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登録リスト(該当:57件)
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1
蚕都上田 常田館製糸所 煙突
この煙突に関して2つ、新たに学びがあった。 1つ目はこの煙突は当時、石炭で稼働しており、現在の上田駅とこの煙突のふもとの間にトロッコが通っていたという。当時、物資の輸送は大変重要な役割であった。 2つ目は笠原工業(笠原製糸)が常田館製糸所をこの地に置いた理由は大きく3つあるという。「多くの労働力・都市部や地域内の輸送手段の発達・澄んだ水」である。上田市は当時、人口の8割を超える市民が養蚕業・製糸業に従事していたという。実際、常田館製糸所は2500人の従業員を抱えていた。また、東京・横浜への物資輸送手段が発達していたこと、上田駅と常田館製糸所間にはトロッコが開通していたことから交通が発達していたことがわかる。そして、菅平から流れる澄んだ水を貯水し、水が重要な製糸業に利用していたという。 今
2024-02-01
2
蚕都上田 常田館製糸所 食堂
常田館製糸所の食堂は敷地内に1ヵ所で特に広いわけではなかった。2500人分の3食を毎日用意していたことを思うと驚きだ。この建物の天井は特徴的で、三角屋根であるのだが、てっぺんが外気と接していて、換気扇の役割をしていたという。木造の建物で温かみがあり、当時この小さな食堂が大人数で賑わっている状況をイメージするだけでも上田市が養蚕業・製糸業で盛り上がっていたことがわかる気がした。
2024-02-01
3
イナゴ
今回は信州の珍味の一つイナゴについて調査した。というのも、現在様々なフィールドで昆虫食が話題を呼んでおり、今後の食糧問題や、宇宙食の代表品目として注目されることが増えてきた。長野県(主に南部)では昆虫を食べる文化があったと聞き、さらに上田市でも養蚕業の傍ら蚕のサナギを食べることもあったという。長野県は100年ほど前に一般的に家庭で食べられていたイナゴや蜂の子の佃煮を商品化したことで県内に昆虫食が普及したのだという。現在では好んで昆虫を食べる人は少なくなってしまったが、現在でもザザムシを使った新商品を開発した高校生がおり、未開の昆虫食の可能性があるといえる。
2024-01-29
4
上田紬
長野県の上田市、飯田市、松本市、岡山市、駒ケ根市周辺などで生産されている絹織物の総称を「信州紬」という。 信州紬の種類として上田紬、飯田紬、伊那紬、松本紬の四種類ある。上田市の上田紬とは江戸時代に信州紬の中で最も有名だった紬の着物である。昔は愛染系の縞柄が基調の着物だったため、「上田縞」とも呼ばれていた。特徴として縞と格子柄で丈夫でしなやかな風合いである。 この上田紬の織りを体験できる場所として「織りの休日俱楽部」がある。そこではストールが作れる。一ヵ月に一回と開催日が少なく、参加費も一万二千円と高めではある。 このような体験は上田市に限らず、他の地域でも行われていることが分かった。 上田紬についてもう少し詳しく調べてみた。 生糸に適さない屑繭を真綿にし、 真綿からつむいだ紬糸
2024-01-23
5
学生の地域探究テーマ2023
【第3回課題10/19】信州上田学2023/マイサイトと探究テーマ ▼社会福祉学部学生 1 長野県の自然 2 蚕都上田はどのようにして生まれたか 3 上田の地域の特徴から、福祉に活用できる社会資源を考える。 4 上田にある文化財について 5 上田市の特産物にはなにがあるのか、特産物と気候や地形との関係、特産物を使った料理について 6 上田市の食とそこから見る地域の特性 7 上田城の季節による変化 8 食と福祉(飲食店と社会福祉施設、養護施設との連携) 9 真田幸村と上田の関わり 10 なぜ上田には晴れが多いのか 11 別所温泉の自然風景とその風景に関する歴史学的・地理学的な知識 12 上田と福祉について 13 上田市内の地区の名前の由来について 14 上田市は子育てや生活をする上で、便利な地なのかどうか 15 上田市の子ど
2023-10-29
6
学生による地域キュレーション2022(信州上田学A受講生)
長野大学の地域科目「信州上田学A」を受講した学生が「信州上田」を接点とした地域キュレーションの学習成果です。タイトルを選ぶとその学生のマイサイトを表示します。 ▼カテゴリ1:蚕都上田
【1】
長野県の中でなぜ上田市が蚕都で有名なのか
【2】
上田の養蚕の歴史を掘り下げ、伝え続けるには。
【3】
蚕都上田の歴史と未来
【4】
製糸業の歴史
【5】
蚕都上田の歴史
【6】
蚕都上田
2023-02-10
7
小諸の絵
