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1桔梗ヶ原〔信州の浮世絵〕桔梗ヶ原〔信州の浮世絵〕江戸時代の浮世絵師、二代歌川広重による錦絵の揃物「諸国名所百景」の一つ。 初代広重の門人で、師の亡き後その画風を継承した二代広重が、安政6年(1859)から文久元年(1861)にかけて制作した。版元は、初代広重晩年の作「名所江戸百景」を出版した魚屋栄吉。「桔梗の原」は天文年間(1532~55)に武田信玄と小笠原長時が相対した合戦場で、左にある「勘助子そだての松」は、合戦の最中に山本勘助が乳児を救い、その根元に置いて戦の後に戻ったところ、松の葉から落ちる雫を母親の乳房から出る乳のように口に含んでいたという伝説がある。その後、中山道の一里塚が築かれた。江戸日本橋の基点から59番目、江戸へ55里、京へ85里の道標で、塩尻市宗賀平出には、道を挟んだもう一方の塚が松の木とともに残されており、現存する数少ない一対2023-02-01
2信州そば信州そば長野県と言えば「信州そば」と言われるほど有名な郷土料理。時期を問わず食べられているが、そばは年二回の収穫時期があり、収穫仕立ての新そばが美味しいと言われている。信州の新そばは一般的に10月中旬から11月上旬に出回る。 引用元https://d-commons.net/uedagaku?c=&p=115812023-02-01
3木曽の雪〔信州の浮世絵〕木曽の雪〔信州の浮世絵〕江戸時代の浮世絵師、二代歌川広重による錦絵の揃物「諸国名所百景」の一つ。 初代広重の門人で、師の亡き後その画風を継承した二代広重が、安政6年(1859)から文久元年(1861)にかけて制作した。版元は、初代広重晩年の作「名所江戸百景」を出版した魚屋栄吉。 図は、雪に覆われた木曽谷を描いたもの。切り立った斜面の細道を、蓑笠を着け荷を掲げて行く姿がある。当時の木曽路は、中山道の中でも峠道が多く、難所続きだった。川沿いの切り立った断崖に、棚のように張り出して造った道「木曽の桟(かけはし)」も難所の一つとして知られた。丸木の柱に、横に板を並べた簡易な造りだったが正保4年(1647)に通行人の松明の火が落ちて焼失。後に石垣を築いて再建され、現在は国道の下に石垣の一部が保存されている。松尾芭蕉が「更級紀2023-02-01
4戸隠山九頭龍大権現〔信州の浮世絵〕戸隠山九頭龍大権現〔信州の浮世絵〕江戸時代の浮世絵師、二代歌川広重による錦絵の揃物「諸国名所百景」の一つ。 初代広重の門人で、師の亡き後その画風を継承した二代広重が、安政6年(1859)から文久元年(1861)にかけて制作した。版元は、初代広重晩年の作「名所江戸百景」を出版した魚屋栄吉。徳川家の手厚い保護を受け、戸隠山顕光寺として信仰を集めた神仏混合の時代を描く。九頭龍大権現(現在の九頭龍社)の右に奥院(奥社)、江戸末期の狩野派絵師河鍋暁斎作の「龍の天井絵」がある中院(中社)、右下の石階段の先が宝光院(宝光社)とみられる。参道には杉木立の合間に院坊が立ち並び、参拝者や商人らが行き交う門前町として栄えた当時の様子を描いている。九頭龍社は古くから地主神として祀られてきた。 水の神、雨乞いの神、虫歯の神、縁結びの神として信仰を2023-02-01
5別所温泉駅周辺の聖地別所温泉駅周辺の聖地最後に別所温泉駅周辺のロケ地! 「別所温泉駅」で撮影が行われたり、舞台となった作品は以下の通りです。 ・「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」(1976) ・「ROUND1」(2003) ・「君のままで」(2003) ・「いくつもの、ひとりの朝」(2006) ・「呪われたパワースポット」(2011) ・「シグナル~月曜日のルカ~」(2012) ・「時代屋の女房」(2006) ・「鉄道むすめ~Girls Be ambitious!~ 上田電鉄・別所温泉駅駅長 八木沢まい」(2008) ・「赤い糸の女」(2012) などがあります。 写真は「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」での実際のワンシーンです。上田電鉄 別所線 別所温泉駅とその周辺が映っています。現在は手前の木造の建物は確認できませんでしたが、駅舎はそっくりそのまま残っています。寅さんも上田を訪れていたんですね~。 https://2023-02-01
6善光寺道久須里山〔信州の浮世絵〕善光寺道久須里山〔信州の浮世絵〕江戸時代の浮世絵師、二代歌川広重による錦絵の揃物「諸国名所百景」の一つ。 初代広重の門人で、師の亡き後その画風を継承した二代広重が、安政6年(1859)から文久元年(1861)にかけて制作した。版元は、初代広重晩年の作「名所江戸百景」を出版した魚屋栄吉。「久須里山」は善光寺の北、長野市浅川にある薬山。この中腹の断崖絶壁に大同2年(807)に懸崖造りの薬師堂が創建された。絶壁から迫り出した部分は支える柱もなく、ぶらぶらと揺れることから「ぶらん堂」と呼ばれ、現在の呼称「ブランド薬師」となったとされる。弘化4年(1847)の善光寺地震で崩落したが、文久元年(1861)に再建された。 URL:https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03CP1443040000 施設名:長野県立歴史館 参考資料先:信州デジタルコモンズ2023-02-01
7別所線で巡る上田市ロケ地MAP別所線で巡る上田市ロケ地MAP映画やテレビドラマなどの映像作品のロケ地となった上田市のスポットを探求する。特に、上田電鉄別所線の駅から徒歩圏内の場所を紹介し、観光客や車を持たない地元の人も訪れることが出来る場所を紹介する。2023-02-01
81997年の上田駅 新幹線開通に向けて1997年の上田駅 新幹線開通に向けて今回は1997年6月、新幹線開通に向けて改装工事中の上田駅を見ていく 画像は前回と同じく「さいきの駅舎訪問様(http://ekisya.net/A-GENEKI/160-SINETU/161-UEDA.html)」より引用する 1997年、長野駅高崎駅間が開通された それに際し、上田駅は駅舎を改築、現在の上田駅駅舎の形へと変化を遂げた。2023-02-01
91909年の上田の気候1909年の上田の気候長野地方測候所の記録によると、1909年の上田(小県郡上田町)の最高気温は7月18日の35.2度、最低気温は1月2日のマイナス13.7度だったことが分かる。これは1910年の記録とほとんど変わらない。 ただ最大積雪量を記録したのは3月23日の六寸(約18センチ)であり、翌年の1910年の記録よりかなり少なかった。2023-02-01
10雪の国から雪の国からこの記事に登場するスキー場は長野県内ではなく妙高高原にあるようですが、長野では昔からスキーが盛んだったことや除雪の苦労が読み取れます。2023-02-01
111950年の上田駅1950年の上田駅こちらは1950年の上田駅の様子だ (さいきの駅舎訪問より引用  http://ekisya.net/A-GENEKI/160-SINETU/161-UEDA.html) 1950年11月に上田駅は改築されたようで土産物屋のある観光指向の強い駅舎であるということが窺える。2023-02-01
12昭和48年の広報うえだのキッチンダイヤル昭和48年の広報うえだのキッチンダイヤル昭和48年広報うえだのキッチンダイヤルの献立だ。 28日にすきやきうどんとある。 https://museum.umic.jp/iiif/pdf/ueda-kohoS480416.pdf2023-02-01
