やはり口にしても甘くはない。 | 2021-10-14 |
258 | | ミヤマナルコユリ | ナルコユリに比較し、茎は細く、花数は少ない。御射山林道で初見。 | 2021-10-14 |
259 | | ミヤマザクラ | 山地に咲き、花茎は立ち、里のサクラが終わり、その後に咲く。 | 2021-10-14 |
260 | | ミヤコグサ | 花茎に花2個、帰化植物のセイヨウミヤコグサには花が5個内外付く。 | 2021-10-12 |
261 | | ミツバアケビ | アケビの一種で、これも同じ株に雄花と雌株を別々につける。 | 2021-10-12 |
262 | | ミツガシワ | 高地に生え、異型花柱性。長花柱花と短花柱花の2型がある。三つ柏。 | 2021-10-12 |
263 | | ミゾソバ | 地上に開放花、地下に閉鎖花をつける。別名ウシノヒタイ。水辺に生える。 | 2021-10-12 |
264 | | マルバウツギ | ○○ウツギの中でも、ほとんど目にしない。樹高1mほどの低木で円錐花序をつける。 | 2021-10-12 |
265 | | マメザクラ | 樹高3~5mの小高木で、花は新葉とともに開花する。 | 2021-10-12 |
266 | | マムシグサ♂ | これは雄株で仏炎苞の基部は開いており、昆虫は花粉をつけて飛び出せる。 | 2021-10-12 |
267 | | マムシグサ♀ | マムシグサは性遍歴で有名。この株は仏炎苞の下部がとじている。 | 2021-10-12 |
268 | | マツムシソウ | 秋の花の代表マツムシソウの白花品。諸説あるがマツムシの鳴くころ咲くのでこの名。 | 2021-10-12 |
269 | | ホトケノザ | 普通の開放花と同時に閉鎖花が、よく見るとつぼみのような形でついている。 | 2021-10-12 |
270 | | ボタンヅル | 野山に咲き、葉がボタンのそれに似ている。果実の綿毛も見ごたえがある。 | 2021-10-12 |
271 | | ヘラオモダカ | あまり見かけないが、水辺で時々ここにもあったかという感じだ。 | 2021-10-12 |
272 | | ベニバナヤマシャクヤク | 貴重種で、場所・開花時期を知ると、毎年今年何株咲くのかが楽しみだ。 | 2021-10-12 |
273 | | フデリンドウ | 春先山野でしばしば群生し、小さいながらけなげに咲き誇る。 | 2021-10-12 |
274 | | フジバカマ | アサギマダラが好むキク科植物。昔中国から伝来した。 | 2021-10-10 |
275 | | フシグロ | フシグロセンノウはよく目にするが、このフシグロはこぶりな花をつける。 | 2021-10-10 |
276 | | フジウツギ | これもめったにお目にかかれないが、猛毒。落葉低木で、1~1.5m。水月奥で。 | 2021-10-10 |
277 | | フキノトウ♀ | 春を運んでくるフキノトウ。雌雄異株で、今度はよく観察してみませんか。 | 2021-11-09 |
278 | | ヒメウツギ | あまり目にしないが、ウツギと比較すると、名前の通り大変こぶり。 | 2021-10-10 |
279 | | ヒキオコシ | 強い苦みがあり、仲間にクロバナヒキオコシ・カメバヒキオコシなどがある。 | 2021-10-10 |
280 | | ハネミギク(ハチミツソウ) | 北米原産の帰化植物で、当初蜜源植物として配布され、今やあちこちに広がる。 | 2021-10-10 |
281 | | ハナミズキ | 在来のヤマボウシは球形の集合果だが、ハナミズキ(アメリカヤマボウシ)は核果。 | 2021-10-10 |
282 | | ハエドクソウ | 地味な花で、山地路傍によく生えているが、気づかれない。ハエ殺しに使用した。 | 2021-10-10 |
283 | | ネジバナ | ラン科の中では身近で一番よく目にする種だろう。ラン科の学習には好素材。 | 2021-10-10 |
284 | | ヌスビトハギ | 盗人萩の和名の由来は、足袋をはかない現代ではピンとこないだろう。 | 2021-10-10 |
285 | | ニセアカシア(ハリエンジュ) | 河原や土手に繁茂し、また刺が多く、厄介者扱い。蜜源になる。 | 2021-10-10 |
286 | | ニガナ | ニガナは野山でどこでも見られるが、花色・花弁の数で区分される。 | 2021-10-10 |
287 | | ナガミノツルケマン | 山地の日陰に生え、果実は芋虫がたくさん並んだようにつく。黄色い花。 | 2021-10-10 |
288 | | ドクダミ | 別名十薬の名のとおり、昔から有名な民間薬。地下茎で繁殖大で困りもの。 | 2021-10-10 |
289 | | チョウセンゴミシ | 甘・酸・辛・苦・塩の五つ味がする。れっきとした日本原産種。 | 2021-10-08 |
290 | | タラノキ | 春の若芽「たらのめ」は皆分かるが、秋の果実も見どころがある。 | 2021-10-08 |
291 | | タマアジサイ | つぼみが丸いのでこの名。山地沢沿いなどに見られる。 | 2021-10-08 |
292 | | ソヨゴ2 | 常緑樹で、雌株には秋に赤い実がつく。 | 2021-10-08 |
293 | | ソヨゴ1 | 榊(さかき)のない諏訪地方では、その代用にする。雌雄異株。 | 2021-10-08 |
294 | | セツブンソウ | 春一番に咲き、白い花びら状の物は咢片。花弁はYの字状で密腺化している。 | 2021-10-08 |
295 | | セイヨウノコギリソウ | 高山まで広がる帰化植物。葉の枝分かれが多く、紅色の花もある。 | 2021-10-08 |
296 | | スイセンノウ | 路傍や庭先にたくましく繁殖している。俗称「ウサギノミミ」。 | 2021-10-08 |
297 | | シラヒゲソウ | ウメバチソウの仲間で、花弁はさらに美しい。王冠のような仮雄しべ。 | 2022-01-16 |
298 | | ショウジョウバカマ | 早春に咲くユリ科の仲間。種子以外に葉先にも子孫を残す繁殖方法を持つ。 | 2021-10-07 |
299 | | ジュズダマ | 昔、この果実をつないで数珠にした。イネ科。 | 2021-10-07 |
300 | | シデシャジン | 山地の木陰に生える。花の形が神社の「四手」に似ていることから名がついた。 | 2021-10-07 |
301 | | サワギキョウ | 田中澄江「花の百名山」八島はサワギキョウが挙げられている。 | 2021-10-07 |
302 | | サルマメ | 山地の落葉小低木。5月頃小さな黄緑色の花をつける。ユリ科木本。 | 2021-10-07 |
303 | | サルオガセ | まるでとろろ昆布のようだ。風の弱いところに、大きく伸長する。 | 2021-10-07 |
304 | | コナギ | 水田に生えるミズアオイ科の植物。青紫色の花をつける。 | 2021-10-07 |
305 | | コケオトギリ | オトギリソウの仲間で、湿地に生える。あまり目にしない。 | 2021-10-07 |
306 | | コクサギ2 | 雄花。コクサギ型葉序といい、葉が2枚ずつ、交互につく。 | 2021-10-07 |
307 | | コクサギ1 | ミカン科。雌雄異株。これは雌株。 | 2021-10-07 |
308 | | グンバイヅル | 果実が軍配に似ていることから。長野・群馬の一部にのみ産する。 | 2021-10-07 |
309 | | クリ | 梅雨のころ強い匂いが漂う。雄しべと雌しべが同じ花茎につく。 | 2021-10-07 |
310 | | クマヤナギ | 普段目にしにくいが、夏に前年の果実と今年に花を両方を同時に見られる。 | 2021-10-07 |
311 | | クサギ | 山菜の一つ。花も果実も、匂いを除けばなかなか美しい。山地路傍で見かける。 | 2021-10-07 |
312 | | キンバイソウ | よく似たシナノキンバイと比較すると、花弁と雄しべの長さが違う。 | 2021-10-07 |
313 | | キュウリグサ | 春先、野原に咲く。葉を摘むと、野菜のキュウリのような香りがする。 | 2021-12-26 |
314 | | キバナノアマナ | 茎の先に2苞葉をつけ、その先に3~10個の黄色い花をつける。カタクリの咲くころ。 | 2021-10-07 |
315 | | キバナカワラマツバ | カワラマツバは白い花、本種は黄色い花をつける。 | 2021-10-07 |
316 | | キスゲ(ユウスゲ) | ニッコウキスゲは昼に、キスゲ(ユウスゲ)は夕方に咲き、ともに1日花。 | 2021-10-05 |
317 | | キササゲ | ノウゼンカズラ科。落葉高木。果実は細長く、30~40cmとなる。 | 2021-10-05 |
318 | | キクザキイチゲ | 春の妖精のひとつ。白い咢片は花びらのようだ。葉は深く切れ込む。
春の妖精とは…春先に開花し夏まで葉をつけると、あとは落葉広葉樹林の林床などの地中で過ごす一連の野の花を総称してスプリング・エフェメラル Spring Ephemeral と呼びます。その可憐さから「春の妖精」とも言われます。 | 2021-10-05 |
319 | | カラマツ | 樹木の花を見ることは少ないが、カラマツの雌花は大変可愛い。秋には球果となる。 | 2021-10-05 |
320 | | カラマツソウ | カラマツの葉のような花なので、この名。白い雄しべが多数で、雌しべも10以上。 | 2021-10-05 |
321 | | カラハナソウ | ビールのポップに近い仲間で、その実は大変苦い。 | 2021-10-05 |
322 | | カラスビシャク2 | 同じサトイモ科のマムシグサと異なり、雌雄同体である。 | 2021-10-05 |
323 | | カラスビシャク1 | 畑地に発生すると、その根絶には手をやく害草。マムシグサのミニ版のおもむき。 | 2021-10-05 |
324 | | カラスノエンドウ | 葉腋にある花外密腺にアリが集まっている。 | 2021-10-05 |
325 | | カラスアゲハ・キツネノカミソリ | キツネノカミソリに吸蜜するカラスアゲハ。黒に橙色の取り合わせもいいものだ。 | 2021-10-05 |
326 | | カラコギカエデ | 湿地や川岸に生え、樹皮がはげ落ち「鹿の子まだら」になることから名がついた。 | 2021-10-05 |
327 | | カヤツリグサ | 昔は子供たちの遊びの素材で、割いて広げて「カヤツリ」と称した。 | 2021-10-05 |
328 | | カモシカため糞 | ニホンシカはぱらぱらとまき散らし、カモシカは一か所にためて糞をする。 | 2021-10-05 |
329 | | カマキリ卵2 | カマキリの卵の位置で、その年の積雪量が推測できるとの説があったが今は否定。 | 2021-10-05 |
330 | | カマキリ卵1 | 我が家の畑の隅の梅木に、カマキリ卵があった。自然観察の対象はいくつもあるもんだ。 | 2021-10-05 |
331 | | ガマ | 水辺のガマも、秋には白い綿毛が種子を運ぶ。古事記の因幡の白兎の物語も結びつく。 | 2021-10-05 |
332 | | カツラ倒木 | 山地水辺に近い所によく叢生(そうせい)しているカツラの大木も、こうして朽ちていく。 | 2021-10-02 |
333 | | カタクリ3 | 多くの品種に本来の色を失い、シロバナが出現する。カタクリにも現われる。 | 2021-10-02 |
334 | | カタクリ2 | 雪国には大群生地が多い。傾いた花にはギフチョウが舞う。 | 2021-10-02 |
335 | | カタクリ1 | 木々の葉が茂る前に、花が開く春植物。春の妖精。 | 2021-10-02 |
336 | | カゼクサ | 道路や土手に見られ、風知草という名前がカゼクサに変わった。
道ばたに多いので、ミチシバともいう。 | 2021-10-02 |
337 | | カスミザクラ | 里のサクラが終わり、山地に白っぽい花と緑の若葉を同時に開く。 | 2021-10-02 |
338 | | カスマグサ | カラスノエンドウとスズメノエンドウの中間の大きさで、「カ」と「ス」の間の草の意味。 | 2021-10-02 |
339 | | カジノキ | 諏訪大社の神紋で、雌雄異株。雌株には秋に赤い実がつく。クワ科特有で異形葉。 | 2021-10-02 |
340 | | ガクアジサイ | 園芸種セイヨウアジサイの原種、葉身は広楕円形で、表面に光沢がある。 | 2021-10-02 |
341 | | カキツバタ | 水辺に咲き、外花被片の基部には白色の部分がある。いずれがアヤメかカキツバタ。 | 2021-10-02 |
342 | | オランダガラシ | クレソンで親しまれる帰化植物で、山地の渓流にまで繁殖している。
俗名タイワンゼリ。 | 2021-10-01 |
343 | | オニノゲシ | 帰化植物。ノゲシに似るが、大型で全身刺がある。葉の付け根が丸く張りだすのが特徴。 | 2021-10-01 |
344 | | オニゼンマイ | ヤマドリゼンマイに似るが、湿地に生えず、胞子は栄養葉の中途に付く。 | 2021-10-01 |
345 | | オニシモツケ | シモツケソウより一段と大きく、同じような場所に生える。花色は白。 | 2021-10-01 |
346 | | オニグルミ葉痕・冬芽 | 花や紅葉の時期以外、こうした冬場の自然観察も楽しみが多い。 | 2021-12-26 |
347 | | オトシブミ | 落とし文とは歴史史実を知らないと、その意味するところを理解できない。幼虫ゆりかご。
オトシブミは葉を切って、揺籃(ようらん)と呼ばれる円筒形の筒を器用に作る。 | 2021-12-26 |
348 | | 祝神稲荷社 | 富部村本郷に祀られた、村内・宮坂巻の「祝神(いわいがみ)稲荷社」。
昭和61(1986)年の御柱祭の後不慮の禍で無残に倒壊折損した。
鳥居には長い由緒があり、富部村中のの信仰に深いつながあった。 | 2021-12-23 |
349 | | 石尊大権現 | この碑は現在秋宮駐車場横にあるが、以前は秋宮境内にあった。祭神は雨乞いに格別効果のあるという大山祗神でご神体は石劔といい古くから石尊大権現の名で知られていた。 | 2021-12-23 |
350 | | 博愛館 | 自由民権運動・青年会の活動が活発になった明治の時代、活動の拠点となる場所を求めるこえが強くなり、他の地区でも新しい集会所が次々に建てられた。神風社(青年会)の建議を受け明治40(1907)年5月に落成した。総工費1343円、全額区民95戸の寄付金で賄われた。
現在建物はなく駐車場になっている。 | 2021-12-23 |
351 | | 力石 | 昔、富部地区は農家がほとんどで、力自慢の若者が多かった。当時は娯楽も少なく、若者たちは夜分など三々五々村の辻に集まり踊りを楽しん去り、この力石をあげてその腕力を競った。重さは65㎏、玄米一俵とほぼ同じ。 | 2021-12-23 |
352 | | 休石 | 富部村(第十区)の西、久保村境を流れる小川に沿って、旧道から分かれて下る家下道(いえしたみち)が鉄道を越すところに立つ野面(のずら)の六角棒状の土坂石(つっさかいし)で「休み石」と呼ばれている。
度重なる工事等で元の石はなくなってしまった。現在は別の石がおかれている。 | 2021-12-23 |
353 | | 水神碑 | 明治39年3月、水上の安全と豊漁を祈り舟泊(ふなと)の口に祀った。碑の裏には漁業を営んでいた旧氏族をはじめ多数の人命が刻まれ、高浜を基地とした漁業の繁栄ぶりが偲ばれる。諏訪湖の埋め立てが次々と進み、湖は遠くなり、碑も二転三転した。 | 2021-12-23 |
354 | | 大権現 | 高浜の宮坂氏宅前に[大権現」と彫られた石碑が祀られている。
この碑は上部にかけがあり文字の一部が見える。
碑には言い伝えが残されている。
それは村の辻の「金毘羅大権現」が明治維新の際二つに折られ高浜に運び諏訪湖に投げ捨てられたその後、ここに住んでいた宮坂氏が引き上げお祀りした。 | 2021-12-23 |
355 | | 藤森稲荷社 | 富部稲荷平にある小和田村藤森巻祝神の稲荷社で「小和田のお稲荷さま」と呼び富部村の人々に親しまれていた。
高島藩の藩主より諏訪湖の漁業とこの辺りを網干場として拝領し、藤森巻20軒ほどの守り神として稲荷社を祀った。
今は小和田の所有の畑はないが社は藤森巻で祀っている。御柱祭も旧慣にしたがい湖上を舟で曳いてくる。 | 2021-12-23 |
356 | | 貯湯タンク跡 | 大正の末から昭和にかけ「富ヶ丘」と名付け高級別荘地にと計画をした大久保氏と宮坂氏。髙木の湖中に源泉を求め豊富高温な温泉を延々2㎞、高い鉄道の土手を押し上げこのタンクに貯えた。はじめに「富ヶ丘温泉」で営業を始めた。タンクにいっぱいになるとお湯は外に溢れ出し地域の人々も恩恵を受けた。残根なことに昭和初期の大不況にあい成功しなかった。 | 2021-12-23 |
357 | | 一里塚 | 五街道の一つ甲州道中ははじめ甲府までであったがその後下諏訪宿まで延び中仙道と合流、この間を末(うら)街道と言った。この塚は江戸より五十三里(約212㎞)で街道最終のものだった。明治21(1888)年払い下げられ昔の姿を消した。碑は昭和37(1962)年12月に若宮倶楽部の呼びかけで建てられた。 | 2021-12-23 |
358 | | 若宮社標 | 富部地区(第十区)の高台にある若宮神社の鳥居の横にある若宮様の社標。現在この社標碑は甲州街道沿いに立っている。 | 2021-12-23 |
359 | | 蚕影山神社 | 富部村(現在の第十区)の若宮神社の境内に一間半(約2.72m)四面の茅葺きの社殿を造り「蚕影山(こかげやま)神社」を祀った。 | 2021-12-23 |
360 | | 武居祝家のかり墓 | 諏訪明神の神官には「物忌令(ぶっきれい)」という厳しい掟の為、式年の御柱年に一族に不幸があった場合は家塁代(るいだい)の墓には納めず引導もせずに、かり墓に入れ穢れがないものとして御柱祭に奉仕し、その後本墓で本葬を営むことなっていた。その墓はごく狭くわずかに弓を回した内と決められていた。ここは、大祝、武居祝金刺氏のものだ。墓の場所は富部上の字「角石(かどいし)」にあり、今は荒れ果ててしまった。 | 2021-12-23 |
361 | | 六地蔵尊 | 昭和の初め頃まで葬式は野辺の送りなどと言われ、り行列新仏を神輿で担ぎ行列をそろえ上の段の「おまわり場」で旦那寺(だんなでら)の和尚様から引導(いんどう)してもらった。この地蔵様はそこに祀られていたが、葬儀の様式が変わり使われなくなり、若宮墓地への登り口へ移された。 | 2021-12-23 |
362 | | 若宮源湯と湯神碑 | 戦後上総(かずさ)掘り方式で昭和38(1963)年八月に自噴、「若宮源湯」と命名。地域の発展と福祉の向上をうたって、昭和39(1964)年6月「富部温泉」ができた。この碑を祀り繁栄を祈った。温泉は第十区の区有温泉として広く利用されていたが、平成19(2007)年3月末に廃業した。 | 2021-12-23 |
363 | | 道祖神と庚申の碑 | これらの碑はもとは村の辻に祀られれ、村人たちの厚い信仰を受けていた。
博愛館の新築の頃は前庭に飾られ、富部温泉ができると庭の北隅へ移り(昭和39(1964)年6月)、新しい公民館ができ現在の場所に移りました。 | 2022-06-08 |
364 | | 諏訪女子学園 | 諏訪女子学園前にて記念撮影。 | 2021-08-26 |
365 | | 蒸気機関車 | JR東日本が動態保存するSL、Ⅾ51型蒸気機関車498号が下諏訪町の高浜橋付近を走行した時の写真。 | 2022-01-13 |
366 | | 下諏訪駅構内 | JRの下諏訪駅。岡谷方面からの撮影。
下諏訪駅開設100周年を記念して、SLが走った時の下諏訪駅の風景。E257系「特急あずさ」、E351系「スーパーあずさ」3番線にはSL「D51」が待機している。 | 2023-10-21 |
367 | | 六方石(かんかん石) | 下諏訪町はよい石材に恵まれていた。六方(ろっぽう)石、土坂(つっさか)石、砥川(とがわ)石などがある。武居入りの土坂地籍から採取された六方石は俗にかんかん石と呼ばれた玄武岩である。石垣用や民家の手洗い石として六角柱の石を利用していた。また碑石としてもよく利用されている。写真は町内の石材店で現在では貴重となった六方石を備蓄している様子である。 | 2022-03-09 |
368 | | 小松家に残る木喰仏 | 木喰上人は18世紀末から19世紀初頭にかけて何度か信州を訪れ、信者はその身辺に沢山集まった。この木喰上人は旧来の形式にとらわれず、自由に心の赴くままに創作に打ち込み、庶民即仏とでもいえそうなまことにユニークな仏様の数々を刻んでいる。諏訪を中心とする寺や民家に沢山の仏さまが残されているが、写真は下諏訪町横町の花屋茂七(小松)宅の虚空蔵菩薩像である。一般公開されており、そのほほえみは慈悲にあふれている。 | 2022-03-24 |
369 | | 大和仁平翁像 | 下諏訪町に上水道を設置した町大和仁平翁の像が水月公園幟口の東側に建立されている。大正14(1925)年に計画、昭和3(1928)年竣工の大工事で総工費38万円を要した。この経費は当時の町の経常総歳出の3倍を超す額で、水道管敷設事業実施は大英断であった。なお、水源は東俣から送水し、水月園下に配水池を置き、町内には自然流加で配水した。 | 2022-03-24 |
370 | | 中部電力・下諏訪変電所 | 中部電力パワ-グリッド(株)下諏訪変電所。電力の安定恒久の為には重要な施設。人目につかない秋葉山斜面に設置されている。 | 2022-03-24 |
371 | | 春宮境内の御宝殿用材 | 諏訪大社の神様は、諏訪大社式年造営御柱大祭、いわゆる御柱年に修築の神殿にご遷座になる。この建築用材は下諏訪町東山田地区が奉納することになっていて、写真はその御用材の一部が春宮境内に展示されているところである。室町時代の記録では、新築の宝殿を7年間風雨にさらし清めてから遷座し、旧殿を解体新築、また7年を経てから遷座、という形式だったとされているが、江戸時代に入ってから新築した建物にご遷座するように変わったという。 | 2022-03-24 |
372 | | 下諏訪倉庫跡・西友下諏訪店 | 大門通の「西友下諏訪店」。かつてはここに明治33(1890)年創業の「下諏訪倉庫(株)」が明治44(1911)年に建てた土蔵の繭蔵倉庫があり、製糸業を支えてきた。その後、繭のにおいの残る館内は、下諏訪倉庫創立関係資料・風乾(自然乾燥)当時の繭保管棚や選繭台・養蚕用具・昭和6(1931)年の見本繭や生糸・機織り機・三井組製糸場その他関連の古い写真などを展示している「下諏訪倉庫蚕糸博物館」となっていた。しかし今は写真のように大型スーパーに変貌し、時代の流れが大きく風景を変えてしまっている。 | 2022-03-24 |
373 | | 社中学校 | 昭和57年(1982年)4月に下諏訪中学校から分かれて開校した下諏訪社中学校。眼下に諏訪湖を望み、遥かに南アルプスと霊峰富士を望める望湖台に建つ。 「絆」を建学の精神とし、学校教育目標「強く、賢く、頼もしく」(平成23年度改定) を掲げている。 | 2022-03-19 |
374 | | 本陣跡 | 下諏訪宿本陣遺構。本陣は最初小口氏が務めたが、のち岩波氏に代わった。文久元(1861)年の図面では、建屋280坪、建物並びに庭545坪、畳数232畳、総坪825坪と記されている。現在の本陣遺構とホテル聴泉閣かめやを合わせた敷地にあたる。
本陣の業務は大名・幕府役人の宿泊であるが、運営の費用は問屋業の収益でまかなわれた。 | 2022-03-19 |
375 | | 犬射馬場跡標石 | 犬射馬場四至ノ標石の内、北東と東南隅の写真。山王台の下に郷殿という諏訪明神大祝の屋敷(下諏訪中学校あたり)があり、この屋敷の西続き下の段を馬場(ばっぱ)といい、犬射馬場があった。鎌倉時代の武士たちは、日ごろから笠懸・流鏑馬・犬追物などの鍛錬に励んでいた。この馬場では主に犬追物を行い、またその事にまつわる祭場でもあった。江戸時代になりそれらが廃ると馬場には人家ができるなどしたため、享保18(1733)年、さらに明和6(1769)年に神社・氏子立ち合いで検地確認したという。これはその時の標石である。 | 2022-03-19 |
376 | | 西大路口交差点バイパス接続工事 | 西大路が国道20号線と交差する場所(国道20号西大路口信号交差点)の工事風景である。当面は混雑緩和と歩行者の安全確保を目的とした交差点改良工事だが、将来の国道20号下諏訪・岡谷バイパスと現国道とを接続するアクセス道路の起点となる計画があり、完成すれば車の流れが大きく変貌するポイントになる場所と思われる。 | 2022-03-19 |
377 | | 綿の湯跡 | 綿の湯の跡。「綿の湯」で検索していただくと古い写真がたくさんあるのでぜひ比較していただきたい。かつての名湯も今は碑と観光用に流している湯、壁に掛けられた江戸時代の宿場風景を描いた複製画で偲ぶしかない。せめて次代の子供たちには「湯玉の伝説」くらいは話し継いでいきたいものである。 | 2022-03-19 |
378 | | 中山道・甲州道中合流地 | かつてこの場所に問屋場があり、その奥には「綿の湯」があったところで、下諏訪宿の中心であった。江戸から和田峠を下ってきた中山道はここで直角に折れて塩尻、さらに京をめざす。また、江戸から甲州を通ってきた甲州道中はここで中山道と合流し終点となっている。この碑の前に立って両手を広げると右に行っても江戸、左に行っても江戸となり、全く反対なのにどちらに行っても江戸に行けるというおそらく日本中でここだけの珍しい場所である。
ちなみに、この合流の地は、江戸日本橋から下諏訪宿まで甲州道中で53里11丁(約209キロ)、中山道では55里7兆(約217キロ)の地点である。 | 2022-03-19 |
379 | | 旦過の湯 | かつての下諏訪三湯(綿の湯・小湯・旦過湯)の一つで、三湯の中で最も湯温が熱い。№1541と比較すると建物が新しくなっている。今は中山道に面した壁に修行僧の「こて絵」が飾られており、この湯の歴史(禅寺・慈雲寺の旦過寮のあった場所)の片りんを感ずることができる。 | 2022-03-19 |
380 | | 今井邦子文学館 | 「松屋」は中山道の宿場内にあって、間口が狭く奥行きの長い典型的な宿場の建物であったが、当時の面影を可能な限り再現して建て替えられ、現在は「今井邦子文学館」として開放されている。今井邦子は少女時代に下諏訪町に住み、島木赤彦との巡り合いにより短歌の新境地を開き、「明日香」を創始して歌人の道を歩んだ。館内には今井邦子や「明日香」の資料が展示されている。また、旧中山道を散策する人々が一服できる場所ともなっている。 | 2022-03-19 |
381 | | 綿の湯跡 | かつて綿の湯や問屋場があった中山道と甲州道中の合流地を立町の方から撮った写真である。すでに綿の湯もなくなり、駐車場や観光案内板が置かれているが、手前左の「丸や」、右の「ききょうや」はかつての風情を色濃く残している。古い写真と見比べてほしい。 | 2022-03-19 |
382 | | 中山道一里塚(五十五里塚) | 下諏訪町には、一里塚が4か所置かれていた。甲州道中の53里塚(富部)、中山道の53里塚(西餅屋下)、54里塚(町屋式上)とこの写真の55里塚である。かつては街道両側に塚や根張りの良い木が植えられていたが、現在は標石が建てられているばかりである。 | 2021-08-03 |
383 | | 下諏訪町役場庁舎 | 下諏訪町の前身の下諏訪村が明治7(1874)七カ村が合併してできた(本陣方)。その後役場は明治10(1877)年に下諏訪学校、明治19(1886)年に来迎寺、明治22(1893)年には庁舎を新築し立町に移っている。その後明治26(1893)年に町制施行され、大正14(1925)年に役場庁舎を大社通に新築した(旧役場)。さらに昭和45(1970)年に現在の鷹野町の新庁舎が完成し、現在に至っている。 | 2021-08-05 |
384 | | 下諏訪総合文化センター | 県文化公園整備事業を原村と二分し平成元年に建設。この中に教育委員会事務局・文化センター・公民館・勤労青少年ホームの諸施設を置いている。町独自の文化活動のほか多くの人々の文化事業にも活用され、生涯学習センター的な役割も持っている。 | 2021-08-03 |
385 | | 下諏訪体育館 | 昭和52(1977)年10月に竣工した現在の下諏訪体育館。 | 2021-08-03 |
386 | | 下諏訪図書館 | 現在の下諏訪図書館。手前の公演はあすなろ公園。
図書館のはじめは、昭和13(1938)年ユニークな青年会図書館として創立し、旧役場あとの公民館に移管し、その後昭和54(1979)年現在地に下諏訪町立図書館として建設された。蔵書数は令和3年で本以外も含め約13万余となっている。利用率も高い図書館で、生涯学習の拠点となている。 | 2021-08-03 |
387 | | 下諏訪消防署 | 下諏訪消防署。現在の消防署は元保育所のあった場所に新しく移築されたものだが、参考に第4保育園の頃の写真は№926をご覧いただきたい。 | 2021-08-03 |
388 | | 令和3年のジャスコ通り | 南四王付近から諏訪市方面を望む令和3(2021)年のジャスコ通り(県道岡谷・下諏訪線)。通りの名前になっていた「ジャスコ諏訪店」も「イオン」と名前が代わり、令和になって建て替え工事が始まり、令和3(2021)年6月現在は跡地が更地となっている。
写真右側にはかつて「南信カローラ」の販売店があったが、これも令和に入って建て替えが行われ「NTPトヨタ信州下諏訪店」として新装オープンした。道路左側には書店などがあったが、現在は「ガスト下諏訪店」や「メディアワールド下諏訪店」などが営業している。
町内でも変化の激しい地域である。 | 2021-08-03 |
389 | | 下諏訪港 | 利用が減少した下諏訪港。平成元年の諏訪湖開きの時の下諏訪港の華やかさ(№943)と比較してほしい。近年はワカサギ釣りの穴場として釣り人に人気の場所でもあったが、令和に入ってからは立ち入り禁止になっている。 | 2021-06-23 |
390 | | 下諏訪駅と駅前通り | 令和2年頃の下諏訪駅と駅前通りの様子。昔の駅舎や駅前通りの様子と比べてみていただきたい。駅舎は二階建てになり、駅前の看板は簡素になって時間の隔たりを感じることが出きる。 | 2021-06-23 |
391 | | 橋本政屋 | 甲州道中の下諏訪宿と上諏訪宿の間の茶屋として栄えた。表は千本格子で、二階は出梁作りとなっている。諏訪湖を一望でき江戸時代の面影が残る建物。こて絵の力蔵(りきぐら)、高島城より拝領のおひねりの松・石燈など見どころも多い。 | 2021-06-10 |
392 | | 休石 | 中央東線の線路沿いに残る休石。かつて農作業等で田んぼなどに運ぶ刈敷、あるいは田圃から籾などを運ぶ時。この石の上に重い荷物を乗せ一休みするところから、この名がついたと思われる.こうした「休石」のような石は、下諏訪町以外にも諏訪各地に点在する。 | 2021-06-03 |
393 | | 甲州道中一里塚(五十三里塚) | 富部にある甲州道中一里塚。江戸日本橋から五十三里、甲州道中最後の一里塚である・ここから十余町(およそ1㎞余)で下諏訪宿に至り、綿の湯前で中山道に合流する。 | 2021-06-03 |
394 | | 下諏訪駅 | | 2024-02-17 |
395 | | 梶原塚 | | 2021-04-22 |
396 | | 尾掛松(おかけまつ) | 古代の「松之木湛」神事の地と伝えられている。「湛(たたえ)」とは「タタリ」。お掛け松に神霊が大空より降臨することを信じて祀ったものと伝えられる。「杉の木様」とも呼ばれている。(わが町下諏訪歴史編より)
また、出雲に出かけた諏訪明神様の尾がこの木に巻き付いていて、他の神々から「尾はどこに?」と問われて「おはたかき」と答えたという伝説が伝えられている。現在の大和、高木の地名の由来とか。
今は木の切り株が大切に保存されており、覆い屋に保護されている。 | 2021-04-24 |
397 | | 下諏訪町旧艇庫設備 | 下諏訪町の漕艇場。艇庫設備は近年新しくなったが、それ以前はこの桟橋までボートを運び、水に下ろしていた。 | 2021-02-23 |
398 | | 諏訪湖で遊ぶ | 下諏訪町図書館で忍者の本を借りたら「マキビシ」について説明があったので、諏訪湖に「ひし」を探しに行きました。 | 2021-02-23 |
399 | | 武居桜 | 諏訪大社秋宮の東、下諏訪向陽高校に向かう向陽坂の途中にある老桜。花は一重の淡紅色で鮮やかな名木で、町の天然記念物に指定されている。この桜を地元の人は「苗間桜」と呼び、春早く咲いて陽気木となり、苗間作りの目当てとされてきた。樹高およそ11mで、樹齢はおよそ300年とされている。日光博物館の久保田博士によるとエドヒガン、別名アズマヒガン・タチヒガンとされた。平成6年樹木医の指導の下外科手術をし、根元に施肥を行っている。さらに平成14年には銅板で覆って保護をしている。 | 2021-02-23 |
400 | | 土砂崩れ | 平成18(2006)年7月19日未明の豪雨災害。 | 2020-09-09 |
401 | | 土砂に埋もれた線路 | 平成18(2006)年7月19日未明の豪雨災害。
承知川の氾濫による土石流で埋まった中央東線の線路。
この写真では水はだいぶ引いているように見える。 | 2020-09-09 |
402 | | 氾濫した承知川(国道上) | 平成18年7月19日未明の豪雨災害。
大量の土砂と濁流が承知川沿いの道路も埋め尽くした。 | 2020-09-09 |
403 | | 氾濫した承知川(線路付近) | 平成18(2006)年7月19日未明の豪雨災害。
承知川の濁流が国道20号を渡り、JR線の鉄橋に達した。
写真2・3枚目は土のうを積みあふれ出た水を川に戻している。 | 2020-09-09 |
404 | | 濁流、国道を渡る | 平成18(2006)年7月19日未明の豪雨災害。
氾濫した承知川の濁流が線路を渡り、南小学校付近の道路方面に流れている。
正面に見えるのは有賀商店(現在は駐車場になっている) | 2020-09-09 |
405 | | 承知川の氾濫 | 平成18(2006)年7月19日未明の豪雨災害。
承知川がはんらん、濁流が道路まであふれ出し、川沿いの民家を襲った。車も濁流に流されている。 | 2020-09-09 |
406 | | 冠水した線路 | 平成18(2006)年7月19日未明の豪雨災害。
大和電機工業㈱前のJR線路内が冠水。
承知川のはんらんで国道20号線を超えた水が一気にJRの線路へ流れ込み、数百メートル離れたイングスシナノ付近から側道に流れ出た。このためポイントが故障し、下諏訪中学校下の甲州第三踏切は遮断機が下がったままの状態になった。 | 2020-09-09 |
407 | | 北四王ガード下の冠水 | 平成18(2006)年7月19日未明の豪雨災害。
冠水した四王のガード下。 | 2020-09-09 |
408 | | オトコヨウゾメ | ガマズミ(ヨウゾメ)は食用になるが、本種はならず、オトコとついた。
やや乾いた明るい山地に多い落葉低木。秋にやや平たい赤色の果実をつけて下に垂れる。 | 2022-01-19 |
409 | | オトコオミナエシ | 「オミナエシ」・「オトコオミナエシ」の交雑種が「オトコオミナエシ」花色は淡い黄色で折衷。 | 2022-01-19 |
410 | | オトコエシ | 黄色いオミナエシは有名ながら、オトコエシもやや日影地に白く咲く。
山野の日の当たる草地に生え、高さ60~90cm。全体に毛が多い。花期あh8~9月。 | 2022-01-19 |
411 | | オトコエシ・オミナエシの由来 | 和名の由来、オトコエシ・オミナエシは昔の男女の生活の一端も知れる。
オトコエシは花が白色でオミナエシに比べて強そうなのでオトコエシなりオミナエシの名は、オミナは女で花が優しく美しいから。また、女郎花と書き秋の七草のひとつ。 | 2022-01-19 |
412 | | オカトラノオ | 山地の草原に生え、花が虎の尾に似ている。
サクラソウ科の仲間で多年草で茎の上部にはまだらに毛があり、下部は赤色を帯びる。 | 2022-01-19 |
413 | | オオモミジの花 | 雌雄同体で、枝の先に複数房花序に小花15~30個つける。 | 2022-01-19 |
414 | | オオモミジ霜降る | 県道八島高原線(199号)11月初め、落ち葉に霜が降り、いよいよ冬到来だ。 | 2022-01-19 |
415 | | オオヒナノウスツボソウ | ゴマノハグサ科、あまり多くはないが、ファンもいる。この写真は果実。
山地に生える多年草。 | 2022-01-19 |
416 | | オオバナノエンレイソウ | エンレイソウは花の径が2㎝、本種は7cmと大きさが異なる。栽培種。
北方型の多年草で、山地に生息する。 | 2022-01-19 |
417 | | オオハナウド | 写真上、花は花序が集まった周辺部の花がひときわ大きい。
写真下、小葉は3~5中裂し、不揃いの切れ込みがある。
山野に生え、茎は高さ2mくらいになる大型の草木。 | 2022-01-19 |
418 | | オオバコ2 | | 2020-09-09 |
419 | | オオバコウモリ | | 2020-09-09 |
420 | | オオナルコユリ | | 2020-09-09 |
421 | | オオツリバナ | | 2020-09-09 |
422 | | オオダイコンソウ | 根元の葉が野菜の大根に似ていることから名がついた。
果実はまん丸で、全体にがっちりしている。
ダイコンソウはややよわよわしい。 | 2020-09-09 |
423 | | オオキンケイギク | | 2020-09-09 |
424 | | オオカメノキ | | 2020-09-09 |
425 | | オオイヌノフグリ | | 2020-09-09 |
426 | | エンレイソウ | | 2020-09-09 |
427 | | エンビセンノウ | | 2020-09-09 |
428 | | エンコウソウ | | 2020-09-09 |
429 | | エビラシダ | シダ類も種類が多いが、本種はやや特異な形。
ワラビもシダでしたね。
別名ジクオレシダ、産地帯の林内の湿った岩壁に着生する夏緑性のシダ葉は長さ10~20cmで葉身は三角状卵型、単羽状深裂、葉身と葉柄は約120度の角度でつきます。
準絶滅危惧の植物で県内では諏訪・佐久・木曽・松本などで分布しています。 | 2022-01-26 |
430 | | エビガライチゴ | | 2020-09-09 |
431 | | エノコログサ | | 2020-09-09 |
432 | | エゴノキ | 梅雨のころ、白いベル | 2020-09-09 |
433 | | エゾリンドウ | 湿地にみられ、クキ全体に花を付ける。これを園芸種として育てられている。
山地や亜高山帯の湿地に生える多年草。 | 2022-01-26 |
434 | | エゾカワラナデシコ | 諏訪地方のものは苞葉が二対ある。包の大きさによりカワラナデッシコと区別される。 | 2022-01-26 |
435 | | エイザンスミレ | エイザンスミレの夏葉。
山地のやや湿り気のある木陰に生える香りのよいスミレ。
比叡山にあったことからこの名がついた。
別名「エゾスミレ」 | 2022-01-16 |
436 | | ウワミズザクラ | 山野に生える高木で10mぐらいになる。
未熟な果実は食用ともする。
普通のサクラらしくなく、総状花序(そうじょうかじょ)を長くつける。 | 2022-01-26 |
437 | | ウリハダカエデ | 樹皮はマクワリに似て、雌雄異株で、枝の先端に総状花序(そうじょうかじょ)を付ける。
山に多い落葉高木。 | 2022-01-16 |
438 | | ウリカエデ | 本種の葉は分裂しないものと3~5裂するものとがあり、黄葉と紅葉がある。
低い山に多い落葉低木で枝の皮がウリの皮の緑色をしていることでこの名がついた。
別名「メウリノキ」 | 2022-01-16 |
439 | | ウメバチソウ | 王冠のような黄色い仮雄しべがトレードマークで、中の雄しべは順に開く。
山のふもとや日の当たる湿地帯に生える多年草。 | 2022-01-16 |
440 | | ウメガサソウ | 梅笠草。山の木陰に生えるような常緑小低木。
前年果実と当年花を同時に見ることができる。 | 2020-09-09 |
441 | | ウド | 山菜としてなじみがあるが、花も果実も見どころがある。
大型のものでシシウドがある。 | 2021-09-16 |
442 | | ウツギ | 別名卯(う)の花。山野の茂みに生える落葉低木。
空木とは枝を切ると中に空洞ができている。
○○ウツギと科をまたいでも多い。
秋にはおわん形の果実が多数ついていつまでも残る。(写真下)。 | 2021-09-16 |
443 | | ウスユキソウ | 日本版エーデルワイス。
白い咢片(ガクヘン)が目を引く。
高所にはミネウスユキソウがある。
産地の岩場に生える多年草。 | 2021-09-16 |
444 | | ウスアカカタバミ | アカカタバミと同じような場所に生える。
帰化植物。 | 2021-12-26 |
445 | | ウシハコベ | ハコベには多くの種類があるが、花びらが10枚に見えるものもすべて5枚。
道端や畑に生える、2年草。
ハコベより大きいことからこの名がつけられた。 | 2021-08-09 |
446 | | イワショウブ | 湿原の水辺に白いブラシ状の花を付ける。
茎から粘液を出す。 | 2021-08-09 |
447 | | イワアカバナ | 柱頭(チュウトウ)が本種はまん丸で、アカバナは米粒のように細長い。紅葉も美しい。
山中の湿地に生える。 | 2021-08-09 |
448 | | イロハモミジ | 紅葉はモミジの代名詞だが、春の花はあまり注目されないが、それぞれ味わいがある。 | 2021-08-05 |
449 | | イボタヒョウタンボウ | ヒョウタンボウは果実が2つ結合するが本種は合着しない。有毒なので注意。 | 2021-08-05 |
450 | | イブキトラノオ | 花はアップで見ると見ごたえがある。
群生になると多くの昆虫も群がる。
山地の草原に多く見られる多年草、高さは50-80㎝。
滋賀(しが)県の伊吹(いぶき)山に多いのでこの名がついた。
トラノオは虎の尾という意味で花の形から来ている。 | 2021-08-03 |
451 | | イヌタデ | ハナダテは花がまばらに付き、イヌダテは花がびっしりつく。あかまんまは俗称。 | 2021-06-27 |
452 | | イヌザンショウ | 刺がサンショウは対生で、イヌサンショウは互生で、食用にならないのでイヌとつく。 | 2020-09-09 |
453 | | イヌザクラ | 山地で桜類。
桜のように見えないのでこの名がついた。 | 2021-06-27 |
454 | | イヌゴマ | 実の形がゴマに似るが、使い道がないのでイヌとついた、イヌ○○は同様の意味。 | 2021-06-27 |
455 | | イヌエンジュ | 若芽は銀色に輝き大変目立つが写真はつぼみでこれから展開する。 | 2021-06-27 |
456 | | イチョウ光合成拡大戦略 | 枝ぶりを見ると短枝に多くの葉をつけて盛んに光合成を行ていることを知る。 | 2021-06-27 |
457 | | イチハツ | アヤメの仲間で、中国原産。
園芸種で庭先で見受ける。 | 2021-06-27 |
458 | | イケマ | ガガイモ科のアサギマダラの食草。
山地の木蔭に多いつる性の多年草。
オクラのような果実は種子散布は見どころあり。
「イケマ」とはアイヌ語で「大きな根」という意味。 | 2021-06-16 |
459 | | アリアケスミレ | 信州はスミレ大国。諏訪もしかり。本種は田の畔などの湿地に生え、白い花は美しい。 | 2021-06-06 |
460 | | アメリカヤマボウシ | アメリカヤマボウシ(ハナミズキ)街路樹でいつも見かける。花びら状のものは総苞片(ソウホウヘン)。ヤマボウシもしかり。 | 2021-06-06 |
461 | | アメリカフウロ | 路傍(ロボウ)によく群生している。
北米原産の一年草、昭和初期に日本に渡ってきた帰化植物。
ゲンノショウコウに比べて茎の毛が細かく葉はほとんど基部まで5~7裂する。 | 2021-05-25 |
462 | | アメリカセンダングサ | キク科の植物は帰化植物が多いが、北米原産で、路傍(ロボウ)でよく見かける。日本へは昭和の初め頃入ってきた。果実は平たく二本の刺があり人によくつく。 | 2021-05-25 |
463 | | アマニュウ | 大型のせり科の仲間で、シシウド・ミヤマシシスド・オオハナウド等と違いを掴みたい。
巨大な多年草で3mにも達するものもある。日本特有の植物で、この茎を食べると甘みがあることからこの名がついた。 | 2021-05-25 |
464 | | ママコノシリヌグイ | 野山にあちこち群生している。
和名は「継子(ママコ)いじめ」。逆さ刺が継子いじめに使われたという意味。
写真2枚目は刺の写真、この刺h半端なく大変痛い。
写真3・4枚目は花でピンク色で美しい、「アキノウナギツカミ」も同様に刺が痛い。他のつる植物の仲間同様にその刺で他の植物にからんで上に伸びてゆく。 | 2021-05-25 |
465 | | アブラコゴミ | キヨタキシダとも言い、コゴミ同様に山菜の一つに数えられる。 | 2021-05-25 |
466 | | アツモリソウ | 自生はなかなか見られないが、近くでは柿陰(しいん)山房の庭園で植栽ながら鑑賞できる。 | 2021-03-24 |
467 | | アゼナ | 水田の畦や湿地に多く一年生。
ゴマノハクサ科。 | 2021-03-24 |
468 | | アズマイチゲ | よく似ているキクザキイチゲは葉が細かく切れ込んで、本種は丸い。 | 2021-03-24 |
469 | | アケボノソウ2 | 花弁の数の変異があり、4~6枚と同じ株の中でも花で違いがある。 | 2021-03-24 |
470 | | アケボノソウ1 | 花弁の先の2点の黄色い部分は花外蜜線で、昆虫はよく寄り付く。 | 2020-09-09 |
471 | | アケビ | 現在は食べ物が豊富で、子どもたちも口にしないが果実んの皮部分は乙に味わえる。 | 2021-03-24 |
472 | | アキノノゲシ | 同類のヤマニガナ・オオニガナは花色が黄色、本種はクリーム
色。 | 2021-03-23 |
473 | | アキノキリンソウ | どこにも生えるが、その環境で成長にバラツキ、大きさも大きく異なる。 | 2021-03-23 |
474 | | アギナシ2 | 郊外の田んぼ畦(アゼ)を歩いてみるのも一興で、見慣れない草花に出会える。 | 2021-03-23 |
475 | | アギナシ1 | 水田の端に生えるオモダカの仲間で多年草。
下部に少数の雌花、上に多数の雄花がつく。 | 2020-09-09 |
476 | | アキグミ | 秋も深まると、アキグミの実も赤くたわわに実る。 | 2020-09-09 |
477 | | アキカラマツ | 黄色い葯・ヤク(花粉を作る袋状の器官のこと)だけが目立つ。健胃剤として用いられ、葉を噛むと強烈に苦い。 | 2020-09-09 |
478 | | アカマツ2 | まず雄花は前年の枝に多数の黄色い花粉を出す。
その頃松林を走ると黄砂のようにつく。 | 2020-09-09 |
479 | | アカマツ1 | 観察することが少ないが、春先雄花の時期がおわると、新芽の先に雌花が付く。 | 2020-09-09 |
480 | | アカフタチツボミ | タチツボスミレは一番ポピュラーだが、葉に赤い斑が入るのが本種。 | 2020-09-09 |
481 | | アカバナシモツケ | 湿原周辺に群生し、高原に生える。果実に毛があるのでシモツケソウと区別。 | 2020-09-09 |
482 | | アカネの根 | 根は黄赤色で乾かすと黒色で、アカネ染めの染料にもちられる。 | 2020-09-09 |
483 | | アカネ | つる性の多年草。葉は4枚の輪生で、柄の長い方2本が派で、短いのは托葉(タクヨウ)。 | 2020-09-09 |
484 | | アカカタバミ | 街中でも普通のカタバミ同様にアカカタバミも見かける。
帰化植物。 | 2020-09-09 |
485 | | アオハダ | キハダの肌。
和名の由来は、表皮をはがすと、緑色の樹肌が現れることから。 | 2020-09-09 |
486 | | アオハダ | 雌雄異株で、写真は雄花。
里山でも時に見られる。 | 2020-09-09 |
487 | | アオハダ | アオハダの果実。
赤い実が緑の葉と対照的に良いコントラストを醸す。 | 2020-09-09 |
488 | | アオツヅラフジ | 街中でもフェンスにからまるツル植物。
秋には青い果実をたわわに付ける。
カミエビとも呼ばれる。 | 2020-09-09 |
489 | | アオギリ | アオギリの果実。
中国原産で、公園などで植栽されている。
種子の付き方が独特で、一見の価値がある。 | 2020-09-09 |
490 | | シュウカイドウ | 同じ株に雄花と雌花が別々につく。
同じ花色なので知らないとどれでも同じかも。 | 2020-09-09 |
491 | | トウダイグサ | 花は杯状花序(ハイジョウカジョ)といい、総苞片(ソウホウヘン)に雄しべ・雌しべ・腺体が包まれる。 | 2020-09-09 |
492 | | ヤナギラン | 従来ヤナギランと和名で呼ばれていたが、長野県内のそれは「ウスゲヤナギラン」に。 | 2020-09-09 |
493 | | ヤナギラン | ファンの多い花で、雄性先熟。まず雄しべが熟し、その後雌しべが熟す。 | 2020-09-09 |
494 | | クヌギ | クヌギ二度伸び現象。
多くの樹木は春に一度だけ芽が伸びるが、クヌギは二度伸びる。 | 2020-09-09 |
495 | | ギンリョウソウ | 別名ユウレイタケ。
葉緑素のない腐生(フセイ)植物。
初めて見たときはインパクト大。 | 2020-09-09 |
496 | | コシアブラ | 山菜では大好物ながら、その花を知らずに、某県のその筋に問い合わせをした思い出も。
別名ゴンゼツノキ。 | 2020-09-09 |
497 | | ドクダミ | 昔から薬草として大事にされていたが、はびこると手をやく。
花びら上のは総苞片(ソウウホウヘン)。 | 2020-09-09 |
498 | | ホオノキ | 花は頭上に多くの場合があるので、その花の変化も仕組みもなかなか目にできない。 | 2020-09-09 |
499 | | ホオノキ | 朴の木(ホオノキ)。
雌性先熟(シセイセンジュク)のホオノキ。
その葉は多くの樹木の中でもっとも大きい。 | 2020-09-09 |
500 | | アカフタチツボスミレ | 赤斑立坪菫(アカフタチツボスミレ)。
葉脈に赤紫色の斑が入り、タチツボスミレの中で別種となる。 | 2020-09-09 |
501 | | サイカチ | 刺で実を守る植物の中でも、最強の刺を持つ。
果実は30㎝にもなる。
別名カワフジノキ。 | 2020-09-09 |
502 | | ニリンソウ | 二輪草(ニリンソウ)。
イチリンソウ・ニリンソウ・サンリンソウとある。芽生え時トリカブトと混同しがち。 | 2020-09-09 |
503 | | クサボケ | 別名ジナシの果実。
果実酒にいかがでしょう。
花燃えるような赤で俗名カシバナ。 | 2020-09-09 |
504 | | ホザキシモツケ | 隔離分布し、霧ヶ峰がその南限で、これはバラ科木本で、穂状の花を付ける。 | 2020-09-09 |
505 | | ウスバサイシン | フタバアオイ同様に、はいつくばって観察しないと特異な花もわからない。 | 2020-09-09 |
506 | | ツリフネソウ | 仲間にキツリフネソウがある。
いずれも、果実は手がふれると、はじけて種子が飛ぶ。 | 2020-09-09 |
507 | | クマイチゴ | 熊苺(クマイチゴ)
これもクロイチゴの近くに見られる。
やはり食べられるが刺は強烈すぎる。 | 2020-09-09 |
508 | | クロイチゴ | 黒苺(クロイチゴ)。
果実は黒色に変わり、食べられる。
エビガライチゴなども付近にある。 | 2020-09-09 |
509 | | キュウリグサ | 胡瓜草(キュウリクサ)。
里に生える。
葉や茎を手でもむと、野菜のキュウリの匂いがする。 | 2020-09-09 |
510 | | ヒメハギ | ハギと名がつくが、ヒメハギ科。
花が紫色で、ハギに花を付ける。 | 2020-09-09 |
511 | | ヒロハコンロンソウ | コンロンとは中国の崑崙山(コンロンザン)の雪に見立てたとの説がある。 | 2020-09-09 |
512 | | ユモトマユミ | 日光湯元にちなむ和名。
来客から人名かとよく聞かれる。
ピンクの果実は目立つ。 | 2020-09-09 |
513 | | ヤマシャクヤク | 自生は見られなくなったが、白い花弁はすがすがしい。 | 2020-09-09 |
514 | | レンゲツツジ | 霧ヶ峰の6月の花とといえばレンゲツツジ。
鹿食害はなく人気の花健在。 | 2020-09-09 |
515 | | ショウジョウバカマ | 猩々袴(ショウジョウバカマ)。
二年葉は先端部に不定芽を付けて、種子以外にも繁殖する。 | 2020-09-09 |
516 | | ヤブマメ | 藪豆(ヤブマメ)。
種子を3通りででつくる。
解放花・地上閉鎖花と繁殖強力。 | 2020-09-09 |
517 | | ホトトギス | 園芸種のホトトギスも、精妙な花構造で、昆虫がどう花粉を運ぶか要観察。 | 2020-09-09 |
518 | | ムカゴイラクサ | イラクサの中で「むかご」がつく。イラクサ類は触る時には注意しよう。 | 2020-09-09 |
519 | | フクジュソウ | 福寿草(フクジュソウ)。
春を告げるおなじみの花で、花弁(カベン)はパラボラアンテナのようで光を集める。 | 2020-09-09 |
520 | | セツブンソウ | 春一番に咲き出す。
花びら状のものは咢片(ガクヘン)。
花弁は蜜線(ミツセン)。
キンポウゲ科。 | 2020-09-09 |
521 | | ミズヒキ | 花被(カヒ)は赤色で裏は白色水引から連想。
歯に黒い斑模様が出る。 | 2020-09-09 |
522 | | サルスベリ | 街路樹によく植えられている。
花色は赤白あるが、フリルのような花弁。 | 2020-09-09 |
523 | | フジバカマ | アサギマダラに好まれるキク科の花。
昔中国から伝来した。 | 2020-09-09 |
524 | | ヤブラン | ランに似ていて、藪に生えているのでこの名。
地味ながら花は美しい。 | 2020-09-09 |
525 | | モウセンゴケ | 毛氈苔(モウセンゴケ)。
食虫植物で貧栄養の湿地で生長し、白い花は夏場に観察できる。 | 2020-09-09 |
526 | | ノイバラ果実 | 野茨(ノイバラ)の愛称でどこでも見かける。
香りがよく、秋に赤く熟す。 | 2020-09-09 |
527 | | アブラチャン果実 | 果実から油をとったことから、命名。
チャンとは「瀝青(レキセイ)」のこと。 | 2020-09-09 |
528 | | ブタナ | 豚菜(ブタナ)。
別名タンポポモドキで、昭和初期に渡来し全国あちこちで大繁殖してきた。 | 2020-09-09 |
529 | | ヤマハハコ | 山母子(ヤマハハコ)。
白い花はまるで造花のような手触りで、ウスユキソウとの
違いも慣れるとわかる。 | 2020-09-09 |
530 | | ウバユリ | ユリの仲間では特異な姿で名前の由来も面白い。(花が咲く時はたいてい葉が枯れているので葉を歯がないうばにたとえてこの名ができたと言われている。)
実生(ミショウ)から数年でようやく開花する。 | 2020-09-09 |
531 | | ヒメイズイ | 姫萎蕤(ヒメイズイ)。
イズイとはアマドコロのことで小さなアマドコロ。
梅雨のころ密やかに咲く。 | 2020-09-09 |
532 | | マムシグサ | これは雌性期(シセイキ)。
仏炎苞(ブツエンホウ)の下部は閉じていて、花粉を運んだ虫たちも閉じ込められる。 | 2020-09-09 |
533 | | マムシグサ | 性遍歴をすることでマムシグサは有名。
無性か雄性か雌性期(シセイキ)か見てみましょう。 | 2020-09-09 |
534 | | ソメイヨシノ | ソメイヨシの花外蜜線。
花粉媒介する多くの昆虫たちを呼び寄せるため、花外蜜線を持つからくりがある。 | 2020-09-09 |
535 | | チゴユリ | 稚児百合(チゴユリ)。
小型の多年草で地下茎でどんどん広がる。
オオチゴユリもある。 | 2020-09-09 |
536 | | ウラジロモミ | 御柱祭の御用材は下社は八島下の東俣国有林から調達される。 | 2021-05-03 |
537 | | ヤマヨモギ(オオヨモギ) | 大艾(オオヨモギ)。