1940年から1945年の間に描かれた小諸の家である、文書資料ではないがこの絵からも当時の暮らしを感じることが出来る。例えば屋根は瓦の物から藁の部分まであり、一階は瓦になっているため人が一階で暮らし、二階の藁の屋根では蚕を飼っていたことが推察される。また農業の道具もたくさん見受けれることから小諸市は昔から養蚕業と農業が盛んだったことが予測できる。 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/art_museum/04J1000000039
2023-02-08
8
上田蚕糸専門学校
また、明治43年には上田蚕糸専門学校(現・信州大学)が設立された。中等教育期間である小県産業高校と、高等教育機関である上田蚕糸専門学校が上田に作られたことは、上田の養蚕業・蚕糸業の繁栄ぶりが窺える。 現在の信州大学繊維学部は、日本で唯一の繊維学部である。 参考サイト:みんなでつくる信州上田デジタルマップ ▼この資料は以下から参照できます ぶ「信州大学繊維学部」 https://d-commons.net/uedagaku?c=&p=11526 (2023/02/06)
2023-02-08
9
上田紬の歴史<繁栄>
今回は上田紬がいつどうやって繁栄していったのかをまとめました。 上田紬は400年ほど前に戦国武将の1人して名高い真田昌幸が上田城が築いた時に、地場産業として奨励された真田家が麻つくった「真田織」が元になっています。 その後、上田地域の気候や風土が向いていたということもあり、蚕種業や養蚕業が盛んに行われ、現在の上田紬が形成され、江戸中期には京都や江戸の多くの人々に愛用され、日本三大紬の1つとなりました。
2023-02-01
10
名工の社殿と養蚕農家 ~上田市下堀地区~
信濃国分寺駅の南側に位置する下堀地区です。 ここには堀川神社があり、今でも地区住民によって守られています。 拝殿は一見シンプルですが、本殿を見ると見事な装飾があります。これは1886年(明治19年)に上田の名工竹内八十吉によって掘られたものです。八十吉は1815年(文化12年)から1898年(明治31年)まで活躍した諏訪立川流の大工で、堀川神社以外にも信濃国分寺の本殿の彫刻も掘っている。 次に下堀地区は養蚕業で栄えていた地区である。その証拠がこの石垣である。 これは、ぼたもち積みと呼ばれる積み方でお金持ちの家しか作ることができない石垣である。https://d-commons.net/upload/4/575/054168_0023_006.jpg養蚕業で儲けていたからこそできる石垣で、当時は養蚕農家それぞれが競い合って家を建てていたそうだ。それほどまでにこの地区の養
2023-01-19
11
蚕業の施設
長野県上田市では、かつては蚕業が盛んな地域であった。それを象徴するのが常田館製糸場である。この製糸場は明治33年創業の歴史ある建造物である。当時の養蚕業は日本の近代化の原動力であり、様々な箇所で利用されていた。この施設では、室温度、通風、乾燥などを整えることで、一年を通して平均的に生糸を生産することが可能となっていた。 木造5階建繭倉庫、鉄筋コンクリート5階建倉庫群などは、国指定重要文化財に指定されている。
2023-01-25
12
桑の葉を上田名物へ(?)
養蚕業の名所となった上田ですが、近年は正直見向きもされないような産業です。そこで、上田でよく採れた桑の葉を用いてお茶やお菓子を作り、お土産として売り出そうという動きがあります。「みすゞ飴」などで有名な飯島商店は「桑の葉糖」というお菓子を、上田市観光協会では石鹸を作るなど、自地域の特色を十分に発揮した商品を売り出しています。上田駅などにもあるのでお土産にどうぞ。
2022-12-05
13
養蚕業が作った大屋駅
今は街の中心となっている大屋駅ですが、その開業には養蚕がかかわっていました。 当時養蚕が盛んだった諏訪地域から東京へ生糸・蚕種を運ぶ際、元来は田中駅を利用していました。しかし、諏訪から田中に向かう道は険しく、長和町というところから峠道がありました。ここで、長和から丸子に向かい、大屋で列車に乗せるルートが考案され、大屋駅ができたのです。 その後大屋駅周辺は栄え、特急列車も止まるようになりました。
2022-12-05
14
信州で養蚕が盛んなワケ
なぜ長野県で養蚕が盛んになったのだろうか。 蚕を育てるには桑の葉が必要だ。その桑を栽培するのに信州の山がちな土地は適していたのだ。日当たりがよく、水はけがよいという条件が揃っていたため桑の栽培が進み養蚕業の発展につながった。
2022-12-01
15
上田の養蚕
