| 写真 | タイトル | 説明 | 登録日 |
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1 | | 常盤街の歴史 昭和45年から昭和49年まで | 昭和45年
1 自治会会則が一部変更し、監事2名を置く。
9 「これからの親と子のあり方」の講習会を開く。
講師は上田三中校長黒坂周平氏。
10 西小・三中PTA支部廃品回収を実施、収益金20,884円
11 新上田橋が完成する。
昭和46年
9 敬老会を市老人福祉センターで開く。米寿会員33人出席。
10 常盤町簡易郵便局が開局する。
10 上田市交通安全協会鎌原支会の分会として常盤町分会が設立される。
10 自治会館南側の道路を日曜広場として利用し始める。
12 町婦人部主催で金子康夫さん撮影の8mm映画「常盤町の誕生より今日まで」の上映会を開く。
12 団地南端の交差点(山寺さん宅前)へカーブミラーや「止れ」の交通標識が建つ。
12 | 2023-08-09 |
2 | | 常盤町の歴史 昭和40年から昭和44年まで | 昭和40年
1 新年の賀詞交換を行う。(以後毎年実施している。)
3 太郎山に山火事が発生して4時間余り燃え続け自治会館が消防詰所となり、炊き出しをする。
8 台風のため町内にも被害が発生する。
昭和41年
3 町内道路舗装促進の陳情書を市に提出する。
3 郵便ポスト設置実現の陳情書を上田郵便局へ提出する。
6 急行バスの生塚停車実現の陳情書を川中島バス会社へ提出する。
12 社会部と西小PTA支部共催で「ママポリスさんと語る夕べ」が開かれる。
12 道路簡易舗装第1期工事180mが団地入り口から始まる。
昭和42年
2 山火事が発生し、3時間余り燃え続ける。
3 町内下水路改装(100万円)がしゅん工する。
4 米寿会(初期は老人クラブと称した) | 2023-08-09 |
3 | | 常盤町の歴史 昭和35年から昭和39年まで | 今回の「常盤町の歴史」では、常盤町創立(昭和35年)から平成3年(「常盤町30年のあゆみ」に記載されている範囲)の範囲内を可能な限り記す。内容に関しては私個人が重要な事を抜き出し及び文章を変更して記載すると事実と異なる内容となる危険性があるため、記されている内容をそのまま記載する。尚、該当ページは第3章常盤町30年のあゆみ、第1節常盤町30年の沿革表が記されている77頁~100頁である。文量が多いため、5年毎複数のページに分けて記載する。
昭和35年
12 県企業局より住宅団地造成計画のあることが地元(生塚区)に示される。
昭和36年
2 このころから生塚区及び関係地主の対応が具体化し始め、団地造成委員会を設けたり関係地主大会も開かれ、県や市との交渉・話し合いが頻繁にも | 2023-08-09 |
4 | | 渡良瀬川 | 渡良瀬川は、群馬県と栃木県の境にある皇海山(すかいさん)という山から始まります。
渡良瀬川の川の長さは107.6kmで、前橋から東京までの直線距離とほぼ同じ長さになります。渡良瀬川が流れる市町村は、13市町もあります。
北関東最大級の花火大会のメイン会場としても利用されています。
かつて、日本の公害問題の先駆けとなる「足尾鉱毒問題」が発生したことでも有名です。精錬所からでる有害な煙は、周囲の山々から緑を奪い自然環境を破壊し、むき出しとなった山肌は、洪水の度に大量の土砂を流出させ、下流の沿川に多くの被害をもたらし続けました。
地元選出の代議士・田中正造は農民とともに立ち上がり、問題を国会で取り上げました。 | 2023-05-11 |
5 | | 須波三穂神社東の宮(スワミホジンジャヒガシノミヤ) | こちらの神社は、上田バイパスを「上田市緑ヶ丘」の信号で南に降りた先の右側に存在する。
須波三穂神社西の宮とは異なり、「神社人」という神社に関わることが記されているサイトに情報が記載されておらず(2023年5月現在)、創建された年は不明である。また、定礎が記されているものも埋め込まれていないため、改装された年なども不明だ。しかし、手水鉢に記されている名前が「絶主 柳澤○右衛門」(○の部分は読むことが出来ませんでした)と西の宮と同一であるため、1770年代には存在したのではないかと推測される。また常夜灯には寛政十年(1798年)と記されていた。
西の宮には存在した石のほこらは東の宮にはなく、代わりに大きな石が置かれていた。 | 2023-05-10 |
6 | | 須波三穂神社西の宮(スワミホジンジャニシノミヤ) | こちらの神社は上田市の住宅街と上田バイパスの間に存在している。神社についてまとめられている「神社人」というサイトによると創建は天暦6年(952年)とされていた。その後、何度か改装されているためか、神社の建物には定礎昭和59年(1984年)と埋め込まれており、手水鉢にはおそらく安永2年(1773年)と記されていた。
神社には、賽銭箱と見受けられる物は見当たらなかったが、神社の西側には小さな石で作られたほこらがあり、一円玉がお供えされていた。おそらく、賽銭箱の代わりに石のほこらへお供えするルールがあるのではないかと考えられる。
参考文献
国際教養振興協会ICPA.「須波三穂神社西の宮」.
神社人-日本を楽しむポータル&コミュニティ.http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=9727(2023/05/10) | 2023-05-10 |
7 | | 保科のお観音さん | 「清水寺 (せいすいじ)」
長野市の若穂保科にある清水寺に行きました。
ここは、紅葉と牡丹で有名で一度行ってみたかった場所です。
観音堂までの石段は、緑のトンネルのようでした。
秋は紅葉がいっぱいになり間違いなく綺麗だと思います。
今度は紅葉が綺麗な時期に行きたいと思いました。 | 2023-05-10 |
8 | | 巴蓋 | この瓦の写真は「巴蓋」という種類で獅子や菊の装飾をすることが多いとされているそうです。しかし、現在の新しい家にはそのような装飾を見たことがないので珍しいものだと感じました。この瓦は水が装飾されていると思うので家を火事から守るという願いが込められていると思います。 | 2023-05-10 |
9 | | 菊水の鬼瓦 | 今も存在する古い家には珍しい瓦が多く見受けられます。写真にある鬼瓦の種類は「ビン付玄関」というものです。しかし少し違っているのは「菊水」というものが装飾されていることです。「菊水」というのは延命や長寿も願うものとされています。当時の方は家族の長寿を願ってこの瓦を付けたと考えられます。 | 2023-05-09 |
10 | | 青空と1羽の飛ぶ鳥 | 2023年4月27日14時頃の上田市の空です。
青色~水色のきれいなグラデーションが出来ています。
風に乗って飛ぶ鳥にのどかさを感じます。 | 2023-05-09 |
11 | | 番外編:湯の橋 | 大正橋からさらに堤防を通って上流へ...と進むことはせず、少し回り道して戸倉の温泉街に。
以前の上田での調査の際、入り組んだ街並みには案外面白い発見があると学んだため、いざ温泉街へ。
そこで見つけたのが、この「湯の橋」。温泉に相応しい名前ですね。橋と言って良いのかと首を傾げるくらいにはこぢんまりとした橋でしたが、下を覗くと蔦まみれの建物に草の茂った用水路...とレトロさが味わえてなんとも気に入ってしまいました。
風景をより魅力的にする、というのも橋の利点なのかもしれません。 | 2023-05-07 |
12 | | 平和橋 | 千曲市でも有数の長さを誇るのが、この平和橋。
その長さは約580mで、川幅の広いこの一帯を繋ぐ必要不可欠な橋です。
平和橋の「平和」というネーミングは、初めてここに本格的な橋が架けられた1951年が、サンフランシスコ平和条約と同年であったことから、それにちなんで付けられたようです。
水色のボディが青空に映えて、景観と馴染んでいるのも良いと思いました。 | 2023-05-07 |
13 | | 御言橋 | 千曲橋を離れ、堤防を通って上流を目指します。
