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登録リスト(該当:15件)

写真タイトル説明登録日
1阿木翁助氏阿木翁助氏昭和6(1931)年に旧制諏訪中学を卒業(同期生に新田次郎氏)、上京し新聞配りをしながら築地小劇場研究所に学び、小林多喜二労農葬の名目上の実行委員長を務めた歴史の証人でもある。ムーランルージュや新生新派などの大衆演劇で活躍。戦後は菊田一夫氏とともに連続ラジオドラマの脚本家としても鳴らした。当時は日本放送作家協会理事の現職にあった。阿木氏はこの日から二ヶ月後の8月25日、癌研究附属病院で年肺がん切除の手術を受けた。平成14(2002)年に没。なお昭和52(1977)年に紫綬褒章受賞。本名は安達鉄翁。下諏訪生まれ。写真の阿木氏は何歳ごろのものか不明。2021-11-13
2みどり幼稚園みどり幼稚園下諏訪協会では戦前の昭和10(1925)年から文部省公認下諏訪幼稚園として経営していたが、戦時中は下諏訪町保育所に吸収され、園舎は軍工場に使用されていた。戦後は昭和26(1951)年仮免許で再び幼稚園を始め、翌27(1952)年文部省管轄下にある教育施設として、県知事の認可を得て「みどり幼稚園」と改名した。この年平成2(1990)年は戦後の幼稚園開園から40年目にあたる。園舎の軒に「開園記念バザー」の幕も見える。2020-09-08
3下諏訪小学校下諏訪小学校写真上は下諏訪小学校(現下諏訪南小学校の旧校舎)の校門と玄関。写真下は諏訪湖方面からの撮影、学校のまわりは田んぼに囲まれている。 下諏訪学校の「南校」(低学年)が南四王に開設されたのは大正12(1923)年である。さらに昭和22(1947)年に戦後の新しい戦後教育制度のもと「下諏訪小学校」が発足している。また、児童の増加から昭和46(1971)年には新たに「下諏訪北小学校」が開設され、それまでの「下諏訪小学校」は「下諏訪南小学校」として新しい歴史を刻んできている。2022-01-20
4水月公園さくらまつり水月公園さくらまつり戦後、「水月公園さくらまつり」で行われていた「広告コンクール」の一風景。2022-03-13
5秋葉山の展望台秋葉山の展望台秋葉山に設けられた展望台。水月会で戦後の昭和21(1946)年1月から水月園の復興に着手、28(1953)年4月秋葉山一帯を公園化することを条件に下諏訪町に寄付。町では秋葉山に展望台を設け自動車道を開きつつじ・かえで・桜を植えた。2021-12-26
6成人式成人式戦後の成人式、中央に黒田町長。 諏訪大社秋宮幣拝殿前にて、昭和40年度、女性成人の集合写真。2021-12-18
7荷馬車荷馬車この写真は和田峠を越えて戦後の買出し風景。荷馬車で荷を運搬、荷車の端に信号が写っている。また、はっぴの襟に高木石工場の文字が読める。2020-03-06
8阿木翁助氏阿木翁助氏帰郷し、なじみのスナック(スナック天国)でくつろぐ劇作家の阿木翁助さん(当時77歳)。昭和6(1931)年に旧制諏訪中学を卒業(同期生に新田次郎氏)、上京し新聞配りをしながら築地小劇場研究所に学び、小林多喜二労農葬の名目上の実行委員長を務めた歴史の証人でもある。ムーランルージュや新生新派などの大衆演劇で活躍。戦後は菊田一夫氏とともに連続ラジオドラマの脚本家としても鳴らした。当時は日本放送作家協会理事の現職にあった。阿木氏はこの日から二ヶ月後の8月25日、癌研究附属病院で年肺がん切除の手術を受けた。平成14(2002)年に没。なお昭和52(1977)年に紫綬褒章受賞。本名は安達鉄翁。下諏訪生まれ。2020-03-06
9製糸時代のメインストリート、今は御田町通り製糸時代のメインストリート、今は御田町通り戦前はこの通りに片倉、入一など大手製糸工場が並び、月二回の定休日には通りにあふれるほどの工女たちで賑わったものという。工女たちを集めた御田町劇場はもうない。戦後も片倉跡が「ヤシカカメラ」の工場になって、従業員の往来で活気を見せていたが、同工場が岡谷へ去ってから、(現在は「武藤工業(株)諏訪工場」に代わって)静かな商店街にな様変わりしている。2020-03-06
10消費税導入勉強会消費税導入勉強会戦後よりずっと続いてきた所得税中心の税制から間接税の比率を高める改革だが国論を二分しての論議となり議決が遅れた。町役場では税務署の係を呼び講習会を開くなど対応に追われた。2020-03-06
11諏訪実業高校下諏訪分校最後の授業諏訪実業高校下諏訪分校最後の授業終戦後昭和23(1948)年それまでの青年学校並びに実科高等女学校が廃され諏訪実業高校下諏訪分校が下諏訪中学校に併設された。それから約40年後、生徒が3人だけになってしまい、昭和63(1988)年度を持って閉校と決まった。この日は3月4日の卒業式を前に生徒3人が午後5時半最後の授業の席に着いた。下諏訪分校(夜間)最後の授業。2020-03-06
12消防組組頭就任記念写真消防組組頭就任記念写真下諏訪各地区に私設消防組が置かれたのは明治20(1887)年、富部の若者組有志がポンプを購入してからのことである。その後、明治27(1894)年に町内を4区に分け「下諏訪組」が設置された。戦中の「警防団」を経て戦後、昭和22(1947)年に「消防団」となり活動内容の整備も行われた。写真の時は「組頭」が消防のトップで高木十吉氏は最後の「消防組頭」。(戦中は「警防団長」戦後は「消防団長」と呼ばれるようになった。)下諏訪巡査駐在所の前にて高木組頭就任記念写真。2020-03-06
13萩倉の百合畑萩倉の百合畑萩倉上の百合畑。昭和20(1945)年終戦後「リンドウ」が出荷用花卉として取り上げられてから町内にはキク、カーネーション、ユリ等が導入され、町の出荷農産物として重要な地位を占める時もあった。しかし昭和40年代にはブームが去り一部の堅実な栽培がおこなわれるだけになっていた。写真の記録された昭和42(1967)年の記録を見ると、その中で萩倉東俣のユリは栽培者8名・栽培坪数2440坪で最も盛んであった。2020-03-06
14麻の供出麻の供出昭和18(1943)年戦争末期、衣類不足を補う為軍の命令で町内の草地で麻を栽培。明新館前に大がまをしつらえて剥し繊維を供出。村人が動員されて横吹の畑麻を刈り取ったときの写真。若い人が出征し中高年者が多い。この麻が戦後まで残って麻薬の原料になると、根絶させるのに苦労した。2020-03-06
15みどり幼稚園みどり幼稚園新町下にあったみどり幼稚園の園庭にて、保護者・園関係者の記念写真。前列中央は園長の山田与八氏。 下諏訪教会では戦前の昭和10(1935)年から幼稚園経営をしていたが戦争中は町保育所に吸収され園舎は軍事工場に使用されていた。 戦後の昭和26(1951)年仮免許で始め、再び幼稚園を翌年正式の設立認可を得てみどり幼稚園と改名した。 2020-03-06
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