他県よりずば抜けて養蚕が盛んだった長野県の中でも上田は特に養蚕業で栄えていた。 それは、千曲川の恩恵によるものである。上田盆地は桑の栽培に適していただけでなく、年間降水量が少ないことで蚕の飼育にも適していた。上田は、蚕の餌となる桑の栽培にも、蚕の生育にも適した土地であるという要素が重なって生まれた”蚕都”なのである。
2022-12-01
16
蚕種上田④ 旧清水喜左衛門邸
今回は旧清水喜左衛門邸についてだ。 この住宅にも旧馬場藤四郎邸同様、瓦に家紋があり蔵もある。この近辺には家紋付きの家や蔵の県知育が多く見られ、改めて養蚕業による発展の規模を実感した。
2022-11-30
17
養蚕業が衰退した理由
日本の繭生産量は、今から約90年前1930年(昭和5年)の40万トンをピークに減少し、昭和40年代に持ち直しの傾向が見られたものの、2016年(平成28年)には約130トンまで落ち込んでしまいました。繭生産量の減少に伴う製糸業の衰退も著しく、昭和34年には1871工場あった国内製糸工場数は、平成26年にはわずか7工場を残すのみとなってしまいました。 日本の絹産業は、生糸の原料となる蚕の繭を作る養蚕農家から、生糸を作る製糸業者へ。そして絹織物業者へという流れから、おもに着物や帯などに加工・縫製されて小売される形になっている。 衰退した理由としては和装から洋装へ変化する「和装離れ」により需要そのものが減少したと考えられている。価格競争で中国などから低価格繭の流入や、後継者不足など社会構造の変化も考えられます。
2022-11-30
18
蚕種上田③ 旧馬場藤四郎邸
今回は旧馬場藤四郎邸についてだ。 この住宅も養蚕業に関わっており、特徴的なのはこの住宅の瓦に家紋がついている点だ。また敷地内に蔵があることからも分かる通り、家がかなり発展していたことが分かる。このことから養蚕業を起点とし、栄えていたことが分かる。
2022-11-30
19
蚕種上田① 藤本蚕業歴史館見学
「蚕種上田」の探求を行う。まず上田にある蚕業に関わってきた歴史的な建造物を見学し、魅力を見聞し、成果を報告する。 今回見学したのは藤本蚕業歴史館だ。この歴史館にはかつて上田で行われていた養蚕業に関する資料が多く保存されている。具体的な資料を見つけたい際にも資料概要が載せられている本があり、養蚕業の歴史を知りたい方にはもってこいな施設だ。
2022-11-30
20
振り返って
これまで上塩尻と桑折町における養蚕業について説明してきました。上塩尻では養蚕に関する情報がいくつも残されていましたが、桑折町には残されている遺産はほとんどなく、情報や文献が少ないように感じました。現地に赴くことでしか分からないこともあるので、帰省した際にはじっくり散策を行い、再確認したいと思います。 小学校中学年の頃に理科の授業の一環として蚕を飼育していたことや祖父母の家でも養蚕が営まれていたという話から「養蚕」というテーマには馴染みがありました。しかし、私自身地元のことであるのにも関わらず新たな発見がたくさんあり、視野を広げて興味を持ってみることの重要性を実感しました。地域産業の誇りとなった養蚕業の歴史を上塩尻での取り組みのように何らかの形で未来に繋いでいけるのが理想の形
2022-11-30
21
養蚕に適した気候上田
上田は古くから養蚕業が栄えていました。かなり古い歴史を持つ上田の養蚕業は、世界に向けても、輸出され蚕の産地として名を轟かせました。上田は降水量が少なく、乾燥しているため、蚕が育てやすく、長野は傾斜地が多いため蚕の餌になる桑などを生育しやすいという有利になる利点がありました。具体的には、上田の年間の平均降水量は約900mmであり、日本の平均降水量は1718mmであり、上田は全国平均の約半分ほどであるということが分かります。また、傾斜か多いため果樹や桑を育てることに有利な条件である水はけが良いということもあり、上田は気候の面でも後押しされて養蚕業が栄えてた要因の一つは気候であると言えるでしょう。
2022-11-30
22
上田が蚕が有名な理由とは
上田は養蚕業が盛んです。理由として様々な要因があると思います。まずは、気候の面です。上田は蚕を育てやすい気候をしていると分かりました。また、上田の蚕が歴史を持っているだけではなくて、上田の蚕が世界を救っていると言うことも分かりました。 さらに、養蚕業が盛んであったと分かる痕跡として、上田紬という織物もあります。上田紬という上田の地名がつくほどに栄えていたそうです。 富岡製糸場が製糸工場としては有名ですが、上田にも今でも製糸場が残っています。これは、とても珍しく全国で見ても数カ所にしかありません。 上田が蚕の都として有名であるのは、養蚕業が栄えていたことや、その痕跡が未だに残っていることが大きいと思いました。
2022-11-30
23
桑折における養蚕業②