すると見つけたのがこの「御言橋」。千曲川の分流に架かる橋のようで、下を覗くと砂利と礫を転がす小気味良い水流を眺めることができます。
ここには二つ似たような橋があったのですが、両方が同じ御言橋という名前を冠していました。双子の橋、という印象がみられます。 | 2023-05-07 |
14 | | 千曲川水管橋 | 千曲橋と並んで目を引くのが、この「千曲川水管橋」です。人を運ぶ橋とは違い、水を運ぶのがこの橋の役割です。
真っ白で細いそのフォルムはまるで脊椎のようで、どこか先進的。こちらも千曲橋と同じくインパクトある景観を創り出しています。 | 2023-05-07 |
15 | | 山田神社 | 2023/04/23
家の近くの神社へ。
境内には「神の水」と呼ばれている湧き水が流れている。
神社に行くまでの道は途中から車が一台ギリギリ通ることができるくらい。
細い道を抜けるとひっそりと建っている。
水は冷たくて心地よい。上田は山に囲まれているから他にも名水がありそう。 | 2023-05-06 |
16 | | まとめ |
https://jpsearch.go.jp/item/dignl-848938
明治時代と現代の美容について比較してわかったことは、いまも昔も変わらず日本人女性の美意識は高いことである。
年相応で、素材を活かす化粧が愛されるのは昔から変わっておらず、日本人女性の繊細な美意識からくるものであることがわかった。
意外だった点は、化粧水、パーソナルカラー、色の組み合わせの概念が明治時代からあった点である。
この分析を通して、一人の日本人女性として「日本人の美しさ」を大切にしていきたいと思った。 | 2023-02-08 |
17 | | 明治時代のスキンケア、パーソナルカラー | 日傘は廃れ、西洋風の小型な蝙蝠傘が流行っていた。雨の時は不便であるが、「流行のため仕方がない」と言われているのが面白い。
流行に振り回される当時の人の苦労が垣間見えた。
青みがかった顔色の人は紅色、茶色の傘を選ぶと顔色とうまく調和する。青、紫、緑は顔が尚更青ざめてみえ、黄色の顔色が悪く見える。
赤みがかった顔色の人は、青、紫、緑色の傘を選ぶと顔色とうまく調和する。紅、茶色は顔が尚更赤く見える。
現代の「ブルーベース」「イエローベース」は最近生まれた概念だと思っていたが、明治時代から存在していた。
明治時代の人はグリセリンを水に溶いたものを顔に塗り保湿していた。現代の化粧水の主な成分にグリセリンは含まれている。また、肌が白いのが美しいとされている価値観は明治時代から変わっていな | 2023-02-08 |
18 | | 西塩田時報から学ぶライフハック④ | 西塩田公報には『家庭メモ』というコラムがあり、生活に役立つコツやレシピなどを紹介している。
ここでは私が気になった記事を紹介していく。
~この記事で知ることができるライフハック一覧~
・味噌のカビを防ぐには笹の葉を表面に敷き詰める
・食塩をさらさらのまま保存するには、容器の底に粉炭を入れてその上にザラ紙(新聞紙などのわら半紙)を12枚敷き詰めておく
・水虫対策には、煎茶を患部に当てる
・切り傷に応急手当には、煙草の粉を患部に当てておくと出血が止まる
・醤油の白カビを防ぐには容器に焼酎を入れておく
・やけどをしたときにはきゅうりの種を綿にしみこませて患部に当てると痛みも引き水ぶくれにもならない。
今回は応急手当だったり、調味料の保存法の知恵ですね。私が気になったのは「煙草の粉」 | 2023-02-08 |
19 | | 太田水穂 | 太田水穂
歌人。
広丘村(現塩尻市広丘原新田)生まれ。
本名貞一。
長野師範に進学、島崎藤村に傾倒する。島木赤彦(久保田俊彦)とは同級生であった。
卒業後、革新和歌団体「この花会」を和田の地に結成し、松本平を支配する保守的桂園歌人に対抗して信州文壇に大きな刺激を投じた。この時、窪田空穂と親交をもつ。
明治41年上京、大正四年歌誌「潮音(ちょうおん)」を創刊し、歌人、研究者の道を歩む。象徴的観想の作風。「短歌のふるさと塩尻」の中心人物の一人。
引用:長野県塩尻市公式ホームページ(https://www.city.shiojiri.lg.jp/soshiki/64/3840.html) | 2023-02-07 |
20 | | まとめ | 長野県郷土料理を調べて可能な限り、実際に食べてみた。
全体を通して保存を意識された味付けが多いということが考えられた。腐る原因となる水分も可能な限り飛ばしているものが多く、結果としてご飯のお供のようなもの味が濃いものが郷土料理として伝承されやすいのではないかと考えた。
授業の資料を建前に色々な長野県の料理を食べることが出来て個人的には大満足だった。 | 2023-02-01 |
21 | | おやき | 「おやき」は、小麦粉と蕎麦粉を水または湯で溶いて練り、薄くのばした皮にあんや野菜など旬のものを包み焼いたもので、信州を代表する郷土料理。 地域によっては「やきもち」とも呼ばれる。平成21年10月に、おやき事業者20社により「信州おやき協議会」が設立され、信州おやきの文化を守り発展させていくこと、全国的認知度を向上させていくこと、顧客満足のための品質向上を図ることを目的とし、おやきに関する各種イベントや勉強会、おやきつくり教室などをおこなっている。
引用元https://d-commons.net/uedagaku?c=&p=54244
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/oyaki_nagano.html#:~:text=%E3%80%8C%E3%81%8A%E3%82%84%E3%81%8D%E3%80%8D%E3%81%AF%E3%80%81%E5%B0%8F%E9%BA%A6%E7%B2%89%E3%81%A8,%E3%81%8C%E7%99%BA%E8%A6%8B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82 | 2023-02-01 |
22 | | 戸隠山九頭龍大権現〔信州の浮世絵〕 | 江戸時代の浮世絵師、二代歌川広重による錦絵の揃物「諸国名所百景」の一つ。
初代広重の門人で、師の亡き後その画風を継承した二代広重が、安政6年(1859)から文久元年(1861)にかけて制作した。版元は、初代広重晩年の作「名所江戸百景」を出版した魚屋栄吉。徳川家の手厚い保護を受け、戸隠山顕光寺として信仰を集めた神仏混合の時代を描く。九頭龍大権現(現在の九頭龍社)の右に奥院(奥社)、江戸末期の狩野派絵師河鍋暁斎作の「龍の天井絵」がある中院(中社)、右下の石階段の先が宝光院(宝光社)とみられる。参道には杉木立の合間に院坊が立ち並び、参拝者や商人らが行き交う門前町として栄えた当時の様子を描いている。九頭龍社は古くから地主神として祀られてきた。
水の神、雨乞いの神、虫歯の神、縁結びの神として信仰を | 2023-02-01 |
23 | | 恩田緑蔭(おくだりょくいん) | 文政2年松代生まれ。本名はゆり。桜雲亭緑蔭、桂月由里などとも称した。松代藩絵師の山田島寅や青木雪卿に師事、葛飾北斎や与謝蕪村にも私淑して作品を模写している。花鳥図や松代の風景、藩にゆかりのある人々の肖像を描いた。平成17年、長野市の水野美術館で「恩田緑蔭展~知られざる信州の元祖女流画家~」が開催された。明治7年、55歳で死去した。
※図は「写生集壱」
https://yuagariart.com/uag/nagano09/ | 2023-02-01 |
24 | | こね鉢 | 上田博物館の資料である。
そば、うどん、団子などを作るときに、粉に水分を加えて、粘りけを出すためにこねるが、このときに用いる鉢。これは木をえぐった鉢だそうだ。
この時点では、まだ、そば一筋ではなく、うどんが生きている。
https://museum.umic.jp/hakubutsukan/collection/item/0111.html | 2023-02-01 |
25 | | 西塩田公報から学ぶライフハック① | 西塩田公報には『家庭メモ』というコラムがあり、生活に役立つコツやレシピなどを紹介している。
