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登録リスト(該当:7件)

写真タイトル説明登録日
1米守神社米守神社村の鎮守で、初めは「お鍬様(おくわさま)」と言って開拓神として祀っていたという。当時は今の鳥居の所にあったが、周りに人家等が増えたため現在地に移された。嘉永7(1851)年に新しく本殿と拝殿が建立され、この時奥の院として郷林に安置された石の祠には「正徳二年ミたつ四月日」と年号が刻まれている。2022-03-24
2萩倉薬師萩倉薬師信濃三薬師(辰野の七蔵薬師・長谷の戸倉薬師・萩倉薬師)の一つ。由緒ははっきりしないが、一説には東山田小田野に萩倉薬師跡と伝えられる地名があるところから、ここから移転したのではないかと推定されている。明治30(1903)年に焼失したため、明治36(1903)年に再建されている。堂は堅牢、彫刻も優れているという。2022-03-24
3いいなり地蔵いいなり地蔵誰の願いもかなえてくれるというので言成地蔵尊(いいなりじぞうそん)。かつて下社の神宮寺の境内に安置され、善男善女の信仰熱く参詣する人が絶えなかったというが、明治元(1868)年に神仏分離令が公布され、神宮寺が廃寺になったとき、萩倉に移されたが、毎日少しずつ前にあった方に移動するので信者たちは驚き、元の位置に(現在地)に安置しなおしたと伝えられる。2021-06-23
4駒形稲荷駒形稲荷社ヶ丘団地は字駒形と呼ばれる地籍で、古く朝廷へ御用の馬を献上する勅使牧が置かれていたといわれる(萩倉の牧)。駒形は古代馬の形像を崇拝した最も原始的な信仰で、萩倉牧の馬神を祀る神社として創立されたものだろうといわれている。社中学校の北方に「馬飼場」という字名も残っている。2020-03-06
5木落社例祭木落社例祭木落社例祭。木落社は諏訪大社摂社の一つで木落し坂の脇に祀られている。9月27日には午前9時に木落し坂にある木落社祭が行われ、続いて萩倉上の斧立社、さらに八島ヶ原湿原西の鷲ヶ峰麓で大元尊社祭がとり行われる。また、同日午前11時頃には旧御射山社祭が行われる。 №1087・1083・1086の写真は8月27日に諏訪大社下社の一連の行事として行われる。2020-03-06
6旧御射山(もとみさやま)遺跡調査旧御射山(もとみさやま)遺跡調査諏訪史第一巻編纂あたり旧御射山遺跡の調)査をする(写真に「本郡先史時代最高遺跡地(舊御射山)一行」と記載。写真中央に腕組みしているのが鳥居龍蔵と思われる。調査員一行は大正9(1920)年、霧ヶ峰山塊北西部に位置する星ヶ塔周辺が黒曜石原産地遺跡と明らかにしている。 鳥居龍蔵一行、左から萩倉の人、浜孝吉、鵜飼貞直、鳥居龍蔵、牛山伝蔵、八幡一郎、鳥居の後ろに立つのは今井真樹、その隣は萩倉の人。2020-03-06
7大門先の石燈籠大門先の石燈籠旧中山道に面した春宮大門先の石燈籠(常夜燈)。 文政12(1829)年に作られ台座から6mの高さがある。高遠系の流れをくむ横川村(現岡谷市)の石工山田金右ェ門の子平蔵(和哉)の作といわれる。 発起人は上諏訪及び大阪の人でたくさんの寄進の人名のほか、石運びの手伝いとして湯之町・友之町・下ノ原・久保・武居・富部・東山田・萩倉新田・樋橋新田の村々名が刻まれている。 石材は高尾山から運び総工費五十両を要したという。  写真下のきなこ石の唐獅子は金左エ門作(現在はない)。         2021-04-22
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