現在桑折町では製糸業は営まれていません。しかし、いくつか名残りのある場所を発見したのでそれについて述べていきます。 まず、桑折町における養蚕業①で触れた郡是製糸工場ですが平成15年に建物が解体された後、東日本大震災の災害公営住宅が建てられています。郡是製糸工場時代の面影は庭園の一角にある「多行松」のみになってしまいましたが、「桑折町蚕糸記念公園」と名を付け、養蚕業によって繫栄した歴史を伝え、町民や来訪者の交流の場になることを願って新たに公園として再生されました。また、桑折町の伊達崎と呼ばれる地区にはかつて養蚕家だった大きな家が見られる他、桑折町の本町通りにある商店街には繭を取り扱う問屋である蚕問屋が今でも残されています。そして、実際に私が通っていた醸芳中学校では校章に桑の葉が
2022-11-30
24
桑折における養蚕業①
福島県の北側に位置する桑折町は現在毎年皇室に桃を献上することから献上桃の郷として知られていますが、実は古くから養蚕との関係が深い地域とされています。 養蚕には、蚕を育てて繭を出荷する養蚕業と蚕種の売買の二つがありますが、桑折町では江戸時代からそのどちらの生産も盛んでした。そのため、桑折町を含む伊達地方の蚕種(蚕の卵)は「奥州本場蚕種」として全国に販売され、輸出もされていました。その後、明治からの昭和初期にかけては製糸業が発展しました。昭和8年には郡是製糸工場が桑折町に建てられ、約500人の女性従業員を雇用すると共に工場内に「家政女学院」が設立されたことにより、女性に教育と労働の機会が与えられたといいます。昭和22年には昭和天皇も視察として訪れ、記念として「蚕祖神」の記念碑の建設
2022-11-30
25
上塩尻における養蚕業②
本来常田製糸場を訪れるつもりだったのですが閉館時間が過ぎてしまい、「手織り上田紬小岩井工房」に向かいました。西上田駅から国道のそばを通り、小道に入った先にありました。遅い時間に訪れたのにも関わらず、ご丁寧に案内してもらい、二階にある機織り機も見学させてもらいました。 上田紬は結城紬(茨城県結城市を中心)と大島紬(鹿児島県奄美大島の奄美市名瀬地区を中心)に並ぶ日本三大紬に選ばれており、丈夫かつしなやかで縦糸と横糸の重なりによって多様な柄や色合いを生み出すのが特徴とされています。 入ってすぐ左側には買い物ができるスペースがとられています。そこで様々な話をお聞きしましたが、中でも小岩井工房の方が考えられたという「りんご染め」の上田紬がとても興味深かったです。りんごの品種と媒染の
2022-11-30
26
上塩尻における養蚕業①
上田駅からしなの鉄道で一駅の場所にある「西上田駅」。 「西上田駅」は1920年(大正9年)に塩尻区の養種家などの請願によって国鉄信越本線の「北塩尻駅」という名で開業されました。1956年(昭和31年)に現在の西上田駅に改称されています。 駅前には【まゆ浪漫】という上塩尻における養蚕業の名残りに触れられるような散策ルートと説明が書かれた大きな看板が設置されていました。
2022-11-30
27
気候と養蚕業
上田市は年間降水量が1000mm未満であり、日本一晴れの日が多い街である。この気候は蚕の飼育に適しており、上田市は日本でも屈指の蚕の産地になった。
2022-11-30
28
上田の蚕業
長野県上田市では、かつては蚕業が盛んな地域であった。それを象徴するのが常田館製糸場である。この製糸場は明治33年創業の歴史ある建造物である。当時の養蚕業は日本の近代化の原動力であり、様々な箇所で利用されていた。この施設では、室温度、通風、乾燥などを整えることで、一年を通して平均的に生糸を生産することが可能となっていた。 木造5階建繭倉庫、鉄筋コンクリート5階建倉庫群などは、国指定重要文化財に指定されている。
2022-11-30
29
生糸の活用案2
生糸を使用した商品をもっと広めるべきだと思います。 着物でなくとも、例えば着物カードケースなど手ごろなサイズで手にできるます。このようなものを上田で広めることができれば需要ももっと伸びるのではないでしょうか。 養蚕業の衰退はつまるところ需要の問題に行きつきます。供給が足りなくなればまた発展することができるはずです。
2022-11-30
30
蚕都としての上田 ー常田館製糸場見学をうけてー
私は県外から進学してきました。養蚕と聞いて思い浮かぶのは、やはり富岡製糸場でした。 しかし、信州上田学の講義の中で、上田の蚕都としての歴史に触れ、現代に残る歴史を広くアピールする必要があると思いました。 養蚕業全盛期から、衰退してからの長野県の主要産業への流れや、背景にある気候や地域性などをアピールすると良いのではないかと感じました。 常田館製糸場を見学し、当時の人々に養蚕が身近なものであり、工夫の詰まった産業であったことを学びました。 後世へ伝えていくには、このようなデジタルアーカイブは特に重要な役割を果たしていくように感じます。