ここでは私が気になった記事を紹介していく。
~この記事で知ることができるライフハック一覧~
・サビた包丁には大根の切り口に歯磨き粉をつけて磨く
・おでき(ニキビ?)には患部に直接ゴボウの葉を当てて縛っておくと膿が抜ける
・新品の歯ブラシを使う前に熱い塩水に水が冷めるまでつけておき、しっかりと乾かしてから使うと二倍長持ち
・味付けをする際、塩は砂糖よりも材料にしみこむ速度が速いため、砂糖は先に使うこと
現代では用途によってさまざまな洗剤や掃除用具が存在 していますが、この記事掲載時(昭和28年4月5日)にはまだそういったものはなく、知恵を用いて生活をしていたことがうかがえます。
また、 | 2023-02-01 |
26 | | 信州の自然と人、47年前と今 | 昭和51年(現在2023年から47年前)に長野県が制作した、信州の自然と人の暮らしとの関わりを記録した映像です。 白馬三山の雪形、山の信仰、水質・大気汚染、自然観察会などをまとめており、2023年の現在と比較検証し、変っていない点と変わっていった点を考察していく。
仮説として、現在と47年前で変わっていない点は普遍的な部分で今後も変わらないのではないかと推測する。
URL:https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03FS0000000132 | 2023-02-01 |
27 | | 笹沢檪亭 (ささざわれきてい) | 檪亭は、安政2年(1855)、小県郡坂井村(現上田市塩川)に生まれ、本名を清十といい、幼い頃より画才に富み、花鳥画を描いては村人を感嘆させたといいます。早くに父を亡くし苦労して育ちますが、母の理解もあって、明治6年(1873)、18歳の折に島田桃渓とうけいに師事して絵の指導を受けたのを手始めに、明治18年(1885)、29歳の時には、水戸の木下華圃かほに師事。この頃から専業画家としての道を歩むことを真剣に考え始めたものと思われます。
明治19年(1866)、31歳の折には終生の師となる児玉果亭に入門を許され、果亭より檪亭の雅号を受けました。この檪亭が入門した明治19年は、第2回内国絵画共進会に出品した果亭の即品が天覧に供され、出品2点のうち1点が宮内省買上げ、1点が銀杯(こ | 2023-02-01 |
28 | | 林倭衛 (はやししずえ) | 父は、倭衛が小学校在学中に製糸工場経営に失敗し、明治40年の春、倭衛と弟を実家の小林家にに預けたまま夜逃げ同様に東京へと出てしまいました。実家は上田駅に近い北天神町通りで蚕種用の和紙などを商っていましたが、倭衛は友人たちから離れ孤独にさいなまれましたが、同じ頃に同じ北天神町に移り住んだ馬場衛まさるが、生涯の友となりました。約1年の後にようやく父母の下に引き取られはしたものの、何かにつけて旧士族出身にこだわって失敗を繰り返す父に対して、倭衛は激しく不信を覚え続け、やがて少年の孤独感は次第に不屈な自立心へと成長していくのでした。
明治43年には印刷会社の給仕となり月給を得るようになると、近くの水彩画研究所の夜間部に入り、明るく旺盛な好奇心のままに、生涯にわたる美術関係の友人を | 2023-02-01 |
29 | | 戦時版の新聞③「プロパガンダ映画」とまとめ | 映画までもプロパガンダとして利用されていたことが分かる記事である。
イギリス領インドの青年を日本人(岡倉天心等)が助けるといった内容であると書かれている。
実際の人物までもプロパガンダ映画で使われていたことに驚いた。
岡倉天心の「東洋は一つ」という言葉を都合よく解釈し、戦争に利用したように感じる。
参考サイト
【戦後75年】戦時中の中部日本新聞をPDFで読んでみよう
2023年1月31日閲覧
▼この資料は以下から参照できます。
『中部日本戦時版』「 | 2023-01-31 |
30 | | 戦時版の新聞② | バチカン市国について書かれた記事である。しかし、内容は敵国(アメリカ、イギリス)に対する批判である。
現代の世界史とは違った視点から歴史を見ることができ、興味深く感じた。
参考サイト
【戦後75年】戦時中の中部日本新聞をPDFで読んでみよう
2023年1月31日閲覧
▼この資料は以下から参照できます。
『中部日本戦時版』「戦争と闘ふヴアチカン 非道へ法王の睨み」(昭和19年3月16日) | 2023-01-31 |
31 | | 戦時版の新聞① | 選民思想をかき立たせるような書き方をしている記事であるように感じる。
情報媒体が限られていた時代であるため、このような偏った情報でも疑いようもなく受け入れられていたのだろうか。
参考サイト
【戦後75年】戦時中の中部日本新聞をPDFで読んでみよう
2023年1月31日閲覧
▼この資料は以下から参照できます。
『中部日本戦時版』「我等の身体 これぞ日本人の優秀性」(昭和19年3月2日) | 2023-01-31 |
32 | | 『昭和国民読本』(1939) | 明治から昭和初期(1939)までの出来事や歴史がまとめられた書籍である。
出来事が事細かにまとめられていることが目次から推測できる。
当時(戦時中)の国民の思想を知るのに重要な資料として活用できそうだと思った。
▼この資料は以下から参照できます。
『昭和国民読本』(1939) | 2023-01-31 |
33 | | ”川”と共にある上田市御所 | 上田市には千曲川が流れている。
上田市の災害の歴史を語るには欠かせないだろう
千曲川が流れている御所では、昔から大きな洪水の被害を受けてきた。その被害を少なくするために当時の村人達は「水天宮」を奉納し、「天御中主神(あめのなかぬしのかみ)」を祭ってきた。
向かいにも「水神宮」がある。
今、ここで生活出来ているのは当時の人々が、こういった「信仰」によって水害が少なくなることを願い、どうすれば安全になるのかを考えて対応をした、それらの「堤防」の積み重ねの結晶であると考えられる。
昔の人々の想いに馳せながら、こういった史跡を巡ってみるのも面白いのではないだろうか。 | 2023-01-30 |
34 | | お菓子の歴史(洋菓子輸入時代) | 明治頃に、文明開化が始まり、外国の文化が日本に取り入れられ生活が変化していったが、それは菓子も含まれる。明治10年に洋菓子の輸入が5千円であったが、20年には1万円、30年には2万5千円で、38年には一躍して23万5千円とまで上昇し、短期間で需要がかなり増えた。洋菓子製法技術や洋風食材が導入され、相手先もオランダ、ポルトガルから、イギリス、フランス、アメリカに変化した。
ビスケット、キャンディ、チョコレート、キャラメル、クッキーなどが輸入され、日本での消費が増えると国内生産の方が儲かると考える人が出てきて、製造が始まった。日本で最初に作られた洋菓子は明治8年のビスケットで、東京京橋の風月堂が始めた。明治中期になると森永太一郎が森永製菓会社を作り、ビスケットやドロップス、キャラメルなどの洋菓子生産 | 2023-01-29 |
35 | | いなごの佃煮 | 県内全域の郷土料理。南信地域の伊那谷には、古くから昆虫食文化が根付いており、いなご、蜂の子、かいこ、ざざむしなどを食べる習慣がある。戦時中や戦後の食糧難では、少ない動物性たんぱくをとるための栄養補給源として食べられていた。いなごを捕って袋や容器に入れて一晩おき、お湯に通して洗う。洗ったいなごは、甘露煮や佃煮にすることが多い。昔に比べいなごの数も減少しており、生活や食文化の変化により各家庭で調理されることは少なくなってきたものの、今もなお伊那谷では昆虫食文化が残っている。
[いなごの佃煮 長野県 | うちの郷土料理:農林水産省](https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/inagono_tsuku_dani_nagano.html)より引用 | 2023-01-28 |
