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写真タイトル説明登録日
1諏訪大社秋宮ライトアップ諏訪大社秋宮ライトアップ令和4(2022)年8月、諏訪大社は5日夜、秋宮のライトアップを始めた。半年の無事に感謝し、残りの平穏を願って参拝する「夏詣(なつもうで)」にちなみ初めて企画したもの。社殿や鳥居などを照らし、境内は幻想的な雰囲気に包まれた。ライトアップは14日(日)まで午後5時から午後10時まで行った。神職は「諏訪大社で行う夏詣の取り組みは2年目。来年も続けていければ」としている。神社も時代と共に変化している。 2022-09-14
2祝神稲荷社祝神稲荷社富部村本郷に祀られた、村内・宮坂巻の「祝神(いわいがみ)稲荷社」。 昭和61(1986)年の御柱祭の後不慮の禍で無残に倒壊折損した。 鳥居には長い由緒があり、富部村中のの信仰に深いつながあった。2021-12-23
3若宮社標若宮社標富部地区(第十区)の高台にある若宮神社の鳥居の横にある若宮様の社標。現在この社標碑は甲州街道沿いに立っている。2021-12-23
4米守神社米守神社村の鎮守で、初めは「お鍬様(おくわさま)」と言って開拓神として祀っていたという。当時は今の鳥居の所にあったが、周りに人家等が増えたため現在地に移された。嘉永7(1851)年に新しく本殿と拝殿が建立され、この時奥の院として郷林に安置された石の祠には「正徳二年ミたつ四月日」と年号が刻まれている。2022-03-24
5東山田・若宮社跡東山田・若宮社跡副祝山田氏の祝神と伝えられている。旧中山道の福沢川と鋳物師沢川の中間に鳥居と祠があったとされるが、昭和初期の水害で流され自宅屋敷内に移されている。写真は若宮社跡の案内板である。2022-03-24
6万治の石仏万治の石仏昔、近在の人々は「浮島の阿弥陀様」と言いお参りをしていた。(№558で下ノ原の念仏講が行われていたころの写真を合わせてみていただきたい。) 江戸時代五代藩主忠林(ただとき)が、各村に命じて画かせた諏訪藩主手元絵図(東山田の図)には「えぼし岩」とある。また三代藩主忠晴が春宮の大鳥居建立の時、石工がノミを入れたとき血が流れ出たので阿弥陀如来を掘り祀った話も残されている。この石仏が世に知られるようになったのは故岡本太郎画伯が絶賛してからと言われる。「万治の石仏」の呼び名もそのころからと言われる。一方年号や願主の名が彫られていることや胸にみられる太陽・月・雲などの模様や逆卍などから江戸初期の木喰弾誓上人とも関係があると考える人もいる。2022-03-19
7お舟祭りお舟祭り夏の遷座祭(お舟祭り)、下諏訪駅前の広場で騎馬行列が勢ぞろいしての記念撮影。第一区・第三区の騎馬が一緒に写っているのは珍しい。後ろに見える駅前の大鳥居は明神型の鳥居で、昭和25年に御柱の古材を使って建て替えられたもの。この鳥居は昭和31年ネオン塔に取り替えられた。「広瀬町誌」には昭和33年の写真と記載されているが、民聲新聞等を調査した結果、33年にはすでにネオン塔になっていることが判明した。2021-05-03
8長持ち・花笠記念写真長持ち・花笠記念写真「31,5,11 御柱祭記念」、長持ち・花笠勢揃い。2022-06-08
9お舟祭りお舟祭り遷座祭の柴舟が春宮の鳥居を出て秋宮に向かう様子。柴舟に下原・大社の神紋がついたちょうちんが飾られている。氏子の服装が現在の揃った姿とはだいぶ違う。2021-11-03
10お稲荷さんお稲荷さん龍の口から中央通りに下る道沿い、桜町にあるお稲荷さん。2020-03-06
11遷座祭遷座祭遷座の列を先導する白丁奉仕の氏子の皆さん。その後ろに赤く塗られた鳥居が飾られた御正台(みしょうだい)がつづく。御正台は大御正台と小御正台があります。さらにその後ろに錦をかけられた御霊代(みたましろ)を遷した神輿が続きます。2020-03-06
12お舟祭りお舟祭りお舟祭。「来八月一日午後一時より執行遷座祭並例祭・官弊大社諏訪神社社務所」の立て看板が見る。2020-03-06
13秋宮に着いた柴舟秋宮に着いた柴舟この年の御頭郷は岡谷、秋宮境内へ引き入れられた柴舟。この後柴舟は神楽殿を3周した後神事相撲などの奉納をし翁媼の人形のおたき上げを内御玉戸社(うちみたまどしゃ)で行い祭りは終了する。柴舟に飾られた柴を悪疫退散のお守りや縁起物として多くの人が持ち帰る風習も残る。2020-03-06
