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1三吉米熊三吉米熊三吉米熊は1860年、年長州長府藩士三吉慎蔵の長男として長門国(現在の山口県)豊浦郡長府村に生まれた。三吉米熊は自ら西ケ原蚕病試験場に行って研修するなど、積極的に技術・知識を習得し、その後、本格的に蚕糸業の指導にあたるようになり、県下各地の伝習所・講習所で講師を務めた。また、明治22年から24年まで2年間にわたり、フランスなどで視察・研修を行った。当時、蚕業教育の必要性を感じていた小県郡長中島精一は蚕業学校設立を提唱していたが、明治25年3月の小県郡会で設立案が可決され、小県郡立蚕業学校(現・長野県上田東高等学校)が明治25年5月に開校しました。外遊から帰国したばかりの三吉は、この蚕業学校に迎えられ、初代校長に就任した。 大正14年に蚕糸教育の功績によって勲三等瑞宝章が授与され2023-02-08
2太郎山神社(2)太郎山神社(2)神社拝殿の登り口左側に、明治35年再建の入母屋瓦葺の二間四方板床の神楽殿があって、五月初めの春の例祭には東麓の山口の人たちによって、ここで太々神楽が奉納される。太々神楽というのは、神職が願主に代わって捧げる舞で、第二次大戦後は山口出生の男子を中心に、継承の責任を担っている。 https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_001_2512023-02-01
3前山 塩野神社前山 塩野神社御祭神は素盞嗚尊(すさのをのみこと)、大己貴尊(おおなむちのみこと)、少彦名尊(すくなひこなのみこと)です。独鈷山の麓に鎮座し、独鈷山登山口に大鳥居がそびえています。境内入口をはいり、杉檜の参道を進むと、塩野川を渡る神橋(7枚目の写真)があり、そこから広がる景色はとても神秘的です。2022-12-06
4独鈷山独鈷山長野大学からも近く、簡単に登れる山。 登山口は中禅寺近くで散歩するにもGood!! 景色が良ければ鹿教湯の方や、上田の山や街並みも見える。2022-12-02
5小文『プリンス・マツダイラ物語』小文『プリンス・マツダイラ物語』明治5年からアメリカへ留学した最後の上田藩主・松平忠礼と弟の忠厚。その後忠厚は日本へ帰ることなく土木と建築を学びアメリカ人女性と結婚し、エンジニアとして測量器具を発明、大陸各地の橋や鉄道建設に携わる活躍をしながらも肺結核に倒れ、37才の若さでデンバーで亡くなりました。 今では上田の方々にはよく知られた話ですが、2000年上田市立博物館での松平忠厚展を機にした『プリンス・マツダイラ物語』は、2人の留学に随行した山口慎(山口平太郎毅の息子)の孫の金子香代が2004年「文芸せたがや」に書いたものです。ファミリーヒストリーの延長で当時随筆部門の3席でしかなく、批評の通り、練り直しを考えつつもできないまま没しました。そんな母の小文ですが、最近Wikipediaなどから関心を持って下さる方がいるので、この場をお借2022-12-02
6上田の農産物・特産品 ~稲倉の棚田~上田の農産物・特産品 ~稲倉の棚田~上田の特産品をインターネットで調べたところ、以下のような農産物・特産品があることがわかった。 ・稲倉の棚田米 ・特別栽培米・螢 ・そばの花 ・りんごの花→シナノスイート・シナノゴールド・秋映 ・山口大根 ・松茸 ・上田産コシヒカリ ・ぶどう 今回は「稲倉の棚田」についてご紹介 [「稲倉の棚田」で触れる四季の美しさ、日本の原風景] ダイナミックな眺望のコントラストが魅力・ 1999年「日本の棚田百選」に認定。 [おいしいお米に最適な水・土・気候] 昔から岩清水地区と呼ばれ、生活水などの汚染がない清らかな湧き水が一番に流れてくる場所。 粘土質の土壌は水分を豊富に蓄え、おいしい米作りに最適。 日照時間の長さもポイントで収穫後の天日干しでおいしさをさらに引き出す。 [昔ながらの”はぜかけ”で育て2022-11-01
7メディアアートの系譜と記録メディアアートの系譜と記録端山貢明さん(1932-2021)がコンピュータのメディアアーティストであったかと言うとそうだったとも言えるし、そうであったとも言えない。岡倉天心が日本画家でなかったことと状況は類似しています。どちらかと言うとコンピュータアートの文化伝道家という側面が強い。またその後に構築していったメディア論の創造性がまさしくアートと呼ぶにふさわしい業績です。とは言え自身がコンピュータも使った作曲もし、音響空間のデザインをしていたことはまさしく狭義のメディアートです。 それはさておき、メディアアートの系譜、特に特定メディアアーティストの業績記録・評価の実例を具体的に知るため何冊かの書籍を購入しました。中谷芙二子、CTG(幸村真佐男他)、山口勝弘。書籍が分厚いことが共通項。よくこれだけ調べ作品・業績を集成したも2022-10-22
