長野の芸術文化を支えた人々

日付: 作成者:M

長野の芸術文化を支えた人々について調べ、その人がどのような成果を残し、どのような影響を与えたのかを紹介する。

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兎束武雄(うづかたけお)

兎束武雄(うづかたけお)

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上田町大手の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれた武雄は、幼い頃から音楽に特別な興味を示す子どもでした。しかし、父親は音楽は男のするものではないと考え、武雄の音楽に対する熱意を快く思っては居ませんでした。母親は、音楽を好み自ら琴を弾いたり、4人の姉妹たちにも琴を習わせていました。
 上田中学校(現上田高校)を卒業した武雄が、音楽の道に進みたいと父親に相談しましたが猛反対を受けましたが、母親の協力と武雄の熱意に最後には承諾しました。
 武雄は上京し、東洋音楽学校に入り勉強に励みましたが、東洋音楽大学だけの勉強では満足できず、他の大学でも聴講し、作曲やピアノ、チェロなどを勉強しました。大学を卒業した武雄は、高等学校の教師になることを決意して上田に帰ってきました。
 上田に戻った武雄は、音楽の楽しさや喜びを多くの人々と分かち合いたいと考え、地域の音楽活動に力を注ぎました。昭和8年、28歳のとき、梅花幼稚園の同窓生に声をかけ、「からたち合唱団」を創りました。当時、県下で混声合唱団と呼ばれるものはなく、上田でも初めての混声合唱団でした。珍しいこともあって、地域の学校や施設から演奏依頼が多くあり、自宅のピアノをリヤカーに乗せて演奏会場へ運び歌ったこともありました。
 昭和39年、日本を代表するバイオリニストであり、東京芸術大学教授であった弟の兎束龍夫率いる芸大オーケストラを上田に招き、ベートーベン作曲の「第九交響曲」の初演奏会を実現しました。合唱部分にはしないの合唱団と高校生の有志が集まり、盛大に演奏されました。この活動は上田市民の中にだんだんと音楽を楽しむ生活を浸透させていきました。上田高校や城南高校(現上田西高校)の教諭を長年勤めましたが、武雄の頭の中には、常に音楽の楽しさや喜びを多くの人に理解してほしいという思いが強くありました。
 城南高校を退職した武雄は、その後上田市公民館長として活躍しました。文化活動を啓蒙する公民館の仕事は、彼にとって願ってもないものでした。地区の各所で始められたコーラスグループへの指導を初め、講演会、各種サークルの歌の作曲など意欲的に取組み、上田市の音楽文化の向上に努めたのです。

https://museum.umic.jp/jinbutu/data/004.html


久米正雄(くめまさお)

久米正雄(くめまさお)

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久米は、明治24年上田片平町(大手町)で生まれました。父由太郎は明治28年小県郡立高等小学校兼上田尋常小学校校長として勤務していましたが、明治31年、父が校長を務めていた上田尋常高等小学校上田分教場が焼失。その責めを負って父が自刃してしまったため、一家は母の実家福島県安積あさか郡桑野村へ転居し、ここで久米は中学時代を過ごしました。
 この時代に、安積中学校の教頭と国語教師に指導を受け、俳人としての才能を見込まれ、将来を嘱望されるまでになりました。中学校在学中に「笹鳴吟社」を結成、また、学校教員の集まりである「群峰社」にも参加。桑野村を訪れた正岡子規や河東碧梧桐かわひがしへきごとうの影響を受け、新俳句会への道を進み、一高時代には碧門下の日本派俳人として知られるようになりました。
 大正4年、久米は芥川、菊池らと夏目漱石の門下生となり、漱石主宰の木曜会に参加。翌大正5年には、芥川、菊池らと『新思潮』を創刊し、久米は上田を舞台にした「父の死」を発表しました。
 「父の死」は、上田で自刃した父と、その周辺の事情をモデルにして描いた小説です。久米は父の死への強烈な記憶と責めを負って自刃という武士道教育からでた虚栄のために、父は死なずともいいものを死んだのだという何か釈然としない気分に、長い間拘泥しており、そのことを素材として「父の死」を書きました。この作品について漱石は「事実を聞いていたから、猶のこと興味があり、面白かった」と評しています。
 久米の描く小説は、自身の体験に基づく題材が多く、彼の主張する「心境小説」、自身の生活に裏付けされた小説こそ「真の芸術の現実性がある」という信念を貫き通しています。
 大正8年7月、久米は思いがけず別所温泉を訪れることになり、幼い頃の記憶から当時の家主河合氏に電話をすると、河合氏は地元にいる父の友人たちに声をかけ、歓迎会を開いてくれました。河合氏から父の死の真相を聞き、久米は「父の死」発表から一歩踏み込んだ思いを「不肖の子」「吾が少年時代」に記述しています。この旅で久米は、長い間拘泥していた幼い日の記憶から立ち上がり、上田を故郷として再認識し、久米が作品として描いた上田の街は、今もなお幻影の町として生きています。