14大鳥居のある街角大鳥居のある街角春宮大門大鳥居と参道。正面は諏訪大社春宮の870mに及ぶ参道。鎌倉時代には流鏑馬が行われていたらしい。かつては見事なさわら並木で、昼なお暗い道だったという。鳥居の後方左の大きな建物は製糸時代の繭倉で平成元年は倉庫会社の倉庫になっていた。 現在は西友下諏訪店になっている。2020-03-06
15消防団訓練消防団訓練消防団員不時呼集訓練。2020-03-06
16旧御射山(もとみさやま)遺跡調査旧御射山(もとみさやま)遺跡調査諏訪史第一巻編纂あたり旧御射山遺跡の調)査をする(写真に「本郡先史時代最高遺跡地(舊御射山)一行」と記載。写真中央に腕組みしているのが鳥居龍蔵と思われる。調査員一行は大正9(1920)年、霧ヶ峰山塊北西部に位置する星ヶ塔周辺が黒曜石原産地遺跡と明らかにしている。 鳥居龍蔵一行、左から萩倉の人、浜孝吉、鵜飼貞直、鳥居龍蔵、牛山伝蔵、八幡一郎、鳥居の後ろに立つのは今井真樹、その隣は萩倉の人。2020-03-06
17春宮大門先大鳥居建立春宮大門先大鳥居建立この写真には「明治25(1892)年春宮大門先に建てる銅(からかね)鳥居を塩尻峠経由で到着させるとこ」と裏書あり。春宮大門先へ銅鳥居が建つ(明治25(189)2年)。大鳥居建設落札者河西準之助、河西寅吉と鋳造者小島大二郎(上田市)の三氏が礼服乗馬で指揮して、その部品を荷馬車で和田峠越えが困難なために保福寺峠を迂回して松本・塩尻峠経由で運んだという。2020-03-06
18春宮大門先石燈篭と 丸三倉庫春宮大門先石燈篭と 丸三倉庫旧中山道添の春宮大門先石灯篭(常夜灯)〔文政12年(1829)建立〕から春宮大門の銅鳥居を望む。鳥居の奥に見える屋根は第五倉庫、常夜灯横の建物は事務所。丸三倉庫現下諏訪倉庫(三井)の六号倉庫で昭和44(1969)年諏訪信用金庫下諏訪支店(信金は昭和38(1963)年四ツ角に新築、昭和44(1969)年12月現在の場所に移転した。)丸三倉庫は「倉荷証券」を発行し金融事業も手掛けた。支配人は小口文次郎他に共同倉庫、湖国倉庫(現イングスシナノ、大和電気)をも担当したが両倉庫とも「空券事件」により廃業となった。 改修後の写真№575と比較して見ていただきたい。2020-03-06
19春宮大門先石燈篭と丸三倉庫(現諏訪信金下諏訪店)春宮大門先石燈篭と丸三倉庫(現諏訪信金下諏訪店)旧中山道添の春宮大門先石灯篭(常夜灯)〔文政12年(1829)建立〕から丸三倉庫(現諏訪信用金庫下諏訪店)を左に見て、春宮大門の銅鳥居を望む。丸三倉庫№576(昭和37年)との違いが見える。2020-03-06
20万治の石仏 下の原念仏講万治の石仏 下の原念仏講浮島横の万治(まんじ)の石仏。この写真は大正15(1926)年に河西政常氏により撮影されたもの。地元の人々は「あみだ様」「みたらしの石仏」と呼んで信心を続けてきた。下の原念仏講では長く万治石仏前で念仏の行事を行ってきた。 伝説では高島藩三代藩主忠晴候が春宮に石の鳥居を寄進しようとしたとき、石工がノミを入れると石から血が出たと伝えられ、のち石に阿弥陀如来と刻んで供養したという話も伝えられる。 石仏の側面に「万治三年」の年号や、「願主明誉浄光・心誉廣春」と刻まれていること、万治3(1660)年から70年後の諏訪藩主手元絵図には石仏ではなく「えぼし岩」と書かれていることなどから、木喰行者弾誓(たんせい)一派の信者が残したものではないかとする見方もある。 石仏としては首と胴がちぐはぐであったり、胸に袈裟と2020-03-06
21八幡社から千尋池を写す八幡社から千尋池を写す八幡社境内から千尋池を写す。2020-03-06
22官弊中社諏訪神社下社春社官弊中社諏訪神社下社春社絵葉書「(諏訪名勝)官弊中社諏訪神社下社春社」。鳥居の前に燈籠、鳥居の奥にはさわら並木が続いている。鳥居の両側には諏訪の石置き屋根が見える。 諏訪神社が官幣中社になったのは明治29(1896)年で、官幣大社に昇格したのは大正5(1916)年12月12日なので、写真はこの間に撮影されたものである。2020-03-06
23下馬橋下馬橋下馬橋と春宮。№427の写真を見て景色の変化を比較してほしい。2020-03-06
24下馬橋下馬橋下馬橋から春宮鳥居までの風景は現在とはあまり変わりはないが道路はまだ舗装されていない。 また春宮に向かい下馬橋の右側に御手洗川の分流が水量豊かに流れている。 下馬橋は春秋のお宮うつりの時に御神輿が通る橋です。2021-10-28
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