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写真タイトル説明登録日
1石投げ場から見た諏訪湖石投げ場から見た諏訪湖石投げ場から見た高木、中央東線、国道20号、諏訪湖の様子。 中央東線は架線がない。国道20号には車はほとんどなく、オートバイと歩行者ばかりである。 *こちらの写真は当時では珍しいカラー写真です。2024-03-31
2中央デパート中央デパート国道20号線大社通り交差点(四ツ角交差点)にある衣料品店「中央デパート」は長年にわたり下諏訪町民に親しまれてきたが、令和6(2024)年3月74年の歴史に幕を下ろした。写真は開店前の店先、入口の看板。 以前は手前茶色い建物は菓子店、白い建物は文房具店、人形店、中央デパートと店が並んでいた。2024-03-26
3歩行者天国歩行者天国広瀬町歩行者天国のセレモニー風景。 写真中央に高木町長の姿も見える。2022-08-09
4蒸気機関車蒸気機関車JR東日本が動態保存するSL、Ⅾ51型蒸気機関車498号が下諏訪町の高浜橋付近を走行した時の写真。2022-01-13
5ジジ穴・ババ穴ジジ穴・ババ穴町指定の文化財、ジジ穴・ババ穴古墳。秋葉山から続く斜面にいくつもの古墳が点在していたと言われる。横穴式の石室を持つ古墳時代未明の古墳と伝えられている。写真上がジジ穴、下がババ穴、写真中は町教育委員会の案内板。 言い伝えでは、大昔、火の雨が降ったことがあり、その時この2つの穴に逃げ込んだ人だけが難を逃れて生き残ったという。2022-03-24
6承知川下流の治水工事承知川下流の治水工事承知川は大雨の度に洪水や溢水に悩まされてきた。何度か洪水対策がされてきているが、写真は令和3年春の承知川河口近くの洪水対策事業の工事風景である。左岸には「総合スポーツ施設AFASスワ」がある。この付近は夏になると蛍が多く飛び交うアシ(ヨシ)などの草むらがあり、付近の町民などが夏の夕べにホタル見物し楽しむ光景が見られた。この工事で景色が一変してしまった。2022-03-24
7医王渡橋と砥川医王渡橋と砥川春宮の西、砥川にかかる医王渡橋。「医王」とは薬師如来の異称と言われる。春宮の別当寺が観照寺で、その本尊が薬師如来であり、その地の渡るという意味で付けられた名称と言われている。医王渡橋の架け替えられた時の写真や砥川が氾濫した時の写真もあるので比較しながら見ていただきたい。2022-03-24
8明新館明新館第一区明新館。春宮大門に面しているので、古い写真に様々な形で記録が残されている。「明新館」で検索しその変遷を見ていただきたい。2022-03-24
9犬射馬場跡標石犬射馬場跡標石犬射馬場四至ノ標石の内、北東と東南隅の写真。山王台の下に郷殿という諏訪明神大祝の屋敷(下諏訪中学校あたり)があり、この屋敷の西続き下の段を馬場(ばっぱ)といい、犬射馬場があった。鎌倉時代の武士たちは、日ごろから笠懸・流鏑馬・犬追物などの鍛錬に励んでいた。この馬場では主に犬追物を行い、またその事にまつわる祭場でもあった。江戸時代になりそれらが廃ると馬場には人家ができるなどしたため、享保18(1733)年、さらに明和6(1769)年に神社・氏子立ち合いで検地確認したという。これはその時の標石である。2022-03-19
10承知川下流改修工事承知川下流改修工事たびたび溢水してきた承知川の河口部の令和3年6月の改修工事の様子。写真右手は「アファス」だが、この工事の場所は知る人ぞ知る「蛍の発生場所」だったが、その面影は全くなくなってしまった。河川の氾濫と生活防衛は相反する部分もあるが、ここまで護岸工事が進むともっと他のやり方はなかったかと考えさせられてしまう。2022-03-19
11中山道一里塚(五十五里塚)中山道一里塚(五十五里塚)下諏訪町には、一里塚が4か所置かれていた。甲州道中の53里塚(富部)、中山道の53里塚(西餅屋下)、54里塚(町屋式上)とこの写真の55里塚である。かつては街道両側に塚や根張りの良い木が植えられていたが、現在は標石が建てられているばかりである。2021-08-03
12下諏訪消防署下諏訪消防署下諏訪消防署。現在の消防署は元保育所のあった場所に新しく移築されたものだが、参考に第4保育園の頃の写真は№926をご覧いただきたい。2021-08-03
13一本柳神社一本柳神社赤砂地区の産土神・一本柳神社。№663の写真と比較していただきたい。リンゴの木に囲まれて神社がある風景はあまり変わらないが、湖畔道路開通の記念碑は土手の上から一本柳神社の片隅に移されている。№658,660の写真には碑が砥川の土手の上、新しく開削された湖畔道路の横に建てられているのがわかる。この神社境内は、赤砂地区の人々により公園化され、ホタルの里や果樹の里として整備されている。2021-08-03
14魁塚(相楽塚)魁塚(相楽塚)現在の魁塚の写真。魁塚については№1・2・3と比較し参照されたい。2021-06-23
15殿村遺跡殿村遺跡殿村という名から高木氏の居城跡ではないかと言われていたが、昭和23(1948)年に地元の長崎賢吾氏が注目し発掘に及んだ。その後、数度の発掘で、縄文時代中期の住居址、弥生時代の住居址、奈良・平安時代の住居址、中世の住居址などが検出され、それに伴う遺物が多量出土している。発掘結果からすると、遺跡の領域は東照寺地籍まで延び 、広い範囲に及んでいる。(生涯学習ガイドブック1より) なお発掘の様子や住居址復元の様子の写真があるので参考にしてほしい。2021-06-03
16下諏訪上空(西赤砂付近)下諏訪上空(西赤砂付近)赤砂上空から西赤砂(砥川右岸)を撮影していると思われる。写真右上に鷹の橋と砥川が見える。中央(写真右上から左下へ)を走る道の北側(写真上方)には田んぼが広がっているが、現在は一般県道岡谷・下諏訪線が東西に、西大路通りが南北に新しく開設されている。西大路通りは写真のほぼ中央やや上あたり、現在の西赤砂信号まで整備され、地域の景観はずいぶん変化している。なお、十四瀬川が写真左上から道路を横切って右下に流れている。写真では黒っぽく筋のように見えている。また、写真左上や右下にリンゴ園と思われる果樹園らしき景観も確認できる。2021-04-18
17航空写真 四王上空航空写真 四王上空写真中央を右から左へ中央東線が走っている。左端が下諏訪駅。右上に弧を描いて走る道路は国道20号線。写真中央鉄道線路の下を横切っているのは、四王ガードで線路北から諏訪湖に向かう道路(古川通)である。写真では家が立ち並んでいるが、四王ガードより南側(写真下側)はかつては田んぼや諏訪湖畔の低湿地が広がっていた。また、写真右下の工場は大和電機である。2021-04-18
18旧庁舎前にて旧庁舎前にて旧下諏訪町役場前での記念撮影。 写真前列中央に高木十吉氏が映っている。2021-12-26
19第三分団第三分団下諏訪町誌警防團第三分團の記念写真。 警防団の名称や「防空部」という文字が戦時中を感じさせる。2022-06-09
20第三区騎馬第三区騎馬「第三区奉納騎馬」記念写真。 第三区の騎馬行列は明治11(1878)年に始まり、昭和47(1972)年第一区と共に町の無形文化財に指定された。 第三区の騎馬は「凱旋騎馬」と呼ばれている。2022-06-12
21酒屋の店先酒屋の店先田中町の中村酒店の桜町の新宅「現中村□酒店」。 店の軒下にしめ飾りがあるので、の正月の記念写真と思われる。軒下や店先には「味の素」「三ツ矢サイダー」「キリンビール」「キッコーマン」「理研清酒 新進」「電話四六二番」「焼塩小売賣所 焼塩小売賣人 中村□」「塩小売賣所 塩小売賣人 中村□」…などの看板や掛札が並んでいる。2023-02-21
22記念写真記念写真慈雲寺裏の庭園での記念写真と思われるが、詳細不明。 中心近くに高木十吉氏がいる。(高木十吉氏 第16,19代町長 S7-8 S18-19)2023-11-14
23阿木翁助氏阿木翁助氏昭和6(1931)年に旧制諏訪中学を卒業(同期生に新田次郎氏)、上京し新聞配りをしながら築地小劇場研究所に学び、小林多喜二労農葬の名目上の実行委員長を務めた歴史の証人でもある。ムーランルージュや新生新派などの大衆演劇で活躍。戦後は菊田一夫氏とともに連続ラジオドラマの脚本家としても鳴らした。当時は日本放送作家協会理事の現職にあった。阿木氏はこの日から二ヶ月後の8月25日、癌研究附属病院で年肺がん切除の手術を受けた。平成14(2002)年に没。なお昭和52(1977)年に紫綬褒章受賞。本名は安達鉄翁。下諏訪生まれ。写真の阿木氏は何歳ごろのものか不明。2021-11-13