2022-11-29
31
常田館製糸場見学まとめ
常田館製糸場を見学させて頂いて改めて、蚕糸業、製糸業について興味を持つことができました。常田館製糸場の施設15棟のうち7棟は重要文化財、他の施設は上田市指定文化財に指定されており、貴重な建物であることが感じられました。 分かったこととして、建物の至る所に繭を守るための工夫がされていると感じました。その中でも国内唯一の木造五階繭倉庫は存在感があり、繭を守るため扉が四重になっているそうです。長い歴史の中で最善の工夫がされてきたから、ここまで建物が残り、製糸業が続いているのだと思いました。そして養蚕業、製糸業が上田の発展を支えてきたのだと感じました。 今回は予約をとっていなかったので、五階繭倉庫の中は見学することはできませんでしたが、団体で見学する際は予約をとって、ガイドをしてもらい、
2022-11-26
32
中間まとめ
上田に触れて感じたことは二つあった。自分が感じていた以上に「良い街」だったことと直接見てみなければわからないような魅力があったことだ。僕は探検の内容を決める際、パンフレットを参考にルートを決めたのだが正直上田市の魅力に対して、半信半疑なところが大きかった。しかし実際に足を運んでみると、昔ながらの街並みや上田の歴史を感じられる場所が多くあった。特に上田地域の凄みを感じたのは残されている歴史資料の多さだ。僕が住んでいた地域ではここまで多くの資料は存在していなかったと思います。上田市公文書館やマルチメディアセンターなど、資料を補完する施設が多くあり、ほかの地域と比べて歴史的な魅力が特に多いと感じた。具体的には養蚕業や地域に伝わる郷土料理、政治に関する文献などが残っており、特に養蚕
2022-11-24
33
上田で養蚕はなぜ始まったのか。
養蚕のこれからを考えていくとき、過去を振り返ることはとても大切なことです。今回では上田で養蚕がどのようにして始まっていったのかを振り返ります。 年間降水量が1000ミリ以下の上田地域は長野県内でもとりわけ蚕の飼育に適しています。全国的にみてもこれほど降水量が少ない土地はそうありません。養蚕業をするには輸出がしやすい海辺の方がコストがかかりませんが、どうしても降水量は多くなります。 そういった理由も一部あり長野が養蚕の名産になったのです。 また、上田の養蚕の始まりは寛文の時代に藤本善右衛門家によってはじめられたとされています。
2022-11-18
34
上田だけじゃない!蚕糸業で栄えた城下・松代
長野県松代町は、明治期に養蚕業が盛んに行われていました。横浜・上田と共に日本シルクロードとも言われていました。 写真の旧横田家住宅は、国重要文化財に指定されており、和田(横田)英が生まれた場所でした。和田英は、15歳のころから群馬の富岡製糸場で努力し、帰郷したのち、六工製糸場で指導、製糸業発展に尽力した人物です。和田英の著した『富岡日記』も有名な書物です。
2022-10-30
35
喜光堂の桑の葉ほうじ
喜光堂さんで信州上田のお茶『桑の葉ほうじ』を買いました。養蚕業が盛んだった頃、桑の葉は蚕の餌とされていました。その桑の葉を喜光堂さんの技術で焙煎されたのが桑の葉ほうじです。 実際に飲んでみると、甘いものにもしょっぱいものにもよく合い、美味しかったです。 桑の葉ほうじは健康に良く、便秘や高血糖に効果があるそうです。 お茶の他にも、抹茶ソフトクリームやほうじ茶ソフトクリームも美味しいのでぜひ食べてみてください。
2022-05-10
36
みすゞ飴本舗 飯島商店で歴史を感じる
上田駅から徒歩3分程度にある、みすゞ飴本舗 飯島商店 上田本店に初めて行ってきました。 本店は大正モダンな雰囲気で、みすず飴やジャムが販売されていました。みすず飴の他にも大正時代のものと思われる道具、花岡塗という上田市特有の漆工芸品が展示されていました。 ショーケースにはみすず飴が展示されており、宝石のような輝きを放っていました。上田市民ですが、みすず飴がこんなに綺麗なものだとは思っていなかったので驚きでした。 本店を出て少し歩いたところに分店がありました。分店は明治時代に養蚕業が栄えていた頃、上田駅から出荷される蚕の繭を一次集積用に建てられた繭蔵だそうです。この建物は貴重な国民的財産として大切にされています。 分店でもみすず飴やジャムを購入できます。 みすず飴本舗専用の駐車場
2022-05-10
37
「私の地域探求」一覧(情報通信文化論2021成果物)
★
:マイテーマ
◆
:探求者のマイサイトにリンク 【1】~【7】の地域は上田
【1】上田の歴史
★
1「上田藩第6代藩主 松平忠固」
(探求者:
yo-to
)
★
2「上田の歴史(貿易、蚕糸業、金融)」
(探求者:
じょうじ