13万葉集の歌碑万葉集の歌碑別所温泉のおかげで信州を訪れる人が増え、信州の景色は万葉集にも読まれている。 https://www.jalan.net/travel-journal/000085102/2023-02-01
14恩田緑蔭(おくだりょくいん)恩田緑蔭(おくだりょくいん)文政2年松代生まれ。本名はゆり。桜雲亭緑蔭、桂月由里などとも称した。松代藩絵師の山田島寅や青木雪卿に師事、葛飾北斎や与謝蕪村にも私淑して作品を模写している。花鳥図や松代の風景、藩にゆかりのある人々の肖像を描いた。平成17年、長野市の水野美術館で「恩田緑蔭展~知られざる信州の元祖女流画家~」が開催された。明治7年、55歳で死去した。 ※図は「写生集壱」 https://yuagariart.com/uag/nagano09/2023-02-01
15現代の名刺現代の名刺現代の名刺は、名前、会社名、役職、住所、連絡先等、今まで紹介した名刺と比べて多くの内容が載っている。 また、左には青色のデザイン装飾があり、こういったデザインによってその人や会社の雰囲気を伝える事ができる。 紙質やその他加工も様々な種類があり、一人ひとりがこだわりの名刺を作ることができる。 現代の名刺は主に、自己紹介ツールとして使われている。また、信頼度は低いが身分証明にも使うことができる。 ビジネス名刺の無料デザインテンプレートver.11 (4色展開) | デザイン作成依頼はASOBOAD | フリーDL素材, 無料名刺・カードデザインテンプレート https://asobo-design.com/nex/template-92-42871.html ・まとめ 明治時代と現代の名刺を比較することで、明治時代の時代背景や、文化が読み取れたように思った。 しかし、今回考えたこと2023-02-01
16上田紬の現在上田紬の現在これまで上田紬の歴史を振り返ってきたのですが、最後に現在の在り方についてまとめたいと思います。 現在着物市場は、ピーク時の6分の1となっており、織元も10分の1以下まで縮小しました。 そんな今でも小岩井紬工房さんを筆頭に、上田紬の伝統は受け継がれています。着物としての在り方以外にも、ポーチや財布、イヤリングなど現代の様式に合わせて様々な在り方に変わってきています。オンラインショップも導入しており、全国各地に速攻で届くようになっています。また、地域の学生と共同で上田紬のイベント開催も行っているようです。 今回の活動を振り返ると、上田紬を歴史的に見ると、時代の背景に準ずるように繁栄したり衰退している様子がとても興味深かったです。。しかし、現在は時代の流れに関係なくとも衰退の一途を辿っ2023-02-01
171970年の上田駅1970年の上田駅上田駅の開業は別所線開業の更に昔 1888年である。 添付画像は1970年頃の上田駅の様子だ。 (地方私鉄1960年代の回想より引用  https://umemado.blogspot.com/2019/06/blog-post_28.html ) 現在の上田駅とは駅舎の雰囲気含め、大きく違う事が窺えるだろう。 次の記事では更に過去に遡り、1950年代の上田駅を見ていこうと思う。2023-02-01
18sakumo 佐久市子ども未来館sakumo 佐久市子ども未来館岩村田駅から徒歩10分ほど行くとある佐久市子ども未来館は、ただコミュニケーションを取ったり、遊ぶだけではなく1つの遊具でもワンパターンの遊び方ではなく、多種多様な遊び方があり、それを説明ではなく実践から学ぶ事ができ、先人達の知恵や知識を自然と吸収する事が出来る施設ではないかと思います。 参考文献 http://kodomomiraikan.jp/2023-02-01
19別所線開通別所線開通私達が普段使う別所線 かつて上田盆地には全長57.2kmもの鉄道が張り巡らされており、別所線以外にも営業が行われていた。 現在上田盆地を走る鉄道は、1921年に開通した別所線11.6kmを残すのみである。 別所温泉駅は1921年に温泉客の交通手段として開通 当初は川西線としての開通であった。 その後1924年に川西線から別所線に改名されている。2023-02-01
20サントミューゼサントミューゼ上田市には上田市交流文化センター「サントミューゼ」がある。サントミューゼという名前は「蚕都(さんと)」に由来する。立派な大ホールでは、しばしばミュージカル、演劇など様々な芸術を鑑賞することができるので、興味を持った方がいたらぜひ足を運んでほしい。 参考サイト:みんなでつくる信州上田デジタルマップ ▼この資料は以下から参照できます yin「市民の交流の場 サントミューゼ」 https://d-commons.net/uedagaku?c=&p=11229 (2023/01/27) 以上のことから、上田と養蚕は切っても切れない関係であることがわかった。上田市の発展は、養蚕の発展によるものと言っても過言ではない。また、養蚕と演劇にも関係があることがわかった。演劇は、リアルに、生で感情や想いを伝えられる・受けとれる手段であり、養蚕の歴史を残すための手2023-01-27
21そばは手打ち…うどんは?そばは手打ち…うどんは?上田市の観光課があげている、別所温泉の写真だ。実際に行って見ないと、今もこうなっているのかは、分からない。しかし、写真を見る限り、古い記事ではないのであろう。 https://museum.umic.jp/johogura/bessho/2691013/2691013.html2023-02-01
22安江仙政の名刺安江仙政の名刺明治時代の新竹縣税務官、安江仙政の名刺である。 (新竹縣=台湾の北西部に位置する県) 中村利貞のものと同じ明治時代の名刺であるが、安江氏の名刺の方が印刷技術が上回っているように見える。 文字がはっきりしており、現代の名刺のような美しい文字配置がされている。 印刷技術がかなり違うのは位や環境の違いからだろうか。 佐賀県立図書館データベース- 古文書・古記録・古典籍データベース https://www.sagalibdb.jp/komonjo/detail/?id=493632023-02-01
23上田は暖地?上田は暖地?1896年に東京で発行された「信濃地理 生徒用」には上田は飯田に次ぐ暖地で追分(現在の軽井沢辺り)は信濃で一番の寒冷地であるという記述がある。 県内でも上田が暖地とは到底思えないのだが、なぜこのような書き方をされたのだろうか。2023-02-01
24まとめまとめ今回の「上田市と太郎山」のキュレーションで分かったことは、太郎山は上田市民と文化的に密接に関わっていたということだ。 今も昔も変わらず上田の地を上から見下ろす太郎山は、上田に住む人々にとって信仰の対象であったり、故郷の思い出として残るものであったりと、様々な形で上田市民の中にあることだろう。 私も去年一度登ったことがあるがとても登りやすく初心者にもおすすめで、山頂からは上田市が一望できる最高の山なので、是非一度登ってみてはいかがだろうか。 https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_008_08432023-02-01
25上田映劇の歴史上田映劇の歴史1917年に建てられたのが上田映劇の前身「上田劇場」です。当時一階には桟敷(さじき)と花道があり、回り舞台仕様歌舞伎座と同じような作りをしていました。長い歴史の中でDVDプレーヤーの普及などから客足が遠のき一度定期上演を終了するも、 2014年5月 上田映劇をメイン舞台とした「晴天の霹靂」が上映される。そして 2016年12月「映画の街上田」のシンボルとして再起動させていくために「上田映劇再起動プロジェクト」が開始され、 2017年4月 「上田映劇再起動準備会」として定期上演を再開した今もなお地元のひとの愛のおかげでシンボルとして立っているのだと感じた。2023-02-01