36 | | やたら | 北信地域の郷土料理。野菜や漬物を細かく刻んで混ぜ合わせたもので、夏野菜のふりかけのようなもの。みょうがやなすなどの夏野菜、ぼたんこしょう、大根の味噌漬けを刻んで混ぜ合わせ、あたたかいご飯にかけて食べる。「ぼたんこしょう」は、古くから地域で栽培されてきた青唐辛子のこと。やたらとなんでも入れたり、やたらと刻んだりすることから「やたら」といわれるようになったといわれている。そのため、家にある野菜を使って自由にアレンジできる。
[やたら 長野県 | うちの郷土料理:農林水産省](https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/yatara_nagano.html)より引用 | 2023-01-28 |
37 | | 野沢菜漬 | 県内全域の郷土料理。寒さが厳しい長野県は、冬になると田畑から青ものはひとつもとれなくなるため、晩秋になると大量に保存用の漬物を仕込んだ。一石桶といわれる大きな桶で大量の野沢菜をつける。各地域や家庭によって漬け方は様々。そのまま食べたり、おにぎりやおやきの具材にも使われる。野沢菜には浅漬けと古漬けがあり、春先、発酵が進んで黄色く変色した古漬けは、酸味が強いが味わいがあり、油との相性がよく、炒めて食べたりもする。
[野沢菜漬 長野県 | うちの郷土料理:農林水産省](https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/nozawana_zuke_nagano.html)より引用 | 2023-01-28 |
38 | | おやき | 北信地域、中信地域の郷土料理。寒冷な気候のため、小麦や蕎麦が多く栽培され、小川村の縄文遺跡からは雑穀の粉を練って焼いた跡が発見されているほど歴史は古い。小麦粉と蕎麦粉を水または湯で溶いて練り、薄くのばした皮に具材を包み焼いたもの。包む具材は、なす、きのこ、かぼちゃ、切干大根などを味噌や醤油で味付けし、それを単体もしくは複数混ぜたものやあんなど様々な種類がある。
[おやき 長野県 | うちの郷土料理:農林水産省](https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/oyaki_nagano.html)より引用 | 2023-01-28 |
39 | | 戦前長野の農業形態② | まず始めに触れたいのが稲作である。資料に記載されているように川による豊富な水源、肥沃な土、夏期に暖かく、基本的に冷涼な気候であることから稲作が行われていたことがわかる。稲作に適する条件が現代と同じであり、当時から盛んに行われていたことがわかる。左のデータには作付量、反別、収穫高などが記載されている。
「信濃産業誌 完」
https://api.ro-da.jp/v1/shinshu-dcommons/library/02BK0102152899/images/75b5398006c44bf0b725eedac59bc2f7.jp2/620,642,1725,3035/308,542/0/default.jpg | 2023-01-28 |
40 | | お菓子の歴史(京菓子・上菓子時代) | 京菓子とは、一般的に京都で作られたお菓子のことをいい、江戸が中心だった江戸時代において、都である京の菓子を地方のものと区別して呼び始めた。
また、京都では宮中や公家、茶寺や茶家に献上する菓子のことを上菓子と呼んでいるが、江戸では駄菓子(雑菓子)の対抗する意味として使われた。当時の菓子司が作るものは、蒸菓子、干菓子、駄菓子(雑菓子)であり、上菓子司の作る雑菓子には、白砂糖が用いられ、品質こそ上菓子であった。安永・天明期になると、和菓子の技巧は江戸独特の個性も加わり、かなり発展している。
守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-28) | 2023-01-28 |
41 | | 手打ちそば | 県内全域の郷土料理。冷涼な気候で、米や小麦が栽培しづらい高冷地の農産物として育てられてきた。そばは、そばつゆにねぎとわさびを入れて食べるのが一般的だが、伊那の「高遠そば」は、そばつゆに大根のしぼり汁と焼き味噌を加え、奈川の「とうじそば」は鍋つゆに野菜や鶏肉などを入れて火にかけたものに、竹籠に入れたそばをしゃぶしゃぶのようにして食べたりなど、地域や産地によって様々な食べ方がある。
[おやき 長野県 | うちの郷土料理:農林水産省](https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/oyaki_nagano.html)より引用 | 2023-01-28 |
42 | | 鯉こく | 佐久市の郷土料理。二毛作の難しい佐久平では、水田を利用した鯉の養殖が行われている。「鯉こく」は大胆に筒切りにして味噌で煮た汁物で、砂糖や山椒を入れたり、鱗を取らないなど、調理方法は地域や家庭によって様々である。お正月によく食べられており、「病気をせず1年健康に過ごせるように」という思いが込められている。
[鯉こく 長野県 | うちの郷土料理:農林水産省](https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/koikoku_nagano.html)より引用 | 2023-01-28 |
43 | | ペグーの大臥像に見入る皇軍勇士(『ビルマ作戰 : 大東亜戰史』) | ビルマ(ミャンマー)に侵攻した日本軍が、ペグー(バゴー)の寝仏を見ている写真。
この写真が載っている本には、進軍している様子や戦っている様子、町の状況等の写真が多い。そのため、この写真のように戦いに関係のないものが載っていることに違和感を覚えた。
観光できるほど、英軍に圧勝であると伝えるためだろうか。それとも、ただ単純に近況報告をしているだけなのだろうか。様々な考察ができる。
▼この写真が掲載されている書籍は以下から参照できます。
国立国会図書館デジタルコレクション 『ビルマ作戰 : 大東亜戰史』,同盟通信社,1942年 | 2023-01-28 |
44 | | お菓子の歴史(南蛮菓子時代) | 室町時代末期、ポルトガル人やスペイン人によって南蛮菓子が渡来した。南蛮菓子は、カステイラ(カステラ)、ボーロ、パン、金平糖、カルメラ、ビスカウト(ビスケット)などがあり、これらの菓子が後世の菓子に非常に大きい影響を与えています。
南蛮菓子は、砂糖の大量輸入と、砂糖菓子の製法を伝えて、無糖時代と有糖時代の間に明確な一線を引いただろう。
守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27) | 2023-01-27 |
45 | | お菓子の歴史(点心時代) | 菓子は一日二回の食事の間に食べる間食用として長く続いていたが、鎌倉時代になると都会では三食制となったため、菓子は嗜好品になり、一般庶民からは縁のないものになった。
そのころ、茶が日本に渡来して、喫茶が流行した。その際に使用する菓子を「点心」と呼ぶ。もともと、点心とは定食と定食との間の小食であり、間食やおやつを意味する。点心には主に羹(あつもの)という汁と、まんじゅう類があり、それぞれ多くの種類がある。これらが和菓子の発展に繋がっていった。
守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27) | 2023-01-27 |
46 | | お土産の定番! 信濃路うさぎやのくるみそば | 引用元:https://www.usagiya-ueda.com/
上田お土産の代表格ともいえる、蕎麦粉の皮で餡を包んだ、素朴で美味なお菓子「くるみそば」。
サクッ ホロッとした風味漂う皮部分に上に乗ったたっぷりのくるみ、中に詰められたネットリ食感の飴・餡、上田市民含め多くの人たちに愛され続けています。
この製品のデザインを見ていったとき一に目につくのは、パッケージの背景として描かれた水彩画調の植物の数々でしょう。原料に自然豊かな地だからこそのそばやくるみを使用しているこの製品らしさが表れているように思います。またタイポグラフィーも習字調で歴史ある製品なのだなということを強く感じさせてくれます。 | 2023-01-27 |
