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1三吉米熊三吉米熊三吉米熊は1860年、年長州長府藩士三吉慎蔵の長男として長門国(現在の山口県)豊浦郡長府村に生まれた。三吉米熊は自ら西ケ原蚕病試験場に行って研修するなど、積極的に技術・知識を習得し、その後、本格的に蚕糸業の指導にあたるようになり、県下各地の伝習所・講習所で講師を務めた。また、明治22年から24年まで2年間にわたり、フランスなどで視察・研修を行った。当時、蚕業教育の必要性を感じていた小県郡長中島精一は蚕業学校設立を提唱していたが、明治25年3月の小県郡会で設立案が可決され、小県郡立蚕業学校(現・長野県上田東高等学校)が明治25年5月に開校しました。外遊から帰国したばかりの三吉は、この蚕業学校に迎えられ、初代校長に就任した。 大正14年に蚕糸教育の功績によって勲三等瑞宝章が授与され2023-02-08
2中村直人中村直人大正期中ごろ山本鼎が提唱した「農民美術」と「児童自由画教育」の二つの運動の、発祥の地、神川で少年期を過ごした直人は、リアルタイムに農民美術、児童自由画教育の誕生を直視し、その中で小学校時代を過ごしました。 15歳の時、山本鼎の世話で上京し、木彫家吉田白嶺の木心社に入門。昭和10年には院展同人(会員)に推挙され日本の彫刻界の新風として頭角を現し始めました。 その後日本で活躍し、47歳でパリに渡りました。昭和28年のパリ展で大成功し、その後何度か個展を開き話題となり、滞欧12年の間に彫刻家から国際的な画家に見事な変身を遂げました。 昭和39年日本へ帰国。同年滞欧作展でパリ生活12年の成果を証明しました。その後二科会に招かれ、昭和55年には内閣総理大臣賞を受賞しました。帰国後は、様々な分2023-01-31
3検索でわかること検索でわかること江南=志津衛の確信が持てたのは、昔の信濃教育会という書籍の検索で見つかったからです。長野県は教育熱心な土地なのでしょう。記録がしっかり残っています。こちらは、検索結果ですが、参観日について記述したもののようです。ここにはっきり在上田の鈴木江南の名前が記されています。 鈴木姓は日本でも多いため、同姓同名なのかも確信がもてていませんでしたが、さすがに上田限定だと他にいないでしょう。 他にも算術についての考察など、全文確認できるものなど、教育に関する記述があります。この文献についても、いつか機会を設けて確認したいと思います。2022-02-24
4上田での教員時代上田での教員時代志津衛さんが上田にいた頃の校舎。 当時学校火災があり、久米正雄さんのお父様が殉職されていて、その出来事に影響を受けたのか?当時の教育者の共通認識だったのか?すでに引き上げられていたので、行き違いによる殉死は避けられなかったのかなと思います。2022-02-24
5発行元とシリーズ発行元とシリーズ先のサイクモノの裏表紙にある発行元、シリーズ等が記載されています。 東京教育大学の推薦図書といった宣伝文句があります。 12冊ほど発行の計画があったようです。最終の粘土、針金、木から、ヲリガミ細工に変更になったようですが、12冊と図解キリガミ12か月の13冊発行されたようです。 大正4年の2月から11月頃にかけて、順次発行されていて、印刷した三日後ぐらいには発行となっています。 片面印刷したものを2折にして糸で2か所綴じてあります。発行部数がいくらかわかりませんが、なかなかの短納期です。中には再版、3版もあったようです。 一冊拾八銭で、送料2銭、6冊セットや12冊セットなどで販売もしていたようです。 印刷所は神田三崎町にあった博信堂という印刷所、印刷した人の名前も書かれています。壬辰舎が2022-02-23
6書物とインターネット書物とインターネット何度か御参りしている時に、戒名にある”江南”ってなに?京城と関係があるのかな?と思い、なぜか鈴木江南と検索してみると、一つのブログ記事にたどり着きました。 これが大きなきっかけになりました。作家で古書収集がご趣味だった黒岩比佐子さんの古書の森という収集した古書について説明とコメントを書かれたものの一つがヒットしたのです。子ども向けの教材のようなものでした。小学校の先生をしていたことはわかっていましたが、そんなものを作っていたということは聞いていないし、教材は東京の京橋区あたりで出版されています。今の距離感から考えても、一致するとはいいがたい。ただ 教材の中には当時の戦争の色や仁川など韓国にある地名などの記述もあり、それっぽい。確信が持てないまま時間が過ぎました。黒岩さんにも直2022-02-21
7人物53 正力直太郎人物53 正力直太郎安政三年十一月九日上田藩士正力六郎左衛門の長男として、上田市木町(当時鉄砲屋敷という)に生る。(略) 殊に信州教育界に対しては空に輝く明星として、永遠に不滅の光を放つべし。 『上田市史・下巻(1940)』1266、1267頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌 人物篇2021-07-19
8勝俣英吉郎と上田市民大学勝俣英吉郎と上田市民大学上田市の勝俣英吉郎は蚕都上田の絶頂期に当たる1922年、第2代市長となり文教に重点を置いた施策を次々と実施します。その一つに「上田市民大学」があります。勝俣自身、上田自由大学の聴講生でもあり、「先ず郷土を知れ」の信条のもと、後に『上田市史』(1940)を執筆する藤澤直枝を起用し、地域に密着した学習を奨励したと言います(下記参照)。 地域学習の原点としても顕彰される実践です。 ----------------------------------------------------- 上田市民大学開講  上田自由大学の聴講生だった勝俣英吉郎は大正十三年七月、市長に就任すると同年九月に上田市民大学を発足させました。勝俣は図書館の充実、市営運動場建設、徴古館(現上田市立博物館)の開館など社会教育重視の施策を打ち出しましたが、市民大学開講もその一つでした。「先ず2020-08-25
9人物57 宮本右次人物57 宮本右次慶応元年十一月九日埴科郡戸倉村に生まる。(略) 教育者としての氏は、終始一貫、至誠を以て生徒を薫化し、慈父の如き愛情を以て之に接し、或は訓戒し或は賞揚し、常に寛厳宜しきを得、将来に対する指導の如き誠によく行届き、其門弟子等の終生忘るる能わざる所のものなりき。 『上田市史・下巻(1940)』1271・1272頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2020-07-16
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