26太郎山とハリー・K・シゲタ太郎山とハリー・K・シゲタ写真は国際的商業写真家として活躍した写真家、上田出身のハリー・K・シゲタが撮影した、千曲川と太郎山の写真「上田橋より太郎山を望む」である。 昔から現在まで変わらず太郎山は上田市民と密接に関係しているものだと分かる。 https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_008_06442023-02-01
27こね鉢こね鉢上田博物館の資料である。 そば、うどん、団子などを作るときに、粉に水分を加えて、粘りけを出すためにこねるが、このときに用いる鉢。これは木をえぐった鉢だそうだ。 この時点では、まだ、そば一筋ではなく、うどんが生きている。 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/collection/item/0111.html2023-02-01
28上田紬の歴史<復活>上田紬の歴史<復活>主に世界大恐慌により衰退した上田紬ですが、1945年頃の社会全体として終戦後の文化復興の動きに準じて、復活する動きが始まりました。 また、その動きに加え、高度成長期を機に、着物ブームが到来し、上田紬を作る織元が50軒ほどに増加しました。当時はまだ、地方では着物を着る文化が残っていたため、需要が多くありました。 その後は、1980年代のバブル景気時がピークとなり、バブル崩壊や洋服形態の変化などにより、需要が減っていきました。2023-02-01
29昆虫体験学習館昆虫体験学習館佐久平パーキングエリア周辺にある昆虫体験学習館は、私が小学校時代に、社会見学の一環として訪れた場所でもあるのですが、この場所に行くだけで日本の昆虫だけでなく世界の昆虫について、知る事ができ実際に観賞する事が出来ます。そして、見るだけでなく触ることやクラフト体験も出来るため、訪れた後も頭の中に記憶として残りやすく、昔から現代までの多様な昆虫を知れる場所です。 参考文献 http://saku-konchuukan.jp/2023-02-01
30太郎山と上田のイベント太郎山と上田のイベント上田市民はイベントとしてこの太郎山を登るという事もある。 上田市政70周年記念として行われたのは、れん台に乗った女性を担いで、太郎山一番のりを目指す「めざせ十勇士’89戦国ラリー」である。 30チームが参加し、黄金沢の不動滝から太郎山の大鳥居まで裏参道を登って順位を競った。 https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_008_07512023-02-01
31そばだけではない!うどんの道具そばだけではない!うどんの道具長野県の特産品といえば、りんご、野沢菜、そば…などなど色々なものが挙げられる。だが、私は、そばより、うどんのほうが好きだ。せっかく、有名なそばがあるというのに、もったいないことをしているという自覚はある。しかし、うどんが好きだ。というわけで、うどんについて、長野県は、何かないかと、ジャパンサーチにて、調べてみた。すると、あった....!!! https://jpsearch.go.jp/item/nme_mocat-H00251132023-02-01
32太郎山神社(2)太郎山神社(2)神社拝殿の登り口左側に、明治35年再建の入母屋瓦葺の二間四方板床の神楽殿があって、五月初めの春の例祭には東麓の山口の人たちによって、ここで太々神楽が奉納される。太々神楽というのは、神職が願主に代わって捧げる舞で、第二次大戦後は山口出生の男子を中心に、継承の責任を担っている。 https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_001_2512023-02-01
33上田紬の歴史<衰退>上田紬の歴史<衰退>前回の投稿で繁栄した上田紬はその後衰退していきました。今回はその背景をまとめます。 盛んだった上田紬は、明治維新後に絹糸の輸出が盛んに行われるようになり、生産量が減り始めました。 その後は1930年代に世界大恐慌があり、糸代の大暴落によって蚕種業が壊滅的な状況になり、戦争が始まってからは衰退の一途を辿りました。2023-02-01
34支払い手形と名刺支払い手形と名刺「揚荷手形 通人馬会所」と書かれた封筒に入っていた、名刺と、手形である。 『なかに木版刷りの未使用の預かり手形が数枚と、中村六左衛門ら3人の名を書いた名刺が数枚入っている。幕末の金沢藩の通し人馬の賃銭の支払い手形である。中村六左衛門ら3人は、金沢藩の参勤交代の通し人馬を請け負っていた。』(覚(預切手記入用紙) | 信州デジタルコモンズ https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02OD5160890000) 3人分の名前を一枚の紙に書いてあることから、紙が貴重だったのか、一人ひとりが名刺を用意する習慣がなかったのか、この時代の名刺は紙と筆さえあれば直ぐにできてしまうものだったのか、など様々な想像ができる。 また、この名刺は連絡などのために必要だったとされている。その割には住所などの情報が全く載っていないので、この2023-02-01
35蚕業膝栗毛 第1編②蚕業膝栗毛 第1編②本文は、このように全部の漢字にフリガナがふってあるため読みやすいものになっている。 蚕業膝栗毛第壱編・第弐編は、藤本蚕業資料目録には掲載されていたので、今後藤本蚕業アーカイブにも掲載されたら詳しく見てみたい。 参考サイト:信州デジタルコモンズ ▼この資料は以下から参照できます 「蚕業膝栗毛 第1編」 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02BK0102151032 (2023/1/27閲覧)2023-01-27
36蚕業膝栗毛 第1編①蚕業膝栗毛 第1編①これは、明治29年2月に発行された、蚕業をテーマにした小説である。蚕業の質を高める為の講演会などの際に一緒に戯演されたものの書籍版、もしくは講演会で販売されたものだと考えられている。東海道中膝栗毛を捩っており、登場人物は主人公とその幼馴染。物語は、蚕業で成功した主人公が大失敗して財産がなくなったところから始まる。主人公は幼馴染を誘って、蚕業の知識を生かした蚕業大演説会を開催した。これがある程度うまくいったことが発端となり、蚕業改革の一端として日本蚕業倶楽部の設立を考える。その設立資金を蚕業演劇で稼ぎ、蚕業視察のために全国漫遊に出るという内容だ。 参考サイト:信州デジタルコモンズ ▼この資料は以下から参照できます 「蚕業膝栗毛 第1編」 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02BK0102151032 2023-01-27
37鯉のうま煮鯉のうま煮佐久といえば、佐久鯉。ですが、鯉といっても色々な料理のレパートリーがあります。(鯉の塩焼き、鯉丼、あらいなど)その中でも、私は鯉のうま煮(私自身が1番好きな鯉料理なので!笑)を紹介します。鯉の輪切りを、濃い口醤油、酒、砂糖でじっくりと強火でアクを取ながら煮込みます。煮立ったら中火にして落とし蓋をし、みりんを加えて1時間ほど煮汁をかけながら愛情を込めて煮ると、汁があめ状になり照りが出て美味しく仕上がります。食べた瞬間にふわっと広がる甘みと鯉の旨みを同時に味わう事が出来るので、是非皆さんも作ってみてください。 参考文献 http://www.sakukankou.jp/food/saku-carp/2023-02-01