8戸隠そば 【山口屋】戸隠そば 【山口屋】2022/10/06 やはり、戸隠といったらそば。 この店にした理由は昔イッテQ!というテレビ番組で見たから。 福岡と比較して出汁も麺の硬さも全く違った。2022-10-06
9上田藩士・山口毅(平太郎)上田藩士・山口毅(平太郎)山口毅(つよし、通称:平太郎、号:玄山)1818年(文政元)-1873年(明治6) 山口家は初代権兵衛が1673年(延宝元)に召し出されてより代々上田藩士で、毅は6代目。松平忠礼が藩主を継いだ後、塩崎の旗本松平家へ養子となった弟の忠厚について塩崎知行所代官として仕える。明治維新後は権大参事職。明治2年に忠礼の御婚姻御用掛、明治4年には翌年にアメリカ留学を控えた忠礼と忠厚の御修行御供を命じられたが、病気のため次男の山口慎(別のファイル)に後を託し退職する。明治6年、東京の旧藩邸で死去、56才。2022-05-10
10写真 山口慎写真 山口慎明治後期の写真。2022-05-07
11写真 松平忠礼・忠厚兄弟と山口慎写真 松平忠礼・忠厚兄弟と山口慎アメリカ留学中 明治6年ニューヨークにて2022-05-07
12山口慎『白露日記』改訂・現代語訳(明治中期のペルー日記)山口慎『白露日記』改訂・現代語訳(明治中期のペルー日記)私の曾祖父・山口慎の『白露日記』(明治22-23年)の現代語訳を今回少し改訂しました。上田藩出身の武士道精神は潔く、故郷の多くの方に知っていただければと思います。 山口慎(1846-1913)は上田藩士・山口毅の次男で、明治5年に松平忠礼・忠厚兄弟公のアメリカ留学に随行し、帰国後、東京銀座で日本初の西洋酒問屋「清水谷商会」を営みました。明治22年、高橋是清のペルー銀山開拓事業に同行し、その顛末を『白露日記』として残します。明治45年、旧藩主・松平家の財政再建を頼まれ、東京の松平邸に移り住んで私財を投げうつも病いに倒れました。 五味篤氏の『銀嶺のアンデス』、板谷敏彦氏の『小説高橋是清』でも取り上げられた日記です。2023-05-20
13山口慎『白露日記』原本山口慎『白露日記』原本激動の明治時代を生きた上田出身の私の曾祖父・山口慎について上田の方々に知っていただけたらと思い投稿します。別ファイルに現代語訳があります。 山口慎(1846-1913)は上田藩士・山口毅の次男で明治5年松平忠礼・忠厚兄弟公のアメリカ留学に随行し、帰国後は東京銀座で日本初の西洋酒問屋「清水谷商会」を営む。明治22年、高橋是清のペルー銀山開拓事業に同行し、その顛末を『白露日記』に残す。明治45年には松平家から財政再建を頼まれて、東京の松平邸に移り住み私財を投げ打つが病いに倒れた。2022-05-07
14曾祖父との関係曾祖父との関係人物伝にあるように、鈴木志津衛には4男2女の子供がいました。私は三男の俊三の孫にあたります。祖父が生まれた後、上田から京城(現ソウル)に渡り、日本人学校の 校長を務めていました。大正7年12月の学校火災で、殉職しますが、その後も家族は、京城に暮らしていたようです。1937年生まれの父、敬之(ひろゆき)が小学校1年の時、終戦で日本に引き揚げるまでです。 聞いた話だと、京城から釜山経由で、山口県仙崎へ戻ってきたようです。その後、祖母の実家に縁のある岐阜などで過ごした後、銀行に勤めていた祖父の関係で大阪に暮らすことになりました。 写真は、子どもたちの写真です。 陽一さん・はるさん・忠雄さん・愛さん・俊三(祖父) 俊三の出生地は明治四十四年小県郡上田町二千百九十九番地となっています。2022-02-21
15山口大根山口大根山口大根は今から400年前(江戸時代)から栽培されている伝統野菜。電球型で、水気が少ないのが特徴的だそう。熱を加えると甘みが増し、天ぷらにすると美味しいらしい。機会があれば是非食べてみたい。2022-01-25
16対影橋対影橋半過山口橋の近くに見えたので思わず撮影。 小さな橋ですが、薄緑色の欄干が目に優しい!2021-11-13
17半過山口橋半過山口橋半過山口橋は上田坂城バイパスを上田方面に降りていく橋です。 「上田 道と川の駅」を通ることもあり、交通量が多い重要な橋です。 また、長野県の天然記念物である半過岩鼻(写真左)、下塩尻岩鼻(写真右)が一望できるのも特徴です!2021-11-13
18頂上公園頂上公園雲渓荘までの道をずっと先まで登り、別荘地を抜けた先にある頂上公園。今日の第二目標地点だ。 道中の別荘地の中はかなり複雑な道になっており、着くまでにかなり苦戦した。 気温は1℃。さむい。ちらちら雪も降っていた。 登山口と思われる看板を見つけた。どうやらここから美ヶ原高原美術館へ行けるようだ。 雲渓荘のに方に聞いたが、こことは別に別荘地の道から美ヶ原美術館につながる道が地図上にはあるが、その道は登山道で車は通れないそうだ。2021-11-11
