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登録リスト(該当:11件)

管理番号写真タイトル説明登録日
2230石尊大権現石尊大権現この碑は現在秋宮駐車場横にあるが、以前は秋宮境内にあった。祭神は雨乞いに格別効果のあるという大山祗神でご神体は石劔といい古くから石尊大権現の名で知られていた。2021-12-23
2220蚕影山神社蚕影山神社富部村(現在の第十区)の若宮神社の境内に一間半(約2.72m)四面の茅葺きの社殿を造り「蚕影山(こかげやま)神社」を祀った。2021-12-23
1992御柱祭の踊り御柱祭の踊り御柱の踊り(明神音頭)。 手水舎が秋宮境内に向かい左側にある。(現在手水舎は境内に向かい左側にある。) 鍵の手に曲がった場所に見えるのは「番屋」と思われる。 現在は「番屋跡」の石標がある。2020-09-08
1941秋宮境内秋宮境内諏訪大社秋宮境内参拝風景。軍服姿の参拝。後ろに何名かの軍人や正装した人々が続いているので、先頭を歩く軍人は大将クラスの人と思われる。ひげは東郷平八郎に似ているが…体形はあまり似ていないか??? 東郷平八郎は「日本第一大軍神」の書を揮毫していて、神楽殿に掲額されていた。その額は終戦後、進駐軍に遠慮して外され、現在は参集殿奥に掛けられている。 情報が欲しい!2020-08-02
1526秋宮境内の犬射馬場石碑秋宮境内の犬射馬場石碑「當社之犬射馬場(とうしゃのいぬいばば)」と刻まれている。 犬射馬場石柱が下社秋宮境内の秋宮一の柱の脇にもある。犬射馬場とは大祝の居館(神殿:ごうどの)につづく錬武の場であり、「諏訪大明神絵詞」にもお舟祭りの後に馬場で犬追物をして祭りが終わったことが記されている。馬場(ばっば)の名称としてその名残を留めその四囲にも石柱が残されている。2020-03-06
1168二年詣り二年詣り諏訪大社の二年詣り。午後11時頃から人手が急に増え12時近くには、境内は身動きできない人波で埋まった。やがて元旦午前零時、地元有線テレビのサービスによる時報が響くと、わあーっという歓声が上がり、お賽銭の雨がとんだ。 歓声を上げて賽銭を投げる人たちの様子。2020-03-06
1029秋宮に着いた柴舟秋宮に着いた柴舟この年の御頭郷は岡谷、秋宮境内へ引き入れられた柴舟。この後柴舟は神楽殿を3周した後神事相撲などの奉納をし翁媼の人形のおたき上げを内御玉戸社(うちみたまどしゃ)で行い祭りは終了する。柴舟に飾られた柴を悪疫退散のお守りや縁起物として多くの人が持ち帰る風習も残る。2020-03-06
945かなやき地蔵御開帳かなやき地蔵御開帳「かなやき地蔵」御開帳。信心深い下女おかねが地蔵尊に救われ、都に上って和泉式部になったという説話が伝えられている。この日一年に一度かなやき地蔵が御開帳になる。2020-03-06
663一本柳神社一本柳神社西赤砂のリンゴ畑に囲まれた一本柳神社。赤砂地区の産土神である。写真撮影当時は、享保年間に作られた「友の町絵図」にも書かれていたといわれる柳の古木が祠の横に残っていた。 現在祠には・諏訪明神・豊受比売大神・津島大神・菅原大神・多賀大神・三峯大神が祭られているほか、境内には・大陸天(だいろくてん)や道祖神、蚕玉社の石碑も祀られている。2020-03-06
544八幡社から千尋池を写す八幡社から千尋池を写す八幡社境内から千尋池を写す。2020-03-06
515下社神宮寺方丈跡の石垣下社神宮寺方丈跡の石垣かつて下社秋宮の東側には下社神宮寺が16200坪とも言われた境内に仏殿千手堂や三重塔、仁王門、弥勒堂、方丈が建立され、たくさんの院坊が付属していた。 明治維新の時、太政官布告明治元(1968)年大政奉還で「神仏判然令」により仏教が排撃を受け、仏像の一部は他の寺に逃れたものもあったが、下社神宮寺は破却されてしまった。 写真は高台にあった下社神宮寺大坊方丈の石垣の跡である。(現言成地蔵尊横の石垣)2020-03-06
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