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登録リスト(該当:8件)

写真タイトル説明登録日
1峯見薬師堂峯見薬師堂東山田草分けの家が招聘した薬師といわれている。御詠歌に「はるばるとのぼりて拝む峯御堂、朝日なくなく夕日輝く」とある。またお堂の前の石仏には切られ地蔵の伝説も残る。堂の中には「め」という文字が天井や柱のあちこちに書かれてあるという。目の病気が治るよう願を込めたものと考えられている。2022-03-24
2かなやき地蔵・来迎寺かなやき地蔵・来迎寺来迎寺境内にある銕鐃(かなやき)地蔵にちなむかねと銕鐃地蔵の伝説を大和作内がブロンズ像にしたもの。 かねという奉公娘が弁当を地蔵に備えていたのを主人の妻に叱られ火箸で額にやけどを負わされたが、地蔵が身代わりとなったことで女主人は改心。やがてかねは都に出、和泉式部となったという伝承。境内には地蔵尊が祀られているお堂があり、一年に一度御開帳されている。2022-03-19
3久保街道石碑群久保街道石碑群久保街道、サトーニットの北側の道を北の方にもぼっていくと、石仏や石碑を集めた一角がある。御柱に囲まれて、ひときわ大きな秋葉大権現の石碑と並んで、蚕玉神、道祖神、二十三夜講などの石造物が所狭しと置かれている。古くは近くにお堂があったと言われている。これらの中には、男根を模した石柱に道祖神と刻み込まれたものもあり、古く先人の信仰の姿を知ることができる。2021-06-03
4峰見薬師堂峰見薬師堂東山田地区には峰見薬師堂(増沢マキ・宮坂マキ)と西浦(裏)薬師堂(山田マキ)があり、マキによる講のお堂で春秋の彼岸に講中が集まり念仏講を唱え祭りをしている。写真は西裏薬師堂である。西裏薬師堂は茅葺き高床式の厨子内に江戸時代と思われる朔像の医王薬師如来両脇土が立ち、他に弘法様2体、絵馬「め」は眼病の救済に崇められた。山田マキの墓地内にある。2020-03-06
5樋橋延命地蔵樋橋延命地蔵樋橋地区の入口に建つお堂に延命地蔵が祭られている。この地蔵は昔、和田峠を越えてきた一人の六部(ろくぶ:行者僧)が背負ってきたといわれているが、六部は脇本陣の大黒屋で急に亡くなってしまった。村人は哀れに思い、お堂をつくりお地蔵様をその中に祀りその霊を慰めたといわれている。写真は樋橋延命地蔵の縁日。2020-03-06
6萩倉分教場萩倉分教場萩倉分教場落成式当日。明治8(1875)年4月下諏訪学校支校が許可となって、お堂を仮校舎として発足。明治19(1886)年3月下諏訪村・長地村組合学校、萩倉派出所となり二階校舎が施工、明治25(1892)年4月分教場と改称。明治44(1911)年分教場改築の願が上堤、翌45(1912)年落成左は教員室と教員住宅、右は教室と体操場。昭和41(1966)年4月廃校となる2020-03-06
7来迎寺来迎寺知恩院を本山とする浄土宗寺院で引接山聖聚院来迎寺という。寺の由緒によれば天文10(1541)年草創という。 来迎寺は明治40(1907)年10月7日の火災で本堂、庫裡を失ったので、翌年東筑摩洗馬村の廃寺を移して庫裡として、昭和11(1936)年本堂を再建(棟梁立石初三郎)、同32(1957)年鐘楼、梵鐘をつくる。同寺の鉄焼(かなやき)地蔵尊とお堂は町の文化財に指定されている。 山門左手前の道路は明治29(1957)年に開さくされた中山道の新道(お花見新道・国道)である。2020-03-06
8明新館明新館古くは行屋(お堂)があったところで、明治10(1877)年に学校建築の費用に充てるため御堂と土地を民間に売ったが、明治24(1891)年にお堂を取り壊して集会所を建て、「明新館」と名付けた。 下諏訪町最初の集会所。その後何回か改修を重ねてきたが老朽化により昭和41(1966)年現在の建物に改築されている。 写真は改築直前の昭和40(1965)年の明新館。 下原中村勝五郎の日記(日嘉恵雑書帳)に「明治24年200円にて明新館建てる」とある。玄関と平石屋根は明治32(1899)年の改修。行屋にあった十王像(町文化財)は現在同館に保存されている。2020-03-06
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