ヨモギより大型なり、葉柄(ヨウヘイ)のところにある小さな葉「仮托葉(タクヨウ)」がない。 | 2020-09-09 |
538 | | ヨモギ | 蓬・艾(ヨモギ)。
ヨモギもヤマヨモギも同じような標高に生える。
違いがわかると観察も充実する。 | 2020-09-09 |
539 | | アマドコロ | 甘野老(アマドコロ)。
花は通常1~2個ながら、まれに3個もついており、最初は新種かもと思う。 | 2020-09-09 |
540 | | 八島ヶ原湿原鹿侵入 | 湿原・高原至る所にニホンシカが侵入し食害、侵入防止フェンスも設置する。 | 2020-09-09 |
541 | | オオシラヒゲソウ | 大白髭草(オオシラヒゲソウ)。
精妙花のつくりに魅せられる。
同類のウメバチソウもなかなか魅力的。 | 2020-09-09 |
542 | | 建て御柱 | 5月14日の秋宮一の柱の建御柱。
上諏訪地区担当。
年月等不明。 | 2021-04-13 |
543 | | 長持ち | 「昭和十三戊虎歳御柱記念」。
諏訪大社下社、春宮鳥居前で長持ち勢ぞろいの記念写真。 | 2021-04-13 |
544 | | お祭りと子ども | 祭りの記念写真、大人は着物姿の正装、
子どもたちは祭り支度で長持ちの杖を持っている。
御田町劇場前での撮影。 | 2022-06-12 |
545 | | 長持ち | 下の原長持ち集合写真 | 2022-06-12 |
546 | | 下諏訪上空(西赤砂付近) | 赤砂上空から西赤砂(砥川右岸)を撮影していると思われる。写真右上に鷹の橋と砥川が見える。中央(写真右上から左下へ)を走る道の北側(写真上方)には田んぼが広がっているが、現在は一般県道岡谷・下諏訪線が東西に、西大路通りが南北に新しく開設されている。西大路通りは写真のほぼ中央やや上あたり、現在の西赤砂信号まで整備され、地域の景観はずいぶん変化している。なお、十四瀬川が写真左上から道路を横切って右下に流れている。写真では黒っぽく筋のように見えている。また、写真左上や右下にリンゴ園と思われる果樹園らしき景観も確認できる。 | 2021-04-18 |
547 | | 航空写真 四王上空 | 写真中央を右から左へ中央東線が走っている。左端が下諏訪駅。右上に弧を描いて走る道路は国道20号線。写真中央鉄道線路の下を横切っているのは、四王ガードで線路北から諏訪湖に向かう道路(古川通)である。写真では家が立ち並んでいるが、四王ガードより南側(写真下側)はかつては田んぼや諏訪湖畔の低湿地が広がっていた。また、写真右下の工場は大和電機である。 | 2021-04-18 |
548 | | ホオアカ | 「ホオアカ」ホオジロ科
全長16cm 翼開長23cm
高原を代表する一種。頬が赤褐色でこの名がついた。草原を好み草木のてっぺんでさえずるので見つけやすい。夏になると一度は高原に行って見たくなる鳥でもある。 | 2021-03-04 |
549 | | イスカ | 「イスカ」アトリ科
全長18cm 翼開長28cm
冬鳥でくちばしの上下が合わずに交差しているのが特徴。松かさの鱗片をこじ開けて中の種子を食べ、冬でも繁殖する。 | 2021-03-04 |
550 | | オオマシコ | 「オオマシコ」アトリ科
全長17cm 翼開長27cm
冬日本に渡来するが年によっては数にばらつきがある。雄は深い紅色で美しいが紅色になるまでには数年かかるという。冬枯れの林を彩ってくれる鳥でもある。 | 2020-09-09 |
551 | | ベニマシコ | 「ベニマシコ」アトリ科
全長15cm 翼開長21cm
ユーラシア東部で繁殖し冬渡来する。初冬「フイッフイッ」と草むらでかすれたような声で鳴く、草の中で夢中になって餌をついばむのを見ることもあるが、たいていは知らずに近づいて飛び立たれ気づく。北海道、東北の一部では繁殖し夏の雄は深い紅色となりあでやかである。 | 2021-03-04 |
552 | | スズメ | 「スズメ」スズメ科
全長14cm 翼開長22cm
詩や短歌、童謡に登場し人家の周辺に棲み人と共同生活をしている。チョンチョン跳ねる姿は身近な鳥として欠かせない仲間ですが、近年環境の変化で大きく数を減らしている。 | 2021-03-04 |
553 | | オオルリ | 「オオルリ」スズメ科
全長16cm 翌開帳27cm
日本三鳴鳥の一種。梢や枝先で大きく美しい声でさえずる。歌が上手でバードウォッチャーの人気者。 | 2021-03-04 |
554 | | ノビタキ | 「ノビタキ」ヒタキ科
全長13cm 翌開長20cm
高原を代表する一種。草花や低木のてっぺんなどに止まり昆虫類が近づくと軽やかに飛び捕まえる。秋の渡りの時期には農耕地、河川敷の草地などで見かける。 | 2020-09-09 |
555 | | ジョウビタキ | 「ジョウビタキ」ヒタキ科
全長15cm 翼開長22cm
翼に白斑があり「紋付き鳥」とも呼ばれている。冬鳥として渡来し街中の公園や人家の庭先などにもやってくる。近年渡りをせず諏訪地方でも何件かの繁殖例がある。 | 2021-03-04 |
556 | | コマドリ | 「コマドリ」ヒタキ科
全長14cm 翼開長21cm
日本三鳴鳥の一種。張りのあるさえずりが「ヒン、カラカラカラ」と馬のいななきを連想させ「駒鳥」の名がついた。亜高山の針葉樹林帯などに棲み昆虫やクモなどを捕食する。 | 2021-03-04 |
557 | | クロツグミ | 「クロツグミ」ヒタキ科
全長21cm 翼開長34cm
黄色のアイリングが目立つ、雄は高い木の梢で「キョロン、キョロン」と美しい大きな声でさえずる。ミミズや昆虫類の他に木や草の実などを捕食する。 | 2020-09-09 |
558 | | カワガラス | 「カワガラス」カワガラス科
全長22cm 翼開長31cm
山間部の渓流に棲み、水面すれすれに飛び河川外には出ない。翼を使い泳いだり川底を歩いて水生昆虫を捕食する。コケなどを集めて水辺の崖や滝の裏側などに営巣する。 | 2021-03-04 |
559 | | コヨシキリ | 「コヨシキリ」ヨシキリ科
全長12cm 翼開長19cm
草原を代表する一種。ウグイスの仲間で地味な鳥。夏鳥として高原に渡ってきて、草花などのてっぺんでよくさえずり遠くまで響きます。 | 2021-03-04 |
560 | | メジロ | 「メジロ」メジロ科
全長11cm 翼開長17cm
目の周りに白い輪がありこの名がついた。主なエサはクモや昆虫だが、桜などの花が咲くと蜜を吸いに群れでやってくる、小枝に多数が並び「メジロ押し」が見られる時もある。 | 2021-03-04 |
561 | | ウグイス | 「ウグイス」ウグイス科
全長15cm 翼開長21cm
日本三鳴鳥の一種。藪の中から高らかに鳴く春の風物詩で「春告げ鳥」とも言われている。鳴いていてもなかなか姿を見ることができない。冬は平地の藪などで過ごし、時には人家の庭先にも現われる。 | 2021-03-04 |
562 | | ヤマガラ | 「ヤマガラ」シジュウカラ科
全長14cm 翼開長22cm
日本と朝鮮半島、台湾にしかいない留鳥。昔は縁日などでおみくじ引きなどの芸をさせられた鳥。エゴの実などのかたい実でも嘴で割って食べる。 | 2021-03-04 |
563 | | キクイタダキ | 「キクイタダキ」キクイタダキ科
全長10cm 翼開長15cm
日本で一番小さい鳥。菊の花びらを頭頂にのせたように見られこの名がついた、葉先の小さな昆虫を捕食するのでチョコチョコと動き撮影しずらい。 | 2021-03-04 |
564 | | ヤマセミ | 「ヤマセミ」カワセミ科
全長38cm 翼開長67cm
北海道から九州にかけて春夏秋冬見られ、どの季節でも似合い、違和感もなく風景に溶け込んでしまう不思議な鳥だと思う。主食は魚で河川の改良などで数を減らしている。日本のカワセミ類の中では最も大きい。 | 2021-03-04 |
565 | | カワセミ | 「カワセミ」カワセミ科
全長17cm 翼開長25cm
美しさから「飛ぶ宝石」の異名を持つ。漢字では「翡翠」と書き、先に鳥の名前がありそれが宝石の名前に転用されたという。美しさだけではなく目が大きく、しぐさもかわいい。草木のある水辺などに似合う鳥だ。飛び方は直線的で速いが、歩くのはよちよち歩きで大変に苦手である。 | 2021-03-04 |
566 | | オオワシ | 「オオワシ」タカ科
全長92cm 翼開長220cm
オオワシは日本で一番大きなワシ。
平成11年1月4日諏訪湖で保護され49日間の手厚い介護により体力を回復し、同年2月21日放鳥以後19季連続で諏訪湖へ越冬に飛来。冬の風物詩として「グル」の愛称で大勢の方に親しまれた。 | 2021-03-04 |
567 | | コハクチョウ | 「コハクチョウ」カモ科
全長120cm 翼開長177cm
湖沼・川など毎年きまった越冬地へ飛来する。水面をねぐらとしマコモの根などを食べる。春には繁殖地のシベリア極北部へ渡る。諏訪湖に昭和49年11月11日、2羽が飛来以降「冬の使者」「シベリアからの使者」と呼ばれ諏訪湖の風物詩として大勢の方に親しまれている。 | 2021-03-04 |
568 | | キジ | 「キジ」キジ科
全長80cm 翼開長60cm
日本固有種、昔から多くの民話に登場し親しまれている。国鳥に指定されているが狩猟鳥。 | 2021-03-04 |
569 | | ヤマドリ | 「ヤマドリ」キジ科
全長:雄125cm・雌55cm 翼開長80cm
日本固有種、繁殖期には翼をはばたかせ幌(ホロ)打ち(ドドドドと羽を打ち鳴らす)を行う、雄は長い尾をしている、数も少ないのに狩猟鳥。 | 2021-03-04 |
570 | | 旧庁舎前にて | 旧下諏訪町役場前での記念撮影。
写真前列中央に高木十吉氏が映っている。 | 2021-12-26 |
571 | | 御柱伐採 | 御柱祭、伐採の様子。
「秋宮1の御柱」の札が柱につけられている。
詳細不明。 | 2021-05-03 |
572 | | 第三分団 | 下諏訪町誌警防團第三分團の記念写真。
警防団の名称や「防空部」という文字が戦時中を感じさせる。 | 2022-06-09 |
573 | | 第三区騎馬 | 「第三区奉納騎馬」記念写真。
第三区の騎馬行列は明治11(1878)年に始まり、昭和47(1972)年第一区と共に町の無形文化財に指定された。
第三区の騎馬は「凱旋騎馬」と呼ばれている。 | 2022-06-12 |
574 | | 秋宮一の御柱 | 諏訪大社下社秋宮一の御柱。
御柱の根元の様子が現在と違う。
撮影年月日等不明。 | 2021-05-03 |
575 | | 酒屋の店先 | 田中町の中村酒店の桜町の新宅「現中村□酒店」。
店の軒下にしめ飾りがあるので、の正月の記念写真と思われる。軒下や店先には「味の素」「三ツ矢サイダー」「キリンビール」「キッコーマン」「理研清酒 新進」「電話四六二番」「焼塩小売賣所 焼塩小売賣人 中村□」「塩小売賣所 塩小売賣人 中村□」…などの看板や掛札が並んでいる。 | 2023-02-21 |
576 | | 下諏訪町立博物館 | 昭和26(1951)年12月3日下諏訪町に文化財保存会が出来翌27(1952)年秋宮神饌(しんせん)を借用して神社共有の博物館がた開館した。建物は「諏訪大社宝物陳列場」に併設されていた。
昭和46(1971)年4月1日、高浜湾岸に鉄筋コンクリート二階建ての博物館が出来た。
平成5(1993)年6月、「諏訪湖博物館・赤彦記念館」として湖岸通りの西高木にオープンした。 | 2024-03-20 |
577 | | 記念写真 | 慈雲寺裏の庭園での記念写真と思われるが、詳細不明。
中心近くに高木十吉氏がいる。(高木十吉氏 第16,19代町長 S7-8 S18-19) | 2023-11-14 |
578 | | 第三区騎馬奉納 | 戦後初めての御柱祭。友之町の未舗装国道にて撮影。
後方に屯所の火の見櫓が見える。 | 2022-06-09 |
579 | | 阿木翁助氏 | 昭和6(1931)年に旧制諏訪中学を卒業(同期生に新田次郎氏)、上京し新聞配りをしながら築地小劇場研究所に学び、小林多喜二労農葬の名目上の実行委員長を務めた歴史の証人でもある。ムーランルージュや新生新派などの大衆演劇で活躍。戦後は菊田一夫氏とともに連続ラジオドラマの脚本家としても鳴らした。当時は日本放送作家協会理事の現職にあった。阿木氏はこの日から二ヶ月後の8月25日、癌研究附属病院で年肺がん切除の手術を受けた。平成14(2002)年に没。なお昭和52(1977)年に紫綬褒章受賞。本名は安達鉄翁。下諏訪生まれ。写真の阿木氏は何歳ごろのものか不明。 | 2021-11-13 |
580 | | 三井組表彰式 | 製糸業を営んでいた表彰記念撮影。 | 2022-01-18 |
581 | | みどり幼稚園 | 下諏訪協会では戦前の昭和10(1925)年から文部省公認下諏訪幼稚園として経営していたが、戦時中は下諏訪町保育所に吸収され、園舎は軍工場に使用されていた。戦後は昭和26(1951)年仮免許で再び幼稚園を始め、翌27(1952)年文部省管轄下にある教育施設として、県知事の認可を得て「みどり幼稚園」と改名した。この年平成2(1990)年は戦後の幼稚園開園から40年目にあたる。園舎の軒に「開園記念バザー」の幕も見える。 | 2020-09-08 |
582 | | 御柱祭木落し | 昭和31年の御柱、木落しの写真。柱に乗っているのは中村・杉山・牛山木落。 | 2022-01-18 |
583 | | 皇太子夫妻ご来町 | 皇太子(現上皇様)夫妻ご来町。
明治天皇御巡幸(明治13年6月24日)から80年目の年ご結婚された皇太子殿下ご夫妻が旅行に来られた際の下社秋宮での様子。 | 2020-09-05 |
584 | | 木落し | 御柱祭山出しの木落坂風景。
氏子の着ている法被がみな紺色のため昭和43年以前の御柱祭り。
昭和43年から紺の印反てん(法被)が現在の下諏訪町の色染め法被(はんてん)になる。 | 2021-05-03 |
585 | | 下諏訪町東国民学校 | 校門の右の石柱に「下諏訪町東国民學校」、左の石柱に「下諏訪青年學校」「下諏訪實科高等學校」とある。
東国民學校はそれまでの下諏訪尋常高等小學校から昭和16(1941)年に名称変更されている。下諏訪青年學校は昭和10(1935)年に下諏訪實業補習學校と青年訓練所が統合して設立している。下諏訪實科高等學校は大正15(1926)年に通年性補習學校から改称されている。写真は昭和16(1941)年に東国民學校となったときに門柱の名札が付け替えられたとき撮影されたものと推察する。 | 2023-02-26 |
586 | | 大合理的炊事講習会 | 垂れ幕に「大合理的炊事講習会」とある。また、背景の額に「青雲館」とあるので、第三区青雲館二階で行われた何らかの講習会の記念写真と思われる。詳細不明。 | 2022-03-09 |
587 | | 樋橋敬老会 | 「紀元二千六百年 敬老會記念 主催樋橋青年會」昭和15年の大典の時の記念写真と思われるが、撮影場所は判断できていない。
| 2022-01-13 |
588 | | 笠原製糸工場 | (屋号 山二)笠原製糸工場表彰式。
経営者の名前を下諏訪町誌から探すと、笠原亀蔵の経営する製糸場が明治23(1890)年に開業している。 | 2020-09-05 |
589 | | 三協精機野球部 | 三協精機の野球チームは昭和36(1961)年から昭和50(1975)年まで都合9回「都市対抗野球」に信越代表で出場している。特に昭和46(1971)年の時は準決勝まで進出し、ベスト4に入っている。また、昭和49(1974)年の第一回全日本社会人野球選手権大会では優勝し、ダイヤモンド気を手中にしている。この時三協のエース大塚は9回2アウトまでノーヒットノーランを記録していた。惜しくも9回2アウトからヒットを許し大記録はならなかったが4-0の快勝であった。監督は光沢監督であった。写真は場所、年月も不明だが、応援の様子から後楽園球場の都市対抗の一場面と推察する。 | 2022-02-24 |
590 | | メーデー | 昭和39年メーデー ヤジカ前(現ムトー工業) | 2020-09-05 |
591 | | メーデー | 昭和39年のメーデー 駅前集会 日通のトラックをステージに。 | 2023-11-19 |
592 | | メーデー | 昭和39年のメーデー。 | 2020-09-05 |
593 | | ニッコウキスゲ | 一枚目は、八島高原のニッコウキスゲ。写真左は八島高原入り口の駐車場。
八島高原のニッコウキスゲ。
二枚目の写真左に「八島池」が見える。
初夏、シュレーゲルアオガエルの鳴き声は「日本の音百選」に選ばれ、高原を訪れる観光客を楽しませている。 | 2022-01-18 |
594 | | 天皇皇后両陛下来訪 | 天皇皇后両陛下(現上皇様)が平成4(1992)年9月6・7日来訪。6日のご視察は信濃医療福祉センター・長野県花田養護学校。7日は㈱三協精機製作所・諏訪市温泉植物園・諏訪北澤美術館へご視察。
写真は㈱三協精機製作所(社名が㈱日本電産サンキョーへ変わり現在は㈱ニディックインスツルメンツ)へご視察。 | 2023-09-28 |
595 | | 山出し | 昭和37年諏訪大社下社御柱祭。
御柱祭山出しの風景、萩倉の村中を曳行中。
法被に「岡谷」の染め抜きがある。 | 2021-05-03 |
596 | | 山出し | 昭和37年御柱祭。
山出し風景、萩倉の村中を御柱が曳行中。 | 2021-05-03 |
597 | | 山出し | 昭和37年御柱。
山出し風景と思われるが、場所等詳細は不明。
法被の背中に「岡谷」とある。 | 2021-05-03 |
598 | | 山出し | 昭和37年の御柱祭、山出しの様子。
注連掛け手前の坂と思われるが、場所など詳細は不明。 | 2021-05-03 |
599 | | 木遣り | 昭和37年御柱祭。
御柱の曳行中の風景。 | 2022-05-12 |
600 | | 里曳き | 昭和37年御柱祭里曳き。
八幡坂(大社通り)の横には祭りの提灯が見える。
火の見やぐらが見えることから、現在の八幡坂高札ひろば附近での撮影。 | 2021-05-03 |
601 | | 建御柱 | 昭和37年諏訪大社の御柱祭。
建御柱の一風景、御柱の上の方に人の姿が見える。
どの柱など詳細は不明。 | 2021-05-03 |
602 | | 御柱山出し | 諏訪大社下社の山出しの木落しの場面。
詳細等は不明。 | 2021-05-03 |
603 | | 御田町店主の仮装 | 御田町店主の仮装で、一宮御用の御幣、法被姿・仮装姿の人々が見える。プラカードには「御田町エロの宮御用」「釜洞青果店」「まつや…」「かみや…」「山田屋」「洋服ハサクライ」などと読めるものがある。
実に昭和レトロな雰囲気が出ている。 | 2024-04-03 |
604 | | 東御宝殿建て替え | 御柱祭に合わせて建て替え工事が進む諏訪大社秋宮の東御宝殿。
御柱祭のたびごとに西と東の各御宝物殿が交互に建て替えられる。
昭和49年のこの年の今回は諏訪大社下社春宮・秋宮が東御宝殿、諏訪大社上社本宮は西御宝殿の建て替えが行われる。 | 2021-05-03 |
605 | | 御田町商栄会富士講 | 1「皇紀二千六百年 霊峰富嶽に登拝し皇軍の武運長久を祈願す 御田町商業会富士講」関連写真。
1枚目は七合五尺、3枚目は須走登山口での記念写真。。 | 2022-01-16 |
606 | | 武運長久祈願 | 「皇紀二千六百年 霊峰富嶽に登拝し皇軍の武運長久を祈願す 御田町商業会富士講」と書かれている。
1928~1932は御田町商業会富士講関連。 | 2022-01-16 |
607 | | 東山田農家組合 | 「団体賞受賞婦人部創立記念 東山田神宮路第一農家組合」の文字。
ちなみに神宮司道は春宮前から医王渡橋を渡った先に地名として残っている。 | 2022-01-18 |
608 | | 和田峠トンネル | 雪の和田峠トンネル。 | 2022-03-10 |
609 | | 旧和田峠トンネル工事関係の建物 | 旧和田峠トンネル工事関係のいろいろな建物。 | 2022-03-10 |
610 | | 水戸浪士25年祭 | 浪人塚(水戸浪士の墓) 元治元年(1864)11月20日水戸浪人(天狗塔)の総勢千余名が、和田峠で、待受けた松本・高島藩士と争い、多数の死傷を出した。写真は水戸浪士25年祭。中央の日の丸の後方が浪人塚で、まだ木は大きくなっていない。 | 2022-03-19 |
611 | | 福澤川山腹工事 | (諏訪郡長地)福澤川に於ける山腹工事の一部(施工直後)。場所は当時の東山田村。年月等不明。 | 2022-04-19 |
612 | | 萩倉分教場(萩倉分校) | 明治8(1875)年に開校した萩倉文教場(分校)は本校へ統合し教育効果を高めるため、昭和41(1966)年4月2日、92年の長い歴史を閉じました。ここは小学4年までの児童約700人が子らまで学びました。紫綬褒章を受けたメンデル遺伝学の権威篠遠喜人氏はこの分校の出身。
廃校後は青年ホームとなり青年活動の拠点となった。また、農繁期には季節保育園や民謡の練習小中学校の行事等多くの人々が利用した。現在この場所には萩倉公会所が建てられている。 | 2022-04-12 |
613 | | お舟祭り | 遷座祭の柴舟が下馬橋横を移動中。 | 2021-10-28 |
614 | | 碁会所 | 「日本棋院諏訪支部碁會所」。大門通下馬橋南とあるので明新館が会場? | 2022-03-05 |
615 | | 保育園 | 昭和30(1955)年頃の保育園の風景。
町勢要覧の中で「児童の遊び場設置について昭和24年6月第一次児童福祉法改定項より母の会を中心にこどもに良い環境をという運動が活発になり、昭和25年7月15日復式スベリ台1基3蓮式ブランコ1基の遊園地が一か所誕生、その後各部落に設置がされ昭和26年には13か所となった。 | 2020-08-02 |
616 | | 御柱祭木落し | 諏訪大社下社御柱祭山出し木落し坂。
年月等不明。 | 2021-12-26 |
617 | | 製糸業 | 製糸製造、工場内の風景。 | 2022-01-18 |
618 | | 水産試験場 | 県立水産指導所。(現長野県水産試験場。)
昭和15(1940)年に下の原春宮左手前の西田圃へ設置されあ、長野県水産試験場が、昭和20(1945)年に諏訪水産指導所となり、さらに22(1947)年に長野県水産指導所諏訪支所となり26(1951)年湖浜にできた。また、アユ種苗センターが高浜公園横にある。 | 2022-01-20 |
619 | | 電報電話局 | 昭和24(1949)年6月電気通信省の分離にともないそれぞれ現在地(昭和29年現在)へ新築移転した。 | 2022-01-20 |
620 | | 下諏訪小学校 | 写真上は下諏訪小学校(現下諏訪南小学校の旧校舎)の校門と玄関。写真下は諏訪湖方面からの撮影、学校のまわりは田んぼに囲まれている。
下諏訪学校の「南校」(低学年)が南四王に開設されたのは大正12(1923)年である。さらに昭和22(1947)年に戦後の新しい戦後教育制度のもと「下諏訪小学校」が発足している。また、児童の増加から昭和46(1971)年には新たに「下諏訪北小学校」が開設され、それまでの「下諏訪小学校」は「下諏訪南小学校」として新しい歴史を刻んできている。 | 2022-01-20 |
621 | | 下諏訪町役場 | 旧下諏訪町役場、公民館、「諏訪湖オルゴール博物館奏鳴館」を経て 現在は「日本電産サンキョーオルゴール記念館・すわのね」になっている。 | 2022-03-19 |
622 | | 役場分室 | 下諏訪郵便局は、最初旧本陣岩波方に置かれたが、その後幾度か移転する。
1,明治5(1872)年 本陣岩波方
2,明治25(1892)年 増沢市郎兵ヱ方(旧警察右手前)
3,明治39(1906)年 立町3242(旧警察左手前)
4.大正5(1916)年 大社通5524(小口多郎方隠居所地)
5,昭和25(1950)年 広瀬町(下諏訪駅前通り)
6,昭和57(1982)年に現在の栄町に移転
昭和25年に郵便局は広瀬町へ移転。昭和27(1952)年教育委員会が設置されここで執務を開始、それ以後役場の分室として使用された。写真は役場分室・教育委員会当時のものと思われる。 | 2022-03-19 |
623 | | 撮影会 | 撮影会風景、後ろに片倉館とSBC放送の建物が映っている、場所は諏訪市の湖岸 | 2022-04-19 |
624 | | ガラス乾板写真 | 横町古田耕平氏蔵の写真。古田耕平氏は明治25(1892)年頃、中央線開通を期して横町辺りの図面を残している。その家のとなり家がガラスの写真屋として矢崎喜代太氏が明治10(1877)年頃から営業していたと思われる。 | 2022-03-27 |
625 | | 水月公園さくらまつり | 戦後、「水月公園さくらまつり」で行われていた「広告コンクール」の一風景。 | 2022-03-13 |
626 | | 下諏訪駅 | 下諏訪駅上り線ホーム。 | 2022-03-19 |
627 | | こどもたち | 元気な子どもたちの姿。 | 2022-03-10 |
628 | | 運動会 | 昭和29年、清水町大運動会。 | 2022-03-13 |
629 | | 敬老会 | 昭和29(1954)年、清水町第一回敬老会。 | 2022-01-13 |
630 | | 結婚式 | 松葉屋(千尋館)で行われた結婚式の記念写真で撮影場所は広間や屋外など。
年代はどちらも昭和初期のもの。 | 2022-01-13 |
631 | | 旧和田峠トンネル工事 | (旧)和田峠トンネルの掘削工事写真。
昭和5(1930)年10月、和田嶺開発協会が発足し、運動の結果、鉄道省運輸局の調査となり、昭和6(1931)年10月15日和田峠トンネル貫通、昭和8(1933)年1月完成。トンネル延長260m、スノーセット134m。
昭和8(1933)年3月上和田・上田間と、下諏訪・岡谷間が営業開始され、同年10月13日全線開通祝賀式が開催された。
写真(2枚目)中央仮橋上の小窓がトンネルの西口、その右肩の道路が明治29(1896)年の開削された新道(142号線) | 2020-08-02 |
632 | | 旧和田峠トンネル工事 | 昭和5(1930)年10月、和田嶺開発協会が発足し、運動の結果、鉄道省運輸局の調査となり、昭和6(1931)年10月15日和田峠トンネル貫通、昭和8(1933)年1月完成。トンネル延長260m、スノーセット134m。
昭和8(1933)年3月上和田・上田間と、下諏訪・岡谷間が営業開始され、同年10月13日全線開通祝賀式が開催された。 | 2024-03-17 |
633 | | 小宮祭 | 昭和31(1956)年秋の清水町小宮祭の一連の写真。 | 2022-01-13 |
634 | | 清水町赤砂の合同綱打ち | 清水町赤砂の綱打ち。昭和43年の清水町赤砂合同綱打ちの記録と思われる。 | 2022-05-08 |
635 | | 霞城館 | 山王台にあった霞城館。右奥に忠魂碑が見える。写真左端に長持ちが一竿、正装で弓道か。 | 2021-12-26 |
636 | | 諏訪大社下社秋宮 | 諏訪大社秋宮の現存する最古の写真。日露戦争に出征する人々の戦勝祈願の幟がはためく。狛犬の姿はなく、現在のような大きな注連縄もない。 | 2021-12-26 |
637 | | 諏訪大社下社秋宮 | 帰ってきた狛犬。間組の神部満之助社長が黒四ダムの起工と佐久間ダムの竣工の報告に訪れ「天竜川の源流でもある諏訪湖のほとりにある諏訪大社に是非寄進したい」と奉納された。神社の案内板によると青銅製の狛犬としては日本一だという。また大注連縄も立派に奉納されている。現在の姿が整った秋宮神楽殿である。
狛犬再建については547参照。大注連縄奉納については48参照。 | 2021-12-26 |
638 | | 諏訪大社下社秋宮 | 狛犬も戦争に行った?昭和5年清水多嘉示氏制作の狛犬は銅製のため戦争中の金属回収の国策により戦地へ供出され、主のない台座が見られるのみとなった。またこの写真には、神楽殿に戦後奉納されるようになる大注連縄はもちろんまだない。 | 2021-12-26 |
639 | | 東明館・地鎮祭 | 中村勝五郎文書に「明治三十三年十二月二十六日湯田町集会所建る」とある。この集会所(東明館)は明治40(1907)年の来迎寺の火事の後間もなく焼失したので、大正4(1915)年に現在地(新町上)に再建された。
1772から1777までは東明館建て替え工事の一連の写真。この写真はこの大正4年に建てられた建物の建て替え工事のための地鎮祭の様子。なおこの工事がいつ行われたかは調査中。 | 2022-01-12 |
640 | | 東明館の解体作業 | 中村勝五郎文書に「明治三十三年十二月二十六日湯田町集会所建る」とある。この集会所(東明館)は明治40(1907)年の来迎寺の火事の後間もなく焼失したので、大正4(1915)年に現在地(新町上)に再建された。写真はこの時建設された建物を建て替える際の解体工事写真と思われる。解体前の東明館は1772から1777参照。
なお、この工事がいつ行われたかはまだ未確認。調査中。 | 2022-01-12 |
641 | | 東明館集会所 | 中村勝五郎文書に「明治三十三年十二月二十六日湯田町集会所建る」とある。この集会所(東明館)は明治40(1907)年の来迎寺の火事の後間もなく焼失したので、大正4(1915)年に現在地(新町上)に再建された。
なお、下諏訪町誌民俗編(417p)には明治32年に湯田町・新町に東明館が建てられたと書かれているので中村勝五郎の文書と一年違っている。
東明館建て替え工事の一連の写真。なおこの工事がいつ行われたかは調査中。 | 2020-07-23 |
642 | | 校歌歌碑 | 下諏訪小学校歌碑「明けゆく空に」の歌碑が昭和37年度卒業生(424人)によって建てられた。 | 2023-02-26 |
643 | | お舟祭り | お舟祭り柴舟曳行の風景。 | 2022-01-06 |
644 | | 敬老会記念写真 | 「第三区男女青年會 敬老會記念 昭和十一年十一月三日」 | 2021-12-26 |
645 | | 体操風景 | 体操風景、同じ服装の女性たちが見える。
塀のそばに「保健□□」の垂れ幕が見える。 | 2021-12-28 |
646 | | 広瀬町綱打ち | 友之町本通りと広瀬町の綱打ち記念写真。 | 2021-12-26 |
647 | | 御田町小宮祭 | 御田町の小宮祭風景。法被姿はなく、国民服や戦闘帽などが見られるので、戦中の小宮祭と思われる。 | 2021-12-26 |
648 | | 明治天皇駐輦址 | 明治13(1880)年、明治天皇は甲信地方の民情視察を行った。6月24日、石投げ場に車を止められ、諏訪湖の風景をめでられ、漁撈をご覧になられた。この日は小雨であったが、漁師たちは目のした3尺の大鯉を献上したという。後日「明治天皇駐輦(ちゅうれん)の記念碑」を建立した。
ちなみに、石投げ場の名前は、ここから石を投げれば諏訪湖に届くところから生まれた名称である。 | 2021-12-26 |
649 | | 吉田養蚕伝習場 | 「吉田養蠶(蚕)傳(伝)習場」の看板がある。
岡谷市史中巻には「明治18(1885)年政府が蚕糸業組合の設立を令し、諏訪郡には蚕種・生糸の検査を行うことを主として「諏訪蚕糸業組合」が結成され、養蚕技術の普及向上にも努め上諏訪に養蚕伝習所を設けた」旨のことが書かれているが、この写真の詳細は不明である。 | 2021-12-26 |
650 | | 牛山製缶所 | 看板に「創業十五週年記念 牛山製罐所」とある。店の奥に丸い缶が山と積まれている様子がわかる。
明治25~26年ころ、増沢寅之助氏がカリンの缶詰工場を操業した。自宅の裏土蔵の屋根下を利用したものだった。
使用している機械、服装等から明治末頃の写真と思われる。 | 2021-12-26 |
651 | | 和田峠の切通し工事 | 明治28(1895)年8月(明治10年掘削の峠の)頂上を掘り下げて新道(現142号線)を作った。明治27(1894)年からの改修が始まりこの工事は丁場を分割し多くの作業員が入った。工事はレールを布設しトロッコによる土砂運搬が行われ工事効率も上がった。トロッコによる作業員は松本監獄から出張してきた人々だった。写真は上田から来た写真師の撮影によるものです。 | 2023-04-15 |
652 | | 記念写真 | 諏訪大社下社秋宮神楽殿横にて撮影。 | 2021-12-26 |
653 | | 秋葉山の展望台 | 秋葉山に設けられた展望台。水月会で戦後の昭和21(1946)年1月から水月園の復興に着手、28(1953)年4月秋葉山一帯を公園化することを条件に下諏訪町に寄付。町では秋葉山に展望台を設け自動車道を開きつつじ・かえで・桜を植えた。 | 2021-12-26 |
654 | | 下馬橋 | 春宮大門通りの下馬橋。俗に「太鼓橋}と呼ぶ。
天将6(1578年造営、元文年間(1736頃)の修造といわれ、切り妻造りで古い様式を残す建物である。この橋より奥は神域で、馬上の人は馬を降りて橋の下を流れる御手洗川で身を清めて参拝したという。 | 2020-07-23 |
655 | | 写真館 | 「ヨルモ ウツシマス」と入り口のガラスに書かれています。写真屋屋さん店頭。 | 2021-12-26 |
656 | | お舟祭り | 夏の遷座祭(お舟祭り)、下諏訪駅前の広場で騎馬行列が勢ぞろいしての記念撮影。第一区・第三区の騎馬が一緒に写っているのは珍しい。後ろに見える駅前の大鳥居は明神型の鳥居で、昭和25年に御柱の古材を使って建て替えられたもの。この鳥居は昭和31年ネオン塔に取り替えられた。「広瀬町誌」には昭和33年の写真と記載されているが、民聲新聞等を調査した結果、33年にはすでにネオン塔になっていることが判明した。 | 2021-05-03 |
657 | | 東山田長持ち | 東山田には「道中長持ち」「大社御用長持ち」「藩御用長持ち」「御騎馬御用長持ち」「御祝儀長持ち」がつたえられていいて現在の姿は大社御用長持ち。
写真上には「東山田区の長持ち札 越後将軍徳川忠輝公筆と穪(ショウ?)す 東山田区でハ之の長持ちを先頭に純特の足取りで練る 此の長持の飾付は特徴あり 寛永年間(1630)のもの」と書き込まれている。 | 2022-05-03 |
658 | | 御騎馬 | 御騎馬の色傘と草履取りの写真。 | 2022-05-08 |
659 | | 駅前通りスナップ写真 | 下諏訪駅前通りのスナップ写真。田村商店。 | 2023-10-03 |
660 | | 諏訪女子学園 | 入り口に「諏訪女子学園」の看板がある。
諏訪女子学園は、昭和42(1967)年度に西弥生町(富士見橋下)旧自動車練習場跡1.000坪を買収して新築工事に着手、体育館竣工と同時に入校し、続いて昭和43(1968)年3月に本館が落成した。
高等部(高等学校)、専門部(短大)がおかれた。学校組織は学園長阿木翁助(写真手前左端;日本放送作家協会理事長)、校長浜倫久以下職員17名、生徒は5学級234名であった。 | 2021-12-26 |
661 | | 下諏訪町絵図 | 下諏訪町絵図。
地図の中に秋宮リンク、千尋池、四つ角に八十二銀行、高浜に水産試験場、高浜プール、町営グラウンド、小学校などがあることから、およそ昭和20~30年頃。戦後の可能性が大きい。 | 2023-06-29 |
662 | | 友之町・広瀬町綱打ち | 「昭和卅一丙申年 御柱祭」友之町・広瀬町綱打ち集合写真。 | 2022-05-08 |
663 | | 駅前通り | 昭和42(1967)年頃の駅前通り。 | 2022-06-09 |
664 | | 第三区凱旋騎馬勢揃い | 「無形文化財第三区凱旋騎馬勢揃い 平成四年申歳御柱祭(1992,4,3)」記念写真。 | 2022-05-08 |
665 | | 清水町・長持保存会勢揃い | 「平成四年申歳御柱 清水町太鼓・長持保存会勢揃い」記念写真。 | 2022-06-09 |
666 | | 清水町長持保存会 | 「平成四申歳年御柱 清水町長持保存会 1992.4」記念写真。 | 2022-06-09 |
667 | | 清水町綱打ち | 平成4(1992)申羊年の清水町の第八回御柱祭綱打ちの記念写真。 | 2022-06-09 |
668 | | 戦時中の開所式 | 何の開所式かは不明だが、参加者の服装や式次第の中に「宮城遥拝」「大詔奉読」「廠長」という文字があることから、戦時中、それもかなり戦局悪化の頃の軍需品関係を製造・修理した工場の開所式の写真と思われる。 | 2022-06-09 |
669 | | 赤砂飛行場 | 赤砂飛行場の様子。 | 2021-12-26 |
670 | | 神の湯開業 | 大正11(1922)年9月砥川筋から少し入った山の手に、鉱泉神の湯が開業した。写真は上の湯遠景、源泉は毒沢から湧出する強酸性で鉄分とミョウバンを多く含む橙色の湯。「毒沢鉱泉」は飲用もでき、胃腸病や皮膚病、切り傷や貧血等に良いとされている。近くに信玄の各氏金山の跡といわれる場所もあり、武田信玄の隠し湯としてもPRしている。 | 2022-06-09 |
671 | | 防空演習 | 昭和20年も4月頃になれば戦況はいよいよ厳しくなり、空襲警報もしばしば発令されるようになり、主婦たちも空襲を想定してバケツリレーで消火訓練をした。学童も授業を中止して帰宅することが多くなってきた。この写真は御田町通りのバケツリレーの様子である。写真右からカネタマル・福助堂・橋本屋・安兵ヱといった店が並んでいた。
女性は防空頭巾にモンペ姿、男性は国民服にゲートルなど当時の服装がよくわかる。 | 2022-06-09 |
672 | | 片倉製糸の運動会 | 昭和10年頃の写真で、片倉製糸の運動会と記録されている。写真右下のオルガンに合わせて若い女性(女工)が裸足で集団演技をしている。万国旗の中心に飛行機の模型がつるされ、垂れ幕には「皇国興廃此一戦在女□□子一層奮励努力せよ」(日露戦争の時の日本海海戦時のスローガンをもじっている)と書かれ、戦時色が色濃く出ている。 | 2022-06-09 |
673 | | 高林清高氏壮行会 | オスロオリンピックに出場する高林清高氏壮行会の時の写真と思われる。高林清高氏(1928~没年不詳)は下諏訪町出のスケーター。岡工から明治大学に進み、昭和27(1952)年のオスロオリンピックに出場、500mで6位入賞。さらにコルチナ・ダンペッツオオリンピックにも連続出場。一線を退いてからはインスブルックオリンピックコーチとして参加。のち長野県スケート連盟会長も務めた。 | 2022-06-09 |
674 | | 木落し | 木落直前の様子。
ハッピに「岡谷」の文字が見える、岡谷地区担当の柱。 | 2022-06-09 |
675 | | 長持ちコンクール特賞記念写真 | 「特賞 御柱祭協賛長持ちコンクール 南進日々新聞社」記念写真。法被から東町連の皆さんと思われる。 | 2022-06-08 |
676 | | 御騎馬・草履取 | 奉納騎馬の中の草履取の所作披露。 | 2022-06-09 |
677 | | 御騎馬 | 騎馬行列、一枚目は中央は「騎馬大将」その両側は「御小姓」で12~3歳の女子で大刀と鞭を持っている。
三枚目は曲傘と草履取り。 | 2022-05-08 |
678 | | 四王綱打ち | 四王の綱打ち風景。 | 2022-06-08 |
679 | | 四王綱打ち | 綱打ち作業。
特別に栽培された「関取」という名の草丈の長い稲わらを使い秋一の女綱と小宮の曳綱を3日に渡り、伝統の稲わらから綯(なう)綱打ちを行います。 | 2022-06-08 |
680 | | 赤砂・綱打ち | 赤砂地区の綱打ちで元綱完成の記念写真。 | 2022-06-08 |
681 | | 長持ち・花笠記念写真 | 「31,5,11 御柱祭記念」、長持ち・花笠勢揃い。 | 2022-06-08 |
682 | | 長持ち・花笠 | 昭和43(1968)年戊申(つちのえさる)歳御柱祭記念。
ハッピから四王若連の文字。 | 2022-06-08 |
683 | | 長持ちと笠踊り | 四王若連の長持ちと花笠踊りの様子。
場所は西鷹野町にあった公民館前(元下諏訪町役場)
この建物は昭和23年3月~昭和45年1月(新庁舎着工)頃、公民館として使われていた。 | 2022-06-08 |
684 | | 第一区騎馬勢揃い | 春宮神楽殿前に勢揃いした第一区奉納騎馬。昭和43(1068)年戊申(つちのえさる)の御柱記念写真。 | 2022-03-19 |
685 | | 製糸工場風景 | 製糸工場風景。 | 2020-06-27 |
686 | | 御柱祭山出し | 御柱祭山出し風景。
年代等の詳細不明。 | 2024-04-21 |
687 | | 建御柱 | 建御柱。背中に「岡谷」の文字が見えるので秋宮三の建御柱と思われるが詳細不明。 | 2021-12-26 |
688 | | 立町長持 | 立町長持ち衆の秋宮鳥居前での記念写真。詳細不明。 | 2022-05-21 |
689 | | 長持・花笠勢揃い | 長持ちと花笠が勢揃い。詳細不明。 | 2023-06-29 |
690 | | 御騎馬 | 奉納騎馬行列。集合写真。 | 2022-06-09 |
691 | | 御騎馬 | 御騎馬が分散して町内をお披露目しながら回る様子?お殿様役の子供が人形の馬にまたがっているが、今にも転げ落ちそうに眠っている。お疲れの様子。 | 2022-06-09 |
692 | | 御騎馬 | 御騎馬が町内を分散してお披露目に回る様子。
「御騎馬第三班」の文字の旗。 | 2022-06-09 |
693 | | 三区騎馬勢揃い | 大正15年 寅年御柱祭 第三区騎馬行列勢揃い
曲傘 小口千束氏(小口修平氏父)
御槍 武井貞雄氏(武井直人氏父) 松沢文亀氏(松沢孝明氏父) | 2022-06-09 |
694 | | 元綱 | 山出し祭の綱上げ風景、綱を運ぶ氏子たち。
法被の襟に下諏訪町の文字が見える。 | 2023-04-06 |
695 | | 御柱山出し | 山出しの曳き出し風景。
下諏訪町のはっぴを着ている人々、はっぴの色は青に変わる前の時代。
秋1または秋3の柱と思われる。 | 2024-04-21 |
696 | | 元綱作り | 四王地区の藁から作る御柱用元綱づくりの様子。 | 2023-03-03 |
697 | | 記念写真 | 長持ち勢ぞろい。下諏訪駅前には「米本旅館」「菅野館」「山一旅館」が見える。 | 2023-04-06 |
698 | | 旧博愛館前で記念撮影 | 富部地域の脱穀風景。現在の公民館駐車場。富部公民館は庄屋をつとめていた津金家の屋敷があった。 | 2022-05-24 |
699 | | 記念写真 | 男子生徒のみで撮影。足元には雪が見える、生徒は学生服姿・長靴・雪下駄・靴など様々。詳細不詳。徽章は梶の葉に「中」とある。 | 2022-05-12 |
700 | | 花笠踊り | 女性に扮した男性の花笠踊り。詳細不明。 | 2021-12-21 |
701 | | 御騎馬 | 春宮大門前(現国道20号)にて、騎馬勢揃い。後ろに仁丹の看板が見えるこれは現中山薬局。 | 2022-05-12 |
702 | | 子ども木遣り | 大人の人に肩車をしてもらい木遣りをなく男の子。 | 2022-05-12 |
703 | | 長持ち | 「昭和十三年戌寅歳御柱記念」
東山田区長持ち勢揃い。 | 2022-05-12 |
704 | | 綱打ち | 矢木八町綱打ち。 | 2022-06-07 |
705 | | 綱打ち | 矢木八町綱打ち。旧金作木材の貯木場で綱打ちが行われた。後ろに見える建物は三協精機の社屋(弥生町) | 2022-05-08 |
706 | | 第三区騎馬勢揃い | 無形文化財第三区騎馬勢揃い。 | 2022-05-08 |
707 | | 騎馬人物紹介 | 大正3年三区騎馬人物紹介。小口長男氏より聞き書き。 | 2022-05-12 |
708 | | 三区騎馬 | 大正三(1914)年三区騎馬。
騎馬の後ろの街並みは「有平」日用品・雑貨・馬具の文字
その奥の店は古着・銘茶・印紙の文字。 | 2024-04-04 |
709 | | 神風車社青年会 | 長持ち・花笠の勢揃い、はっぴに「神風車社青年会」の文字が見える | 2022-05-12 |
710 | | 記念撮影 | お祝いの集まり、皆さん正装をして記念撮影。 | 2023-03-02 |
711 | | 神前結婚 | 秋宮幣拝殿にて記念撮影。 | 2022-01-19 |
712 | | 御柱祭山出し | 御柱祭 大平出発の様子。 昭和19(1944)年4月11日、午前5時半頃棚木場を出発する秋一秋三の御柱、この後3時間して大事故が起きた。 | 2021-12-18 |
713 | | 木落し | 御柱祭、山出しの木落坂の木落しの風景。 | 2021-12-18 |
714 | | 木落し | 御柱祭山出し、木落坂。 | 2021-12-18 |
715 | | 御騎馬 | 東山田法泉寺にて御騎馬行列勢揃い。
江戸時代藩主が御柱を騎馬で警護したが、明治になり困って戸長会議と諏訪大社の依頼で長地村の東山田と東堀の人々で始まった。当時は衣装と道具の調達にかなり苦労したという。最初は一団体だったので、出陣・凱旋両方行っていたが、後年になって東山田が出陣騎馬を東堀が凱旋騎馬となり、東堀の騎馬が三区へ、東山田の騎馬(昭和25年解散)が一区へと受け継がれていった。法泉寺にて撮影。
1630の写真は、「東山田今昔」(16p)に掲載されており、「大正3年の騎馬行列勢揃、大将は武田尚氏小学4年」となっている。撮影年は再確認が必要。 | 2022-05-03 |
716 | | 騎馬行列 | 江戸時代藩主が御柱を騎馬で警護したが、明治になり困って戸長会議と諏訪大社の依頼で長地村の東山田と東堀の人々で始まった。当時は衣装と道具の調達にかなり苦労したという。最初は一団体だったので、出陣・凱旋両方行っていたが、後年になって東山田が出陣騎馬を東堀が凱旋騎馬となり、東堀の騎馬が三区へ、東山田の騎馬(昭和25年解散)が一区へと受け継がれていった。法泉寺寺にて撮影。
この写真は「東山田今昔」(16p)には、「大正3年の騎馬行列勢揃、大将は武田尚氏小学4年」となっている。撮影年は再確認が必要。 | 2022-05-03 |
717 | | 生糸 | 結束し出来上がった生糸。「KATAKURA SHIMOSUWA」等の文字⊕商標。 | 2020-06-25 |
718 | | 聖火ランナー | 国体の聖火リレーがオルゴール通り(駅前通り・広瀬町)を得下諏訪駅に向かって走っている。 | 2021-12-18 |
719 | | 綱打ち | 「諏訪大社御柱祭秋一御柱元綱」四王区綱打ち。
昭和25(1950)年以降、同地区は秋宮一の女綱づくりを担当しているが、近年は稲作農家が減少し、稲刈りにコンバインが導入されたため、稲わらの確保が困難になっていた。そこで安定してわらを確保するため。平成21、09(2009)年に同会を発足。御柱祭のたびにわらを供給している。同会によると、既製のわら縄ではなく、稲わらを使って綱を打つのは同地区だけだという。背丈の高い「関取」という品種で、刈り取った稲は、十分に天日干しした後に脱穀し、わらは田んぼ横のハウスで保管。同地区綱打ち委員会の手に委ねるという。 | 2022-05-12 |
720 | | 千尋館 | 千尋館の大広間にて宴会風景。
大勢の芸者衆の姿が見える。 | 2023-03-01 |
721 | | 奉射(ぶしゃ)会 | 下諏訪町の弓道会の歴史は古く大正13(1924)年といわれている。諏訪大社御射山奉射(ぶしゃ)会、お舟祭り射会など秋宮の境内をはじめ場所を変えながら仮設道場を作り奉射会を行ってきたようだ。諏訪大社秋宮前(現在のトイレがある近辺)で行われた奉射会のようだ。 | 2022-03-13 |
722 | | 御柱祭 | 平成二十二年度寅年諏訪大社式年造営御柱祭第三区役員・委員安全祈願。秋宮神楽殿前にて記念撮影。 | 2021-12-26 |
723 | | (旧)艇庫 | 建設中の(旧)艇庫。 | 2021-12-18 |
724 | | 消防役員慰労会 | 川岸消防同盟慰労会、湖北消防同盟発足式の大巡検。 | 2021-12-18 |
725 | | 御田町役員 | 昭和7(1929)年御田町役員。(矢崎・城取・入舟・大増・有賀)長持ちの前での撮影。 | 2021-12-26 |
726 | | 記念写真 | 国民服の男性の集合写真。 | 2021-12-26 |
727 | | 御柱祭里曳き | 御柱祭曳行風景。
四ツ角八十二銀行前を秋宮に向かう曳行。
阿部奈良屋方面から撮影されている。 | 2021-12-18 |
728 | | 花笠 | 男性が女性に扮して傘踊りの支度をしている。詳細不明。 | 2021-12-18 |
729 | | 成人式 | 第19回下諏訪町成人式 昭和42(1967)年度、第19回成人式。男子成人の集合写真。会場等不明。 | 2021-12-18 |
730 | | 成人式 | 戦後の成人式、中央に黒田町長。
諏訪大社秋宮幣拝殿前にて、昭和40年度、女性成人の集合写真。 | 2021-12-18 |
731 | | 弓道の練習風景 | 学生の服装などから当時の様子がうかがえる。
手前の男児生徒は下駄をはいている。 | 2021-12-21 |
732 | | 婚礼写真 | 床の間の前で新郎新婦の結婚の記念写真。
和装の新郎新婦。 | 2022-03-09 |
733 | | 記念写真 | 旭日旗・国旗が見え、服装(軍服・国民服)などから戦争中の写真では?詳細不明。 | 2021-12-18 |
734 | | 集合写真 | 後ろに見える建物は繭蔵。
はっぴの男性の衿には「片倉製糸紡績株式会社」の文字。
写真に写る人たちは片倉の職員と思われる。 | 2021-12-21 |
735 | | 岡谷中学スケート部 | 昭和22(1947)年から始まったスケートの県高校選手権では岡谷南高校が岡谷中学時代から9連覇を達成している。写真は岡谷市体育協会史には「第2回県下中学スケート大会に優勝した岡谷中学(現岡谷南高)」と紹介されている。長野県スケート連盟史には、後列左から2人目が中島信一、右隣が増沢政幸と紹介されていて当時の主力選手であった。 | 2021-12-18 |
736 | | 集合写真 | 集合写真。後ろに鳥居が見える。女性が多く映っている。写真の中央には高木十吉氏が背広姿で写っている。 | 2023-03-02 |
737 | | 大注連縄奉献 | 戦後「日本第一大軍神」の大額が外された諏訪大社下社神楽殿。
「これでは寂しい」と地元有志が出雲大社の大注連縄保存会に指導を受け、初めて奉献したのが昭和24(1949)年。その後昭和54(1979)年まで途絶えていた。昭和54(1979)年と昭和60(1985)年に、出雲大社拝殿に大注連縄を奉献している島根県雲南市の須賀注連縄保存会の役員を迎え、御柱祭の前年に大注連縄作りの指導を受けた。
写真は昭和60(1985)年、御柱祭の新たな行事として定着させようと奉献会(約40人)が作った下社秋宮神楽殿の大注連縄奉納の時の記念写真。 | 2021-12-18 |
738 | | 献幕記念 | 「大社奉祀会献幕記念昭和五十四年七月」の文字。諏訪大社秋宮神楽殿横にて、後ろの神楽殿や幣拝殿の幕が白く輝いて見える。神楽殿横に絵馬がかけられている。 | 2021-11-03 |
739 | | 秋宮境内 | 秋宮境内での撮影。
後方に菊花展を行っている様子が見える。
大注連縄ははすした後か(色が灰色がかっている)。 | 2021-12-18 |
740 | | お舟祭り | 夏の遷座祭風景。
そろいの法被姿やシャツ姿の氏子の姿が見える。
街並みは木の電柱、木造の住宅などが多く見えます。 | 2021-12-18 |
741 | | 諏訪大社秋宮 | 諏訪大社下社神楽殿。
大注連縄に赤い提灯が飾り付けられている。
神楽殿横を歩く御田植祭りの早乙女と思われる姿が見え、周りに参拝客や観光客の姿が多数見える。 | 2021-12-18 |
742 | | 柴舟 | 夏の遷座祭。柴舟の上の「媼(おうな)の人形」。
釣竿を持った翁(おきな)との1対を相向かいに柴舟に乗せる。これら人形については諸説あり、神の拠り代であるとの説がある。富部地区を中心とした「人形の会」によって毎年製作される。柴舟に幔幕が張られていないことから、製作中と思われる。製作は春宮境内で行われるが、部材には大型のセットと小型のセットがあり、その年の御頭郷によりいずれを使用するか決定される。現在は諏訪地方を10の地区にわけて御頭郷を輪番でまわしているが、中世には信濃の国全土の氏子の務めであった。 | 2021-12-18 |
743 | | 遷座祭 | 夏の遷座祭、裃姿の大総代の皆さん。 | 2021-12-18 |
744 | | お舟祭り | 夏の遷座祭、春宮の鳥居前、柴舟が春宮を出発し秋宮に向かうところ。
柴舟の周りの氏子衆は揃いのはっぴ姿。
また、警察官の制服からも時代がうかがえる。 | 2022-05-21 |
745 | | お舟祭り | 遷座祭の柴舟が春宮の鳥居を出て秋宮に向かう様子。柴舟に下原・大社の神紋がついたちょうちんが飾られている。氏子の服装が現在の揃った姿とはだいぶ違う。 | 2021-11-03 |
746 | | 諏訪大社秋宮 | 神楽殿に大注連縄がない、社務所は現在と同じ、参道の階段は整備済み、東郷平八郎の掲額がない、狛犬がない…など現在とは様子の違う秋宮境内。 | 2021-11-03 |
747 | | 石投げ場 | 北高木付近から見た諏訪湖岸の風景。上諏訪方面からSLが煙を出し走っている。№1544の写真と比べると湖畔の整備が進み桜やカリンの並木が整えられ、大きくなっているのがわかる。また線路北側の開発も進んでいる。 | 2020-03-06 |
748 | | 石投げ場 | 昭和40(1965)年の北高木付近から見た諏訪湖岸の風景。埋め立てが終わっているが、湖畔の整備はまだ途中で桜やカリンの並木はもちろん湖畔道路も整備途中で波打っているように見える。 | 2020-03-06 |
749 | | 撮影会 | 八島湿原、撮影会の写真。 | 2020-03-06 |
750 | | 旦過の湯 | 湯田坂の風景、オレンジ色の建物は「旦過の湯」。鎌倉時代、慈雲寺を訪ねる修行の僧のために建てられた旦過寮のお湯のことを指すことから名がついた。その由来の為か新しく建て直された旦過の湯の壁のこて絵は修行僧の姿が画かれている。
湯が熱いのが売りになっていて、湯口は52度もあるという。下諏訪3湯(綿の湯、児湯、旦過湯)の中で最も高温で、傷、吹き出物に効能があると言われている。
写真2枚目、少し上に見える寺の屋根は来迎寺。 | 2021-04-24 |
751 | | 旧中部電力 | 立町の中部電力㈱下諏訪営業所を、リノベーションをし、現在は「しもすわ今昔館おいでや」(旧諏訪湖時の科学館儀象堂)になっている。工事作業中の写真。この建物の角に「諏訪電気発祥の地」の碑がたてられている。
1枚目の写真はみなと屋側から撮影。奴の看板が見える。 | 2020-03-06 |
752 | | 下社秋宮前 | 諏訪大社下社秋宮前の三井屋と大社煎餅本舗。手前に以前石畳だった名残が残っている。 | 2020-03-06 |
753 | | 鎌倉街道 | 小湯の上に残る鎌倉街道。現在「鎌倉街道」(鎌倉道)は諏訪市大和から高木集落の下を通り富部・武居・下の原・慈雲寺裏を経て砥川を渡り、東山田など、町周辺の山付きの村の標高の高いところを通り、ところどころに道筋を残している。 | 2020-03-06 |
754 | | 大社通り | 大社通り「有賀商店」。手前の小路は「稲荷小路」。道向かいは諏訪湖オルゴール博物館奏鳴館(旧下諏訪町役場の地旧公民館、現在はオルゴール博物館すわのね) | 2020-03-06 |
755 | | 大社通り | 大社通り有賀商店。右隣は第一交通タクシー。 | 2020-03-06 |
756 | | 湯田坂 | 国道142号辺りから見下ろした湯田坂。
左の大きな建物は旧旅館喜楽。
旧中山道の風情が残る街並み。 | 2020-03-06 |
757 | | 街並み | 国道142号(R142・湯田坂と衣文坂の交差している付近)から見た「うらかめや」、奥に見えるのが「児湯」。 | 2020-03-06 |
758 | | 天白の坂道 | 142号線(宮の上バス停近く)よりハイム天白方面(秋葉山から続く斜面)に登る急坂。坂の上には町指定文化財の横穴式の石室をもつ古墳時代末期の古墳、「ジジ穴・ババ穴古墳」がある。 | 2021-04-15 |
759 | | 高浜付近 | 新田中線沿いにあった「サンアイ」・「諏訪湖市場」の看板付近と右手前は高浜運動公園のフェンス。 | 2020-03-06 |
760 | | 街並み | 旧甲州街道(甲州道中)、下諏訪中学校近くの建物、建物横に見える長い棒ははざかけ棒と思われるが、土壁とともに懐かしさを感じさせる。 | 2020-03-06 |
761 | | 八幡坂の街並み | 写真右に見えるのは専女(とうめ)社のけやき。工事を行っている場所は、現在は土産物屋(専女八幡)になっている。奥の茶色の建物は今は亡き「ホテル山王閣」。№1519,1520参照。 | 2020-03-06 |
762 | | 秋宮境内の犬射馬場石碑 | 「當社之犬射馬場(とうしゃのいぬいばば)」と刻まれている。 犬射馬場石柱が下社秋宮境内の秋宮一の柱の脇にもある。犬射馬場とは大祝の居館(神殿:ごうどの)につづく錬武の場であり、「諏訪大明神絵詞」にもお舟祭りの後に馬場で犬追物をして祭りが終わったことが記されている。馬場(ばっば)の名称としてその名残を留めその四囲にも石柱が残されている。 | 2020-03-06 |