19上田の人物伝一覧(『上田市史』1940から)上田の人物伝一覧(『上田市史』1940から)上田市史・下巻(1940)』の「社寺古墳及人物誌/人物篇」をハイパーメディア化。(長野大学「マルチメディア論」2020/2021実習で分担作成) 人物01 真田昌幸
 真田一徳斎幸隆の第三子、天文十六年生る。 人物02 真田信之
  真田昌幸の嫡男、永禄九年生る。母は寒松院三修氏、幼名を源三郎と言ふ。 人物04 真田幸村
 幸村は正幸の代二子、永禄十一年生ると云う。 人物05 仙石政俊
 先の小諸城主後上田城主たりし仙石忠政の
2021-07-21
20人物21 山口毅人物21 山口毅上田藩士。通称は平太郎字は子強、玄山と号す。(略) 明治五年死す。年五十六。 『上田市史・下巻(1940)』1030頁を転載 (目次位置) 社寺古墳及人物誌  人物篇2021-07-14
21岩国駅前岩国駅前岩国駅前です。 岩国の中ではここが一番栄えています。 ガネーシュというカレー屋さんがおいしいです。2021-05-06
22赤田ビーチ赤田ビーチ山口県下関市にある赤田海水浴場です。 透明度はもちろん、砂浜がさらさらで本当に気持ちが良いです。 夕焼けが綺麗に見えます。2021-05-05
23大山祓神社大山祓神社大山祓神社太郎山裏参道登山口までの林道脇にある神社です。2021-05-05
24岩国の象徴・錦帯橋岩国の象徴・錦帯橋こちらは山口県岩国市の象徴である「錦帯橋」です。 日本三大名橋のひとつです。 今はただの橋になってしまいましたが、昔は岩国城に敵が攻め込もうとした際に道をふさげるように、板を一本抜くとすべて崩れるようになっていたそうです。2021-05-05
25上田市消防団第12分団第11班の倉庫上田市消防団第12分団第11班の倉庫上田市消防団第12分団第11班の倉庫だと思われしもの。 横には、道具らしきものがあった。だいぶ古い。錆びている。2021-05-05
26太郎山から持ってきた石らしい太郎山から持ってきた石らしい石が重なってある灯篭みたいなもの。 昔から、これは何なんだろうと思っていた。 祖母に聞いてみると、ひい爺ちゃんの時代(戦争前or戦争中)に太郎山という山から、石を持ってきたらしい。 詳細は、不明。2021-05-05
27木の電柱木の電柱木の電柱を見つけた。 昭和30年代までの電柱は、木製丸太だったそうだ。 一瞬、目を疑った。けれど、歩いていくと結構な数の木の電柱があった。普段全然、地域を見ていないんだな~と感じた。2021-05-05
28道祖神道祖神道祖神のお祭りの日、時間帯は夜です。 夜に太鼓を持って、地域を回ります。「道祖神のお祭りだ~~!」と言いながら、太鼓を鳴らし、数人の子供たちでまわりに行きます。数人は、道祖神のところで待っています。2021-05-05
29道祖神道祖神道祖神の祠は、山口地区のいくつかの場所にあります。 ここの場所は、道祖神の日、奥の神社らしきところの扉が開きます。子供たちは、その中に座って道祖神の日を楽しみます。 お菓子や甘茶、豚汁などがあったりします。2021-05-05
30道祖神の時に渡すお札道祖神の時に渡すお札写真は、家の壁に貼ってあるものです。 このような習字の時に使うような紙に、ハンコのようなもので押して作っていきます。 私自身、小学生の時に地区の友達と一緒に作りました。 猿田彦大神は、その昔、天孫降臨の時の道案内をしたと言い伝えられている神様だそうです。 ★天孫降臨とは… 天皇家の由来と古代国家の起源に関する神話。天照大神が孫の瓊瓊杵(ににぎ)尊に神宝(三種の神器)を与え,天壌無窮の神勅を発し,天児屋(あめのこやね)命などの神々を供に高天原から日向(ひむか)の高千穂峰に降臨させたという。2021-05-05
31道祖神道祖神長野県上田市上田 山口地区には、道祖神という地区の行事があります。 「道祖神」と書かれている石の前に小屋などを一時的に建て、そこでお賽銭箱とお札を用意します。訪れて、お賽銭箱にお金を入れてくれた人に、お札をあげます。子供には、お札とお菓子をあげます。 お札は、小学生の手作りです。2021-05-05
32白山比咩神社白山比咩神社ここは、上田市山口地区にある白山比咩神社。 緑がいっぱいでとても気持ちの良い場所です。ぜひ涼みに✨そばには、ちょっとしたスペースもあります。 本社は石川県にあります。調べると面白いことが分かりますよ。2020-06-01
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