47 | | 長野伝統のお菓子 みすゞ飴 | 引用元:https://misuzuame.com/sp/ame/
みすゞ飴は、国産果実を寒天・グラニュー糖・水飴で固めた、長野県の伝統的な乾燥ゼリー菓子です。
その歴史は長く、100年も前から信州上田のちでも愛され続けています。
上田土産の代表格のような存在であるこの製品のデザインは、製品同様オレンジを基調とした色彩豊かなデザインで、また習字調のような少々独特な字体で印刷された商品名は、伝統を重んじ、歴史ある信州地域の名産らしさをある意味表しているようでなんともしっくりくるように感じます。パッケージデザインには製品に使用されている果実も印刷されており、一目見て商品の要素が伝わることも良さの一つでしょう。 | 2023-01-27 |
48 | | お菓子の歴史(上古時代~唐菓子時代) | 日本のお菓子の歴史はとても古く、約2000年前の上古時代といわれている。菓子の名称については色々な説があるが、初めは「古能美(このみ、木の実)」、「久多毛能(くたもの、果物)」であり、現在でいう菓子とは違っている。
現在の菓子は唐菓子時代(奈良朝平安朝初期)に輸入された唐菓子が始まりとされている。
守安正 著『お菓子の歴史』,白水社,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2507981 (参照 2023-01-27) | 2023-01-27 |
49 | | 持続的な地域活性化~大洗モデル~3 発表(最終)版 | プロジェクト研究の足跡をまとめた発表資料になります。
それぞれの実施内容はこのマイテーマ(プロジェクト研究・卒業研究)をご覧ください。
持続的な地域活性化策~大洗モデル~とは、大洗町において持続的な地域活性化策というテーマを研究する者であり、卒業研究、地域活動という視点から3つの取り組みを行い、そこで得た知見を大洗町にフィードバックするものです。
茨城県大洗町とは茨城県東部に位置する小さな観光都市で、海が観光資源となっています。また、アニメ『ガールズ&パンツァー』を利用したコンテンツツーリズムを10年間推進しています。
その一方で、人口減少、海水浴客の減少、町の活気のなさといった社会課題を抱えています。
そこでまず実施内容1として、「create owarai」に参加しました。この「create owarai | 2023-01-26 |
50 | | 平成の食 | 山菜や雑キノコは、傾向としては採らなくなった人が多いようだ。しかし、趣味的な面も伴って、わざわざ上田地域外に出向き、採っている人もいる。タンパク源としてのイナゴ、ドジョウ、タニシなどは数も減り、食べられなくなった。その背景には水田への農薬散布が関係しているとのこと。肉や主に海の魚は店で買えるようになったため、その種類が増えたり、以前よりも多く食べられるようになった。。 | 2023-01-26 |
51 | | 塩田平のため池 | 上田は雨が少なく、その中でも特に塩田には大きな河川が通っていないため水不足になりやすい。しかし米作りをするためには水がたくさん必要である。そこで塩田平には江戸時代を中心に多くのため池が作られた。それぞれの池に個性的な名前が付けられているので、散歩がてら観察してみるのも面白い。 | 2023-01-26 |
52 | | 蚕業と気候 | 上田市は年間降水量が1000mm未満であり、日本一晴れの日が多い街である。この気候は蚕の飼育に適しており、上田市は日本でも屈指の蚕の産地になった。 | 2023-01-25 |
53 | | 桑皮生産増強に就て(『西塩田村公報』第5号2項) | 桑皮生産の増強についての記事である。上田は桑栽培の適作地であったことから桑が多く栽培されていた。
蚕の餌として生産していたと考えていたが、戦時中は繊維資源としても生産していたようである。
また、「東亜共栄圏」という言葉が多く使われている。
日本政府がスローガンとして使っていただけでなく、日常でも「東亜共栄圏」という言葉が使われていたことが分かる。
▼この記事は以下から参照できます。
#928 『西塩田村公報』第5号(1942年5月22日)2頁 | 2023-01-25 |
54 | | 岳の幟 | 塩田平の西辺に位置する別所温泉地区には、「岳の幟」と呼ぶ雨乞〔あまご〕いの祭りが伝わっています。この塩田地方は昔から水不足で大変悩まされてきた所で、灌漑〔かんがい〕用の溜〔ため〕池も多く造られ、雨乞い行事もいろいろ行われてきました。
ー中略ー
祭日は例年七月十五日(近年その日に近い日曜に変更)として、別所の上手〔わで〕・院内〔いんない〕・大湯〔おおゆ〕それに昭和四十九年大湯から独立した分去の四地区で、輪番〔りんばん〕に幟の役に当ります。夜明前に、上部に笹のついた竹竿と巻いた布を担いで夫神岳に登り、日の出と共に九頭竜神の石祠に布と神酒を供え、郷中の安全と五穀豊饒〔ごこくほうじょう〕を祈ります。
ー中略ー
支度を整えて日影公民館に待機をしていた三頭獅子とささら踊りの一行がそれに加わり | 2023-01-25 |
55 | | 別所温泉 | 別所温泉JR上田駅から電車で25分、バス30分、海抜650メートル静かな高原の湯の里。温泉は54度C単純硫化水素泉で無色透明。宿は20軒、平安貴族の別荘があったところから別所という。
http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=2691013より引用 | 2023-01-25 |
56 | | 大東亜戦争完遂映画会(『西塩田村公報』第5号4項) | 農村でも映画会を開き、戦果を伝え、国民の団結力と忠誠心を強めていたと考えると、いかにマスメディアが戦争に利用されていたかが分かる。
上映されていたものはおそらく大本営の戦果発表だと思われる。そのアーカイブはNHKの戦争証言アーカイブス、戦時録音資料で参照できる。
この記事が書かれた当時(1942年5月22日)は、日本軍が優勢であったとされる。アジア・太平洋戦争の転換期であるミッドウェー海戦はこの新聞が発行されて約2週間後に起こる。
NHK「戦争証言アーカイブ 戦時記録資料 勝利の記録」
https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/list.cgi?cat=kiroku
2023年1月25日閲覧
▼この記事は以下から参照できます。
#930 『西塩田村公 | 2023-01-25 |
57 | | 西部地域デジタルマップ 出前講座 | 9月28日(水)に、塩尻地区で地域活動をする桜づつみホタルの会の皆さんに、西部地域デジタルマップの使い方講座を実施しました。
実施してみて分かったこととして、団体の皆さんのほとんどは高齢者の方ですが、思っていたよりもデジタルマップに興味を持ってくださり、使い方などを理解し身に付けることができると、たくさん活用してくれるのではないかと感じました。活動写真もたくさん持っていたので、これからどんどんデジタルマップを活用してもらえるように、今回のような出前講座をもっと実施し積み重ねていき、デジタルマップを定着させていきたいと思います。 | 2023-01-24 |
58 | | 課題ゼミ まとめ | 地域の魅力を伝えるには魅力を自分たちで理解しなければならない
地域の魅力とは?
魅力は人の主観・価値観による
→例:自分 実家が牡蠣の養殖(元から水産業に関わりあり)
・高校で地元の水産業により関わり、地域の良さを知る
→自分が水産業に関わっていたから感じた「魅力」
他の人なら?=個人差がある
「だからこそ広くわかりやすく伝える」
「興味を持つ人を見つけることが重要」
「広くわかりやすく伝えるには?
どのような価値(歴史的観点・地理的観点など)があるかを明確にする。
ただ上田にこのようなものがある(看板・掲示板など)と伝えるだけでは効果は薄く、印象に残りにくい。
イベントは?
