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写真タイトル説明登録日
1芭蕉翁奥の細道芭蕉翁奥の細道芭蕉「おくのほそ道」から300年、町出身の日本画家・中村静思の代表作「芭蕉翁奥の細道」を中床にかけて楽しむ所蔵者。静思は諏訪出身の矢沢弦月門下、帝展などで活躍した。昭和38(1963)年70歳で没した。絵に描かれた曽良は諏訪の人、静思は曽良の描き方に工夫を凝らしている。2020-03-06
2蕉鹿庵前の酒宴蕉鹿庵前の酒宴写真は大正15(1926)年10月31日撮影、水月会が蕉鹿庵の前で観楓会を開いた時のもの。写真裏に右から中村春吉、中村尚(其梅)、吉沢兼之助(晩雪)河西庄三郎、中村卯一郎(如佛)、中村橲一、中村茂重(柳月)、浜平三郎(木章)、林巻平(渓月)中村牧五郎(梅屋)と名前が記録されている。 大正4(1915)年天龍道人壱百年忌記念事業にあたって慈雲寺庭前に天龍道人の詩碑を建て、遺墨展を開いた。この時、水月園の正岡子規碑左手にの観月堂のある平の一角に蕉鹿庵を茶室として建設した。8坪ほどの茶室風の建物で、句会やお花見などに利用されたが、昭和25(1950)年の台風により倒壊し除去された。 ちなみに焦鹿というのは天龍道人が愛用した「焦鹿」という言葉に由来している。。2020-03-06
3水月園観音堂水月園観音堂明治35(1902)年12月10日水月会が会員32名で慈雲寺を会場に発足した。この年慈雲寺裏の金比羅山を開山し龍湖の句碑を建て水月園と命名した。また桜樹、楓200本を植え芭蕉・蕪村の句碑も建立。明治40(1907)年には観音堂を建て、子規の句碑を建てた。明治42(1909)年5月には碧倍桐来諏にあたり、水月会に招待した。その後、曽良の句碑を建てたり園域を拡大しつつじの植栽をするなどして整備されてきた。明治28(1895)年には町に寄付され「水月公園」と改称されている。写真は水月園観月堂の葉書。2020-03-06
4芭蕉句碑芭蕉句碑明治27(1894)年4月20日、萩倉観音堂坂登口(落合橋畔) 、芭蕉の句碑が建立。「雪ちるや穂屋のすすきの刈の残し」は芭蕉200年忌に下原の山田正倫(正之丞)ら9名」が発起で建立。2020-03-06
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