24下諏訪町東国民学校下諏訪町東国民学校校門の右の石柱に「下諏訪町東国民學校」、左の石柱に「下諏訪青年學校」「下諏訪實科高等學校」とある。 東国民學校はそれまでの下諏訪尋常高等小學校から昭和16(1941)年に名称変更されている。下諏訪青年學校は昭和10(1935)年に下諏訪實業補習學校と青年訓練所が統合して設立している。下諏訪實科高等學校は大正15(1926)年に通年性補習學校から改称されている。写真は昭和16(1941)年に東国民學校となったときに門柱の名札が付け替えられたとき撮影されたものと推察する。2023-02-26
25大合理的炊事講習会大合理的炊事講習会垂れ幕に「大合理的炊事講習会」とある。また、背景の額に「青雲館」とあるので、第三区青雲館二階で行われた何らかの講習会の記念写真と思われる。詳細不明。2022-03-09
26樋橋敬老会樋橋敬老会「紀元二千六百年 敬老會記念 主催樋橋青年會」昭和15年の大典の時の記念写真と思われるが、撮影場所は判断できていない。  2022-01-13
27天皇皇后両陛下来訪天皇皇后両陛下来訪天皇皇后両陛下(現上皇様)が平成4(1992)年9月6・7日来訪。6日のご視察は信濃医療福祉センター・長野県花田養護学校。7日は㈱三協精機製作所・諏訪市温泉植物園・諏訪北澤美術館へご視察。 写真は㈱三協精機製作所(社名が㈱日本電産サンキョーへ変わり現在は㈱ニディックインスツルメンツ)へご視察。2023-09-28
28御田町商栄会富士講御田町商栄会富士講1「皇紀二千六百年 霊峰富嶽に登拝し皇軍の武運長久を祈願す 御田町商業会富士講」関連写真。 1枚目は七合五尺、3枚目は須走登山口での記念写真。。2022-01-16
29下諏訪小学校下諏訪小学校写真上は下諏訪小学校(現下諏訪南小学校の旧校舎)の校門と玄関。写真下は諏訪湖方面からの撮影、学校のまわりは田んぼに囲まれている。 下諏訪学校の「南校」(低学年)が南四王に開設されたのは大正12(1923)年である。さらに昭和22(1947)年に戦後の新しい戦後教育制度のもと「下諏訪小学校」が発足している。また、児童の増加から昭和46(1971)年には新たに「下諏訪北小学校」が開設され、それまでの「下諏訪小学校」は「下諏訪南小学校」として新しい歴史を刻んできている。2022-01-20
30役場分室役場分室下諏訪郵便局は、最初旧本陣岩波方に置かれたが、その後幾度か移転する。 1,明治5(1872)年 本陣岩波方 2,明治25(1892)年 増沢市郎兵ヱ方(旧警察右手前) 3,明治39(1906)年 立町3242(旧警察左手前) 4.大正5(1916)年 大社通5524(小口多郎方隠居所地) 5,昭和25(1950)年 広瀬町(下諏訪駅前通り) 6,昭和57(1982)年に現在の栄町に移転 昭和25年に郵便局は広瀬町へ移転。昭和27(1952)年教育委員会が設置されここで執務を開始、それ以後役場の分室として使用された。写真は役場分室・教育委員会当時のものと思われる。2022-03-19
31ガラス乾板写真ガラス乾板写真横町古田耕平氏蔵の写真。古田耕平氏は明治25(1892)年頃、中央線開通を期して横町辺りの図面を残している。その家のとなり家がガラスの写真屋として矢崎喜代太氏が明治10(1877)年頃から営業していたと思われる。2022-03-27
32結婚式結婚式松葉屋(千尋館)で行われた結婚式の記念写真で撮影場所は広間や屋外など。 年代はどちらも昭和初期のもの。2022-01-13
33旧和田峠トンネル工事旧和田峠トンネル工事(旧)和田峠トンネルの掘削工事写真。 昭和5(1930)年10月、和田嶺開発協会が発足し、運動の結果、鉄道省運輸局の調査となり、昭和6(1931)年10月15日和田峠トンネル貫通、昭和8(1933)年1月完成。トンネル延長260m、スノーセット134m。 昭和8(1933)年3月上和田・上田間と、下諏訪・岡谷間が営業開始され、同年10月13日全線開通祝賀式が開催された。 写真(2枚目)中央仮橋上の小窓がトンネルの西口、その右肩の道路が明治29(1896)年の開削された新道(142号線)2020-08-02
34東明館・地鎮祭東明館・地鎮祭中村勝五郎文書に「明治三十三年十二月二十六日湯田町集会所建る」とある。この集会所(東明館)は明治40(1907)年の来迎寺の火事の後間もなく焼失したので、大正4(1915)年に現在地(新町上)に再建された。 1772から1777までは東明館建て替え工事の一連の写真。この写真はこの大正4年に建てられた建物の建て替え工事のための地鎮祭の様子。なおこの工事がいつ行われたかは調査中。2022-01-12
35東明館の解体作業東明館の解体作業中村勝五郎文書に「明治三十三年十二月二十六日湯田町集会所建る」とある。この集会所(東明館)は明治40(1907)年の来迎寺の火事の後間もなく焼失したので、大正4(1915)年に現在地(新町上)に再建された。写真はこの時建設された建物を建て替える際の解体工事写真と思われる。解体前の東明館は1772から1777参照。 なお、この工事がいつ行われたかはまだ未確認。調査中。2022-01-12
36東明館集会所東明館集会所中村勝五郎文書に「明治三十三年十二月二十六日湯田町集会所建る」とある。この集会所(東明館)は明治40(1907)年の来迎寺の火事の後間もなく焼失したので、大正4(1915)年に現在地(新町上)に再建された。 なお、下諏訪町誌民俗編(417p)には明治32年に湯田町・新町に東明館が建てられたと書かれているので中村勝五郎の文書と一年違っている。 東明館建て替え工事の一連の写真。なおこの工事がいつ行われたかは調査中。2020-07-23
37敬老会記念写真敬老会記念写真「第三区男女青年會 敬老會記念 昭和十一年十一月三日」 2021-12-26
38牛山製缶所牛山製缶所看板に「創業十五週年記念 牛山製罐所」とある。店の奥に丸い缶が山と積まれている様子がわかる。 明治25~26年ころ、増沢寅之助氏がカリンの缶詰工場を操業した。自宅の裏土蔵の屋根下を利用したものだった。 使用している機械、服装等から明治末頃の写真と思われる。2021-12-26
39和田峠の切通し工事和田峠の切通し工事明治28(1895)年8月(明治10年掘削の峠の)頂上を掘り下げて新道(現142号線)を作った。明治27(1894)年からの改修が始まりこの工事は丁場を分割し多くの作業員が入った。工事はレールを布設しトロッコによる土砂運搬が行われ工事効率も上がった。トロッコによる作業員は松本監獄から出張してきた人々だった。写真は上田から来た写真師の撮影によるものです。2023-04-15
40写真館写真館「ヨルモ ウツシマス」と入り口のガラスに書かれています。写真屋屋さん店頭。2021-12-26
41東山田長持ち東山田長持ち東山田には「道中長持ち」「大社御用長持ち」「藩御用長持ち」「御騎馬御用長持ち」「御祝儀長持ち」がつたえられていいて現在の姿は大社御用長持ち。 写真上には「東山田区の長持ち札 越後将軍徳川忠輝公筆と穪(ショウ?)す 東山田区でハ之の長持ちを先頭に純特の足取りで練る 此の長持の飾付は特徴あり 寛永年間(1630)のもの」と書き込まれている。2022-05-03
42御騎馬御騎馬御騎馬の色傘と草履取りの写真。2022-05-08
43駅前通りスナップ写真駅前通りスナップ写真下諏訪駅前通りのスナップ写真。田村商店。2023-10-03
44諏訪女子学園諏訪女子学園入り口に「諏訪女子学園」の看板がある。 諏訪女子学園は、昭和42(1967)年度に西弥生町(富士見橋下)旧自動車練習場跡1.000坪を買収して新築工事に着手、体育館竣工と同時に入校し、続いて昭和43(1968)年3月に本館が落成した。 高等部(高等学校)、専門部(短大)がおかれた。学校組織は学園長阿木翁助(写真手前左端;日本放送作家協会理事長)、校長浜倫久以下職員17名、生徒は5学級234名であった。2021-12-26
45戦時中の開所式戦時中の開所式何の開所式かは不明だが、参加者の服装や式次第の中に「宮城遥拝」「大詔奉読」「廠長」という文字があることから、戦時中、それもかなり戦局悪化の頃の軍需品関係を製造・修理した工場の開所式の写真と思われる。2022-06-09
46旧博愛館前で記念撮影旧博愛館前で記念撮影富部地域の脱穀風景。現在の公民館駐車場。富部公民館は庄屋をつとめていた津金家の屋敷があった。2022-05-24
47記念写真記念写真男子生徒のみで撮影。足元には雪が見える、生徒は学生服姿・長靴・雪下駄・靴など様々。詳細不詳。徽章は梶の葉に「中」とある。2022-05-12
48御騎馬御騎馬春宮大門前(現国道20号)にて、騎馬勢揃い。後ろに仁丹の看板が見えるこれは現中山薬局。2022-05-12
49神風車社青年会神風車社青年会長持ち・花笠の勢揃い、はっぴに「神風車社青年会」の文字が見える2022-05-12