763 | | 久保秋葉大権現 | 撮影の日付と「犬射馬場石柱」と説明がある写真であるが、サトーニットの裏にある久保秋葉大権現の周りの石碑群にあるではないかと思われる。(男根に模した石柱に道祖神と刻まれたものがある) | 2020-03-06 |
764 | | 街並み | 旧甲州街道(甲州道中)。上久保(下諏訪中学校)付近の街並み。このカーブの先右には土田墓地がある。 | 2020-03-06 |
765 | | 商店 | 旧甲州街道沿いにあった「青柳商店」の改築工事風景。現在は住宅となっている。後ろに見える建物は今はない「ホテル山王閣」。 | 2020-03-06 |
766 | | 小路 | 秋宮前大社通りから宿場町立町通りの間の路地。江戸時代の生活路で(俗名七つ蔵)「歴史のこみち」とも呼ばれている。
平成7(1995)年に路地の散策を続けてきた人たちで「下諏訪の路地を歩く会」が作られ、平成13(2001)年には日本記念日協会から、6月2日は「路地の日」の普及に貢献したとして記念日文化功労賞が送られている。
宿場町として栄えた歴史や閑静な風情、行き交う人情に触れることができる場所となっている。この周辺には岡本太郎や小沢昭一、永六輔らの直筆を刻んだ石碑や句碑を巡ることもできる。 | 2020-03-06 |
767 | | 専女の欅 | 諏訪大社外苑の専女社(専女八幡)にある巨木「専女(とうめ)の欅」。この町内有数の巨木は、樹齢千年を超えているといわれ、遠く下筋からも見えて、芽吹きや紅葉で気候を占う陽気木として知られている。目通り周囲は約6メートル、高さは約30メートルといわれる。 | 2020-03-06 |
768 | | 専女八幡付近の景色 | 右手にオルゴール博物館「すわのね}、正面奥に専女(とうめ)の欅。工事しているところは現在駐車場と土産物店(専女八幡)がある。№1528参照 | 2020-03-06 |
769 | | 商店 | 秋宮リンク近くにあった(旧)林商店。 | 2020-03-06 |
770 | | 製糸工場の面影 | 「小湯の上」の明治初期の製糸工場の面影伝える廃屋。下諏訪本陣の家が明治10(1876)年創業した岩波製糸場の事務所(現存・2019年現在)だった建物。寄せ棟、洋風板壁で文明開化を表現したデザインだったに違いない。この工場、製糸業の激し変換の中で早々に閉鎖となったらしく、明治26(1893)年の下諏訪機械製糸工場一覧にはその名は見えない。板塀の中に座繰糸工場があった。
背景の樹木は下社秋宮の森、道の左手は秋宮スケートリンク。 | 2021-04-21 |
771 | | オフシーズンの秋宮リンク | ふれあい広場、シーズンオフの秋宮スケートリンク。 | 2020-03-06 |
772 | | 立町の路地 | 立町の路地、突き当たりに御湖鶴、手前に日進学園(そろばん)がある。 | 2020-03-06 |
773 | | 衣文坂 | 中央通り(衣紋坂)を坂の上から見下ろす。奥の信号付近が三澤屋書店。写真の左手前(坂の上)は青塚古墳。 | 2020-03-06 |
774 | | 入一通信裏手 | 桜町から御田町へ抜ける道。入一通信の裏手付近。画面左下は現在、「教職員秋宮住宅」となっている。 | 2020-03-06 |
775 | | 旧中山道 | 旧中山道、武藤工業裏手付近。 | 2020-03-06 |
776 | | 湯田坂 | 湯田坂(坂を下りきったあたり)。鉄鋼泉・古久家・志まやの看板が坂の上方向に見える。 | 2020-03-06 |
777 | | 商店 | 湯田仲町にある宮坂商店(化粧品店)。右手の道を直進すると旧中山道。 | 2020-03-06 |
778 | | 峰見薬師堂 | 東山田地区には峰見薬師堂(増沢マキ・宮坂マキ)と西浦(裏)薬師堂(山田マキ)があり、マキによる講のお堂で春秋の彼岸に講中が集まり念仏講を唱え祭りをしている。写真は西裏薬師堂である。西裏薬師堂は茅葺き高床式の厨子内に江戸時代と思われる朔像の医王薬師如来両脇土が立ち、他に弘法様2体、絵馬「め」は眼病の救済に崇められた。山田マキの墓地内にある。 | 2020-03-06 |
779 | | 駒形稲荷 | 社ヶ丘団地は字駒形と呼ばれる地籍で、古く朝廷へ御用の馬を献上する勅使牧が置かれていたといわれる(萩倉の牧)。駒形は古代馬の形像を崇拝した最も原始的な信仰で、萩倉牧の馬神を祀る神社として創立されたものだろうといわれている。社中学校の北方に「馬飼場」という字名も残っている。 | 2020-03-06 |
780 | | お稲荷さん | 龍の口から中央通りに下る道沿い、桜町にあるお稲荷さん。 | 2020-03-06 |
781 | | 野球大会出場前日 | 諏訪中学校野球部主催の郡下の野球大会が毎年春秋二季行われ、小学生ばかりではなく父兄も町村の人々もその勝敗に熱中した。諏訪中の校庭に集まるのは全郡下のほとんどの小学校で学校の規模の大小を問わず各1チームを編成して参加した。長い伝統に輝く大会だった。岡谷や川岸の小学校もみな歩いて行った。下諏訪からも往復三里も遠しとせずに応援に出かけたという。 | 2020-03-06 |
782 | | 進駐軍 | 昭和20(1945)年12月、アメリカ進駐軍松本駐屯部隊の監視所が、上諏訪新道分岐点(大社通り四つ角)に置かれた。この時は菅野町入口に2坪の監視所ができ、昭和20(1945)年12月から21(1946)年2月まで10~15人が正木屋(現八十二銀行付近)に駐屯し、銃刀等の取調べをしていた。 | 2020-03-06 |
783 | | 消防団 | 諏訪大社下社秋宮の鳥居前。車に「特設防護」文字があり消防車の前で撮影したと思われる。消防団員の法被の襟に一から六の分団長の文字が読める。 | 2020-03-06 |
784 | | 下諏訪小学校増築記念 | 「下諏訪小學校増築落成記念、昭和二十三年十二月二十八日」。 | 2020-03-06 |
785 | | 憲法発布記念 | 「憲法発發布記念、昭和二十一年十一月三日諏訪郡町村長会」の文字が見える。 | 2020-03-06 |
786 | | 製糸場事務所 | 製糸場の事務所。 | 2020-03-06 |
787 | | 綿の湯 | 大正13(1924)年着任した柳沢警部補から、衛生保安の立場上、三湯(綿の湯・児湯・旦過の湯)とも改築の急務を力説されて、第二区では「綿の湯」をはじめ、三湯の改築に取りかかることになり、まず綿の湯から着手することになった。写真は大正14(1925)年8月、旧中山道沿い突き当たりの立町に建て直された綿の湯である。この時、階下は消防屯所で二階は集会所とし、二階屋上に火の見の望楼をのせた。
綿の湯はこの後、昭和35(1960)年に鉄筋コンクリート建築に改築されている。
綿の湯には伝説が2つ伝わっている。一つは建御名方命(たけみなかたのみこと)の妃である八坂刀売命(やさかとめ)が上社から下社へ住まいを移す際、上社前の温泉の湯を化粧綿に浸み込ませて持参し、下社前に置くとそこから湯が沸き出たというもの。もう一つは、穢れ | 2020-03-06 |
788 | | ボイラー | 製糸業のボイラー。 | 2020-03-06 |
789 | | 荷馬車 | この写真は和田峠を越えて戦後の買出し風景。荷馬車で荷を運搬、荷車の端に信号が写っている。また、はっぴの襟に高木石工場の文字が読める。 | 2020-03-06 |
790 | | ふれあいコンサート | 下諏訪体育館で行われた、小澤征爾ふれあいコンサート風景。 | 2020-03-06 |
791 | | 北欧音楽祭 | 北欧音楽祭。
文化センター一階ロビーにて、オカリナの演奏。
写真下はフィンランドの方による小物類の物品販売。 | 2020-03-06 |
792 | | 街かど博物館 | 街かど博物館1号館の館内の展示。 | 2020-03-06 |
793 | | 街かど博物館 | 街かど博物館2号館の館内の展示。 | 2020-03-06 |
794 | | 街かど博物館 | 街かど博物館の看板。「街かど博物館」は平成3(1991)年4月1日から町づくりの推進、観光活性化の一環として1号館から3号館までオープンした新しいスタイルの博物館。令和2(2020)年1月現在も6箇所ある。①「駅と祭りの資料館」下諏訪駅、②「懐古もの物語」(二葉屋酒店)、③「花屋茂七」、④「古文書館・民芸館」(中村屋)、⑤「蔵」(原酒店)、⑥「風雅舎」(みなとや旅館)。 | 2020-03-06 |
795 | | にぎわう産業フェア | 多くの人でにぎわう産業フェア。地域の企業ブースが並ぶフロアー(エプソン・三協・東洋技研など)。 | 2020-03-06 |
796 | | 下諏訪上空 | 町屋敷工業団地。町内企業の振興を図るため平成2(1990)年から造成に着手し翌年平成3(1991)年、13区画35227㎡の工業団地が町屋敷に完成した。 | 2020-03-06 |
797 | | 展示コーナー | 下諏訪文化センター一階ロビー内の展示コーナー。 | 2020-03-06 |
798 | | 木落し | 御柱祭山出し、木落しの様子。 | 2020-03-06 |
799 | | 下諏訪町上空 | 写真中央の白く輝く屋根は荻原製作所(昭和42(1967)年に下諏訪町に移転してきた本社工場、平成29(2017)年に伊那市へ移転。その右にはひかり味噌、左上にジャスコ(イオン)、右上には諏訪湖、右下すみに野球場・陸上競技場が見える。 | 2020-03-06 |
800 | | 下諏訪町上空 | 写真中央に町役場、右に総合文化センター・体育館。左はテニスコート・野球場・陸上競技場などが見える。 | 2020-03-06 |
801 | | 遷座の列 | 鉾(ほこ)を持って遷座の列を作る白丁奉仕の皆さん。2月1日と8月1日の年2回の奉仕。鉾の列の後ろに奏楽の列が続く。諏訪大社春宮を出発した直後の様子。 | 2021-04-15 |
802 | | 遷座祭 | 遷座の列を先導する白丁奉仕の氏子の皆さん。その後ろに赤く塗られた鳥居が飾られた御正台(みしょうだい)がつづく。御正台は大御正台と小御正台があります。さらにその後ろに錦をかけられた御霊代(みたましろ)を遷した神輿が続きます。 | 2020-03-06 |
803 | | 遷座祭 | 春宮から秋宮へ祭神を遷座するお舟祭りの巫女行列、稚児行列の様子。 | 2020-03-06 |
804 | | 時代行列 | 春宮から秋宮へ祭神を遷座するお舟祭りのでのひとコマ。「金刺盛澄時代行列」8月1日にあわせて行われたイベントで現在は行われていない。 | 2020-03-06 |
805 | | 八島太鼓 | 八島太鼓。 | 2020-03-06 |
806 | | 下諏訪町総合文化センター | 平成元(1989)年にオープンした下諏訪町総合文化センター前の庭。庭の中央にあるブロンズ像は立川義明作「翔」の像。立川氏は諏訪市出身、立川流立川家の子孫。なおセンターの庭の南側には「梶の木」が植え込まれている。 | 2020-03-06 |
807 | | 柿陰山房 | 柿陰山房「島木赤彦の家」。アララギ派歌人であった島木赤彦(本名久保田俊彦)の住まい跡。この柿蔭山房で多くの優れた歌を残しました。秋には柿の実と山房の美しい風景が赤彦の想いと重なります。「柿蔭山房」(しいんさんぼう)の名前の由来は、古くからこの地には柿の木が多く、歌を発表するとき、赤彦自ら「柿の村人」と号したことからといわれています。 | 2020-03-06 |
808 | | 高浜公衆トイレ | 湖岸に設けられた公衆トイレ。 | 2020-03-06 |
809 | | コスモス街道 | 「コスモス街道づくり」諏訪湖岸の観光と景観美化を兼ね各種26団体が協賛、町民参加によりコスモスの花で湖岸を美化などを目的に行われた。写真は小学生によるコスモスの定植作業の風景。 | 2020-03-06 |
810 | | 水防訓練 | 春宮砥川付近にて水防訓練。 | 2020-03-06 |
811 | | 湖岸道路開通 | 昭和63(1988)年に開通した湖岸通り線竣工開通式。 | 2020-03-06 |
812 | | 一ツ浜保育園 | 旧第四保育園・旧第七保育園が統合し平成2(1990)年に開園した現みずべ保育園(旧一ツ浜保育園)開園。園舎の壁に親子のきりんレリーフが飾られシンボルマークとなっている。 | 2020-03-06 |
813 | | 精密機械工業 | 工場内の作業風景。 | 2020-03-06 |
814 | | 鯉の養殖 | 網イケスによる鯉の養殖は、諏訪湖漁業振興事業のひとつとして県水産指導所で昭和35(1960)年より「採る漁業から育てる漁業へ」と研究を進めてきたもので昭和39(1964)年に26面の網いけすで事業化した。その後、湊・豊浜区・渋崎・岡谷へと広がっていった。 | 2021-04-01 |
815 | | 下諏訪総合文化センター落成 | 平成元(1989)年下諏訪総合文化センター落成式。 | 2020-03-06 |
816 | | 高木町長 | 下諏訪総合文化センターにて、向かって左から新村益雄助役・高木清允町長・藤森秀夫収入役。 | 2020-03-06 |
817 | | 海苔巻き作り | 文化センターロビーにて長~い海苔巻き作り。 | 2020-03-06 |
818 | | 花の販売 | シクラメンの販売風景・ | 2020-03-06 |
819 | | 町営総合運動場 | 町の総合運動場。 | 2020-03-06 |
820 | | 町制施行100周年事業 | 100周年事業の「由紀さおり・安田祥子童謡の夕べ」が、9月11日(土)下諏訪文化センターにて行われた。上演は2回行われた。 | 2020-03-06 |
821 | | 町制施行100周年事業 | 下諏訪総合文化センター1階ロビーで行われた祈念祝賀会の様子。 | 2020-03-06 |
822 | | 町制施行100周年事業 | 明治26(1893)年6月30日に「町」として歩みはじめ、この日町民憲章の発表や碑の除幕式も行われた。町制施行100周年記念事業として「町制施行100周年記念式典」が県内外から350人の出席を集め盛大に開催された。 | 2020-03-06 |
823 | | 町制施行100周年事業 | 育てたアマゴを砥川に放流する下諏訪北小学校の児童たち。 | 2020-03-06 |
824 | | 町制施行100周年事業 | 「八島太鼓」「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗。No.1444の写真と同じ場所、同じ事業の会場と思われるが、場所や内容などは不明。 | 2020-03-06 |
825 | | 町制施行100周年事業 | 町制施行100周年記念事業として行われた地鎮祭ほ様子。
№1445の写真と同じ会場、同じ事業と思われるが、場所内容等は不明。 | 2020-03-06 |
826 | | 町制施行100周年事業 | 諏訪盛澄時代行列イベントに参加する「万寿姫」「絹姫」コンテストが秋宮境内で行われた。写真左から「春姫」宮沢さん・久保田さん、五代目「万寿姫」の山田さん、「絹姫」の岩下さん、「秋姫」の武居さん・中谷さん。26人が応募24人が出場。「万寿姫」「絹姫」には海外旅行と副賞がプレゼントされた。 | 2020-03-06 |
827 | | 町制施行100周年事業 | 将来の御柱祭に使えるように「モミの苗木」の植林。この記念事業で植樹したモミの苗木は1000本、その後、モミの苗木の植樹活動は有志の皆さんの手により続けられている。植樹は苗木を植える作業ばかりではなく鹿の食害から守る対策も伴う。 | 2020-03-06 |
828 | | 町制施行100周年事業 | 町制施行100周年記念下諏訪町植樹祭の垂れ幕と下諏訪北小学校の旗が見える。町の理事者(高木町長など)の姿も見える。下諏訪北小学校には「みどりの少年団」があり「アマゴの放流」など自然環境について学ぶ学習が行われている。 | 2020-03-06 |
829 | | 町制施行100周年事業 | いずみ湖のテニスコート。3月29日に全天候型テニスコート8面が完成、4月18日にオープンした。 | 2020-03-06 |
830 | | 町制施行100周年事業 | 町制100周年記念事業のひとつとして、いずみ湖公園と東俣町国有林で記念植樹が行われた。それぞれ「町民自らの手による緑豊かな空間の創造」「森林資源の造成と緑豊かな住みよい郷土づくり」を目的にいずみ湖公園にモミジを1300本・オオヤマザクラ200本を、東俣町有林には将来の御柱用材用としてモミの苗木1000本を植樹。写真はいずみ湖での植樹の様子。 | 2020-03-06 |
831 | | 町制施行100周年事業 | 町制施行100周年植樹祭であいさつする高木清允町長。 | 2020-03-06 |
832 | | 諏訪湖氷上会記念写真 | スイス公使 ポール・リッテル夫妻が下諏訪町の諏訪湖氷上会主催のスケート大会に出席された時の記念写真。この年1月14日には英国代理大使ローザ夫妻も下諏訪に来ている。 | 2021-05-11 |
833 | | 諏訪湖のスケート風景 | 諏訪湖のスケート 諏訪中(旧制)の生徒か? 古田明氏寄贈 | 2020-03-06 |
834 | | 女性のスケート風景 | 芸者さんのスケート風景。 城取氏撮影。 | 2020-03-06 |
835 | | 冬の諏訪湖 | 諏訪湖の氷上に着氷した飛行機。 | 2022-05-26 |
836 | | 冬の諏訪湖 | 諏訪湖の氷上に着氷した飛行機。
二枚目の写真は飛行機を陸に引き上げているようだ。 | 2021-04-15 |
837 | | スケートを楽しむ人々 | アイスホッケー、フィギュアスケート、氷上そり…など、それぞれ秋宮スケートリンクで冬のスポーツを楽しむ人々。 | 2020-03-06 |
838 | | 下駄スケートをする少女たち | 向かって右より 三井まさ 小口けん(小松屋) 小口すえ(湊屋) 溝口はる子 柳沢きよ 増沢みす(松仙堂)。 | 2021-05-11 |
839 | | 下駄スケートをする子どもたち | 下駄スケートで滑る小学生、先頭は改良されたスピードの三本刃、後方は最初の二本刃のスケート。この写真の説明は昭和初期としてあるが、「写真いまとむかし(下諏訪町)」には、「大正後期のスケート遊び(矢島式下駄スケート)」と説明されている。また、「下諏訪町町制施工125周年(下諏訪今昔絵巻)」には大正14(1925)年頃と注釈がされている。 | 2020-03-06 |
840 | | スケート | 右端小口卓穣氏は諏訪湖一周氷滑大会で三連勝した。前列左端 高木幸雄氏 後列 左端 小口義信氏 | 2020-03-06 |
841 | | 表彰式 | 氷上での表彰式。
トロフィーを受け取る選手。 | 2020-03-06 |
842 | | カーリング大会 | カーリング大会表彰式の様子。昭和7年1月21日の秋宮スケートリンク。№34.1405.1424は同じ写真。 | 2020-03-06 |
843 | | フィギュアスケート風景 | 下諏訪町秋宮リンクで日本で初のフィギュアスケートの公式大会が開かれた。同リンクは「日本フィギュアスケートの発祥の地」となった。 | 2020-03-06 |
844 | | フィギュアスケート | 秋宮スケートリンクでスケートを楽しむ。 | 2020-03-06 |
845 | | スケート | 秋宮リンクで、フィギュアスケートを滑る男性。 | 2020-03-06 |
846 | | スケート大会で優勝した少年 | 諏訪郡下スケート大会に於いて小学生20周に優勝した清水順吉君。下駄スケートを履いている。 | 2020-03-06 |
847 | | フィギュアスケート | スカート姿でフィギュアスケートをする女性。 | 2020-03-06 |
848 | | スケート | | 2020-03-06 |
849 | | スケート | アイスホッケー。№1377と同じ時の撮影か。 | 2020-03-06 |
850 | | スケート | 「信州諏訪湖上スケート」(絵葉書)、当時のスピードスケート選手。 中村龍雄氏出品。№1362と同じ。 | 2020-03-06 |
851 | | スケート | 諏訪湖高浜湾リンクで初めてのスケート大会発会式の様子。下駄スケートが考案されると共に、下諏訪町に「下諏訪諏訪湖氷辷(こおりすべり)会」ができて、その翌年の明治39(1906)年2月18日には写真の如く、高浜湾で諏訪湖で初めてのスケート大会が開催された。」。当時会員200名程のうち、50名程が外国人であったという。南信日日新聞後援であった。写真下には「第百三十二圖 諏訪湖スケート倶樂部發會式 (明治三十九年[一九〇六年]二月十八日) 下諏訪町高濱灣」と書かれている。№1367と同じ。 | 2020-03-06 |
852 | | フィギュアスケート | 秋宮スケートリンクでフィギュアスケートを楽しむ男性たち。 | 2020-03-06 |
853 | | スケート | 秋宮スケートリンク。 | 2020-03-06 |
854 | | スケート | たくさんの子どもたちが見守る中で回転したり、ジャンプをしたしフィギュアスケートを披露。子どもたちが履いているのは下駄スケートが多いように見える。 | 2020-03-06 |
855 | | スケート | | 2020-03-06 |
856 | | スケート | 秋宮スケートリンクでスケートを楽しむ人々。 | 2020-03-06 |
857 | | スケート | 諏訪湖の結氷期が1月上旬から2月下旬までであるために、冬期休暇を利用する東京方面の学生の便を考慮して、明治40(1907)(別の資料には明治42年の表記)に下諏訪町旅館業者等が秋宮特設リンクを設けた。当時入場料は一冬金一円、一日20銭で夜も電灯を点じて滑走が自由であった。
№4と同じ。 | 2020-03-06 |
858 | | スケート | カーリング大会表彰式の様子。昭和7年1月21日の秋宮スケートリンク。№34.1405.1424は同じ写真。 | 2020-03-06 |
859 | | スケート | 日本髪、和装の女性が秋宮スケートリンクでスケートを楽しむ。 | 2020-03-06 |
860 | | スケート | 椅子に刃をつけてソリのようにして遊ぶ様子。 | 2020-03-06 |
861 | | スケート | 日本髪の女性が秋宮スケートリンクでスケートを楽しむ。 | 2020-03-06 |
862 | | スケート | 馬が引く「氷上スキー」。背景の段々畑は一面桑畑、製糸業が盛んな頃の農閑期の諏訪の風景。場所は高浜湾付近。 | 2020-03-06 |
863 | | スケート | 下駄スケート。椅子型のそりにもスケートの刃がつけられている。 | 2020-03-06 |
864 | | スケート | なかよく並んで下駄スケートをする子どもたち。後ろにはアイスホッケーのゴールが見える。 | 2020-03-06 |
865 | | スケート | スケートに興ずる人々。 | 2020-03-06 |
866 | | スケート | 氷上の整頓(絵葉書)。当時結氷した諏訪湖は軍事訓練の場として使われることもあった。写真後方山肌が見事な段々畑(?)になっている。 | 2020-03-06 |
867 | | スケート | 諏訪湖氷上スケート大会(絵葉書)。 | 2020-03-06 |
868 | | 下駄スケート | 下駄スケートの刃。
フィギュア型からスピード型に改良されたスケート。 | 2020-03-06 |
869 | | フィギュア型のスケートの刃 | 大正から昭和初期に輸入された、フィギュア型スケート
で革靴の厚底の編み上げ靴に取り付けて滑走した。 | 2020-03-06 |
870 | | 漫画すごろく | 「スケーチング漫畫諏語録」。 | 2020-03-06 |
871 | | スケート | 冬の蓼の海。スケート大会の様子の絵葉書。左下の写真はアイスホッケーのリンク。 | 2020-03-06 |
872 | | スケート | 冬の諏訪湖。選手のユニホーム・滑るフォーム・よく整備されたスケートリンクなどから大会風景に見えるが。 | 2020-03-06 |
873 | | スケート | 冬の諏訪湖。軽装でのスケート風景。スケート靴はフィギュア用に見える。 | 2020-03-06 |
874 | | スケート | 冬の諏訪湖。競い合って滑る様子。 | 2020-03-06 |
875 | | スケート | 絵葉書。(冬の諏訪湖)諏訪湖のスケート。 | 2020-03-06 |
876 | | スケート | | 2020-03-06 |
877 | | スケート | 絵葉書。(冬の諏訪湖)諏訪湖のスケート。 | 2020-03-06 |
878 | | スケート | (冬の諏訪湖)スケートで賑わう諏訪湖氷上。写真の範囲には下駄スケートは見られない。 | 2020-03-06 |
879 | | 高林選手 | 高林清高選手の昭和27(1952)年オスロ冬季オリンピック500m、6位入賞。 | 2020-03-06 |
880 | | 高林選手 | 高林清高選手。岡谷工業学校時代は戦争中で活躍の場はなかったが明治大学に進んでから日本を代表するスプリンターとなる。日本選手権では500mに3連覇。オリンピックで6位入賞を果たした。昭和29(1954)年日本初世界選手権札幌大会では銅メダルを獲得した。 | 2020-03-06 |
881 | | アイスホッケー | アイスホッケー。 | 2020-03-06 |
882 | | アイスホッケー | アイスホッケーに興じる人々。№1415と同じ時の撮影か。 | 2020-03-06 |
883 | | スケート | 秋宮スケートリンク。 | 2020-03-06 |
884 | | スケート | スケート製作風景。 | 2020-03-06 |
885 | | 下駄スケート | 下駄スケートが何種類もテーブルの上に並んでいる。 | 2020-03-06 |
886 | | スケート | 諏訪湖高浜湾リンクで初めてのスケート大会発会式の様子。下駄スケートが考案されると共に、下諏訪町に「下諏訪諏訪湖氷辷(こおりすべり)会」ができて、その翌年の明治39(1906)年2月18日には写真の如く、高浜湾で諏訪湖で初めてのスケート大会が開催された。」。当時会員200名程のうち、50名程が外国人であったという。南信日日新聞後援であった。資料には「第百三十二圖 諏訪湖スケート倶樂部發會式 (明治三十九年[一九〇六年]二月十八日) 下諏訪町高濱灣」と書かれている。№1413、1861と同じ。1961の写真には「箒をもてるはグラウンドの掃除人夫なり」と書きもまれている。 | 2020-03-06 |
887 | | 英国代理大使夫妻記念撮影 | 在京中の各国大使がスケートに来湖する。写真は英国代理大使ローザ夫妻が、下諏訪駅前で記念撮影したもの。 | 2020-03-06 |
888 | | アイスホッケー | 秋宮スケートリンクでアイスホッケーを楽しむ人々。
後ろの建物は岩波製糸場の事務所。 | 2020-03-06 |
889 | | スケート | 高浜沖の諏訪湖でスケートを楽しむ人々。 | 2020-03-06 |
890 | | スケート | 颯爽とスケートを楽しむ人と椅子を使って遊ぶ人たち。秋宮リンクの一コマ。 | 2020-03-06 |
891 | | スケート | 氷上をそりにのり楽しむ子ども、フィギュアスケートの練習をする女性、アイスホッケーのスティック持っている男性などそれぞれのスタイルでスケートを楽しむ様子。
小湯の上、秋宮スケートリンク。 | 2020-03-06 |
892 | | アイスホッケー | アイスホッケーのゴール前で記念撮影。
帽子や服装が似ている人がいて、当時のアイスホッケー愛好家の流行が感じられる。
リンクの周りには柵がなく見物人らしき人もいる。 | 2020-03-06 |
893 | | 下駄スケート | フィギャー型かあらスピード型に改良された3本歯刀(3本足)のげえたスケートの刃。 | 2020-03-06 |
894 | | 下駄スケート | | 2020-03-06 |
895 | | スケート | フィギャー型からスピード型に改良された3本刀(3本足)の下駄スケート。 | 2020-03-06 |
896 | | スケート | | 2020-03-06 |
897 | | 下駄スケート | | 2020-03-06 |
898 | | スケート | | 2020-03-06 |
899 | | スケート | 草履に竹を取り付けてある。 | 2020-03-06 |
900 | | スケートの刃 | 下駄スケートとして定着した一般的な形のもの。靴スケートに変わる頃の物。(昭和35・6年頃より下駄スケートは消えていった。) | 2020-03-06 |
901 | | sssスケート製の刃 | 刃にはSSS(サンエス)の刻印。
ギザギザのエッジがありフィギャースケート用の刃。 | 2020-03-06 |
902 | | スケートの刃 | 明治40(1907)年頃の作。刃の形、厚さに多少の工夫がみられる。 | 2020-03-06 |
903 | | 下駄スケート | 明治39(1906)年諏訪地方最初のもの。
木下の河西氏作。
日本歯とも呼ばれていた。 | 2020-03-06 |
904 | | sssスケート製の刃 | エッジ部が短いことからショットトラック等の競技用のスケートの刃と思われる。 | 2020-03-06 |
905 | | フィギャ型スケート | 大正時代から昭和初期に輸入されていたもので、編み上げ厚底の革靴に取り付けて滑走した。 | 2020-03-06 |
906 | | 建設中の鉄骨警鐘楼 | 昭和3(1928)年8月に屯所に鉄骨の警鐘楼を建築し消防内容は充実していった。写真は建設途中の様子。この鉄骨警鐘楼は戦争中に金属回収で撤去され、木製の火のみやぐらになった。 | 2020-03-06 |
907 | | 鉄骨警鐘楼 | 太平洋戦争末期になると、兵器にするため民間の鉄材を供出する運動があり、第一分団の屯所の上に建てられていた火の見やぐらも倒されて供出された。昭和18(1943)年金属供出で取り壊す前の記念写真。 | 2020-03-06 |
908 | | 健勝祈願ののぼり | 太平洋戦争中に出征軍人の武運長久を祈って幟を屋敷内に建てた。幟は諏訪大社宮司に書いて貰うのが多かった。神朝臣(かみあそん)守矢真幸敬書と見える。 | 2020-03-06 |
909 | | 記念写真 | 下諏訪学校。 | 2020-03-06 |
910 | | 製糸場風景 | 製糸場風景。煮た繭から生糸をとり、小枠に巻き取る機械、繰糸機(そうしき)の写真。工女は洋服を着ている。 | 2020-03-06 |
911 | | 大鯉 | 諏訪湖で捕獲された大鯉。昭和18(1943)年3月夜半に諏訪湖中心部の湖底の粗朶(そだ:木の枝のこと)にひそむ大鯉を友之町小口元雄が投網で捕獲。身長4尺(約1m20cm)、胴回り3.5尺(約1m05cm)目方8貫匁(約30kg)。 | 2020-03-06 |
912 | | 諏訪湖の漁業 | 沿岸の深さ2m位の湖中へ15~20㎝の角張った石を300~400個ほど入れて丸い塚のように積み上げ、冬ごもりに集まってきた魚を捕る漁法。ヤツカ量は冬の諏訪湖で欠くことのできない漁法だったが昭和40(1964)年代に漁場が護岸工事などで失われ、行われなくなった。諏訪湖ヤツカ漁、全盛期の写真。(ヤツカは屋塚・石塚とも書く) | 2021-03-24 |
913 | | キヨメ漁 | 氷下のキヨメ漁。刺し網の一種。地上のくもの糸やカスミ網のように水中に帯状に屏風のように立て横に長く張っておき、回遊してくる魚を網に絡ませたり、さしたりしてとる。網目の大きさによって捕る魚が異なるが、写真のキヨメの網目は1.5~4cm内外である。高さ50cm~1m、長さ12、3mの網を何枚か継ぎ足して張り、わかさぎ・はや・ひがい・もろ・あかうおを捕る。同じ網でも網目の粗いものは「タケタカ」といって鯉・大ぶな・なまずなどをねらった。 | 2021-04-04 |
914 | | 大門並木 | 大門並木、奥に下馬橋を望む。人力車と休息している車夫が手前に見える。 | 2020-03-06 |
915 | | 湯田坂 | 湯田坂、坂の下から写したもの、まだ昔の街道筋の雰囲気が残る。紐で子どもをおぶう婦人たちの姿が懐かしく見える。 | 2020-03-06 |
916 | | 湯田坂 | 湯田坂。道で遊ぶ子どもたち。坂の手前左に「産婆」「山田製靴店」の看板が見える。 | 2020-03-06 |
917 | | 塩尻龍権現社 | 立木種清作と伝わる塩尻市宗賀の塩尻龍権現社。立木種清(1832~1908)は下諏訪に生まれ、立川和四郎冨昌(立川流2代目)の弟子。数々の作品の中には国宝旧開智学校の登竜門や下諏訪学校の龍門なども手がけている。 | 2021-04-22 |
918 | | ナンバ | 諏訪湖周辺の湿田で昭和初めに、地下足袋、ゴム長靴の出るまで使用された。右が板ナンバ、左が桶ナンバ。泥沼のような水田での作業はいろいろ工夫された農具があった。素足で歩けないので板ナンバや桶ナンバと呼ばれるものも使用した。重い荷物は田舟にのせて運んだ。特に諏訪市の湖岸に多かった。 | 2020-03-06 |
919 | | 旧釜口水門 | 撤去工事の準備の始まった旧釜口水門。天竜川の始点であるこの水門「昭和7(1932)年に大洪水対策と疲弊農村救済策として着工、同11(1936)年3月完成した。幅7m・高さ3mの制水門7門・舟航路付き、総工費34万円だった」(信毎)。毎秒600トン放流可能な新水門の完成で役目を終えた。写真右端は平水路、左端は舟航路(閘門式)。№1125参照。 | 2020-03-06 |
920 | | 丸六製糸 | 丸六※製糸(片倉兼太郎)。湯田新町(旧ヤシカ跡・現ムトー工業)片倉組製糸の下諏訪製糸所。明治18(1885)年創業の井上善次郎工場を買収して、明治32(1899)年に創業、昭和18(1943)年軍需工場となり、昭和23(1948)年再開するも昭和30(1955)年ヤシカとなる。現在はムトー工業となっている。 | 2020-03-06 |
921 | | 森下製糸場 | 大正15(1926)年創業の森下製糸場。昭和3(1928)年当時20釜。矢木町森下氏宅。№1291参照。 | 2021-04-01 |
922 | | 吉澤製糸場 | 山永※吉澤製糸場。明治26(1893)年当時30釜。花咲町旧小松ガラス店隣。明治24(1891)年に吉澤金治が創業。 | 2020-03-06 |
923 | | 下諏訪共同施設 | 藤森今治氏が昭和9(1934)年に40釜で創業し、昭和16(1941)年に廃業した下諏訪共同施設。藤森今次氏は下諏訪町製糸協同施設組合長、後の諏訪信用金庫下諏訪支店長を務めた。 | 2021-04-01 |
924 | | 新井製糸場 | 富部新井製糸所。 新井喜多(喜助)。 | 2021-04-01 |
925 | | 岡谷製糸 | 岡谷製糸業(御田川製糸場)建物外観。明治16(1883)年岡谷市の小口善重が下の原中村平助製糸の休業のあとへ御田川製糸場を開業、大規模な繰業で「大器械」とも呼ばれ、二階建ての事務所に望楼を載せ村人はホテルとも呼んだとされるものとも推測できる。 | 2020-03-06 |
926 | | 製糸工場 | 堀内忠夫氏の製糸場。中央通り旧湖北工業跡、現フレール隣、大正8(1919)年創業の角ヤ※小口組製糸工場が昭和6(1931)年の大恐慌で倒産、その後青木村出身の堀内忠夫氏(後の町議会議長・商工会議所会頭)が引き継ぐが、昭和32(1957)年廃業。№1287と同じ写真。 | 2020-03-06 |
927 | | 白鶴社三井製糸 | 白鶴社三井製糸。久保山王台下現三井範義氏宅下大東社を経て信濃蚕業(現イングスシナノ)分工場となる。右奥には若宮神社の森、手前広場は既に三井製糸工場撤去の後。 | 2020-03-06 |
928 | | 日新社製糸場 | 日新社製糸場(林栄一)。後の山二笠原製糸場を経て日新工業(日新工業)となり、ギターの製造を行っていたが昭和 年火災により閉業現在町営御田町駐車場。奥の森は青塚その左は来迎寺。 | 2021-04-01 |
929 | | 昭和製糸場 | 曙町にあった製糸場。現高野接骨院隣、後の小口克郎氏の昭和製糸場。 | 2021-04-01 |
930 | | 真綿とり | 真綿は主に製糸に向かない屑繭(くずまゆ)を使って作られた。屑繭を煮沸し、開き、引き伸ばし、乾燥させたあと、布団や綿入れの着物に利用された。また真綿を太糸のように伸ばして織り、チョッキのように防寒用に用いられた。真綿とりの様子。 | 2020-03-06 |
931 | | 昭栄製糸 | 明治42(1909)年創業の昭栄製糸(小口竹吾)。昭和3(1928)年当時743釜。大正9(1920)年第一次大戦後の恐慌、大正12(1923)年関東大震災、昭和4・5年世界的大恐慌等が製糸業へ大打撃を与える。やがて山十組は破綻、営業の継続を依頼会社整理の抵当権者(安田銀行)がバックアップ、昭和6(1931)年山十※組下諏訪製糸が昭栄製糸となった。その後、昭和32(1957)年、下諏訪町の工場誘致により跡地に三協精機(現日本電産サンキョー)が上諏訪より誘致された。
煙突と煙突の間の森は下社秋宮。 | 2021-04-01 |
932 | | 座繰共同組合施設 | 座繰共同組合施設(平沢町青雲館北)。明治13(1880)年三井、増沢、岩本、岩波、小口が共同繰糸(揚返)所「白鶴社」を創設(現下社秋宮社務所)明治21(1888)年平沢町(現)青雲館北へ移築。なお製糸共同組合白鶴社(共同出荷=揚返)は明治9(1876)年創始の組合で、明治29(1896)年12月23日の信濃毎日新聞には「・・・本年信州にて売上頭は白鶴社となり・・・」と記載されており、町内の七曜社・開栄社ととも製糸業を支える働きをしていた。 | 2020-03-06 |
933 | | 山田製糸場 | 大正13(1924)年創業の山田製糸場。昭和3年当時20釜。 | 2021-04-01 |
934 | | 四王製糸場 | 大正7(1918)年創業した入一組山二製糸場。昭和3(1928)年当時410釜。大正12(1923)年南四王(現イオン跡地)に四王製糸場(入一※組分工場)として建設後に昭栄製糸場となる。現在のイオン下諏訪店の位置にあった。 | 2021-04-01 |
935 | | 座繰協同組合施設 | 明治13(1880)年三井・増澤・岩本・岩波・小口氏等が共同揚返(あげかえし)所「白鶴社」を創立(現下社秋宮社務所)、その後明治21(1888)年平沢町青雲館北へ移築された時の写真。 | 2020-03-06 |
936 | | 製糸工場 | 岡谷。製糸関係の建物。 | 2020-03-06 |
937 | | 天然氷の採氷 | 明治39(1906)年12月下諏訪町に諏訪湖天然氷株式会社が創立。手前が採氷作業、向うの湖岸は積み上げてある氷を農家の若者が山車へ満載して下諏訪駅近くの大氷庫へ運ぶところ。溶けない氷として送出先の氷水屋・病室用に喜ばれたが、大正中ごろまでには人造氷の出現で惜しくも衰退した。 | 2020-03-06 |
938 | | 諏訪湖の漁業 | 沿岸の深さ2m位の湖中へ15~20㎝の角張った石を300~400個ほど入れて丸い塚のように積み上げ冬ごもりに集まってきた魚を捕る漁法。「ヤツカ漁」は冬の諏訪湖で欠くことのできない漁法だったが昭和40(1964)年代に漁場が護岸工事などで失われ行われなくなった。諏訪湖のヤツカ漁、全盛期の写真。(ヤツカは屋塚・石塚とも書く) | 2020-03-06 |
939 | | 諏訪湖の漁業 | かぶせ網漁法の一つ、投網をうつ。諏訪湖の投網は使用する場所や漁獲する魚によって大きさや網の目等が異なり種類が多い。また一人でうつ・仲間と集団で追いうちをすることもある。 | 2020-03-06 |
940 | | 舟止場 | 舟泊まりにつながれている漁舟。 | 2020-03-06 |
941 | | 諏訪湖の漁業 | 貝掻(か)き。淡貝(からすがい)をかく漁具を諏訪湖では「貝かき」と呼ぶ。諏訪湖で取れる貝は蜆(しじみ)・淡貝(からすがい)・たにしなどだが漁獲は蜆が圧倒的に多い。貝かきの道具は蜆じょれんよりやや大型のもの。 | 2021-04-21 |
942 | | 諏訪湖の漁業 | 流し針漁。諏訪湖には「流し針」と呼ぶうなぎ漁があった。これは海で行われる「はえなわ」と同じ仕組み。夕方針を流し、翌朝未明にあげるが、流す時刻・水温・場所・により成果は左右された。えさはみみず・ひる・しったか(アブの幼虫)・おけら・やごめ(とうくろ)など様々。 | 2021-04-15 |
943 | | 諏訪湖の漁業 | えび押し漁。藻草の中にいる小エビを専用の道具使う漁法、片手押しと両手押しがある。 | 2021-04-21 |
944 | | 諏訪湖の漁業 | 出格子(でごうし)漁。諏訪湖では「ろうや」のことを出格子と呼んでいる。ねらう魚種により大きさや目の巾やつくりが異なる。漁師の手作りなのでそれぞれが工夫を凝らしていた。 | 2020-03-06 |
945 | | 出征兵士を送る | 出征兵士を送る下諏訪駅の風景。 | 2020-03-06 |
946 | | 下諏訪駅 | 明治38年11月25日、中央東線が富士見駅から、岡谷駅まで開通する。この時、鉄道開通祝賀式挙行の案内状が、22日鉄道開通式委員総代小口友亀の名で発送され、25日午後1時10分下諏訪停車場構内で、祝賀式が挙行され、終わって有志の園遊会があった。写真前列の中央が、小口友亀氏である。下諏訪駅前での記念撮影。 | 2020-03-06 |
947 | | 赤砂飛行場 | 赤砂飛行場。飛行機の周りに人々が集まっている様子。昭和3(1928)年1月、諏訪飛行協会を結成。3月に格納庫ができる。4月6日藤森飛行士が赤砂に着陸、翌4(1929)年には、複葉機で郡内を飛ぶなどした。
赤砂飛行場は大正11(1922)年に造られた「臨水園」という公園に誕生し、格納庫が作られ、約300mの舗装されていない滑走路があった。飛行機は写真にあるように複葉のプロペラ機で、片山、藤森、井上、篠崎という四人のパイロットがいたという話が残っている。 | 2020-03-06 |
948 | | 落合発電所 | 落合発電所。明治33(1900)年10月工事が竣工し送電(60キロワット)事業を開始した。この後明治36(1903)年には増築し、60キロワット発電機をもう1台増設している。写真は明治33(1900)年に竣工した発電所である。増設した発電者は№612参照。 | 2020-03-06 |
949 | | 郵便局 | 下諏訪郵便局は、明治5(1872)年岩波家(本陣)に郵便取扱所が置かれ、明治25(1892)年には友之町上(旧下諏訪警察分署の右手前)の増沢市郎兵衛氏宅へ、明治39(1906)年には立町(旧派出所左前)へ移り、その後大正5(1916)年に大社通りに移転、昭和25(1950)年には広瀬町の下諏訪駅前に、そして現在は栄町に移転した。
友之町今昔の地図を見ると、奈良屋小路(鎌倉街道)奈良屋の隣に郵便局があったことがわかる。 | 2020-03-06 |
950 | | 製糸工場 | 天竜川畔製糸工場群。 | 2020-03-06 |
951 | | 山岡氏 | 山岡操氏。製糸を始めた富部(十区)の士族。 山岡家には立派な屋敷図と城壁のような石垣が残っている。また山岡氏は明治6(1873)年3月に大小区政が敷かれた時、第十三大区小五区の戸長も務めた。 | 2020-03-06 |
952 | | 運送馬車 | 荷馬車による配水管の運搬。
昭和2年注連掛付近にて写す。 | 2020-03-06 |
953 | | 御柱祭 | 御柱祭、山出しの様子。 | 2020-03-06 |
954 | | 御柱祭 | 御柱祭、山出しの様子。 | 2020-03-06 |
955 | | 御柱祭 | 御柱祭、山出しの様子。 | 2020-03-06 |
956 | | 御柱祭 | 御柱祭、山出しの木落とし坂の様子。 | 2020-03-06 |
957 | | 御柱祭 | 御柱祭、山出しの木落とし坂。 | 2020-03-06 |
958 | | 御柱祭 | 御柱祭、御騎馬行列。警護にあたる消防団の法被に「第一分団」の文字、第一区の御騎馬。 | 2020-03-06 |
959 | | 御柱祭 | 御柱祭、秋宮鳥居前で御騎馬勢ぞろい。 | 2020-03-06 |
960 | | 御柱祭 | 御柱祭、多くの長持ちが見える、後ろ向きの男性の法被に岡谷の文字が見える。 | 2020-03-06 |
961 | | 御柱祭 | 御柱祭、里曳きの神賑わいの長持ち。女装をして担いでいる。長持ちに「一之宮御用」「小口」の文字が見える。 | 2020-03-06 |
962 | | 御柱祭 | 御柱祭。「オーシャンウイスキー」「たばこ」の看板、バスには「岡谷駅」の文字も見える。後ろ姿の男性の法被に「岡谷」の文字。服装はみな洋装、和服は少し年齢の高い女性が着ている。 | 2020-03-06 |
963 | | 御柱祭 | 御柱祭。左端に「奈良屋・・・」と読める看板。福ダルマに仮装した長持衆。 | 2020-03-06 |
964 | | 御柱祭 | 御柱祭。「平野消防組・小口郷小頭」の文字の法被姿の男性が見える。子どもたちは絣の着物姿。 | 2020-03-06 |
965 | | 御柱祭 | 御柱祭。おかめのまわりには御弊がたくさん飾られている。長持ちの箱には油単(ゆたん)はかけられていない。 | 2020-03-06 |
966 | | 御柱祭 | 御柱祭。「平野消防組・小口郷小頭」の文字が法被から読み取れる。長持ちに「一宮御用」の文字が見える | 2020-03-06 |
967 | | 御柱祭 | 御柱祭。坂道沿いに提灯などが飾られている。 | 2020-03-06 |
968 | | 御柱祭 | 御柱祭の風景。長持ち衆。富部長持ではないか?衣装・白塗りが雲助長持ちに見える。 | 2020-03-06 |
969 | | 御柱祭 | 御柱祭の風景。民家の二階に「中村七五郎休憩所」の看板。家の前には長持ちが置いてある。ちょうちんに「今井」の文字。 | 2020-03-06 |
970 | | 御柱祭 | 御柱祭。里曳きの長持衆。 | 2020-03-06 |
971 | | 御柱祭 | 御柱祭。神賑わいに「かごや」が出ている。 | 2020-03-06 |
972 | | 御柱祭 | 御柱祭の風景。 | 2020-03-06 |
973 | | 御柱祭 | 御柱祭、秋宮一之柱の建て御柱の様子。 | 2020-03-06 |
974 | | 御柱祭 | 御柱祭。御柱の前で記念撮影。長持ちの人たちか。№1252の長持を担ぐ人物と同じ人物も写っている。 | 2020-03-06 |
975 | | 御柱祭 | 建御柱。 | 2020-03-06 |
976 | | 御柱祭 | 御柱祭、秋宮一の建て御柱、右に神楽殿、御柱の向うに狛犬が見えるが、現在とは形が異なることから供出前のものと思われる。 | 2020-03-06 |
977 | | 御柱祭 | 御柱祭。山出し、木落し坂から注連掛へ向かい、砥川落合橋付近? | 2020-03-06 |
978 | | 御柱祭 | 御柱祭里曳き・建御柱、和装(着物姿)髪の毛を結った女性たち、祭り支度の男性の姿も。 | 2020-03-06 |
979 | | 昔の岡谷 | 昔の岡谷。「奉祝」のパレードか。軍服を着てラッパや太鼓を演奏しながら行進している。 | 2020-03-06 |
980 | | 昔の岡谷 | 昔の岡谷。「奉祝」と書かれたちょうちん。
写真の年代が不明なので何の奉祝かわからない。 | 2020-03-06 |
981 | | 昔の岡谷 | 昔の岡谷。入山の倉庫。 | 2020-03-06 |
982 | | 昔の岡谷 | 昔の岡谷。前列の女性たちの袴のすそに白線二本がある。この二本線の入った袴について、今井久雄著「村の歳時記(三)」には、「工場の準制服ともなっていて」という記述があり、さらに「この袴をはく娘は寄宿舎の部屋長や養成工の教婦など指導的立場にいる娘たち」と書かれている。写真には説明がないのではっきりしないが、この本の記述は参考にできると思われる。 | 2020-03-06 |
983 | | 売り工場 | 昔の岡谷。売り工場「売り(貸)工場、土地9.938坪・建物4.196坪、お問い合わせの方は当事務所までお出で下い」と書かれた看板。壁の向こうは、満開の桜。 | 2020-03-06 |
984 | | 昔の岡谷 | 昔の岡谷。バス。 | 2020-03-06 |
985 | | 繭籠の垣根のある風景 | 繭籠で作った垣根(当時繁盛していた製糸工場の県外より生繭を輸送する繭籠で囲いの塀にしたもの)のある風景。 | 2020-03-06 |
986 | | 岡谷駅 | 昔の岡谷、岡谷駅。 | 2020-03-06 |
987 | | 朝日公園から岡谷市街地を望む | 昔の岡谷の市街地と製糸工場。諏訪湖と天竜川が見え、岡谷の市街地には黒い煙をあげる煙突が林立し、間に繭倉も見える。撮影は山手町の高台あたりからか、山の斜面は桑の木で埋め尽くされている。 | 2020-03-06 |
988 | | 花岡公園から岡谷市街地 | 昔の岡谷 花岡山(花岡公園)から天竜川越しに林立する製糸工場を望む。手前下に天竜川、びったら橋が見える。天竜川の向こうは岡谷の製糸工場群、千本煙突から煙が登るり、4層の繭倉群も見える。 | 2020-03-06 |
989 | | 女工さん | 製糸工場の女工さんたち。若い女性に混じって後方に年配の女性も見える。きものの柄に年齢差が見える。
下の写真は帯を締め羽織も着ていることから工場の休みの日の撮影か(後ろに見えるのは揚げ返し場)。 | 2021-04-21 |
990 | | お舟祭り | 大正から昭和初期のお舟祭の柴舟と胴棒が見える。
大人も子どもも着物を着て祭りに来ている。
右手の建物は青雲館。 | 2020-03-06 |
991 | | お舟祭り | お舟祭。そろいの格子柄の長持ち衣装を着た人々。長持ちの箱には下社の神文(カジノ葉)をあしらったもの(下社のカジノ葉は根の部分が5つ)見える。 | 2020-03-06 |
992 | | お舟祭り | お舟祭、長持ちに「一宮御用 小口」の文字。そろいの法被はみな丈が長い。 | 2020-03-06 |
993 | | お舟祭り | お舟祭の風景。右手の建物に旗がたち長持ちや和服姿の人が見える。 | 2020-03-06 |
994 | | お舟祭り | お舟祭。春宮下馬橋より少し下がったあたりを曳いている。(写真)左上に下馬橋の屋根が見える。曳き綱の先の細い綱が氏子の人々の間から見える。当時の人々の服装がよくわかる。 | 2020-03-06 |
995 | | お舟祭り | お舟祭。「来八月一日午後一時より執行遷座祭並例祭・官弊大社諏訪神社社務所」の立て看板が見る。 | 2020-03-06 |
996 | | お舟祭り | お舟祭。大正5(1916)年12月12日に諏訪神社が官幣大社に昇格したときの標柱が見える。このころはまだ参道は石畳であったことがわかる。
「写真が語る下諏訪の百年」117pの写真と同じころの撮影と思われる。 | 2020-03-06 |
997 | | お舟祭り | 8月1日の遷座祭、長持の列がねり歩く、お舟祭。民家の屋根は鉄平石をふいたり、石置き屋根が多い。 | 2020-03-06 |
998 | | 出征兵士を送る | 出征兵士を送る。壇上には出征兵士、手前には多くの少年少女が整然と並んで見送る様子も見える。 | 2020-03-06 |
999 | | 出征兵士を送る | 出征兵士を送る。下諏訪駅ホームの様子。 | 2020-03-06 |
1000 | | 出征兵士を送る | 秋宮境内、沢山の幟旗が立つ、出征兵士を送る光景。15年戦争(満州事変・日中戦争・太平洋戦争)で戦死した町民は533名と記録がある。(町政要覧より) | 2020-03-06 |
1001 | | 飛行訓練 | 飛行機の機体下にロープが見える。水上からの離発着を試みているようだ。湖での飛行訓練。
昭和3(1928)年1月、諏訪飛行協会を結成。3月に格納庫ができる。4月6日藤森飛行士が赤砂に着陸、翌4(1929)年には、複葉機で郡内を飛ぶなどした。 | 2022-05-21 |
1002 | | 飛行訓練 | 湖での飛行訓練。昭和3(1928)年1月、諏訪飛行協会を結成。3月に格納庫ができる。4月6日藤森飛行士が赤砂に着陸、翌4(1929)年には、複葉機で郡内を飛ぶなどした。 | 2021-12-26 |
1003 | | 赤砂飛行場 | 赤砂飛行場。昭和3(1928)年1月、諏訪飛行協会を結成。3月に格納庫ができる。4月6日藤森飛行士が赤砂に着陸、翌4(1929)年には、複葉機で郡内を飛ぶなどした。 | 2021-12-26 |
1004 | | 赤砂飛行場 | 赤砂飛行場。昭和3(1928)年1月、諏訪飛行協会を結成。3月に格納庫ができる。4月6日藤森飛行士が赤砂に着陸、翌4(1929)年には、複葉機で郡内を飛ぶなどした。 | 2020-03-06 |
1005 | | 小料理屋 | 御田町にあった料理や「や寿た」(やすだの表記)の建物。昭和24年の町勢要覧(ほがらかお料理やすだの広告)。1970年の商工名鑑飲食店にも店の名が載っている。
場所は衣文坂ジュミー美容室隣、道路を挟んだ御田町寄りにあった。 | 2020-03-06 |
1006 | | 鉄鉱泉本館 | 夜の湯田坂かいわい。名湯旦過の湯を中心とした、旧中山道筋の一角。かつては坂下に温泉旅館が並び、しっとりとした湯の町風情がただよっていた。このあたり、製糸業の全盛期には芸妓置屋が軒を連ね、脂粉の香ただよう街だった。写真は今も旅館業を営む創業が明治初頭の「鉄鉱泉本館」。 | 2020-03-06 |
1007 | | 野沢商店 | おせち料理の買い物客で賑わう食品スーパー野沢商店の店先。 | 2020-03-06 |
1008 | | 川村商店 | 店の先には正月を目前に注連縄がはられ、店頭には割引の値札も見え、年の瀬の風情が感じられる。川村商店の店先。 | 2020-03-06 |
1009 | | 砥川河口の橋 | 完成した砥川河口橋。橋の右岸(写真左手)にはわかさぎの孵化場がある。当時は左岸に町営プールがあり、その北側にはホテルが3社あった。この橋は湖岸管理道路としての架橋で幅6メートル、長さ32メートル。これに伴い湖岸約1.7キロメートルに高さ1メートルの築堤が始まった。その後この一帯は、赤砂崎公園として多目的グラウンドや多目的広場、ヘリポートなどに再整備されている。 | 2020-03-06 |
1010 | | 牛山家住宅 | 玄関左手に出っ張りの馬屋のある旧豪農の曲がり屋の牛山氏宅。かつては村きっての大百姓で名主も務めた家。江戸末・文政期間(推定)の建物で昔は茅葺だった。馬屋を抱え込んだ曲り屋は諏訪地方では珍しい。玄関右手はお役人を迎えるための「お座敷」と呼ぶ12畳間・8畳間。 | 2020-03-06 |
1011 | | 町の教会 | 「下諏訪キリスト教会」教会堂のクリスマスイブの昼餐会。 | 2020-03-06 |
1012 | | 市民新聞社 | 地域紙「市民新聞」下諏訪支局のスタッフ。昭和23(1948)年創刊の「岡谷市民新聞社」が翌年から「下諏訪町民新聞」を発行した。昭和46(1971)年から写真写植によるオフセット印刷に移行した。日刊紙でこの方式を採用したのは県下初、全国的にも先駆的な転換だった。 | 2020-03-06 |
1013 | | 町の教会 | 町中の小さな教会堂。昭和51(1930)年に信者によって建てられた。急傾斜の屋根の切妻造り、側面に濡れ縁がつくというコロニア風の外観を持つ木造建築。「日本基督教団下諏訪桜町教会」と称されてきたが、昭和63(1988)年単立の「下諏訪キリスト教会」となった。このころ信者は約30世帯だったという。 | 2020-03-06 |
1014 | | 入一通信 | 入一(いりいち)通信(株)の洋館風の事務所。前進は明治43(1910)年発足の入一組製糸所。そのまた前身は明治34年創業の入○(イリマル)組製糸所。最盛期の大正10(1921)年は1150釜と町内きっての大手工場となり、茨城・静岡と町内に分工場を持っていた。太平洋戦争中製糸技術を生かして通信機用コイル・トランスの生産に転換した。 | 2021-04-01 |
1015 | | ㈱マルシメ | マルシメ縫製工場、型紙とりの作業と縫製工程の様子。 | 2021-03-27 |
1016 | | 星ヶ塔遠望 | この国の先史時代を支えた黒曜石原産地の大遺跡星ヶ塔(ホシガトウ)山の全容。黒曜石は火山岩の一種でガラス質で割れ口が鋭利なため石やり・矢じりなどに使われた。中央の窪地が先史時代の黒曜石採掘跡。先土器時代(旧石器時代を含む)から縄文晩期まで2万年以上にわたって掘り続けられた遺跡。旧陸軍の地図にはカタカナで表記されていた。 | 2020-03-06 |
1017 | | 新短歌の歌人 | 新短歌の歌人光本さん。この年新短歌連盟賞を受けた。アララギ王国の諏訪にあって新短歌信濃支部を設立、松本・岡谷に歌会を持ち駆け回っている。鳥取県出身、歌集に「薄氷」「素足」などがある。「未来山脈」主催。 | 2020-03-06 |
1018 | | ㈱マルシメ | 株式会社マルシメ 製糸王国の名残り、絹紡糸の原料(ペニー)製造工場。製糸工場で出る手くず(くず繭)を精錬してラップからペニーにする。。大正2(1923)年創業のこの会社、戦後は縫製部門の方が主力になっているがペニー製造の灯も守っていた。 | 2021-03-27 |
1019 | | デイバイデイ岡谷店 | 町の西南部、土地区画整理事業で昭和51(1975)年に開通した幹線道路沿いに進出した山梨県竜王町に拠点を置く新手の安売りチェーン店デイバイデイ岡谷店が開店。諏訪圏では2店目、。家電・日用品・スポーツ用品などが売られていた。 | 2020-03-06 |
