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1上田紬の歴史<衰退>上田紬の歴史<衰退>前回の投稿で繁栄した上田紬はその後衰退していきました。今回はその背景をまとめます。 盛んだった上田紬は、明治維新後に絹糸の輸出が盛んに行われるようになり、生産量が減り始めました。 その後は1930年代に世界大恐慌があり、糸代の大暴落によって蚕種業が壊滅的な状況になり、戦争が始まってからは衰退の一途を辿りました。2023-02-01
2蚕業の背景蚕業の背景江戸末期、鎖国政策を終え古くから生産されてきた生糸を中心に貿易を開始した。しかし、増える需要に対して品質基準を満たす生糸の生産が追い付かない状況であった。 明治維新を経た日本は、「殖産興業」による「富国強兵」を掲げた。それに伴い、生糸を主要な輸出品とし、品質向上、生産力向上に努めた。 新たな生産工場の建築を行うために、フランスなどから技師が招聘されるなど、積極的な動きがあった。2023-01-25
3常田毘沙門堂常田毘沙門堂お寺を引退した活文禅師が、この毘沙門堂に寺子屋を開き、教え、そして生涯を閉じた。門下には佐久間象山はじめ1000余人がおり、この地方で幕末から明治維新にかけて活躍したという。2022-12-04
4眞田神社眞田神社 眞田神社は上田城本丸跡に鎮座しており、真田氏、仙谷氏、松平氏という歴代の上田城主を御祭神としている。しかし、本来は松平家の御先祖をお祀りする御宮であり、松平(しょうへい)神社と称していた。  松平家は、真田氏、仙谷氏のあと、江戸時代中期から明治の廃藩に至るまで7代160余年の長きにわたる上田藩主であった。  上田藩主となった系統の藤井松平氏の初代忠晴公は、隠退後は忠山と号した。寛文9年(1669)に亡くなった。忠山公の御墓所は京都の金戒光明寺にあり、京都に忠山公の御霊をまつる忠山社が設けられてもいた。これが眞田神社の起源となっている。  明治維新の変革の中、国に接収された上田城もまもなく民間に払い下げられ、城跡は急速に桑園・麦畑などに変化していった。そのような情勢の中で、旧上田藩士や2022-11-30
5昭和の残り香を巡る~①上田城編~昭和の残り香を巡る~①上田城編~上田城やその城下町が残る上田市、江戸時代より城下町として繁栄を続けてきた。今回の探求では知られざる明治から昭和時代の「昭和の残り香を巡る」というテーマで探求を行いました。 今回は「遊郭としての上田城」の紹介です。 遊廓(ゆうかく)とは、公許の遊女屋(女郎屋)を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画のことです。 上田城は戦国時代、真田家の防衛拠点として大きな戦果を挙げた城で有名な場所であります。 一方、戦国時代が終わった後明治維新以降、二基の櫓は、払い下げが行われ、それぞれ金州楼、万富楼という名前を付けられ、昭和の初期まで遊郭の妓楼としての役割を果たしていました。 ※妓楼→遊女を置いて客を遊ばせる家。 防衛拠点としての上田城は皆さんが良く知る歴史であります。しかしそれ以降の歴史は知らな2022-10-25
6上田藩士・山口毅(平太郎)上田藩士・山口毅(平太郎)山口毅(つよし、通称:平太郎、号:玄山)1818年(文政元)-1873年(明治6) 山口家は初代権兵衛が1673年(延宝元)に召し出されてより代々上田藩士で、毅は6代目。松平忠礼が藩主を継いだ後、塩崎の旗本松平家へ養子となった弟の忠厚について塩崎知行所代官として仕える。明治維新後は権大参事職。明治2年に忠礼の御婚姻御用掛、明治4年には翌年にアメリカ留学を控えた忠礼と忠厚の御修行御供を命じられたが、病気のため次男の山口慎(別のファイル)に後を託し退職する。明治6年、東京の旧藩邸で死去、56才。2022-05-10