38鮭の粕煮鮭の粕煮魚は神事や祭りの供え物として欠かせないもので、「サケ」は祝い料理として食べられている。サケが歳取り魚として用いられ、塩サケを使った「鮭の粕煮」は、東信地域(佐久市も含む)の主にお正月には欠かせない料理となっている。私の実家でも、おせち料理に加えて必ず出てくるのが「鮭の粕煮」である。地域によって、ブリの場所もあるそうでそのことについても調べる中で初めて知る事が出来ました。 参考文献 https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/type/soup.html2023-02-01
39上田紬の歴史<繁栄>上田紬の歴史<繁栄>今回は上田紬がいつどうやって繁栄していったのかをまとめました。 上田紬は400年ほど前に戦国武将の1人して名高い真田昌幸が上田城が築いた時に、地場産業として奨励された真田家が麻つくった「真田織」が元になっています。 その後、上田地域の気候や風土が向いていたということもあり、蚕種業や養蚕業が盛んに行われ、現在の上田紬が形成され、江戸中期には京都や江戸の多くの人々に愛用され、日本三大紬の1つとなりました。2023-02-01
40鹿教湯温泉の歴史と五台橋鹿教湯温泉の歴史と五台橋鹿教湯温泉は20件ほどの宿泊施設が立ち並ぶ山間の温泉地です。上田市と松本市の間にあり、環境庁選定国民保養地として認定されています。そのため、健康の郷としても有名です。そのため、散策をしながら自然の癒しを感じることもできます。 鹿教湯温泉の歴史の始まりは地名がついた由来にも関連しています。漁師から矢傷を受けた鹿が温泉の場所を教えてくれたことから温泉地としての歴史をスタートし、1200年の長い歴史を誇ります。 湯量は非常に多く、20件ほどの温泉施設では24時間かけ流しの施設も。源泉の温度は46℃ほど。また、色は無色・透明。泉質は弱アルカリ性低張性高温泉となっており、高血圧、脳卒中の後遺症、疲労回復に対して効能があります。 また、写真は鹿教湯温泉の付近にある文殊堂へとつながる橋である五台橋の画像2023-02-01
41終わりに終わりに西塩田時報を読み進めていく中で、自分のテーマと関係のない面白い記事がいくつかあり、探求に時間がかかってしまった。 戦前の記事からは、まず「食」に関する記事を探すことが難しく、記事があっても、材料の栽培方法や保存方法について書かれていることが多いという印象を受けた。 戦後の記事からは、たくさんの「食」に関する記事を見つけることができ「家庭メモ」や「季節の料理」のような記事が多い印象を受けた。その中には現代でも食べられているメニューやレシピがあったが、食材の違いや、栄養素の偏りといった面で、現在とは大きく異なっていた。 戦前と戦後の記事から、戦前は材料の栽培保存、戦後はレシピや栄養素について書かれていることが多いと感じた。 このことから戦後は戦前に比べ、他国の食文化が普及したり、2023-02-01
42あたたかい冬の料理の作り方あたたかい冬の料理の作り方大豆シチュー、カレーポテト、南瓜うどんのレシピが書かれている。シチューにサケ、肉の代わりにイナゴなど現代では考えられない食材が組み合わせられている。2023-02-01
43ビタミンの話ビタミンの話ビタミンは必要不可欠な栄養素であり、一概にビタミンといっても様々な種類が存在している。下の表には、そのビタミンの種類と、それを摂取することのできる、食材が書かれている。2023-02-01
44青木雪卿(あおきせっけい)青木雪卿(あおきせっけい)現在の長野市松代町岩野に生まれる。通称八重八、号を雪卿とした。川中島の更級雄斎 に絵を学んだとされる。松代城の障壁画を描き、多くの肖像画を描いたと伝えられる。 弘化 4 年(1847)に起こった善光寺地震後の被災地を、8代藩主真田幸貫の巡行どお りに描いた『感応公丁未震災後封内巡視図』は、被災地を写実的に描いた彼の代表作であり、災害史の重要な記録である。パノラマ写真のような眺望図や、実景を尊重する極めて 写実的な表現は、写真の影響を想像させるような、新しい表現が見られる。 https://nagano-citypromotion.com/learning/person.html https://www.sonpo.or.jp/report/publish/bousai/yobou_jihou/pdf/ybja_ez/ybja-ez-174.pdf ※図は『感応公丁未震災後封内巡視図』の一部である。2023-02-01
45飯島保作(花月)(いいじまほさく(かげつ))飯島保作(花月)(いいじまほさく(かげつ))飯島保作は、文久3年(1863)に飯島家の長男として横町に生まれました。明治6年(1873)上田街学校に入学し、明治10年(1877)に上等小学校全科を卒業しました。上田街学校の教員補助の職は、天皇の御巡幸が終わった後退職し、家業(質屋)に従事しました。  自らが作成した年賦には「家業のかたわら独学」とあります。向学心旺盛な青年で、この向学心が実業家飯島保作を生み、このころから雑誌に狂歌、川柳等々の投稿を始め、後の上田地方の庶民文学のリーダーとしての文学上の資質を開花させたのです。  保作は、上田商工会議所会頭、第十九銀行の頭取を歴任して生涯を閉じた上田を代表する傑出けっしゅつした実業家でした。明治15年(1882)10月、上田郵便局に採用され、最初の職業の第一歩を踏み出し、2023-02-01
46西塩田時報から学ぶライフハック②西塩田時報から学ぶライフハック② 西塩田公報には『家庭メモ』というコラムがあり、生活に役立つコツやレシピなどを紹介している。  ここでは私が気になった記事を紹介していく。 ~この記事で知ることができるライフハック一覧~ ・壁についたインクや墨汚れを落とすには白布に食酢を二倍に薄めたものをぬらして拭く ・手についた魚臭さはミカンの皮を茹で、その煙を手に当てると匂いは消える ・鼻が詰まるとき、洗ったドクダミの葉を塩でもみ、細かく刻んだものを鼻の中に入れる。30分から1時間ほど待機×3回ほど行うと鼻詰まりが解消される。  薬が簡単に手に入らない時代だと思うので、こういった身近な植物を使った治療法が良く記載されています。  現代でもこの知識は活用され、薬という風に形を変えて存在しているものも数多くあります。昔の人の知識2023-02-01
47西塩田公報から学ぶライフハック①西塩田公報から学ぶライフハック① 西塩田公報には『家庭メモ』というコラムがあり、生活に役立つコツやレシピなどを紹介している。  ここでは私が気になった記事を紹介していく。 ~この記事で知ることができるライフハック一覧~ ・サビた包丁には大根の切り口に歯磨き粉をつけて磨く ・おでき(ニキビ?)には患部に直接ゴボウの葉を当てて縛っておくと膿が抜ける ・新品の歯ブラシを使う前に熱い塩水に水が冷めるまでつけておき、しっかりと乾かしてから使うと二倍長持ち ・味付けをする際、塩は砂糖よりも材料にしみこむ速度が速いため、砂糖は先に使うこと  現代では用途によってさまざまな洗剤や掃除用具が存在 していますが、この記事掲載時(昭和28年4月5日)にはまだそういったものはなく、知恵を用いて生活をしていたことがうかがえます。  また、2023-02-01
48信州の自然と人、47年前と今信州の自然と人、47年前と今昭和51年(現在2023年から47年前)に長野県が制作した、信州の自然と人の暮らしとの関わりを記録した映像です。 白馬三山の雪形、山の信仰、水質・大気汚染、自然観察会などをまとめており、2023年の現在と比較検証し、変っていない点と変わっていった点を考察していく。 仮説として、現在と47年前で変わっていない点は普遍的な部分で今後も変わらないのではないかと推測する。 URL:https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03FS00000001322023-02-01