例:上塩尻の街歩き→地域の人が自分の地域の歴史的価値をはっきりと認識できた。
価値の内容を明確にすること | 2023-01-19 |
59 | | 洪水対策(2) | 明治1911年になると本格的な洪水対策に入っていくことになる。方法として砂防工事が採用され、これで少しでも洪水の発生を抑えようと工夫しました。
利根川信濃川澱川木曽川山地砂防工事歴(信州デジタルコモンズ)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02BK0102162823 | 2023-01-18 |
60 | | 洪水量水計測 | 明治27年になると洪水が起きた際、どれくらいの水が上昇してくるのかを実際の上り幅を計測してまで具合的に計測しました。その記録個所の目印がこの写真のものです。
千曲川筋下高井郡立ケ花村洪水量水表建設箇所実測図(信州デジタルコモンズ)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03PLNS00069000 | 2023-01-18 |
61 | | 洪水対策(1) | 明治15年になるとどこで洪水が起きるのか、実際に起きた際の被害について調べられた。こういった取り組みは、洪水被害を食い止める第一歩だといえる。
洪水調(信州デジタルコモンズ)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03OD0622101800 | 2023-01-18 |
62 | | 洪水の記録 | 災害といえば、洪水も置いておけないものである。洪水は、地震の土砂崩れの影響でも起きるが、本来台風や大雨など比較的起こりやすい自然状況で発生するので災害頻度的にはかなり危険な部類の災害となる。写真の歴史書ではその被害についての苦しさについて書かれている。
松代町地誌略(信州デジタルコモンズ)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02BK0104131933 | 2023-01-18 |
63 | | 水害・火災についての地図 | これは、先ほどの洪水被害と同時に起きましたが、別の地域の被害情報です。火災についての被害も書かれています。
善光寺大地震火災水難地方図 木版2枚(信州デジタルコモンズ)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03OD0621001000 | 2023-01-18 |
64 | | 山崩れが引き起こす洪水 | これは、山崩れが起きたことで川が塞き止められ洪水を引き起こし、村などを飲み込んだ時の絵です。おおよその死者は270人にものぼると記録にあります。
信濃国大地震犀川出水絵図(信州デジタルコモンズ)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02MP0104172564 | 2023-01-18 |
65 | | Beach culture brewing(大洗のクラフトビール醸造所)の取り組みについて | 大洗町のクラフトビール醸造所「Beach culture brewing」さんの取り組みについて紹介する。
Beach culture brewingさんは大洗町のシーサイドステーションという施設内で営業を行っているクラフトビール醸造所なのですが、とても面白い取り組みをしていることがわかりました。
それは、おつまみ持ち込みokということです。
実は、シーサイドステーションの中には大洗まいわい市場という店舗があり、ここでは大洗町で作られた野菜や水産加工品が幅広く売られています。
つまり、Beach culture brewingさんでは、大洗の地元産品をおつまみとして、大洗のクラフトビールを楽しむことが出来ます。
店内もおしゃれな雰囲気なのでぜひ大洗尽くしの飲みを体験してみてください。 | 2023-01-16 |
66 | | 交流ノート設置の経緯 | 茨城県大洗町において交流ノートの設置の経緯について聞き込み調査を行った際の記録を残す。
交流ノートの設置の経緯について聞き込みを行ったところ、ある水産店が設置したことに辿り着きました。
経緯としては、ガルパン効果で多くの人々がお店に来店してくれるようになるにつれ、全国各地から人々が訪れることに驚いたそうです。
そこで多くのお客さんに出身地を訪ねる中で、ノートを置いてそこに書いてもらおうと考えたのが最初であるとお話しして頂きました。
また、その他の店舗にもお聞きしたところ、ガルパンファンが是非おいてほしいということで持参したケースや、他の店舗が置いているから起き始めたといったケースがみられました。
ファンが自らノートを置いていくというという広がり方をしているというところに | 2023-01-16 |
67 | | 上田市マルチメディア情報センター | 上田市マルチメディア情報センターは、長野大学の少し上に位置している、情報化を総合的に支援する環境が整っている施設である。
●施設・概要
学生は無料で使用できる学習スペース、3Dプリンターがあり、アニメや映画などを250作品以上見ることができるPCが置かれていた。また子供や大人も活用できる学習空間がある。
他には教育支援や無線LAN有線LANの管理など地域にも貢献している施設である
●上田資料映像鑑賞
上田市の50年前の資料映像を見させていただいた。
そこでの貴重な映像を紹介する。
●「上田つむぎ」信越放送 1964年1月16日放送/上田紬/私たちの周辺
人手を要する養蚕は機械化をする必要はあるが、あまりにも機械化をしてしまうと伝統が欠如してしまう可能性があるとのこと。
手織りのものは個人に合わせて作 | 2023-01-12 |
68 | | 水泳の効果について | 水泳が及ぼす効果について書かれた記事である。戦時中ではあるが、このような記事がありほっこりするような気持ちになりました。時報に対して堅苦しい印象があり、子供はなかなか目にしにくいような難しい事がたくさん書かれているのではないかと思っていましたが、このような記事は子供にも読まれやすい面白い内容であり、自分自身もとても興味深いと思いました。 | 2022-12-26 |
69 | | シベリアの想いで(『西塩田時報[戦後]』第24号3頁) | ロシアの捕虜として満洲からシベリアに送られた人が書いた記事である。
シベリア送りになった捕虜は辛い目にあったんだろうなと悲惨な状況を想像して読んだが、想像していたものとは違い心温まる話だった。捕虜になった人々の悲惨な話はよくニュース等で聞くが、この記事のような温かい話は聞いたことも読んだこともなかったので新鮮だった。
▼この記事は以下から参照できます。
#1043 『西塩田時報[戦後]』第24号(1949年3月25日)3頁 | 2022-12-23 |
70 | | 米の節約!勝利の一歩(『西塩田時報』第198号1項) | 日中戦争時、東京などの都市だけでなく、地方でも節米運動が行なわれていたことが分かる記事である。白米ではなく、麺類や七分づき米、雑穀米を代用として食べるように書かれている。戦時中、栄養不足にならないために栄養豊富である雑穀米などを食べていたのだと考えていたが、日本の物資不足も要因の一つであったことが分かった。
また、「勝利への第一歩」という言葉から、国民の戦争意欲を高めようとしていることがうかがえる。戦時中という時代背景を強く実感できる記事のタイトルだと感じた。
▼この記事は以下から参照できます。
#879 『西塩田時報』第198号(1940年5月1日)1頁 | 2022-12-23 |
71 | | 千ヶ瀧用水改修記念碑 | 千ヶ瀧用水改修記念碑 について知っていることをぜひ教えてください
佐久市岩村田にあるため池「仙禄湖」畔に建つ記念碑。
1972(昭和47)年4月建立。
碑文
千ヶ瀧用水改修記念碑
北に浅間の活火山南に蓼科八ヶ岳連峯
を望む佐久平の中央に位置する岩村田
町は往古より水利に恵まれす灌漑水に
難渋し近代に至っては上水道水源の確
保に悩みこれが根本的解決は町民長年
の願望であった
昭和二十六年町理事者町議会議員は町
民の要望にこたえ岩村田町の事業とし
て土地改良法による千ヶ滝用水の改修
を目的として土地改良区の設立を計画
し関係の南大井村御代田村小沼村中佐
都村に協賛を求めたしかしこの用水に
特権をもつと信ずる人人によってその
設立が遅延し遂には変則なる土地改良