https://museum.umic.jp/jinbutu/data/009.html


中村直人 (なかむらなおんど)

中村直人 (なかむらなおんど)

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大正期中ごろ山本鼎が提唱した「農民美術」と「児童自由画教育」の二つの運動の、発祥の地、神川で少年期を過ごした直人は、リアルタイムに農民美術、児童自由画教育の誕生を直視し、その渦中で小学校時代を過ごしました。
 15歳の時、山本鼎の世話で上京し、木彫家吉田白嶺の木心社に入門。兄弟子松村外次郎より木彫の手ほどきを受け、小杉法庵にデッサンを習い、自己の彫刻表現の模索が始まりました。大正14年、直人21歳で院展初入選、以後連続入選し大正15年に日本美術院賞を受賞。昭和10年には院展同人(会員)に推挙され日本の彫刻界の新風として頭角を現し始めました。
 終戦後は、新日本美術会創設に参加し、各種展覧会に出品しました。その後、以前から親交を深めていた画家で彫刻家の藤田嗣治がフランスに渡り、その藤田からの強い勧めや若い頃からの渡仏留学の夢の実現のため、47歳まで日本で築き上げた彫刻家としての地位も安定した生活も、なにより上質な木彫作品で日本一流として注目を集めていた直人がすべてを捨てて渡仏しました。
 パリに渡った直人は、昭和28年パリ展で大成功し、その後何度か個展を開き話題となり、滞欧12年の間に彫刻家から国際的な画家に見事な変身を遂げました。
 昭和39年日本へ帰国。同年滞欧作展でパリ生活12年の成果を証明しました。その後二科会に招かれ、昭和55年には内閣総理大臣賞を受賞しました。帰国後は、様々な分野の芸術に挑戦し、完全に日本の画壇に画家として復帰しました。
 西洋東洋の枠を越えたスケールの大きな作品をたくさん残して、昭和56年、76歳の生涯を終えました。

https://museum.umic.jp/jinbutu/data/016.html


西川小扇八 (にしかわこせんぱち)

西川小扇八 (にしかわこせんぱち)