50騎馬行列騎馬行列江戸時代藩主が御柱を騎馬で警護したが、明治になり困って戸長会議と諏訪大社の依頼で長地村の東山田と東堀の人々で始まった。当時は衣装と道具の調達にかなり苦労したという。最初は一団体だったので、出陣・凱旋両方行っていたが、後年になって東山田が出陣騎馬を東堀が凱旋騎馬となり、東堀の騎馬が三区へ、東山田の騎馬(昭和25年解散)が一区へと受け継がれていった。法泉寺寺にて撮影。 この写真は「東山田今昔」(16p)には、「大正3年の騎馬行列勢揃、大将は武田尚氏小学4年」となっている。撮影年は再確認が必要。2022-05-03
51御田町役員御田町役員昭和7(1929)年御田町役員。(矢崎・城取・入舟・大増・有賀)長持ちの前での撮影。2021-12-26
52記念写真記念写真国民服の男性の集合写真。2021-12-26
53成人式成人式第19回下諏訪町成人式 昭和42(1967)年度、第19回成人式。男子成人の集合写真。会場等不明。2021-12-18
54成人式成人式戦後の成人式、中央に黒田町長。 諏訪大社秋宮幣拝殿前にて、昭和40年度、女性成人の集合写真。2021-12-18
55婚礼写真婚礼写真床の間の前で新郎新婦の結婚の記念写真。 和装の新郎新婦。2022-03-09
56記念写真記念写真旭日旗・国旗が見え、服装(軍服・国民服)などから戦争中の写真では?詳細不明。2021-12-18
57集合写真集合写真集合写真。後ろに鳥居が見える。女性が多く映っている。写真の中央には高木十吉氏が背広姿で写っている。2023-03-02
58献幕記念献幕記念「大社奉祀会献幕記念昭和五十四年七月」の文字。諏訪大社秋宮神楽殿横にて、後ろの神楽殿や幣拝殿の幕が白く輝いて見える。神楽殿横に絵馬がかけられている。2021-11-03
59石投げ場石投げ場北高木付近から見た諏訪湖岸の風景。上諏訪方面からSLが煙を出し走っている。№1544の写真と比べると湖畔の整備が進み桜やカリンの並木が整えられ、大きくなっているのがわかる。また線路北側の開発も進んでいる。2020-03-06
60撮影会撮影会八島湿原、撮影会の写真。2020-03-06
61旧中部電力旧中部電力立町の中部電力㈱下諏訪営業所を、リノベーションをし、現在は「しもすわ今昔館おいでや」(旧諏訪湖時の科学館儀象堂)になっている。工事作業中の写真。この建物の角に「諏訪電気発祥の地」の碑がたてられている。 1枚目の写真はみなと屋側から撮影。奴の看板が見える。2020-03-06
62八幡坂の街並み八幡坂の街並み写真右に見えるのは専女(とうめ)社のけやき。工事を行っている場所は、現在は土産物屋(専女八幡)になっている。奥の茶色の建物は今は亡き「ホテル山王閣」。№1519,1520参照。2020-03-06
63衣文坂衣文坂中央通り(衣紋坂)を坂の上から見下ろす。奥の信号付近が三澤屋書店。写真の左手前(坂の上)は青塚古墳。2020-03-06
64憲法発布記念憲法発布記念「憲法発發布記念、昭和二十一年十一月三日諏訪郡町村長会」の文字が見える。2020-03-06
65荷馬車荷馬車この写真は和田峠を越えて戦後の買出し風景。荷馬車で荷を運搬、荷車の端に信号が写っている。また、はっぴの襟に高木石工場の文字が読める。2020-03-06
66北欧音楽祭北欧音楽祭北欧音楽祭。 文化センター一階ロビーにて、オカリナの演奏。 写真下はフィンランドの方による小物類の物品販売。2020-03-06
67下諏訪町上空下諏訪町上空写真中央の白く輝く屋根は荻原製作所(昭和42(1967)年に下諏訪町に移転してきた本社工場、平成29(2017)年に伊那市へ移転。その右にはひかり味噌、左上にジャスコ(イオン)、右上には諏訪湖、右下すみに野球場・陸上競技場が見える。2020-03-06
68下諏訪町上空下諏訪町上空写真中央に町役場、右に総合文化センター・体育館。左はテニスコート・野球場・陸上競技場などが見える。2020-03-06
69町制施行100周年事業町制施行100周年事業「八島太鼓」「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗。No.1444の写真と同じ場所、同じ事業の会場と思われるが、場所や内容などは不明。2020-03-06
70町制施行100周年事業町制施行100周年事業町制施行100周年記念事業として行われた地鎮祭ほ様子。 №1445の写真と同じ会場、同じ事業と思われるが、場所内容等は不明。2020-03-06
71町制施行100周年事業町制施行100周年事業諏訪盛澄時代行列イベントに参加する「万寿姫」「絹姫」コンテストが秋宮境内で行われた。写真左から「春姫」宮沢さん・久保田さん、五代目「万寿姫」の山田さん、「絹姫」の岩下さん、「秋姫」の武居さん・中谷さん。26人が応募24人が出場。「万寿姫」「絹姫」には海外旅行と副賞がプレゼントされた。2020-03-06
72町制施行100周年事業町制施行100周年事業町制100周年記念事業のひとつとして、いずみ湖公園と東俣町国有林で記念植樹が行われた。それぞれ「町民自らの手による緑豊かな空間の創造」「森林資源の造成と緑豊かな住みよい郷土づくり」を目的にいずみ湖公園にモミジを1300本・オオヤマザクラ200本を、東俣町有林には将来の御柱用材用としてモミの苗木1000本を植樹。写真はいずみ湖での植樹の様子。2020-03-06
73建設中の鉄骨警鐘楼建設中の鉄骨警鐘楼昭和3(1928)年8月に屯所に鉄骨の警鐘楼を建築し消防内容は充実していった。写真は建設途中の様子。この鉄骨警鐘楼は戦争中に金属回収で撤去され、木製の火のみやぐらになった。2020-03-06
74鉄骨警鐘楼鉄骨警鐘楼太平洋戦争末期になると、兵器にするため民間の鉄材を供出する運動があり、第一分団の屯所の上に建てられていた火の見やぐらも倒されて供出された。昭和18(1943)年金属供出で取り壊す前の記念写真。2020-03-06
75記念写真記念写真下諏訪学校。2020-03-06
76下諏訪駅下諏訪駅明治38年11月25日、中央東線が富士見駅から、岡谷駅まで開通する。この時、鉄道開通祝賀式挙行の案内状が、22日鉄道開通式委員総代小口友亀の名で発送され、25日午後1時10分下諏訪停車場構内で、祝賀式が挙行され、終わって有志の園遊会があった。写真前列の中央が、小口友亀氏である。下諏訪駅前での記念撮影。2020-03-06
77赤砂飛行場赤砂飛行場赤砂飛行場。飛行機の周りに人々が集まっている様子。昭和3(1928)年1月、諏訪飛行協会を結成。3月に格納庫ができる。4月6日藤森飛行士が赤砂に着陸、翌4(1929)年には、複葉機で郡内を飛ぶなどした。 赤砂飛行場は大正11(1922)年に造られた「臨水園」という公園に誕生し、格納庫が作られ、約300mの舗装されていない滑走路があった。飛行機は写真にあるように複葉のプロペラ機で、片山、藤森、井上、篠崎という四人のパイロットがいたという話が残っている。2020-03-06
78落合発電所落合発電所落合発電所。明治33(1900)年10月工事が竣工し送電(60キロワット)事業を開始した。この後明治36(1903)年には増築し、60キロワット発電機をもう1台増設している。写真は明治33(1900)年に竣工した発電所である。増設した発電者は№612参照。2020-03-06
79昔の岡谷昔の岡谷昔の岡谷。前列の女性たちの袴のすそに白線二本がある。この二本線の入った袴について、今井久雄著「村の歳時記(三)」には、「工場の準制服ともなっていて」という記述があり、さらに「この袴をはく娘は寄宿舎の部屋長や養成工の教婦など指導的立場にいる娘たち」と書かれている。写真には説明がないのではっきりしないが、この本の記述は参考にできると思われる。2020-03-06
80鉄鉱泉本館鉄鉱泉本館夜の湯田坂かいわい。名湯旦過の湯を中心とした、旧中山道筋の一角。かつては坂下に温泉旅館が並び、しっとりとした湯の町風情がただよっていた。このあたり、製糸業の全盛期には芸妓置屋が軒を連ね、脂粉の香ただよう街だった。写真は今も旅館業を営む創業が明治初頭の「鉄鉱泉本館」。2020-03-06
81砥川河口の橋砥川河口の橋完成した砥川河口橋。橋の右岸(写真左手)にはわかさぎの孵化場がある。当時は左岸に町営プールがあり、その北側にはホテルが3社あった。この橋は湖岸管理道路としての架橋で幅6メートル、長さ32メートル。これに伴い湖岸約1.7キロメートルに高さ1メートルの築堤が始まった。その後この一帯は、赤砂崎公園として多目的グラウンドや多目的広場、ヘリポートなどに再整備されている。2020-03-06