7忠固無名の謎忠固無名の謎出典:Wikipedia 岩倉使節団https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E4%BD%BF%E7%AF%80%E5%9B%A3  では、なぜここまでの功績を上げた人物の名前が知られていないのだろうか。それは、「明治維新を正当化させるためには、幕府が無能でなくてはならなかった」からである。  私たちはこれまで学校で、外交能力の乏しい幕府が列強に強要されるまま関税自主権がなく、治外法権を認めるような不平等条約を結ばされたと習ってきた。そして、明治維新後の薩長土肥を中心とした新しい国家が、幕府の負の遺産である不平等条約の改正を血のにじむような努力の末に成し遂げたとされてきた。しかし、これは明治政府が明治維新の正当性を国民に信じ込ませるために作り上げた「神話」だった。明治政府は、幕府が無能だったという前提のもとで明治維新というクーデタ2022-02-13
8明治二十四年上田全図明治二十四年上田全図この図面は、上田の町を印刷により表わした初期の地図だ。実測図ではないため、縮尺や距離感は不正確である。地図の周囲にとは、明治維新後の近代化した上田の姿を、建築物を中心に表している。「上田尋常小学校」「高等小学校(旧藩主屋敷)」、「上田女学校」、「上田停車場」、「第十九国立銀行」、「上田橋」などが見られる。図面の中央の上田城本丸には「松平神社」がある。また、本丸には櫓が2基残っていたことがわかる。二の丸は「監獄」となっている。また、大手門の堀が残存していた。明治21年に鉄道の駅「上田停車場」(現在の上田駅の前身)が営業を開始するとともに、駅と「海野町」「原町」をつなぐ「松尾町」も開通した。2021-11-14
9上田城の歴史2上田城の歴史2関ヶ原の合戦後、上田城は徳川の手で破却されたが、真田に代わって上田城主となった仙石氏によって復興された。1626年に修復された上田城は真田氏時代の縄張りを受け継いだとみられ、仙石氏の後に城主となった松平氏の代になっても、その姿にほとんど変化はなかった。明治維新後、廃藩置県により1874年に上田城は民間に払い下げられ、再び廃城となった。この際、本丸付近を一括して購入した丸山平八郎氏は、1879年の祭り神社(現真田神社)創建に当たり本丸南側の土地を神社用として寄附し1893年には残りの土地を遊園地要として寄附した。これが上田城跡のの公園化の第一歩になった。2021-11-14
10菱平農事実行組合 共有土地維持略歴菱平農事実行組合 共有土地維持略歴菱野区の旧公民館に掲げられていた共有土地維持略歴  ・明治維新により地域の共有林が国有林に編入されたこと、  ・図面作成の請負手となった区民が請負人の立場ではあったが、村民の利益を失うことに異を唱えたこと、  ・国の官吏との折衝に苦労してほぼ主張が認められたこと、  ・菱野区後平区の名義で登記できず、六人の共有名義としたこと、  ・1932年(昭和7)産業組合法が改正され昭和8年農事実行組合が組織されるに当たり、その名義としたこと、  ・菱野公会堂(旧公民館)新築に当たり、共有林からの材木を使ったこと、  ・将来に向かって愛郷の念が益々高まることを祈っていること  がわかる。 菱平農事実行組合    共有土地維持略歴 大里村大字菱平字宇坪入 一四六八番イ号              2020-07-26
11『上田市史・下巻』2/2(1940年)画像データ『上田市史・下巻』2/2(1940年)画像データページ番号(画像の連番)は表紙からの通し番号になっています。それぞれはJPG画像です。ダウンロードしてお使いください。 1ページ 表紙 2ページ 目次 3ページ 4ページ 5ページ 6ページ 7ページ 8ページ 92020-06-28
12『信濃蚕糸業史・上巻』(1937年)『信濃蚕糸業史・上巻』(1937年) <目次> 栽桑篇  第一章 桑園の期限及発達  第二章 桑品種の変遷  第三章 桑苗生産の変遷  第四章 栽培法の桑栽培法  第五章 桑樹仕立法の変遷  第六章 桑園肥料  第七章 歩桑々園の発達  第八章 夏秋蚕専用桑園の期限及発達  第九章 桑葉売買  第十章 桑園災害  第十一章 桑園の消長  第十二章 桑園経済  第十三章 桑園改善に関する本県当局の施設  第十四章 桑園の分布  第2020-06-21
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