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上田地方だけでなく、広く東信地方から県内にかけて日本舞踊の普及に尽力した小扇八は、明治38年東京浅草瓦かわら町に生まれました。小扇八(本名金子光みつ)の育った浅草界隈は、古くから歌舞音曲かぶおんぎょくの盛んな土地柄でした。生まれつき体の弱かった光を心配した両親は、健康のために芸事を身につけさようと、長唄や日本舞踊、華道、茶道など日本古来の伝統芸能を一通り習得させました。
 とりわけ光は日本舞踊に強く興味を示し、自ら進んで西川流に入門し、稽古に励みました。縁あって18歳で結婚しますが、婚家になじまず実家に戻ります。浅草に戻った光は生涯進むべき道を日本舞踊と決め、西川扇五郎に師事します。再び踊りの世界に没頭し、厳しい稽古に耐え、艱難かんなんを克服して次第に頭角とうかくを現あらわし、師匠の代稽古を勤めるほか、近県各地の門下生の発表会や温習会に指導や出演するなど精力的に活躍しました。
 そんなおり、当時長野県下の舞踊指導に時々招かれていた扇五郎師匠は、日本舞踊を長野県下東信地方に普及させるために本格的な指導者を定着させようと考え、光の努力と才能に目をつけ、上田での指導を強く勧め、その結果、光が25歳の時、単身で上田市に転居することになりました。
 上田市での住まいは、鷹匠町公会堂の隣です。稽古場付きの居を構え「西川流名取師範西川小扇八」の看板を上げ、上田市に骨を埋める覚悟で再出発を図りました。芸者衆のおさらいのほか、日本舞踊を習得したいという一般家庭の娘さんたちの稽古の要望がたくさんあり、鷹匠町の稽古場は連日活気に満ちあふれていました。一方、光は東信地方の弟子たちへの指導にも力を入れ、それぞれの拠点への出張稽古や発表会の指導ほか出演を続けました。厳しい中にも人間味溢れる温かい人柄で指導し、多くの門下生に慕われました。
 そんな折、小扇八を見初めたのが松屋弁当店の主人松久仁三郎で、30近い年の差も問題とせず、お百度参りをし、その末に結婚しました。小扇八は一転踊りの合間に店の営業から経理、従業員の世話やきに至るまで、夫を支え実業家としても手腕を振るうことになりました。
 夫が昭和33年に82歳で他界した後は、踊り一筋西川流の重鎮、古参こさんの1人として長い間宗家の常任理事を務め、小扇八の教えを受けた弟子たちは、それぞれ名取師範として日本舞踊の伝承に各地で活躍しています。天にいる小扇八師匠の厳しい中にも温かいまなざしに見守られながら。

https://museum.umic.jp/jinbutu/data/044.html


林倭衛 (はやししずえ)

林倭衛 (はやししずえ)

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父は、倭衛が小学校在学中に製糸工場経営に失敗し、明治40年の春、倭衛と弟を実家の小林家にに預けたまま夜逃げ同様に東京へと出てしまいました。実家は上田駅に近い北天神町通りで蚕種用の和紙などを商っていましたが、倭衛は友人たちから離れ孤独にさいなまれましたが、同じ頃に同じ北天神町に移り住んだ馬場衛まさるが、生涯の友となりました。約1年の後にようやく父母の下に引き取られはしたものの、何かにつけて旧士族出身にこだわって失敗を繰り返す父に対して、倭衛は激しく不信を覚え続け、やがて少年の孤独感は次第に不屈な自立心へと成長していくのでした。
 明治43年には印刷会社の給仕となり月給を得るようになると、近くの水彩画研究所の夜間部に入り、明るく旺盛な好奇心のままに、生涯にわたる美術関係の友人を得ました。そんな矢先、林一家が住みついていた牛込の近くに住む詩人千家元麿によって、ホイットマンの「草の葉」の世界を知り、倭衛は詩人の道を歩むのか、絵の世界へ進むのか未来は不定でしたが、倭衛の社会的関心は巨おおきな輪のように脹らんで、やがてバクーニン宣言に巡りあい、倭衛は当時としては「究極的な理想主義」の言葉に巡り合えたような情熱を覚え、同じような青年たちとサンジカリスム研究の仲間を作ったのです。そんなグループが社会改革を目指して『近代思想』誌を発刊し、進んで『平民新聞』を刊行に至ったのが大正3年の秋でした。同じ風潮が画檀では二科会を立ち上げていました。
 大正5年には有島生馬の知遇を得るに及んで倭衛の画才は刺激され、二科展に出品して入賞を果たし、大正8年には「出獄の日のO氏」によって画檀話題の中心人物となったのです。そんな順風に乗って大正10年から足掛け6年に及ぶフランス、ドイツの留学では、次々と訪れる日本人画学生の中心人物となり、遂にはセザンヌのアトリエで制作を許された唯一の日本人画家となりました。そんな栄光が貧しい一家を背負い続ける倭衛にもたらしたのは酒と女に精魂を傾ける生活であり、画商によって金縛りとなる放浪でした。
 健康を損ねた倭衛が昭和20年、終の棲家となった浦和市で永眠する時、枕辺には少年の日からの友、馬場衛が戦時下物資欠乏の中にも酒と郷土の味を運んできてくれました。集まった有島生馬以下の先輩知友に対し、倭衛は禁酒禁煙を誓い明日の芸術的精進の夢を語り、枕頭での饗宴を望んで眼を閉じました。49歳でした。