)
◆
3「明治の上田での生活」
(探求者:
T
)
★
4「戦時中の暮らしについて」
(探求者:
みるくた
2022-02-13
38
6 まとめ
明治~大正時代の文化や生活について調べていて、西洋の文化が取り入れられ現代つながる様々な変化が訪れたことを知り大変興味深く思いました。伝統や文化的特徴が残るというのは、そのもの自体に価値があることの証明なのだと感じました。 上田市も建築や鉄道開発などの点で影響を受けており、養蚕業で発展した街がさらに賑わうことの一助となりました。「蚕都上田」と呼ばれる当時の上田市は、金融業も盛んであり、資料で見てみると街の中の銀行の多さが如実にそれを表しています。製糸業の盛んな街には銀行の数が多いのも大きな特色なのだと思われます。 この探求を通して、上田市の文化的特徴や、当時の観光、産業の発展について深く知ることが出来ました。現在の上田市は、観光都市として発展しているわけではありませんが、こ
2022-02-10
39
5 当時の上田市について
上田市の文化的特徴と言えばやはり「蚕都」として発展した点です。 養蚕業、製糸業を始め関連産業が好況で、桑園も拡大していき、多くの住民が蚕中心の生活をしていたのだと思われます。また、こういった街の繁栄は演劇等の娯楽にも広がり、演芸館・劇場が建つこともありました。さらに、市民の生活用品である酒類・醤油・味噌を扱う店、綿糸・染物を商う店、魚・金物・雑貨を商う店が集まり、上田の町の繁栄を支えていました。 観光の面でも産業の面でも古くからにぎわっていた街であり、また別所温泉などの温泉宿も多くあったため、観光地としても発展していたのではないでしょうか。 信州最古の温泉である別所温泉は明治時代にはすでに年間宿泊、入浴客数が2万人を超えており、大正時代には観光旅館として設立し温泉収入が別所
2022-02-09
40
4 上田市の建築物
明治、大正から機能を失わず現在まで残り続けている上田市の建物を身近なところから探してみました。 旧宣教師館、上田蚕種協業組合事務所棟、大家駅、飯島商店、別所温泉など数多くあり、この時代から存在する産業や文化を読み解くことが出来ます。 私たちが利用する上田駅も明治21年に開業されたものであり、駅や店が多い街の庶民の生活は非常に賑わっていたのだと思われます。 また、上田市は養蚕業で発展を遂げた地域です。観光、文化、特産品の面でもそれは大きく影響していると思います。
2022-02-09
41
松平忠固とは
松平忠固(1812年~1859年)は上田藩の第6代藩主(上田城主に直すと真田昌幸から数えて11代目)で、日米和親条約と日米修好通商条約の調印時に老中を務めた人物である。最初の老中就任時は「忠優(ただます)」という名で、二度目の時は「忠固(ただかた)」に改名している。 忠固は終始一貫して開国と交易を主張し、徳川斉昭や井伊直弼と対立しながらも二つの条約の調印を断行した。その一方で、養蚕業を推進して海外輸出の地盤を固め、日本経済の礎を築いた。
2022-02-08
42
上田蚕種協業組合事務棟
大正5年地元の蚕糸業の関係者たちによって設立したのが上田蚕種株式会社だった。現在の事務棟・採卵室など主要な建物が翌6年に完成した。その後、昭和45年から現在の社名となった。最盛期には22万箱の蚕種をこの組合から出荷していた。この場所は養蚕業を支えた歴史ある建物。 「参考文献」 https://museum.umic.jp/bunkazai/document/dot25.html
2022-02-08
43
まとめ
上田城を観光して、地域の歴史を知り、代表的な場所をめぐり、改めて真田氏について学べた。 上田創造館では、農具や再現された鍛冶屋の職場や農家の暮らしや商家の生活を垣間見れた。日本史の教科書にでできた現物をみれて楽しめた。 信州大学繊維学部では、上田地域では養蚕業が盛んだったことが登録有形文化財が現存することによって、実感した。また、天皇陛下が訪れたことに驚いた。
2022-02-02
44
2.上田市の蚕の歴史
信州上田では江戸時代から蚕の卵の生産で栄え、その後も養蚕、製糸業などさまざまな発展を遂げていき全国から「蚕都上田」と呼ばれるようになりました。 しかし、現在は様々な理由から蚕糸業は全国で衰退し、風前の灯火となっています。 衰退している蚕糸業ですが、上田地域でもまだ蚕糸業は残っています。 上田地域で有名な蚕関連の会社は常田館製糸場という会社。明治33年(1900年)に創業された製糸工場です。 蚕糸業は大きく分けて蚕種業、養蚕業、製糸業の3つに分けられ、蚕の卵を生産し、質を高める「蚕種業」、蚕を成虫まで育ててそれを管理する「養蚕業」、蚕の繭から糸を取り生糸に加工する「製糸業」に分かれます。 次の記事では蚕という虫について解説していきます。 今の若い人は蚕という虫に接点が全くないので少