1020 | | 郵便局の窓口 | 郵便局の窓口風景。年賀状整理のためこの日から高校生アルバイトが就労した。この年の年賀状引き受け数は76万700通・同配達は74万7700通でほぼ前年並みだった。 | 2020-03-06 |
1021 | | 彩美堂 | 画材屋さんの新店舗。自家所有のりんご園を転用したので、敷地は1650㎡とたっぷり。曲線と曲面を強調する建築デザインは近年の流行だった。 | 2020-03-06 |
1022 | | 彩美堂の新店舗 | 彩美堂の新店舗と客とオーナーさんご夫妻。自家所有のリンゴ園を転用した画材屋さんの新店舗の中。敷地は1,650平方メートルで、曲線と曲線を強調する建築デザイン。 | 2020-03-06 |
1023 | | 小川屋はきもの店 | 小川屋はきもの店。「下駄屋さん」の面影をとどめる履物屋さん、岡谷の履物店で修業し、22歳で独立したという店主(54歳)、「流通革命の中で商売厳しいですよ」とぼやきながらも、安売り逆攻勢でがんばっていた。 | 2020-03-06 |
1024 | | 下諏訪町役場住民課 | 町役場住民課窓口。住民記録(住民登録)と印鑑証明の業務は、前年4月から諏訪広域情報センターとオンライン化されている。この年は印鑑登録のI.Dカード化が行われた。 | 2020-03-06 |
1025 | | カワヤナギの並木 | 昔の諏訪湖の汀線に自生したカワヤナギの並木。この辺りは埋め立て前は「ヨナ」などの小魚が遊ぶ美しいなぎさだったという。「ヨナ」はトンコよりやや小さく体長が2cm位の細長い魚。並木の北側にジャンボ滑り台が見えるのは「みずべ公園」。天候がよければ八ヶ岳の裾に富士山が見え、時間によっては湖上で練習に励むボート選手の姿も見える。 | 2020-03-06 |
1026 | | 友の町商店街 | 国土20号線沿いの商店街小景。町北部の製糸業時代からの古い商店街で地元客が相手の店。プディックもややおとなしい感じのドレスが並んでいる。洋服の「はらだ」。 | 2020-03-06 |
1027 | | 木の下町の民家 | 木の下町の民家。秋宮側から綿の湯方面を望む。右手に「新鶴本店」の看板が見える。甲州道中はここで江戸から53里11丁、辻を左折れすれば京に向かう中山道、まっすぐ進めば中山道を春宮に向かい、さらに和田峠を越えて和田宿から江戸につながる。江戸時代は下諏訪宿の中心地だった。 | 2020-03-06 |
1028 | | 県道岡谷・下諏訪線 | 湖に近い新開地の県道。いわゆる「ジャスコ通り」。湖畔の美田地帯が土地計画事業で生まれ変わった。20m幅の県道沿いに大型店が進出し、この地方でも指折りの商店街に成長した。 | 2020-03-06 |
1029 | | 注連縄作り | 下の原注連縄作り講習会の風景。正月をひかえ注連縄つくりの講習会が行われた。ふるさとの民俗を残そうと区の公民館主催でこの催しが毎年続けられている。 | 2020-03-06 |
1030 | | 武居公会所 | 完成した武居公会所。武居には集会場がなく役員の家を使用してきたが、明治40年代に薬師堂を建て増しし、薬師堂兼集会場になっていたものをこの年に建て替えて武居公会所となった。薬師堂はもともと外御霊戸社脇から天保12(1841)年に茅葺2間で現在地に移されていたもので、享保元(1716)年以前のものと言われている本尊薬師如来が安置されている。あわせて脇持仏の日光・月光菩薩・十二神将・百万遍の数珠などが保存されている。 | 2020-03-06 |
1031 | | 内御霊戸社 | 諏訪大社の祭事にあたっては内御霊戸社(うちみたまどしゃ)次に外御霊戸社(そとみたまどしゃ)そして御室社(みむろしゃ)を巡拝した後、本社を拝する習わしとなっている。この写真は内御霊戸社。 | 2020-03-06 |
1032 | | 和風レストラン | 当時湖岸通りに開店した和風レストラン元庄屋諏訪店。松本に本拠をもつチェーン店の諏訪進出第一号店。現在は閉店し上諏訪に支店がある。 | 2020-03-06 |
1033 | | 立町温泉洗濯場 | 湯の町へ登る坂の中間、細道を入った裏町にある「温泉洗濯場」。近くの「初音源湯」から湯を引き、四つの町内にまたがる83戸が組合を作り維持している。年会費1000円、貯湯タンク(上)を設けてあるので蛇口の湯量を調節できた。湯の町でもこのような施設はここだけだった。 | 2020-03-06 |
1034 | | ジョギングロード | 完成したジョギングロード。埋立地の町道湖岸通り線を5憶3200万円かけて改良した。3m幅のジョギング道・緑地帯・車道・並木・自転車・歩行者道という構成でで22m、道路は整備された。 | 2021-04-01 |
1035 | | 舟道 | 富部地区に残っていた舟道と漁業者の家。山の手を通る甲州街道から高まま(高浜)の入り江の舟止(ふなと)へ降りる舟道が通じ、これにそって半農半漁の村が形成されていたのだが、舟道も旧国道20号線(手前の道)と鉄道で断ち切られ、漁業もすっかり衰えて、平成元(1989)年には、昔の面影が残るのもこの家くらいしかなくなってしまった。この写真では船道は建物に向かって右の小路にあった。№1133参照。 | 2020-03-06 |
1036 | | 旧社東町公民館 | 旧下諏訪製糸共同病院の本館を昭和2(1927)年12月に買収移転した地区公民館(神明館)。現在の社東町付近は、砥川と十四瀬川に挟まれ、特に砥川と福沢川の合流地はたびたび洪水に見舞われてきたので、古くは「流れ」がそこの通り名であったという。明治以後徐々に人が住みはじめ、旧中山道の北に新道が通ったり、河川改修工事などが進み、人家が増加した。昭和33(1988)年に岡谷市から下諏訪町に合併して第八区となった。 | 2020-03-06 |
1037 | | 十四瀬川河口 | 十四瀬川河口付近の諏訪湖畔。写真正面の船着き場の横に、大正14(1922)年平野村(現岡谷市)小井川部校4年生3名がこの地で遭難したのを慰めるために建立された延命地蔵が祀られ、湖畔を温かく見守っている。 | 2020-03-06 |
1038 | | 大社煎餅 | 師走を迎えた大社門前町。煎餅を売る店を訪れた観光客。旧町役場(すわのね)とお土産物屋(観光案内所)のとんがり屋根が、冬空に好対照を見せていた。 | 2020-03-06 |
1039 | | 星ヶ丘温泉掘削起工 | 町の温泉開発第四号井起工。空中探査で山の手の住宅団地内に掘削地を選定、1300mの深井戸を一億1800万円かけて掘ることになった。これに続き町内の建設会社が、国道和田峠線沿いでボーリングに着手、この年町内で4本の温泉井が掘られた。 | 2020-03-06 |
1040 | | 井口新社屋 | 商事会社の新社屋が竣工。ガソリンスタンドやホテルなどを経営する会社が、木造事務所を改築した。曲面を生かした設計である。 | 2020-03-06 |
1041 | | 二年詣り | 諏訪大社の二年詣り。午後11時頃から人手が急に増え12時近くには、境内は身動きできない人波で埋まった。やがて元旦午前零時、地元有線テレビのサービスによる時報が響くと、わあーっという歓声が上がり、お賽銭の雨がとんだ。 歓声を上げて賽銭を投げる人たちの様子。 | 2020-03-06 |
1042 | | 釜洞商店 | 辻の八百屋さん、正月を迎える準備も整う。御田町通りの角にあるこの店、製糸全盛時代には、わらで焼くおいしい焼き芋で人気を集め、近くに並ぶ大手製糸工場の工女たちの買い物でにぎわったものだという。店の軒先に、新年を迎える七五三(しめ)が飾りつけられている。道の向こう側は本屋さん(三澤屋書店)。№1154参照。 | 2020-03-06 |
1043 | | 和菓子屋さん | 賃餅(ちんもち)の注文殺到で大忙しの和菓子屋さん、餅つきも機械化で大量の注文をこなすことができる。この年の賃餅料は一升900円(切賃300円)。正月用のもちは28日に搗く家が多いが、サラリーマン家庭などでは家で搗く時間的なゆとりがないとあって、賃餅に出す家が年々増えてきていた。さらに現代にあっては、スーパーなどに出来合いの鏡餅や袋入りの餅が大量に並ぶ。 | 2020-03-06 |
1044 | | 黒曜石採掘 | 和田峠は我が国の代表的な黒曜石の産地で良質の原石を出すことで知られている。
先史時代から採掘されていた。
写真上は、星ケ塔黒曜石原産地遺跡の黒曜石採掘坑道(旧式)。
写真下は新式の黒曜石採掘坑道。 | 2020-03-06 |
1045 | | 黒曜石の焼却炉 | フヨウライト焼却炉(旧型)。
矢じりやナイフとして使った黒曜石。でもそれは1万年以上も前のことです。今では装飾品や置き物などが一般的に親しまれています。
この会社(芙蓉パーライト株式会社)では、世界的に良質な長野県和田峠産の黒曜岩を用いて、現代科学と独自の技術で開発に取り組み、石を高温で焼き発泡させたもの(パーライト)を、【建築資材】【緑化資材】【環境資材】【土壌改良材】など、広い分野に展開し製品化しています。 | 2020-03-06 |
1046 | | 三協精機 | 三協体育館で行われた、精密電子メーカー「技術交流プラザ・技術成果展」会場。一番人気は「絵描きロボット」だった。
三協精機は、昭和21(1946)年当時の北澤工業に勤めていた3人により下諏訪町に三協精機製作所として創立した。かつてはオルゴールのムーブメント製造が看板事業で、一時は世界のオルゴールムーブメントシェア80%を誇った。しかし、現在は、本体としては同事業からは撤退し、子会社の日本電産サンキョーオルゴール株式会社で取り扱っている。
平成15(2003)年に業績不振から日本電産株式会社傘下入りを発表し、社名も日本電産サンキョー株式会社となった。 | 2020-03-06 |
1047 | | 黒曜石採掘 | 黒曜石採掘の切羽。マタギの里として知られる秋田県から働きに来ている作業員が、削岩機で手堀している。日採堀量は約60㎥という。坑道の総延長は15kmに及ぶ。掘り出された原石はフヨーライト(軽量断熱、防湿、防音建材)・ビーナスライト(造園用緑化用土壌改良剤)の商品名で出荷されている。日出荷量は約二百立方メートル。和田峠は、わが国の代表的な黒曜石の産地で、原石を出すことで知られる。先史時代から採掘され、近代に入ってからは、大正時代から工芸品の材料として利用されたが黒曜石パーライトの工場ができたのは昭和45(1970)年。その後、昭和48(1973)年からは大手資本が入ってフヨーライトの工場となった。 | 2020-03-06 |
1048 | | 横町の新築住宅 | 旧宿場町、横町の新築住宅。旅館の建物を取り壊した跡地に、宿場の雰囲気を残した鉄骨造三階建て住宅が新築された。 | 2020-03-06 |
1049 | | 東山田の辻 | 「蚕神」碑「道祖神」、「庚申碑」が並ぶ村の辻。養蚕が盛んだったj頃は、蚕は暮らしを支えるものとして「お蚕さま」と呼ばれていた。東山田地区は旧長地村。諏訪大社春宮とのつながりが深く、下社五官がこの里に住んだ時代もあった。古くは、正面に登る道は「人棺小路」と呼んでいたらしい。(葬列が通った道のこと) | 2020-03-06 |
1050 | | シクラメン栽培 | 町内で初めて出荷用のシクラメンンの栽培風景。この年の春退職した元農業高校長老後の仕事にと、専門知識を生かして始めた。こうれいちのすわちほうは、ユリ、カーネーション、リンドウなどの栽培が盛んだが、当時はシクラメンは珍しかった。115平方メートルのガラス温室、温度調節は全自動で約400万円かけたという。出荷鉢は一鉢200~3000円ぐらいだった。 | 2020-03-06 |
1051 | | 役場屋上からの風景 | 役場屋上より四王方面を望む。 | 2020-03-06 |
1052 | | 屋敷神 | 甲州街道中高木村にあった政屋(橋本屋)の屋敷神。明治18(1885)年上諏訪新道(国道20号)の開通までは料理も出し営業していた甲州道中の道中茶屋として栄えていたが廃業。一時ユースホステルにもなっていた。 | 2020-03-06 |
1053 | | 釜洞商店 | 辻の八百屋さん。御田町通りの角にある店。製糸全盛時代には工女たちの買い物で賑わっていた。№1167参照。 | 2020-03-06 |
1054 | | 菅野温泉 | 市街中心地にある区営温泉「菅野温泉」の入り口。表通り(国道142号線)からトンネルのような通路を経て湯に至るあたり、独特の雰囲気が漂う。坂の上にある財産区の浴場とは違って、第三区という平地部の地区が、近代製糸業が盛んになり始めた明治18(1885)年、財産区から湯をひいて、秋宮の参道・八幡坂の坂下に開設した。このあたり一帯を古くから友の町といい、昔は下諏訪宿の外れだったが、このころは町の北部地区を代表する商店街になっていた。 | 2020-03-06 |
1055 | | 長岡川魚店 | 湖魚の店。鯉のうま煮・まる揚げ・丸煮・鮒の甘露煮・唐揚げ・雀焼き・かぶと焼き・とんこの佃煮・ウナギのかば焼き・・・にぎやかな品揃えで町民に親しまれていた。昭和31(1956)年鯉池の経営者が小売店として開店した長岡鯉店。 | 2020-03-06 |
1056 | | 旧武居祝邸 | 旧武居祝邸。武居祝は金刺氏滅亡後下社の神事を引き継いできた。近くには武居恵比寿社、内御霊戸社、外御霊戸社、御室社、八坂社などの社があり、諏訪大社や武居祝とのつながりが見られる。また、武居祝の屋敷地跡には、邸内に湧き出ていたといわれる清水の跡や、馬小屋があったといわれる場所、大広間のあった母屋跡、宝蔵跡、稲荷社などを訪ねて歩くことができる。 | 2020-03-06 |
1057 | | 郊外パチンコ店 | 湖畔のパチンコ店。この日「新台入れ替え」で大入りだった。この店、この春全面改装し店名も変わった。 | 2020-03-06 |
1058 | | 広和プレス | 従業員27人の下請け工場。プリンタや磁気ヘッドの部品、精密金型などを手掛け、QCによる品質保証体制をとっていた。小さな町工場で金型技術の修業をした社長(当時49)が26歳の時「自分の腕を試したい」と独立した(有)広和プレス。「より高度な制度を追求」するためのNC機械や三次元測定具などの設備を取り入れている。 | 2020-03-06 |
1059 | | 人力車の花嫁と花婿 | 大社での神前結婚式へ人力車で向かう花嫁と花婿(山王台)。秋宮外苑のホテル(山王閣・現在は無い)が下社秋宮で挙式するカップルの送迎用に購入した。 | 2020-03-06 |
1060 | | 木村氏 | 俳誌「夏爐」の発行所。諏訪湖畔四王の里の自宅で来客と話す俳人木村蕪城氏。虚子直門の一人。鳥取県の生まれだが縁あって信州に住むことになって47年になり、、主催する「夏爐」もこの月で473号に達した。句集に『一位』『寒泉』『山容』『走り穂』(前年刊)主がある。俳人協会名誉会員。作品に「大いなる一つ傾く霜がこひ」(「夏爐」十二月号) | 2020-03-06 |
1061 | | 湖国新聞の印刷 | 湖国新聞の印刷風景。昭和60(1985)年から写植機を導入、印刷は平台の凸版刷りのタブロイド判4pの日刊紙を発行。昭和32(1957)年創刊。前身の雑誌は「湖国新報」は大正13(1924)年創刊された。大正、昭和にかけて多くの郷土誌紙が発行された。現在新聞は休刊、この建物もなくなり一般住宅となっている。№1102参照。 | 2020-03-06 |
1062 | | 七五三の宮参り | 七五三の宮参り風景(秋宮)。この年は男児の和装が例年になく多く目についたという。近年七五三の宮参りも11月に入る前から参拝風景が見られる。 | 2020-03-06 |
1063 | | りんどうの出荷 | 遅咲きリンドウの出荷準備(萩倉)。 | 2020-03-06 |
1064 | | 第一配水池 | 町上水道第一配水池。 | 2020-03-06 |
1065 | | 農業祭 | リンゴとかりん(マルメロ)の並んだ町農業祭の共進会場、手前はマルメロの改良種スミルナ。会場は町文化センター。 | 2020-03-06 |
1066 | | 南信日日新聞諏訪支局 | この町で創刊された地方新聞南信日日新聞諏訪支局のスタッフ支局長・記者3人・事務員一人が勤務。記事はワープロ打ち、電話回線で送稿。この新聞社の前身「南信評論」が明治30年下諏訪町で創刊、月刊誌を発行(後に週刊誌へ)その後明治34年(1901)年「月刊諏訪新報」、その後、「南信日日新聞」と名を変え、さらに「長野日報」となった。本社を諏訪市へ移したのは日露戦争勃発の明治37年(1904)年、この頃日刊紙となっている。 | 2020-03-06 |
1067 | | 魁塚 | 赤報隊幹部処刑の地、魁塚。慶応4(1868)年、江戸城後略の「官軍先鋒嚮導(きょうどう)隊」の旗を掲げて下諏訪宿入りした「官軍赤報隊」は東山道軍総督から偽官軍の烙印を押され、捕らえられた相楽総三ら幹部8人は3月3日、下諏訪宿外れの「はっつけ田」で斬首された。
魁塚正面中央の碑が相楽以下8人の墓碑、向かって左に渋谷総司贈従五位の碑、その隣が追分坂本で戦死した金原忠蔵ら4人の招魂碑。中央墓碑に向かった右が相楽総三贈正五位の碑、その右が高島藩で勤王の先駆をなした石城(いしがき)東山の招魂碑。地元の相楽会を中心に毎年4月第一日曜日に供養祭を行っている。 | 2020-03-06 |
1068 | | 五味工業 | 五味工業の工場内の様子。小規模工場ながら一台5000万円のマシニングセンタなど高性能機器が並ぶ。工場要員は全員が技術検定取得者、技能オリンピック出場者を3人出すなど技術に磨きをかけている。この会社の会長(当時85)は元生糸商で、工場も製糸所の跡地にある。ここにもシルク王国の遺産が生きている。 | 2020-03-06 |
1069 | | 富士遠望(夕景) | 東山田から富士遠望(夕景)(信濃医療センターから) 手前、三協精機社宅。晴れた日には下諏訪町から諏訪湖越しに富士山を望むことができ、地名に「富士見町」「富士見橋」などの名前も残っている。天候が安定し大気が澄み渡る晩春から冬にかけての眺望はよい。
それにしても、中部山岳地帯の盆地の底から、二百キロの彼方の富士山を望見できるというのは、フォッサマグナという大地溝帯(糸魚川静岡構造線)が作り出した特異な景観である。富士山も八ヶ岳も大地溝帯のまん中に噴出した火山で、、諏訪湖はその地溝帯の西縁に沿って走る断層などによって生まれた構造湖なのだという。 | 2020-03-06 |
1070 | | おは洗い | 諏訪地方では野沢菜漬けのことを「おはづけ」という。信濃人の食卓に野沢菜づけは欠かせない。どんなごちそうよりも美味なのが「おはづけ」なのだ。どこの家でも、霜が二・三回来て柔らかくなった菜を買い求めて一斉に漬け込むので、町じゅうでこんな風景が見られた。温泉旅館旅館にとってもおはづけは「最上のおもてなし」とあって、温泉を使って入念に洗い、最高のおはづけをつくろうと女将をはじめみんなで心をくだいていた。 | 2020-03-06 |
1071 | | 小路の風景 | 路地にひっそり、旧下諏訪遊郭の建物。遊郭時代「新塚田」と呼ばれる妓楼だったという。昭和になりアパートに移築された。 | 2020-03-06 |
1072 | | 漁業者の家 | 富部地区、漁業者の家。山の手を通る甲州街道から高まま(高浜)の入り江の舟止(ふなと)へ降りる舟道が通じ、これにそって半農半漁の村が形成されていたのだが、舟道も旧国道20号線(手前の道)と鉄道で断ち切られ、漁業もすっかり衰えて、平成元(1989)年には、昔の面影が残るのもこの家くらいしかなくなってしまった。この写真では船道は建物に向かって右の小路にあった。№1174参照。 | 2021-04-01 |
1073 | | 華道教室 | 勤め帰りに華道教室のお稽古。お師匠さんは国鉄職員の奥さんで、自宅に作業所を造り、マイクロモーターなどの線材の圧着の仕事をしていた。すわ湖工業地帯らしい風景。 | 2020-03-06 |
1074 | | 駅前通り風景 | 駅前通り(現オルゴール通り)。秋の日差しに通りの店の看板もはっきりと見える。正面に紅葉を始めた水月園が見える。 | 2020-03-06 |
1075 | | ゴミ回収船 | 湖のゴミ回収船でワカサギ釣り(みずべ公園)。
自然のなぎさや磯だと打ち上げられるゴミを回収すればよいのだが、コンクリート護岸だと、打ち上げられたゴミは、湖の風向きが変われば再び湖上へ流れ出てしまう。そして湖上を行ったり来たりしているうちにそこへ沈んでしまう。仕方なしに風で吹きよせられたゴミを回収するゴミ回収船が導入された。回航されてきた回収船を見つけた釣り人が格好の釣り場として早速「拝借」となった。 | 2021-04-01 |
1076 | | お舟祭り | 平成元年、お舟祭りの民謡流し。 | 2020-03-06 |
1077 | | お舟祭り | 平成元年、お舟祭りの時代行列の一風景。 | 2020-03-06 |
1078 | | 働くフィリピンの若者たち | 町内のナイトパブへ働きに来ているフィリピンの人たち。開店前夕涼みしているところへカメラを向けると、こんな風にポーズをとってくれた。。 | 2020-03-06 |
1079 | | 宵祭り | 7月31日、諏訪大社下社夏の遷座祭「お舟祭り」の宵祭りの露店風景。いつもは静かな湯の街なのだが、この日は秋宮参道に露店が軒を連ね、各地から集まった若者たちでにぎわっていた。 | 2020-03-06 |
1080 | | 旧釜口水門 | 撤去工事の準備の始まった旧釜口水門。天竜川の始点であるこの水門「昭和7(1932)年に大洪水対策と疲弊農村救済策として着工、同11(1936)年3月完成した。幅7m・高さ3mの制水門7門・舟航路付き、総工費34万円だった」(信毎)。毎秒600トン放流可能な新水門の完成で役目を終えた№1307参照。 | 2020-03-06 |
1081 | | 浪人塚の例祭 | 浪人塚の例祭、塚を守っている樋橋部落のご老人たち。毎年この時期には供養祭をしている。明治4(1871)年に諏訪藩が建てた墓碑には6人の名が刻まれている。幕末元治元(1864)年10月20日、京都を目ざす水戸の天狗党約800人の軍勢と和田峠の樋橋で待ち伏せた諏訪・松本藩連合軍とがぶつかった樋橋戦争の水戸側の戦死者11人を葬ってある浪人塚。 | 2020-03-06 |
1082 | | 駅前通りの青果店 | 店舗を改築した駅前通りの八百屋さん。もとは旧宿場のランプ屋さんだった。田村青果店の新店舗(駅通り)、現在の店主は三代目。 | 2020-03-06 |
1083 | | マルメロの出荷 | 特産かりん(マルメロ)を売る農家。
マルメロはペルシア・トルキスタン地方の原産。江戸時代に長崎へ渡来、甲信越や東北地方で栽培され、特に諏訪地方ではかりんと呼ばれて特産品になっている。諏訪の風土に適しているのだろうか、綿毛に覆われた橙黄色の実は強い芳香を放ち、寒冷、高燥の地諏訪を象徴するような果実である。果肉はしまっていて、乾いたかみ味に独特の風味がある。薄切りにして砂糖漬けにしたり、ジャムにもする。この年の小売値は1キロ1,100円(改良種のスミルナは600円)だった。
№1108参照。 | 2020-03-06 |
1084 | | 上水道配水池 | 町上水道配水池の内部(写真上)・集水井(写真下)の点検作業の様子。 | 2020-03-06 |
1085 | | 熊野神社の例大祭 | 熊野神社の例大祭での東山田長持ち。従来祭りは11月25日であったが、現在は10月の最終日曜日となっている。本祭りには婦人会から甘酒が振るまわれ、長持ちが区内を練り歩いたりして祭りのを盛り上げている。
№1116.1117.1118.1119は東山田の村祭り関係。 | 2020-03-06 |
1086 | | 村祭り | 熊野神社の例大祭風景。鎮守の森に残る江戸時代の行屋(ぎょうや)の前庭で甘酒がふるまわれた。こ行屋は江戸時代の修験道で行者の修行の場所として建てられたもので熊野神社参道の西側にあった。この行屋は町指定の文化財となっている。
天気の良い日には、この行屋の前から日本の標高№1,2,3の山が見える。1番はもちろん富士山で3,776メートル、2番は南アルプス北岳3,193メートル、3番は同じく間ノ岳3190メートル(穂高岳と同じ標高)である。
№1116.1117.1118.1119は東山田の村祭り関係。 | 2020-03-06 |
1087 | | 熊野神社の例大祭 | 東山田の鎮守様、熊野神社の例大祭。地区では「権現様」と呼ばれることもある。熊野神社本殿は安永8(1779)年村田長左衛門等によってつくられたもので拝殿・社務所・舞屋・本殿があり地形を巧みに利用している。写真は参道附近の風景。
№1116.1117.1118.1119は東山田の村祭り関係。 | 2020-03-06 |
1088 | | 図書館カウンター | 旧町立図書館カウンターの風景。町立図書館で本の貸出しを受けるお母さんたち、土曜日の利用者が多い。この日は「おはなしのへや」による読み聞かせがあった。 | 2020-03-06 |
1089 | | モノレールで新米の出荷 | 江戸時代下の原の名主を中心に藩の支援を受けながら、東俣蝶ヶ沢から東俣川の水を取り入れ城の沢で落とす長さ6650mの菰川汐(こもっかわせぎ)を作り水田化が図られた。昭和58(1983)年に、耕作者三人が県の補助金を受け、この山上の田(海抜900m)から農業用モノレール(全長202m)を設置した。写真は新米の搬出風景。モノレールは250㎏まで荷物を詰めるそうだ。この年、ミスズモチとフクヒカリを植え、平年作を上回る出来だったという。 | 2020-03-06 |
1090 | | 温泉ボーリング | 高浜3号井温泉掘削起工。 | 2020-03-06 |
1091 | | 温泉ボーリング | 掘削に使うドリルの先端部。 | 2020-03-06 |
1092 | | 温泉ボーリング | 高浜3号井温泉掘削起工。新式の掘削機で温泉のボーリング。町の温泉第三号井の掘削がこの日湖畔の高浜で始まった。これまではローリー式だけの掘削に、ターンテーブル方式を加えた兼用掘削機が導入され高速化され、地上の振動も少ないという。深度200メートルまでは374.7ミリのトリコンビットを使って掘る。温泉掘削も石油開発技術の応用で高度化されている。町はこの年の11月、山の手の小田野の地籍での第四号井掘削にも着手した。町の新規温泉開発は町内全域へ温泉供給と温泉統合が目的だった。 | 2020-03-06 |
1093 | | 秋宮の七五三柱(しめばしら) | 秋宮駐車場から参道を横から入るところにある七五三柱(しめばしら)、社務所横の秋宮駐車場から境内に入る場所に建立されている。大鳥居をくぐることを省略して参拝することになるので、平成元(1989)年に七五三柱を建て大鳥居をくぐったと同じになった。柱に「平成元己巳(つちのとみ)年十月二十五日全国諏訪神社連合会」と彫られている。この七五三鳥居を入るとすぐ右手に温泉を引いた手水が置かれている。 | 2020-03-06 |
1094 | | マルメロの収穫 | 乾いた高地の香・特産マルメロ(通称かりん)の収穫。四王の土田農園のとりいれ風景。マルメロはペルシア・トルキスタン地方の原産。江戸時代に長崎へ渡来、甲信越や東北地方で栽培され、特に諏訪地方ではかりんと呼ばれて特産品になっている。諏訪の風土に適しているのだろうか、綿毛に覆われた橙黄色の実は強い芳香を放ち、寒冷、高燥の地諏訪を象徴するような果実である。果肉はしまっていて、乾いたかみ味に独特の風味がある。薄切りにして砂糖漬けにしたり、ジャムにもする。この年の小売値は1キロ1,100円(改良種のスミルナは600円)だった。
№1122参照。 | 2020-03-06 |
1095 | | 六協新社屋 | スリムなビルが完成、地元建設会社(㈱六協新社屋)の事務所。狭い敷地を生かして建てられた。昭和43(1968)年三協精機の営繕関係の下請け会社として発足した建設土木の会社。 | 2021-04-01 |
1096 | | 町民レガッタ | 第8回町民レガッタ、これまで最多の84クルーが参加。競技はナックルフォアのみ、距離500m。中学生から76歳の男性まで出場し、水辺はお祭り気分だった。 | 2020-03-06 |
1097 | | 鷹匠の家 岡村家 | 岡村家住宅。鷹匠の家、諏訪では珍しい曲がり屋づくりである。数年前に、茅葺から瓦屋根に変えたが、他は江戸時代のつくりを守っている。鎌倉時代、一時期、幕府が諏訪神社以外の鷹狩りを禁じた。そんな伝統を継ぐ諏訪藩のお鷹匠の家である。画人天竜道人はこの家の離れに住んで、鷹の四季の姿を写生したと伝えられている。 | 2021-04-15 |
1098 | | 弥勒菩薩石像 | 富部弥勒菩薩石像。片膝を立て、右手を見てその膝頭にのせて、手の平を右頬にあてて思考にふける姿の仏像。お釈迦様入寂後、56億7000万年後に示現するといわれる未来の仏様だとか。庶民の極楽往生の願いが込められているのか、表情は穏やかである。 | 2020-03-06 |
1099 | | 湖国新聞社 | 湖国新聞、植字室の風景。
有限会社諏訪日日新聞社が長野県下諏訪町で発行していた日刊地域紙。昭和21(1946)年1月1日に週刊の『民聲新聞』として創刊、その後月10回発行、隔日刊、日刊と移り変わった。市民新聞グループの『下諏訪市民新聞』との競合で昭和61(1986)年から日曜版を発行。しかし部数を奪われて厳しい経営が続き、昭和62(1987)年には減資して有限会社諏訪日日新聞社に改組したり、さらに株式会社井口、株式会社オノウエ印刷と経営者が変遷したが、実売部数が1000部を割り込み、広告収入も減少して経営の見通しが立たなくなったため、平成17(2005)年2月28日付の1万9927号で休刊した。
№1146参照。 | 2020-03-06 |
1100 | | 第10区運動会 | 第10区運動会の様子。体育の日、区民運動会で楽しむ、晴天続きで、この日も汗ばむほどの好天、町内会対抗の二人三脚リレーに声援がわいた。会場は南小学校校庭。 | 2020-03-06 |
1101 | | 砥川先でのウィンドサーフィン | 湖でウィンドサーフィンを楽しむ若者たち。諏訪湖は午後になると風の出る日が多い。ことに砥川先は風が強く遠浅であるため、ウィンドサーフィンの基地として好適。当時は各地からサーファーが集まってきていた。 | 2020-03-06 |
1102 | | 下諏訪町立図書館 | 旧町立図書館閲覧室の風景。旧図書館は建て替えられ平成14((2002)年6月に現図書館が開館した。
旧図書館の館内の風景。
写真下は「おはなしの広場」主催の人形劇の会(松本がらくた座)。 | 2020-03-06 |
1103 | | 朝の通勤通学 | 乗用車の普及で、電車利用の通勤者はひところよりだいぶ減り、駅前の混雑もそれほどではなくなった。JR下諏訪駅前、朝の通勤通学の風景。 | 2020-03-06 |
1104 | | 公民館での葬儀 | 公民館(第一区明新館)での葬儀。当時は寺での葬儀が一般的だが、区の公会所を利用した葬儀も多くなってきていた。この葬儀の導師は浄土真宗大谷派の僧。 | 2020-03-06 |
1105 | | うらかめや | 4階の展望風呂から秋宮の森や諏訪湖が眺められる、江戸時代からの宿「うらかめや」。 | 2020-03-06 |
1106 | | 鉄鉱泉本館 | 夜の湯田坂かいわい。名湯旦過の湯を中心とした旧中山道筋一角。坂下に温泉旅館が並び、しっとりした湯の町情緒がただ用。このあたり製紙業の全盛期には、芸妓置屋が軒を連ね、脂粉の香ただよう街だったという。鉄鉱泉本館の夜景。 | 2020-03-06 |
1107 | | 教員住宅 | 旧図書館隣にあった清水町教員住宅。現在は町立図書館前の芝生の広場(あすなろ公園)になっている。 | 2020-03-06 |
1108 | | 土田墓地の六地蔵 | 土田墓地の六地蔵。お彼岸の墓参りの前に六地蔵に線香を手向ける人たち。この墓地には鷹や葡萄の画人天竜道人が眠っている。またこの墓地の北側の甲州道中側には石仏(弥勒菩薩像)がある。 | 2020-03-06 |
1109 | | 旧ダイヤ豆腐社の煙突 | ダイヤ豆腐工場は現JR中央線沿い北四王に敷地面積2500坪で昭和9(1934)年に旧湖畔倉庫を買収して開設された。当時の諏訪地区特産の氷(凍り・こおり)豆腐の大半(90%)を生産していた。写真は旧ダイヤ豆腐社の煙突。 | 2021-04-01 |
1110 | | 萩倉のカネキ製糸場 | 山峡の製糸王国をしのばせる遺構、萩倉カネキ製糸所の炊事場兼工女宿舎。海抜940mの萩倉、戸数34戸の小村に、。明治12(1879)年機械製糸が導入され30年代には7工場、職工男女合わせて500人余りの製糸の町ができた。3~5層の白壁・多窓の繭倉庫が建ち並び、酒や肉の店、飲食店、銭湯から駐在所までできた。そして明治34(1901)年には町場より早く電灯がつき、明治38(1905)年には私設電話がひかれるなどシルクラッシュに湧いたが、明治38(1905)年の国鉄中央東線の開通とともに工場は町へ下り、萩倉は再び山峡の村に戻った。 | 2022-06-12 |
1111 | | 十四瀬川河口 | 岡谷市との境界、十四瀬川(十寄川)河口。横河川谷口の出早雄小萩神社より分岐する水を源に岡谷市と下諏訪町境付近を流れる長さ7.9㎞の川。護岸がコンクリートで囲まれる前は魚がたくさん遡上していた。また、河口付近では西赤砂で漁をする人たちの舟たまりともなっていた。当時はマコモなどの水生植物が繁り、昔ながらの姿を残していたが、次第にコンクリートの護岸となっていった。 | 2020-03-06 |
1112 | | ワカサギの舟釣り | 砥川河口のわかさぎ釣り。湖の水温が下がるとわかさぎ釣りのポイントが岸から沖へ移る。10月中旬から最盛期に入り、季節風の吹き出す11月頃まで賑わっていた。 | 2020-03-06 |
1113 | | 木落社例祭 | 木落社例祭。木落社は諏訪大社摂社の一つで木落し坂の脇に祀られている。9月27日には午前9時に木落し坂にある木落社祭が行われ、続いて萩倉上の斧立社、さらに八島ヶ原湿原西の鷲ヶ峰麓で大元尊社祭がとり行われる。また、同日午前11時頃には旧御射山社祭が行われる。
№1087・1083・1086の写真は8月27日に諏訪大社下社の一連の行事として行われる。 | 2020-03-06 |
1114 | | 旧御射山 | 山上の聖地、旧御射山(もとみさやま)社、諏訪大社下社の奥宮の例祭、旧暦7月26日から29日にかけてこの山上に人里ができるほどの賑わいを見せたと和歌に残されている。「尾花ふく 穂屋のめぐりの一村は しばし里あり 秋の御射山」 金刺盛久の歌。旧御射山社例祭の様子。
№1087・1083・1086の写真は8月27日に諏訪大社下社の一連の行事として行われる。また、旧暦7月27日の正午に、月・日・星の三光(さんこう)を同時に拝することができたといわれ、一説では御射山山中の湿原の池に三光を映したともいわれている。この不思議な現象は諏訪神社下社の七不思議に数えられている。御射山祭は、大勢の人々が参籠(さんろう)する仮屋が穂の出た薄(すすき)で作られたことから、穂屋祭ともいわれ「穂屋野の三光」ともいわれている。 | 2020-03-06 |
1115 | | 旧御射山 | 奥霧ケ峰、八島ヶ原湿原近くにある旧御射山社、鎌倉時代には高原で御射山神事のニエを得るための御狩が行われ、社前で小笠懸け、草鹿とよぶ弓術の技が競われた。祭りに参加した武士たちが、穂屋を建てて籠もった土壇が三方の丘に残っている。平成元年現在の旧(もと)御射山の土壇の様子。 | 2020-03-06 |
1116 | | 中央高速バス | 朝の中央高速バス(下諏訪バス停)。下諏訪から新宿までの所要時間は約3時間。運賃は3060円、この日8時13分発の便には女性5人が乗車。「ちょっと買い物に」という人もいた。名古屋までは3300円(約3時間20分)。12月22日からは大阪行きの運転も始まった。「メガネイガワ」「犬飼家具店」の看板も見える。 | 2020-03-06 |
1117 | | 斧立(よきたて)社 | 斧立(よきたて)社は萩倉の奥にあり、御柱祭りの際に御神木伐採の刃物の修跋式(しゅうばつしき)を行う社。東俣の浄水場の道向かいの山脇に置かれている。この日は斧立社例祭。斧立とは・・樹木を伐採する前に山の神(大山祇神)を祀る行事。
ちなみにこの日は奥霧ヶ峰・八島ヶ原湿原にある「旧御射山社」で関係者による例祭が行われる。
№1087・1083・1086の写真は8月27日に諏訪大社下社の一連の行事として行われる。 | 2020-03-06 |
1118 | | ききょうや | 。旧宿場時代からの看板が人気の下諏訪温泉の旅館「ききょうや」。前身は旧下諏訪宿の中心、問屋場と「綿の湯」のある辻の旅籠屋で、文化2(1805)年刊の街道の案内書「木曽路名所図絵」にもその建物と看板が描かれている | 2020-03-06 |
1119 | | 新鶴本店 | 名代「新鶴の塩ようかん」の店。本州のほぼ中央にあって海から遠い諏訪地方は、昔から塩をことのほか大事に扱ってきた。その塩をようかん造りに生かしたところに独自さがある。明治6(1873)年創業で、十勝産の小豆だけを使い、茅野市産の寒天を使って、職人さんが火力の強いナラ薪を燃やして煮詰め、木船に流し込んで練り上げるという、昔ながらの製法にこだわっている。店は秋宮の脇、旧下諏訪宿の面影を残す一角にある。江戸末の画人天龍道人が住んでいたという案内板がこのすぐ横にある。 | 2020-03-06 |
1120 | | 朝湯客 | 名湯「旦過(たんが)の湯」の朝湯客。この浴場、中世近くの禅寺・慈雲寺が雲水(諸国行脚の修行僧)のために旦過寮をたてた時の浴場だったと伝えられている。現在下諏訪財産区の共同浴場、高温で傷やチリケ(方言=吹き出物)に効くことで知られている。現在は建て直され露天風呂も味わえる。 | 2020-03-06 |
1121 | | 湖林書房 | 駅前通りの本屋さん。町の南部に大型店・平安堂が進出し、本屋さんも競争が激しくなった。その後本離れなどもあってこの湖林書房も平安堂も閉店してしまった。 | 2020-03-06 |
1122 | | 第一回諏訪湖マラソン | 第一回諏訪湖マラソン。湖1周16.7kmのコースで4グループに分かれて行われた。最高記録はゼッケン1番、伊藤国光選手(招待選手)の52分07秒。主催は諏訪圏健康推進協会。ちなみに平成30(2018)年の第30回大会では8000人が参加、日本陸連公式ハーフマラソンコースとなっている。 | 2020-03-06 |
1123 | | アヒルを飼う | テーラーを営む上條さんは仕事の合間に湖に注ぐ砥川の土手で四季の花を植え、アヒルを飼って楽しんでいた。自宅前の砥川でアヒルを飼う上条さん73歳、弓道4段の腕前だった。 | 2020-03-06 |
1124 | | 敬老会 | 「お客様でご馳走を頂いているだけじゃあ能がない。民謡教室で稽古しているだで、どのくれえ上達したか見ておくれや」と村のおばあちゃんたち5人が舞台に上がって晴れ姿を見せていた。第一区敬老会。 70の手習い(民謡発表)。平成元(1989)年、下諏町老人の人口率は14.2%。平成30(2018)年には37.4%となった。 | 2020-03-06 |
1125 | | 長寿日本一 | 町内一長寿の藤沢ミツさん。四年連続長寿日本一。この年113歳、気分のいい日はそろりそろりと近所へ買い物がてら散歩にも出かけた。食事は朝夕2回、お粥をとる。梅漬けを欠かさず、カボチャと大根の煮物が好物というが、食欲が落ちてきているのか、「うまくねえ、すぐおいやになる」と話す。耳はだいぶ遠い。飾らずあけすけな口調で話す言葉は潔い。明治9年4月9日北信濃の村で生まれ、嫁ぎ先の新潟で暮らした後、昭和の初め製糸の町へやってきた。飯場の炊事係や病人の介護などをして生き抜いてきた。飾らず、あけすけな口調で話す言葉は潔い。大変頭の良い老人であった。平成2(1990)年1月17日に老衰でなくなった。 | 2020-03-06 |
1126 | | 観月句会 | 中秋の名月、下の原区の水月会(明治35年発足)の観月句会。春は観桜句会を催している。いずれも句会の後一献傾けて楽しむ。句会は親睦の場でもある。d会場は明新館。 | 2020-03-06 |
1127 | | 共同選果場 | この年は4月29日に強い晩霜があり心配されたが、夏場の好天で取り戻し、平年に近い収穫となった。小売値は上物で1kg400円位であった。早生りんご「つがる」の共同選果場風景。晩生種の「ふじ」のできはよかった。この共同選果場は今はない。 | 2020-03-06 |
1128 | | 農業用水の取り入れ口 | 砥川、田用水取り入れ口の水路補修をする農業者。 | 2020-03-06 |
1129 | | 町営プール | 赤砂の砥川河口横にあった旧町営プール、シーズン最後の日。現在は防災公園になっている。 | 2020-03-06 |
1130 | | 最後の専業漁師 | 諏訪湖最後の専業漁師藤森さん、赤砂崎、砥川のほとりに住み、漁業一筋に生きてきた69歳(平成元年現在)、湖が自然破壊でだめになり仲間たちは漁業に見切りをつけ転職していった。「埋め立てで湧くように殖えた湖がだめになったという。漁協の稚魚放流をしているが水草帯がつぶされ水生昆虫など魚のえさも少なくなり、水揚げの70%を占めるワカサギも生育が悪い」という。漁は週3日しか許されていない。№1068参照。 | 2021-04-01 |
1131 | | ワカサギの選別作業 | ワカサギの選別作業。専業漁師の藤森氏は朝3時半に出漁し6時まで投網を打ち続けて、水揚げ量は7㎏、これでも豊漁。奥さんの手を借り大急ぎで選別し、岡谷市下浜の市場へ出荷する。№1069参照。 | 2021-04-01 |
1132 | | 古川の流れ | 下水道効果で澄んできた町なかの川。どぶ川同然の汚れだったが、下水道の普及とともに水質改善が進み、水草も見られる流れになってきた。昭和63(1988)年から子どもたちの夏休み行事としてマスのつかみとり大会も催されている。 | 2020-03-06 |
1133 | | 秋宮社務所 | 座卓で執務、諏訪大社下社秋宮の社務所の風景。大社の社務所は「7年に1度」の御柱祭を節目に下社⇒上社⇒下社と移して上下両社の調和を保っている。平成元(1989)年当時は上社(平成4年の大祭まで)にあり、令和2(1990)年の現在は下社に社務所が置かれている。(令和4年から上社に移される) | 2020-03-06 |
1134 | | 導水管点検 | 中部電力砥川水力発電所へ引水する導水管の点検作業。 | 2020-03-06 |
1135 | | 弁当屋 | ほっかほっか亭(弁当屋)の店頭。町の南部、20m道路沿いに開店したテイクアウトの弁当屋。昼時になると車で買いにやってくる客が店頭に並ぶほどだった。売れ筋は幕の内弁当と焼き肉弁当(400円)スポーツ弁当(500円)。当時町内にはこの系列店が2軒・すし弁当店2軒・コンビニエンスストアーでも弁当を扱っていて「お弁当商売」ますます盛んになっていた。 | 2020-03-06 |
1136 | | 承知川河口 | 承知川河口付近。源は大見山(八の字山)の西に発し高浜湾に注ぐ、長さ6.1㎞の川。流れは大きくないが、暴れ川で度々出水し護岸工事も何度か行われている。 | 2020-03-06 |
1137 | | 英語授業風景 | 下中の外人講師による英語授業。下諏訪町では昭和59(1984)年度から外国人講師を雇っている。平成元(1989)年度予算は460万円。講師はカリフォルニア大学学院生(28歳)日本史専攻・柔道初段。写真は中学二年の授業風景。 | 2020-03-06 |
1138 | | 芭蕉翁奥の細道 | 芭蕉「おくのほそ道」から300年、町出身の日本画家・中村静思の代表作「芭蕉翁奥の細道」を中床にかけて楽しむ所蔵者。静思は諏訪出身の矢沢弦月門下、帝展などで活躍した。昭和38(1963)年70歳で没した。絵に描かれた曽良は諏訪の人、静思は曽良の描き方に工夫を凝らしている。 | 2020-03-06 |
1139 | | 十四瀬川河口 | 岡谷市との境、十四瀬川の河口。マコモなどの水生植物が繁り、昔ながらの姿を残していた。橋の先に見える舟たまりの横には大正11(1922)年6月に平野村(現岡谷)の小学生が諏訪湖で遭難した霊を慰めるために建てられた延命地蔵が祀られている。 | 2021-04-01 |
1140 | | 演奏会 | 村の鎮守(高木津島神社)の舞屋(江戸末期の建築)で行われた小澤征爾・ロストロボーヴィッチ・桐朋学園大学生の弦楽アンサンブル。一行は飛騨白川村、伊那谷大鹿村に続いて下諏訪町高木を訪れ、諏訪養護学校の子供たちにチェロ協奏曲を聴かせた。この演奏の旅、ロストロポーヴィチ(62)の希望で実現したものという。小澤征爾はこの日が55歳の誕生日だった。 | 2020-03-06 |
1141 | | 田村商店 | 駅通り田村商店。季節の野菜や果物が並んでいる。 | 2020-03-06 |
1142 | | 郵便局の窓口 | 郵便局の窓口。郵便局が広瀬町(現日本電産サンキョー付近)から現在地の栄町へ昭和57(1982)年に移転。この10年後民営化し、平成24(2012)年には日本郵便株式会社になった。 | 2020-03-06 |
1143 | | 養鯉の給餌 | 網イケス養鯉の給餌。配合飼料に群がる湖上網イケスの鯉。飼料は自動えさまき機でテント内の小屋の中(写真下)で、まいているので、養鯉組合が一日二回、交代で餌を補給していた。 | 2020-03-06 |
1144 | | 御射山祭 | 御射山祭、御射山のお山参り(夕祭)。穂屋に籠もって物忌みしたことから「みさやまは夜まつり」といわれ、子を負ってのお山参りも夜行われた。今でも夜参りを守る人がいる。この年も夜9時頃まで訪れる人がいた。№1050.1051参照。 | 2020-03-06 |
1145 | | 公共下水道工事 | 進む公共下水道建設、200mm管渠の敷設工事。諏訪湖流域下水道は、昭和43(1968)年秋に起きた湖水の重金属汚染騒ぎから、政府のてこ入れもあって建設が急がれた。昭和49(1974)年着工、昭和54(1979)年に一部開始された。工業配水も受け入れたため、終末汚泥の処理が悩みの種となっている。この町の下水道普及率はこの年の3月末で79.0%で県下一だった。現在はほぼ100%。 | 2020-03-06 |
1146 | | 町上水道 | 完成後60年、町水道配水池の集水井などを点検する水道施設係長。製糸の町の上水道は、製糸業の一層の発展も目的に昭和2~3年に建設(総工費38万円)された。 | 2020-03-06 |
1147 | | 御射山祭 | 御射山参り。
数えで2歳の子どもの無事成長を山の神に祈り、すすきの穂守りをもらって山をおりる。御射山祭は本来は風祭り。
八朔の祭りとつながる神事だったが、時代と共に姿を変えた。穂屋に籠って物忌みをしたことから「みさやまは夜まつり」といわれ、昔は子を負ってのお山参りも夜行われた。
このころでも夜参りを守っている人がいて、この年も夜九時ごろまで山中の御射山社を訪れる人が見られた。
写真は御射山社前の池にどじょうを放流する風景。
現在では諏訪大社下社秋宮でどじょうを放流してすます人も多くなってきた。 | 2020-03-06 |
1148 | | 八島ヶ原高層湿 | 秋風わたる八島ヶ原高層湿原(国の天然記念物)。わが国の代表的な楯状火山霧ケ峰の台地上に展開する三つの高層湿原のうち、最も規模が大きい。ミズゴケなどが堆積して凸レンズ状に盛り上がった湿原で、泥炭層の厚さは8.05メートルに達し、我が国の代表的高層湿原とされている。日本列島の高層湿原では南限にあたる存在でもある。標高1.600メートル、お盆を過ぎれば高原はもう秋である。写真の池は八島ヶ原湿原入り口にある「八島池」である。 | 2020-03-06 |
1149 | | 樋橋延命地蔵 | 樋橋地区の入口に建つお堂に延命地蔵が祭られている。この地蔵は昔、和田峠を越えてきた一人の六部(ろくぶ:行者僧)が背負ってきたといわれているが、六部は脇本陣の大黒屋で急に亡くなってしまった。村人は哀れに思い、お堂をつくりお地蔵様をその中に祀りその霊を慰めたといわれている。写真は樋橋延命地蔵の縁日。 | 2020-03-06 |
1150 | | 祢宜太夫邸焼失 | 明け方、借家人の失火から住居部分を全焼した。この家には武田晴信(信玄)安堵状など「祢宜太夫家文書」が伝えられていたが文書類は焼失。焼け残った祢宜太夫屋敷の土蔵。こちらは焼失後の写真。 | 2020-03-06 |
1151 | | 諏訪湖のアオコ | 古川から流れ出た水が諏訪湖のアオコの中に流れ込んでいる様子。アオコは植物プランクトンで藍藻・珪藻・緑藻など。 | 2021-04-15 |
1152 | | 奉射会の矢渡し | 8月26日からの御射山社祭を前に町弓道場で行われた御射山奉射会の矢渡し。63歳の弓士(5段)が小笠原流の礼法を見せた。御射山社祭は諏訪大社の最も大事な祭りの一つ。鎌倉時代には奥霧ケ峰で行われたこの祭りに集まってきた諸国の武家が、祭りの余興に小笠懸、草鹿(くさじし)などの弓術を演じ、優れた射手にはすすきの穂を添えた征矢が与えられたという故実から、この奉射会がはじめられた。奉納会はこの年67回目を数えた。 | 2020-03-06 |
1153 | | 夜の木の下 | 大社側から新鶴を見る、看板の向うは和田方面へ続く国道142号線。 | 2020-03-06 |
1154 | | 夏の夜の御田町 | 夏の夜の「御田町」交差点付近。道路左手に福田屋と右手にステップカサイの看板が見える。 | 2020-03-06 |
1155 | | 盆踊り | みずべ公園の盆踊り。 | 2020-03-06 |
1156 | | 諏訪湖クリーン祭り | みずべ公園のステージを中心に行われた第9回諏訪湖クリーン祭り。 | 2020-03-06 |
1157 | | 盆踊り | 町内会の盆踊り始まる。慈雲寺の駐車場を借りて、13日夜まで楽しんだ。町内会単位の盆踊りは、この町だけ。(東町中1組) | 2020-03-06 |
1158 | | 諏訪湖清掃 | 第9回目「諏訪湖クリーン祭り」湖岸の清掃をする人たち。全町一丸式の運動の形をとって進められている。 | 2020-03-06 |
1159 | | 戦没者追悼式 | 第44回戦没者追悼式。8月15日は44回目の終戦記念日、町主催の戦没者追悼式で祭壇に白菊を手向ける遺族たち。会場は町老人福祉センター。
町の戦没者は日清戦役以来450柱、遺族会員は420人。 | 2020-03-06 |
1160 | | スケート部の陸上トレーニング | 体協スケート部の陸上トレーニング。下諏訪町の保健センター駐車場を借用してのローラースケートの練習。向かいに小松工業の看板が見える。 | 2020-03-06 |
1161 | | アカウオ釣り | 早朝、市街地の小川(諏訪湖に流れ込む古川の河口近く)へのぼるアカウオを釣る男性。下水道の普及で市街地を流れる川もきれいになり魚たちが戻ってきている。諏訪地方でアカウオと呼ぶのははコイ科の魚で、産卵期になると体が婚姻色で赤みを帯びてくるウグイをさすことが多い。河川に群で上がる姿が見られる。 | 2020-03-06 |
1162 | | 水田にネットを張る老夫婦 | 稲出穂、田んぼへ防雀(防鳥)ネットを張る。「梅雨までの天候不順で生育が遅れている」という、この田の品種は「トドロキワセ」。 | 2020-03-06 |
1163 | | 自転車店 | 自転車を修理する老店主。 | 2020-03-06 |
1164 | | 鯉養殖の網イケス | 網イケスによる鯉の養殖は、諏訪湖が発祥の地。昭和39(1964)年から下諏訪の漁業者たちによって事業化されたが昭和53(1978)年の104面をピークに減り続け、撮影当時は40面。鯉養殖の網いけすが並ぶ平成元年の諏訪湖。 | 2020-03-06 |
1165 | | 望月楼展望風呂 | 望月楼展望風呂。この当時は赤砂崎には「諏訪湖ビューホテル」「諏訪湖プリンスホテル」「望月楼」の3つのホテルがあった。現在は公園や介護施設になっている。 | 2020-03-06 |
1166 | | 諏訪湖岸 | 連日の猛暑でアオコの湖に。下水道の普及とともに、湖の水質はわずかながら改善されてきているのだが、晴天続きでアオコが急速に増殖し、湖面は緑のペンキのような色になって、岸うつ波もべったりと重い。さらににおいも伴うこともあり目にも鼻にも早い改善が望まれる状態だった。 | 2020-03-06 |
1167 | | 秋宮に着いた柴舟 | この年の御頭郷は岡谷、秋宮境内へ引き入れられた柴舟。この後柴舟は神楽殿を3周した後神事相撲などの奉納をし翁媼の人形のおたき上げを内御玉戸社(うちみたまどしゃ)で行い祭りは終了する。柴舟に飾られた柴を悪疫退散のお守りや縁起物として多くの人が持ち帰る風習も残る。 | 2020-03-06 |
1168 | | お舟祭りの柴舟 | 諏訪大社下社の祭神の御霊代(みたましろ)は春宮と秋宮の社を2月1日と8月1日に遷座する。春(2月1日)は秋宮から春宮へ、秋(8月1日)は春宮から秋宮に遷座する。春はひっそりと静かに、夏は神霊遷座の行列の他に青芝を取り付けた巨大な柴舟に翁(おきな)媼(おうな)の神像を会い向かいに飾り曳行する。神霊奉遷の厳粛な行事と柴舟の曳行の行事が別に行われるため、祭りの中心がお舟の曳行になり、8月の遷座祭をお舟祭りとよんでいる。(四つ角付近の柴舟) | 2020-03-06 |
1169 | | お舟祭り時代行列 | 下社8月の遷座祭には神霊遷座の行列や柴舟の曳行の他に御騎馬行列・長持行列(下社大祝金刺盛澄を下諏訪町長、諏訪ゆかりの名将を町小中高の校長先生などが参加し騎馬姿で町を練り歩いた)・花笠踊り・時代行列などで盛り上がり多くの人で埋め尽くされる。
このイベントは現在は行われていない。 | 2020-03-06 |
1170 | | お舟祭り時代行列 | この年からミス下諏訪の万寿姫・絹姫(山吹姫の時もあった)など祭りの盛り上げに一役かった。 | 2020-03-06 |
1171 | | 町営プールの賑わい | 町営プールの賑わい。昭和54(1979)年に完成した赤砂崎の下諏訪町営プール。現在は地域防災の拠点とした整備の進む赤砂崎公園となっている。 | 2020-03-06 |
1172 | | 「樋門」を新設する工事 | 湖へ注ぐ小河川(古川)の河口へ「樋門(ひもん)」を新設する工事。湖の洪水防止のため、護岸提を1mをかさ上げし、さらに川の河口へ樋門造り増水時に逆流するのを防ぐ工事という。将来は樋門へポンプを設ける計画というが、こうした不自然な治水計画に首を傾ける住民が多い。 | 2020-03-06 |
1173 | | 砥川の川遊び | 連日の猛暑、浮島付近の河原に涼を求める人たち。この日の最高気温は31.8度、前日は32.1度でこの夏の最高となった。当時、諏訪測候所が記録した最高気温は昭和22(1947)年8月13日の35.3度二番目は翌日の34.6度。 | 2020-03-06 |
1174 | | カトギの精霊棚飾り | お盆にそなえてカトギの精霊棚飾りを買う老婆。迎え火のカンバの皮や花も店頭に並ぶ。マコモを諏訪地方ではカトギとよぶ。湖辺にしげるカトギで編んだ棚飾りが仏壇に敷かれると、すがすがしい香りが部屋に漂う。キュウリの馬・ナスの牛などが精霊棚に供えられて祖霊を迎える準備が整う。 | 2020-03-06 |
1175 | | 砥川の風景 | 立秋、霧ケ峰から諏訪湖へ流れる砥川で「カジカ」を追う子どもたち。砥川の清流と呼ばれてきたが、近頃はだいぶ汚れてきて、「カジカ」はほとんどとれない。河岸の草の穂に秋を感じさせる風景。 | 2020-03-06 |
1176 | | ニッコウキスゲの群生 | 夕暮れ迫る奥霧ケ峰のニッコウキスゲの花。観光の過剰利用で草原が衰え、かつてのような密度濃い花の群生は見られなくなった。「霧ケ峰は滅びるだろう」とこの高原の麓で育った故新田二郎は小説「霧の子孫たち」の中でもらしている。 | 2021-04-04 |
1177 | | 中村製作所 | 製糸時代からの鉄工所、今は精密メーカーなどからの注文仕事で忙しい。創業は明治40年頃、製糸工場のボイラーなどを手がけた。「諏訪湖の町の平成元年」には、昭和9(1934)年、室戸台風で倒れた製糸工場の煙突を、たった一昼夜で再建した思い出を、74歳の工場主が話してくれたと解説が書かれている。戦後の一時期スケートのエッジ「N、S、K ローレル クラウン」の製造元として鳴らしたこともある。中村製作所の鉄工所(プレス二次加工)。 | 2020-03-06 |
1178 | | 砥川の清掃 | 全町一斉「川をきれいにする運動」24年目の作業風景。川へゴミを捨てる風習をなくすため、町の主導で始まった清掃運動。 | 2020-03-06 |
1179 | | お舟祭り宵祭り | 諏訪大社下社夏の遷座祭「お舟祭り」宵宮。いつもは静かな湯の町なのだが、この日ばかりは秋宮参道に露店が軒を連ね、諏訪盆地のあちこちから集まって来る若者達が明るい光の中に群れて、乾いた高地の夜の空気を熱くした。お舟祭り宵宮の賑わい。 | 2020-03-06 |
1180 | | 合宿風景 | 駒場高校剣道部の合宿練習風景。後ろに諏訪大社下社春宮境内東側に残る古い階段が見える。 | 2020-03-06 |
1181 | | 下の原の幟立て | 「萬物長養徳」「万穀豊穣福」の一対の幟、安政5(1858)年に玉骨道人が書いた。毎年8月1日の遷座祭や御柱祭りの際に宮坂に建てられる。下の原の幟立て。中央に見える道を下ると龍の口がある。
ちなみに玉骨道人は、下の原の観照寺などで修業した後、岡谷横川の真秀寺の住職になった人で、和歌俳諧をよくし書にも優れて下の原には他の幟や石碑が多くある。この幟を書くときは慈雲寺に村人が硯を持ち寄って墨をすり、手桶にためて道人が大筆で一気に書いたと伝えられている。 | 2020-03-06 |