82市民新聞社市民新聞社地域紙「市民新聞」下諏訪支局のスタッフ。昭和23(1948)年創刊の「岡谷市民新聞社」が翌年から「下諏訪町民新聞」を発行した。昭和46(1971)年から写真写植によるオフセット印刷に移行した。日刊紙でこの方式を採用したのは県下初、全国的にも先駆的な転換だった。2020-03-06
83彩美堂の新店舗彩美堂の新店舗彩美堂の新店舗と客とオーナーさんご夫妻。自家所有のリンゴ園を転用した画材屋さんの新店舗の中。敷地は1,650平方メートルで、曲線と曲線を強調する建築デザイン。2020-03-06
84黒曜石採掘黒曜石採掘和田峠は我が国の代表的な黒曜石の産地で良質の原石を出すことで知られている。 先史時代から採掘されていた。 写真上は、星ケ塔黒曜石原産地遺跡の黒曜石採掘坑道(旧式)。 写真下は新式の黒曜石採掘坑道。2020-03-06
85上水道配水池上水道配水池町上水道配水池の内部(写真上)・集水井(写真下)の点検作業の様子。2020-03-06
86モノレールで新米の出荷モノレールで新米の出荷江戸時代下の原の名主を中心に藩の支援を受けながら、東俣蝶ヶ沢から東俣川の水を取り入れ城の沢で落とす長さ6650mの菰川汐(こもっかわせぎ)を作り水田化が図られた。昭和58(1983)年に、耕作者三人が県の補助金を受け、この山上の田(海抜900m)から農業用モノレール(全長202m)を設置した。写真は新米の搬出風景。モノレールは250㎏まで荷物を詰めるそうだ。この年、ミスズモチとフクヒカリを植え、平年作を上回る出来だったという。2020-03-06
87下諏訪町立図書館下諏訪町立図書館旧町立図書館閲覧室の風景。旧図書館は建て替えられ平成14((2002)年6月に現図書館が開館した。 旧図書館の館内の風景。 写真下は「おはなしの広場」主催の人形劇の会(松本がらくた座)。2020-03-06
88英語授業風景英語授業風景下中の外人講師による英語授業。下諏訪町では昭和59(1984)年度から外国人講師を雇っている。平成元(1989)年度予算は460万円。講師はカリフォルニア大学学院生(28歳)日本史専攻・柔道初段。写真は中学二年の授業風景。2020-03-06
89養鯉の給餌養鯉の給餌網イケス養鯉の給餌。配合飼料に群がる湖上網イケスの鯉。飼料は自動えさまき機でテント内の小屋の中(写真下)で、まいているので、養鯉組合が一日二回、交代で餌を補給していた。2020-03-06
90萩倉林道開通式萩倉林道開通式萩倉林道開通式。延長3970m、足掛け8年かけて完成した。総事業費3億1100万、円道幅は平均4m下諏訪町水月公園上と萩倉を結ぶ新設林道。写真は萩倉から峠に入る林道の入り口に建てられた記念碑の前。2020-03-06
91坂道のある風景坂道のある風景衣紋坂を坂下から見た写真。坂の上の欅が繁っているあたりが諏訪地方唯一の前方後円墳「青塚」。そのすぐ北側を東西に通る旧中山道に沿って旧下諏訪宿が開けていた。2020-03-06
92むらの語り部むらの語り部写真は「村の歳時記(全4巻)」著者。「ワープロで本の原稿を進める85歳」今井久雄氏。「村の歳時記」は明治・大正・昭和の下諏訪町の民族・歴史について書かれている。今井久雄氏は明治37年富部に生まれ、旧制諏訪中学校を中退した後、自宅の養蚕業に従事した。その後、下諏訪町青年会長、教育委員長、公民館長などを歴任した。2020-03-06
93町民コンサート町民コンサート平成元(1989)年度に完成した「下諏訪総合文化センター」は4月の開館以来、休日は予約で一杯の利用状態。この日は長野県民謡大会や町民コンサートなどが開催された。町民コンサートの写真。2020-03-06
94高木西区画整理地高木西区画整理地湖を見はらす山の手に、組合施行の区画整理事業で造成された宅地。分譲は入札で3.3hm当たり32万5000円の値がついた。高木西区画整理地。写真の後方に見える赤い屋根は元の諏訪養護学校。2020-03-06
95十四瀬川のフナすくい十四瀬川のフナすくい湖から小川(十四瀬川・古川・うなぎ沢)へ産卵にのぼるフナをすく子どもたち。雨で増水するとどっとのぼって来て、バケツ一杯も取れる時がある。子供たちは、目の色を変えて夢中で魚を追いかけていた。写真は十四瀬川のフナすくい。2020-03-06
96社中1年生植樹祭社中1年生植樹祭社中生の植樹祭。学校周辺に「ガマズミ」などの実のなる木を植える社中1年生。社中生の体操着は写真のぐり^ンのものから現在は違うデザインに変わっている。2020-03-06
97第7保育園(所)入園式第7保育園(所)入園式第7保育園(所)入園式。統廃合のため今年度限りで廃園が決まった。この保育園は昭和49(1974)年開園していた。園庭には総合遊具が設置さてていた。第4・7保育園は統廃合の後一つ浜地籍(農協スタンド近く)に新しい保育園ができた。現みずべ保育園。写真は最後の入園式に焼てきた親子。2020-03-06
98車のショールーム車のショールームトヨタカローラ南信のショールーム、写真は「100万台達成祈念車発表会」の店頭。「1500SEスーパーリミッテト」の値段は14.7万円。2020-03-06
99寒の雨寒の雨厳寒の雨は酷寒の地諏訪地方では珍しく、この日の最低気温は0.5度(平年比7.7度高)、最高気温は6.5度(同3.6度高)だった。御田町の風景写真左が居酒屋「甚八」右手には福田屋菓子店。2020-03-06
100みぞれで人足の途絶えた夜の街みぞれで人足の途絶えた夜の街緑町「おちか」「うな富」の看板が見える。この日、南岸低気圧によるカミ雪で、県下はすわ湖周辺がなぜかみぞれ、春の前触れのカミ風が、ひと月以上も早く訪れたのも異変だった。 二枚目の写真は、旧小松ガラスの近くの「大政」。2020-03-06
101金融機関が完全週休2日制に金融機関が完全週休2日制に写真の日は金曜日、明日から金融機関が完全週休2日制に。各金融機関では土曜日にも稼働するCD(現金自動支払機)やATM(現金自動預払機)を増やすなどして対応。写真は休日を前にした八十二銀行下諏訪支店の営業風景。2020-03-06
102相互銀行から普通銀行になった長野銀行相互銀行から普通銀行になった長野銀行この日の前日全校で51の相互銀行が普通銀行になった。この長野銀行は3億7千万円かけて社章・制服・通帳などを一新した。写真は当時の町支店の全スタッフ。2020-03-06
103山の手バス山の手バス「廃止される東山田線バス」。赤字続きで廃止の話が持ち出された旧農村回りバス路線のバスと乗客。JR関係及び諏訪自動車の「東山田線」、住民の要望でこの年は運航が続けられたが廃止されることになった。東山田が岡谷市から別れ下諏訪町に合併して2年後昭和35(1960)年から運行が始まった山の手コース。東山田には4か所の停留場があった。写真は農協東山田支所前バス停。2020-03-06
104冬の砥川冬の砥川冬の流れ(砥川)。砥川は全長12.9km町内で一番大きな川である。土砂の流出が多く、写真の医王渡橋付近より下流は度々流路が変わるほどの洪水を起こしてきた。また天井川を形成している。2020-03-06
105高木村の風景高木村の風景高木の村の風景。 4枚目の写真は津島神社への登り口。 坂を上った右手には旧第六保育園があった。2020-03-06
106車のショールーム車のショールームトヨタカローラ南信のショールーム、写真はカローラの「100万台達成祈念車発表会」の店頭。ちなみに「1500SEスーパーリミッテト」の値段は140.7万円。 令和2(2020)年11月に店名が新しくなっている。2020-03-06
107承知川の旧発電所承知川の旧発電所承知川の旧発電所。小口製糸所。この発電所(出力60キロ)は製糸工場の私設発電所の建物。大正17(1918)年岡谷から下諏訪駅前へ進出した山十組山八製糸工場が承知川水源へ設け。水利権をめぐり農業者と紛争が起きたという話も伝えられている。 1枚目の写真は表からの撮影。2020-03-06
108ガスタンクの見える風景ガスタンクの見える風景球形ガスタンクのある風景。 右側は役場の駐車場で、その向かいの写真左下は、現在は「ハルピンラーメン」や町役場職員駐車場になっている。2020-03-06
109下諏訪商業組合下諏訪商業組合大正13(1924)年の下諏訪商業組合創立記念の時の写真。下諏訪商業組合の看板が見える。大正13年商工大臣から保証責任下諏訪商業組合の許可が出て、共同購入・保管・金融を取り扱った。№715参照。2020-03-06
110橋の上橋の上橋の上。法被の襟に「山七製糸場」の文字が見える。個人所蔵の写真。2020-03-06