49笹沢檪亭 (ささざわれきてい)笹沢檪亭 (ささざわれきてい)檪亭は、安政2年(1855)、小県郡坂井村(現上田市塩川)に生まれ、本名を清十といい、幼い頃より画才に富み、花鳥画を描いては村人を感嘆させたといいます。早くに父を亡くし苦労して育ちますが、母の理解もあって、明治6年(1873)、18歳の折に島田桃渓とうけいに師事して絵の指導を受けたのを手始めに、明治18年(1885)、29歳の時には、水戸の木下華圃かほに師事。この頃から専業画家としての道を歩むことを真剣に考え始めたものと思われます。  明治19年(1866)、31歳の折には終生の師となる児玉果亭に入門を許され、果亭より檪亭の雅号を受けました。この檪亭が入門した明治19年は、第2回内国絵画共進会に出品した果亭の即品が天覧に供され、出品2点のうち1点が宮内省買上げ、1点が銀杯(こ2023-02-01
50林倭衛 (はやししずえ)林倭衛 (はやししずえ)父は、倭衛が小学校在学中に製糸工場経営に失敗し、明治40年の春、倭衛と弟を実家の小林家にに預けたまま夜逃げ同様に東京へと出てしまいました。実家は上田駅に近い北天神町通りで蚕種用の和紙などを商っていましたが、倭衛は友人たちから離れ孤独にさいなまれましたが、同じ頃に同じ北天神町に移り住んだ馬場衛まさるが、生涯の友となりました。約1年の後にようやく父母の下に引き取られはしたものの、何かにつけて旧士族出身にこだわって失敗を繰り返す父に対して、倭衛は激しく不信を覚え続け、やがて少年の孤独感は次第に不屈な自立心へと成長していくのでした。  明治43年には印刷会社の給仕となり月給を得るようになると、近くの水彩画研究所の夜間部に入り、明るく旺盛な好奇心のままに、生涯にわたる美術関係の友人を2023-02-01
51西川小扇八 (にしかわこせんぱち)西川小扇八 (にしかわこせんぱち)上田地方だけでなく、広く東信地方から県内にかけて日本舞踊の普及に尽力した小扇八は、明治38年東京浅草瓦かわら町に生まれました。小扇八(本名金子光みつ)の育った浅草界隈は、古くから歌舞音曲かぶおんぎょくの盛んな土地柄でした。生まれつき体の弱かった光を心配した両親は、健康のために芸事を身につけさようと、長唄や日本舞踊、華道、茶道など日本古来の伝統芸能を一通り習得させました。  とりわけ光は日本舞踊に強く興味を示し、自ら進んで西川流に入門し、稽古に励みました。縁あって18歳で結婚しますが、婚家になじまず実家に戻ります。浅草に戻った光は生涯進むべき道を日本舞踊と決め、西川扇五郎に師事します。再び踊りの世界に没頭し、厳しい稽古に耐え、艱難かんなんを克服して次第に頭角とうかくを現あらわ2023-02-01
52中村直人 (なかむらなおんど)中村直人 (なかむらなおんど)大正期中ごろ山本鼎が提唱した「農民美術」と「児童自由画教育」の二つの運動の、発祥の地、神川で少年期を過ごした直人は、リアルタイムに農民美術、児童自由画教育の誕生を直視し、その渦中で小学校時代を過ごしました。  15歳の時、山本鼎の世話で上京し、木彫家吉田白嶺の木心社に入門。兄弟子松村外次郎より木彫の手ほどきを受け、小杉法庵にデッサンを習い、自己の彫刻表現の模索が始まりました。大正14年、直人21歳で院展初入選、以後連続入選し大正15年に日本美術院賞を受賞。昭和10年には院展同人(会員)に推挙され日本の彫刻界の新風として頭角を現し始めました。  終戦後は、新日本美術会創設に参加し、各種展覧会に出品しました。その後、以前から親交を深めていた画家で彫刻家の藤田嗣治がフランスに渡り、2023-02-01
53久米正雄(くめまさお)久米正雄(くめまさお)久米は、明治24年上田片平町(大手町)で生まれました。父由太郎は明治28年小県郡立高等小学校兼上田尋常小学校校長として勤務していましたが、明治31年、父が校長を務めていた上田尋常高等小学校上田分教場が焼失。その責めを負って父が自刃してしまったため、一家は母の実家福島県安積あさか郡桑野村へ転居し、ここで久米は中学時代を過ごしました。  この時代に、安積中学校の教頭と国語教師に指導を受け、俳人としての才能を見込まれ、将来を嘱望されるまでになりました。中学校在学中に「笹鳴吟社」を結成、また、学校教員の集まりである「群峰社」にも参加。桑野村を訪れた正岡子規や河東碧梧桐かわひがしへきごとうの影響を受け、新俳句会への道を進み、一高時代には碧門下の日本派俳人として知られるようになりました2023-02-01
54上田城跡公園上田城跡公園真田信繁(のぶしげ)こと、幸村は、上田で青年期を過ごしたといわれています。上田城の築城がはじまってしばらくの後、上杉家に人質に出され、そこで、兼続と出会ったのです。2023-02-01
55錦絵真田幸村巡見図錦絵真田幸村巡見図大坂の陣で大久保彦左衛門とともに身を隠す徳川家康(左下)と、それを捜す幸村を描いている。明治期の錦絵。作者は月岡芳年。芳年は明治に入って近代的な感覚を盛り込んだ歴史画に本領を発揮した人で、特に欧米で評価が高い。2023-02-01
56錦絵真田幸村勇戦之図錦絵真田幸村勇戦之図慶長20年(1615)5月の大坂夏の陣における真田幸村の有名な奮戦ぶりを描いている。中央馬上が幸村、右にやはり馬上のその長男大助。幕末期の錦絵。 作者は歌川芳虎。芳虎は号を孟斎または一孟斎という。天保年間(1830年代)より明治にかけて活躍した浮世絵師で、武者絵を得意とした。2023-02-01
57真田幸村真田幸村幸村(信繁)は上田城を築いた真田昌幸の次男(信之〔のぶゆき〕の弟)として生まれ、2度にわたる徳川軍による上田城攻撃を父とともに退けている。 そして、大坂の役にあたっては、豊臣秀頼の大坂城に招かれ、徳川勢を相手に華々しい活躍ののちに討死〔うちじ〕にし、名を後世に残した。2023-02-01
58上田のスポーツ上田のスポーツ塩田地域では青年たちによるスポーツの大会が開かれており、競技は野球とバレーでした。記事の内容には競技のなかでのスポーツマンシップについてやどんなプレーがでたのかが書かれていました。 それとは別にも村の体育祭も開催されていました。多様な種目にわたるものになっており、おもしろい名前の競技もありました。「まずいっぷく」や「2百才リレー」などがとても興味をもちました。 また、現在でも上田オール西部というソフトボールチームが存在しています。大会に優勝し北海道での全国大会に行くことも書かれています。同様にバレーもママさんバレーとしてチームがあり、こちらも優勝を経て全国大会に行っています。これらも過去の歴史として地域で盛んだったスポーツの熱が残っていることが一つの地域の伝統なのではないでし2023-02-01
59擬洋風建築を残し続けるために擬洋風建築を残し続けるために擬洋風建築は幕末から明治頃にかけて日本の各地で建築された、日本の大工らが西洋風の建物を見様見真似で建てた西洋風の建築物であり、和洋折衷、様々な意匠や工法が混じった建築物は、文明開化、近代化の象徴的な存在です。しかし、現在その多くは取り壊しや火災などで失ってしまっています。この数少ない重要な建物を残すため、多くの人に魅力を知ってもらうことが重要だと思いました。 その魅力の一つは石の再現です。壁面の出隅は「隅石積」を、壁に漆喰を塗ることで模しています。木造建築でありながら、石造の建築に見せかけるという面白さと知恵を感じます。 もう一つの魅力は独自性です。玄関に唐破風屋根を設けられていたり、天井の飾りに、波に千鳥、松竹梅、菊などが描かれていたりして、洋風に見せながら和の要素を含む和2023-01-31