1182 | | 参議院選挙開票風景 | 41年ぶりに与野党逆転となった参議院選挙の開票。この町の投票率は73.58%。比例代表の得票率は社会党36,33%、自民党21.52%、共産党9.6%、民社党8.16%、公明党7.88%、二院クラブ2.10%、スポーツ平和党(新登場)2.33%、税金党1.31%、サラリーマン新党1.25%、年金等1.08%(以下略)。この選挙で破れた自民党宇野内閣は総辞職し、海部内閣が誕生することになった。一年の間に首相が三人も代わるという激動の年であった。 | 2020-03-06 |
1183 | | 製糸工場 | 曙町の佐藤金物近くにあった製糸工場。 | 2020-03-06 |
1184 | | 萩倉林道開通式 | 萩倉林道開通式。延長3970m、足掛け8年かけて完成した。総事業費3億1100万、円道幅は平均4m下諏訪町水月公園上と萩倉を結ぶ新設林道。写真は萩倉から峠に入る林道の入り口に建てられた記念碑の前。 | 2020-03-06 |
1185 | | 八島ヶ原高層湿 | 八島ケ原高層湿原(国の天然記念物)。写真では緑一色に見えるが、7月下旬の頃は高原の花で彩られる。八島ヶ原高層湿原には4㎢にわったって48科257種の植物が分布するといわれている。 | 2021-04-01 |
1186 | | 中央通りの風景 | 中央通り、手前には旧西友があった。通りには多くの看板(スナック「灯」・「丸美生肉店」・「洋服のクロサワ」など)が見える。 | 2020-03-06 |
1187 | | 梅雨明けの街 | 梅雨明けの街、高地の光がまぶしい。平年比では一日遅いが前年より12日早い梅雨明け。 | 2020-03-06 |
1188 | | 坂道のある風景 | 衣紋坂を坂下から見た写真。坂の上の欅が繁っているあたりが諏訪地方唯一の前方後円墳「青塚」。そのすぐ北側を東西に通る旧中山道に沿って旧下諏訪宿が開けていた。 | 2020-03-06 |
1189 | | 砥川土手 | オオマツヨイグサの咲く砥川の土手。富士見橋付近から諏訪湖方面を写している。 | 2020-03-06 |
1190 | | 平成最初の参院選ポスター | 参院選ポスター。町内100か所に設けられた公営ポスター掲示所の一つ。後ろに見える建物は三協精機社宅。
この年の選挙は、消費税導入の税制改革を中心に、リクルート事件にからむ政治倫理問題、農産物の輸入自由化問題などが争点となって与党自民党が苦戦、与野党逆転が話題となった選挙であった。 | 2020-03-06 |
1191 | | むらの語り部 | 写真は「村の歳時記(全4巻)」著者。「ワープロで本の原稿を進める85歳」今井久雄氏。「村の歳時記」は明治・大正・昭和の下諏訪町の民族・歴史について書かれている。今井久雄氏は明治37年富部に生まれ、旧制諏訪中学校を中退した後、自宅の養蚕業に従事した。その後、下諏訪町青年会長、教育委員長、公民館長などを歴任した。 | 2020-03-06 |
1192 | | 秋宮の観光客 | 昭和59(1984)年に引湯した時に参拝の手水(ちょうず)用にと新設したもの。湯口は竜神伝説にちなんで竜の口をかたどった(御神湯)。50℃を越す熱さで観光客に人気がある。秋宮の観光客がお湯の出る手水を前にひとしきり談笑している。 | 2020-03-06 |
1193 | | 友之町津島神社宵祭 | 江戸時代の友之町の鎮守様で最新は素盞鳴尊(スサノオノミコト)・建御名方命・菅原道真・の三神で青雲館の脇に鎮座している。昔は夏の疫病よけを祈る村祭りだったというが、最近はどこでも子ども主体の祭りになっている。絵燈籠の置かれた道端で焼きそばの味は最高。三区友之町の津島神社宵祭りの風景。 | 2020-03-06 |
1194 | | 信濃蚕業の倉庫取り壊し | この倉庫は大正の初めころ製糸会社の繭倉として建てられ、これを移築し蚕種会社が蚕種生産用に使ってきた。黄土色の土壁五層の堂々たる構えは、かつてのシルク王国の繁栄を忍ばせる記念碑的な建物のひとつといってよいものだった。信濃蚕業(イングスシナノ)の木造五層の蚕種倉庫取り壊し。これが地上から消えて、製糸王国はさらに遥かなものになった。 | 2021-04-01 |
1195 | | 砥川土手 | 砥川の土手富士見橋付近から諏訪湖に向かって撮影。林工業(西弥生町)の看板が見えるが、ここには弥生町にあった旧諏訪女子学園があった。 | 2020-03-06 |
1196 | | 十四瀬川の改修工事。 | 中小河川の改修工事。湖からコイ・フナが上ってくる流れなのだが、ここもコンクリートブロックの護岸に変えられ水辺の環境が失われていく。市川氏の解説には「役所は川を排水路としか見ていないらしい。後進国レベルの行政というほかない。」と書き込まれている。十四瀬川の改修工事。 | 2020-03-06 |
1197 | | 東洋技研 | 独自開発が身上(オートメーション機器の接続用部品)の完全自動組み立て機の稼動を見守る東洋技研㈱の
アイディア社長(花岡社長)。製法特許の端子台を主力とするオートメーションパーツ専業メーカーで従業員55人の規模ながら市場独占率10%以上を確保している。
その後岡谷市東堀(長地権現町)に工場移転した。 | 2021-04-01 |
1198 | | 世界最大のオルゴールメーカー三協精機 | 三協精機旧社屋。現在下諏訪町内にはオルゴールの展示館(すわのね)やオルゴールの組み立て体験ができる「おいでや」などがある。また諏訪大社秋宮の鳥居前では20分ごとにオルゴールの音色で観光客を迎えている。 | 2020-03-06 |
1199 | | ボート早朝練習 | 下諏訪町が昭和53(1978)年国体のボート競技会会場になって以来、ボートが町民の間に普及している。桟橋の手前にシェルファ艇、右側ナックルフォア艇。ボート早朝練習風景(漕艇場の桟橋)。令和2年周辺の整備が進み「ローイングパークAQUA未来」として新しい利用が始まっている。 | 2020-03-06 |
1200 | | 世界最大のオルゴールメーカー | 世界最大のオルゴール会社・三協精機の工場風景(プリント基板製作自動機)。当時は多角化を図り、「オプトメカトロニを駆使する総合精密電子機器メーカー」を看板にしていた。
二枚目の写真は三協精機の工場のCADシステムによる回路設計風景。 | 2021-04-01 |
1201 | | 世界最大のオルゴールメーカー | 三協精機(現日本電産サンキョー)は終戦後桜町に工場建設し始まったが、昭和23(1849)年からオルゴールに着目し、輸出用を中心に量産を始めた。昭和32(1957)年に広瀬町にあった昭栄製糸工場跡に工場を移転し、オルゴールの大量生生産で世界最大のオルゴールメーカーに成長した。写真は三協精機の工場のオルゴールの検査の風景。
二枚目の写真はオルゴールの組み立て自動機。 | 2021-04-01 |
1202 | | 諏訪大社あやめ奉献祭 | 諏訪大社下社あやめ奉献祭の日。地元の東山田あやめ会が丹精込めて育てたハナショウブの鉢植えが、春宮神楽殿の周りに色鮮やかに並べられた。祭りでは琴と尺八の奉納もあって、普段静かな春宮もしばしの賑わいを見せた。 | 2020-03-06 |
1203 | | レンゲツツジの花 | 霧のはう奥霧ケ峰の草原に朱の色を散らすレンゲツツジの花。霧ケ峰は昭和30年代頃まで麓の農村の採草地だったため大草原が保たれてきたのだが、野焼きや、草刈が行われなくなって、最近は森林化が進み始めている。 | 2020-03-06 |
1204 | | 茅の輪くぐり | 諏訪大社下社の夏越(なごし)の大払い神事「茅の輪くぐり」。春宮横を流れる砥川の中の島「浮島」で行われる。茅の輪くぐりの祭りの風景。 | 2020-03-06 |
1205 | | 不二家 | 創業昭和4(1929)年老舗菓子店。店の看板「不二屋」の文字は中村不折の筆、包装紙は棟方志功の版画という優雅な和菓子店。寒気の厳しいこの地方の風土食品「氷餅」の感触を生かした「初霜」や塩釜の中に故郷の味噌の香を生かした「郷秋」などなつかしい味があった。平成の終りに閉店となってしまった不二家菓子店。 | 2020-03-06 |
1206 | | 製材工場 | 製材所の作業風景。原木の6割が輸入材で、岡谷市の沖電線の輸出製品を入れる箱材(米国産カラマツ)を作っている東町上の山田製材所。 | 2020-03-06 |
1207 | | 「かまきり」自転車 | この形のハンドルの自転車(通称かまきり)が高校生を中心に大流行。遊び心が受け入れられたらしい。下諏訪駅横の駐輪場の高校生と「かまきり」自転車。 | 2020-03-06 |
1208 | | 北小「はだしの生活」 | 下諏訪北小学校「はだしの生活」。下諏訪北小学校では10年ほど前から「はだしの生活」に取り組み、運動会もはだしで行っていた。 | 2020-03-06 |
1209 | | 町民コンサート | 平成元(1989)年度に完成した「下諏訪総合文化センター」は4月の開館以来、休日は予約で一杯の利用状態。この日は長野県民謡大会や町民コンサートなどが開催された。町民コンサートの写真。 | 2020-03-06 |
1210 | | 湖畔の湯一周年 | 開業一周年をを迎えた温泉公衆浴場「湖畔の湯」。83歳の農業者が、町が開発した配湯から引湯して開業した。岡谷など町外からの入浴者も多く、時には長距離トラックが止っている。当時入浴料は大人150円・小人60円入浴料の安さに観光客が驚いていた。ちなみに令和2年の料金は大人280円、子供130円となっている。 | 2020-03-06 |
1211 | | 阿木翁助氏 | 帰郷し、なじみのスナック(スナック天国)でくつろぐ劇作家の阿木翁助さん(当時77歳)。昭和6(1931)年に旧制諏訪中学を卒業(同期生に新田次郎氏)、上京し新聞配りをしながら築地小劇場研究所に学び、小林多喜二労農葬の名目上の実行委員長を務めた歴史の証人でもある。ムーランルージュや新生新派などの大衆演劇で活躍。戦後は菊田一夫氏とともに連続ラジオドラマの脚本家としても鳴らした。当時は日本放送作家協会理事の現職にあった。阿木氏はこの日から二ヶ月後の8月25日、癌研究附属病院で年肺がん切除の手術を受けた。平成14(2002)年に没。なお昭和52(1977)年に紫綬褒章受賞。本名は安達鉄翁。下諏訪生まれ。 | 2020-03-06 |
1212 | | 伊藤時計店 | 駅前通りの小さな時計店。店主(当時は73歳)は太平洋戦争中、兵役で病を得て諏訪赤十字病院で療養生活を送ったさい、森山汀川の指導を受けたアララギ派の歌人。昨年歌集を出版した。伊東時計店の店内と伊東憬氏。 | 2020-03-06 |
1213 | | 西赤砂の交差点 | 西赤砂交差点風景。西大路交差点からm上諏訪方面の坂道を撮影。 | 2020-03-06 |
1214 | | つがるの袋かけ | 夏至。中型店の進出が目立つ20m道路沿いのりんご園で早生種のつがるの袋かけに精を出す主婦。この町のりんご栽培面積は昭和38(1963)年の35.4ha(昭和39年の837tが最高)をピーク(収量は昭和39年の837トンが最多)に、都市化の波に洗われて減少の一途をたどり、昭和52(1977)年には15ヘクタール(収量294トン)となった。その後わずかに増えたものの横ばい状態で、昭和62(1987)年は20ヘクタール(460トン)となっている。さらに平成18(2006)年には10ヘクタール(202トン)とさらに減少している。 | 2020-03-06 |
1215 | | 諏訪湖の四ッ手網漁 | 諏訪湖の四ッ手網漁。諏訪湖畔で見られるようになったのは戦後のこと。昭和22(1947)年頃上諏訪で始まったようだ。四ッ手網漁は4-8月が好漁期で産卵期に魚が岸辺に寄る頃が良いとされている。近頃では諏訪湖博物館の前で見られるだけになった。 | 2020-03-06 |
1216 | | 高木西区画整理地 | 湖を見はらす山の手に、組合施行の区画整理事業で造成された宅地。分譲は入札で3.3hm当たり32万5000円の値がついた。高木西区画整理地。写真の後方に見える赤い屋根は元の諏訪養護学校。 | 2020-03-06 |
1217 | | 高木西の温泉ボーリング | 民間資本の温泉開発が成功、深度500m、69.1℃の湯脈に当たる。その後掘り進み深さ570m、温度74.4℃まで上昇。毎分600㎖(59℃)の揚湯が可能になった。町の源湯は町・区・財産区・共同組合が所有していたが昭和60(1985)年に旅館業者が発掘に成功し新しい流れが生まれた。この写真は民間第二号井。 | 2020-03-06 |
1218 | | 出勤風景 | 平年とほぼ同じ時期の梅雨入りの朝の出勤風景(入一通信前)。 | 2020-03-06 |
1219 | | 繭の運搬風景 | 軽トラックで中国産の繭を町内倉庫から岡谷の工場へ運ぶ国用製糸業者。国内の繭生産量は昭和12(1937)年をピークに減少、平成元年当時、中国、北朝鮮などから年間約1,500トン輸入しており、この製糸業者も、10年ほど前から入れ始めた中国繭が、今では主体になっているという。「諏訪湖の町の平成元年」の撮影メモから、緑町の斉藤製支店前の撮影と思われる。 | 2020-03-06 |
1220 | | 諏訪大社の龍の彫り物 | 諏訪大社は風の神、水の神と言われ、祭神は蛇体という伝えもあるなど、原始信仰の姿を伝えていることで知られている。春宮の拝弊殿は安永6~9(1777~1780)年の建築だが、この龍の彫理り物は、いつごろの作かはっきりしない。諏訪大社春宮の土蔵から出てきた龍の彫り物 | 2020-03-06 |
1221 | | 大社四つ角風景 | 国道20号線が直角に曲がる所に和田峠を越えてきた国道142号線ぶつかる大社通り四つ角の風景。正面突きあたりが諏訪大社秋宮の森。手前の国道20号線は旧中山道で塩尻峠へ向かい、右折すれば上諏訪方面となる。四つ角風景。 | 2020-03-06 |
1222 | | 十四瀬川のフナすくい | 湖から小川(十四瀬川・古川・うなぎ沢)へ産卵にのぼるフナをすく子どもたち。雨で増水するとどっとのぼって来て、バケツ一杯も取れる時がある。子供たちは、目の色を変えて夢中で魚を追いかけていた。写真は十四瀬川のフナすくい。 | 2020-03-06 |
1223 | | 中村千尋氏 | 中村千尋氏。 | 2020-03-06 |
1224 | | 中古車センター | 新開店の中古車センター、清水モーター(株)営業所。平塚市に本社を持つ業者で、土地区画整備地の幹線道路沿線へ進出した。「東京価格」がセールスポイント。当時町内中古車販売業者は6社であった。 | 2020-03-06 |
1225 | | 中根歯科医院 | この歯科医院は昭和26(1911)年から矯正歯科を導入。昭和49(1974)年から保険医を辞退して矯正専門となった。このころは県内矯正専門の診療所は4ヶ所であった。中根矯正歯科医院の診察室。 | 2020-03-06 |
1226 | | 旧白鶴社の建物 | 取り壊しが決まった明治9(1876)年創業の製糸組合白鶴社の旧事務所。白鶴社(共同出荷・揚げ返し)は、諏訪製糸の揺籃期(明治初期)から台頭期(同中期)にかけて操業していた二十七の製糸組合の中堅どころだが、諏訪製糸の勃興期(明治後期)に至って、製糸経営が大規模工場へ移行する潮流となり、同業組合の共同揚げ返し所はその使命を終えて淘汰される中で閉鎖となった。その後事務所は他の製糸工場へ移築され、戦後はニットメーカーの事務所として使われてきたが、その事務所も改築されることになり、この年9月28日から取り壊し工事が始まった。 | 2021-04-01 |
1227 | | 町民体操栽 | 第29回町民体操祭、校歌のダンスを披露する小学生。新聞社後援の体操祭、この辺りではこの町だけが根気よく続けている。 | 2020-03-06 |
1228 | | 特別養護老人ホームの誕生会 | 町立特別養護老人ホーム「ハイム天白」の誕生日会。5月生まれの5人にお祝いの品が贈られ、ビールとジュースで乾杯、寮母たちの「ちゃっきり節」の歌もでた。 | 2020-03-06 |
1229 | | 電線地中化の高浜信号機 | 電線地中化の湖畔道路の高浜信号機。この地方で初めて電線地下埋没が実現、使用が始まった。この道路はジョギングロードも合わせて整備が進めらている。 | 2020-03-06 |
1230 | | ニット工場 | ニットメーカー(旧佐藤メリヤス(有)・現サトーニット)のデザイン企画室。講師を招くなどしてデザイン力に注力。ファッション誌に載るような作品も送り出している。製糸業からの転進、ニット業界の変転の中で商品企画と開発に独自の努力をして生き残ってきた。従業員60人。(株)サトーの工場。 | 2020-03-06 |
1231 | | 耕運機による代掻き | 薫風の中で耕運機による水田の代掻き作業。鳥たちがやってきて、盛んに土中の虫をついばみ、蛙の鳴き声も聞こえてきて、まことに心地よい田園風景である。 | 2020-03-06 |
1232 | | 耕運機による代掻き | 薫風の中で耕運機による水田の代掻き作業。鳥たちがやってきて、盛んに土中の虫をついばみ、蛙の鳴き声も聞こえてきて、まことに心地よい田園風景である。 | 2020-03-06 |
1233 | | 新和田トンネル | 大型連休で普段静かな峠の国道142号線も車の台数が増えていた。それでもピークの夏場には及ばない。新和田トンネル口。
令和4(2022)4月1日午前0時より無料になった。 | 2020-03-06 |
1234 | | 路地があそび場 | 小川屋履物店の前で遊ぶ子どもたち、路地空き地などで子どもたちが遊ぶにぎやかな様子。(履物屋の前) | 2020-03-06 |
1235 | | 信州マウンテンパークモトクロスコース | 第2回信州オフロードエンデュランスの開会式に集まったライダーたち。信州マウンテンパークモトクロスコース、町内の若者たちの有志が、町有林を借りて開設、前年の春オープンした。 | 2020-03-06 |
1236 | | 第60回メーデー | 第60回メーデーに登場した消費税絶対反対のプラカード。この日は雨天のため町体育館で行われた。この年は消費税実施もあり政治の焦点となっていた。リクルート問題も絡んで内閣が二つもつぶれる騒ぎになった。 | 2020-03-06 |
1237 | | 家庭婦人バレーボールリーグの開会式 | 家庭婦人バレーボールリーグ開会式。前年と同じく参加は15チーム。昭和48(1973)年の全国大会で町の代表チームがブロック優勝し平均年齢が最高ということで総理大臣賞を受けた栄光の歴史を誇るが、そのときのメンバーも現役で活躍している。 | 2020-03-06 |
1238 | | 町の植樹祭 | 植樹祭で植樹をする小学生たち。 | 2020-03-06 |
1239 | | 焼き芋屋さん | 軽トラックに釜を積んだやきいも屋さんこれがシーズン最後の商いで夏は焼きもろこし屋に。 | 2020-03-06 |
1240 | | 洋菓子チェーン店開店 | 20m道路沿線(通称・ジャスコ通り)には店舗の進出が続いた。山梨県に本社を持つ工場直売方式の洋菓子チェーン店「シャトレーゼ」がこの日開店。この道沿いにはジャスコの開店以来目覚ましく発展しており、町の中心が南部へ移動しつつあった。 | 2020-03-06 |
1241 | | ワカサギの採卵風景 | 砥川の河口近く、濁った砥川でのワカサギの採卵作業。 | 2021-04-01 |
1242 | | 出張販売車 | 出張販売車で買い物をする山村のお年寄り。和田峠麓の集落。出張販売車は冷凍ケース付き生鮮食品も扱う。隣の諏訪市から週2回やってくる。利用者はやはりお年寄りが多い。 | 2020-03-06 |
1243 | | 水月園花見風景 | 明治35(1902)年に下ノ原の俳人らにより、水月園の開園と水月会が発足した。会の運動の一環として月見堂の建設、句碑が建立された。また桜・楓などが植樹され諏訪地方随一の桜の名所となった。 | 2020-03-06 |
1244 | | かなやき地蔵御開帳 | 「かなやき地蔵」御開帳。信心深い下女おかねが地蔵尊に救われ、都に上って和泉式部になったという説話が伝えられている。この日一年に一度かなやき地蔵が御開帳になる。 | 2020-03-06 |
1245 | | 諏訪湖開き | 諏訪湖開き、下諏訪港桟橋へやってきた「ジェットライナーすわこ」。この高速艇、岡谷-上諏訪間の定期航路に就航していた。 | 2020-03-06 |
1246 | | 下諏訪倉庫 | 大きな蚕庫から時代の流れで倉庫業に転進、倉庫の一部は蚕庫の遺品として博物館となっていたが取り壊されて、現在はスパーマーケット(西友)となった下諏訪倉庫。 | 2020-03-06 |
1247 | | 社中1年生植樹祭 | 社中生の植樹祭。学校周辺に「ガマズミ」などの実のなる木を植える社中1年生。社中生の体操着は写真のぐり^ンのものから現在は違うデザインに変わっている。 | 2020-03-06 |
1248 | | 住宅の建築工事 | プレハブ住宅の建築工事、諏訪地方では住宅用のサッシュの普及が県下一早かった。 | 2020-03-06 |
1249 | | 郵便配達 | 郵便配達員、市街地ではバイクより自転車の方が能率が上がる。 | 2020-03-06 |
1250 | | 少年野球開会式 | 町の少年野球開会式の入場行進。参加チームはA(6年生がいるチーム)13、B(5年生以下のみ)10、少年野球は子どもたちの人気だった。会場は下諏訪南小学校校庭。 | 2020-03-06 |
1251 | | 第7保育園(所)入園式 | 第7保育園(所)入園式。統廃合のため今年度限りで廃園が決まった。この保育園は昭和49(1974)年開園していた。園庭には総合遊具が設置さてていた。第4・7保育園は統廃合の後一つ浜地籍(農協スタンド近く)に新しい保育園ができた。現みずべ保育園。写真は最後の入園式に焼てきた親子。 | 2020-03-06 |
1252 | | 消費税実施日のジャスコ | 消費税実施日の「消費税3%かかります」の張り紙が貼られたジャスコ(現在はイオン)店内、また物品税廃止で「値下げ」のポスターも貼られていた。 | 2020-03-06 |
1253 | | 剣道協会の新年度発会式 | 剣道協会の新年度発会式、この年の会員は68名。 | 2020-03-06 |
1254 | | 消費税前日の風景 | 消費税前日の生活用品のまとめ買いで賑わうディスカウントショップ(スズキヤ薬品下諏訪店)の店内。 | 2020-03-06 |
1255 | | 総合文化センター竣工式 | 下諏訪町総合文化センター竣工式祝辞をのべる長野県知事。この施設、県の「文化公園」整備事業の補助金5憶6700円を受け総額19憶5千万円をかけて建設された。残響時間1.6秒のクラッシクホールが自慢。 | 2020-03-06 |
1256 | | 印刷工場 | 消費税の実施をひかえて、印刷業界は超繁忙期、夜遅くまで版下の制作に追われる従業員たち。こうした残業がひと月余に渡っており、今までになかったことだという。 | 2021-04-01 |
1257 | | 諏訪実高下諏訪分校閉校式 | 諏訪実高下諏訪分校閉校式の日の校舎と記念碑。分校の跡地は現在下諏訪中学校の屋根付きプールとなっている。 | 2020-03-06 |
1258 | | 第4保育園 | 下諏訪第4保育園。現在は下諏訪消防署に。第4・第7保育園が統廃合し、西四王に一つ浜保育園(所)ができ第4保育園は平成元(1989)年度閉園となった。現在は一つ浜保育園も名前が変わり、みずべ保育園になっている。 | 2020-03-06 |
1259 | | 金色のなまず | 諏訪湖でとれた金色のなまず。3月5日下諏訪町の砥川先でつかまり、諏訪市水族館(湖畔のSLが置いてある辺り)入りしたなまず。黄色の色素が強すぎて黒色の色素がないための現象らしい。「アサヒグラフ」3月24日号「サカナだって金満時代」の見出しの記事とともに紹介、話題を集めた。水族館は現在はなくなっている。 | 2020-03-06 |
1260 | | 禰宜太夫家 | 諏訪大社下社五官の一つ、禰宜太夫家の荒れ果てた屋敷。この年8月21日失火のため消失。下社五官とは大祝・禰宜太夫・擬祝・副祝をいう。 | 2020-03-06 |
1261 | | 土蔵 | 桃井屋敷と消失前の土蔵。8月21日に焼失。「すわ湖の町の平成元年」80pには焼失した写真が掲載されている。
№1047参照。 | 2020-03-06 |
1262 | | ワカサギ釣り | 高木大沢川湖岸のワカサギの引っ掛け釣り。産卵期で岸に近づくワカサギを狙うのがこの釣り。結氷湖での穴釣りはこの冬もできずに終わっている。 | 2021-04-01 |
1263 | | 新規開店コンビニエンスストア | 新築三階建てアパートの一階にオープンした新系列のコンビニエンスストアー「マイショップ」。この時の町内のコンビニエンスストアは「セブンイレブン」3店「Kマート」1店だった。このショップは現在クリーニング店になっている。 | 2020-03-06 |
1264 | | 三月定例町会 | 三月定例町会開会直前の議場。消費税関連議案が13件あり、上程議案は平成元年度予算案49件に上った。(一般会計予算額52億3,500万円)など49件に上った。議長席より撮影。 | 2020-03-06 |
1265 | | 旧国鉄官舎 | 木造平屋の旧国鉄官舎。現在はJR東日本官舎が町営球場の道向かいにある。 | 2020-03-06 |
1266 | | 信濃蚕業 | 下諏訪駅東にあった信濃蚕業、現在は(株)イングスシナノに社名が変わった。 | 2021-04-01 |
1267 | | 大喪の礼の日の飲食店 | 大喪の礼のお店。 | 2020-03-06 |
1268 | | 大喪の礼の日の飲食店 | 昭和天皇の大喪の礼、弔旗をかかげて料理店「うな富」この日飲食店の大半が休業したため夜の街はひっそりしていた。 | 2020-03-06 |
1269 | | 肉屋店頭 | 丸美肉店の店先、自動ドアのガラス扉に今は使われていない懐かしい下諏訪シールのステッカーが貼られている。 | 2020-03-06 |
1270 | | 小僧寿し店頭風景 | (旧)西友近くの小僧寿し店頭風景。下諏訪町にも出店、店舗が広がったが現在下諏訪店は閉店した。 | 2020-03-06 |
1271 | | 夜の街 | 平沢町の飲食店。小口ビル内の鳥将・ほおずき・なみなどの店の看板が見える。 | 2020-03-06 |
1272 | | 車のショールーム | トヨタカローラ南信のショールーム、写真は「100万台達成祈念車発表会」の店頭。「1500SEスーパーリミッテト」の値段は14.7万円。 | 2020-03-06 |
1273 | | 学習机セール | 新入学生向け学習机セールをする花岡家具センター。この頃は棚付きデスクが主流で、売れ筋は49800円・59800円・69800円のクラスだった。 | 2020-03-06 |
1274 | | 秋宮リンク | 秋宮リンク。明治42(1909)年に開設され大正11(1922)年にわが国最初のフィギュア競技会、同13(1924)年は国内最初のアイスホッケー大会が開催された。このリンクの賑わいぶりは洋画家金山平三の代表作に描かれている。古い時代の写真を合わせてみると時代の変化がよくわかる。 | 2020-03-06 |
1275 | | 羽目板の家 | ドイツ羽目板の家 | 2020-03-06 |
1276 | | 湯田坂 | 湯田坂、右手のオレンジの建物が旦過の湯。続いて鉄鉱泉の看板、道路北側の電柱が見える。その後環境美化がすすみ現在片側(北側)の電柱はなくなっている。 | 2020-03-06 |
1277 | | 花見新道からの景色 | 花見新道(国道142号線)から見た下諏訪町の風景。中央のシルバー屋根は御田町「武藤工業㈱諏訪工場(旧ヤシカ)」その奥が「入一通信工業㈱諏訪工場」 | 2020-03-06 |
1278 | | 高浜より、立春薄氷の湖を望む | 高浜より、立春、薄氷の湖と湖畔の町を望む。この日、-9,0度(平年比2,0度低)と冷え込み、湖は三度目の結氷となったが、昼過ぎには解氷。2月立春となれば、朝の凍みはきつくても、陽は濃くなっていく。 | 2020-03-06 |
1279 | | 高木村の風景 | 高木の村内。 | 2020-03-06 |
1280 | | 高浜付近 | 高浜の交差点の西側。ガラス屋根は「長野県水産試験場諏訪支場アユ種苗センター」。隣の赤と緑の看板は「リファイン花岡(当時)」、手前が興和自動車販売センター㈱。 | 2020-03-06 |
1281 | | 高木村の風景 | 高木の村内。 | 2020-03-06 |
1282 | | 製糸工場 | 長手造りの生糸がビニールで包装され台の上に置かれていたり、はかりなども見える。製糸工場の一室。 | 2021-04-21 |
1283 | | 製糸工場 | 製糸工場の外景。 | 2020-03-06 |
1284 | | 製糸工場 | 揚げ返し機。揚げ返し(あげかえし)は、煮た繭から生糸を作り小枠に巻き取る機械の繰糸機(そうしき)で小枠に巻き取られた生糸を乾かしながら大枠へ巻き返し、輸送や保管などで取り扱いやすい一定量の束、綛(かせ)にすること。 | 2020-03-06 |
1285 | | 座繰り製糸 | 下諏訪町の座繰り製糸工場昭和興行(株)。座繰り(ざぐり)は座って人力で道具を動かし繭から糸を手繰りながら糸枠に巻きとる作業のこと。またその道具のこと。 | 2021-04-01 |
1286 | | 寒の雨 | 厳寒の雨は酷寒の地諏訪地方では珍しく、この日の最低気温は0.5度(平年比7.7度高)、最高気温は6.5度(同3.6度高)だった。御田町の風景写真左が居酒屋「甚八」右手には福田屋菓子店。 | 2020-03-06 |
1287 | | 下諏訪駅 | この電車は国鉄が設計・製造した近郊形直流電車115系、色は湘南色(オレンジとグリーン)。席は青いボックス席。電車に乗り込む乗客 | 2020-03-06 |
1288 | | 印刷工場 | 改元で仕事が増えフル稼働の印刷所、機械は高速枚葉オフセット印刷。(株)諏訪印刷。 | 2020-03-06 |
1289 | | レコードレンタル店 | 湖畔町花岡家具店の道向かいにあったレコードレンタルショップ「友&愛」この年大手書店「平安堂」に押されて、この月をもって閉店となった。 | 2023-04-20 |
1290 | | 製糸工場 | 倉庫から運ばれてきた繭とそれを選別している様子。 | 2020-03-06 |
1291 | | 座繰り製糸 | シルク王国の生き残り、老工女が支える10釜の座繰り製糸工場。67歳から82歳の13人の工女で超高齢化工場だが早い手さばきで糸を取っている。国用製糸を支えた老工女たち。「家にシコっている(①うずくまる②かかむ③じっとこごまる(かがむ)の意味)より、こうして糸を取っているほうがよっぽど楽しい」と。下諏訪町の座繰り製糸工場昭和興行(株)。昭和4(1929)年からの世界恐慌を境に製造業は没落の道をたどり戦後は精密・電子・ニット業などに転換する工場が相次いだ。昔ながらの座繰り機械で操業を続行する工場は、当時全国でも下諏訪と岡谷の5~6社だけと言われた。この年の秋には町内の座繰り製糸工場は2社に減っていた。 | 2021-04-01 |
1292 | | 製糸工場 | 糸くち留。 | 2020-03-06 |
1293 | | 製糸工場 | 製糸工場の風景。 | 2020-03-06 |
1294 | | 製糸工場 | 長手造りの生糸。ビニールで包装し、30kgとしてダンボール箱詰めする。 | 2021-04-21 |
1295 | | 製糸工場 | 鍋で煮繭(シャケン)をしている。煮繭は繭から糸を繰り取る際に、繭糸の解れをよくするために、あらかじめ繭を湯などで煮ること。
写真下は煮繭(煮た繭)した繭を子桶に入れている。 | 2020-03-06 |
1296 | | みぞれで人足の途絶えた夜の街 | 緑町「おちか」「うな富」の看板が見える。この日、南岸低気圧によるカミ雪で、県下はすわ湖周辺がなぜかみぞれ、春の前触れのカミ風が、ひと月以上も早く訪れたのも異変だった。
二枚目の写真は、旧小松ガラスの近くの「大政」。 | 2020-03-06 |
1297 | | 金融機関が完全週休2日制に | 写真の日は金曜日、明日から金融機関が完全週休2日制に。各金融機関では土曜日にも稼働するCD(現金自動支払機)やATM(現金自動預払機)を増やすなどして対応。写真は休日を前にした八十二銀行下諏訪支店の営業風景。 | 2020-03-06 |
1298 | | 相互銀行から普通銀行になった長野銀行 | この日の前日全校で51の相互銀行が普通銀行になった。この長野銀行は3億7千万円かけて社章・制服・通帳などを一新した。写真は当時の町支店の全スタッフ。 | 2020-03-06 |
1299 | | 製糸時代のメインストリート、今は御田町通り | 戦前はこの通りに片倉、入一など大手製糸工場が並び、月二回の定休日には通りにあふれるほどの工女たちで賑わったものという。工女たちを集めた御田町劇場はもうない。戦後も片倉跡が「ヤシカカメラ」の工場になって、従業員の往来で活気を見せていたが、同工場が岡谷へ去ってから、(現在は「武藤工業(株)諏訪工場」に代わって)静かな商店街にな様変わりしている。 | 2020-03-06 |
1300 | | 湖の至宝、美しい丸太舟 | 湖の至宝、丸太舟。(丸木舟のことを諏訪では丸太舟と呼ぶ。)古代からの「くり舟」の面影を伝える諏訪湖独特の漁舟。「天然のからまつの大木を二つ割りにして、内側をくりぬいたものを船側(ホテ)とし、真中で接いだからまつ板三枚並べの計六枚はぎの船底(シキ)を、特殊な船釘で縫い合わせた造り。ホテが重くて安定性があり、シキのそりに加えてシキに樋型(ヤエン)があるので操縦しやすく、高波にも波負けしない。天候が急変することが多い諏訪湖で、夜間の出漁も多い漁師たちは、ほとんどの者がこの丸太舟を使ってきた。」と諏訪湖の漁具研究家・小林茂樹さんは書いている。湖の至宝ともいえる丸木舟だが、この船を造れる舟大工はもういない。からまつの巨材が得られなくなってからは、ホテの上端へ、ワノセ(上乗せ)と称する板 | 2021-04-15 |
1301 | | 大鳥居のある街角 | 春宮大門大鳥居と参道。正面は諏訪大社春宮の870mに及ぶ参道。鎌倉時代には流鏑馬が行われていたらしい。かつては見事なさわら並木で、昼なお暗い道だったという。鳥居の後方左の大きな建物は製糸時代の繭倉で平成元年は倉庫会社の倉庫になっていた。
現在は西友下諏訪店になっている。 | 2020-03-06 |
1302 | | 小路の奥にも製糸の名残 | 右手は昭和34・35年頃まで操業していた「ヤマカ河西製糸所」の再繰部の建物。三協精機の創業者が、昭和23(1948)年の暮れ、この工場の一部を借り受け、旋盤機などをすえつけて旗揚げを図ったが、操業開始の前夜工場を焼失、やむなく諏訪市へ工場を移して創業したというエピソードがある。 | 2021-04-13 |
1303 | | 消防出初式 | 凍みの朝、消防出初式 8日挙行の予定だったが昭和天皇崩御で延期された。 | 2020-03-06 |
1304 | | 下諏訪機械金属工業会の新年会 | 前年創業30周年を祝った下諏訪機械金属工業会の新年会。会員数57社「オイルショックも円高も工夫と努力で乗り切ってきた。これからも技術力で生き抜いてみせる」と社長たちは胸を張る。町の工業事業所数は461、従業者数5269、製品出荷額954億4720万円。 | 2022-03-19 |
1305 | | はんこ屋さん | 改元で注文殺到の「平成」のゴム印づくりに追われるはんこ屋さん。印判製造小売店「(有)判神」 | 2021-04-01 |
1306 | | 昭和最後日の諏訪湖 | 下諏訪町東赤砂湖畔から東南方、諏訪市方面を望む(湖面の標高759m)この日の午後6時33分、昭和天皇が崩御。天候は曇りから雨に。気温-1.0℃(最低)~10.2℃(最高)暖冬の朝の諏訪湖。 | 2020-03-06 |
1307 | | 保健センター | 町の保健センターで、三歳児健診「ハイ!身長は」。
下諏訪町の乳幼児健康診査は2か月、4か月、10か月、1歳6か月、2歳児、3歳児検診が実施されている。 | 2020-03-06 |
1308 | | 山の手バス | 「廃止される東山田線バス」。赤字続きで廃止の話が持ち出された旧農村回りバス路線のバスと乗客。JR関係及び諏訪自動車の「東山田線」、住民の要望でこの年は運航が続けられたが廃止されることになった。東山田が岡谷市から別れ下諏訪町に合併して2年後昭和35(1960)年から運行が始まった山の手コース。東山田には4か所の停留場があった。写真は農協東山田支所前バス停。 | 2020-03-06 |
1309 | | 新規開店コンビニエンスストア | 新築三階建てアパートの一階にオープンした新系列のコンビニエンスストアー「マイショップ」。この時の町内のコンビニエンスストアは「セブンイレブン」3店「Kマート」1店だった。このショップは現在クリーニング店になっている。 | 2020-03-06 |
1310 | | 公園で遊ぶ親子 | あすなろ公園で遊ぶ母子。後ろの建物の窓は旧下諏訪町立図書館。 | 2020-03-06 |
1311 | | 三陽精機 | 三陽精機(プレス)。 | 2021-04-01 |
1312 | | 御湖鶴モロミ仕込 | 地酒「御湖鶴」の蔵元。モロミ仕込(最終日)この道40年の杜氏を始め酒造り衆は5人いずれも郡内の農家の人たち。米だけによる本作り戻っている。オンザロックでも飲める超辛口も出している。
御湖鶴酒造は、大正元(1912)年下諏訪町御田町にて創業。
大正7(1918)年10月『下諏訪酒造株式会社』として法人設立。
大正11(1192)年『菱友醸造株式会社』に改称。
平成29(2017)年4月22日付で事業停止、同4月25日付で破産開始決定。平成30(2018)年2月、福島県いわき市の運送会社『磐栄運送』が、『菱友醸造』の土地や設備などを買い取って御湖鶴ブランドを引き継ぎ、同年秋に仕込み開始、12月10日に新酒の販売を開始している。 | 2020-03-06 |
1313 | | 消費税導入勉強会 | 戦後よりずっと続いてきた所得税中心の税制から間接税の比率を高める改革だが国論を二分しての論議となり議決が遅れた。町役場では税務署の係を呼び講習会を開くなど対応に追われた。 | 2020-03-06 |
1314 | | 小松工業 | 西鷹野町工業団地にある㈱小松工業のロングストローク特殊プレス機による冷間塑性加工工場。630トン、600トンのプレス機を使って大型部品を「しぼって」作る。内陸にあって精密工業の発達している諏訪地方では、やや大型の部品を扱う工場は多くはない。技術水準を上げるため、埼玉県から工学博士を招いて指導を受けているという。 | 2021-04-01 |
1315 | | 諏訪大社節分祭 | 春をつげる諏訪大社下社の「節分祭」の様子。恒例の宝投げに沢山の手が福をつかもうとしている。赤鬼・青鬼が登場しその浸入を防ごうと神官が立ちふざかるしぐさなど見ていて楽しい行事である。 | 2020-03-06 |
1316 | | 冬の砥川 | 冬の流れ(砥川)。砥川は全長12.9km町内で一番大きな川である。土砂の流出が多く、写真の医王渡橋付近より下流は度々流路が変わるほどの洪水を起こしてきた。また天井川を形成している。 | 2020-03-06 |
1317 | | 高木村の風景 | 高木の村の風景。
4枚目の写真は津島神社への登り口。
坂を上った右手には旧第六保育園があった。 | 2020-03-06 |
1318 | | 諏訪湖の風景 | ガラス屋根は「長野県水産試験場諏訪支場アユ種苗センター」隣の赤と緑の看板は「リファイン花岡」、手前が興和自動車販売センター㈱。高浜湾の風景は埋め立てなどにより大きく様変わりしているので、他の写真と比較してその変貌ぶりを見ていただきたい。 | 2020-03-06 |
1319 | | 道路粉塵掃除 | スパイクタイヤの粉塵清掃。街がかすむほどのひどい粉塵に耐えかねて、商店街が町の補助金を受けて集塵機を購入、掃除につとめている。このころスパイクタイヤの使用禁止を求める声が年ごとに強くなっていた。
やがてスパイクタイヤが使用禁止になり、スタッドレスタイヤが普及して今では全く見かけななくなった風景である。 | 2020-03-06 |
1320 | | 大喪の礼の日の飲食店 | 昭和天皇の大喪の礼の日の飲食店。弔旗をかかげて休業した料理店「うな富」。この日飲食店の」大半が休業したため、夜の街はひっそりしていた。 | 2020-03-06 |
1321 | | 確定申告相談風景 | 「確定申告申請受付町屋敷公会所へ出前」。町役場が5キロ離れた山間地区の町屋敷公会所で確定申告相談所を開設。お百姓さんや家内工業者らが利用していた。 | 2021-04-15 |
1322 | | 車のショールーム | トヨタカローラ南信のショールーム、写真はカローラの「100万台達成祈念車発表会」の店頭。ちなみに「1500SEスーパーリミッテト」の値段は140.7万円。
令和2(2020)年11月に店名が新しくなっている。 | 2020-03-06 |
1323 | | ユーペンハウス | 国際ペンションのロビーでくつろぐ若い人たち。大喪の礼の日からの三連休を利用した、スキーツアーの若者たちでにぎわった。いずれも和田峠越えで、新設の鷹山スキー場(小県郡長門町)へ行ってきたと話していた。湖を見下ろす丘に建つこのペンションの建物は北欧に留学した設計家が設計した。 | 2020-03-06 |
1324 | | 御神輿行列 | 春の遷座祭。
諏訪大社下社は春宮・秋宮の二社があるので半年毎に祭神の御霊代(ミタマシロ)を秋宮から春宮へ、春宮から秋宮へと遷座(センザ)する。二月一日(旧来は一月一日)の遷座は寒い祭りで夏の遷座(お舟祭り)のように勇壮な行事はない。ひっそり行われるので「ひっそり祭り」「こっそり祭り」と言われている。
諏訪神社独特の神器「なぎ鎌」をかかげた遷座の行列が春宮に着くと、これもまた諏訪社独特のかわやなぎの玉串百本が神前へ捧げられた。
昔は旧暦一月一日の祭りだった。
秋の遷座祭は8月1日「お舟祭り」とも呼ばれにぎやかに遷座する。 | 2020-03-06 |
1325 | | 今井美理容店 | 前年11月3年ぶりに値上げした。
料金は大人調髪3000円・パーマ6000円・中学生調髪2500円・小学生2000円。 | 2020-03-06 |
1326 | | 暖冬の街 | 暖冬の町(左手前は施行近い町文化センター)。この日最高気温は10.4度まで上がり春先のよう。この年の1月の平均気温は3月上旬並み。諏訪湖は3年連続御神渡りの見られない明海(あけうみ)に終わった。 | 2020-03-06 |
1327 | | 諏訪湖が全面結氷 | 連日の凍みに諏訪湖が全面結氷(砥川先・対岸は岡谷市湊地区)マイナス10度の強い凍み全面結氷し酷寒の地諏訪盆地らしい景色。 | 2020-03-06 |
1328 | | 山の神祭 | 山の神祭(下の原区)夜明け前の闇の中「山の神様サンゼンゴーン シシセンマルマル」と唱え恵方へ向けて矢を放つ。
旧村々にはいくつかの山の神講があったが現在は下諏訪全町にわたり1月17日の早朝にそれぞれの山の神に集まり手作りの弓矢で恵方に矢を放って神事をしている。
この弓矢を家に持ち帰り玄関の上に掛けて魔除けや厄除けとしている。 | 2020-03-06 |
1329 | | 議会総務委員会 | 3月定例町会開会直前の議場(議長席から撮影)。上程議案は平成元(1989)年度予算案など49件に上った。 | 2020-03-06 |
1330 | | 春のあわ雪の中の万治佛 | 春のあわ雪の中の万治の石佛、諏訪出身の新田次郎がイースター島の石人結び付けた伝奇小説を書いたり、岡本太郎が惚れ込んだりと話題を集め観光名所となっている。 | 2020-03-06 |
1331 | | 河西製糸所 | 小路の奥に製糸の名残り。昭和34(1959)・35年ころまで操業していた「ヤマカ社河西製糸所」の建物。三協精機の創業者が、昭和23(1958)年の暮れ、この工場の一部を借り受け、旋盤機などをすえつけて旗揚げを図ったが、操業開始の前夜工場を焼失、やむなく諏訪市へ工場を移して創業したというエピソードがあると「諏訪湖の町の平成元年」に紹介されている。 | 2021-04-04 |
1332 | | 赤砂西大路交差点 | 昭和55(1980)年に開通した西大路通りと昭和49(1974)年に完成した新田中線が交差する場所。御柱祭りの車の迂回路としての役ばかりだけではなく日常の交通量も大変多くなってきている。冬季降雪時は時折登りきれず難渋する車がある。 | 2020-03-06 |
1333 | | 学習机セール | 新入学生向け学習机花岡家具センターの学習机セール。この頃は棚付きデスクが主流、売れ筋は49800円・59800円・69800円のクラスだった。 | 2020-03-06 |
1334 | | 秋宮スケートリンク | さみしい秋宮リンク「スケート離れ」現象。「秋宮スケートリンク」で検索し古い時代の写真も参考にしていただきたい。 | 2020-03-06 |
1335 | | 消防団訓練 | 消防団員不時呼集訓練。 | 2020-03-06 |
1336 | | 栄電社の店内 | 赤砂にあった栄電社(後のエイデン)の店内。名古屋が本拠地のこの店は中央道に乗って諏訪へ進出したが平成20年代末に閉店した。 | 2020-03-06 |
1337 | | 謝恩会 | 小学校6年間の感謝を込めて体育館で謝恩会。下諏訪北小学校。 | 2020-03-06 |
1338 | | 東寿司 | 今も変わらぬ店頭の東寿司看板。 | 2020-03-06 |
1339 | | 授業風景 | 下諏訪中学校3年生の国語の授業。小口崇博先生の授業風景。 | 2020-03-06 |
1340 | | 下諏訪中学校 | 下諏訪中学校の職員室。この日は参観日で、職員室の予定黒板には、午前は自由参観、午後は学年学級懇談会の予定が書かれている。 | 2020-03-06 |
1341 | | 厄年検診 | 厄年健診の人々、現在は厄年検診は行われていない。 | 2020-03-06 |
1342 | | 町長の記者会見 | 高木清允町長の記者会見風景。 | 2020-03-06 |
1343 | | 下請け工場で働く主婦 | 諏訪の精密工業を支える二次加工専門の下請工場春元精機製作所で働く主婦たち、皆さん結婚前は時計やカメラ工場で働いていた人たちばかりなので腕は確か、一人ひとりが徹底した品質管理をしているという。伝票にはソニー・オリンパスなどのスタンプが見られる。 | 2021-04-01 |
1344 | | 上段の間の雛人形 | かめやホテル上段の間の雛人形。旧中山道下諏訪宿の本陣遺構のうち上段の間を中心とする一郭が、湯宿「かめや」の特別室として使われている。「絵の間」に続く中の間に飾られたひな壇。
この宿、宇野浩二の前期の連作「諏訪物」の舞台になったことで知られ、芥川龍之介の地元の芸者に送ったラブレターなども展示されるなど、多くの文人墨客が来遊した。 | 2020-03-06 |
1345 | | 諏訪大社宮司 | 執務中の加藤宮司。諏訪大社宮司の加藤茂さん(当時82歳)は神社本庁から迎えられた宮司は「上下社の融合に一番気を使います。でもこの土地では御諏訪様は絶対で政党も新興宗教も超越して協力してくれます。これだけはよその土地とは違います。それだけに御諏訪様は怖い神様です。」と話していた。諏訪大社は上社(諏訪市・茅野市)下社(下諏訪町)に分かれているうえ、上・下両社とも二つのお社から成るというややこしさがあり、古くは上・下両社が血の抗争を繰り広げたこともあって、維新後、一つの神社となったが、氏子間の対抗意識が潜在していてかじ取りは難しいらしい。 | 2020-03-06 |
1346 | | 山王閣屋上からの眺望 | 白鳥がシベリアへ去った日の諏訪湖と湖の町、諏訪大社秋宮外苑の旧山ホテル王閣屋上からの町並み。現在建物はなく駐車場になっている。 | 2020-03-06 |
1347 | | 秋宮リンク | 秋宮リンク。明治42(1909)年に開設され大正11(1922)年にわが国最初のフィギュア競技会、同13(1924)年は国内最初のアイスホッケー大会が開催された。このリンクの賑わいぶりは洋画家金山平三の代表作に描かれている。 | 2020-03-06 |
1348 | | 児湯と子宝地蔵 | 遊泉ハウス児湯。児湯は古くは小湯と書かれ、子宝に恵まれるというので児湯とも書かれた、他の温泉に比べ湯量が少なかったが、よく温まると湯効は早くから認められていた。高島藩主忠虎などもこの湯に入りに来たと伝えられている。綿の湯が閉湯となった時、遊泉ハウス児湯としてリニューアルし温泉の前に昭和63(1988)年4月子宝地蔵が祭られ、パワースポットの一つとして紹介されたりしている。 | 2020-03-06 |
1349 | | 御作田社 | 温泉の町下諏訪は町内に何箇所かの湯汲み場があり、ここは御作田社前の湯汲み場。
御作田社前の湯汲み場は湯の恵です。
旅行者が珍しそうに温泉に触れる様子を見ることがある。 | 2020-03-06 |
1350 | | 竜の口 | 慈雲寺山門下にあるの龍の口。銘に「西山田邑山田清左エ門・金右衛門・近辺連中」とあり、手洗鉢には「願主西山田村山田平蔵和哉」とある。これら山田氏は横川村に住む石工であった。
「生涯学習ガイドブック1歴史編」には、慈雲寺入口の石段の右脇にあり、中山道を通る旅人の喉をうるおした。作者は現岡谷横川の山田清左エ門・金石衛門。文政8(1825)年作で、高遠石工の流れをくむものであると紹介されている。
「写真で見る下の原」には、慶応元(1865)年竣工、石工は現岡谷横川の石工山田平蔵和哉である、と紹介されている。
水石榴の側面に「花・清・水」と彫ってあるというが、現在は風化が進み読みにくくなってしまっている。
今でも清水講の皆さんが水石榴や周辺の清掃を続けているという。 | 2020-03-06 |
1351 | | 修験道の初午祭 | 修験道の初午(はつうま)大祭の様子。
江戸時代後期に入ると村々に講が生まれ、行屋が造られ行者(山伏)が活躍したという。その名残を伝えるのが宝光院敬愛社で宝暦4(1754)年に白鷺山に湯殿三山講として開講したのが始まりという。安永7(1778)年に羽黒山から宝光院の院号を受けている。明治に入っていろいろな弾圧、土地の没収に遭ったが活動は続き、大正8(1919)年には真言宗醍醐寺派の指導で敬愛者として結成し、翌年には現在地に道場を立てた。
初午が最大の祭りで護摩を焚いて家内安全などを祈る。 | 2021-04-22 |
1352 | | 小路の風景 | 路地裏にひっそりとたたずむ旧下諏訪遊郭の建物。
遊郭時代「新塚田」とよばれる妓楼だったという。昭和になりアパートに移築された。 | 2020-03-06 |
1353 | | 筒がゆ神事 | 神楽殿の西方にある筒粥殿。1月14日夜から15日早朝に行われる「筒がゆの神事」の様子。
諏訪大社下社(春宮)に伝わる小正月の年占いで、長さ18cmの葦の茎を44本束ねて入れた鉄釜で米・小豆の粥を夜を徹して炊きあげ、15日早暁、葦の茎を取り出し粥の入り具合でこの年の農作物の出来と「世の中」を占う神事。
この年の結果は「世の中三分七厘」(五分満点)との託宣だった。 | 2020-03-06 |
1354 | | 諏訪証券 | 諏訪証券下諏訪営業所。平成元((1989)年の年明けは、平均株価が最高値30000円越えをを更新した。一方円相場は円が急落し円安となった。株高で受けに入る証券会社の営業所。 | 2020-03-06 |
1355 | | 山王閣屋上からの眺望 | 白鳥がシベリアへ去った日の諏訪湖と湖の町、諏訪大社秋宮外苑の旧「ホテル山王閣」屋上からの町並み。現在建物はなくなり駐車場になっている。 | 2020-03-06 |
1356 | | ジャスコ店内風景 | この冬は超暖冬。大寒というのにこの日も雨。町内の大型スーパー「ジャスコ」では冬物バーゲンが加速していた。「ジャスコ」は「イオン」になり平成30(2018)年8月末に建て替えのため一時閉店した。 | 2020-03-06 |
1357 | | 保育所の三歳未満児保育風景 | 第2保育所の三歳未満児保育風景。8園で預かる園児は680人、うち三歳未満児は2園で16人。保育所はその後統合され現在は3園(みずべ・とがわ・さくら)となった。 | 2020-03-06 |
1358 | | 旧西友 | 旧西友店頭風景。現在は大門通り(諏訪倉庫跡地)へ移転したがこの時は、中央通りの建物の中にあった「西友」の店舗。 | 2020-03-06 |
1359 | | みぞれ降る町 | みぞれでひと足の途絶えた夜の街、南岸低気圧によるカミ雪(県下北部に多い降雪が春が近づいた頃県下南部に降る雪のこと)で、中南部を中心に大雪となった。高地の諏訪湖周辺がなぜかみぞれ。春の前ぶれカミ雪がひと月以上も早く訪れるのは異変。 | 2020-03-06 |
1360 | | 下諏訪北小卒業式 | 小学校の卒業式、在校生に送られて式場を去る卒業生。町内二つの小学校で429人が巣立った前年より15人増だが平成元年度からは減少に転じた。 | 2020-03-06 |
1361 | | JR下諏訪駅 | JR下諏訪駅改札口前で見かけた、いまはなつかしい「タッツケ」姿の老女。
八ヶ岳山麓に広がる高地「山浦地方」では紺色もすがすがし「タッツケ」が老人たちの日常着と生きているが、町ではほとんど見かけなくなった。
風呂敷包みも珍しくなった。 | 2020-03-06 |
1362 | | 下諏訪駅前の風景 | 平成元(1989)年のJR下諏訪駅前風景。平成2(1990)年駅前の通りに「オルゴール通り」の名が付いた。№393と比較して見ていただきたい。
下諏訪町の商店街の中心は、かつては旧宿場町から坂下の国道20号線沿線へと移ったが、町南部に新商業地区が形成されるにい従い、北部の商業地区の中心はこの駅前に移りつつあった。しかしモータリゼーションが進み、現在はこの駅前も活気ある賑やかさから置いて行かれることになっている。 | 2020-03-06 |
1363 | | 承知川の旧発電所 | 承知川の旧発電所。小口製糸所。この発電所(出力60キロ)は製糸工場の私設発電所の建物。大正17(1918)年岡谷から下諏訪駅前へ進出した山十組山八製糸工場が承知川水源へ設け。水利権をめぐり農業者と紛争が起きたという話も伝えられている。
1枚目の写真は表からの撮影。 | 2020-03-06 |
1364 | | 中村竜雄氏旧居 | この地方に多くみられる白壁にヌキを見せる造りの旧家。明治中期建築のこの家では明治期に絹織物業が営まれ、太平洋戦争後はメリヤス業の先駆けとなった。モーラー編みが創業された。当主が首都圏移住でこの年の春、所有者が替わった。 | 2021-04-04 |
1365 | | 竹村製作所の作業風景 | 自動車の心臓部の部品仕上げをを受け持つ家内工業。竹村製作所の作業風景。あらゆる車種のオイルリングを製造していた。親子三人と外注の内緒k8人で月産100万本のフル操業。もとは時計ケース加工から転進した。 | 2020-03-06 |
1366 | | 出初式 | 1月8日挙行予定だった消防団出初式。この年は昭和天皇の崩御で延期され1月29日(日)に行われた。左の建物が文化センター、正面が体育館。 | 2020-03-06 |
1367 | | りんごの樹の剪定 | リンゴの剪定作業。湖からの寒風をついてりんご(つがる・ふじなど)の樹の剪定作業、下諏訪町のりんご栽培は明治39(1906)年北海道から取り寄せたナルコ・国光の苗木を、砥川扇状地へ植え付けたことに始まると記録されている。。 | 2021-03-27 |
1368 | | 諏訪湖岸 | 諏訪湖岸 コンクリートで固められていたあ | 2020-03-06 |
1369 | | ワカサギ採卵風景 | 砥川採卵組合の建物。№742~747関連写真参照。 | 2021-04-01 |
1370 | | ワカサギ採卵風景 | 砥川採卵組合のワカサギ採卵作業。採卵受精後木枠(卵わく)のシュロゲヘ卵を付ける作業。ワカサギはキュウリウオ科の魚で口に歯があり動物プランクトンを主食とするので、富栄養湖の諏訪湖に移植され好成績をあげた。この魚は年魚で10ヶ月で成魚になり翌春産卵のため、河川の水温が諏訪湖の水温より高くなれば河川にのぼり始める。 | 2020-03-06 |
1371 | | ワカサギ採卵風景 | 砥川採卵組合のワカサギ採卵作業、暖冬のため三年続きの不振、採卵量は約10億粒と極端にすくなく県外湖沼へも打撃をあたえた。諏訪湖の採卵・孵化事業は長野県水産試験場諏訪市部の指導者によって昭和6(1931)年から六斗川ではじめ、昭和31(1956)年からは砥川でも始めている。
№742~747関連写真参照。 | 2021-04-01 |
1372 | | ワカサギ採卵風景 | 砥川採卵組合のワカサギ採卵作業。 | 2020-03-06 |
1373 | | 諏訪大社祈念祭 | 諏訪大社祈年祭。「祈年祭」は穀物の豊作を祈る祭り。「としごいの祭り」とも言う。下社は春宮にて行われる。 | 2020-03-06 |
1374 | | 諏訪大社祈念祭 | 諏訪大社祈年祭。「祈年祭」は穀物の豊作を祈る祭り。「としごいの祭り」とも言う。現在は3月17日ころ、上社が午前中、下社は午後春宮にて行われる。 | 2020-03-06 |
1375 | | 旧第1保育園 | 旧第1保育園。大正15(1926)年下諏訪保育園設立、当時は県下でも保育施設の草分けであった。現在は四区公会所として使用されている。
この保育園は、大正時代下諏訪が国用製糸全盛期に、それに従事する母親のために下諏訪町幼児保育会が誕生、町内有志による資金によって園舎が建設されたという。 | 2020-03-06 |