111消防組組頭就任記念写真消防組組頭就任記念写真下諏訪各地区に私設消防組が置かれたのは明治20(1887)年、富部の若者組有志がポンプを購入してからのことである。その後、明治27(1894)年に町内を4区に分け「下諏訪組」が設置された。戦中の「警防団」を経て戦後、昭和22(1947)年に「消防団」となり活動内容の整備も行われた。写真の時は「組頭」が消防のトップで高木十吉氏は最後の「消防組頭」。(戦中は「警防団長」戦後は「消防団長」と呼ばれるようになった。)下諏訪巡査駐在所の前にて高木組頭就任記念写真。2020-03-06
112国勢調査員記念写真国勢調査員記念写真町役場正面玄関前、国税調査は大正9(1920)年に第1回が実施され、以降5年ごとに行われた。写真は昭和14(1940)年に行われた、第5回の時の調査の記念写真。写真下に「昭和十四年臨時国勢調査員記念」と説明書きがある。2020-03-06
113赤渋山林道の橋梁施工赤渋山林道の橋梁施工昭和6(1931)年1月21日、失業者救済のため砥沢林道開削の件が上提された。国道142号線桶橋分岐砥沢山内、車道3000m巾3.7mである。写真裏には「赤渋山林道橋梁竣工記念(昭和11・7・8写)」と記録されているが、写された風景は雪景色である。撮影年月日は不明としておく。なお砥沢橋は昭和30(1955)年の完成である。2020-03-06
114下諏訪宿風景下諏訪宿風景明治22(1989)年(推定)当時は、この横町・木の下・湯田町が下諏訪宿の中心街であった。写真左手前の旅籠屋が菊本(元桧物屋)で、甲州街道の終点で甲州道中と中山道合流地であった。高い火の見櫓(ヤグラ)のむこうに秋宮の森が見える。右側には桔梗屋の看板が見えている。中山道は桔梗屋前で右・立町に折れて塩尻峠に向かっている。この写真は外国人の写したもので早稲田大学図書館に所蔵されていたものを青木枝朗氏が複写したものである。 建物は宿場らしさが残っているが、軒に街灯・軒灯が見えている風景が時代の変化を思わせている。2020-03-06
115公選戸長公選戸長明治12(1879)年6月、長野県が16郡となり戸長が公選され、副戸長が筆生(ひっせい)となり、下諏訪村では12月初の公選戸長に山田政之丞(下原東町)が当選する。写真№557参照。2020-03-06
116蕉鹿庵前の酒宴蕉鹿庵前の酒宴写真は大正15(1926)年10月31日撮影、水月会が蕉鹿庵の前で観楓会を開いた時のもの。写真裏に右から中村春吉、中村尚(其梅)、吉沢兼之助(晩雪)河西庄三郎、中村卯一郎(如佛)、中村橲一、中村茂重(柳月)、浜平三郎(木章)、林巻平(渓月)中村牧五郎(梅屋)と名前が記録されている。 大正4(1915)年天龍道人壱百年忌記念事業にあたって慈雲寺庭前に天龍道人の詩碑を建て、遺墨展を開いた。この時、水月園の正岡子規碑左手にの観月堂のある平の一角に蕉鹿庵を茶室として建設した。8坪ほどの茶室風の建物で、句会やお花見などに利用されたが、昭和25(1950)年の台風により倒壊し除去された。 ちなみに焦鹿というのは天龍道人が愛用した「焦鹿」という言葉に由来している。。2020-03-06
117東俣開拓集落跡東俣開拓集落跡昭和21(1946)年東俣の欅平と八島平を営農資金を借りて引揚者が開墾することになる。昭和22(1947)年3月東俣開拓組合ができ、5戸入植、酪農経営に取りかかるが、食料事情の好転から、昭和38(1963)年、全て離村。写真は一時的に酪農化した東俣の村落。東俣のこのあたりの桑畑にはホップがからんでいた。 №684参照。 2020-03-06
118学校林に植栽学校林に植栽明治39(1906)年5月12日、下諏訪小学校生徒が植林に参加。この年には赤松18万本を植栽したという。また学校林の位置が分かる地図が「写真が語る下諏訪の百年」 66pにあるので参照されたい。 学校林の植栽の様子は、明治39(1906)年5月12日の「写真が語る下諏訪の百年」88pの写真とこの明治40(1907)年4月28日付のこの写真とが大変よく似ている。山の下と山の中腹の位置が異なるが植樹するための事前に掘ってあったという穴は同じように掘られている。2020-03-06
119東俣の田ぬるめ東俣の田ぬるめ写真中心付近、道を隔てて一段高いところに一つのぬるめがあって、そこで温められた水が田圃の中のぬるめへみちびかれる。(本山氏水田)※同じ写真を撮った写真が別にありその説明に東俣とメモが残されている。2020-03-06
120東俣開拓農家東俣開拓農家昭和21(1946)年東俣のけやき平と八島平を営農資金を借り引揚者が開墾することとなる。昭和22年3月東俣開拓組合ができて5戸入植して酪農経営に取り掛かったが、その後食糧事情の好転から離農するものが出て、昭和38(1963)年には残らず離村してしまった。 この写真の二階は蚕室で蚕棚が見え、手前は乳牛舎である。№694参照。2020-03-06
121萩倉の百合畑萩倉の百合畑萩倉上の百合畑。昭和20(1945)年終戦後「リンドウ」が出荷用花卉として取り上げられてから町内にはキク、カーネーション、ユリ等が導入され、町の出荷農産物として重要な地位を占める時もあった。しかし昭和40年代にはブームが去り一部の堅実な栽培がおこなわれるだけになっていた。写真の記録された昭和42(1967)年の記録を見ると、その中で萩倉東俣のユリは栽培者8名・栽培坪数2440坪で最も盛んであった。2020-03-06
122水月園観音堂水月園観音堂明治35(1902)年12月10日水月会が会員32名で慈雲寺を会場に発足した。この年慈雲寺裏の金比羅山を開山し龍湖の句碑を建て水月園と命名した。また桜樹、楓200本を植え芭蕉・蕪村の句碑も建立。明治40(1907)年には観音堂を建て、子規の句碑を建てた。明治42(1909)年5月には碧倍桐来諏にあたり、水月会に招待した。その後、曽良の句碑を建てたり園域を拡大しつつじの植栽をするなどして整備されてきた。明治28(1895)年には町に寄付され「水月公園」と改称されている。写真は水月園観月堂の葉書。2020-03-06
123友之町本通友之町本通友之町本通拡張工事のおくれた家。 花咲町入口。写真の奥のしんきん(のち春宮大門入口へ移る)の手前にガソリンスタンドの看板も見える。 友の町本通り街路拡張工事は、昭和37(1962)年に着工、昭和41(1966)年に竣工している。2020-03-06
124お花見新道の桜並木お花見新道の桜並木明治32~3(1899~1900)年ごろ桜が植えられたというお花見新道、そのお花のトンネルが大戦中に切り残された一部を写した写真。現在では一般的に「花見新道」と呼ばれる。2020-03-06
125和田峠開削和田峠開削大正12(1923)年7月下諏訪では浜義雄氏が、諏訪電の協力を得てフォードを買い入れ、その年はじめて自動車で和田嶺を越えた。明治28(1895)年8月和田峠(明治10(1877)年10月の開削の峠)の頂上を掘り下げて新道(国道142号線)をつくった。写真下に「和田嶺頂上堀割ノ景」の文字。2023-04-15
126河東碧梧桐を囲んで句会河東碧梧桐を囲んで句会写真の下のメモに子規派、紫竹、木工外、水翁(浜孝吉)、玉羽英、李塘、鶴水、鵞水城の名が書かれている。明治42(1909)年5月河東碧梧桐の来諏にあたり、5月1日水月園(慈雲寺)で句会を開いている。写真はこの時のものか?なお碧梧桐は昭和2(1927)年ふたたび来諏している。紫竹は関一郎(M3・高木生)、木外は岩本木外(M5・高木生)、水翁は浜孝吉(慶応元年・小口村生)、玉羽英は中村幸義・・・いずれも俳句を愛した人々である。李塘は岩本長衛(下の原)、鵞水城は林重義(友之町)。2020-03-06
127砥川砥川鷹野橋下から砥川上流を望む。橋の東側(写真右側)たもとに昭和9(1934)年に下諏訪駅頭から移した湖畔道路の記念碑が見える。当時は砥川が天井川になっている様子がよくわかる。湖畔道路開通は大正8(1919)年、翌年下諏訪駅前広場に記念碑が建てられていた。2020-03-06
128記念写真(下諏訪町役場前)記念写真(下諏訪町役場前)昭和11~13(1936~1938)年。旧役場前(現すわのね)。2020-03-06
129記念写真秋宮記念写真秋宮諏訪大社下社神楽殿前。いつ何の記念写真かは不明。2020-03-06
130記念写真秋宮記念写真秋宮下社秋宮鳥居前。手水舎が八幡坂側にある。何の記念写真かは記録がない。2020-03-06
131金馬簾(きんばれん)披露式金馬簾(きんばれん)披露式写真後ろの建物は明治9(1876)年建築の下諏訪学校。第3回金馬簾(きんばれん)披露式が明治37(1904)年9月23日下諏訪学校校庭にて挙行されたときの記念撮影。下諏訪町消防組は公設消防としてその功績が認められ、明治35(1902)年10月23日金馬簾一条の使用を許された。馬簾とは纏(まとい)の飾りのこと。2020-03-06