区の設立の止むなきに至ったが用水改
| 2022-12-09 |
72 | | d-commons.net考察 その4 デザインと迷子 | 初めて信州上田デジタルマップを使った時の感想は「自分の現在地が分かりにくい」だった。
d-commons.netでは、トップページである親サイトと特定のユーザーの成果物を閲覧できる子サイト(以下マイサイト)で分類されており、親サイトから登録されている記事を検索し、気になった投稿者の成果物をもっと見たい場合はマイサイトへ飛ぶ、というのが主な流れである。流れとしては分かりやすいものだが、まだ洗練されていない部分は幾つか存在し、分かりにくさや混乱を産んでいるように思える。
例えば、記事から投稿者名をクリックすると、別タブで投稿者のマイサイトが表示される。この動作はごく自然のものだが、問題は親サイトとマイサイトのUIやデザインが統一されており、区別がつきにくい事である。
これにより、マイサイトへジャンプ | 2022-12-09 |
73 | | 蚕の蛹:活用考察④ | この写真は生島足島神社です。
ここには池があり鯉や鴨が生息していて、餌やり体験が出来ますが、基本的に人工飼料です。
ここに蚕の蛹を練り込むことで、高タンパクである虫の栄養素を吸収させて肥大化を防いだり、自然素材である昆虫を使うことで過度な餌やりによる水質汚染が防止できる可能性があります。
綺麗な池の様子を保つことに一役買えるかもしれません。 | 2022-12-05 |
74 | | 蚕の蛹:活用考察② | この写真は私が産川にて捕獲したフナです。
産川にはこの他にもオイカワやウグイと言った魚が生息しており、彼らは水生昆虫や水面に落下してきた生き物を餌として捕食しています。
そこで、蚕の蛹をそのまま使ったり練り餌に混ぜたりすることによって、より自然に優しい釣り餌に出来るのでは無いかと考えました。 | 2022-12-05 |
75 | | ロマネット | 2022.12.04
諏訪湖近くの温泉ロマネット。
ローマ風呂という、形の丸い大きな温泉が真ん中にある。建物自体も丸く、西洋風の建物。
サウナ、水風呂、外気浴と温泉施設はしっかりとしていた。
まるでテルマエロマエの温泉に入っているような気分になった。 | 2022-12-04 |
76 | | 信州で養蚕が盛んなワケ | なぜ長野県で養蚕が盛んになったのだろうか。
蚕を育てるには桑の葉が必要だ。その桑を栽培するのに信州の山がちな土地は適していたのだ。日当たりがよく、水はけがよいという条件が揃っていたため桑の栽培が進み養蚕業の発展につながった。 | 2022-12-01 |
77 | | 上田の養蚕 | 他県よりずば抜けて養蚕が盛んだった長野県の中でも上田は特に養蚕業で栄えていた。
それは、千曲川の恩恵によるものである。上田盆地は桑の栽培に適していただけでなく、年間降水量が少ないことで蚕の飼育にも適していた。上田は、蚕の餌となる桑の栽培にも、蚕の生育にも適した土地であるという要素が重なって生まれた”蚕都”なのである。 | 2022-12-01 |
78 | | 蚕種上田④ 旧清水喜左衛門邸 | 今回は旧清水喜左衛門邸についてだ。
この住宅にも旧馬場藤四郎邸同様、瓦に家紋があり蔵もある。この近辺には家紋付きの家や蔵の県知育が多く見られ、改めて養蚕業による発展の規模を実感した。 | 2022-11-30 |
79 | | 養蚕に適した気候上田 | 上田は古くから養蚕業が栄えていました。かなり古い歴史を持つ上田の養蚕業は、世界に向けても、輸出され蚕の産地として名を轟かせました。上田は降水量が少なく、乾燥しているため、蚕が育てやすく、長野は傾斜地が多いため蚕の餌になる桑などを生育しやすいという有利になる利点がありました。具体的には、上田の年間の平均降水量は約900mmであり、日本の平均降水量は1718mmであり、上田は全国平均の約半分ほどであるということが分かります。また、傾斜か多いため果樹や桑を育てることに有利な条件である水はけが良いということもあり、上田は気候の面でも後押しされて養蚕業が栄えてた要因の一つは気候であると言えるでしょう。 | 2022-11-30 |
80 | | 木々と水の音が響く神聖な場所 | 今回は「別所温泉森林公園」や「別所氷沢の風穴」の近くにある、「三嶋神社」にきました!
木々に囲まれ、静かに流れる水の音を聞きながらの参拝。
とても身が締まる気持ちになりました。
日が陰っている時間帯でしたので、全体的に薄暗く、少し怖くもありました。
その厳かな雰囲気に圧倒されながらも、これぞ日本という感覚を直に受けることができた、良い経験となりました。 | 2022-11-30 |
81 | | 山道をのぼって見える景色 | 今回は別所温泉駅から車で山道をのぼり、「別所温泉森林公園」にきてみました!
かなりくねった山道でしたので、内心ヒヤヒヤしました。
車を運転する際は要注意ですね。
しかし車から降りて見えるのは絶景です。
到着時、ちょうど黄昏時でしたので水色や黄色、薄桃色のグラデーションがとてもきれいでした!そして寒い!(笑)
撮影時は11月の下旬でした。もうすぐ冬が近づいてくる季節です。
また森林公園には栗園もあります。今度は栗を楽しみにここに来たいですね!
(栗の写真は、足下に落ちていたので記念に撮ったものです!) | 2022-11-30 |
82 | | そばが有名なワケ | 長野県といえば信州そばというほどに、そばは長野県の代表的な郷土食です。
郷土食として根付いたのは、やはり各地でそばが栽培されてきたことにあります。
冷涼な気候や狭い土地など、米や小麦が栽培しづらい高冷地に適した農産物として育てられてきたのがそばでした。
そのはじまりを調べると、多く登場するのが山岳修験道の開祖で、奈良時代に活躍した役小角(えんのおづぬ)です。
役小角ら修行僧が携行食としていたそばの実を村人に伝え、栽培方法とともに広がったという伝説が各地に残ります。
昼夜の寒暖差が大きい長野県では、澱粉がしっかりと熟成したおいしいそばを育てることができます。
そばは、主にそば粉と水からつくられるものです。
そして茹であがったそばは冷えたたっぷりの水でぎゅっと締められます。
いま | 2022-11-30 |
83 | | 製糸業、紡績業跡地の活用 | 現在のアリオ上田店、サントミューぜ、上田警察署周辺の区画は鐘紡の紡績工場の跡地である。蚕糸業、紡績業の工場であった広大な土地は工場の廃止、撤退後の再開発事業で活用されている。アリオ上田の西隣にある積水ハウスの宅地開発分譲地「コモンステージ天神の杜」の西端は工場跡の区画のままの形のまま残っている点も興味深い。
2枚目資料: 上田市ホームページ『 コモンステージ天神の杜 』 建築協定
https://www.city.ueda.nagano.jp/uploaded/attachment/40476.pdf | 2022-11-30 |
84 | | 蚕糸業の衰退 | 上の資料から読み取れる通りピーク時日本の主要産業であった日本の蚕糸業は今や細々と続けられているもののみとなってしまった。
そこでその蚕糸業の、主要拠点であった上田市がその後どのような変革、転換を遂げたか調査してみることにした。
参考資料:蚕糸業をめぐる事情 農林水産省 令和4年7月 https://www.maff.go.jp/j/seisan/tokusan/attach/pdf/sannshi-3.pdf | 2022-11-30 |
85 | | 小島大池 | 全国ため池100選 小島大池
起源:1618年
貯水量:102000m^3 | 2022-11-30 |
86 | | 上原池 | 全国ため池100選 上原池
起源:1638年
貯水量:46300m^3 | 2022-11-30 |
87 | | 気候と養蚕業 | 上田市は年間降水量が1000mm未満であり、日本一晴れの日が多い街である。この気候は蚕の飼育に適しており、上田市は日本でも屈指の蚕の産地になった。 | 2022-11-30 |
88 | | ストーブ | 2022.11.29
蓼科高校に教育支援へ。
長野の学校は冬になるとストーブが設置されるらしい。今ではエアコンの設置も増えてきたみたいだが、蓼科高校では写真のようなストーブが。
雪国だなぁ、という感じがする。
上には桶に水が張ってありなんだろう?と思い聞いてみると加湿器の役割を果たしているらしい。ストーブの熱が桶に伝わり水が蒸発していた。