1376 | | 禰宜太夫土蔵 | 禰宜太夫屋敷土蔵。№739参照。 | 2020-03-06 |
1377 | | 禰宜太夫屋敷 | 諏訪大社下社五官のひとつ禰宜太夫家。当主が東京へ去り借家人が住んでいたが平成元(1989)年8月21日焼失した。 | 2020-03-06 |
1378 | | 犬射馬場、上馬場の標石。 | 鎌倉時代、武士は日頃の鍛錬に騎射の武技を重視し、それが遊戯化したり神事化したりしたものが多い。この場所は犬追物などをした所で、このことは「諏訪大明神絵詞」にも記されている。江戸時代に入りこの行事が廃れると、周囲から境界を侵され、神社では享保18(1733)年に検地をして一般人の侵入を防いだ。その後も土地の使用のことで何回か争いがあって明治維新後のころ民間に移ったという。なお、下馬場の町名もあったというが、現在は上馬場(かみばっぱ)のみが残っている。 | 2020-03-06 |
1379 | | 犬射馬場、上馬場の標石。 | 諏訪大社の神官は上代末から中世までは武士であった。そのため練武の場を設けて武技を練り、神事にも取り入れられていた。犬射馬場は神殿の西続きにあり、現在も上馬場(かみばっぱ)の名を残している。享保18(1733)年検地をし、四隅に標石(武居入りから出土している「六方石」が使われている)が立てられた。東西約152m南北約73m周囲約450m。(下諏訪町の文化財には455m、下諏訪町の歴史には488mなどの記述も見える)
「下諏訪町の文化財」には、東北隅の標石は「享保十八癸巳年三月改、明和六己巳八月廿五日御宮奉行氏子方立会改候所、享保年中検地之節(境)目石書付。当社馬場依是南江。依是西江。」
北西隅の標石は「享保十八癸巳年三月改、従是東江八十三間二尺。当社之馬場従是南江四拾間二尺。」
東南隅の標石は「当社之馬場従是北江三 | 2020-03-06 |
1380 | | ワカサギの採卵場の池 | 砥川採卵場の池。昭和31(1956)年に諏訪湖漁協の有志が砥川河口でワカサギの採卵を始めた。砥川河口で捕獲されたワカサギは採卵・受精され池の中で孵化を待つ。卵は約20日間で発眼し一週間後に孵化するので、その間に県内外に出荷する。写真は採卵・受精した卵を卵枠のシュロ毛につけて池に浸けている風景である。 | 2021-04-01 |
1381 | | テニスコート | 町営球場テニスコート。昭和20年代には野球場側のみであったが、道路側にあった屋外バレーコートが室内になり、テニスコートが拡大された。 | 2020-03-06 |
1382 | | 旧高木温泉 | 旧高木温泉は湖中「カマアナ」から「かずさ堀り(車付きのやぐらを使う掘さく法)」で大正14(1925)年掘さくし、諏訪湖畔波打ち際に区民が温泉協同組合を組織、出資し共同浴場を造り引湯した。このもと区営浴場、湖の波打ち際近くにあって村民に親しまれた。この区には二つの区営湖畔浴場があり、赤彦の歌にも詠まれれて居る。その後、湯温が下がり昭和47(1972)年諏訪市境に新たな源泉を掘り家下地籍に移した。昭和30(1955)年代から湖岸の埋め立てが行われ、湖畔の旧高木温泉は払い下げられ、精密部品工場になった。 | 2020-03-06 |
1383 | | ワカサギ釣り | 風が冷たい岸辺でワカサギの引っ掛け釣り。産卵期で岸へ近づくワカサギを狙う。 | 2021-04-01 |
1384 | | ガスタンクの見える風景 | 球形ガスタンクのある風景。 右側は役場の駐車場で、その向かいの写真左下は、現在は「ハルピンラーメン」や町役場職員駐車場になっている。 | 2020-03-06 |
1385 | | 諏訪実業高校下諏訪分校最後の授業 | 諏訪実業高校下諏訪分校(夜間)最後の授業。№728参照。 | 2020-03-06 |
1386 | | 諏訪実業高校下諏訪分校最後の授業 | 終戦後昭和23(1948)年それまでの青年学校並びに実科高等女学校が廃され諏訪実業高校下諏訪分校が下諏訪中学校に併設された。それから約40年後、生徒が3人だけになってしまい、昭和63(1988)年度を持って閉校と決まった。この日は3月4日の卒業式を前に生徒3人が午後5時半最後の授業の席に着いた。下諏訪分校(夜間)最後の授業。 | 2020-03-06 |
1387 | | 騎馬奉納 | お舟まつり。 特別騎馬奉納記念。昭和12(1937)年。 | 2020-03-06 |
1388 | | 長持 | 長持。入市小口製糸所休憩所の文字。昭和13(1938)年。 | 2020-03-06 |
1389 | | 建て御柱 | 建て御柱。昭和13(1938)年。 | 2020-03-06 |
1390 | | 騎馬行列 | 昭和13(1938)年の騎馬行列。 | 2020-03-06 |
1391 | | 東餅屋 | 和田峠を越える古峠道(江戸時和田峠は餅屋峠とも呼ばれていた)慶応五年の記録では中山道で樋橋上のほうろくから山かげを通ると東餅屋があった。東餅屋は五軒の茶屋があった。現在、茶屋跡には一軒のドライブイン意外建物はなく石垣によって区分された屋敷跡にはカラマツが植えられている。 | 2020-03-06 |
1392 | | 水月園の花見 | お花見、女性や子どもたちの服装が当時をしのばせる。中には三味線をもった男性も見える。ごちそうは重箱に詰められている。昭和5(1930)年撮影。 | 2020-03-06 |
1393 | | 御騎馬 | 騎馬行列が勢揃い、お舟まつり。昭和12(1937)年。 | 2020-03-06 |
1394 | | 下諏訪商業組合 | 大正13(1924)年の下諏訪商業組合創立記念の時の写真。下諏訪商業組合の看板が見える。大正13年商工大臣から保証責任下諏訪商業組合の許可が出て、共同購入・保管・金融を取り扱った。№715参照。 | 2020-03-06 |
1395 | | 来迎寺旧本堂前 | 本堂前で女性や住職らと記念撮影。檀家方々。来迎寺については№626を参照。 | 2020-03-06 |
1396 | | 伏見屋 | 御柱祭の時。法被に伏見屋の文字が見える。自転車を持った少年も見える。 | 2020-03-06 |
1397 | | 橋の上 | 橋の上。法被の襟に「山七製糸場」の文字が見える。個人所蔵の写真。 | 2020-03-06 |
1398 | | 翼賛壮年団(大社)参拝 | のぼり端には諏訪郡内各町村の「翼賛壮年団」と書かれている。大日本翼賛壮年団は大政翼賛会の傘下団体の一つで昭和17(1942)年1月に結成された。各地区の若者組を退会した壮年団(組)が地域の行政にかかわる活動をしていたというがその活動は詳らかではない。その後戦時体制下にあっては戦争協力の会(大政翼賛会)として活動したところが多いという。写真は秋宮幣拝殿前と思われる。 | 2020-03-06 |
1399 | | 御柱山出し | 山出し記念写真。法被は「下諏訪消防組」。右後列には「救護、下諏訪消防組」の旗がある。「秋宮四之御柱」の前での撮影。柱の並んでいる様子から山出しの最終日の注連掛と思われる。 | 2020-03-06 |
1400 | | 消防組組頭就任記念写真 | 下諏訪各地区に私設消防組が置かれたのは明治20(1887)年、富部の若者組有志がポンプを購入してからのことである。その後、明治27(1894)年に町内を4区に分け「下諏訪組」が設置された。戦中の「警防団」を経て戦後、昭和22(1947)年に「消防団」となり活動内容の整備も行われた。写真の時は「組頭」が消防のトップで高木十吉氏は最後の「消防組頭」。(戦中は「警防団長」戦後は「消防団長」と呼ばれるようになった。)下諏訪巡査駐在所の前にて高木組頭就任記念写真。 | 2020-03-06 |
1401 | | 伏見屋商店 | 伏見屋商店。現在は店じまいしてしまったが、矢木東の国道20号線添いで多種の雑貨を商っていた伏見屋の店先である。店員の法被に「カネジョウ伏見屋店」の文字が染め抜かれている。看板には「伏見屋商店」とともに、「畳表・かや・荒物・□□・足袋・雑貨」などと書かれている。 | 2020-03-06 |
1402 | | 国勢調査員記念写真 | 町役場正面玄関前、国税調査は大正9(1920)年に第1回が実施され、以降5年ごとに行われた。写真は昭和14(1940)年に行われた、第5回の時の調査の記念写真。写真下に「昭和十四年臨時国勢調査員記念」と説明書きがある。 | 2020-03-06 |
1403 | | 秋葉山 | 配水池から見た秋葉山。 | 2020-03-06 |
1404 | | 旧御射山(もとみさやま)遺跡調査 | 諏訪史第一巻編纂あたり旧御射山遺跡の調)査をする(写真に「本郡先史時代最高遺跡地(舊御射山)一行」と記載。写真中央に腕組みしているのが鳥居龍蔵と思われる。調査員一行は大正9(1920)年、霧ヶ峰山塊北西部に位置する星ヶ塔周辺が黒曜石原産地遺跡と明らかにしている。
鳥居龍蔵一行、左から萩倉の人、浜孝吉、鵜飼貞直、鳥居龍蔵、牛山伝蔵、八幡一郎、鳥居の後ろに立つのは今井真樹、その隣は萩倉の人。 | 2020-03-06 |
1405 | | 赤渋山林道の橋梁施工 | 昭和6(1931)年1月21日、失業者救済のため砥沢林道開削の件が上提された。国道142号線桶橋分岐砥沢山内、車道3000m巾3.7mである。写真裏には「赤渋山林道橋梁竣工記念(昭和11・7・8写)」と記録されているが、写された風景は雪景色である。撮影年月日は不明としておく。なお砥沢橋は昭和30(1955)年の完成である。 | 2020-03-06 |
1406 | | 旅籠屋(はたごや)の看板 | はたごやの看板。当時の下諏訪宿の看板をはじめとする資料は「宿場街道資料館」に保存展示されているのでぜひ見学に出かけていただきたい。(入場無料) | 2020-03-06 |
1407 | | 下諏訪宿風景 | 明治22(1989)年(推定)当時は、この横町・木の下・湯田町が下諏訪宿の中心街であった。写真左手前の旅籠屋が菊本(元桧物屋)で、甲州街道の終点で甲州道中と中山道合流地であった。高い火の見櫓(ヤグラ)のむこうに秋宮の森が見える。右側には桔梗屋の看板が見えている。中山道は桔梗屋前で右・立町に折れて塩尻峠に向かっている。この写真は外国人の写したもので早稲田大学図書館に所蔵されていたものを青木枝朗氏が複写したものである。
建物は宿場らしさが残っているが、軒に街灯・軒灯が見えている風景が時代の変化を思わせている。 | 2020-03-06 |
1408 | | 公選戸長 | 明治12(1879)年6月、長野県が16郡となり戸長が公選され、副戸長が筆生(ひっせい)となり、下諏訪村では12月初の公選戸長に山田政之丞(下原東町)が当選する。写真№557参照。 | 2020-03-06 |
1409 | | 諏訪神勅祭創始千二百年祭友之町の光景 | 絵葉書。(下諏訪名所)諏訪明神大祭禮、友之町中町の光景。現在の四ツ角より西の現本通り。消印に「下諏訪45.4.28」(明治45年)スタンプに「官弊中社諏訪神社、諏訪神勅祭創始千二百年記念」と「5本足の梶の葉紋」が見える。また写真の外国人は明治38(1905)年湯田新町に宣伝を開始したルーテル教会の婦人宣教師である。 | 2020-03-06 |
1410 | | 八島高原 | 八島ヶ原高層湿原。
4枚目の、写真手前が八島ヶ池、それに続くのが高層湿原、さらに奥に薄く見えるのが大笹山。 | 2020-03-06 |
1411 | | 蕉鹿庵前の酒宴 | 写真は大正15(1926)年10月31日撮影、水月会が蕉鹿庵の前で観楓会を開いた時のもの。写真裏に右から中村春吉、中村尚(其梅)、吉沢兼之助(晩雪)河西庄三郎、中村卯一郎(如佛)、中村橲一、中村茂重(柳月)、浜平三郎(木章)、林巻平(渓月)中村牧五郎(梅屋)と名前が記録されている。
大正4(1915)年天龍道人壱百年忌記念事業にあたって慈雲寺庭前に天龍道人の詩碑を建て、遺墨展を開いた。この時、水月園の正岡子規碑左手にの観月堂のある平の一角に蕉鹿庵を茶室として建設した。8坪ほどの茶室風の建物で、句会やお花見などに利用されたが、昭和25(1950)年の台風により倒壊し除去された。
ちなみに焦鹿というのは天龍道人が愛用した「焦鹿」という言葉に由来している。。 | 2020-03-06 |
1412 | | 東俣の木材搬出 屏風岩 | 東俣沢奥の観音沢の屏風岩。№695・696.697参照。 | 2020-03-06 |
1413 | | 東俣の木材搬出 | 東俣の木材搬出。№695・696・698参照。 | 2020-03-06 |
1414 | | 東俣の木馬と木馬道 | 観音沢の木材搬出の様子。林嘉平・河西直人氏等5名が東俣料林から払い下げをうけ、モミ・サワラ・雑木などを木馬道(キンマミチ)を木馬(キンマ)で引き出し、主に深川の材木屋に搬出した。町内でも30~40軒家が建ち、嘉平方の土蔵もこの時のモミ材で建築。諏訪電気会社もこの材で建てた。
№696.697・698参照。 | 2020-03-06 |
1415 | | 東俣開拓集落跡 | 昭和21(1946)年東俣の欅平と八島平を営農資金を借りて引揚者が開墾することになる。昭和22(1947)年3月東俣開拓組合ができ、5戸入植、酪農経営に取りかかるが、食料事情の好転から、昭和38(1963)年、全て離村。写真は一時的に酪農化した東俣の村落。東俣のこのあたりの桑畑にはホップがからんでいた。
№684参照。 | 2020-03-06 |
1416 | | 牧草地にカラマツ植栽 | 東俣牧草地の牧草クローバー、オーチャードの畑に唐松が植林されている。酪農に見切りをつけたためと思われる。
昭和39(1964)年の撮影。 | 2020-03-06 |
1417 | | 学校林に植栽 | 明治39(1906)年5月12日、下諏訪小学校生徒が植林に参加。この年には赤松18万本を植栽したという。また学校林の位置が分かる地図が「写真が語る下諏訪の百年」
66pにあるので参照されたい。
学校林の植栽の様子は、明治39(1906)年5月12日の「写真が語る下諏訪の百年」88pの写真とこの明治40(1907)年4月28日付のこの写真とが大変よく似ている。山の下と山の中腹の位置が異なるが植樹するための事前に掘ってあったという穴は同じように掘られている。 | 2020-03-06 |
1418 | | 垂木岩(タルキイワ) | 西餅屋立場下手にあった垂直に切り立った垂木岩。ここには垂木岩の断崖に直角に穴を穿って角材をはめ込み、川側に柱を立てて橋桁(はしげた)を支え、その上に板を載せて橋とした桟橋(かけはし)がかけられていた。旅人にとっては肝を冷やす場所で、特に雪の降る冬は足元もままならないほどだったという。明治10(1877)年和田峠改修の時、間道ができてなくなった。 | 2020-03-06 |
1419 | | 和田峠黒曜石採掘の跡 | 和田峠トンネル西口200m手前国道沿いの黒曜石採掘場。昭和23(1948)年頃の吉沢太七郎の旧抗を清水明氏が写す。工業用材としては昭和31(1956)年小野田セメント㈱がホシガトウ及び東餅屋で断熱材として、また昭和45(1970)年からフヨーライト㈱が和田トンネル西方で採掘して本社に搬出している。 | 2020-03-06 |
1420 | | 和田峠黒曜石採掘の跡 | 明治42(1909)年和田峠星ヶ塔(ホシガトウ)の黒曜石を耐火性陶器製造用として名古屋方面に、大正7(1918)年には工芸品加工用として東京へ搬出した採掘場。その後、大正12(1923)年、大社通りの武居保路氏が甲府へ送り加工し販売。昭和(1934)年には菅野町で浜義雄、石埜正太郎が加工品を作って売り出してた。 | 2020-03-06 |
1421 | | 湯田坂 | 湯田坂上より湯田町を望む。 | 2020-03-06 |
1422 | | 湯田坂 | 湯田坂上より湯田町を望む。現在は電柱のない坂道となっている。 | 2020-03-06 |
1423 | | 西餅屋上停留所 | 「西餅屋上大曲の停留所付近、右側の白い岩は石英安山岩」と説明が書かれていた。 | 2020-03-06 |
1424 | | 東俣の田ぬるめ | 写真中心付近、道を隔てて一段高いところに一つのぬるめがあって、そこで温められた水が田圃の中のぬるめへみちびかれる。(本山氏水田)※同じ写真を撮った写真が別にありその説明に東俣とメモが残されている。 | 2020-03-06 |
1425 | | 東俣開拓農家 | 昭和21(1946)年東俣のけやき平と八島平を営農資金を借り引揚者が開墾することとなる。昭和22年3月東俣開拓組合ができて5戸入植して酪農経営に取り掛かったが、その後食糧事情の好転から離農するものが出て、昭和38(1963)年には残らず離村してしまった。
この写真の二階は蚕室で蚕棚が見え、手前は乳牛舎である。№694参照。 | 2020-03-06 |
1426 | | 萩倉の百合畑 | 萩倉上の百合畑。昭和20(1945)年終戦後「リンドウ」が出荷用花卉として取り上げられてから町内にはキク、カーネーション、ユリ等が導入され、町の出荷農産物として重要な地位を占める時もあった。しかし昭和40年代にはブームが去り一部の堅実な栽培がおこなわれるだけになっていた。写真の記録された昭和42(1967)年の記録を見ると、その中で萩倉東俣のユリは栽培者8名・栽培坪数2440坪で最も盛んであった。 | 2020-03-06 |
1427 | | 武居源湯 | 昭和38(1963)年4月21日噴湯した武居源湯。
昭和の初め頃から綿の湯の自然湧出が不可能となり、動力ポンプによって揚湯する状態になっていた。そこで下諏訪町が綿の湯源湯地から至近な武居地籍へ温泉の掘削を行った。この温泉の掘削の結果、綿の湯源湯に著しい減少の影響が現れ、武居温泉の揚湯是非の問題で町との談合の結果、武居温泉より綿の湯へ一定量を引湯することとなった。また昭和40(1965)年12月に竣工した「国民宿舎下諏訪観光会館・山王閣」にも引湯されていた。 | 2020-03-06 |
1428 | | 合宿風景 | 大学・高校の夏季合宿学生が温泉町の宿舎を出て運動場へ向かうところ。夏季合宿練習のため東京の高校・大学生の来町するものは戦前からあって、小学校の施設を利用していた。町が本格的に請け入れるようになったのは、戦後昭和27(1952)年ころからのこと。昭和39(1964)年には一万人を越え、14軒の旅館に合宿していた。 | 2020-03-06 |
1429 | | 和田義盛の刀石 | 明治37(1904)年古峠(旧中山道)の石小屋下にあった和田義盛の刀石が、水月会員の出払で慈雲寺中庭に移された。この石は砥川石(安山岩)の側面に刀を突き通したという穴が三つあいている、(樹形と推定される)鉱物学的に貴重なもの。和田義盛は鎌倉時代初め(1147-1213)の人。侍所別当だったが北条氏と対立し挙兵したが、一族とともに滅ぼされた。 | 2020-03-06 |
1430 | | 水月園観音堂 | 明治35(1902)年12月10日水月会が会員32名で慈雲寺を会場に発足した。この年慈雲寺裏の金比羅山を開山し龍湖の句碑を建て水月園と命名した。また桜樹、楓200本を植え芭蕉・蕪村の句碑も建立。明治40(1907)年には観音堂を建て、子規の句碑を建てた。明治42(1909)年5月には碧倍桐来諏にあたり、水月会に招待した。その後、曽良の句碑を建てたり園域を拡大しつつじの植栽をするなどして整備されてきた。明治28(1895)年には町に寄付され「水月公園」と改称されている。写真は水月園観月堂の葉書。 | 2020-03-06 |
1431 | | 砥川東の入江 | 赤砂砥川東の入江の風景。 | 2020-03-06 |
1432 | | 水月園 | 昭和41(1966)年撮影の水月園入口の階段付近。 | 2020-03-06 |
1433 | | 湯田坂より坂上を望む | 湯田坂下より坂上(秋宮方面)を望む。いくつか旅館の名前が見える。昭和40年撮影。 | 2020-03-06 |
1434 | | 道路拡幅中之四ツ角 | 下諏訪町大社通り四つ角西の友の町本通りで道路拡張工事の始まった頃。足場のあるのが改装中の中央デパート、右角は八十二銀行と信用金庫支店(信金はその後春宮大門先へ移る)不二屋の向うにパチンコ屋(タマキ)の看板も見える。
友の町本通り街路拡張工事は、昭和37(1962)年に着工、昭和41(1966)年に竣工している。 | 2020-03-06 |
1435 | | 友之町本通 | 友之町本通拡張工事のおくれた家。 花咲町入口。写真の奥のしんきん(のち春宮大門入口へ移る)の手前にガソリンスタンドの看板も見える。
友の町本通り街路拡張工事は、昭和37(1962)年に着工、昭和41(1966)年に竣工している。 | 2020-03-06 |
1436 | | 砥川下流 | 「諏訪案内」より。砥川が天井川となっている様子。左側の家屋は東赤砂と思われる。 | 2020-03-06 |
1437 | | 砥川先 | 昭和38(1963)年撮影の砥川先の風景。 | 2020-03-06 |
1438 | | 水月園の花見風景 | 昭和4(1929)年撮影の水月園の観音堂の平での花見風景。当時の服装がよくわかる。特に着物や髷姿の婦人が目立つ。 | 2020-03-06 |
1439 | | お花見新道の桜並木 | 明治32~3(1899~1900)年ごろ桜が植えられたというお花見新道、そのお花のトンネルが大戦中に切り残された一部を写した写真。現在では一般的に「花見新道」と呼ばれる。 | 2020-03-06 |
1440 | | 西餅屋竹屋 | 西餅屋(立場茶屋跡)に一軒残った竹屋・武居清左エ門の家を写す。左前の石垣は本陣小口金右エ門の屋敷跡、右の石垣は犬飼太金冶、その前が小松屋竹次郎があった。この竹屋も大正13~14(1924~1925)年に菅野町へ下る。 | 2020-03-06 |
1441 | | 柴金桃あずまや | 小口正衛は第2代村長、第5代町長を務めた人。趣味が広く柴庭庵金桃と称し俳句をした。柴金桃は後年の俳号である。武居台地の先端部、宮司家宅裏の柴金桃あずまや。「名月や虫の髭ふる草の上」の句碑が赤砂砥川先の赤砂公民館前に残されている。 | 2020-03-06 |
1442 | | 和田峠開削 | 大正12(1923)年7月下諏訪では浜義雄氏が、諏訪電の協力を得てフォードを買い入れ、その年はじめて自動車で和田嶺を越えた。明治28(1895)年8月和田峠(明治10(1877)年10月の開削の峠)の頂上を掘り下げて新道(国道142号線)をつくった。写真下に「和田嶺頂上堀割ノ景」の文字。 | 2023-04-15 |
1443 | | 河東碧梧桐を囲んで句会 | 写真の下のメモに子規派、紫竹、木工外、水翁(浜孝吉)、玉羽英、李塘、鶴水、鵞水城の名が書かれている。明治42(1909)年5月河東碧梧桐の来諏にあたり、5月1日水月園(慈雲寺)で句会を開いている。写真はこの時のものか?なお碧梧桐は昭和2(1927)年ふたたび来諏している。紫竹は関一郎(M3・高木生)、木外は岩本木外(M5・高木生)、水翁は浜孝吉(慶応元年・小口村生)、玉羽英は中村幸義・・・いずれも俳句を愛した人々である。李塘は岩本長衛(下の原)、鵞水城は林重義(友之町)。 | 2020-03-06 |
1444 | | 水月園 | 水月園観音堂。 | 2020-03-06 |
1445 | | 一本柳神社 | 西赤砂のリンゴ畑に囲まれた一本柳神社。赤砂地区の産土神である。写真撮影当時は、享保年間に作られた「友の町絵図」にも書かれていたといわれる柳の古木が祠の横に残っていた。
現在祠には・諏訪明神・豊受比売大神・津島大神・菅原大神・多賀大神・三峯大神が祭られているほか、境内には・大陸天(だいろくてん)や道祖神、蚕玉社の石碑も祀られている。 | 2020-03-06 |
1446 | | 十四瀬川 | 十四瀬川下流のヨシ。川の中に船がつなぎとめられている。 | 2020-03-06 |
1447 | | 砥川 | 川向こうが赤砂の検車場、赤砂先に諏訪自動車車検場が設置されたのは昭和40(1965)年4月である。 | 2020-03-06 |
1448 | | 砥川 | 鷹野橋と湖畔道路の記念碑。№658参照。 | 2020-03-06 |
1449 | | 清水町付近の砥川 | 砥川上流を望む。砥川河床より砥川左端の清水町の家々が低くなっていて天井川の様子が分かる。砥川添いに県営住宅10世帯(5棟)ができ清水町が生まれたのは昭和22(1947)年3月である。 | 2020-03-06 |
1450 | | 砥川 | 鷹野橋下から砥川上流を望む。橋の東側(写真右側)たもとに昭和9(1934)年に下諏訪駅頭から移した湖畔道路の記念碑が見える。当時は砥川が天井川になっている様子がよくわかる。湖畔道路開通は大正8(1919)年、翌年下諏訪駅前広場に記念碑が建てられていた。 | 2020-03-06 |
1451 | | 下諏訪小学校南校 | 下諏訪小学校南校雨天体操場。№650,656参照。 | 2020-03-06 |
1452 | | 議会風景 | 新庁舎の議会風景。 | 2020-03-06 |
1453 | | 記念写真(下諏訪町役場前) | 昭和11~13(1936~1938)年。旧役場前(現すわのね)。 | 2020-03-06 |
1454 | | 記念写真秋宮 | 諏訪大社下社神楽殿前。いつ何の記念写真かは不明。 | 2020-03-06 |
1455 | | 記念写真秋宮 | 下社秋宮鳥居前。手水舎が八幡坂側にある。何の記念写真かは記録がない。 | 2020-03-06 |
1456 | | 諏訪湖遠景 | 大正元年の撮影。諏訪湖遠望。 | 2020-03-06 |
1457 | | 春一伐採記念写真 | 大正14(1925)年。春一伐採記念写真。 | 2020-03-06 |
1458 | | 下の原消防団 一分団 | 法被に「下諏訪消防組第一部」とある。昭和13(1938)年撮影。下社春宮鳥居前。 | 2020-03-06 |
1459 | | 表彰旗授与 | 昭和36(1961)年3月3日消防庁表彰旗が下諏訪駅に到着。駅頭にて団員及び町民に対して堀内忠夫団長が挨拶。 | 2020-03-06 |
1460 | | 大和作内作品 | 昭和5~6(1930~1931)年頃、大和作内氏が営林委員に贈った作品。 | 2020-03-06 |
1461 | | 田植え | トラクターによる代掻きの様子。昭和42年撮影。 | 2020-03-06 |
1462 | | 田植え | 田植え風景。昭和42年撮影。 | 2020-03-06 |
1463 | | 代掻き | 人力による代ふみの様子。富部下字浜辺。昭和42年5月撮影。 | 2020-03-06 |
1464 | | 諏訪実下諏訪分校 | 昭和23(1948)年3月31日、それまでの青年学校並びに実科高等女学校が廃され、全日制の下諏訪実業高等学校の設置が認可され、下諏訪中学校に併設された。次いで昭和24(1949)年4月1日、諏訪実業高校に統合され下諏訪分校となった。
№627参照。 | 2020-03-06 |
1465 | | 宮坂喜十先生胸像 | 昭和4(1929)年11月18日、宮坂喜十先生謝恩会で胸像を下諏訪小学校南校の校庭入口に建立。昭和18(1943)年3月10日、大東亜戦争で供出したが、昭和26(1951)年10月7日ブロンズに復元する。製作者武井直也。宮坂喜十先生が教職についたのは明治18(1885)年以来44年間ひとすじに教育に尽くしてきた。下諏訪の初等教育の原点を担ったお一人である。「下諏訪の史話」「諏訪大神の信仰」などの郷土史の著者でもある。 | 2020-03-06 |
1466 | | 金馬簾(きんばれん)披露式 | 写真後ろの建物は明治9(1876)年建築の下諏訪学校。第3回金馬簾(きんばれん)披露式が明治37(1904)年9月23日下諏訪学校校庭にて挙行されたときの記念撮影。下諏訪町消防組は公設消防としてその功績が認められ、明治35(1902)年10月23日金馬簾一条の使用を許された。馬簾とは纏(まとい)の飾りのこと。 | 2020-03-06 |
1467 | | 萩倉分教場 | 萩倉分教場落成式当日。明治8(1875)年4月下諏訪学校支校が許可となって、お堂を仮校舎として発足。明治19(1886)年3月下諏訪村・長地村組合学校、萩倉派出所となり二階校舎が施工、明治25(1892)年4月分教場と改称。明治44(1911)年分教場改築の願が上堤、翌45(1912)年落成左は教員室と教員住宅、右は教室と体操場。昭和41(1966)年4月廃校となる | 2020-03-06 |
1468 | | 下諏訪尋常小学校 | 明治41(1908)年11月3日日露役前からの懸案であった建築の増築校舎が落成。下諏訪尋常小学校、後に下諏訪中学校として使用される。 | 2020-03-06 |
1469 | | 陸軍航空隊航空写真 | 大正6(1917)年2月16日、陸軍航空隊のモーリス・ファルマン機上から撮影した下諏訪町の中心部。中央の建物が下諏訪学校、その上の森が諏訪大社秋宮、その左斜面前方に続く町並みが中山道で塩尻方面に向かっている。 | 2020-03-06 |
1470 | | 下諏訪尋常小学校雨中体操場 | 写真左に「下諏訪尋常小学校雨中体操場小屋組。明治四十一年四月撮影」と書かれている。 | 2020-03-06 |
1471 | | 明治21(1888)年の記念写真 | 下諏訪学校尋常科1・2年生、明治21(1888)年の写真。
和服に靴・カバンの取り合わせがほほえましい。二人の間にあるのは教科書だろうか。小松定衛先生が9才の時横町ガラス取り写真屋で写す。城取一二三写真屋にて複製。 | 2020-03-06 |
1472 | | 下諏訪学校野球大会優勝 | 明治41(1908)年秋、諏訪中学主催野球大会に下諏訪学校が優勝。なおうしろにかざられた優勝旗には明治40(1907)年春も下諏訪学校の名が刻まれている。 | 2020-03-06 |
1473 | | 陸軍航空隊航空写真下諏訪学校 | 明治9年11月1日友之町字郷神殿に建築された下諏訪学校の全景、屋根は瓦ぶき硝子障子で三階の望楼の色硝子が夕日に美しく照り輝いた、左の校舎は明治30(1897)年建築の高等科校舎。 | 2020-03-06 |
1474 | | 下諏訪学校 | 下諏訪学校にて撮影。 | 2020-03-06 |
1475 | | 下諏訪尋常高等小学校玄関 | 質実剛健なバルコニーと明治35(1902)年3月の記念撮影。後から2列目右から3人目が浜孝吉校長。 | 2020-03-06 |
1476 | | 下諏訪尋常高等小学校 | 明治9(1876)年11月建築の下諏訪学校(名称が明治20年から尋常小学校)、玄関とバルコニーと望楼が特徴。写真は大正3(1914)年卒業記念撮影。 | 2020-03-06 |
1477 | | 下諏訪小学校奉安殿 | 運動場南はじに奉安殿を竣工する。竣工式は大正13(1924)年8月。昭和21(1946)年1月に御真影を地方事務所に奉還し奉安殿も姿を消した。 | 2020-03-06 |
1478 | | 諏訪実高校下諏訪分校 | 諏訪実業高校下諏訪分校。(現在は下諏訪中学校プールになっている)
昭和23(1948)年3月31日全日制の下諏訪実業高等学校が認可となり青年学校並びに実家高等女学校が廃された。しかし学校建設は実現に至らず、下諏訪中学校に併設された。次いで昭和24(1949)年4月1日には諏訪実業高等学校に統合され下諏訪分校となった。教科課程は普通科・被服科を置き、定時制の四年制であった。
№642参照。 | 2020-03-06 |
1479 | | 来迎寺 | 知恩院を本山とする浄土宗寺院で引接山聖聚院来迎寺という。寺の由緒によれば天文10(1541)年草創という。
来迎寺は明治40(1907)年10月7日の火災で本堂、庫裡を失ったので、翌年東筑摩洗馬村の廃寺を移して庫裡として、昭和11(1936)年本堂を再建(棟梁立石初三郎)、同32(1957)年鐘楼、梵鐘をつくる。同寺の鉄焼(かなやき)地蔵尊とお堂は町の文化財に指定されている。
山門左手前の道路は明治29(1957)年に開さくされた中山道の新道(お花見新道・国道)である。 | 2020-03-06 |
1480 | | 高木のメリヤス工場 | 下諏訪町高木のメリヤス工場内(昭和43(1968)年2月)を写す。昭和43(1968)年1月現在、メリヤス工場が97、横編機台数が1224台を数える盛況だった。 | 2020-03-06 |
1481 | | 高浜のメリヤス工場 | 高浜のメリヤス工場で自動大横編機を写す。 | 2020-03-06 |
1482 | | ヤシカ工場(旧片倉製糸) | 東洋のスイスといわれていた頃の精密工業(カメラ工場)の様子。ベルトコンベアー・システムによって次々に完成品が作られてゆく。
戦後のカメラブームの中、昭和24(1949)年諏訪市の八洲精機製作所を継承したヤシカカメラは、昭和30(1955)年下諏訪町の旧片倉製糸下諏訪製糸所に本社工場を移転し、新型カメラを登場させ市場にアピールした。新興メーカー・ヤシカは安さも売りの一つで成長し、昭和30年代には国内販売高も輸出も首位を占めていた。昭和47(1972)年本社を岡谷市長地に移転したが、昭和50(1975)年に経営破綻し、京セラに吸収合併された。 全てをベルトコンベアシステムにより最終時加工(1枚目の写真)。工場内は若い労働者によって占められている。 | 2021-03-27 |
1483 | | 三協精機オルゴール工場 | 自社製の自動専用工作機械の並んだ自動機工場(三協精機の自社製自動工作機械)。
一人で10台から20台の機械を受け持つ。ここでは、オルゴール、タイムスイッチ、8ミリカメラなどの部品が作られている。 | 2021-04-01 |
1484 | | ニット展示会 | ニット展におけるスーツの展示。於山王閣。 | 2021-04-01 |
1485 | | 高木のメリヤス工場 | メリヤス自動丸編機。 | 2020-03-06 |
1486 | | 高木のメリヤス工場 | メリヤス大横編機。下諏訪町高木のメリヤス工場内(昭和43年2月)を写す。昭和43年1月現在でメリヤス工場が97、横編機台数が1224を数える盛況だった。 | 2020-03-06 |
1487 | | 下諏訪全景 | 中央の森が青塚、左の森が秋宮。砥川が諏訪湖に突き出たように中洲をつくっている。 | 2020-03-06 |
1488 | | 諏訪電気株式会社 | 明治30(1897)年11月、諏訪電気株式会社が創立、最初木の下の一民家に事務所をおいたが、立町の菅沼屯(たむろ)方に移る。 | 2020-03-06 |
1489 | | 落合発電所 | 落合発電所。明治33(1900)年10月工事が竣工し送電(60キロワット)事業を開始し、明治36(1903)年には増築し、60キロワット発電機をもう1台増設。写真は増設された発電所である。 | 2020-03-06 |
1490 | | 中部配電裏の建物 | 中部配電裏の建物。 | 2020-03-06 |
1491 | | 中部電力株式会社(特級)営業所 | 昭和26(1951)年中部電力下諏訪営業所となり、昭和40(1965)年11月鉄筋コンクリートの新社屋に改造される。
平成8(1996)年諏訪湖時の科学館儀象堂に改築され、現在は「しもすわ今昔館おいでや」として下諏訪町観光の拠点となっている。 | 2020-03-06 |
1492 | | 芭蕉句碑 | 明治27(1894)年4月20日、萩倉観音堂坂登口(落合橋畔)
、芭蕉の句碑が建立。「雪ちるや穂屋のすすきの刈の残し」は芭蕉200年忌に下原の山田正倫(正之丞)ら9名」が発起で建立。 | 2020-03-06 |
1493 | | 浮島発電所 | 大正7(1918)年山十組で武居入に自家用発電所を設置し、次いで大正9(1920)年には入丸製糸で宮ノ上に、同10(1921)年には片倉組丸六製糸で、自家工場内に御手洗せぎを引き入れて自家用発電所を作っていた。
写真は入丸浮島発電所全景、発電所裏手に水圧管が見える。 | 2020-03-06 |
1494 | | ガソリンポンプ車新調 | 下の原で寄付金で購入したガソリンポンプ。大正7(1918)年10月27年、下諏訪町消防組で秋季演習のさい、森田式ガソリンポンプ(25馬力)新調の披露式を挙げる。諏訪地方最初のガソリンポンプであった。御田劇場の向かい合いに、ポンプ置き場を新築する。写真で見る下諏訪の百年には「組頭の伊藤玉蔵が中央に見えることから大正9(1920)年3月から11(1923)年5月の間のものであろう」と書かれている。
写真の裏書には大正15年12月15日と記録されている。 | 2020-03-06 |
1495 | | 矢崎ガラス取り写真 | 古田常年氏叔父菊池末治郎が横町矢崎ガラス取り写真屋で写す。 | 2020-03-06 |
1496 | | 省営バスによる薪炭の搬出 | 省営バスで和田嶺方面の薪炭を搬出する状況。その頃は、バストラで客貨輸送をし、和田嶺方面の薪炭を搬出した(下諏訪国鉄自動車営業所前撮影)。荷台の上には薪が、その上に炭俵がつまれている。 | 2020-03-06 |
1497 | | バス開通式当日 | 昭和5(1930)年10月和田嶺開発協会が発足して運動の結果、昭和6(1931)年和田峠トンネル貫通、昭和8(1933)年3月上和田・丸子間と下諏訪・岡谷間が営業開始された。和田峠は難工事で昭和8(1933)10月8日試運転に成功して、昭和8(1933)年10月13日和田嶺省営バス全線開通祝賀式が慈雲寺において開催された。省営バス路線中日本最高の峠道を40人乗りバスで4往復した。2時間半の所要時間であった。所長は下諏訪駅長が兼務した。 | 2020-03-06 |
1498 | | 下諏訪幹部警察官派出所 | 昭和37(1962)年庁舎が老朽化したので黒田町長等が県警察本部に陳情し総工費450万円で着工し翌昭和38(1963)年に竣工した。昭和38年に改築された下諏訪幹部警察派出所。写真は昭和38(1963)年に改築された下諏訪幹部警察派出所。
№600参照。 | 2020-03-06 |
1499 | | 明新館 | 古くは行屋(お堂)があったところで、明治10(1877)年に学校建築の費用に充てるため御堂と土地を民間に売ったが、明治24(1891)年にお堂を取り壊して集会所を建て、「明新館」と名付けた。
下諏訪町最初の集会所。その後何回か改修を重ねてきたが老朽化により昭和41(1966)年現在の建物に改築されている。
写真は改築直前の昭和40(1965)年の明新館。
下原中村勝五郎の日記(日嘉恵雑書帳)に「明治24年200円にて明新館建てる」とある。玄関と平石屋根は明治32(1899)年の改修。行屋にあった十王像(町文化財)は現在同館に保存されている。 | 2020-03-06 |
1500 | | 下諏訪分署 | 明治22(1889)年12月竣工。明治23(1890)年4月25日落成。この分署は明治21(1888)年8月管内村民間に庁舎新築の議が出て、寄付金をもって湯沢山御料休の松の良材を用いて建てられた和洋折衷様式の見事な建築であった。現在は御柱モニュメントを経て高札場になっています。この頃の管轄区域は下諏訪村・長地村・平野村・川岸村であった。現在は「八幡坂高札ひろば」。 | 2020-03-06 |
1501 | | 重複地問題 | 角間沢西重複地問題解決.
明治13(1880)年来の懸案が大正13(1923)年円満に決する。
写真はこの時の尽力者で、左から宮坂嘉十・小口亀衛・高木清四郎・吉沢三代吉・吉沢今朝蔵の諸氏。外に河西友三郎。 | 2020-03-06 |
1502 | | 水月園より諏訪湖を望む | 萩倉合名会社を中心に水月園より下諏訪町を望む。萩倉合名会社(現小口克郎氏宅上)萩倉の製糸創業は明治11(1888)年篠藤・小河原氏等が機械製糸を繰業し中山道による物流(鉄道未施工),豊富な森林資源、用水の便などにより発展した。しかし明治30年代の石炭の利用、明治35(1902)年の篠ノ井線の開通、明治38(1906)年中央東線が岡谷駅まで開通、森林資源の枯渇等により立地条件が逆転し明治38(1905)年春宮下へ移転し萩倉での製糸は終止符を打った。 | 2020-03-06 |
1503 | | 旧町役場建設の看板 | 八幡町に下諏町役場新庁舎が決まった。写真は「大正十三年十二月建之」「「町長大和仁平」「助役小林廣志」の文字などが読める棟札である。ちなみに落成式執行は大正(1925)14年7月18日。 | 2020-03-06 |
1504 | | 鎌倉街道(若宮下) | 若宮墓地下の鎌倉街道。鎌倉街道は小田野から慈雲寺・来迎寺を経由して富部若宮下を通り高木へ抜けている。比較的原形を止めている小田野も社が丘団地の開墾でなくなり、富部若宮下のこれが町内唯一の鎌倉街道になった。 | 2020-03-06 |
1505 | | 若宮 | 富部若宮下の六地蔵様. | 2020-03-06 |
1506 | | 旧中川旅館 | 旅籠や中川家の欅の角柱。馬のたづなを繫ぐ金の輪。この角柱は現在町博物館にて保管。 | 2020-03-06 |
1507 | | 旧中川旅館 | 旅籠屋中川家、奥にかめやホテルの看板が見える。 | 2020-03-06 |
1508 | | 旧中川旅館 | 下諏訪宿の昔姿として残された最後の旅籠屋中川家。出粱造りやそれを支える欅の角柱が見える。この角柱には馬の手綱をつないだという金の輪がそのままになっていたといい、現在は下諏訪博物館に保管されている。
昭和51(1976)年建物は取り壊されいる。 | 2020-03-06 |
1509 | | 下諏訪宿場周辺 | 明治22年(1889)年(推定)当時はこの横町・木下・湯田町が下諏訪町の中心であった。
左手前の旅館が菊本(元桧物屋)で、その陰に綿の湯があり曲の手の向こうが木の下町で甲州街道の終点。
奥に見える森は秋宮。
右側に「ききょうや」の看板が見えている。桔梗屋前で右立町に折れて塩尻峠に向かっている。
街の建築様式をはじめ街灯・軒灯のあるのに注目したい。この写真は外国人の写したもので早稲田大学図書館に所蔵されていたものを青木枝朗氏が複写したものである。 | 2020-03-06 |
1510 | | 本陣庭園 | 中山道随一の名園と称される本陣の庭園。現在の庭園は江戸時代中期に整えられたものというが、各地の名石を集め自然の地形を利用し、秋宮の森や周囲の山を借景にして、承知側から引水した水を利用した本格的築庭式石庭園と紹介されている。特に京風の建物からの眺めは春のつつじ、新緑、初夏のあやめ、さつきの紅葉、雪景色など四季折々に楽しめる。
もともとこの庭園は、本陣六代目岩波太郎左衛門が、伊豆韮山の江川太郎左衛門のもとに遊び、帰りてつくりしもので、御小休所も同時に建てられたと伝えられている。
№587参照。 | 2020-03-06 |
1511 | | 本陣御小休御座の間 | 「本陣岩波家」のパンフレットには、建築史の東大藤島名誉教授の言葉で次のように紹介されている。「(前略)…下諏訪宿の本陣岩波家の客室と庭ほど、純粋な京風を純粋の極にまでなしえた例はどこにもなく、まさに中山道中の異彩である。これほどに洗練された京風数寄屋造りは、京大工によるものとしか考えられない。…(後略)」
明治13(1880)年6月24日、明治天皇御巡幸の際は旧本陣岩波家にお小休された。なお、江戸時代末に皇女和宮が使われた上段の間は聴泉閣かめやに移築されている。 | 2020-03-06 |
1512 | | 旧本陣玄関(現聴泉閣かめや) | かめやホテル(旧本陣玄関)。玄関は昭和40(1965)年頃改造する。旧玄関はそのまま新建材でおおってある。 | 2020-03-06 |
1513 | | 善光寺拝参攝取看板 | 「摂取」とは仏教用語で特に阿弥陀仏が慈悲の力によって衆生を受け入れて救うことである。明治期善光寺宿坊常住院発行の講員証などが残されている。写真の看板には「善光寺拝参攝取講 講社掛」とある。 | 2020-03-06 |
1514 | | 三都講看板 | 江戸時代後期には旅が盛んになったが、安心して泊まれる宿選びに難儀する人も多かった。大阪の商人松屋の手代源助は誰でも安心して泊まれる旅館組合「浪花組」(のちの浪花講)を結成した。加盟宿には目印の看板をかけさせるとともに、旅人には所定の鑑札を渡し、宿泊の際には提示するようにした。浪花講をまねた講が次々作られたが「宿屋組合三都講」もその一つである。三都講は天保元(1830)年大阪河内屋茂左エ門と江戸馬喰町苅屋茂右エ門によって作られた。写真は「三都講同盟結社看板」。 | 2020-03-06 |
1515 | | 看板「西餅屋邸小口金右衛門」 | 西餅屋は江戸時代中山道下諏訪宿と和田宿の五里十八丁の峠路に設けられた「立場(たてば)」(人馬が休息する所)であった。金右衛門、日野屋六兵衛、竹屋清右衛門、小松屋嘉助の四軒があり藩堺にあったので、ときには、穀留番所が置かれた。幕末の砥沢口合戦のときは、高島藩の作戦で焼失されたが、すぐに再建された。現在は道の「曲之手(まきのて)と茶屋あとが残っている。昭和41(1966)年11月10日小口金一郎氏より | 2020-03-06 |
1516 | | 下諏訪温泉の光景 | 左に「かめやホテル」右に「まるや」の看板、正面に秋宮の森が見える。
止まっている車は、昭和33(1958)年から製造・販売された「スバル360」と思われる。
昭和52年12月複写 | 2020-03-06 |
1517 | | 下諏訪町の繁華街 | 岡谷製糸勃興期の下諏訪温泉街の情景。明治末期街道(立町)の突き当たりは綿の湯。綿の湯はこれまで前面が外湯で一般に開放され、裏面には銭湯があったが、外湯を第二区消防屯所に改修する。綿の湯の屋根越しに見えるのは「かめやホテル」、その裏手の森は「旧本陣岩波家」の屋敷木である。綿の湯の左手前は「ききょうや」「みなとや」で、左手前には「丸屋」の各旅館があった。写真右下に「諏訪電機株式会社」と思われる看板が見える。諏訪電気株式会社は明治30(1897)年設立で現在の「おいでや」の前に記念碑が建っている。 | 2020-03-06 |
1518 | | 秋宮鳥居前の松葉屋(後の千尋館) | 松葉屋全景。写真下に「割烹松葉屋 電話 二十六番」とある。 | 2020-03-06 |
1519 | | 秋宮鳥居前の松葉屋(後の千尋館) | 写真下には「松葉屋料理店 官幣中社諏訪大社下社鳥居前」と書かれている。諏訪大社は大正5(1916)年12月12日、官幣大社に昇格している。秋宮鳥居右奥には合名会社三井組製糸の第四工場。(明治9(1876)年から大正10(1921)年頃)(現社務所)手前は松葉屋料理店(後の千尋館)。その手前は旧柳沢家(現若松氏経営の土産品店)三井家は嘉永2(1849)年座繰機器を入れて土蔵前に庇を出して「座繰製糸」を始めた。後に明治9(1876)年「山王台」下にて本格操業、明治13(1880)年には三井仁平衛・増沢市郎兵衛・岩本甚蔵・岩波甚吉・小口森蔵等共同座繰場「白鶴社」を平沢町(現青雲館北)に立ち上げた。 | 2020-03-06 |
1520 | | 浮島社 | 浮島と砥川上流を望む。浮島社には祓戸大神が祭られており、現在ではここで毎年6月30日に夏越の祓の行事(茅の輪くぐり)が行われている。 | 2020-03-06 |
1521 | | 春宮大門先大鳥居建立 | この写真には「明治25(1892)年春宮大門先に建てる銅(からかね)鳥居を塩尻峠経由で到着させるとこ」と裏書あり。春宮大門先へ銅鳥居が建つ(明治25(189)2年)。大鳥居建設落札者河西準之助、河西寅吉と鋳造者小島大二郎(上田市)の三氏が礼服乗馬で指揮して、その部品を荷馬車で和田峠越えが困難なために保福寺峠を迂回して松本・塩尻峠経由で運んだという。 | 2020-03-06 |
1522 | | 春宮大門先石燈篭と 丸三倉庫 | 旧中山道添の春宮大門先石灯篭(常夜灯)〔文政12年(1829)建立〕から春宮大門の銅鳥居を望む。鳥居の奥に見える屋根は第五倉庫、常夜灯横の建物は事務所。丸三倉庫現下諏訪倉庫(三井)の六号倉庫で昭和44(1969)年諏訪信用金庫下諏訪支店(信金は昭和38(1963)年四ツ角に新築、昭和44(1969)年12月現在の場所に移転した。)丸三倉庫は「倉荷証券」を発行し金融事業も手掛けた。支配人は小口文次郎他に共同倉庫、湖国倉庫(現イングスシナノ、大和電気)をも担当したが両倉庫とも「空券事件」により廃業となった。
改修後の写真№575と比較して見ていただきたい。 | 2020-03-06 |
1523 | | 春宮大門先石燈篭と丸三倉庫(現諏訪信金下諏訪店) | 旧中山道添の春宮大門先石灯篭(常夜灯)〔文政12年(1829)建立〕から丸三倉庫(現諏訪信用金庫下諏訪店)を左に見て、春宮大門の銅鳥居を望む。丸三倉庫№576(昭和37年)との違いが見える。 | 2020-03-06 |
1524 | | 大門先の石燈籠 | 旧中山道に面した春宮大門先の石燈籠(常夜燈)。
文政12(1829)年に作られ台座から6mの高さがある。高遠系の流れをくむ横川村(現岡谷市)の石工山田金右ェ門の子平蔵(和哉)の作といわれる。
発起人は上諏訪及び大阪の人でたくさんの寄進の人名のほか、石運びの手伝いとして湯之町・友之町・下ノ原・久保・武居・富部・東山田・萩倉新田・樋橋新田の村々名が刻まれている。
石材は高尾山から運び総工費五十両を要したという。
写真下のきなこ石の唐獅子は金左エ門作(現在はない)。 | 2021-04-22 |
1525 | | 秋宮右手の石垣 | 秋宮左手の石垣。道は下諏訪宿へ入る甲州道中の江戸側の
入り口である。石垣正面の曲がり角は宿場への枡形お部分で番屋が置かれていた。 | 2020-03-06 |
1526 | | 山岡操家の石垣 | 富部の士族山岡操家の豪壮な石垣。 | 2020-03-06 |
1527 | | 陸軍航空隊航空写真 | 陸軍航空隊よりモーリス・ファルマン式二機寒中の山地飛行並びに水上試験飛行として来諏の際に写す。下諏訪学校や国道20号線がよくわかる。 | 2020-03-06 |
1528 | | 陸軍航空隊航空写真 | 陸軍航空隊水上試験に来諏の際に写す。下諏訪駅を上空から見る。駅周辺にはまだ畑などが見られる。特に駅南側(写真右側)には畑が広がっていて、人家はまだ少ない。 | 2020-03-06 |
1529 | | 昭和7年航空写真 | 中央の白い屋根が青年図書館。その向うの黒い建物が霞城館 | 2020-03-06 |
1530 | | 明治9年下諏訪集落図絵 | 明治9(1876)年の下諏訪集落図絵。明治9年7月15日に筑摩県に提出した「下諏訪村誌」挿入の下諏訪村の全景。この当時は三角八町といって、下諏訪村の主な往環は、湯の町通り・友之町・春宮大門通りと甲州道中で、その他は耕地。右下の橋は、旧中山道の大橋で、現在の富士見橋はこの数十メートル上流の明治23(1890)年施工した新道20号線にかかっている。左手前の森は春宮で鳥居前の立木が大門通りのさわら並木。 | 2020-03-06 |
1531 | | 忠魂碑 | 明治44(1911)年3月10日八幡社裏手に総司令官大山巌筆の忠魂碑が建立されたが、社務所拡張で八幡社南に移され終戦で一時撤去させ戦後の昭和29(1954)年に再建。40(1965)年宝生橋の左袂に移される。 | 2020-03-06 |
1532 | | ルーテル協会の婦人会 | この時から宣教開始 諏訪地方最初のルーテル教会ウーシータロ嬢が、湯田新町医師三輪甲子三郎宅跡にきて、福音宣伝を開始する。
写真はルーテル教会婦人会。
中央がミンキネン譲、後列右がニュールンド嬢。
この時、花見新道上字天白に洋館が新築されて牧師の宿舎とされ、異人館と呼ばれていたという。 | 2020-03-06 |
1533 | | 日露役凱旋記念撮影 | 明治39(1906)年初春、下諏訪町の久保区で日露役出征兵の凱旋祝賀会を山王台の霞城館で行った時に玄関先での撮影。 | 2020-03-06 |
1534 | | 陸軍航空隊航空写真 | 航空写真。写真の中心近くに下諏訪学校の三階の望楼が分かる。旧甲州道中、旧中山道、八幡坂などの様子や秋宮鳥居周辺の戦前の建物が密集している様子がよくわかる。 | 2020-03-06 |
1535 | | 陸軍航空隊航空写真 | 大正6(1917)年2月16日、陸軍航空隊モーリス・ファルマン機上から撮影した下諏訪町の中心部。寒中の山岳飛行並びに氷上試験飛行のため来諏の際の撮影。中央の建物は当時の下諏訪学校(友の町字神殿)で現在の下諏訪中学校の前身。周辺には秋宮の森・製糸工場・中央東線・国道20号線などが見える。 | 2020-03-06 |
1536 | | 中央東線開通下諏訪駅前記念撮影 | 明治38(1905)年11月25日中央東線が富士見駅から岡谷駅まで開通する。このとき鉄道開通祝賀式挙行の案内状が22日鉄道開通式委員総代小口友亀(写真前列中央)の名で発送、25日午後1時10分下諏訪停車場講内で、祝賀式が挙行された。写真は下諏訪駅前にて撮影。 | 2020-03-06 |
1537 | | 万治の石仏 下の原念仏講 | 浮島横の万治(まんじ)の石仏。この写真は大正15(1926)年に河西政常氏により撮影されたもの。地元の人々は「あみだ様」「みたらしの石仏」と呼んで信心を続けてきた。下の原念仏講では長く万治石仏前で念仏の行事を行ってきた。
伝説では高島藩三代藩主忠晴候が春宮に石の鳥居を寄進しようとしたとき、石工がノミを入れると石から血が出たと伝えられ、のち石に阿弥陀如来と刻んで供養したという話も伝えられる。
石仏の側面に「万治三年」の年号や、「願主明誉浄光・心誉廣春」と刻まれていること、万治3(1660)年から70年後の諏訪藩主手元絵図には石仏ではなく「えぼし岩」と書かれていることなどから、木喰行者弾誓(たんせい)一派の信者が残したものではないかとする見方もある。
石仏としては首と胴がちぐはぐであったり、胸に袈裟と | 2020-03-06 |
1538 | | 山田政之丞宅再建 | 山田正倫(政之丞)宅再建。山田(1835-1903)氏は下の原東町の元名主。明治12(1879)年6月、長野県が16郡となり戸長が公選され副戸長が筆生(ひっせい)となり、この時郡区町村編成法が施工、下諏訪村初の公選戸長に当選した。山田政之丞氏については№705参照。 | 2020-03-06 |
1539 | | 旧下諏訪町役場(立町青塚時代) | 立町裏に下諏訪役場新築。明治22(1989)年4月1日に新しい下諏訪村が発足。同年5月31日字青塚(立町裏)に新庁舎開庁、以降大正14(1925)年に大社通りに庁舎が移転するまで36年間この庁舎で町政が取り行われた。第二回下諏訪区会議員当選記念に撮影したもの、尚明治7(1974)年下諏訪村が誕生して以降役場の変遷は以下の通りである。
【明治(1874))10月13日七ヶ村が合併して下諏訪村となる(事務取扱所は本陣方)・明治10(1877)年事務扱所を本陣から下諏訪学校下諏訪学校へ移す。・明治19(1886)年3月役場を学校から来迎寺へ移す。・明治22(1889)年5月31日立町に役場新築。・大正14(1925)年7月17日下諏訪町役場(八幡町)が竣工。】 | 2021-04-04 |
1540 | | 旧下諏訪町役場 | 明治22(1989)年4月、町政公布とともに、同年5月青塚の南隣に下諏訪村役場へ、来迎寺から役場が移された。
写真は、大社通へ建築された新役場庁舎地鎮祭執行当日に、立町元役場西側で記念撮影したもの。 | 2020-03-06 |
1541 | | 大和仁平胸像 | 水月園下にある大和仁平氏の胸像。大和仁平は12・13代町長(大正12~昭和6年在任)で新庁舎建設、水道施設などに尽力した。特に「おいしい」と折り紙つきの下諏訪の水道水を様々な困難を乗りこえ、反対を押し切って厳然と遂行した英断には特筆すべきものがある。
胸像の制作者は高木出身の大和作内氏である。 | 2020-03-06 |
1542 | | 棟札 | 新庁舎建設の看板「大正十三年十二月建之 町長大和仁平」他助役、工事監督請負人、町会議員並建築委員の名前がかかれている棟札。 | 2020-03-06 |
1543 | | 旧下諏訪町役場新築落成式 | 大正14(1925)年7月18日八幡町(現大社通り)に下諏訪町役場新庁舎ができる。落成式執行当日の記念撮影。旧下諏訪町役場は現日本電産サンキョーオルゴール記念館「すわのね」になっています。 | 2020-03-06 |
1544 | | 奈良屋呉服店 | 明治前から大正まで続いた下諏訪の老舗、増沢市郎兵衛の奈良屋呉服店。屋号を染め抜いた店頭の、日よけのれんが当時の特徴。(明治年末の撮影)写真下に「信陽諏訪下諏訪友五(之)町奈良屋呉服店」とある。
なお明治25(1892)年7月には、友之町増沢市郎兵衛(奈良屋呉服店)が局長となり、同家の上隣りの別宅へ(石柱が見えている)郵便局が旧本陣岩波家より移り、翌26(1893)年に電信局が併設されていた。 | 2020-03-06 |
1545 | | 秋宮神楽殿 | 「諏訪大社神楽殿及日本一駒犬」と写真下に書かれている。昭和6(1931)年9月18日には満州事変戦勝祈願も行われている。狛犬(駒犬)は昭和5(1930)年11月吉日に竣工。神楽殿をかこむようにしめ縄飾られている。現在の神楽殿正面の大しめ縄は戦後からのものである。
この狛犬は、昭和19年(1944)9月金属回収の国策により供出されたままであったが、間(はざま)組神部万之助社長により、昭和35(1960)年10月12日、秋宮神楽殿の狛犬が復元献納され、奉納除幕式が行われた。狛犬の作者は原村出身の清水多嘉示(たかし)。現在の狛犬の説明には「青銅製の狛犬としては日本一」と紹介されている。 | 2020-03-06 |
1546 | | 大社の朝 | 昭和5年(1930)献上された狛犬は、昭和19年(1944)9月金属回収の国策により供出されたままであったが、間(はざま)組神部万之助社長により、昭和35(1960)年10月12日、秋宮神楽殿の狛犬が復元献納され、奉納除幕式が行われた。(撮影者大槻十三春)狛犬の作者は原村出身の清水多嘉示(たかし)。青銅製の狛犬としては日本一と紹介されている。 ※昭和四十(1965)年度 特選 大社の朝(大槻十三春) | 2020-03-06 |