132陸軍航空隊航空写真陸軍航空隊航空写真大正6(1917)年2月16日、陸軍航空隊のモーリス・ファルマン機上から撮影した下諏訪町の中心部。中央の建物が下諏訪学校、その上の森が諏訪大社秋宮、その左斜面前方に続く町並みが中山道で塩尻方面に向かっている。2020-03-06
133下諏訪尋常小学校雨中体操場下諏訪尋常小学校雨中体操場写真左に「下諏訪尋常小学校雨中体操場小屋組。明治四十一年四月撮影」と書かれている。2020-03-06
134明治21(1888)年の記念写真明治21(1888)年の記念写真下諏訪学校尋常科1・2年生、明治21(1888)年の写真。 和服に靴・カバンの取り合わせがほほえましい。二人の間にあるのは教科書だろうか。小松定衛先生が9才の時横町ガラス取り写真屋で写す。城取一二三写真屋にて複製。2020-03-06
135陸軍航空隊航空写真下諏訪学校陸軍航空隊航空写真下諏訪学校明治9年11月1日友之町字郷神殿に建築された下諏訪学校の全景、屋根は瓦ぶき硝子障子で三階の望楼の色硝子が夕日に美しく照り輝いた、左の校舎は明治30(1897)年建築の高等科校舎。2020-03-06
136下諏訪尋常高等小学校下諏訪尋常高等小学校明治9(1876)年11月建築の下諏訪学校(名称が明治20年から尋常小学校)、玄関とバルコニーと望楼が特徴。写真は大正3(1914)年卒業記念撮影。2020-03-06
137落合発電所落合発電所落合発電所。明治33(1900)年10月工事が竣工し送電(60キロワット)事業を開始し、明治36(1903)年には増築し、60キロワット発電機をもう1台増設。写真は増設された発電所である。2020-03-06
138浮島発電所浮島発電所大正7(1918)年山十組で武居入に自家用発電所を設置し、次いで大正9(1920)年には入丸製糸で宮ノ上に、同10(1921)年には片倉組丸六製糸で、自家工場内に御手洗せぎを引き入れて自家用発電所を作っていた。 写真は入丸浮島発電所全景、発電所裏手に水圧管が見える。2020-03-06
139ガソリンポンプ車新調ガソリンポンプ車新調下の原で寄付金で購入したガソリンポンプ。大正7(1918)年10月27年、下諏訪町消防組で秋季演習のさい、森田式ガソリンポンプ(25馬力)新調の披露式を挙げる。諏訪地方最初のガソリンポンプであった。御田劇場の向かい合いに、ポンプ置き場を新築する。写真で見る下諏訪の百年には「組頭の伊藤玉蔵が中央に見えることから大正9(1920)年3月から11(1923)年5月の間のものであろう」と書かれている。 写真の裏書には大正15年12月15日と記録されている。2020-03-06
140矢崎ガラス取り写真矢崎ガラス取り写真古田常年氏叔父菊池末治郎が横町矢崎ガラス取り写真屋で写す。2020-03-06
141下諏訪幹部警察官派出所下諏訪幹部警察官派出所昭和37(1962)年庁舎が老朽化したので黒田町長等が県警察本部に陳情し総工費450万円で着工し翌昭和38(1963)年に竣工した。昭和38年に改築された下諏訪幹部警察派出所。写真は昭和38(1963)年に改築された下諏訪幹部警察派出所。 №600参照。2020-03-06
142明新館明新館古くは行屋(お堂)があったところで、明治10(1877)年に学校建築の費用に充てるため御堂と土地を民間に売ったが、明治24(1891)年にお堂を取り壊して集会所を建て、「明新館」と名付けた。 下諏訪町最初の集会所。その後何回か改修を重ねてきたが老朽化により昭和41(1966)年現在の建物に改築されている。 写真は改築直前の昭和40(1965)年の明新館。 下原中村勝五郎の日記(日嘉恵雑書帳)に「明治24年200円にて明新館建てる」とある。玄関と平石屋根は明治32(1899)年の改修。行屋にあった十王像(町文化財)は現在同館に保存されている。2020-03-06
143重複地問題重複地問題角間沢西重複地問題解決. 明治13(1880)年来の懸案が大正13(1923)年円満に決する。 写真はこの時の尽力者で、左から宮坂嘉十・小口亀衛・高木清四郎・吉沢三代吉・吉沢今朝蔵の諸氏。外に河西友三郎。2020-03-06
144旧町役場建設の看板旧町役場建設の看板八幡町に下諏町役場新庁舎が決まった。写真は「大正十三年十二月建之」「「町長大和仁平」「助役小林廣志」の文字などが読める棟札である。ちなみに落成式執行は大正(1925)14年7月18日。2020-03-06
145善光寺拝参攝取看板善光寺拝参攝取看板「摂取」とは仏教用語で特に阿弥陀仏が慈悲の力によって衆生を受け入れて救うことである。明治期善光寺宿坊常住院発行の講員証などが残されている。写真の看板には「善光寺拝参攝取講 講社掛」とある。2020-03-06
146三都講看板三都講看板江戸時代後期には旅が盛んになったが、安心して泊まれる宿選びに難儀する人も多かった。大阪の商人松屋の手代源助は誰でも安心して泊まれる旅館組合「浪花組」(のちの浪花講)を結成した。加盟宿には目印の看板をかけさせるとともに、旅人には所定の鑑札を渡し、宿泊の際には提示するようにした。浪花講をまねた講が次々作られたが「宿屋組合三都講」もその一つである。三都講は天保元(1830)年大阪河内屋茂左エ門と江戸馬喰町苅屋茂右エ門によって作られた。写真は「三都講同盟結社看板」。2020-03-06
147秋宮鳥居前の松葉屋(後の千尋館)秋宮鳥居前の松葉屋(後の千尋館)松葉屋全景。写真下に「割烹松葉屋 電話 二十六番」とある。2020-03-06
148秋宮鳥居前の松葉屋(後の千尋館)秋宮鳥居前の松葉屋(後の千尋館)写真下には「松葉屋料理店 官幣中社諏訪大社下社鳥居前」と書かれている。諏訪大社は大正5(1916)年12月12日、官幣大社に昇格している。秋宮鳥居右奥には合名会社三井組製糸の第四工場。(明治9(1876)年から大正10(1921)年頃)(現社務所)手前は松葉屋料理店(後の千尋館)。その手前は旧柳沢家(現若松氏経営の土産品店)三井家は嘉永2(1849)年座繰機器を入れて土蔵前に庇を出して「座繰製糸」を始めた。後に明治9(1876)年「山王台」下にて本格操業、明治13(1880)年には三井仁平衛・増沢市郎兵衛・岩本甚蔵・岩波甚吉・小口森蔵等共同座繰場「白鶴社」を平沢町(現青雲館北)に立ち上げた。2020-03-06
149陸軍航空隊航空写真陸軍航空隊航空写真陸軍航空隊よりモーリス・ファルマン式二機寒中の山地飛行並びに水上試験飛行として来諏の際に写す。下諏訪学校や国道20号線がよくわかる。2020-03-06
150陸軍航空隊航空写真陸軍航空隊航空写真陸軍航空隊水上試験に来諏の際に写す。下諏訪駅を上空から見る。駅周辺にはまだ畑などが見られる。特に駅南側(写真右側)には畑が広がっていて、人家はまだ少ない。2020-03-06
151昭和7年航空写真昭和7年航空写真中央の白い屋根が青年図書館。その向うの黒い建物が霞城館2020-03-06
152日露役凱旋記念撮影日露役凱旋記念撮影明治39(1906)年初春、下諏訪町の久保区で日露役出征兵の凱旋祝賀会を山王台の霞城館で行った時に玄関先での撮影。2020-03-06
153陸軍航空隊航空写真陸軍航空隊航空写真航空写真。写真の中心近くに下諏訪学校の三階の望楼が分かる。旧甲州道中、旧中山道、八幡坂などの様子や秋宮鳥居周辺の戦前の建物が密集している様子がよくわかる。2020-03-06
154陸軍航空隊航空写真陸軍航空隊航空写真大正6(1917)年2月16日、陸軍航空隊モーリス・ファルマン機上から撮影した下諏訪町の中心部。寒中の山岳飛行並びに氷上試験飛行のため来諏の際の撮影。中央の建物は当時の下諏訪学校(友の町字神殿)で現在の下諏訪中学校の前身。周辺には秋宮の森・製糸工場・中央東線・国道20号線などが見える。2020-03-06
155中央東線開通下諏訪駅前記念撮影中央東線開通下諏訪駅前記念撮影明治38(1905)年11月25日中央東線が富士見駅から岡谷駅まで開通する。このとき鉄道開通祝賀式挙行の案内状が22日鉄道開通式委員総代小口友亀(写真前列中央)の名で発送、25日午後1時10分下諏訪停車場講内で、祝賀式が挙行された。写真は下諏訪駅前にて撮影。2020-03-06
156旧下諏訪町役場旧下諏訪町役場明治22(1989)年4月、町政公布とともに、同年5月青塚の南隣に下諏訪村役場へ、来迎寺から役場が移された。 写真は、大社通へ建築された新役場庁舎地鎮祭執行当日に、立町元役場西側で記念撮影したもの。2020-03-06