60農村女性に望む農村女性に望む戦時中の苦労や恐怖からと終戦に対する幸福感が書かれている。それとともにもう戦争のことなど考えず農家の女性としてこれから生きていくことが力強く書かれている。 まとめ 終戦直後の混乱状態のリアルなこえをまとめることができた。青年は敗戦に落ち込まず前向きに復興へとすすんでいることが読み取れた。 被害が多くなかったとは言え様々な問題を抱えていたことが分かった。2023-01-31
61地方選挙への期待地方選挙への期待投票への積極的参加を促す一文である。 さらには参加者の良し悪しまでもが書かれてる。 自分が関係する政治だけでも良いものにしていこうという志の高さを感じた。2023-01-31
62民主苦言民主苦言前半部分には終戦間近の混乱が見受けられる。 後半には村が直面している問題と愚痴が書かれている。 とてもリアルな当時の声だと感じた。2023-01-31
63小学校だより 運動部小学校だより 運動部学校だよりの内容はいまの小学生がもらってくるものと同じで保護者向けのものでした。しかし今よりも謙っておりとても丁寧に固い表現な印象をうけました。 運動部の欄では野球部の部分のみを投稿しているがそれぞれの部活動のメンバーがフルネームで掲載されていました。プライバシー面で今は論争が巻き起こりそうですね。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1260 『西塩田公報』第83号(1954年8月5日)4頁 リンクする場合は以下のようにHTMLで記述する “”は付けないこと https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p1261.jpg2023-01-31
64現代青年の任務現代青年の任務終戦後の苦しさとこれからの政治に期待することが書かれている。 今後の青年の行動がどれだけ重要かが説かれている。2023-01-31
65川西野球排球大会川西野球排球大会塩田の地区でスポーツの大会が開かれていたことを初めて知りました。こども達のリトルやクラブチームの試合は現在でもありますが、地域で試合が開かれていたことに驚きです。中塩田や室賀などのいまでも知っている地名が野球やバレーができるほどに人数が集まっていたことが一番の驚きです。いまもやってほしいですね。 ▼この記事は以下から参照できます。 #1260 『西塩田公報』第83号(1954年8月5日)4頁 リンクする場合は以下のようにHTMLで記述する “”は付けないこと https://mmdb.net/mlab/uedagaku/jpg/nishishioda/p1261.jpg2023-01-31
66まとめまとめ上田市、特に私の住んでいる神川地区の芸術家について探求してみました。 きっかけとして私は山本鼎が初めて自由画教育行った神川小学校にも通っていて小さい頃が馴染みがありました。また「山本鼎先生の部屋」という教室があり、当時の生徒が描いた作品が保管されていました。私が小学校の時も山本鼎について学んだり、農民美術も飾ってあったりと、とても身近な存在に感じていました。 そこで山本鼎のような芸術家はどのような影響を与えたかを探求してみたいと思いました。 多くの芸術家は農民などにあまり縁のなかった芸術に触れてもらおうと活発な運動をしていて、上田に対する愛を感じました。また芸術の他にも教育や行政にも関わることも行っていて上田市民のために動いた芸術家が多くいることが分かりました。今まで上田で暮2023-01-31
67中村利貞の名刺十五枚②中村利貞の名刺十五枚②名刺の書かれ方がバラバラで、恐らく今のような大量印刷ではなく一枚一枚作っていただろうことから、紙が貴重な時代だったことが伺える。 名刺は必要になったら少し作って足す、という習慣があったのだろうか? 内容はシンプルで、名前のみ印刷されているもの、それに加えて手書きか赤黒印で肩書が記されているものがある。 『名刺十五枚(中村利貞)』| 信州デジタルコモンズ| https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02OD51701000002023-01-31
68中村利貞の名刺十五枚①中村利貞の名刺十五枚①明治19年に古間・大井・平岡・穂波・富濃・荒瀬原・柏原の七つの村の連合戸長を務めた、中村利貞の名刺である。 名刺15枚が反故紙に包まれている。反故紙は女性からの手紙を再利用したもののようだ。 七つの村を治める偉い人物でも、紙を無駄にできないぐらい、紙が貴重だったのだろうか。 『名刺十五枚(中村利貞)』| 信州デジタルコモンズ| https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/library/02OD51701000002023-01-31
69俳人一茶俳人一茶この集の特徴といえば、一茶の生い立ちにかかわる作品が収録されている。 一茶の幼少期は虐待により暗い過去となった。そんな人生に対する無常を嘆いた悲壮感ある俳句も収録されている。 しかし、優しく温かい雰囲気の俳句も収録されているため、一茶の生き様を読み取ることができる俳句集と言えるだろう。 校閲批評はかの有名な正岡子規。2023-01-31
70中村直人中村直人大正期中ごろ山本鼎が提唱した「農民美術」と「児童自由画教育」の二つの運動の、発祥の地、神川で少年期を過ごした直人は、リアルタイムに農民美術、児童自由画教育の誕生を直視し、その中で小学校時代を過ごしました。 15歳の時、山本鼎の世話で上京し、木彫家吉田白嶺の木心社に入門。昭和10年には院展同人(会員)に推挙され日本の彫刻界の新風として頭角を現し始めました。 その後日本で活躍し、47歳でパリに渡りました。昭和28年のパリ展で大成功し、その後何度か個展を開き話題となり、滞欧12年の間に彫刻家から国際的な画家に見事な変身を遂げました。 昭和39年日本へ帰国。同年滞欧作展でパリ生活12年の成果を証明しました。その後二科会に招かれ、昭和55年には内閣総理大臣賞を受賞しました。帰国後は、様々な分2023-01-31
71兎束武雄兎束武雄上田町大手の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれた武雄は、幼い頃から音楽に特別な興味を示す子どもでした。母親の影響で琴を習っていたそうです。音楽に興味を示していた幼少期ですが、父親からは反対されていたそうです。 上田中学校(現上田高校)を卒業し、東洋音楽学校に入り勉強に励みましたが、東洋音楽大学だけの勉強では満足できず、他の大学でも聴講し、作曲やピアノ、チェロなどを勉強しました。大学を卒業した武雄は、高等学校の教師になることを決意して上田に帰ってきました。武雄は、音楽の楽しさや喜びを多くの人々と分かち合いたいと考え、地域の音楽活動に力を注ぎました。昭和8年、28歳のとき、梅花幼稚園の同窓生に声をかけ、「からたち合唱団」を創りました。当時、県下で混声合唱団と呼ばれるものはなく、上田2023-01-31
72一茶と大江丸一茶と大江丸この集は一茶とともに、大伴大江丸の俳句もまとめられている。きっかけは大江丸と一茶が共に行脚し、互いに影響し合ってたことに起因する。 有名な「をらが春」も収録されている。2023-01-31