1547 | | 秋宮鳥居前 | 「(官弊大社)諏訪神社下社秋宮社頭」と書かれた写真。「日本第一大軍神 昭和七年二月」(1932年2月)ののぼり旗が見える。手水舎が現在の位置と違う場所にある。 | 2020-03-06 |
1548 | | 秋宮幣拝殿 | 諏訪大社秋宮幣拝殿。手前右は神楽殿。幣拝殿にとりつけられている幕の神紋(梶の葉紋)の足は4本になっている。 | 2020-03-06 |
1549 | | 八幡社から千尋池を写す | 八幡社境内から千尋池を写す。 | 2020-03-06 |
1550 | | 秋宮鳥居前 | 「官幣大社諏訪神社下社 長野県諏訪郡下諏訪町鎮座」と書かれている写真。諏訪神社は大正5(1916)年12月官幣大社に昇格した。当時は手水舎(御手洗所)が銅鳥居の右袂にあった。左奥には大空洞のある大欅があり、子どもが数人が入って遊べたという。(この欅は写真左手の官幣大社標柱の陰の大木で大正初期に枯れたという。)境内参道は自然石の石畳だった。 | 2020-03-06 |
1551 | | 秋宮鳥居前 | 秋宮鳥居前、辻屋の看板に「参拝土産、大社飴 電話四十五番」とある。当時はみな町湯へ出かけていった、綿の湯へは秋宮社や辻屋の前を通った。 | 2020-03-06 |
1552 | | 下諏訪町明細全図 | 「官幣中社諏訪神社並二下諏訪町明細全図」当時の下諏訪市街地図。
明治41(1908)年5月諏訪神社御柱祭記念に東京の出版社が、下諏訪商工業者の協力で発行した下諏訪町明細全図。
御田町・花咲町もなく、平沢小路は重要な三角八町の間道だった。図の右手前に下諏訪駅、さらにその右手に諏訪湖天然氷株式会社の氷庫、大通りに人力車が続いている、御柱当日の一風景。 | 2020-03-06 |
1553 | | 宿場風景(菊本旅館前) | 宿場のおもかげ。下諏訪宿菊本旅館。看板の右下に炭俵と思われる荷がおかれている。道は舗装されておらず、道幅も狭い。 | 2020-03-06 |
1554 | | 承知川扇状地と下諏訪旧市街地 | 右が武居の棚田、中央の森が秋宮でその左手前は旧下諏訪宿場(湯之町)左下へ続く街道が旧加宿と友之町。
写真は複葉機、陸軍航空隊一般航空写真。 | 2020-03-06 |
1555 | | 高浜田園 | 人力による昔ながらの田植え。 | 2020-03-06 |
1556 | | 高浜田園 | ハンドルトラクターによる代掻き。 | 2020-03-06 |
1557 | | 高浜田園 | 富部の高浜田圃の人力による代掻き・しろふみと田植え。 | 2020-03-06 |
1558 | | 福沢川の氾濫 | 昭和10(1935)年6月29日砥川・承知川大出水、殊に福沢川の部落内の被害は甚大で、写真は福沢川の橋より東2・3軒目の裏手から砂瓦礫が浸入した様子。 | 2020-03-06 |
1559 | | 砥川の大氾濫 | 明治38(1905)年6月19日の集中豪雨。浮島の右岸が決壊、東山田字若宮地籍へ浸水した。砥川にかかる橋のうち富士見橋をのぞいた全てが流失した惨状を数日後に撮影。この時医王渡橋流失、牛枠・木流し・杭などが見える。右手茅葺屋根は友野家。 | 2020-03-06 |
1560 | | 東山田下諏訪へ合併 | 昭和32(1957)年3月25日長地村は岡谷市に合併後、昭和33(1958)年6月1日東山田・東町を下諏訪町に編入するという境界線変更に関し住民投票を行った。
その際の住民運動の模様。
昭和33(1958)年7月1日東山田と東町が岡谷市から分市して下諏訪町にに合併。
当時の東山田街道上の岡谷市側から分市賛成の張幕。 | 2021-04-06 |
1561 | | 東講社行屋神座 | 東講社行屋修復完成記念の写真。東山田の行屋は熊野神社参道西側にあり進行を同じくする人が集まる修験の場であった。この講では、駒ケ岳・御嶽・富士山・浅間山・大山など霊山が信仰されている。 | 2020-03-06 |
1562 | | 東講社行屋修復完成記念 | 東講社(あずまこう)行屋修復完成記念の写真。茅葺屋根にトタンがかけられた。東講は東山田の旧家で組織していた。駒ケ岳大権現をまつり行屋を持ち不動の滝・御(お)山と呼ばれる霊場もあり、かつては行者の修行も盛んに行われた。古くは雨ごいの霊場にもなっていた。 | 2020-03-06 |
1563 | | 東郷平八郎献額 | 諏訪大社秋宮の神楽殿正面に東郷元帥筆の「日本第一大軍神」の大額が奉献。この額は戦後は秋宮拝殿の左片拝殿にある。(刻者は篆刻師八幡郊處) | 2020-03-06 |
1564 | | 武居桜 | 文化財指定の武居桜。この桜の開花を見て付近の農民が苗代作りをしたので「苗間の桜」とも呼ばれる。樹齢はおよそ300年と言われている。 | 2020-03-06 |
1565 | | 献米運動 | 敗戦色濃い中、どこでも食糧不足が日増しに深刻化したが、下諏訪町では軍需産業に働く人のために「献米運動」を起こした。「奉公供米運動」と呼び、町民から一握りずつ米をもらった。100俵が集まり、秋宮社頭で先勝を祈った。
手水舎が現在と逆の位置にある。手水舎は昭和28(1953)年に鳥居の左側に移されている。 | 2020-03-06 |
1566 | | 建設途中の山王閣 | 山王台に竣工した国民宿舎山王閣。手前に手入れの行き届いた桑畑が残っているのがわかる。№520,521と比較して見ていただきたい。 | 2020-03-06 |
1567 | | 新車を買入れ犬山城下に到着した一行。 | 神戸市フォード工場で第2の新車を買入れ犬山城下に到着した、濱義雄、林嘉平、中村常男一行。 | 2020-03-06 |
1568 | | 諏訪自動車初期のもの | 林嘉平氏所蔵の諏訪自動車初期の写真。建物入り口に「高濱瀧温泉」の看板がある。 | 2020-03-06 |
1569 | | 片倉二代銅像 | 第2代片倉翁銅像の写真絵葉書。
昭和10(1935)年に下諏訪や川岸村などの尽力により建立が決定した。
この時は宝生橋も裏参道の堀割に架設されている。
しかし、昭和18(1943)年金属回収のため撤去されてしまった。 | 2020-03-06 |
1570 | | 建設途中の山王閣 | 建設工事中の山王閣。秋宮南隣りの神宮寺大坊跡から裏側を撮影。山王閣は景勝地山王台に昭和40(1965)年12月24日、「国民宿舎下諏訪観光会館・山王閣」として施工した。残念ながら平成17(2006)年3月31日で営業を終了し、その後取り壊されている。100%かけ流しの天然温泉は「美人の湯」として知られ、諏訪湖を見下ろす展望の良さも売り物だった。武居源湯からの引湯であった。
№520,525と比較して見ていただきたい。 | 2020-03-06 |
1571 | | 山王閣 | 国民宿舎山王閣を秋宮側からその正面を撮影。山王閣は景勝地山王台に昭和40(1965)年12月24日、「国民宿舎下諏訪観光会館・山王閣」として施工した。残念ながら平成17(2006)年3月31日で営業を終了し、その後取り壊されている。100%かけ流しの天然温泉は「美人の湯」として知られ、諏訪湖を見下ろす展望の良さも売り物だった。武居源湯からの引湯であった。
№521,525と比較して見ていただきたい。 | 2020-03-06 |
1572 | | 千尋館 | 諏訪大社下社秋宮、右手前は千尋池、その奥には手水舎が見える。正面は千尋館で現在は土産物店「専女八幡」となっている。 | 2020-03-06 |
1573 | | 博物館 | 昭和46(1971)年4月1日高浜湾岸に鉄筋コンクリート二階建ての下諏訪町立博物館が開館。諏訪湖の漁具、先史時代から現代までの歴史資料が展示、二号館にはスケート及び民具を展示していた。 | 2020-03-06 |
1574 | | 山王閣 | 山王閣(久保海道方面からの撮影)左手の平屋の建物は諏訪湖が一望できる大浴場。武居源湯から引湯。 | 2020-03-06 |
1575 | | 博物館 | 昭和27(1952)年7月21日、神社と共用の博物館が、諏訪大社下社秋宮の神饌所を借用してできる。写真中央が当時の下諏訪博物館。歴代館長は昭和25(1950)年5月矢ケ崎輝雄・同29(1954)年6月三輪良三・同47(1972)年4月小口利市。写真左は昭和38(1963)年に建設された下社宝物殿。中央が下諏訪博物館で右はお守り札の授与所である。 | 2020-03-06 |
1576 | | 下社神宮寺方丈跡の石垣 | かつて下社秋宮の東側には下社神宮寺が16200坪とも言われた境内に仏殿千手堂や三重塔、仁王門、弥勒堂、方丈が建立され、たくさんの院坊が付属していた。
明治維新の時、太政官布告明治元(1968)年大政奉還で「神仏判然令」により仏教が排撃を受け、仏像の一部は他の寺に逃れたものもあったが、下社神宮寺は破却されてしまった。
写真は高台にあった下社神宮寺大坊方丈の石垣の跡である。(現言成地蔵尊横の石垣) | 2020-03-06 |
1577 | | 春宮大門の並木 | 諏訪大社下社春宮石の鳥居の中から下馬橋方面を写したもの。 | 2020-03-06 |
1578 | | 春宮鳥居前の並木 | 機上から撮影した諏訪大社下社春宮の下馬橋(太鼓橋)奥のさわら並木。写真は諏訪市勝山為如氏撮影。下馬橋奥にさわら並木が見える。昭和9(1934)年の室戸台風でほとんどが倒れた。 | 2020-03-06 |
1579 | | 御座掛松(ござかけまつ) | 高木の石投場南よりにある御座掛松(ござかけまつ)。松は甲州街道中の土手上から道端まで見事に垂れ下がっていた。大正13(1924)年ごろから樹勢が衰えはじめ昭和4(1929)年に枯れる。樹齢は400年と推定。明治13(1880)年明治天皇御巡幸の際は御幸(みゆき)の松と立札してお迎えした。現在の松の二世が成育。写真に[下諏訪町高木ゴザカケ松なり、是より約2町中陣坂。]の文字。 | 2020-03-06 |
1580 | | 四阿屋(あづまや) | 明治25年、紫庭庵金桃(本名小口正衛 安政6年生まれ第2代村長・第5代町長)が武居の雨後庵町長の庭先へ四阿(あづまや)を建てる。この四阿は郡内の俳人を読んで句会開催するため、諏訪湖を一望できる武居の高台に建てたもの。
俳人金桃らもしばしば句会開いた武居の雨後庵前の四阿屋(あずまや)。 | 2020-03-06 |
1581 | | 立体交差工事竣工 | 昭和30(1955)年10月に着工した 西浜の国道と鉄道の立体交差竣工。同32(1957)年5月20日開通式。完成した新道路の橋は高浜橋と命名された。 | 2020-03-06 |
1582 | | 八幡通り改修工事落成式。 | 八幡坂改修渡り初め。諏訪大社下社秋宮の銅鳥居前通り八幡町の道路拡張改修工事が完成、落成式を挙げる。新庁舎前(現在のすわのね)からその渡り始めの行列を写す。改修前は雨水に洗われて大石小石の急坂であり冬の日は氷の急坂となるので大社参道として改修案が出ていた。
このときから八幡町を大社通りと改称。 | 2020-03-06 |
1583 | | 青塚古墳 | 青塚古墳。平地につくられた古墳で横穴廓をもち、諏訪地方唯一の前方後円墳。県指定文化財。石室は横穴式であるが古くに発掘されたため遺物などは不明。古墳の周囲から円筒埴輪も発見されている。古墳のくびれ部に青塚社があり、諏訪大社下社の末社となっている。 | 2020-03-06 |
1584 | | 屋敷図 | 明治10(1877)年製糸を始めた、富部の士族山岡操家。山岡家には立派な屋敷図と城壁のような石垣が今も残っている。写真は屋敷図。 | 2020-03-06 |
1585 | | 鷹匠の家 岡村家 | 富部の岡村謙吾氏宅。 | 2021-04-15 |
1586 | | 鷹匠の家 岡村家 | 富部字本郷、岡村家(現 謙吾氏)。
左が客室で右が居間である。 | 2020-03-06 |
1587 | | 鷹匠の家 岡村家 | 鷹匠の家 岡村家。同屋敷の全景、左が住宅、右が土蔵。向山の左手が若宮神社。 | 2020-03-06 |
1588 | | 鷹匠の家 岡村家 | 鷹匠の家 岡村家。諏訪藩の鷹匠であり、天竜道人も出入りしたという、富部字本郷の士族岡村家(曲屋まがりや)。左が客室、右は居間。 | 2020-03-06 |
1589 | | 殿村遺跡の碑 | 殿村遺跡 昭和29(1954)年3月高木小字殿村の竪穴住居跡に作られた復元家屋。 | 2020-03-06 |
1590 | | 殿村遺跡の碑 | 殿村遺跡 昭和51(1976)年高木史話会により建てられた碑。
「この一帯には縄文時代中期から後期にかけて住居群があり漁労の生活もあったことを語る貴重な遺跡である」と碑に記されいる。 | 2020-03-06 |
1591 | | 宝生橋 | 諏訪大社下社秋宮から山王台をつなぐ室生橋。下の道路は武居方面へつながる。 | 2020-03-06 |
1592 | | 砥川改修前の天井川 | 砥川改修前の天井川。 「諏訪湖の研究」からの複写と思われる。 | 2020-03-06 |
1593 | | 金桃の碑と小井川校生徒の延命地蔵 | 写真左の碑には「名月や虫のひげふる草の上、紫金桃」とある。この右手にあるのは、大正11(1922)年6月22日小井川小学校生徒が水泳中に遭難したため、昭和9(1934)年にその霊を慰めるために建てられた延命地蔵。尚、紫金桃(小口正衛、二代村長、3代町長)の碑は現在赤砂公会所の前に移された。 | 2020-03-06 |
1594 | | 宝生橋 | 甲州道中から武居に入る辻。車の向こうに秋宮と山王台を結ぶ宝生橋が見える。武居の集落に入る道は昭和14(1939)年に現在の新道(しんみち)が開通するまでは鳥居から神社の横を通っていた。当時は宮田小路(みやだこうじ)と呼んでいた。お宮の社務所が石垣の上から下に新築されたことによる新道開通であった。 | 2020-03-06 |
1595 | | 柿陰山房 | 柿陰山房(しいんさんぼう)。この茅葺の家は短歌の集団アララギ派のリーダーとして活躍をした島木赤彦(1876-1926)本名久保田俊彦の旧宅。高木集落は諏訪地方でも柿の木の多いところで赤彦は柿の実の丹(あか)が好きだったらしく「柿の村人」「柿の村舎(むらやど)」のような筆名の時期もあり、大正8・9(1919-1920)年ごろこの家を「柿陰山房」と命名した。 | 2020-03-06 |
1596 | | 赤砂飛行場 | 昭和3(1928)年1月下諏訪町や製糸関係者等の協力で諏訪飛行協会を結成。翌年3月には格納庫ができ、4月には藤森飛行士が赤砂に着陸して同4(1929)年には郡内を飛ぶ。写真は赤砂飛行場の複葉機を使用し、和田嶺自動車㈱と富ヶ丘・高浜温泉が共同で飯田・甲府方面へ宣伝ビラまきに出発する直前。左から2人目が藤森飛行士、その右が下諏訪町に初めて自動車を持ち込んだ浜義雄氏。 | 2020-03-06 |
1597 | | 土橋實肖像写真 | 土橋實也、初代町長・8代9代村長に選出される。 | 2020-03-06 |
1598 | | 土橋家 | 明治22(1889)年5月2日。初代村長に、土橋實也が選出された。
土波止新田(赤砂)からの土橋家を撮影。この旧家も、昭和46(1971)年大改修され貴重な文化財であったが、昔の面影は見られない。写真は表側。
2枚目は建物の裏からの撮影。 | 2020-03-06 |
1599 | | 農民美術講習会 | 講師武井直也氏による農民美術講習会。武井直也(1893-1940)は平野村(現岡谷)出身、フランスに留学ブルーデルに学び、帰国後日本の彫刻に新しい風を吹き込んだ。武井直也の指導は昭和2(1927)年に引き続き行われ、写真は昭和4(1929)年の時のものある。会場は霞城館隣の青年館図書館。 | 2020-03-06 |
1600 | | 昭和初期の富部 | 下諏訪町富が丘の別荘地帯で湖を見渡せる景観のよい温泉地として知られていた。富ケ丘・稲荷平・立体交差点があった(町誌上巻に詳細) | 2020-03-06 |
1601 | | 官弊中社諏訪神社下社春社 | 絵葉書「(諏訪名勝)官弊中社諏訪神社下社春社」。鳥居の前に燈籠、鳥居の奥にはさわら並木が続いている。鳥居の両側には諏訪の石置き屋根が見える。
諏訪神社が官幣中社になったのは明治29(1896)年で、官幣大社に昇格したのは大正5(1916)年12月12日なので、写真はこの間に撮影されたものである。 | 2020-03-06 |
1602 | | お舟祭り | 官弊大社諏訪神社下社8月1日 御舟祭。大正15(1936)年、ちょうちんに下諏訪の文字。法被には「本郷」と染め抜かれている。下諏訪町が御頭郷の年のようだ。 | 2020-03-06 |
1603 | | 亀屋より鵞湖を望む | 下諏訪金松堂発行の絵葉書、「下諏訪亀屋三階ヨリ鷲湖ヲ望ム」。鷲湖とは諏訪湖の別称で、慈雲寺を開いた一山一寧のふるさとの湖の名にちなんでつけたとされる。手前右に綿の湯付近にあった火の見やぐら、左の端に大木があり専女のけやきのようだ。 | 2020-03-06 |
1604 | | 英国大使スケート | 絵葉書「(諏訪ノスケート)英国大使スケート」。白い煙をたなびかせて汽車が通り過ぎる。大使夫妻と思われる二人の前でフィギュアスケートに興じる男性、その向うに着物姿の人々がスケートを楽しんでいる。 | 2020-03-06 |
1605 | | 富岳を望む | 絵葉書「(諏訪名所)諏訪湖より富岳を望む」。上川付近。
ボートを漕いでいる様子から当時の諏訪実科中学校(現諏訪清陵高校)の生徒のようだ。 | 2020-03-06 |
1606 | | 舟遊び | 絵葉書「(諏訪名所)諏訪湖辺衣ヶ崎にて舟遊び」。石垣や鳥居が見える。 | 2020-03-06 |
1607 | | ボートレース | 絵葉書(諏訪名所)諏訪湖上のボートレース。上川付近富士山も見える。ボートを漕いでいるのは諏訪実科中学校(現諏訪清陵高校)の生徒と思われる。 | 2020-03-06 |
1608 | | 諏訪湖上のスケート | 絵葉書「(諏訪名所)諏訪湖上のスケート」。フィギュアスケートをしている。 | 2020-03-06 |
1609 | | 諏訪湖の夕照 | 絵葉書「(諏訪名所)諏訪湖の夕照」。諏訪八景に「高浜夕照」の一節があるが、それを思わせる。 | 2020-03-06 |
1610 | | 渡舟場 | 絵葉書「(諏訪名所)諏訪湖渡舟場」 | 2021-04-06 |
1611 | | 遊船所 | 絵葉書「(諏訪名所)諏訪湖畔鶴遊館前遊船所」。観光用の遊船に混じり漁師の漁船も繋留している。現湖岸通り付近の桟橋。 | 2021-04-15 |
1612 | | 諏訪湖 | 絵葉書「(諏訪名所)諏訪湖畔鶴遊館前湖上」。護岸工事がなされていない諏訪湖畔。現湖岸通り付近の桟橋。 | 2020-03-06 |
1613 | | 漁船 | 絵葉書「(諏訪名所)諏訪湖上衣ヶ崎の漁船」。諏訪八景にある「衣崎帰帆」の風景がしのばれる絵葉書である。 | 2021-04-06 |
1614 | | 回遊船 | 絵葉書「諏訪湖ノ回遊船」
湖畔に見える建物は鶴遊館。 | 2020-03-06 |
1615 | | 諏訪湖高浜湾 | 絵葉書「諏訪名勝 諏訪湖高浜湾」。国道と中央東線(汽車が走る)が湖岸近くを走り、湖面との間には畑が一面続き、富士山を遠望する風景。 | 2020-03-06 |
1616 | | 製糸工場風景 | 絵葉書「信陽諏訪下諏訪入一※組製糸会社全景」の文字。入一※組製糸は明治34(1901)年に創業した入丸※製糸が明治43(1910)年に分離し、入一として創業(小口松五郎・川村蓑吉・山田由蔵・河西寅吉の合名会社)した。入一※製糸は入丸より分離したメンバーに河西友吉・河西勝太郎・今井栄人(入一社長)が加盟し、最盛期の大正10(1921)年頃(1150釜)は茨城・静岡に支店を出し、大正12(1923)年には南四王(現ジャスコ跡)に分工場を建設した。昭和4・5(1929/1930)年の不況により今井栄人が入一通信工業に転換した。下の原方面からの写真、中央辺りに平沢小路~下の原への道路が見える。 | 2021-04-01 |
1617 | | 諏訪湖付近の富士 | 絵葉書「諏訪名勝 諏訪湖付近の富士」 | 2020-03-06 |
1618 | | 聴泉閣カメヤホテル庭園 | 絵葉書(下諏訪温泉かめやホテル)現聴泉閣カメヤホテルの庭園。 | 2020-03-06 |
1619 | | 秋宮リンクでフィギュアスケートを楽しむ | 平岡露子(大正2~平成23・1813~2012)選手。昭和8(1933)年全日本フィギュアスケートジュニア選手権で女子の初代チャンピオンとなった選手。 | 2020-03-06 |
1620 | | 氷上ファミリークリスマス風景 | 渡辺絵美(昭和40~50年代に8回全日本チャンピオンになった。)さんが下駄スケートをはいて滑っている。第5回氷上ファミリークリスマスと後ろの垂れ幕に書いてある。 | 2020-03-06 |
1621 | | スケート | スケートをする男性、皮のスケート靴を履いて滑っている。 | 2020-03-06 |
1622 | | スケート | 大勢の子ども達がスケートを楽しんでいる。秋宮リンク。 | 2020-03-06 |
1623 | | スケート | 秋宮リンク、桑畑や万国旗が見える。 | 2020-03-06 |
1624 | | 諏訪市内蓼の海スケート場 | 諏訪市内蓼の海スケート場。 | 2020-03-06 |
1625 | | 諏訪市内蓼の海スケート場 | アイスホッケーをしている、後ろはギャラリーか?その奥でもスケートを滑っている。 | 2020-03-06 |
1626 | | スケート | 秋宮リンクでスケートを楽しむ男性。後ろは岩波製糸場。 | 2020-03-06 |
1627 | | スケート | 和装と洋装の男性が革のスケート靴、和装の男性は下駄スケートを履いている。 | 2020-03-06 |
1628 | | スケート | スケートを楽しむ男性。 | 2020-03-06 |
1629 | | 桔梗屋旅館 | 桔梗屋旅館の看板が見える冬の風景。 | 2020-03-06 |
1630 | | スケート | 諏訪湖でスケートを楽しむ男性。後ろに手持ち帆が見える。 | 2020-03-06 |
1631 | | スケート | 秋宮リンク。後ろに桑畑が見える。 | 2020-03-06 |
1632 | | スケート | スケートを楽しむ男性。 | 2020-03-06 |
1633 | | スケート | 秋宮リンクでスケートを楽しむ。後方の建物は岩波製糸場。 | 2020-03-06 |
1634 | | スケート | スケートを楽しむ男性たち。 | 2020-03-06 |
1635 | | 桔梗屋旅館 | 桔梗屋旅館の玄関前。入口に「桔梗屋旅館」の文字、奥に「かめや」の文字も読むことができる。453番の男性たちと同じメンバー。 | 2020-03-06 |
1636 | | スケート | 皆革のスケート靴をはいている。 | 2020-03-06 |
1637 | | スケート | 秋宮の裏手には一面桑畑が広がっている。氷上には椅子のようなものにつかまって滑る人の姿が見える。 | 2020-03-06 |
1638 | | スケート | 秋宮リンクでスケートを楽しむ子ども。靴スケートがいかにもほこらしげ。 | 2020-03-06 |
1639 | | 氷上セーリング | 氷上セーリング(手持ち帆)。
革のスケート靴を履いている。 | 2021-03-27 |
1640 | | スケート | 諏訪湖でスケートを楽しむ男性。 | 2020-03-06 |
1641 | | スケート | 革のスケート靴をはいて滑る男性。 | 2021-03-27 |
1642 | | スケート | №4400の男性たち、秋宮の森をバックに記念撮影、パイプをくわえている男性もいる。 | 2020-03-06 |
1643 | | スケート | 着物姿でスケートを滑る男性、革のスケート靴を履いている。 | 2020-03-06 |
1644 | | スケート | 洋装の男性たちが革のスケート靴で滑っている。中にはたばこをくわえている男性もいる。秋宮リンク。 | 2020-03-06 |
1645 | | スケート | 革のスケート靴を履いて秋宮リンクでスケートをする男性、万国旗も見える。 | 2020-03-06 |
1646 | | スケート | 革のスケート靴にマントを羽織った日本髷を結った女性。秋宮リンク。後の建物は岩波製糸場の事務所。 | 2020-03-06 |
1647 | | スケート | 秋宮リンクでスケートを楽しむ氷上の女性たち、一人は革のスケート靴ともう一人は下駄スケートを履いている。日本髪や着物姿が時代を感じさせるが、当時としては先端を走る女性か? | 2020-03-06 |
1648 | | スケート | 下駄スケート・着物姿の人見える。下駄スケートは明治39年(1906)年頃初めて考案された。 | 2020-03-06 |
1649 | | スケート | 秋宮リンク。スケートを楽しむ男性と女性。立派な靴スケートや服装から衆目を集めたに違いない。 | 2020-03-06 |
1650 | | スケート | 秋宮リンク、後の山は小湯の上の桑畑。 | 2020-03-06 |
1651 | | スケート | 秋宮リンク、万国旗の飾り見える。 | 2020-03-06 |
1652 | | スケート | 秋宮スケートリンク。男性が革のスケート靴を履いて滑っている。 | 2020-03-06 |
1653 | | スケート | 秋宮スケートリンク。万国旗と桑畑の広がる様子が見える。 | 2020-03-06 |
1654 | | 下馬橋 | 下馬橋と春宮。№427の写真を見て景色の変化を比較してほしい。 | 2020-03-06 |
1655 | | 下馬橋 | 下馬橋から春宮鳥居までの風景は現在とはあまり変わりはないが道路はまだ舗装されていない。
また春宮に向かい下馬橋の右側に御手洗川の分流が水量豊かに流れている。
下馬橋は春秋のお宮うつりの時に御神輿が通る橋です。 | 2021-10-28 |
1656 | | 石投げ場 | 石投げ場から望む諏訪湖。湖岸の埋立がすすみ湖岸の形が変化し運動公園ができ湖岸道路もある。№425と比較するとその変化がよくわかる。 | 2020-03-06 |
1657 | | 石投げ場より | 石投げ場から諏訪湖を望む。こののち埋め立てが行われ景色は一変する。国道と並行して中央東線を蒸気機関車が走る。№426と比較するとその変化がよくわかる。 | 2020-03-06 |
1658 | | 下諏訪町総合文化センター | 下諏訪町総合文化センター。 | 2020-03-06 |
1659 | | 公民館 | 昭和23(1948)年4月29日、建物がない下諏訪公民館(館長宮坂実之助氏)として発足したが、昭和26(1951)年3月25日西鷹野町の中央車両株式会社の事務所を買収できて、下諏訪公民館として開館する(昭和27(1952)年7月21日開館)。後下諏訪町庁舎が建築され、公民館は大社通り旧庁舎へ移った。現在公民館は下諏訪町文化センター内に併設されている。 | 2022-01-20 |
1660 | | 下諏訪球場 | 町営球場。バックネット後方に諏訪ガスのガスタンク(現在は無い)が見える。 | 2020-03-06 |
1661 | | 下諏訪町営総合運動場 | 町営球場。下諏訪町は昭和24(1949)年、旧鐘紡敷地(中央車両株式会社所有)を買収し、公園並びに総合運動場敷地として計画。野球場は同年8月竣工した。ちなみに陸上競技場は昭和35(1960)年に完成している。 | 2020-03-06 |
1662 | | 高浜の信号 | 国道20号から湖岸道路へ行く高浜の信号付近。 | 2020-03-06 |
1663 | | 西高木より諏訪湖を望む | 西高木から望む諏訪湖(現諏訪湖博物館辺り)。後ろにスペアータイヤを積んだボンネットバスが2台見える。 | 2020-03-06 |
1664 | | 諏訪湖畔 | 現博物館(裏手)を国道側から見たところ。 | 2020-03-06 |
1665 | | 諏訪湖畔 | 諏訪湖畔。現在の諏訪湖博物館付近の風景。 | 2020-03-06 |
1666 | | 高浜運動公園 | 高浜運動公園マレット場(左側)付近。手前は現在「高浜健康温泉センターゆたん歩」となっている。 | 2020-03-06 |
1667 | | 高浜 | 高浜。ここに温泉湧出し、旅館街があった。眺望のよさは諏訪湖周辺随一で、附近に舟遊場・釣り堀・温泉プール、水族館等があった。後ろには懐かしいボンネットバスが停まっている。
看板は「高浜釣堀」。 | 2020-03-06 |
1668 | | 高浜湾 | 高浜湾の風景。湖岸の道路に柳の木が見える。 | 2020-03-06 |
1669 | | 高浜 | 今はなつかしい、諏訪湖の遠浅の湖岸。
付近に温泉が湧出し、旅館街があった。また温泉プール・釣り堀・水族館もこの付近にあった。 | 2020-03-06 |
1670 | | 千尋池復旧前の家並 | 秋宮前の新しい道とバス停。昭和18(1943)年千尋池が復旧。 | 2020-03-06 |
1671 | | 石投げ場から諏訪湖を望む | 石投げ場から望む諏訪湖。湖岸の埋立がすすみ湖岸の形が大きく変化した。運動公園ができ湖岸道路もできている。
№409の写真と比較すると変化がよくわかる。 | 2020-03-06 |
1672 | | 石投げ場から諏訪湖を望む | 石投げ場から望む諏訪湖。湖岸が国道付近にある。 | 2020-03-06 |
1673 | | 砥川 | 砥川下流から見た医王渡橋付近。 | 2020-03-06 |
1674 | | 砥川 | 集中豪雨により砥川の出水、医王渡橋付近。昭和10(1935)年6月29日、砥川・承知川で出水。殊に福沢川の部落内の被害は甚大であった。 | 2020-03-06 |
1675 | | 砥川 | 医王渡付近から砥川下流を写したもの。 | 2020-03-06 |
1676 | | 医王渡橋より下流を望む | 昭和9年10月の大豪雨により砥川が出水した。医王渡橋から見た砥川下流の出水の様子。町誌下巻89pには、この時雨量坪3石2斗だったとある。 | 2020-03-06 |
1677 | | 花見新道 | 花見新道、左手に龍の口へ下る階段がある。右手前は慈雲寺への参道がある。正面には春宮の森が見える。 | 2020-03-06 |
1678 | | 花見新道 | 花見新道の桜並木に「宮の上」(「宮の上」のバス停が天白の急坂の入口にある)の看板の文字が見える。現在とは違い新道北側にも桜並木が続いたり、人家がほとんどない当時の様子がよくわかる。
国道142号線が開通したのは、明治29(1896)年である。 | 2020-03-06 |
1679 | | 秋宮前手水舎 | 諏訪大社下社秋宮の手水舎、左奥に千尋池がある。 | 2021-04-07 |
1680 | | 和田峠トンネル | 旧和田トンネル。 | 2020-03-06 |
1681 | | 和田峠トンネル | 和田トンネルが完成した。昭和5(1930)年10月和田嶺開発協会が発足運動の結果、鉄道省の路線調査となり、昭和6(1931)年10月15日和田峠トンネル開通、昭和8(1933)年1月に完成した。全線開通祝賀式は昭和8(1933)年10月3日。 | 2020-03-06 |
1682 | | 第1保育園 | 旧下諏訪第1保育園。現第4区公会所。 | 2020-03-06 |
1683 | | 第一保育園 | 久保(現下諏訪中学校庭南)に大正15(1926)年1月19日下諏訪保育園を設立。この保育園は県下保育施設の草分けだった。大正時代に入ると町の国用製糸は一層盛んになり大正14(1925)年には62工場、就業者数1240人に達した。その工女の半数が既婚で共働きが多かった。乳幼児を抱えた就業は大きな課題となっていた。大正14(1925)年6月に友之町にテスト会所した託児所を保育園として開設したものである。 | 2020-03-06 |
1684 | | 大門通り | 春宮周辺。正面奥に春宮の森、下馬橋が見える。 | 2020-03-06 |
1685 | | 防火訓練 | さわら並木の残る春宮大門通りでの防火訓練。左側を流れる御手洗川の汐(せぎ)の流量の豊かさに当時の人々の生活との結びつきの強さを見ることができる。 | 2020-03-06 |
1686 | | 駅前通 | 下諏訪駅前の風景。 | 2020-03-06 |
1687 | | 駅前通り | 下諏訪駅頭に観光協会が宮大工の手により、昭和13(1938)年に諏訪神社の古い御柱で鳥居を建てる。鳥居は昭和25(1950)年に建て替えられ、その後は観光看板に変わった。左手前から菅野旅館・山十組・山八製糸の倉庫、右側は米本旅館。 | 2020-03-06 |
1688 | | 下諏訪遠景 | 諏訪湖遠景。手前下に信金御田町支店、JUSCOの赤い看板や下諏訪南小学校も見える。また諏訪湖の対岸に上川の橋も見える。 | 2020-03-06 |
1689 | | 下諏訪遠景 | 諏訪湖遠景。写真手前の左側の建物は片倉製糸、右側が入一製糸、左端の樹木は秋宮の森、その隣が現下諏訪中学校。 | 2020-03-06 |
1690 | | 大社通り | 秋宮周辺、大社通り。写真手前が下社秋宮。 | 2020-03-06 |
1691 | | 祭り | お祭風景、長持が見える。 | 2020-03-06 |
1692 | | 下諏訪中学校庭 | 下諏訪中学校グラウンド(バックネット前)。 | 2020-03-06 |
1693 | | 野球チーム記念写真 | 野球チームの記念写真。写真に「早大招待野球、大正14.8.21」と書かれている。前列2列目には「WASEDA」の文字が並ぶ。大正14(1925)年4月に富部西豊の岩波春海氏(早稲田出身)の労によって早稲田を招いて親善試合を行った。結果は14対2、大学レベルの強さをまざまざと見せつけられ大差で敗れた。 | 2020-03-06 |
1694 | | 旧下諏訪町役場 | 大正14(1925)年7月18日大社通りに移転した旧下諏訪町役場。現在は日本電産サンキョーオルゴール館として利用されている。役場庁舎は昭和45(1970)年にさらに西鷹野町の現庁舎へ新築再移転している。 | 2020-03-06 |
1695 | | 旧下諏訪町役場棟上 | 明治7(1974)年に下諏訪村成立した。旧本陣、下諏訪学校、来迎寺と仮役場を移転し青塚東方に新役場ができた。さらに大正14(1925)年7月18日大社通りに移転した旧下諏訪町役場。博物館の写真では、大正13(1924)年11月25日検査執行となっている。落成は翌大正14(1925)年7月18日である。 | 2020-03-06 |
1696 | | 山王台を望む | 久保海道、国道20号付近の承知川。写真左上に山王閣(現在は無い)が見える。 | 2020-03-06 |
1697 | | 山王台を望む | 大正15(1926)年、久保海道付近、国道20号付近の承知川。写真左側の建物の奥は土田遺跡(土田墓地付近)。 | 2020-03-06 |
1698 | | 春宮正面 | 下社春宮前。立ち喰いそばの看板が見える。 | 2020-03-06 |
1699 | | 病院慰問団 | 松本陸軍病院慰問の際の記念写真。 | 2020-03-06 |
1700 | | 御柱山出し | 第1区の御柱山出し風景。 | 2021-04-01 |
1701 | | 慈雲寺庭園 | 慈雲寺の庭園は「中村勝五郎日記」によると天保8(1837)年に築庭されたものという。その後、何度か改修、拡張がされ現在の姿となっている。水月公園山稜を借景とし、園池を中心とした多数の庭石が組まれ閑静な景観をみせている。町内に残る見事な庭園のひとつといってよい。庭園改修記念の写真。 | 2020-03-06 |
1702 | | 空から見た下諏訪・諏訪湖 | 航空写真。冬の諏訪盆地。
富士山や八ヶ岳、赤砂先、下諏訪の街並みなどがわかる。 | 2020-03-06 |
1703 | | 下の原青年会 | 下諏訪町青年会陸上競技大会優勝記念写真、現在も明新館二階に飾ってある。 | 2020-03-06 |
1704 | | 下社春宮 | 諏訪大社下社春宮の境内で夏の遷座祭「柴舟造り」の準備風景。 | 2020-03-06 |
1705 | | 綱打ち | 第1区綱打ち。山車による綱打ち風景。 | 2020-03-06 |
1706 | | 山出し | 第1区山出し。 | 2020-03-06 |
1707 | | 第1分団 | 第一分団。 | 2020-03-06 |
1708 | | 下の原長持 | 下の原青年会長持。 | 2020-03-06 |
1709 | | 御柱警備 | 御柱警備の際の第1分団。 | 2020-03-06 |
1710 | | 御柱警備 | 御柱警備の際の第1分団。 | 2020-03-06 |
1711 | | 御柱山出し | 第一区の挺子衆。 | 2020-03-06 |
1712 | | 山出し | 第1区山出し | 2020-03-06 |
1713 | | 山出し | 第1区、御柱祭山出し。 | 2020-03-06 |
1714 | | 山出し | 第1区山出し. | 2020-03-06 |
1715 | | 綱打ち | 第1区綱打ち。 | 2020-03-06 |
1716 | | 綱打ち | 第1区綱打ち。
山車による綱打ち風景。 | 2020-03-06 |
1717 | | 御柱綱打ち | 第1区綱打ち. | 2020-03-06 |
1718 | | 御柱綱打ち | 第1区綱打ち. | 2020-03-06 |
1719 | | 下の原長持 | 御柱祭長持勢揃い。 | 2020-03-06 |
1720 | | 里曳きでの記念撮影 | 諏訪大社下社の里曳きでの記念撮影。
厳しい戦況の中厳しい暮らしの中での祭を迎えた喜びの様子がうかがえる。 | 2021-08-19 |
1721 | | 里曳き見物客 | 御柱里曳きで賑わう大門通り。下馬橋から南側を望む。 | 2020-03-06 |
1722 | | 山出し | 御柱山出し。 | 2020-03-06 |
1723 | | 山出し | 御柱山出し。 | 2020-03-06 |
1724 | | 山出し | 御柱山出し。 | 2020-03-06 |
1725 | | 綱打ち | 綱打ち(大門通の南側を望む)。 | 2020-03-06 |
1726 | | 綱打ち | 綱打ち(春宮を望む)。 | 2020-03-06 |
1727 | | 伐採 | 御柱伐採(春宮一の柱)。 | 2020-03-06 |
1728 | | 山出し | 御柱山出し。 | 2020-03-06 |
1729 | | 伐採 | 御柱伐採。 | 2020-03-06 |
1730 | | 家族写真 | 家族写真、「親子7人」「兄弟4人。 | 2021-04-06 |
1731 | | 片倉館 | 片倉館。大正から昭和初期に製糸業で栄えた片倉財閥が、創業50周年記念に二代目片倉兼太郎により、片倉財閥関係者のみならず地域住民の厚生と社交の場として昭和3(1928)年に建てられた。
会館、浴場、渡廊下の3棟が国指定重要文化財に指定されている。特に千人風呂と呼ばれる大浴場が特徴で、深さ1.1メートルもあり底の玉砂利が足の裏を心地よく刺激する。
同敷地内に諏訪市美術館がある。 | 2021-04-01 |
1732 | | 片倉館 | 片倉館は片倉紡績(株)により御大典奉祝や片倉創立50周年を背景に製糸工場従業員の福祉施設として昭和3(1928)年、建設。総工費80円余り。一度に1000人入れる「千人風呂」があり、休みの日には従業員たちが岡谷から船に乗ってやってきたという。一般の人たちにも解放され建物は国指定重要文化財に指定されている。当時の入浴料は2銭だった。 | 2020-03-06 |
1733 | | 風薫る高浜湾 | 写真の説明に、「風薫る高浜湾」の文字がある。昭和6年度町勢覧に同様の写真がある。 | 2020-03-06 |
1734 | | 慈雲寺梵鐘 | 慈雲寺釣梵鐘。応安元(1368)年の銘を刻む銘鐘である。総高114cm胴回り189cm径66cm厚さ7.5cmで、施主は下社大祝金刺豊久である。特に竜頭の手法が見事で県宝に指定されている。なお慈雲寺の開山は、正安2(1300)年、一山一寧(いっさんいちねい)。臨済宗の古寺である。 | 2020-03-06 |
1735 | | 平石葺きの屋根の民家 | 下の原にあった平石葺きの屋根の民家。 | 2020-03-06 |
1736 | | 伏見屋邸 | 旧中山道沿いにある「伏見屋邸」は元治元(1864)年に建てられたと推測される。木造二階建ての店舗兼住屋と土蔵が残されています。国の登録有形文化財に登録されていますが、今街歩きを楽しむ観光客の休憩や住民の交流の場となっています。 | 2020-03-06 |
1737 | | むかしの生活用品 | 昔の洗濯機。 | 2020-03-06 |
1738 | | むかしの生活用品 | おかま。 | 2020-03-06 |
1739 | | 年神様 吉沢和己氏宅 | 松飾りとともにお棚を作った。上座敷の床の間の前上に長さ6尺巾1尺厚さ5分ほどの新しい板(お棚板)の両端を新しい縄で天井からつるし、つった縄の前方両方に松の枝を結わえつけ、その間に注連縄(しめなわ)を張り歳神様といって正月行事の棚飾りとした。現在ではお棚を飾る家はほとんど見られなくなった。 | 2020-03-06 |
1740 | | せいろ | 箱セエロ(せいろ) | 2020-03-06 |
1741 | | みそたき | 諏訪地方では味噌をつくることを「味噌炊き」といい、春の彼岸が過ぎる頃、原料の大豆や麹、塩などを用意して味噌炊きの準備を始めた。味噌炊き用具一式を使い共同で作業することが多かった。
写真は味噌玉づくりの様子。味噌玉は2,30日間くらい寝かせた後、洗って水を切り臼で搗き味噌桶に仕込んだ。
昭和40年ころには、味噌玉を造る手間を省き、煮た豆を直接塩・麹を加えながら搗き、仕込む方法がとられるようになった。
味噌炊きについては「下諏訪町誌民俗編」を参考にしていただきたい。 | 2021-03-27 |
1742 | | 諏訪湖畔 | 昭和53(1978)年開催のやまびこ国体の漕艇会場が諏訪湖下諏訪湖畔と決まり、新たに湖浜地区に漕艇場及及び漕艇湖及び艇庫が建設されることになった。下諏訪漕艇場では南風による波浪の影響があった。国体の臨時措置として矢板を水面から70cmほど頭を出し2800枚の鋼矢板を長さ1100mにわたって打ち込み漕艇場を外湖と遮断した。強風にもほとんど影響を受けず競技が行われた。矢板は競技終了後取り外された。 | 2020-03-06 |
1743 | | 旧和田トンネル | 昭和8(1933)年1月開通の旧和田トンネル。当時日本一高い場所のトンネルとされていた。長さは260メートル。
これにより同年3月には省営バスが和田峠北線と南線で開通し、続いて同年10月には下諏訪・上和田間が開通した。 | 2020-03-06 |
1744 | | 第一配水池 | 第一配水池。下諏訪町の上水道は大和仁平町長の先見のある英断により昭和2(1927)年着工、同3(1928)年完工した。当時の町の予算の3年分の大事業だった。最大貯水量は3030立方メートル。 | 2020-03-06 |
1745 | | 第一配水池 | 町営水道布設工事は総工事費38万円で昭和2(1927)年4月16日着工、昭和3(1928)年12月25日完工。水源地を東俣国有林の川路、大鹿の自然湧水に求め集水井を経て自然流下により水月園の配水池(下の原字天白)に送水されている。写真は第一配水池。 | 2020-03-06 |
1746 | | 接合井 | 接合井(斧立付近)水圧及び空気調整施設。 | 2020-03-06 |
1747 | | 第一配水池 | 第一配水池。下諏訪町の上水道は大和仁平町長の先見のある英断により昭和2(1927)年着工、同3(1928)年完工した。当時の町の予算の3年分の大事業だった。最大貯水量は3030立方メートル。 | 2020-03-06 |
1748 | | 第一配水池 | 第一配水池。下諏訪町の上水道は大和仁平町長の先見のある英断により昭和2(1927)年着工、同3(1928)年完工した。当時の町の予算の3年分の大事業だった。最大貯水量は3030立方メートル。 | 2020-03-06 |
1749 | | 松沢製糸所 | 松沢庄吉氏が大正4(1915)年国用機械製糸を創業。最盛期には中核的存在となり、下諏訪町を県下随一の国用製糸集団地(66工場)となす。終戦末期統制法下で廃業した。 | 2021-04-01 |
1750 | | 旧下諏訪町役場 | 大正14(1925)年7月に新築された旧下諏訪町役場。昭和46(1971)年1月現在の町役場庁舎移転により、町公民館となる。現在は日本電産サンキョーオルゴール記念館「すわのね」となっている。 | 2020-03-06 |
1751 | | 旧下諏訪町役場 | 大正14(1925)年7月に新築された旧下諏訪町役場。昭和46(1971)年1月現在の町役場庁舎移転により、町公民館となる。現在は日本電産サンキョーオルゴール記念館「すわのね」となっている。 | 2020-03-06 |
1752 | | 萩倉のカネキ製糸場 | 山峡の製糸王国をしのばせる遺構、萩倉カネキ製糸所の炊事場兼工女宿舎。海抜940mの萩倉、戸数34戸の小村に、。明治12(1879)年機械製糸が導入され30年代には7工場、職工男女合わせて500人余りの製糸の町ができた。3~5層の白壁・多窓の繭倉庫が建ち並び、酒や肉の店、飲食店、銭湯から駐在所までできた。そして明治34(1901)年には町場より早く電灯がつき、明治38(1905)年には私設電話がひかれるなどシルクラッシュに湧いたが、明治38(1905)年の国鉄中央東線の開通とともに工場は町へ下り、萩倉は再び山峡の村に戻った。 | 2021-04-21 |
1753 | | 旧下諏訪町役場 | 大正14(1925)年7月に新築された旧下諏訪町役場。昭和46(1971)年1月現在の町役場庁舎移転により、町公民館となる。現在は日本電産サンキョーオルゴール記念館「すわのね」となっている。 | 2020-03-06 |
1754 | | 八島ヶ原高層湿原 | 昭和41(1966)年9月7日、文部省から天然記念物保護地域として指定された八島ヶ原高層湿原。写真の中央部に写っているのがミズゴケ類が約1万1千年かけて堆積し泥炭層となった湿原である。湿原の中には鎌ヶ池や鬼が泉水、八島ヶ池と呼ばれる池がある。中央部は水ごけの泥炭化したものが凹レンズ状になっている。高層湿原の南限と言われ、約8.5mと堆積層が厚いことから学術的のも貴重である。また春から秋にかけて次々と咲く花を尋ねてくる観光客も多い。 | 2021-04-01 |
1755 | | 板葺石置屋根 | 板葺き石置き屋根。栗の木を薄く割った(へぐという)板を並べて押さえに長い丸太を置き、その上に丸石を重しにおいていたが後に鉄平石を交えるようになった。 | 2020-03-06 |
1756 | | 輦(れん) | 慈雲寺山門の参道入口から左手の裏に設置されていた輦(れん)。弔いの時、棺おけをこれに入れて担いで墓まで行った。春宮も前を通ることは許されなかったので、石段を登って慈雲寺へ入った。寺の前の庭を3回まわって、死者の方向感覚を失くしてから墓へ向かったと伝わる。 | 2020-03-06 |
1757 | | 長屋 | 明新館から東方向に入った右手にあった長屋。今はもう見られない。 | 2020-03-06 |
1758 | | 長屋 | 明新館から東方向に入った右手にあった長屋。今はもう見られない。 | 2020-03-06 |
1759 | | 医王渡橋 | 大正13(1924)年7月医王渡橋鉄橋工事が行われ、初めて無橋脚の鉄橋ができた。
写真は浮島から医王渡橋を撮ったもの。 | 2020-03-06 |
1760 | | 高浜埋立 | 埋立工事に入る直前の高浜湾の風景。
諏訪湖治水計画により、諏訪湖浄化しゅんせつ事業(第一期)が昭和44(1969)年から始まった。続いて昭和46(1971)年から諏訪湖流域下水道が着工、そして昭和49(1974)年4月には諏訪湖岸の埋め立地に道路(湖岸線)が開通した。 | 2020-03-06 |
1761 | | 高浜埋立 | 高浜湾遠望。
諏訪湖治水計画により、諏訪湖浄化しゅんせつ事業(第一期)が昭和44(1969)年から始まった。続いて昭和46(1971)年から諏訪湖流域下水道が着工、そして昭和49(1974)年4月には諏訪湖岸の埋め立地に道路(湖岸線)が開通した。 | 2020-03-06 |
1762 | | 高浜埋立 | 埋め立て中の高浜湾。
諏訪湖治水計画により、諏訪湖浄化しゅんせつ事業(第一期)が昭和44(1969)年から始まった。続いて昭和46(1971)年から諏訪湖流域下水道が着工、そして昭和49(1974)年4月には諏訪湖岸の埋め立地に道路(湖岸線)が開通した。 | 2020-03-06 |
1763 | | 諏訪湖のしゅんせつ埋立 | 諏訪湖治水計画により、諏訪湖浄化しゅんせつ事業(第一期)が昭和44(1969)年から始まった。続いて昭和46(1971)年から諏訪湖流域下水道が着工、そして昭和49(1974)年4月には諏訪湖岸の埋め立地に道路(湖岸線)が開通した。 | 2021-04-21 |
1764 | | 諏訪湖 のボート | 手漕ぎボートと足漕ぎボートが見える。 | 2020-03-06 |
1765 | | 諏訪湖の足こぎボート | ボートの赤い座席が見える。 | 2020-03-06 |
1766 | | 水草の除去 | 水草を除去する漁業者。 | 2020-03-06 |
1767 | | 諏訪湖畔 | 諏訪湖畔。 | 2020-03-06 |
1768 | | 諏訪湖のアオコ | アオコ1や水草が目に付く諏訪湖畔。 | 2020-03-06 |
1769 | | 諏訪湖の観光ボートとアオコ | 湖面にはアオコばかりでなくゴミも漂う。 | 2020-03-06 |
1770 | | 諏訪湖畔の観光ボート | 「すわこえん」と書かれた観光ボート。
湖面がアオコでどろんとして見える。 | 2021-12-26 |
1771 | | 航空写真 区画整理中の武居 | 上空から見た武居。左手に下諏訪向陽高校グラウンドが見える。 | 2020-03-06 |
1772 | | 航空写真 区画整理前の武居 | 上空から見た武居。左手に下諏訪向陽高校グラウンドがわずかに見える。 | 2020-03-06 |
1773 | | 航空写真 区画整理中の武居 | 上空から見た武居。左端に下諏訪向陽高校のグラウンドが見える。 | 2020-03-06 |
1774 | | 航空写真 赤砂崎 | 上空から見た赤砂崎。赤砂崎から下諏訪町を望む。 | 2020-03-06 |
1775 | | 航空写真 第一区 | 昭和57年10月。第一区全景。 | 2020-03-06 |
1776 | | 航空写真 南小学校 | 下諏訪南小学校、新校舎・旧木造校舎、旧講堂・旧小体育館。 | 2020-03-06 |
1777 | | 航空写真 水月霊園 | 上空から見た水月園付近。紫雲閣、浄水場も見える | 2020-03-06 |
1778 | | 航空写真 関屋 富部 | 上空から見た、富部(下諏訪町第10区)。上の方に関屋団地が見える。 | 2020-03-06 |
1779 | | 航空写真 花田上空 | 上空から見た東山田(下諏訪町第7区)左に三協精機社宅(現日本電産サンキョー)、下諏訪町第5保育所(現とがわ保育園)の赤い屋根が見える。 | 2020-03-06 |
1780 | | 航空写真 秋宮周辺 | 下社秋宮の森、今はない山王閣の建物が見える。画面左下には青塚が見えている。 | 2020-03-06 |
1781 | | 航空写真 大門通上空 | 上空から見た下諏訪町。大門上空、大門通りの左はじに下馬橋が見える。 | 2020-03-06 |
1782 | | 航空写真 町庁舎周辺 | 上空から見た町庁舎・町営球場。手前の川は砥川。建設途中の下諏訪体育館。旧田中線の道路は清水橋ができておらず砥川で止まっている。 | 2020-03-06 |
1783 | | 航空写真 赤砂崎付近 | 空から見た諏訪湖。赤砂崎、漕艇場を望む。 | 2020-03-06 |
1784 | | 航空写真 砥川河口付近 | 空から見た諏訪湖。赤砂崎、漕艇場を望む。 | 2020-03-06 |
1785 | | 航空写真 漕艇場付近 | 空から見た諏訪湖。漕艇場。 | 2020-03-06 |
1786 | | 航空写真 下諏訪町市街地 | 空から見た下諏訪町と諏訪湖。写真右下に漕艇場が見える。昭和52(1977)年当時は西大路通りがまだできていないのと同様諏訪湖の湖周道路も未完成である。 | 2020-03-06 |
1787 | | 航空写真 下諏訪町市街地 | 写真の中心付近に下諏訪町役場の庁舎や総合運動場が見える。この写真を撮った昭和52(1977)年には、昭和53(1978)年完成した湖岸通り(ジャスコ通り)の砥川以西や昭和54(1979)年完成した清水橋とそれ以西の道路、昭和55(1980)年完成した西大路通りなどはまだない。 | 2020-03-06 |
1788 | | 高浜湾 | 諏訪湖で網いけす養鯉業がはじまったのは昭和39(1964)年。その頃の諏訪湖岸(高浜湾)の風情が感じられる写真。 | 2021-03-24 |
1789 | | 湖浜地区の区画整理工事中 | 7枚の写真の合成。昭和42(1967)年10月湖浜地区の区画整理工事中の様子。区画整理前は一面に水田が広がっていた。 | 2020-03-06 |
1790 | | 高浜湾 | 昭和41年に撮影された富が丘から望む高浜湾。広い水田が広がっている。 | 2020-03-06 |
1791 | | 諏訪湖氾濫 | 昭和36(1961)年の集中豪雨で氾濫した時の諏訪湖。写真手前の上諏訪側の湖岸はかなり水につかっている。特に諏訪湖の南側は諏訪湖が広がったように見える。また下諏訪高浜や高木と思われるあたりの湖岸も水に浸かっている様子が遠望できる。下諏訪町第三区の年表(近現代)には「6月28日、豪雨で十四瀬川氾濫、西赤砂4戸床上浸水、30余戸床下浸水の被害を受ける」とある。また、諏訪市史には「諏訪市の被害は浸水家屋2,680戸、橋梁流失5、浸水日数8日」と記載されている | 2020-03-06 |
1792 | | 千尋館二階大広間 | 200人ほど入れたという千尋館の大広間。大きい結婚式なども行った。 | 2020-03-06 |
1793 | | 千尋館 | 秋宮鳥居前にあった料亭・千尋館。その前はうなぎの蒲焼の松葉屋であった。 | 2020-03-06 |
1794 | | 売神祝印(メガミホオリノイン) | 「売神祝ノ印(めがみほうりのいん)」は諏訪大社下社の御神宝(宝印)で印筥(いんばこ)と共に昭和9(1934)年に国宝(現在は重要文化財)の指定を受けた。社伝によれば大同年間(806から810)平城天皇より下賜されたものといわれ、美しい鋳物肌を持つ銅印である。かつていったん失われ、秋宮境内の千尋池から発見されたと伝えられているが真偽は分からないという。 | 2020-03-06 |
1795 | | 千尋館 | 二階鶴の間。 | 2020-03-06 |
1796 | | 小田野(社ヶ丘団地造成前)住宅団地 | 下諏訪町では住宅団地造成のため、東山田小田野地籍23,070平方メートルを買収して、昭和36(1961)年7月から工事に着工した。写真は工事着工前の田畑(多くは桑畑に利用されていた)が広がる様子である。
昭和37(1962)年3月20日工事は竣工し社ヶ丘団地が造成された。 | 2020-03-06 |
1797 | | 御柱山出し | 御柱祭山出しでの第一 区関係者。 | 2020-03-06 |
1798 | | 長持勢揃い | 春宮に勢揃いした下の原長持連。 | 2020-03-06 |
1799 | | 御柱山出し | 御柱祭山出しでの第一区関係者。 | 2021-04-01 |
1800 | | 長持勢揃い | 春宮に勢揃いした下の原長持連。 | 2020-03-06 |
1801 | | 御騎馬奉納 | 大正15(1926)年の御柱祭。
下馬橋(太鼓橋附近)後の春宮に向かい勢揃いした下の原御騎馬。今はないさわら並木が見える。 | 2021-04-01 |
1802 | | 御騎馬奉納 | 明新館下に勢揃いした下の原の奉納騎馬。
騎馬には出陣騎馬(殿様騎馬)と凱旋騎馬(過労騎馬)があり、それぞれ掛け声のかけかたや所作に違いがある。 | 2021-04-01 |
1803 | | 御騎馬勢揃い | 大正9(1920)年御柱祭、下の原御騎馬、 明新館前での役員記念写真。 | 2020-03-06 |
1804 | | 第一区両社詣り | 昭和15(1940)年9月15日。第一区両社参り。 | 2020-03-06 |
1805 | | 春宮葺合祭下の原長持連 | 大正15(1926)年5月6日。春宮葺合祭(ふきあいさい)が御柱祭りに先立って行われた時の下の原長持連の記念写真。
ちなみに、葺合祭は式年遷宮の年に宝殿遷座祭の前日に新宝殿の竣工式として行われる。下社の場合、春・秋両社の四宝殿の内一棟を造改築し、一棟の屋根葺合を行う。改築後は立柱式(当年の3月中旬以降)、葺合棟は葺合祭を行う。 | 2020-03-06 |