157奈良屋呉服店奈良屋呉服店明治前から大正まで続いた下諏訪の老舗、増沢市郎兵衛の奈良屋呉服店。屋号を染め抜いた店頭の、日よけのれんが当時の特徴。(明治年末の撮影)写真下に「信陽諏訪下諏訪友五(之)町奈良屋呉服店」とある。 なお明治25(1892)年7月には、友之町増沢市郎兵衛(奈良屋呉服店)が局長となり、同家の上隣りの別宅へ(石柱が見えている)郵便局が旧本陣岩波家より移り、翌26(1893)年に電信局が併設されていた。2020-03-06
158承知川扇状地と下諏訪旧市街地承知川扇状地と下諏訪旧市街地右が武居の棚田、中央の森が秋宮でその左手前は旧下諏訪宿場(湯之町)左下へ続く街道が旧加宿と友之町。 写真は複葉機、陸軍航空隊一般航空写真。2020-03-06
159福沢川の氾濫福沢川の氾濫昭和10(1935)年6月29日砥川・承知川大出水、殊に福沢川の部落内の被害は甚大で、写真は福沢川の橋より東2・3軒目の裏手から砂瓦礫が浸入した様子。2020-03-06
160東講社行屋修復完成記念東講社行屋修復完成記念東講社(あずまこう)行屋修復完成記念の写真。茅葺屋根にトタンがかけられた。東講は東山田の旧家で組織していた。駒ケ岳大権現をまつり行屋を持ち不動の滝・御(お)山と呼ばれる霊場もあり、かつては行者の修行も盛んに行われた。古くは雨ごいの霊場にもなっていた。2020-03-06
161諏訪自動車初期のもの諏訪自動車初期のもの林嘉平氏所蔵の諏訪自動車初期の写真。建物入り口に「高濱瀧温泉」の看板がある。2020-03-06
162片倉二代銅像片倉二代銅像第2代片倉翁銅像の写真絵葉書。 昭和10(1935)年に下諏訪や川岸村などの尽力により建立が決定した。 この時は宝生橋も裏参道の堀割に架設されている。 しかし、昭和18(1943)年金属回収のため撤去されてしまった。2020-03-06
163春宮鳥居前の並木春宮鳥居前の並木機上から撮影した諏訪大社下社春宮の下馬橋(太鼓橋)奥のさわら並木。写真は諏訪市勝山為如氏撮影。下馬橋奥にさわら並木が見える。昭和9(1934)年の室戸台風でほとんどが倒れた。2020-03-06
164御座掛松(ござかけまつ)御座掛松(ござかけまつ)高木の石投場南よりにある御座掛松(ござかけまつ)。松は甲州街道中の土手上から道端まで見事に垂れ下がっていた。大正13(1924)年ごろから樹勢が衰えはじめ昭和4(1929)年に枯れる。樹齢は400年と推定。明治13(1880)年明治天皇御巡幸の際は御幸(みゆき)の松と立札してお迎えした。現在の松の二世が成育。写真に[下諏訪町高木ゴザカケ松なり、是より約2町中陣坂。]の文字。2020-03-06
165赤砂飛行場赤砂飛行場昭和3(1928)年1月下諏訪町や製糸関係者等の協力で諏訪飛行協会を結成。翌年3月には格納庫ができ、4月には藤森飛行士が赤砂に着陸して同4(1929)年には郡内を飛ぶ。写真は赤砂飛行場の複葉機を使用し、和田嶺自動車㈱と富ヶ丘・高浜温泉が共同で飯田・甲府方面へ宣伝ビラまきに出発する直前。左から2人目が藤森飛行士、その右が下諏訪町に初めて自動車を持ち込んだ浜義雄氏。2020-03-06
166土橋實肖像写真土橋實肖像写真土橋實也、初代町長・8代9代村長に選出される。2020-03-06
167土橋家土橋家明治22(1889)年5月2日。初代村長に、土橋實也が選出された。 土波止新田(赤砂)からの土橋家を撮影。この旧家も、昭和46(1971)年大改修され貴重な文化財であったが、昔の面影は見られない。写真は表側。 2枚目は建物の裏からの撮影。2020-03-06
168農民美術講習会農民美術講習会講師武井直也氏による農民美術講習会。武井直也(1893-1940)は平野村(現岡谷)出身、フランスに留学ブルーデルに学び、帰国後日本の彫刻に新しい風を吹き込んだ。武井直也の指導は昭和2(1927)年に引き続き行われ、写真は昭和4(1929)年の時のものある。会場は霞城館隣の青年館図書館。2020-03-06
169石投げ場から諏訪湖を望む石投げ場から諏訪湖を望む石投げ場から望む諏訪湖。湖岸の埋立がすすみ湖岸の形が大きく変化した。運動公園ができ湖岸道路もできている。 №409の写真と比較すると変化がよくわかる。2020-03-06
170下諏訪遠景下諏訪遠景諏訪湖遠景。写真手前の左側の建物は片倉製糸、右側が入一製糸、左端の樹木は秋宮の森、その隣が現下諏訪中学校。2020-03-06
171大社通り大社通り秋宮周辺、大社通り。写真手前が下社秋宮。2020-03-06
172旧下諏訪町役場棟上旧下諏訪町役場棟上明治7(1974)年に下諏訪村成立した。旧本陣、下諏訪学校、来迎寺と仮役場を移転し青塚東方に新役場ができた。さらに大正14(1925)年7月18日大社通りに移転した旧下諏訪町役場。博物館の写真では、大正13(1924)年11月25日検査執行となっている。落成は翌大正14(1925)年7月18日である。2020-03-06
173山王台を望む山王台を望む久保海道、国道20号付近の承知川。写真左上に山王閣(現在は無い)が見える。2020-03-06
174山王台を望む山王台を望む大正15(1926)年、久保海道付近、国道20号付近の承知川。写真左側の建物の奥は土田遺跡(土田墓地付近)。2020-03-06
175病院慰問団病院慰問団松本陸軍病院慰問の際の記念写真。2020-03-06
176慈雲寺庭園慈雲寺庭園慈雲寺の庭園は「中村勝五郎日記」によると天保8(1837)年に築庭されたものという。その後、何度か改修、拡張がされ現在の姿となっている。水月公園山稜を借景とし、園池を中心とした多数の庭石が組まれ閑静な景観をみせている。町内に残る見事な庭園のひとつといってよい。庭園改修記念の写真。2020-03-06
177空から見た下諏訪・諏訪湖空から見た下諏訪・諏訪湖航空写真。冬の諏訪盆地。 富士山や八ヶ岳、赤砂先、下諏訪の街並みなどがわかる。2020-03-06
178下の原青年会下の原青年会下諏訪町青年会陸上競技大会優勝記念写真、現在も明新館二階に飾ってある。2020-03-06
179里曳きでの記念撮影里曳きでの記念撮影諏訪大社下社の里曳きでの記念撮影。 厳しい戦況の中厳しい暮らしの中での祭を迎えた喜びの様子がうかがえる。2021-08-19
180家族写真家族写真家族写真、「親子7人」「兄弟4人。2021-04-06
181風薫る高浜湾風薫る高浜湾写真の説明に、「風薫る高浜湾」の文字がある。昭和6年度町勢覧に同様の写真がある。2020-03-06
182みそたきみそたき諏訪地方では味噌をつくることを「味噌炊き」といい、春の彼岸が過ぎる頃、原料の大豆や麹、塩などを用意して味噌炊きの準備を始めた。味噌炊き用具一式を使い共同で作業することが多かった。 写真は味噌玉づくりの様子。味噌玉は2,30日間くらい寝かせた後、洗って水を切り臼で搗き味噌桶に仕込んだ。 昭和40年ころには、味噌玉を造る手間を省き、煮た豆を直接塩・麹を加えながら搗き、仕込む方法がとられるようになった。 味噌炊きについては「下諏訪町誌民俗編」を参考にしていただきたい。2021-03-27
183第一配水池第一配水池町営水道布設工事は総工事費38万円で昭和2(1927)年4月16日着工、昭和3(1928)年12月25日完工。水源地を東俣国有林の川路、大鹿の自然湧水に求め集水井を経て自然流下により水月園の配水池(下の原字天白)に送水されている。写真は第一配水池。2020-03-06
184板葺石置屋根板葺石置屋根板葺き石置き屋根。栗の木を薄く割った(へぐという)板を並べて押さえに長い丸太を置き、その上に丸石を重しにおいていたが後に鉄平石を交えるようになった。2020-03-06
185長屋長屋明新館から東方向に入った右手にあった長屋。今はもう見られない。2020-03-06
186長屋長屋明新館から東方向に入った右手にあった長屋。今はもう見られない。2020-03-06
187医王渡橋医王渡橋大正13(1924)年7月医王渡橋鉄橋工事が行われ、初めて無橋脚の鉄橋ができた。 写真は浮島から医王渡橋を撮ったもの。2020-03-06
188航空写真 区画整理中の武居航空写真 区画整理中の武居上空から見た武居。左手に下諏訪向陽高校グラウンドが見える。2020-03-06
189航空写真 区画整理前の武居航空写真 区画整理前の武居上空から見た武居。左手に下諏訪向陽高校グラウンドがわずかに見える。2020-03-06
190航空写真 区画整理中の武居航空写真 区画整理中の武居上空から見た武居。左端に下諏訪向陽高校のグラウンドが見える。2020-03-06
191航空写真 赤砂崎航空写真 赤砂崎上空から見た赤砂崎。赤砂崎から下諏訪町を望む。2020-03-06
192航空写真 第一区航空写真 第一区昭和57年10月。第一区全景。2020-03-06
193航空写真 南小学校航空写真 南小学校下諏訪南小学校、新校舎・旧木造校舎、旧講堂・旧小体育館。2020-03-06