https://museum.umic.jp/jinbutu/data/026.html


笹沢檪亭 (ささざわれきてい)

笹沢檪亭 (ささざわれきてい)

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檪亭は、安政2年(1855)、小県郡坂井村(現上田市塩川)に生まれ、本名を清十といい、幼い頃より画才に富み、花鳥画を描いては村人を感嘆させたといいます。早くに父を亡くし苦労して育ちますが、母の理解もあって、明治6年(1873)、18歳の折に島田桃渓とうけいに師事して絵の指導を受けたのを手始めに、明治18年(1885)、29歳の時には、水戸の木下華圃かほに師事。この頃から専業画家としての道を歩むことを真剣に考え始めたものと思われます。
 明治19年(1866)、31歳の折には終生の師となる児玉果亭に入門を許され、果亭より檪亭の雅号を受けました。この檪亭が入門した明治19年は、第2回内国絵画共進会に出品した果亭の即品が天覧に供され、出品2点のうち1点が宮内省買上げ、1点が銀杯(この年、金杯はなく銀杯が最高の評価)を受賞するというように、果亭の名声が一挙に高まった年でした。この受賞を契機に県内はもちろん、新潟・群馬などから入門者が集まりましたが、菊池契月けいげつなどに交じって檪亭も加わっており、以後本格的な南画家としての道を歩むことになったのです。
 果亭は『芥子園画伝』の四君子(蘭・竹・菊・梅)の手本の描写から始める独特の指導法により、多くの弟子を養成しましたが、果亭門下への入門を境に檪亭の画才は一挙に花開き、明治24年37歳の時、京都市の日本画共進会に出品した『仙客観瀑せんきゃくかんばく図』が二等賞となったのを最初に各地の展覧会に出品・受賞を繰り返し、文字どおり南画家としての地位を固めることになりました。
 30代から40代が檪亭にとっての飛躍の時期とするならば、50代以降は円熟の時期といえます。郷土にしっかりと根をおろして、制作活動を続けるかたわら幾多の弟子の育成にも情熱を注ぎ、平林大虚たいきょ・青木石農せきのう・庄村竹亭ちくていなど、後にこの地方の画檀を担う画家たちを輩出しました。その門人は数十人に及び、上小地方に一大勢力を築きました。
 大正2年、58歳の時には、南画家を主とする全県的規模の「信濃美術会」を発足させ、会長に就任。画家として、指導者としての顔のほか、関係団体の役員としての活動も活発に行いました。60歳以降の晩年には檪堂れきどうと号し、昭和10年、80歳で逝去しました。

https://museum.umic.jp/jinbutu/data/036.html


飯島保作(花月)(いいじまほさく(かげつ))

飯島保作(花月)(いいじまほさく(かげつ))