1806 | | 和田嶺合戦90年祭 | 元治元(1864)年、総勢1000人の水戸浪士軍は尊皇攘夷の実行を迫るため中山道を上って来た。11月20日、これを迎え撃つ諏訪藩・松本藩と雨中の戦いとなった。この合戦の戦死者は諏訪藩6名、松本藩4名、浪士軍10数名であった。のちに両軍戦没者を慰霊する浪人塚が立てられた。
和田嶺合戦90年祭。昭和29(1954)年10月20日撮影。 | 2020-03-06 |
1807 | | 新盆仏壇 | 新盆の飾り。昭和2(1927)年8月10日撮影。新盆の家では仏壇と別に木で壇を作り位牌を祀り、親類などから贈られる盆提灯、盆灯篭を飾った。 | 2020-03-06 |
1808 | | 下の原勢揃い | 大正時代、下社春宮下馬橋での撮影。子どもたちも大人と同じ法被姿をしている。大人は鉢巻姿も勇ましく、威勢がよい。御柱祭の写真のようだ。
中央に別の写真の男性が転写されている。 | 2021-04-01 |
1809 | | 夜のお花見 | 大正3(1914)年水月会の主唱によって水月園と花見新道に初めて電灯をつけた。写真は夜のお花見、三味線を持った芸者さんもいる。 | 2020-03-06 |
1810 | | 水月園お花見 | 観月堂前。三味線を弾く芸者さんを大勢の人が取り囲んでいる。お花見の人出は相当だったと思われる。 | 2020-03-06 |
1811 | | 水月園お花見 | 水月園は「水月会」により開発され、明治35(1902)年に命名。明治40(1907)年旧月見堂が落成。その後昭和28(1953)年に町に移管され、昭和56(1981)年現在の観月堂が作られる(月見堂は写真の左になる) | 2020-03-06 |
1812 | | 水月園お花見 | 河西政常氏撮影 昭和初期のお花見の雑踏。後ろに観月堂が見える。 | 2020-03-06 |
1813 | | 第一区両社詣り | 両社参り昭和16(1941)年9月21日。の昭和13(1938)年の写真と比べると子どもや婦人(女性)の人数が多いように見える。 | 2020-03-06 |
1814 | | 第一区両社詣り | 出征軍人の健康祈願のため区の主催で区民がたびたび諏訪大社の上下両社に歩いてお詣りした。写真は上社石段での記念撮影。
前列中央の男性が「日本第一軍神」の旗を持っている。
両社参りとは豊作を祈り六月一日に行われていた。
戦争中はこの日に限らず諏訪上下社に参拝した。
上社へは上諏訪の駅から歩いて参拝した。 | 2022-03-15 |
1815 | | 下諏訪全景 | 河西政常氏撮影。製糸工場の煙突の煙が見える。白い建物は ※丸六製糸(現在のムトー工業の位置)。 | 2020-03-06 |
1816 | | 出征軍人を駅で送る | 下諏訪駅で出征兵士を送る風景。日の丸の旗や出征兵士の名前を書いた幟旗がたくさん見える。終戦近くなると、にぎやかな見送りは禁止となった。 | 2020-03-06 |
1817 | | 戦時献金 | 戦時献金 昭和17(1942)年春宮の鳥居前でお舟祭の参拝者に献金をお願いしている女子青年団。「献金樽」と書かれた樽が置かれている。 | 2020-03-06 |
1818 | | 大詔奉戴日の行進 | 大詔奉戴日の行進(大東亜戦争のはじまった12月8日を記念し以降毎月8日を記念日として、戦意の高揚をはかった。)写真は翼賛壮年団。生徒は小学校に集合し秋宮から春宮へと行進した。この行進に参加しない者は問題視された。 | 2020-03-06 |
1819 | | 大詔奉戴日の行進 | 昭和17(1942)年大東亜戦争の始まった12月8日を記念して以降毎月8日を大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)とし戦意の高揚をはかった。その日の行事として秋宮から春宮まで行進した。写真は女子青年団。 | 2020-03-06 |
1820 | | 医王渡橋渡り始め | 橋脚のない鉄橋医王渡橋を施工する。明治38(1905)年流出後架設した橋が老朽化し、大正12(1923)年8月県補助を申請し鉄橋建設、総工費5000円、中谷鉄工所請負で大正13(1924)年7月開通。 | 2020-03-06 |
1821 | | 賽の神 | 賽(さい)の神。道祖神祭の一環として御幣棹(ゴヘイトウ)を建てた。場所は下馬橋前。先端には松を飾り、横木に色々な細工物を飾った。飾りをくじ引きで分けるのが楽しみだった。明治6(1873)年まで行っていたものを昭和6(1931)年に区の有志が復活再現した時の写真。 | 2020-03-06 |
1822 | | 米屋の初荷(下馬本屋) | 下諏訪製糸勃興期の初荷風景。下の原下馬橋(太鼓橋)左袂の下馬本屋精米所から製糸工場に白米の初荷の様子を撮影した写真。運送会社がおかめの飾りを持って来て飾つけ、酒を飲んで初荷を祝った。 | 2020-03-06 |
1823 | | 子どもの川遊び | 浮島へ渡る橋は木造だった。背中に小さい子供(弟や妹)を背負い遊びに興じる姿は珍しくなかった。 | 2020-03-06 |
1824 | | 子どもの川遊び | 中村静志に絵を描くためと依頼されて撮影したという写真。 | 2020-03-06 |
1825 | | 子どもの川遊び | 浮島の周りの砥川。カジカなどの小魚が沢山いた頃のもの。川を石でせき止めてプールをつくって泳ぎ、体が冷えるとあみだ様(万治の石仏)の背中に張り付いて温めた人もいたという。 | 2020-03-06 |
1826 | | 子どもの川遊び | 浮島の周りの砥川の子どもたちの様子。 | 2020-03-06 |
1827 | | 下諏訪町遠望 | 富部の山の手から撮影。国鉄(現JR)との立体交差の始まった冬。立体交差は昭和32(1957)年5月20日開通式を行う。写真手前家並みは中山道。その上側に農耕地が広がり写真右に土田墓地、駅構内の線路、駅の手前にダイヤ豆腐の工場、画面左端には下諏訪小学校の講堂と思われる建物が見える。写真中央を中央線と国道20号線沿いの家並みが線状に見えている。遠く水田地帯、砥川、長地の集落と思われる風景が続く。 | 2020-03-06 |
1828 | | 宅地化する前の湖浜地区 | 富部山の手から撮影。冬の高浜湾。 | 2020-03-06 |
1829 | | 宅地化する前の湖浜地区 | 上空から見た下諏訪南小学校。旧木造校舎、旧講堂、旧小体育館、50Mプールも見える。校舎から諏訪湖畔までは水田が広がっている。 | 2020-03-06 |
1830 | | 奉安殿 | 下諏訪小学校(現中学)運動場の南端に奉安殿施工する。生徒たちは登校の際、最敬礼をして通過した。昭和21(1946)年1月御真影を地方事務所に奉環し奉安殿も姿を消した。 | 2020-03-06 |
1831 | | カヤ屋根の葺き替え | 茅ぶき屋根の家。大正末期までは区内に数十軒あったが生活様式の変化で昭和60年ごろには全てなくなった屋内で火を焚いて煤が茅につくので一代に一回葺き替えればよいとされたが大変な労力が入るので「ゆい」や「かや無尽」があった。 | 2020-03-06 |
1832 | | 子どもの通学風景 | 朝の小学生の登校風景。この頃は着物姿も普通だった。 | 2020-03-06 |
1833 | | 長持記念写真 | 長持ち勢ぞろいの記念写真。春宮神楽殿前。 | 2020-03-06 |
1834 | | 完成した曳き綱 | 御柱綱打ちは山車を立て並べ車輪に結んだ玉縄によりをかけて作業した。後ろに青年会が作った出征軍人の武運長久を祈った横断幕が見える。 | 2020-03-06 |
1835 | | 御柱搬出 | 棚木場へ集結した御柱。 5月2日に伐採された8本の御柱搬出は、入札により水月会(1区)有志が請け負い、カグラサン(シャチともいう)を使い5月12日から70日かけて完了した。その時の記念写真。 | 2020-03-06 |
1836 | | 御柱搬出 | 棚木場へ集結した8本の御柱は、請け負った水月会で棚木場に積み重ね、この日関係町長立会いのもと、引渡しが行われた。この頃はこの後屋根を架け翌年の山出しを待った。 | 2020-03-06 |
1837 | | 御柱搬出 | 御柱伐採と思われる。すでに皮はむかれている。 | 2020-03-06 |
1838 | | 御柱搬出 | 御柱祭り。法被の襟に「河西製米所」「吉沢製材所」の文字。大御幣を持っている人の姿も見える。 | 2020-03-06 |
1839 | | 御柱伐採 | 昭和6(1931)年。写真は春宮一の御柱。
諏訪大社下社御柱伐採は祭りの前年に東俣国有林にて行われる。
地響きを立て大木が倒れると、誰からともなく万歳が起きる。 | 2020-03-06 |
1840 | | 御柱伐採記念写真 | 昭和6(1931)年5月2日春一の御柱伐採。
この木は目通り周囲3.82mの太さだったと記録に残され上下社を通して歴代3位の太い柱だった。
大正2(1913)年の申し合わせ以来春一の伐採は第一区(下の原)が担当している。 | 2020-03-06 |
1841 | | 木落し | 大正15年(1926)諏訪大社下社御柱祭。
山出しの木落し風景。 | 2020-03-06 |
1842 | | 麻の供出 | 昭和18(1943)年戦争末期、衣類不足を補う為軍の命令で町内の草地で麻を栽培。明新館前に大がまをしつらえて剥し繊維を供出。村人が動員されて横吹の畑麻を刈り取ったときの写真。若い人が出征し中高年者が多い。この麻が戦後まで残って麻薬の原料になると、根絶させるのに苦労した。 | 2020-03-06 |
1843 | | 芸者踊り | 三井屋の前、芸者の踊り。御柱祭に芸者集も大勢参加した。
向かって左の建物から「本陣事務所」「つじや」「オオクマヤ」と並んでいた。
芸者の多さにも驚くが群衆の中の子どもの多さにも驚かされる。 | 2020-03-06 |
1844 | | お舟祭り | 昭和初期の明新館前、この大幟(「吉日大正十五年五月再調 下原」と書かれている)は交通上支障になると昭和30(1955)年以降は立てられていない。 | 2020-03-06 |
1845 | | 大正15年御柱祭 | 御柱祭できれいどころをのせて屋台が町内を練り歩いた。後方の屋根は明新館。 | 2021-04-22 |
1846 | | 梅雨明け集中豪雨 | 砥川出水時の医王渡橋下。 | 2020-03-06 |
1847 | | 梅雨明け集中豪雨 | 上流より見た砥川。水防のために置かれた牛が見られる。 | 2020-03-06 |
1848 | | 梅雨明け集中豪雨 | 砥川「浮島」付近の出水状況(昭和7年7月8~11日) | 2020-03-06 |
1849 | | 梅雨明け集中豪雨 | 砥川の洪水。昭和7(1932)年7月8~11日の梅雨明けの集中豪雨で大出水。写真は浮島付近。
江戸時代に成立したと思われる下社七不思議のひとつとされる「浮島」。春宮の横を流れる砥川の中の小島で夏越しの神事が行われる島だが、濁流の中さながら浮きあがって見えている。 | 2020-03-06 |
1850 | | 室戸台風の被害 | 昭和9(1934)年9月21日に下諏訪を襲った室戸台風により大門通りのさわら並木が倒れた。
2枚目の写真は春宮鳥居に向かい右手前に続く民家付近(現共立病院の前あたり)。
3枚目は石の鳥居前や手水舎一帯の大被害の様子。
4枚目は台風に襲われ大門通りのさわら並木の大半が倒れた下馬橋上の様子。
5枚目は春宮鳥居前の被害状況。
河西政常氏撮影。 | 2020-03-06 |
1851 | | 大門通り下馬橋~春宮 | 大門通りのさわら並木や下馬橋を参道南側から春宮方向に望む。河西政常氏撮影 。 | 2020-03-06 |
1852 | | 吉澤製材所とさわら並木 | 春宮前のさわら並木を西側から写したもの。春宮下馬橋の西裏手を流れる御手洗川の水力(水車)を動力として利用をした吉澤製材工所。写真の大きな立木は大門通りのさわら並木。現在は駐車場、住宅になっている。河西政常氏撮影。 | 2020-03-06 |
1853 | | 下馬橋より下のさわら並木 | 大門通り。下馬橋から南を望む。 | 2020-03-06 |
1854 | | 下馬橋とさわら並木 | 官幣大社諏訪神社下社春宮下馬橋。昭和9(1934)年室戸台風の被害前のさわら並木。 | 2020-03-06 |
1855 | | 春宮前大門通り大正末期 | 春宮前の大門通り下馬橋から春宮を望む、河西政常氏撮影。通りの両側にはさわら、杉、松、桜などの大木が並んでいた。明治中期の調査では計41本であったが、昭和9(1934)年の室戸台風でほとんどが倒れ、その後枯死し昭和39(1964)年には全て姿を消した。 | 2020-03-06 |
1856 | | 大正年間の大門通り | 大門の中ほどから下馬橋を望む、何かが通るので沿道の人が出てきていたところか?撮影者の河西氏宅は下馬本屋と呼ばれ暗箱(ガラス板)を使って写真を撮影していた。当時アマチュアカメラマンといえば下馬本屋さんといわれていた。尚下馬本屋(河西氏宅)は下の原の御洗川の水を利用して、精米水車を最後まで行っていた一軒であった。 | 2020-03-06 |
1857 | | 小田野段丘と砥川新扇状地 | 機上から(諏訪市勝山為如氏)撮影した諏訪大社下社春宮下馬橋(太鼓橋)。
右が春宮の森、さわら並木は昭和9年の室戸台風でほとんどが倒れ今は見られない。左上が小田野段丘で昭和37年社が丘住宅団地ができた。その下が東山田の集落。参道両側の民家は平石屋根やかやぶき屋根が多い。 | 2020-03-06 |
1858 | | 町主催戦死者葬儀(合同葬儀) | たれ幕には「陸軍輜重兵上等兵…」「陸軍砲兵上等兵…」「陸軍工兵伍長…」などの文字が読み取れる。「輜重兵(しちょうへい)」とは軍需品の補給や陸上運送に当たった兵のこと。町主催で行われた戦死者葬儀(4名の合同葬儀)、会場は現在の南小学校講堂。 | 2020-03-06 |
1859 | | 町主催戦死者葬儀 | 町主催で行われた戦死者葬儀(2名の合同葬儀)、会場は現在の南小学校講堂。たれ幕から「弔故陸軍伍長…」「弔故陸軍上等兵…」の文字が読める。 | 2020-03-06 |
1860 | | 町主催戦死者葬儀 | 町主催で行われた戦死者(第二次世界大戦・太平洋戦争戦没者)葬儀、会場は現在の南小学校講堂。祭壇には戒名(法名)に並んで「皇后陛下御下賜品」や「参謀総長」「教育総監」「陸軍大臣」「師団長」の文字も見える。また、たれ幕には「迎故陸軍兵長・・・英霊」などの文字も見える。 | 2020-03-06 |
1861 | | 下諏訪小学校南校雨天体操場建設 | 下諏訪小学校南校雨天体操場(講堂)内での関係者の記念写真。平成29(2017)年11月26日市民新聞に掲載された。 | 2020-03-06 |
1862 | | 下諏訪小学校南校雨天体操場建設 | 下諏訪小学校南校(現南小)雨天体操場(講堂)の外観を背景に関係者の記念写真 平成29(2017)年11月26日市民新聞に掲載された。
「下諏訪小学校南校雨天体操場落成記念 昭和6年10月28日」。
南校は大正13(1924)年低学年収容の校舎として開設されていた。 | 2020-03-06 |
1863 | | 下諏訪小学校南校雨天体操場建設 | 下諏訪小学校南校雨天体操場(講堂)建設。平成29(2017)年11月26日の市民新聞で紹介された写真。 | 2020-03-06 |
1864 | | 下諏訪小学校南校雨天体操場建設 | 建設中の下諏訪小学校南校雨天体操場(講堂)建設現場(現下諏訪南小学校)。とび職の人たちが命綱も使わずに丸太で三階組の足場を組んだ。 | 2020-03-06 |
1865 | | 出征兵士と家族写真 | 出征兵士と家族の記念写真、鷹野町にあった「三澤屋」。 | 2020-03-06 |
1866 | | 出征兵士と家族写真 | 出征兵士と家族の記念写真、菅野町の武川運送。 | 2020-03-06 |
1867 | | 出征兵士と家族写真 | 出征兵士(「まつや」番頭)と「まつや」家族の記念写真。
御田町にあった「丸七まつや」(立町に移転マツヤ洋品店に)後に荒井書店に現在は他の店になっている。 | 2020-03-06 |
1868 | | 学校プール合宿選手 | 日本水泳連盟公認の認定証。総和38(1963)年8月1日施工と記録されている。 | 2020-03-06 |
1869 | | 学校プール合宿風景 | 完成と同時に合宿に来た選手たちと黒田町長はじめ町関係者。 福島滋雄選手と思われる。福島滋雄は身長181cmの長身のスイマーで、200M背泳ぎで2分16秒1の世界記録を樹立したり、日本選手権で1962年から1968年まで7年連続優勝したりしている。 | 2020-03-06 |
1870 | | 学校プール | 浄化用タンク施設。 | 2020-03-06 |
1871 | | 学校プール | 更衣室・トイレ棟、手前は低学年用プール。 | 2020-03-06 |
1872 | | 学校プール | 更衣室・トイレ棟、手前は低学年用プール。 | 2020-03-06 |
1873 | | 学校プール | 下諏訪南小学校プール、更衣室・トイレ棟。 | 2020-03-06 |
1874 | | 学校プール | 下諏訪南小学校プール、シャワー施設。 | 2020-03-06 |
1875 | | 学校プール | 下諏訪小学校の学校プールが建設され昭和39(1964)年開場となった。手前は低学年用プール。 | 2020-03-06 |
1876 | | 学校プール | 下諏訪小学校の学校プールが建設され昭和39(1964)年開場となった。プール北側を望む写真。 | 2020-03-06 |
1877 | | 学校プール | 学校プールが建設され昭和39(1964)年開場となった。
プール北側を望む。 | 2020-03-06 |
1878 | | 学校プール | 学校プールが建設され昭和38(1963)年開場となった。
小プールの完成は翌年昭和39(1964)年である。
南側は諏訪湖まで見渡す限り田んぼであった。 | 2020-03-06 |
1879 | | 旧高浜プール | 埋め立てられた高浜湾から高浜プールを望む。 | 2020-03-06 |
1880 | | 旧高浜プール | 各区対抗で行われた町民水泳大会。 | 2020-03-06 |
1881 | | 旧高浜プール | 各区対抗で行われた町民水泳大会。50mプールはここしかなかった。コースロープにはコルクが使われていた。戦後の第1回町民水泳競技大会は昭和21(1946)年8月11日となっている。 | 2020-03-06 |
1882 | | 高浜プール開場式 | 昭和5(1930)年に林嘉平氏(高浜温泉旅館)により完成した高浜プールは50m・4レーンであった。あわせて子ども用コースも付設されていた。その後、昭和22(1947)年に設備一切を町が県水指下諏訪支所から期間中受けて運営していた(7・8月の2ヶ月間)。
写真は、開場式の写真で、戦前と思われる。 | 2020-03-06 |
1883 | | 町営プール | 昭和54(1979)年に完成した赤砂崎の町営プール。
プールの背後には砥川が流れ、河口には鯉養殖の網いけすが置かれている。現在は多目的グラウンド・防災ヘリポート等になっている。 | 2020-03-06 |
1884 | | 町民体操祭 | 町民体操祭の模様。 | 2020-03-06 |
1885 | | 町民体操祭 | 町民体操祭の模様。 | 2020-03-06 |
1886 | | 町民体操祭 | 町民体操祭の模様。「町民体操祭」は昭和33(1958)~平成2(1990)年の間行われた。 | 2020-03-06 |
1887 | | 町民体操祭 | 町民体操祭で模範演技をする諏訪二葉高校体操部、同体操部は県下でも上位高であった。
「社会教育しもすわ」の記事の中で昭和33(1958)年「五千町民の躍動。
日本体操祭下諏訪大会は、5000人の競技者・演技者と3000人の観衆を集め、午前9時から町営球場で盛大に開催、美と力の祭典の歴史が始まった。」と書かれている。 | 2020-03-06 |
1888 | | 町民体操祭 | 町民体操祭で模範演技をする諏訪二葉高校体操部、同体操部は県下でも上位高であった。
「社会教育しもすわ」の記事の中で昭和33(1958)年「五千町民の躍動。
日本体操祭下諏訪大会は、5000人の競技者・演技者と3000人の観衆を集め、午前9時から町営球場で盛大に開催、美と力の祭典の歴史が始まった。」と書かれている。 | 2020-03-06 |
1889 | | 町民体操祭 | 町民体操祭で模範演技をする諏訪二葉高校体操部、同体操部は県下でも上位高であった。
「社会教育しもすわ」の記事の中で昭和33(1958)年「五千町民の躍動。日本体操祭下諏訪大会は、5000人の競技者・演技者と3000人の観衆を集め、午前9時から町営球場で盛大に開催、美と力の祭典の歴史が始まった。」と書かれている。 | 2020-03-06 |
1890 | | テニスコート | 総合運動場内のテニスコート。 | 2020-03-06 |
1891 | | 陸上競技場 | 昭和36(1961)年完成の陸上競技場開きの看板(11月5日に式)、背後に関係者の姿が見える。 | 2020-03-06 |
1892 | | 陸上競技場 | 陸上競技場は昭和36(1961)年11月に野球場南側に隣接してつくられたもので完成前の陸上競技場、まだアンツーカーなどの整備はされていない。 | 2020-03-06 |
1893 | | 総合運動場 | ガスタンクの上から撮影した総合運動場全景。
球場では大会が開催されていて、多くの観客が観戦している。
当時庭球コートは6面、バレーボールコートは3面がとれたという。
陸上競技場はまだできていない。
2枚組み写真。
町営総合運動場の完成は昭和24(1949)年8月。
陸上競技場完成は昭和36(1961)年11月5日である。
ちなみにこの敷地は中央車輌株式会社所有地(旧鐘紡敷地)の整理にあたって町が買収したものである。 | 2020-03-06 |
1894 | | 町民水泳大会 | 各区対抗で行われた町民水泳大会の関係者?背後には現国道のガードレールも見える。 | 2020-03-06 |
1895 | | 高浜プール | 各区対抗で行われた町民水泳大会の様子で、場所は旧高浜プール(現在の県水産試験場の孵化場付近)。
プールの背景は、左に高浜湾(諏訪湖)、奥には高浜温泉旅館、プールの奥には石置屋根も懐かしい建物が見える。プールの右には富部新道と国道20号が見える。 | 2021-12-15 |
1896 | | 御射山スキー場 | 夜明けの処女雪をふんで。 撮影両角信行氏 | 2020-03-06 |
1897 | | 御射山スキー場 | 御射山ヒュッテがこの頃できた。御射山ヒュッテに向かってすべるスキーヤーたち。撮影両角信行氏 | 2020-03-06 |
1898 | | 区対抗大平百曲がりスキー大会 | 大平百曲がりスキー大会スタート。早い人は10分から13分で滑り降りた。トランシーバーも無くスタート時間を決めて実施された。 | 2020-03-06 |
1899 | | 区対抗大平百曲がりスキー大会 | スキー大会の前に七島八島のゲレンデでスキー講習会があった。 | 2020-03-06 |
1900 | | 区対抗大平百曲がりスキー大会 | 大平百曲がりスキー大会。
七島八島駐車場から大平までの役員によるコース整備の様子。 | 2020-03-06 |
1901 | | 更科そば店 | 湯田仲町(ムラグチ酒店のあった場所)にあった更科そば店。
御大典記念の写真で開業五周年大売り出しとある。
当時更科そば店。当時下諏訪町で最も繁盛した。
ラーメン店(当時は「シナそば」店)の栄軒はこれより遅れて開業、店主が北信州栄村の出身だったことから蕎麦屋を予定していたが、更科そば店の繁盛を見てラーメン屋にしたという。
町内ではそばと言えば更科と言われていた。 | 2020-03-06 |
1902 | | 丸屋呉服店 | 御田町にあった丸屋(まるや)呉服店、現在は共益金物になっている。
「連合大売出し御田町商業会」ののぼり旗も見え当時の御田町の賑わいが感じられる。
店の右端には「名実共ニ日本一福助足袋」の丸い看板も見える。
御田町通りは明治44(1921)年に新たに開かれた通りある。 | 2021-05-03 |
1903 | | 佐寿中商会 | 友之町(羽田医院の国道向かい側)にあった佐寿中商会下諏訪営業所。
自転車を販売していた。正面の看板とは別に左側に「ラヂオ(ラジオ)」店内には「ナショナル」の看板も見え、電気製品も扱っていたようだ。 | 2020-03-06 |
1904 | | 釜洞商店 | 御田町の釜洞(かまほら)商店とその家族、奉公人。
隣は近藤理髪店と思われる。
店先のスイカに20銭25銭28銭の値が直接書いてある。シマウリ(つけうり)、ゴボウ、ナス、トウモロコシ、カボチャ、キュウリ、ピーマン、長イモ、などの野菜、ブドウ、ナシ、モモ、リンゴなどの果物の間にはさまって、大量のバナナも売られている。 | 2020-03-06 |
1905 | | 青木健一町長就任記念写真 | 現庁舎前。青木健一町長以下議員、役場幹部。
第29代町長、青木健一氏は昭和45(1970)年~昭和57(1982)年まで3期12年町長を務める。在任中新庁舎完成、北小開校、社中開校、町屋敷団地完成、東俣浄水場建設、老人福祉センター開設、清掃センター完成、体育館完成などに尽力した。 | 2020-03-06 |
1906 | | 黒田町長就任記念写真 | 役場旧庁舎前。黒田新一郎町長と議員。第26代下諏訪町長、黒田新一郎氏は昭和33(1958)年から昭和45(1970)年まで3期12年間町長を務める。在任中、温泉開発、明るい町づくり運動推進、陸上競技場完成、社ヶ丘団地造成、星ヶ丘団地造成、八島高原の保全、町誌づくり、新庁舎建設等に尽力した。 | 2020-03-06 |
1907 | | 臨時国税調査員記念 | 役場旧庁舎前 臨時国勢調査員記念写真。
小口守一町長以下議員と役場幹部。昭和15(1940)年に発表された、第5回国税調査による下諏訪町の人口は男7670人・女9949人計17619人(世帯数3651)となっていた。 | 2020-03-06 |
1908 | | 来迎寺檀家の記念写真 | 来迎寺。山門前向かって右側の碑は位産上人筆による六方石で建てられた碑。六方石はかんかん石とも呼ばれた玄武岩でできた下諏訪町武居産の石(六方石については「悠久の武居 46p」や下諏訪町誌民俗編p324などに記載あり) | 2020-03-06 |
1909 | | 来迎寺御詠歌講のお年寄り | 来迎寺の鉄焼地蔵の前にあった松の木の下で御詠歌講のお年寄り方60人で取った写真。この立派な松も枯れてしまった。(昭和53年記事より) | 2020-03-06 |
1910 | | 新潟県人会 | この頃、県人会など絆が固くまとまっていた。
新潟県人会には魚屋さんが多かった。 | 2020-03-06 |
1911 | | 出征家族写真撮影関係者 | 軍艦旗(旭日旗)と国旗が玄関前に飾られている。
写真にはないが幟も立てたとのこと。 | 2020-03-06 |
1912 | | 諏訪中入学の記念写真 | 下諏訪からの通学者の入学後の記念写真。
1年生が後ろで5年生が前、現在では考えられない。
下諏訪黎明会という会を作っていた。
後ろの秋宮幣拝殿の前に釣り灯篭があるが、その後行方不明になっている。
前列の生徒の足元を見ると約半数は下駄をはいている。 | 2020-03-06 |
1913 | | 結婚式の記念写真 | 松葉屋(後の千尋館)での結婚式の記念写真。 | 2020-03-06 |
1914 | | 結婚式の記念写真 | 松葉屋(後の千尋館)での結婚式の記念写真。
男蝶、女蝶の子どもが写っている。三三九度のお酌をした。
男蝶・女蝶とは祝言で三三九度の酌人を務める男女の子どものことを言います。
読み方は「おちょう・めちょう」雄蝶・雌蝶と書くこともある。 | 2020-03-06 |
1915 | | 結婚式の記念写真 | 諏訪大社下社秋宮での結婚式の記念写真。 | 2020-03-06 |
1916 | | 成人式記念写真(女性) | この当時、成人式は諏訪大社下社秋宮で行われていた。人数が多く記念写真は男女別に撮っていた。 | 2020-03-06 |
1917 | | 成人式記念写真(男性) | この当時、成人式は諏訪大社下社秋宮で行われていた。
人数が多く記念写真は男女別に撮っていた。 | 2020-03-06 |
1918 | | 昭和初期小学生の記念写真 | 山王台の銅像の台の前。
片倉蚕糸の創業者が岡谷の方向を指差した銅像があったが、お尻が皇居の方向を向いているとの批判があり取り壊された。 | 2020-03-06 |
1919 | | 池のくるみ | スキーのジャンプ台、オリンピックの開催を夢見ていた。スキー板を持った人が見える。 | 2020-03-06 |
1920 | | 花見新道から見た下諏訪 | 花見新道の桜の向こうに手前から ※丸六製糸(現ムトウ工業)、 入一組製糸所、その向うに旧役場、下諏訪尋常高等小学校(高等小学校、実科女学校、現下諏訪中学校)、南校(現下諏訪南小学校)が見える。
手前には諏訪地方特有の石置き屋根の民家も見える。 | 2020-03-06 |
1921 | | 図書館利用者の集合写真 | 戦前の下諏訪町青年会図書館。
昭和3(1928)年に下諏訪青年会が山王台に建てた、昭和11(1936)年4月、片倉公園造成のため山王台から下中のバックネットの裏に移設された。 | 2020-03-06 |
1922 | | 従軍家族の慰安会 | 青年団が色々な出し物で従軍家族を慰安した。 | 2020-03-06 |
1923 | | 第4分団消防役員記念写真 | 旧4区屯所前。
左側に手引きポンプが写っている。 | 2020-03-06 |
1924 | | 勤労奉仕 | 富部青年団神風社(しんぷうしゃ)秋の勤労奉仕、稲刈り作業。
(富部千代田ポンプあたり)。 | 2020-03-06 |
1925 | | 勤労奉仕集合写真 | 富部青年団神風社(しんぷうしゃ)秋の勤労奉仕、脱穀作業後の集合写真。 | 2020-03-06 |
1926 | | 菅野温泉 | 菅野温泉は昭和31(1956)年に改築されている。当時、丸いお風呂は珍しかった。また、朝は近くの旦那衆が入っていたが、入る場所や洗い場がそれぞれ決まっていたという。
下諏訪町誌下巻には、江戸時代寛政年間に加宿友の町へ、旦過の湯の遣湯(つかいゆ)を菅野湯へ分湯したと記述がある。
また、明治7(1874)年の友之町全図によれば、菅野温泉は「一畝九歩村持」とあって、当時は建物がなくて男女共同浴場であったものと推定されている。
観光パンフレット等によれば明治19(1886)年創業の公衆温泉浴場で、下諏訪温泉の中では比較的ぬるめで入りやすいと紹介されており、温泉を楽しむ観光客には人気があるという。 | 2020-03-06 |
1927 | | 女子フィギュアスケート選手 | 秋宮リンクに勢ぞろいしたフィギュアスケート選手団。
向かって右から2番目が当時トップ選手の稲田悦子選手。秋宮の脇にスケートリンクが設けられたのは明治40(1907)年(明治42年の資料もある)神社の森かげという地の利もあって結氷期間が長いため人気を集めた。
ここで日本初のフィギュア大会が行われたのが大正」11(1922)年である。 | 2020-03-06 |
1928 | | 皇太子殿下参拝 | 宮司と共に参拝され説明を聞かれる皇太子殿下。(平成天皇陛下・令和上皇様) | 2020-03-06 |
1929 | | 野球大会優勝記念写真 | 東町、野球大会優勝の記念写真 | 2020-03-06 |
1930 | | 赤砂崎 | 飛行場ができる前の赤砂崎。
奥に見える煙突は ※丸九蚕糸工場 | 2020-03-06 |
1931 | | 下諏訪町消防団 | 下諏訪町消防団記念写真、前列右には市瀬消防医も加わっている。 | 2020-03-06 |
1932 | | 下諏訪町消防団 | 下諏訪町消防団記念写真。
後列の4人は警察関係者. | 2020-03-06 |
1933 | | 下諏訪町消防団第3分団 | 下諏訪中学校講堂前で下諏訪第3分団記念の写真。 | 2020-03-06 |
1934 | | 下諏訪町警防団 | 下諏訪町警防団の集合写真、昭和14(1939)年1月警防団令により消防組を改組して下諏訪町警防団は昭和22~1947年まで設置された。
団長の高木十吉はこの後町長となるが昭和19(1944)年4月11日御柱祭山出祭において不慮の事故で殉職した。
中央には警察官の姿も見える。 | 2020-03-06 |
1935 | | 横綱吉葉山来訪 | 大相撲下諏訪場所相撲巡業記念写真。
昭和32(1957)年9月に山王台で行われた諏訪大社相撲巡業。写真は横綱吉葉山{昭和22(1947)年入幕-昭和33(1958)年引退}、当時美声といわれた呼び出しの小鉄、行司式守与之助、民家に泊まった(小林家など)。左側に子ども達が立っているのは秋宮神楽殿前の狛犬の台座と思われるが戦争中供出されたままでまだ再建立されていない
。吉葉山は、十両昇進前に召集され戦地で銃弾2発を浴び終戦後再び土俵に上がった。大関で全勝優勝し「雪の全勝行進」で大人気となる。
しかし、病気や被弾による後遺症などで「悲劇の横綱」と呼ばれた | 2020-03-06 |
1936 | | 製糸の町岡谷 | 満面に水をたたえた天竜川。明治後期の釜口橋付近で、橋脚が補強されている。
大きな繭倉が建てられ、工業地帯に変貌しようとしている。 | 2020-03-06 |
1937 | | 製糸の町岡谷の鉄索 | 塩尻峠を越えて岡谷まで西条炭を運んだ索道。
塩尻まで汽車で運ばれ、それを岡谷の製糸工場へ運ぶためにリフトを使い塩嶺峠を越えた西条炭は、東筑摩郡会田村・本城村等で産出するものだった。
岡谷は明治22(1889)年が最初で、輸送は馬・車便だったが、明治36(1903)年、篠ノ井線が塩尻まで開通したのに伴い塩尻から岡谷市間下に鉄索を架設し、明治37(1904)年運転を開始した。しかし、明治42(1909)年に中央線の全面開通により常磐炭等が移入され、西条炭は役割を激減した。 | 2020-03-06 |
1938 | | 製糸の町岡谷 | 天竜川沿いに製糸工場の煙突が沢山見える。 | 2020-03-06 |
1939 | | 製糸の町岡谷 | 天竜川沿いに製糸工場の煙突が沢山見える。製糸工業全盛期「岡谷の千本煙突」・「岡谷のスズメは黒い」など言われることもあった。
天竜川河岸に水車と思われるものが写っている。 | 2020-03-06 |
1940 | | 石投場から望む冬の諏訪湖 | 石投場から高木-上諏訪を望む。
高木地区、田中和男氏撮影。 | 2020-03-06 |
1941 | | 石投場から望む諏訪湖 | 石投場から高木-上諏訪を望む。 | 2020-03-06 |
1942 | | 御田植祭 | 早乙女の皆さんを前に祭式関係者の記念写真。 | 2020-03-06 |
1943 | | 医師、歯科医の懇新年会記念写真 | 医師、歯科医の芸者を上げての新年会記念写真。 向かって右より
岡野先生、一の瀬先生、二木先生(歯医者)、下条先生、塚越先生、武井先生、三輪先生。
2列目 金丸先生、林先生、女性、黒河内先生。
3列目 宮下先生、小松先生、平山先生、池田先生、中根先生。 | 2020-03-06 |
1944 | | ネオン灯完成記念写真 | 駅前通り(現在はオルゴール通り)田村青果店前に「ネオン灯が完成したが、昭和34(1959)年の伊勢湾台風で倒壊した。「駅前通り」のネオンの下に町内の旅館の名前が揚げられている。 | 2020-03-06 |
1945 | | 紀元二千六百年記念 | 紀元二千六百年記念祭を高木津島神社で開催した時の記念写真。出征兵士の旗が立てられているが、もう1本は諏訪大社秋宮子安社付近へ立てた。 | 2020-03-06 |
1946 | | 第三区出征軍人健勝祈願記念写真 | 第三区出征軍人の健勝を祈願した際の記念写真。多くの子ども、学生も動員されている。
昭和10(1935)年代に消防組から消防団となり、はっぴ姿も見える。供出前の狛犬も映っている。
狛犬は昭和19(1944)年に供出。 | 2020-03-06 |
1947 | | 裏参道開通記念 | 昭和15(1940)年12月29日不況対策事業で裏参道開削がほぼ完成し通行できるようになった。
さらに同18(1943)年8月10日、字三王・久保・臺の公園敷地が川岸村長より寄附があり、同19(1944)年7月秋宮裏参道が竣工した。その際の記念写真、町長初め町理事者、地域関係者が写る。現在の「ヤマモト」の横付近で撮影、坂の中ほどに現下諏訪中学校、奥に諏訪大社下社秋宮の森が見える。 | 2020-03-06 |
1948 | | 諏訪湖一周スケート大会 | 明治38(1905)年中央線開通とともに在京中の各国大公使が盛んにスケートに来湖するようになった。
第1回諏訪湖一周スケート大会の模様を記録した写真、背後に中央線を走る汽車も見える。
明治41(1908)年2月2日、下諏訪町諏訪湖氷辷会主催、南信日日新聞社後援「諏訪湖一周氷辷大会」が諏訪湖高浜湾氷辷場を基点に花岡・上諏訪の三角コースで行われれた。日本初の「スピード競技大会」で、大成功を収めた。この日は東京方面から団体客が乗り込み、東京大新聞記者が多数乗り込んできて、大変な賑わいであった。 | 2020-03-06 |
1949 | | 尾掛松(杉の木神社) | 絵葉書になった「尾掛松」。古代の「松之木湛(たたえ)」神事の地と伝えられている。「湛」とは「たたり」のことで、尾掛松に神霊が大空より降臨することを信じて祀ったものである。「杉の木様」とも呼ばれていた。
樹種はヒノキ科ビャクシンで、住民はもとより甲州道中を旅する人も参拝したという。
また諏訪湖上で漁をする人の目印の巨木でもあったが、枯れ死していたので、平成16(2004)年1月に安全上の配慮から伐採され幹だけが残る。
この尾掛松には諏訪明神様が出雲出へ掛けた時、竜神が頭だけ出したので、他の神様が尾はどこにあるのか聞いたところ、「尾は(大和)諏訪湖のそばの高い木(高木)に掛けてある」と答えたことから、それが大和・高木の地名の起源と伝えられている。なお地名の語源には諸説あります。現在は「杉の木神社」 | 2020-03-06 |
1950 | | 高木の長持連 | 戦後最初の御柱祭の高木長持連。 添付名簿後列左から
田中健三、久保田十吉、尾口友三、田中庄一、長谷辰男、中列左から大和大八、長崎則男、小口一郎、前列左から田中忠雄、大和剛、小口永吉、長川秋男、小平明 | 2020-03-06 |
1951 | | 殿村遺跡発掘調査 | 調査後に建てられた復元家屋の柱組。 | 2021-04-07 |
1952 | | 殿村遺跡発掘調査 | 復元住居の完成記念写真。
町理事者、町議、調査関係者。
「殿村原住民族住居跡」の看板。 | 2020-03-06 |
1953 | | 中央車両工業(中央工業)慰安旅行記念写真 | 杖突峠の標識看板がある。トラックには中央車両工業株式会社の文字。 | 2020-03-06 |
1954 | | 下諏訪商業組合ビル完成記念 | 下諏訪商業協同組合は前身が下諏訪商業組合で大正13(1924)年に設立し、物品の共同購入・保管・金融業務などを行い、昭和15(1940)年に事務所・倉庫を設置していた。(日本電産サンキョウ入り口の場所で現在の社名は「ニディックインスツルメンツ(株)」) さらに昭和22(1947)年に商業協同組合に改組している。写真は昭和15(1940)年の下諏訪商業組合ビル完成記念の時のものである。
その後、現在の商工会議所は昭和62(1987)年に鷹野町に新築移転している。 | 2024-03-14 |
1955 | | 出征軍人家族慰安会に於ける青年団仮装演劇記念写真 | 出征軍人家族の慰安のために青年団で仮装演劇を行った。演劇は御田劇場などで開かれた。これは、3区公民館(現青雲館)において写された記念写真。
「昭和十七年 出征軍人家族慰安會記念 六月」と写真に記録されている。 | 2020-03-06 |
1956 | | 広瀬町町少年団 | 広瀬町少年団の団旗完成記念写真。
昭和12(1937)年7月7日に支那事変が勃発。
この時、町内の組長や在郷軍人等の要望により結成、小学1年から高等科2年の男子全員が毎週日曜日の朝6時に新道(三国座通り)へ集合、駆け足で諏訪大社秋宮へ必勝祈願し、その後帰町して町内道路と駅庭の清掃を実施した。そろいの帽子と腕章に少年たちの真摯(しんし)な眼(まなざし)が並ぶ。 | 2021-04-15 |
1957 | | 御田町商店会 | 御田町通りのお祭の飾りつけ準備記念写真。
旧菱友付近。 | 2020-03-06 |
1958 | | 中川旅館 | 下諏訪宿最後の旅籠中川旅館、道に面して大きな柱(離れ柱)があり牛馬を繫ぐ鉄輪がうたれていた。(現在、柱は下諏訪博物館に保存)
「中川治朗」と書かれた看板、その左右に「まねき」とよばれる、30㎝×50cmの布旗かけられている。
御嶽講のまねきが目立つが、他の講社のものも見える。
下諏訪宿の昔の姿をとどめていた中川旅館も昭和51(1976)年3月取り壊されてしまった。「 | 2020-03-06 |
1959 | | 新鶴 | 新鶴の店先(看板が見える)左奥先には本陣. 隣は髪結い(絵つき)の看板が見える。 | 2020-03-06 |
1960 | | ハイヤー | 大正12(1923)年丸ヨ自動車店浜義雄氏が東京でフォードを一台購入。
浜氏は中央線全線開通後、荒廃した和田峠線の整備に力を入れ、大正13年(1924)に貸切自動車営業を開始し昭和2(1927)年には和田嶺自動車株式会社を創立しバスが三往復運行するようになった。
この他に大正13(1924)年、湯田仲町ハイヤーサクラ自動車商会、大正15(1926)年菅野町に丸S自動車株式会社などが設立された。 | 2020-03-06 |
1961 | | 萩倉の部落の全景 | 製糸業が盛んだった頃の萩倉部落の全景。下諏訪の萩倉地区は、豊富な水・薪(動力)で明治11(1878)年座繰製糸が始まり明治中期までこの地方を代表する製糸の村だったが、明治38年岡谷まで中央線の開通以来、移転・廃業など次第に取り残されていった。 | 2021-04-21 |
1962 | | 相楽祭 | 赤報隊浪士のお祭「相楽祭」。
後方の煙突は、昭和6(1931)年開業の昭栄製糸のもの。向かって左側に元町長の高木十吉氏の顔が見える。
右に石仏があるが、現在青雲館にある。相楽祭は明治3(1870)年に有志の喜捨百余両で相楽総三らが処刑された地(相楽塚・魁塚)に慰霊の碑をたて式典をしたことがはじまりである。その後友之町有志の運営で祭りを続け一時途切れたこともあったが復活させ、現在は相楽会が主催し毎年4月の第一日曜日に開かれている。 | 2020-03-06 |
1963 | | 第三区出身軍人健勝祈願 | 愛国(国防)婦人会(現婦人会)約200名が健勝祈願したときの記念写真。
写真に「昭和十四年十一月三日第三区出身軍人健勝祈願・下諏訪町国防婦人会第三班」とある。
昭和12(1937)年に日中戦争に入り、昭和14(1939)年は4月から米穀配給統制法公布など戦争体制化まっ只中であった。 | 2020-03-06 |
1964 | | 注連縄製作完成記念写真 | 大注連縄は戦後「日本第一大軍神」の大額が外された神楽殿が「寂しい」と地元有志が出雲大社の大注連縄保存会に指導を受け奉納した。昭和54(1979)年まで途絶えていが、昭和60(1985)年の御柱祭の前年,祭りの新たな行事として奉納した。現在の大注連縄は「諏訪大社注連縄奉納会」が長さ7.5m最大胴回り3.2m(従来は4.5m)重量800㎏(従来は1t)という大きさで御柱祭の前年の11月から約1ヶ月、2500束のワラをつかい作成している。 | 2020-03-06 |
1965 | | 節分祭の記念写真 | このとき現在の節分祭の形ができた。
この頃は年男60歳と年女20歳が節分祭に参加した。 | 2020-03-06 |
1966 | | 実業団野球選手行進 | 実業団野球大会が鷹野町野球場で行われた。
そのときの選手団が諏訪大社下社秋宮に参拝し、その後消防団ラッパ隊の先導で球場まで行進した。 | 2020-03-06 |
1967 | | 殿村遺跡発掘調査 | 殿村遺跡発掘調査団に参加した高木史話会員。
復元住居の骨組み前等での撮影。 | 2020-03-06 |
1968 | | 殿村遺跡発掘調査 | 調査現場の様子。 | 2020-03-06 |
1969 | | 殿村遺跡発掘調査 | 殿村遺跡緊急発掘調査作業の様子。昭和23(1948)年6月、地主の長崎氏が耕作中、地中からほぼ完形の土器がでてきて、今井広亀氏及び下諏訪史談会会員の主唱により発掘調査をした。住居跡の発見の他、石錘(すい)や土錘が出土し諏訪湖で漁業をしていた様子が分かる。その他石鏃(ぞく)、石匙(さじ)、打石斧(せきふ)などの石器や、復元して完全になった壺や顔面把手付の土器も見つかており、縄文中期の貴重な遺跡である。昭和29(1954)年に発見さた第三号竪穴には復元上屋がかけられた。 | 2020-03-06 |
1970 | | 広瀬町町民遠足 | ざっと数えて100人。
子ども達の多さに驚きです。 | 2020-03-06 |
1971 | | 遊覧飛行記念 | 赤砂飛行場、昭和3(1928)年この頃民間人(諏訪飛行協会)による飛行場ができる(滑走路300m)。 | 2020-03-06 |
1972 | | 遊覧飛行記念 | 遊覧飛行やビラまきを行った。プロペラにしめ飾りが飾られていることから正月前後の撮影と推察できる。 | 2020-03-06 |
1973 | | 秋宮スケートリンク | 右から桔梗屋の両角氏、ファイトマンの体協事務局の両角氏、女装の城取(写真館)氏、旦那に扮装したプリンスホテルの武居氏。冬の寒さも楽しんでいる諏訪人の様子が現れた一枚である。またスローガンと書かれた紙をよく読むとこのころの世相が読み取れて楽しい。 | 2020-03-06 |
1974 | | カーリング大会表彰式 | 秋宮スケートリンクで開催されたカーリング大会表彰式。絵葉書にしたものを撮影して引き伸ばした写真。右下には「SHIMOSUWA H・SHIROTORI」の刻印が見える。左下には一銭五厘の切手と諏訪郵便局の印(昭和7年1月21日の日付印も)が見える。 | 2020-03-06 |
1975 | | アイスホッケーの試合 | 秋宮リンクでアイスホッケーの試合が日本で初めて行われた。出場したのは早稲田大・慶応大・東京帝大(現東大)と地元の松本高等学校の4チームだった。
この写真が撮影されたころは石置き屋根の家屋が見られたり、北側の斜面には畑・桑畑・雪をかぶった稲わらを積み上げた稲積(にお・にょう)が見える。 | 2020-03-06 |
1976 | | 秋宮スケートリンク | 山側の高台から撮った秋宮スケートリンクの全景。明治42(1909)年に下諏訪氷辷会と有志が開設した特設リンクで、今日まで観光事業・町民のスケート技術・体育向上に貢献したリンクで、関係者の努力には敬意を払いたい。 | 2020-03-06 |
1977 | | 旧下諏訪町立図書館 | 旧下諏訪町立図書館は昭和54(1979)年3月完成。
昭和54(1979)年から平成12(2000)年まで図書館が開館。図書館横には教員住宅が建っていた。 | 2020-03-06 |
1978 | | 下諏訪町立図書館 | 下諏訪町立図書館 平成14(2002)年6月オープン。 平成13(2001)年は建て替え工事のため一年間休館した。 | 2020-03-06 |
1979 | | 国鉄バス下諏訪営業所開業三十周年記念写真 | 下諏訪駅2階にあった国鉄バス下諏訪営業所開業三十周年記念写真。右端にはバス整備場があり、懐かしい型のバスも見える。和田峠のバス路線は昭和8(1933)年3月25日丸子町・上和田間(和田峠北線)、並びに下諏訪・岡谷間(南線)が開通。さらに和田峠トンネルが同年1月に完成。道路の改修工事を経て同年10月13日に全線開通祝賀式を慈雲寺において開催した。当時下諏訪・丸子間の所要時間は2時間半。省営バス路線中日本最高の峠路を40人乗りバスで4往復した。 | 2020-03-06 |
1980 | | 商工会館落成記念写真 | 駅前にあった商工会館落成記念写真。下諏訪町が活気のあった時代を支えていた人たちが多い。青年は落成記念に仮装行列を組み盛り上げた。建物は現在の日本電産サンキョーの入口の位置にあった。 | 2020-03-06 |
1981 | | 三国座落成記念写真 | 駅前から四ツ角方面の振興を目的に友之町の本通り・大社通り・菅野町・駅通りの商工業者が映画館「三国座」を建設した際の関係者の記念写真。昭和29(1954)年9月1日にオープンし、「ローマの休日」を上映した。諏訪の都座の系統で当時珍しかった洋画も上映した。昭和47(1972)年9月25日閉鎖された。館名は一般より募集した。(撮影日は下諏訪町誌参考) | 2020-03-06 |
1982 | | 青年演劇 | 下諏訪町の青年演劇を演じていた人たち。御田劇場で演じたときに舞台で撮影された記念写真。当時、慰安目的でいろいろな場で演じていた。 | 2020-03-06 |
1983 | | 御田劇場 | 「御田劇場」は入一製糸場(現入一通信工業)が社員の慰安と御田町商店街の発展策として、大正2(1913)年完成した。前進座の公演を見るために行列を作る人たちが写っている。上諏訪の清水町にあった旧高島座を一万円で買収、移築した。その後、昭和32(1957)年9月ヤシカに売却、ヤシカ会館となり、現在は諏訪信用金庫御田町支店と駐車場となっている。 | 2020-03-06 |
1984 | | 駅前通り舗装工事 | 舗装工事中の駅前通り。
右側の洋風の建物はシロトリ写真館。突き当たりが下諏訪駅でその前には宮大工の手による前回の御柱用材を利用した鳥居が建てられていた。
作業中の人は、町の失業対策事業の人たちである。広瀬町の名前のとおり、地中には大きな川原石がゴロゴロしていた。
同写真館は、大正12(1923)年箕輪で創業、その後岡谷の丸山橋、下諏訪では昭和2(1927)年御田町で開業、その後現在の広瀬町に移った。 | 2021-05-03 |
1985 | | 中川旅館 | 改築前の「中川旅館」看板には「奈可川旅館」と書かれている。御嶽講の提灯が掛けられていたり、当時の街道を歩き宿泊した講や、流行した旅など庶民文化も垣間見られる。昭和51(1976)年3月、下諏訪宿の昔姿として残された最後の旅籠屋「中川家」は取り壊された。 | 2020-03-06 |
1986 | | 片倉組丸六製糸場 | 明治42(1909)年片倉組丸六製糸場で下諏訪町における創業10周年記念祝賀会当日に撮影された写真。手前の道は花見新道(御作田社より上にある道)大八車の轍が線路のように残っている。右手前の木は御作田社、左中ほどの町並みは湯田仲町、左遠方の高い建物は中学校の塔、間に見える畑は桑畑で当時は多く見られた。後方にはうっすら白く諏訪湖が広がっている。 | 2020-03-06 |
1987 | | 秋宮周辺航空写真 | 勝山写真館(上諏訪)が赤砂飛行場を離陸撮影した航空写真。秋宮周辺の宿場町の町並みが残っている。左下に旧町役場庁舎、左端の中あたりに中部電力前身の信州電気、その前の立町通突き当りには二階建ての綿の湯、その周りには改築前の旅館、鳥居前は当時の街道の風情が色濃く残り千尋館なども見られる。
勝山写真館では霧ケ峰強清水のスキー場の写真などを空から撮影していた。 | 2020-03-06 |
1988 | | 広瀬町町内会ハイキング | 広瀬町町内会の八島ハイキングの際の記念写真。写っている人数と手持ちの番号旗から何台かのバスに分乗していったのか.それにしても、子どもたちの多さは今では考えられない。 | 2020-03-06 |
1989 | | 出征家族写真撮影関係者 | 戦時中、朝日新聞では軍神の諏訪大社下社秋宮境内で出征した兵士の家族写真を撮影、戦地に送付していた。町内の写真撮影業者のうち組合加入の秋山(高札場上)・北原・城取氏の3人、アマチュアカメラマンが撮影に当たっていた。新聞社、新聞販売店、後援の役場職員も同席しての記念写真。 | 2020-03-06 |
1990 | | 星ヶ丘公会所落成記念写真 | 新築された星ヶ丘公会所と下諏訪町長青木健一氏、区関係者による落成記念写真。背後にはまだ畑が見える。星ヶ丘団地の造成は昭和39(1964)年。 | 2020-03-06 |
1991 | | みどり幼稚園 | 新町下にあったみどり幼稚園の園庭にて、保護者・園関係者の記念写真。前列中央は園長の山田与八氏。
下諏訪教会では戦前の昭和10(1935)年から幼稚園経営をしていたが戦争中は町保育所に吸収され園舎は軍事工場に使用されていた。
戦後の昭和26(1951)年仮免許で始め、再び幼稚園を翌年正式の設立認可を得てみどり幼稚園と改名した。 | 2020-03-06 |
1992 | | 富ヶ丘から望む高浜 | 富ヶ丘旧道にあった桃畑(新井清水氏所有)から、高浜湾方面を望む。右側に下諏訪小学校や製糸工場、高浜の湖畔には水産試験場、網いけす、大四手網が見える。山の手の畑には桑畑が広がっている。 | 2020-03-06 |
1993 | | 戦前の下諏訪小学校(現下諏訪中学校と南小学校) | 写真上は明治41(1908)年建築の下諏訪尋常高等小学校(現下諏訪中学校の校舎)。第二次大戦中は東国民学校と改称され、青年学校・実科高等女学校を併設していた。写真下は大正12(1923)年に四王に作られた南校(戦争中南国民学校現南小学校)の敷地に、昭和6(1931)年に不況対策事業として建設された小学校講堂である。ともに卒業アルバムの写真で、写真下の講堂の規模は県下有数であった。 | 2020-03-06 |
1994 | | ダイヤ豆腐周辺の航空写真 | 当時景気が良かったダイヤ豆腐による航空写真。ダイヤ豆腐は線路横の煙突の立っている建物、現下諏訪南小学校前を通る田中線は砥川で止まっている。田中線の右端に小学校の校舎が見え、砥川の手前には昭和24(1979)年から整備されてきた総合運動所が見える。現在のジャスコ通りにあたる道沿いには昭和28(1953)年栄町から移転したひかり味噌が見える。線路下には、桑畑とりんご畑が広がっていた。 | 2020-03-06 |
1995 | | 御田植祭 | 諏訪大社秋宮斎田の御田植祭終了後の記念写真。この頃からカラーフィルムが使用され始めて、カラー写真に人気があった。 | 2020-03-06 |
1996 | | 御田植祭 | 諏訪大社秋宮斎田の御田植祭終了後の記念写真。 舞を担当する女の子と苗を植える早乙女役の女性の服装の違いがよくわかる。 | 2020-03-06 |
1997 | | 御田植祭 | 諏訪大社秋宮斎殿横の駐車場の位置にあった斎田の御田植祭の様子。当時は現地に田んぼが2枚あり、下の段を使って祭事が行われた。
右側の道は向陽坂で、山王台の橋の位置から撮影した。 | 2020-03-06 |
1998 | | 千尋池 | 改修工事完成の記念写真。
千尋池西側道路(現在の国道142号線)の開通に伴い千尋池は改修され、石橋が設置された。
大社関係者、横町などの地元住民、工事請負業者が並んでいる。現在は秋宮の管轄になっているが、二区の有志の皆さんが「ちひろ講」を設立し年1回の清掃奉仕や御柱祭を行っている。なお「ちひろ講」は青塚の清掃も行っている。 | 2020-03-06 |
1999 | | お花見風景 | 御田町商店主の皆さんのお花見。当時(昭和15年頃)は芸達も多く、仮装(御田町の店主)してお花見を楽しんだ。のんきな父さんの姿も見られる。左側に見えるのは、山車である。慈雲寺下の花見新道で撮影。子どもの多くは着物姿である。 | 2020-03-06 |
2000 | | 石投場から望む諏訪湖 | 石投場から高木・上諏訪方面へ諏訪湖を望む。富部から高木(殿村遺跡)は「うばのふところ」と言われ一日中陽が当たる暖かいところで、桜は石投げ場が1番、慈雲寺が2番に咲くといわれていた。走行するボンネットバスは、丸Sバス。諏訪湖の対岸に遠く片倉館が見える。当時の絵葉書(高浜湾の勝景)である。 | 2020-03-06 |
2001 | | 岩波(旧本陣)器械製糸所 | 本陣が経営していた「岩波器械製糸場」の内部、諏訪地方で撮影された写真の中で最も古いと思われる。
※同製糸場は明治10(1877)年創業、本陣の裏手にあった。 | 2021-03-23 |
2002 | | 秋宮鳥居前集合写真 | 徴兵検査合格者の記念写真。
旅館の名前の入った旗があることから下諏訪温泉に宿泊した県内の人たちが多数含まれていると思われる。また、学生服を着た大学生の姿も見られる。この写真では手水舎が現在と反対側にある。手水舎は昭和28(1953)年に八幡側から千尋池側に移った。向かって右に見える道は、昭和15(1940)年以前は武居に行く唯一の道であった。また、鳥居の左側の現在千尋池となっている場所に商家などの建物が見えている。鳥居前千尋館の二階から撮影された写真である。 | 2020-03-06 |
2003 | | 秋宮スケートリンク | 諏訪湖の結氷期が1月上旬~2月下旬のため、冬期休暇を利用する東京方面の学生の便を考慮し、明治40年(1907)(別の資料には明治42年の表記)に下諏訪町旅館業者等が秋宮特設リンクを設けた。当時入場料は一冬金一円、一日20銭で夜も電灯を点じて滑走が自由であった。 | 2020-03-06 |
2004 | | 下諏訪駅 | 下諏訪駅は明治38(1905)年11月25日開業。
昭和25(1950)年3月に駅舎改築され、写真はその当時の駅舎である。 | 2020-03-06 |
2005 | | 中学校横の土砂崩れ | 昭和40(1965)年5月下諏訪中学校第2体育館横災害記録写真。
下諏訪中学校第二体育館横の土砂崩れの様子。 | 2020-03-06 |