2022-02-02
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上田の蚕種業
【上田の養蚕業】 江戸の末期から昭和にかけ、全国一の養蚕地帯でった長野県。特に上田地方は千曲川から広がる桑の栽培に適した地形と降水量の少ない養蚕に適した気候、そして蚕種の改良から日本一の蚕種製造地帯であった。中でも上田盆地は春蚕の生産地であり、松本盆地の夏秋蚕と対比されていた歴史がある。 【上田の蚕種の歴史】 -蚕種の始まり- 長野県では上田地方がいち早く、藤本善右衛門家によって1661年~1673年に蚕種製造がはじめらた。 上田地方の蚕種製造は ①奥州産蚕種を仕入れ販売(仕入種) ②奥州へ出向き蚕種製造(手作種) ③自家製造(地種) と順を追って成長し全国に販路を広げていく。 -蚕種製造が盛んになった背景- ① 江戸時代、経済が発達による養蚕業や織物業の奨励 ② 蚕種・養蚕・製糸の分業化 この
2021-12-22
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上田市の養蚕業の発展と今
なぜその探求テーマを選んだのか 1年生の時、常田館製糸場を訪れ、蚕の製造方法や過去から現在までどのようにして衰退していく養蚕業を守り続けてきたかを学び興味を持った。 何を探求しアウトプット化するか 蚕の衰退原因とそれをどのようにして解決するかを探求し、常田館製糸場のように蚕を使った現代アートを作り、現代に繋げるといった活動などをどのように広めるかの案を考える。 具体的にどのような資料を調べるか 上田市公文書館ネットなどの資料や実際に聞いた話を参考に様々な視点から調べる。
2021-12-21
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桑の実ジャム
桑の実の収穫時期は6月中旬~下旬。 養蚕業で栄えていた上田ならではのジャムが、この「桑の実」ジャムです。蚕を育てるために、桑の木がたくさん植えられ、実る桑の実を使って、みすゞ商店さんの試行錯誤の末に生み出された品です。 年によって桑の実の収穫量が異なるため、生産量が限られる期間限定品です。
2021-11-24
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#りんご県のおみや
りんごの甘酸っぱさと、口当たりの良いバタークリームがおいしい、すっきり食べられるお菓子でs。 長野県といえば、全国的にもりんごの産地として有名です。上田もその例外ではありません。 明治七年(1874年)から栽培が始まり、善光寺への参詣客に売っていました。世界恐慌でそれまでの主要産業だった養蚕業が打撃を受けたことをきっかけに、りんご栽培が盛んになりました。当時は味が不評だったため、同じくりんごが特産の青森県を真似て、「紅玉」と「国光」の品種を中心に栽培されるように。 「水はけの良い土地」、「昼夜の気温差」がりんごの生育に適しており、8月~2月にかけてが旬と、おいしく食べられる期間が長いことが特徴。 りんごの名前の初めに「サン」がついているものは、袋をつけないで作られたりんごで、太陽光
2021-11-23
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大正二年上田町市街図
測量による地図が作成されるようになったため、方位・縮尺が地図に記入されるようになり、凡例にある地図記号も用いられるようになった。しかし、かなり簡略化された地図だ。地図からは、市街地の周囲は水田や畑が広がっていたことがわかる。 大正期の上田は、養蚕業とその関連産業が隆盛を極めており、市街地北方に「大星川原種桑園」、南方に「鴨池種桑田」などの広大な桑園が見られる。 また、「上田蚕糸専門学校」(現信州大学繊維学部明治44年開校)、「小県蚕業学校」(明治25年開校、大正12年現在の上田東高校の地への移動)も見える。
2023-05-06
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上田市と岡谷市における蚕業の比較 まとめ
私は、上田市と岡谷市の蚕糸業の比較として、蚕糸業における様々な施設についてまとめた。その中で理解した相違点や共通点、蚕の今後の展望についてまとめる。 ・相違点 同じ蚕糸業で栄えた上田市と岡谷市だが、上田市は「上田蚕種協業組合事務棟」や「常田館製糸場」の現存から養蚕業や製糸業を行っていたことがわかる。一方で岡谷は、「岡谷蚕糸博物館」に展示されている多数の繰糸機や「宮坂製糸所」の現存から製糸業で栄えたといえる。 ・共通点 岡谷市の工女さんは、1910年には岡谷の人口2万3000人に対して、工女さん1万5000人と65%を占めていた。その後、1930年には岡谷の人口7万6500人に対して、工女さん3万4500人と45%を占めており、工女さん達は岡谷市の支えとなっていた。工女さんは10代半ばから20代前半の若い女性で、重要な