去年、徳島県の祖谷のかずら橋に行った時ストーブの上にやかんが置いてあったのを思い出す。お店のおばちゃんがそこからコップに麦茶を注ぎ出してくれた。麦茶の温度はちょうどよかったのを覚えている。 | 2022-11-29 |
89 | | 上塩尻まちあるき:北国街道 | 上塩尻の中心部である大村は北国改造に沿って集落が展開しています。上塩尻は千曲川に面し、洪水の常襲地でもありました。洪水に見舞われた集落が太郎山系の裾野に移ったとも伝えられています。城下町、宿場町、商業の町は全国の街道筋にはどこにでも見られますが、上塩尻の蚕種製造民家で構成される集落は極めてめずらしい。おそらく全国でここだけではないでしょうか。歴史的景観を備えた美しい町並みにも感心します。 | 2022-11-29 |
90 | | 上塩尻まちあるき:家々の庭 | 上塩尻まちあるきで訪問できた蚕種製造民家の家々に共通することは、立派な庭を備えていること。母屋は蚕種製造に適した蚕室を備えているため、大きく細長い構造をしている点に特色があります。その前面には庭があり、母屋の構造に沿う形で細長く庭が広がっています。馬場小路の旧馬場邸、清水卓爾邸は共に屋敷の構造が特に類似していました。もう一つの特色は庭の手入れが行き届いていること。庭木の剪定など庭の維持には手間がかかります。こうした庭を備え、かつその手入れが行き届いた姿の庭にすることがその屋敷のステータスでもあるこの地域の文化ではないかと思います。 | 2022-11-29 |
91 | | 蚕種の里「上塩尻まちあるき」実施 | 11/26(土)、藤本蚕業プロジェクト主催による「蚕種の里『上塩尻』まちあるき」を実施しました。上塩尻のまちあるきはこれまで何度となく実施してきました。今回のまちあるきは「佐藤家住宅(三ツ引)」が国登録有形文化財に登録されて実質的に最初のまちあるきです。地元上塩尻の住民の方々を交えて参加者それぞれが途中途中解説をしながら、または参加者どうしで対話をしながら上塩尻をめぐりました。
13:00、藤本蚕業歴史館前に集合し、佐藤家住宅(三ツ引)、旧佐藤宗家の蚕室、旧佐藤宗家の屋敷跡、旧馬場邸(現原邸)、清水卓爾氏邸、清水邸(加賀の殿様が使った雪隠)などをめぐりました。いつものことながらまちあるきはまったり、道草くいのイベントともなり、この日も例外にもれず。地元の方々も改めて地元の歴史を感じられた様子でした。 | 2022-11-29 |
92 | | 上田蚕種協業組合 | 養蚕が盛んだった上田盆地は、千曲川とその支流が作る扇状地や河岸段丘が発達し、桑の栽培適地であった。年間降水量が少ないことも蚕の飼育に適していたため、上田盆地は春蚕の産地であった。 | 2022-11-28 |
93 | | 蚕神の像「繭の女神」 | 中村直人さんから贈られ、正面の水飲み場の上に飾られたのが、蚕神の像です。蚕都上田の残像によせる上田・小県地方の人々の心を現したのが、手に繭を捧げる、この女神だったのでした。 | 2022-11-24 |
94 | | 上田の蚕種業の歴史 | いつから始まったのか、上田の特徴を踏まえて蚕種業の歴史をとらえていきたいと思います。
江戸時代の末期から昭和にかけて、長野県の経済を支えたのが蚕糸業です。養蚕が盛んだった上田盆地は、千曲川とその支流が作る扇状地や河岸段丘が発達し、桑の栽培適地でした。また、年間降水量が1000㎜未満という気候は蚕の飼育に適しており長野県内でも上田盆地は春蚕の産地でした。また、松本盆地では夏秋蚕を中心として発展してきた地域であり、いつも対比されていました。こうした傾向は養蚕飼育技術が改良される明治末期まで続きました。 | 2022-11-22 |
95 | | 上田で養蚕はなぜ始まったのか。 | 養蚕のこれからを考えていくとき、過去を振り返ることはとても大切なことです。今回では上田で養蚕がどのようにして始まっていったのかを振り返ります。
年間降水量が1000ミリ以下の上田地域は長野県内でもとりわけ蚕の飼育に適しています。全国的にみてもこれほど降水量が少ない土地はそうありません。養蚕業をするには輸出がしやすい海辺の方がコストがかかりませんが、どうしても降水量は多くなります。
そういった理由も一部あり長野が養蚕の名産になったのです。
また、上田の養蚕の始まりは寛文の時代に藤本善右衛門家によってはじめられたとされています。 | 2022-11-18 |
96 | | 今治タオル | 2022/02/25
愛媛県今治市へ。
急にどこの紹介をしているんだと思われそうだが、日付を見てほしい。これから、投稿する写真は春休みに四国、中国地方を回った思い出。日付もバラバラだが、思い出しながら書いていく。
この今治タオルカフェは非常にシンプルなデザインで良い空間だった。ここでは、今治タオルを使用したヘアバンドを2つ購入。(母と妹に)
値段は2000円弱だった気がする。
今治タオルは説明不要かもしれないが今治タオル工業組合が製造するタオルのことで実は1つのメーカーというわけではない。認定されると今治タオルブランド認定され有名な赤・白・青のタグがつく。
ちなみに私の使っているタオルは今治タオルと佐賀県のタオル美術館のものである。2つとも吸水性が非常に高く肌触りもよい。おすすめ。 | 2022-11-18 |
97 | | 夜の松本城 | 夜に松本市へ。
夕方に来ることはよくあるが、夜に松本城に来たのは初めて。昼に比べて、城が水面に綺麗に写っている。
周りにある光も昼より存在感があり非常に綺麗。
2枚目の写真の赤い男の正体は自分。
昔、夜の善光寺という投稿をあげたがそれ以来の夜シリーズ。
長野市の「夜の善光寺」松本の「夜の松本城」次は「夜の」何にしよう?
それを探すだけで気分の沈みがちな夜が明るくなるかも。 | 2022-11-17 |
98 | | 蚕種の里「上塩尻」まちあるきで再発見2022/11/26(藤本蚕業プロジェクト主催)=終了 | 上塩尻の蚕種製造民家、街並み、猫瓦(それ何?)などをめぐる見学会です。
令和4年度長野県地域発元気づくり支援金事業「藤本蚕業資源活用事業」
蚕種の里上塩尻をまちあるき、古建築と景観の保全活用についても意見交換
日本一の蚕種製造の中心地だった上塩尻の街並みや建物を探訪します。当日は建築史学のモリス先生を交え、古建築・景観の保全活用について地元の皆様とも意見交換します。
【日時】2022年11月26日(土)
・まちあるき 13:00~15:00 雨天決行
・意見交換会 15:15~17:15(塩尻地区公民館)
【場所】藤本蚕業歴史館に集合(長野県上田市上塩尻 248)駐車場あり
【主催】藤本蚕業プロジェクト
【協力】西部地域まちづくりの会 自然・生活環境部会、上塩尻自治会、上塩尻今昔の会
【定員】・まちあるき 3 | 2022-11-14 |
99 | | 佐藤家住宅等見学会2022/10/29(藤本蚕業プロジェクト主催)[終了] | 令和4年度長野県地域発元気づくり支援金事業「藤本蚕業資源活用事業」
佐藤家住宅・旧佐藤宗家/藤本蚕業歴史館見学会
蚕種の里とも呼ばれた上田市上塩尻に残る全国的にも希少な蚕種製造施設/蚕種製造民家を見学し、建物に触れながら建築上の特色や歴史的背景などを学び、地域づくりに活かしていきます。見学会の様子をデジタルアーカイブ化し、全国に向けても情報発信する機会とします。
【見学内容】佐藤家住宅(三ツ引)(2021年国登録有形文化財登録)、旧佐藤宗家(蚕室2
棟と邸宅跡)、藤本蚕業歴史館(旧藤本蚕業社屋)を見学。藤本蚕業歴史館展示室を事前開放。
【日時】2022 年 10 月 29 日(土) 14:00~16:00 雨天決行 (歴史館の事前見学 13:00~)
【場所】藤本蚕業歴史館に集合(長野県上田市上塩尻 248)駐車場あり
【主催】藤本蚕業プロジェ | 2022-11-14 |
100 | | キモノマルシェ -まちなかキャンパス展示様子- | こちらの写真は、海野町商店街で行われた「キモノマルシェ」の展示の様子です。
日時:10月23日(日)10:00~16:00
場所:まちなかキャンパス
内容:1.和裁講座 ちくちく半衿付け
講師 きものニスト工房 清水寛美さん
2.信州の蚕都
企画展示 上田と小諸をピックアップ
3.海野町商店街今昔展示
4.ミニレクチャー
・海野町商店街今昔 長野大学企業情報学部学生
・上田(藤本蚕業) 長野大学 前川教授
・小諸 きものニスト工房 清水寛美さん
多くの方に来場して頂きました。
ありがとうございました。
| 2022-11-08 |