登録リスト(該当:5件)

写真タイトル説明登録日
1農民美術運動を促進した人物農民美術運動を促進した人物版画家・山本鼎は、明治15年愛知県岡崎市で生まれましたが、父親が小県郡神川村大屋(現在の上田市大屋)に大屋医院を開業したため、鼎は上田との由縁がありました。 鼎は版画家としてだけでなく、画家としてもその名を残しました。明治35年、20歳で東京美術学校へ入学し、「湖畔」で有名な黒田清輝に油絵を学びました。大正元年にはフランスに渡り、その間に描いた作品はどれも好評を博しました。 帰国後、児童画とその指導方法の改革を目指した運動を起こします。鼎は絵を描く技術、方法が重要ではなく、自分の目で見て、感じたとったものを描くことが、児童の発達に大切などだと説きました。その後大正8年4月には神川小学校で第一回児童自由画展覧会を開催し、自由画教育は全国各地に広がりました。 一方、大正8年11月には神川村2023-01-25
21年後期 前川課題発見ゼミ最終まとめ1年後期 前川課題発見ゼミ最終まとめ調査テーマ「地域の特色・歴史」まとめ 上田の歴史的な出来事・人物と聞かれれば多くの人々が「真田氏」に関する事柄を思い浮かべるだろう。しかし、今回の調査を行う中で、真田氏以外にも日本の歴史・文化に多大な影響を与えたと言える人物も存在することを知った。 例えば、上田藩主を務めただけでなく、江戸幕府老中として条約の締結にも尽力した「松平忠固」、日本の児童画に大きな転換・影響を与えた「山本鼎」は良い例だろう。功績としては素晴らしい物であると断言できるものばかりだ。 特に山本の考えは当時としては(今の価値観で考えても)先進的な物だった。山本は真の意味での「自由」を求めた人物であり、今日の教育活動に一石を投じるものであると感じた。現代ですら「型にはまった教育」が基本的である中、山本は2023-01-19
31/12日 調査まとめ1/12日 調査まとめ上田と「山本鼎」 自由画運動 山本鼎(やまもと かなえ)は愛知県岡崎市出身の画家であると共に、上田を拠点に「自由画運動」「農民美術運動」の先駆けとなった人物である。愛知県出身の山本であるが、父親が小県郡神川村大屋(現在の上田市大屋)に病院を開業したことをきっかけに上田と縁を持つこととなる。1912年にフランスに5年間の留学へ向かった山本は、日本に帰国後、児童画の改革を目指した運動を起こした。山本の言葉に「自分が直接感じたものが尊い」というものがあるが、当時の児童画の指導方法は「お手本の模写」が主流であった。山本はこれに対し、絵の技術や方法が重要なのではなく、自分の目で見た物、感じた物を描くことが児童の発達にとって大切であると説き、1919年に神川小学校で第一回児童自由画展覧会が開催され、2023-01-12
4山本鼎の「本来の自由画」昭和初期の子どもたちの絵に思うこと山本鼎の「本来の自由画」昭和初期の子どもたちの絵に思うこと★神川小学校 昭和初期の子どもたちの絵―児童自由画教育運動の流れをくんで― https://museum.umic.jp/kangawa/ 『山本鼎物語』の著者、神田愛子さんから神川小学校の昭和初期の子どもたちの絵を上田市マルチメディア情報センターがデジタル化したというお話を聴き、同センターを訪れました。神川小学校の「山本鼎先生の部屋」に保管されている600点の児童画があり、それらがデジタルアーカイブ化され、ネットに公開されています。 この絵たちを見て、小中学生が描いたとは思えないほどに大人びていて、「えっ、これが自由画なの?」という疑問を抱きました。写生の技術がしっかりと指導され、「いい絵はこう描くんだよ」という模範的作品が並んでいます。その当時、絵の具をふんだんに使い、模範的2020-07-18
5イルフ童画館イルフ童画館長野県岡谷市出身の童画作家、武井武雄の作品が展示されている美術館。 「イルフ」は「古い」の逆さ言葉で「新しい」を意味しており、「童画」は武井武雄自身が創出した言葉です。「童画」という言葉には、「子どもの心にふれる絵」の創造を目指していた武井武雄の願いが込められているのではないかと感じました。2020-05-26
地図で見る


ログイン トップページへ