73小林一茶 一茶一代小林一茶 一茶一代小林一茶の詩や俳句がまとめられている資料である。 収録数は前編の発句が春、夏、秋の部がそれぞれ約1000、冬の部は約800、雑の部は22。俳諧歌は春の部62、夏の部30、秋の部54、冬の部28、雑の部59。文章は60。尺牘(手紙の類)は16。茶話は6。連句は春の部18、夏の部13、秋の部39、冬の部40、雑の部3。後編は発句が春の部120、夏の部95、秋の部101、冬の部49。連句は春の部3、秋の部5、冬の部2となっている。(信州デジタルコモンズより引用) それぞれの編を春夏秋冬と編纂しているのがいかにもは俳諧師という感じがする。この集は一茶本人が出版したものではなく、一茶の息子である直樹が出版したもの。 読み物としてはほとんど古語で書かれているため、かなり難読で、アマゾンなどで現代語訳されたものが販売されているため、読んでみたいと2023-01-31
74稲の病虫害駆除稲の病虫害駆除今年は、環境に恵まれているため、例年に比べ稲は良く成長している。しかしながら、一般作物の成長も良好であるため、害虫の繁栄も盛んである。稲を保護する過程では、害虫のは繁殖が盛んになる前に、全滅させることが望ましい。左には、各地方で起こる、病害虫への対策が書かれている。2023-01-31
75蒟蒻の栽培蒟蒻の栽培各地で300坪程の面積で、蒟蒻栽培が始まった。どのような結果になるかは分からないが、適した土地はあるため、栽培する土地を持ち、栽培を始めれば、いずれ利益を得ることができるであろう。2023-01-31
76はじめにはじめに西塩田時報の斜め読みで見つけた「うつかり喰へない菓子」という記事に面白みを感じ、当時の食生活をテーマにキュレーションを行うことにした。 時代の変化に伴う食生活の違いに興味を持ったため「戦前と戦後の食生活の違い」をテーマに記事をまとめた。 各記事の説明欄には、当該資料の私なりの要約が書かれている。 「終わりに」には資料を読んだ私なりの考察が書かれている。2023-01-31
77蓼科高校の生徒と学んだこと蓼科高校の生徒と学んだこと9月から行ってきた蓼科学について、1年間の振り返りを行いました。 スライドは発表用に短くなっていますが、スライドには書ききれないほどたくさんの成長を、生徒と共にすることが出来ました。 振り返りのスライドです。来年度の私がまた教育支援を行う中で振り替えられる大切な投稿にしたいと思います。2023-01-31
78戦時版の新聞③「プロパガンダ映画」とまとめ戦時版の新聞③「プロパガンダ映画」とまとめ映画までもプロパガンダとして利用されていたことが分かる記事である。 イギリス領インドの青年を日本人(岡倉天心等)が助けるといった内容であると書かれている。 実際の人物までもプロパガンダ映画で使われていたことに驚いた。 岡倉天心の「東洋は一つ」という言葉を都合よく解釈し、戦争に利用したように感じる。 参考サイト 【戦後75年】戦時中の中部日本新聞をPDFで読んでみよう 2023年1月31日閲覧 ▼この資料は以下から参照できます。 『中部日本戦時版』「2023-01-31
79戦時版の新聞②戦時版の新聞②バチカン市国について書かれた記事である。しかし、内容は敵国(アメリカ、イギリス)に対する批判である。 現代の世界史とは違った視点から歴史を見ることができ、興味深く感じた。 参考サイト 【戦後75年】戦時中の中部日本新聞をPDFで読んでみよう 2023年1月31日閲覧 ▼この資料は以下から参照できます。 『中部日本戦時版』「戦争と闘ふヴアチカン 非道へ法王の睨み」(昭和19年3月16日)2023-01-31
80戦時版の新聞①戦時版の新聞①選民思想をかき立たせるような書き方をしている記事であるように感じる。 情報媒体が限られていた時代であるため、このような偏った情報でも疑いようもなく受け入れられていたのだろうか。 参考サイト 【戦後75年】戦時中の中部日本新聞をPDFで読んでみよう 2023年1月31日閲覧 ▼この資料は以下から参照できます。 『中部日本戦時版』「我等の身体 これぞ日本人の優秀性」(昭和19年3月2日)2023-01-31
81『昭和国民読本』(1939)『昭和国民読本』(1939)明治から昭和初期(1939)までの出来事や歴史がまとめられた書籍である。 出来事が事細かにまとめられていることが目次から推測できる。 当時(戦時中)の国民の思想を知るのに重要な資料として活用できそうだと思った。 ▼この資料は以下から参照できます。 『昭和国民読本』(1939)2023-01-31
82太郎山神社(1)太郎山神社(1)太郎山の山頂付近には太郎山神社が建っている。写真は太郎山神社の本殿である。 棟札によると、明治6年3月15日に再建され、大工棟梁の山崎正是、金井為久、彫工棟梁の竹内八十吉など、大勢の人々によってつくられたとある。 https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_001_0222023-01-30
83表参道(2)表参道(2)表参道を山頂付近まで登ると、大きな石の鳥居がある。 明治10年4月に建立された。 https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_008_05342023-01-30
84表参道(1)表参道(1)表参道は、太郎山の頂上への参道として、昔から親しまれてきた登山道である。 写真の小さな石のほこらは、表参道に約100m毎の距離で置かれている。ふもとの白山神社を起点に太郎山神社まで36個設置されている。 https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_008_05312023-01-30
85太郎山とは太郎山とは太郎山は上田市の北部に位置し、標高は1164mである。 山頂までは2時間ほどで登ることができ、老若男女問わず気軽に登ることができる山として上田市民や登山好きに親しまれている。 https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_008_08432023-01-30
86記事2記事2 これらの記事から、満州事変後に、満洲国の移民の宣伝である、東京以外の地方ではそういう宣伝があれば全方位で、特にあの時代で影響力が高いの新聞で宣伝が多ければ、全面戦争の始まりのサインではないかと思う。 参考資料:西塩田時報(1937~)第161号~第180号 昭和十二年四月号 昭和十二年七月号 2023-01-30
87記事1記事1昭和六年一月号  この記事は徴兵制度を示したものである、全面戦争前の1931年に戦争の準備をはじめと見える様子。 参考資料:西塩田時報(1930~)第81号~第100号 昭和六年一月号2023-01-30
88野沢菜野沢菜野沢菜は、県の北東にある野沢温泉村の住職が宝暦6年に京都から天王寺かぶを持ち帰り植えたのが始まりといわれている。温暖な地域の天王寺かぶは、標高600メートル近くもある高冷地の野沢温泉村の気候風土により突然変異を起こし、根が育たず葉と茎だけが大きくなり地域独特のものとなった。味は美味しいと好評で、地名の付いた「野沢菜」として広まっていった。 野沢菜食べたことがあったが画像のツルヤの野沢菜油炒めが特別美味しかった。漬物に香ばしさが追加されるだけでこんなにうまいかという感じだった。 参考文献 https://nozawakanko.jp/about/nozawana/ https://d-commons.net/uedagaku?c=28&p=40782023-01-30
