キーワードで探す
並び替え:

登録リスト(該当:9件)

写真タイトル説明登録日
1赤渋山林道の橋梁施工赤渋山林道の橋梁施工昭和6(1931)年1月21日、失業者救済のため砥沢林道開削の件が上提された。国道142号線桶橋分岐砥沢山内、車道3000m巾3.7mである。写真裏には「赤渋山林道橋梁竣工記念(昭和11・7・8写)」と記録されているが、写された風景は雪景色である。撮影年月日は不明としておく。なお砥沢橋は昭和30(1955)年の完成である。2020-03-06
2萩倉分教場萩倉分教場萩倉分教場落成式当日。明治8(1875)年4月下諏訪学校支校が許可となって、お堂を仮校舎として発足。明治19(1886)年3月下諏訪村・長地村組合学校、萩倉派出所となり二階校舎が施工、明治25(1892)年4月分教場と改称。明治44(1911)年分教場改築の願が上堤、翌45(1912)年落成左は教員室と教員住宅、右は教室と体操場。昭和41(1966)年4月廃校となる2020-03-06
3下諏訪小学校奉安殿下諏訪小学校奉安殿運動場南はじに奉安殿を竣工する。竣工式は大正13(1924)年8月。昭和21(1946)年1月に御真影を地方事務所に奉還し奉安殿も姿を消した。2020-03-06
4水月園より諏訪湖を望む水月園より諏訪湖を望む萩倉合名会社を中心に水月園より下諏訪町を望む。萩倉合名会社(現小口克郎氏宅上)萩倉の製糸創業は明治11(1888)年篠藤・小河原氏等が機械製糸を繰業し中山道による物流(鉄道未施工),豊富な森林資源、用水の便などにより発展した。しかし明治30年代の石炭の利用、明治35(1902)年の篠ノ井線の開通、明治38(1906)年中央東線が岡谷駅まで開通、森林資源の枯渇等により立地条件が逆転し明治38(1905)年春宮下へ移転し萩倉での製糸は終止符を打った。2020-03-06
5山田政之丞宅再建山田政之丞宅再建山田正倫(政之丞)宅再建。山田(1835-1903)氏は下の原東町の元名主。明治12(1879)年6月、長野県が16郡となり戸長が公選され副戸長が筆生(ひっせい)となり、この時郡区町村編成法が施工、下諏訪村初の公選戸長に当選した。山田政之丞氏については№705参照。2020-03-06
6建設途中の山王閣建設途中の山王閣建設工事中の山王閣。秋宮南隣りの神宮寺大坊跡から裏側を撮影。山王閣は景勝地山王台に昭和40(1965)年12月24日、「国民宿舎下諏訪観光会館・山王閣」として施工した。残念ながら平成17(2006)年3月31日で営業を終了し、その後取り壊されている。100%かけ流しの天然温泉は「美人の湯」として知られ、諏訪湖を見下ろす展望の良さも売り物だった。武居源湯からの引湯であった。 №520,525と比較して見ていただきたい。2020-03-06
7山王閣山王閣国民宿舎山王閣を秋宮側からその正面を撮影。山王閣は景勝地山王台に昭和40(1965)年12月24日、「国民宿舎下諏訪観光会館・山王閣」として施工した。残念ながら平成17(2006)年3月31日で営業を終了し、その後取り壊されている。100%かけ流しの天然温泉は「美人の湯」として知られ、諏訪湖を見下ろす展望の良さも売り物だった。武居源湯からの引湯であった。 №521,525と比較して見ていただきたい。2020-03-06
8医王渡橋渡り始め医王渡橋渡り始め橋脚のない鉄橋医王渡橋を施工する。明治38(1905)年流出後架設した橋が老朽化し、大正12(1923)年8月県補助を申請し鉄橋建設、総工費5000円、中谷鉄工所請負で大正13(1924)年7月開通。2020-03-06
9奉安殿奉安殿下諏訪小学校(現中学)運動場の南端に奉安殿施工する。生徒たちは登校の際、最敬礼をして通過した。昭和21(1946)年1月御真影を地方事務所に奉環し奉安殿も姿を消した。2020-03-06
地図で見る


ログイン トップページへ