2021-02-10
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上田蚕種協業組合事務棟
「上田蚕種協業組合事務棟」は、大正6年から現在(2021年1月)にわたり蚕種製造を行っている会社である。当時は1万4000坪もの敷地があったそうだ。最盛期の昭和40年代には、46億の蚕種の製造販売を誇り、現在は2000万の蚕種を製造している。 蚕種には様々な種類があるが、ここでは日本産と中国産を掛け合わせて、より強い種を生み出している。そして、薬の刺激を与えて約12日後に孵化させる「人工孵化法」を用いて、蚕種を孵化させている。3、4枚目は蚕種の洗い場や、繭をカットして中から蛹を取り出す機械の写真だ。蚕糸業が衰退する中、現役で養蚕を続けている会社があり、尚且つ見学も可能であるというのは、上田が「蚕都」であるからこそできる貴重な体験だと考える。 参考URL:
上田蚕種協業組合事務
2021-01-27
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千曲川とりんご栽培
かつて長沼地域では養蚕業が盛んに行われていました。しかし明治末の度重なる千曲川の氾濫によって、養殖していた蚕を破棄するほどの被害を受けました。その中で水害に強いりんごを栽培する農家が徐々に広まっていき、信州リンゴ発祥の地と呼ばれるまでになりました。
2021-01-25
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吾が村の養蠶業を探る(『西塩田公報』第81号(1954年6月5日)3頁)
私の地元である岡谷市でも蚕業が盛んだったため、この記事に興味を持った。 桑芽が予想外の晩霜のため凍害となったことや、広報部員が飼育所を訪問した際に給桑室から楽しそうな合唱の歌声が流れて来たことなどが書かれており、当時の養蚕業の様子を事細かに知ることができる。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1251
『西塩田公報』第81号(1954年6月5日)3頁
2020-12-14
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上田と生糸貿易‐0 ~開国前の上田と養蚕~
上田は古くから養蚕業が盛んで、農家の自家用として紬が織られるようになった。これが、「上田紬」である。上田紬は、1660年頃より有名になったといわれ、大島紬、結城紬と並んで、日本三大紬の一つとされる。このように、上田は古くから養蚕と深いかかわりを持っていたのである。 画像は「上田紬」によった。 URL:http://ueda-tsumugi.com/#hajimari
2020-07-08
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桑の実摘み体験!
ゼミの活動の一環でエリスンという施設が行っている桑の実摘みのボランティアのお手伝いをしてきました。 元々養蚕業が盛んだった時代に上田市では桑の実の生産が盛んでした。 桑の実は足が速いため市場にそのものが出回ることはなく桑の実を摘む際にしか食べることのできない貴重なもので、とても美味しかったです!
2020-06-28
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引札(ひきふだ)
平野屋にあった引札が印刷されたカーテン。 引札とは、現在で言うチラシのような物。 この引札は平野屋が昔、養蚕業関連の仕事をしていたときの物だそう。 平野屋の歴史が感じられる。 「食」ではないが、貴重なものだと思い投稿した。
2020-06-20
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平野屋
創業 昭和28年 鶏肉店 元は養蚕業関連の仕事をしていて、その後は竿竹屋をやっていたそう。 昔は鶏を飼っていて、卵を産まなくなった鶏の肉を解体した状態で売っていた。 現在は、串に刺さっていて焼くだけのもの等、時代とともに販売する商品も増えているそう。
2020-06-20
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