89やたら漬けやたら漬けやたら漬けの名前は、なすやきゅうり、しその実やみょうがなど、「やたら野菜を使って、やたらおいしい」ことが由来だという。半年かけて漬ける冬の保存食で、何種類もの野菜を使う。通常、漬け物の野菜は全部同時に漬け込むが、やたら漬けはそれぞれの野菜の収穫時期が異なるので、季節別に漬け物桶に塩漬けにしておく。その後11月頃に、塩抜きした野菜を粗く刻み、唐辛子や調味液に数日ほど漬け込んで完成する。 由来にもある通り、様々な野菜を使われていて食感が非常に楽しい漬物だと感じた。山形県のだしに通ずるものがあるような食べ物だという印象を受けた。ご飯が進む味付けでくどさがなくたくさん食べれるものだと感じた。 参考文献 https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/40_30_hyogo.html https://d-commons.net/uedagaku/j222023-01-30
90鯉こく鯉こく佐久市に伝わる「鯉こく」は、大胆に筒切りにして味噌で煮た汁もので、佐久地域の正月には欠かせないものとなっている。佐久ホテルの篠澤社長の八代前の先祖の篠澤佐五右衛門滋野包道が延享3年(1746)の正月6日に伊勢神宮の福島鳥羽大夫神官を邸宅に招き、「鯉こく」を食べさせたことがきっかけで正月に「鯉こく」を食べるようになった。 実際に鯉の切り身を買ってきて作ってみた。汁気をかなり飛ばす料理で非常に時間と手間がかかる料理という印象を受けた。凝縮された味付けで鯖味噌が一番近い味付けだと感じた。 https://d-commons.net/uedagaku?c=28&p=7106 https://life.ja-group.jp/recipe/detail?id=82792023-01-30
91別所温泉の活性化 まとめ別所温泉の活性化 まとめ「別所温泉を活性化」をテーマで探求をした。 私が別所温泉に行って感じたことは「物足りない」と感じた。ただ温泉があり、ただ旅館がある。それぞれはいいものなのだが、温泉地として何か足りない感じがした。そこで、別所温泉のような小さな温泉地で何ができるのかを調べた。 1黒川温泉 黒川温泉は熊本の温泉で、かなり山奥にあるにもかかわらず人気の温泉だ。入浴手形で有名だ。入浴手形とは、温泉のマークが書いてある木の板で、それを買うと3か所の温泉に入ることができます。手形は、思い出としても残るのでいいのではないかと思う。 2四万温泉 四万温泉は群馬県の温泉で、ここも小規模で山奥の温泉だが、ヘルシーな料理で有名なタニタとのコラボで有名になった。旅館でタニタの料理を出すというシンプルなものだが、珍しさ2023-01-30
92前川ゼミレポート前川ゼミレポート私の探求テーマは、「別所=上田を広める」だ。 私がこのテーマにした理由は、別所という地名は聞いたことがあっても、長野県上田市にあると知っている人は少ないのではないかと考えたからだ。また、別所の魅力を伝えることは、上田に来る観光客を増やすことに繋がると考えた。 別所へフィールドワークに行ったときに、年配の方が多いように感じた。そこで私は、今回のターゲットは若者にしようと考えた。若者に別所の魅力を伝えるときになにが一番有効で、興味を持ってもらえるかを考えた時に、私はカフェだと思った。別所には魅力的なカフェがある。それを、SNSを活用し、伝えていこうと思った。 SNSに投稿する画像を制作するときに私が気を付けたことは、二つある。一つ目は写真の撮り方だ。ケーキや飲み物がどう撮影したら魅力的2023-01-30
93第二回「create owarai」の開催 地域事業者とよそ者を結ぶ活動第二回「create owarai」の開催 地域事業者とよそ者を結ぶ活動大洗町の地域事業者の方とリモートでよそ者がミーティングを行っている様子です。 地域事業者の方々が抱える課題を、スキルフルなよそ者と協力することで課題解決に向け動いていく様子です。 今後もこの活動を継続していくことが、継続的な人的資源の流入に繋がるのではないかと考えています。2023-01-30
94第一回「create owarai」の参加:イベント提案第一回「create owarai」の参加:イベント提案「create owarai」に参加した際のイベント実施画像 参加型のサンドアートとサンドアート内に大洗の特産であるサツマイモを埋めた芋掘りを提案した際の画像です。 参加人数は30人以上。予想以上の賑わいを見せました。 このイベントで出会ったつながりは現在にも活きており、その後も自主的に活動を行っていきました。 「create owarai」は現在第二回が開催されており、ここで得た経験値から、より効果的なイベントを開催していきたいと思います。2023-01-30
95秋和にも猫瓦秋和にも猫瓦先日、秋和の街歩きをしてきました。 街歩きの目的は猫瓦探索でした。街歩きの結果、合計7つの猫瓦を発見することができました。この結果から秋和でも養蚕が盛んであったことが分かりました。 発見した猫瓦の文様、絵柄についてはまた紹介していきたいと思います。2023-01-30
96下塩尻にも猫瓦下塩尻にも猫瓦下塩尻にも猫瓦を見つけることができました。 この猫瓦は耳の部分がとがっていないこと、文様などが彫られていないのが特徴です。他の猫瓦と比べても文様や文字が彫られていないので瓦が平です。 色も少し青っぽいので瓦自体が普通のものとは違うのではないかと思います。もしかしたら年代的には新しいのかもしれませんね。2023-01-30
97「d-commons.net UI磨き上げ」まとめ(2022年度 プロジェクト研究)「d-commons.net UI磨き上げ」まとめ(2022年度 プロジェクト研究)タイトル:d-commons.net UI磨き上げ 概要:d-commons.net上に存在しているUIの課題点を発見し、解決案を考察する。UIの利便性向上を図り、更に洗練されたサイトにするためのブラッシュアップを促す。加えて、d-commons.netをより面白くするためのアイディアを考案する。 ・マイテーマ プロジェクト研究 信州上田デジタルマップ 課題探求 2022前期 教員向けd-commons.net(eduスクウェア)の研修会 アンケート結果&考察 プロジェクト研究 信州上田デジタルマップ 課題探求 その他考察2023-01-30
98猫瓦猫瓦12月6日に上塩尻の街歩きをしてきました。 街歩きの目的は猫瓦探索でした。 北国街道沿いには猫瓦がよくありますが、上塩尻には他にも猫瓦があることがわかりました。 特に印象的だった猫瓦は鶴が掘られたものです。 猫瓦に掘られている絵には意味があります。 鶴は初めての発見だったのでどのような意味があるのか気になりました。 猫瓦に興味のある人は上塩尻を歩いてみてください。面白い瓦を見られるかもしてません!2023-01-30
99これなんだろう?これなんだろう?皆さんはこんな瓦を見たことがありますか? これは猫瓦といいます。 猫瓦とは、養蚕をする上で蚕がネズミに食べられてしまうことがあり、そのネズミ除けの願いを込められた瓦のこと。そのためネズミの天敵である猫がモチーフになっている。 上田市上塩尻では蚕種製造が盛んであったり、養蚕をする家が多くあった地域であるため、今でも越屋根といった養蚕特有のものが残っている。もちろん猫瓦が残る家も多くある。猫瓦はただ猫の形をしているだけではなく、文字や絵が掘られている。これらには様々な思いが込められているそうだ。2023-01-30
1002022年度 プロジェクト研究発表会資料「d-commons.net UI磨き上げ」2022年度 プロジェクト研究発表会資料「d-commons.net UI磨き上げ」本記事に登録されている画像は、2023年1月28日「プロジェクト研究発表会」で使用した資料(画像版)です。 画像表示されているものと、クリップファイルに登録されているものは同一のスライドです。お好きな方法で閲覧してください。 また、こちらはPDF版の資料です→PDF版2023-01-30
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