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飯島保作は、文久3年(1863)に飯島家の長男として横町に生まれました。明治6年(1873)上田街学校に入学し、明治10年(1877)に上等小学校全科を卒業しました。上田街学校の教員補助の職は、天皇の御巡幸が終わった後退職し、家業(質屋)に従事しました。
 自らが作成した年賦には「家業のかたわら独学」とあります。向学心旺盛な青年で、この向学心が実業家飯島保作を生み、このころから雑誌に狂歌、川柳等々の投稿を始め、後の上田地方の庶民文学のリーダーとしての文学上の資質を開花させたのです。
 保作は、上田商工会議所会頭、第十九銀行の頭取を歴任して生涯を閉じた上田を代表する傑出けっしゅつした実業家でした。明治15年(1882)10月、上田郵便局に採用され、最初の職業の第一歩を踏み出し、9年間在職しました。この間、上田商業会議所の前身である上田商工会創立に関与して、常議員となり、さらに、同会の幹事を歴任するなど経済団体の役員に推され活躍しました。
 一方で、明治23年(1890)に第十九国立銀行取締役に選任されたほか、様々な会社の取締約に就任するなど経済界との深い関わりを持つようになりました。大正8年(1919)には頭取に就任し、昭和6年(1931)まで在任しました。この年の4月「県下財政の安定と銀行経済の安定化」のため、第六十三銀行(松代)との合併推進に奔走し、6月に合併仮契約を締結、8月には「八十二銀行」として発足することになりました。ところが、合併を目前に病魔に侵され、7月末急逝しました。享年69歳でした。
 飯島保作の数ある業績の中で、後に「花月文庫」と称される蔵書を残したことは、特筆に価することでした。保作は、生涯をかけておびただしい数の貴重な古書(特に江戸時代庶民文化関係)を収集し、昭和26年、遺族の飯島家では、8,715冊の古書を上田市に寄贈されました。上田市ではこの書籍を市立図書館の蔵書として、「花月文庫」と名付け、保管しています。「花月」は保作のペンネームだったからです。
 飯島保作は、貴重な古書を後世に残すとともに、小説や随筆のほか論評を書き、和歌、狂歌、川柳に多くの作品を残して、その類まれな文人として資質を開花させました。著作家、読書家、研究家として残した足跡は、「花月文庫」とともに永久に光彩を放つことでしょう。

個人的な感想になるが、花月というペンネームがかっこいい。

https://museum.umic.jp/jinbutu/data/002.html


青木雪卿(あおきせっけい)

青木雪卿(あおきせっけい)

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現在の長野市松代町岩野に生まれる。通称八重八、号を雪卿とした。川中島の更級雄斎 に絵を学んだとされる。松代城の障壁画を描き、多くの肖像画を描いたと伝えられる。 弘化 4 年(1847)に起こった善光寺地震後の被災地を、8代藩主真田幸貫の巡行どお りに描いた『感応公丁未震災後封内巡視図』は、被災地を写実的に描いた彼の代表作であり、災害史の重要な記録である。パノラマ写真のような眺望図や、実景を尊重する極めて 写実的な表現は、写真の影響を想像させるような、新しい表現が見られる。

https://nagano-citypromotion.com/learning/person.html

https://www.sonpo.or.jp/report/publish/bousai/yobou_jihou/pdf/ybja_ez/ybja-ez-174.pdf

※図は『感応公丁未震災後封内巡視図』の一部である。


恩田緑蔭(おくだりょくいん)

恩田緑蔭(おくだりょくいん)

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文政2年松代生まれ。本名はゆり。桜雲亭緑蔭、桂月由里などとも称した。松代藩絵師の山田島寅や青木雪卿に師事、葛飾北斎や与謝蕪村にも私淑して作品を模写している。花鳥図や松代の風景、藩にゆかりのある人々の肖像を描いた。平成17年、長野市の水野美術館で「恩田緑蔭展~知られざる信州の元祖女流画家~」が開催された。明治7年、55歳で死去した。

※図は「写生集壱」

https://yuagariart.com/uag/nagano09/


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