194航空写真 水月霊園航空写真 水月霊園上空から見た水月園付近。紫雲閣、浄水場も見える2020-03-06
195航空写真 関屋 富部航空写真 関屋 富部上空から見た、富部(下諏訪町第10区)。上の方に関屋団地が見える。2020-03-06
196航空写真 花田上空航空写真 花田上空上空から見た東山田(下諏訪町第7区)左に三協精機社宅(現日本電産サンキョー)、下諏訪町第5保育所(現とがわ保育園)の赤い屋根が見える。2020-03-06
197航空写真 秋宮周辺航空写真 秋宮周辺下社秋宮の森、今はない山王閣の建物が見える。画面左下には青塚が見えている。2020-03-06
198航空写真 大門通上空航空写真 大門通上空上空から見た下諏訪町。大門上空、大門通りの左はじに下馬橋が見える。2020-03-06
199航空写真 町庁舎周辺航空写真 町庁舎周辺上空から見た町庁舎・町営球場。手前の川は砥川。建設途中の下諏訪体育館。旧田中線の道路は清水橋ができておらず砥川で止まっている。2020-03-06
200航空写真  赤砂崎付近航空写真  赤砂崎付近空から見た諏訪湖。赤砂崎、漕艇場を望む。2020-03-06
201航空写真 砥川河口付近 航空写真 砥川河口付近 空から見た諏訪湖。赤砂崎、漕艇場を望む。2020-03-06
202航空写真 漕艇場付近航空写真 漕艇場付近空から見た諏訪湖。漕艇場。2020-03-06
203航空写真 下諏訪町市街地航空写真 下諏訪町市街地空から見た下諏訪町と諏訪湖。写真右下に漕艇場が見える。昭和52(1977)年当時は西大路通りがまだできていないのと同様諏訪湖の湖周道路も未完成である。2020-03-06
204航空写真 下諏訪町市街地航空写真 下諏訪町市街地写真の中心付近に下諏訪町役場の庁舎や総合運動場が見える。この写真を撮った昭和52(1977)年には、昭和53(1978)年完成した湖岸通り(ジャスコ通り)の砥川以西や昭和54(1979)年完成した清水橋とそれ以西の道路、昭和55(1980)年完成した西大路通りなどはまだない。2020-03-06
205湖浜地区の区画整理工事中湖浜地区の区画整理工事中7枚の写真の合成。昭和42(1967)年10月湖浜地区の区画整理工事中の様子。区画整理前は一面に水田が広がっていた。2020-03-06
206高浜湾高浜湾昭和41年に撮影された富が丘から望む高浜湾。広い水田が広がっている。2020-03-06
207小田野(社ヶ丘団地造成前)住宅団地小田野(社ヶ丘団地造成前)住宅団地下諏訪町では住宅団地造成のため、東山田小田野地籍23,070平方メートルを買収して、昭和36(1961)年7月から工事に着工した。写真は工事着工前の田畑(多くは桑畑に利用されていた)が広がる様子である。 昭和37(1962)年3月20日工事は竣工し社ヶ丘団地が造成された。2020-03-06
208夜のお花見夜のお花見大正3(1914)年水月会の主唱によって水月園と花見新道に初めて電灯をつけた。写真は夜のお花見、三味線を持った芸者さんもいる。2020-03-06
209水月園お花見水月園お花見水月園は「水月会」により開発され、明治35(1902)年に命名。明治40(1907)年旧月見堂が落成。その後昭和28(1953)年に町に移管され、昭和56(1981)年現在の観月堂が作られる(月見堂は写真の左になる)2020-03-06
210第一区両社詣り第一区両社詣り両社参り昭和16(1941)年9月21日。の昭和13(1938)年の写真と比べると子どもや婦人(女性)の人数が多いように見える。2020-03-06
211第一区両社詣り第一区両社詣り出征軍人の健康祈願のため区の主催で区民がたびたび諏訪大社の上下両社に歩いてお詣りした。写真は上社石段での記念撮影。 前列中央の男性が「日本第一軍神」の旗を持っている。 両社参りとは豊作を祈り六月一日に行われていた。 戦争中はこの日に限らず諏訪上下社に参拝した。 上社へは上諏訪の駅から歩いて参拝した。2022-03-15
212下諏訪全景下諏訪全景河西政常氏撮影。製糸工場の煙突の煙が見える。白い建物は ※丸六製糸(現在のムトー工業の位置)。2020-03-06
213大詔奉戴日の行進大詔奉戴日の行進大詔奉戴日の行進(大東亜戦争のはじまった12月8日を記念し以降毎月8日を記念日として、戦意の高揚をはかった。)写真は翼賛壮年団。生徒は小学校に集合し秋宮から春宮へと行進した。この行進に参加しない者は問題視された。2020-03-06
214大詔奉戴日の行進大詔奉戴日の行進昭和17(1942)年大東亜戦争の始まった12月8日を記念して以降毎月8日を大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)とし戦意の高揚をはかった。その日の行事として秋宮から春宮まで行進した。写真は女子青年団。2020-03-06
215子どもの川遊び子どもの川遊び中村静志に絵を描くためと依頼されて撮影したという写真。2020-03-06
216下諏訪町遠望下諏訪町遠望富部の山の手から撮影。国鉄(現JR)との立体交差の始まった冬。立体交差は昭和32(1957)年5月20日開通式を行う。写真手前家並みは中山道。その上側に農耕地が広がり写真右に土田墓地、駅構内の線路、駅の手前にダイヤ豆腐の工場、画面左端には下諏訪小学校の講堂と思われる建物が見える。写真中央を中央線と国道20号線沿いの家並みが線状に見えている。遠く水田地帯、砥川、長地の集落と思われる風景が続く。2020-03-06
217宅地化する前の湖浜地区宅地化する前の湖浜地区上空から見た下諏訪南小学校。旧木造校舎、旧講堂、旧小体育館、50Mプールも見える。校舎から諏訪湖畔までは水田が広がっている。2020-03-06
218麻の供出麻の供出昭和18(1943)年戦争末期、衣類不足を補う為軍の命令で町内の草地で麻を栽培。明新館前に大がまをしつらえて剥し繊維を供出。村人が動員されて横吹の畑麻を刈り取ったときの写真。若い人が出征し中高年者が多い。この麻が戦後まで残って麻薬の原料になると、根絶させるのに苦労した。2020-03-06
219吉澤製材所とさわら並木吉澤製材所とさわら並木春宮前のさわら並木を西側から写したもの。春宮下馬橋の西裏手を流れる御手洗川の水力(水車)を動力として利用をした吉澤製材工所。写真の大きな立木は大門通りのさわら並木。現在は駐車場、住宅になっている。河西政常氏撮影。2020-03-06
220大正年間の大門通り大正年間の大門通り大門の中ほどから下馬橋を望む、何かが通るので沿道の人が出てきていたところか?撮影者の河西氏宅は下馬本屋と呼ばれ暗箱(ガラス板)を使って写真を撮影していた。当時アマチュアカメラマンといえば下馬本屋さんといわれていた。尚下馬本屋(河西氏宅)は下の原の御洗川の水を利用して、精米水車を最後まで行っていた一軒であった。2020-03-06
221小田野段丘と砥川新扇状地小田野段丘と砥川新扇状地 機上から(諏訪市勝山為如氏)撮影した諏訪大社下社春宮下馬橋(太鼓橋)。 右が春宮の森、さわら並木は昭和9年の室戸台風でほとんどが倒れ今は見られない。左上が小田野段丘で昭和37年社が丘住宅団地ができた。その下が東山田の集落。参道両側の民家は平石屋根やかやぶき屋根が多い。2020-03-06
222町主催戦死者葬儀(合同葬儀)町主催戦死者葬儀(合同葬儀)たれ幕には「陸軍輜重兵上等兵…」「陸軍砲兵上等兵…」「陸軍工兵伍長…」などの文字が読み取れる。「輜重兵(しちょうへい)」とは軍需品の補給や陸上運送に当たった兵のこと。町主催で行われた戦死者葬儀(4名の合同葬儀)、会場は現在の南小学校講堂。2020-03-06
223町主催戦死者葬儀町主催戦死者葬儀町主催で行われた戦死者葬儀(2名の合同葬儀)、会場は現在の南小学校講堂。たれ幕から「弔故陸軍伍長…」「弔故陸軍上等兵…」の文字が読める。2020-03-06
224町主催戦死者葬儀町主催戦死者葬儀町主催で行われた戦死者(第二次世界大戦・太平洋戦争戦没者)葬儀、会場は現在の南小学校講堂。祭壇には戒名(法名)に並んで「皇后陛下御下賜品」や「参謀総長」「教育総監」「陸軍大臣」「師団長」の文字も見える。また、たれ幕には「迎故陸軍兵長・・・英霊」などの文字も見える。2020-03-06
225下諏訪小学校南校雨天体操場建設下諏訪小学校南校雨天体操場建設下諏訪小学校南校雨天体操場(講堂)内での関係者の記念写真。平成29(2017)年11月26日市民新聞に掲載された。2020-03-06
226下諏訪小学校南校雨天体操場建設下諏訪小学校南校雨天体操場建設下諏訪小学校南校(現南小)雨天体操場(講堂)の外観を背景に関係者の記念写真 平成29(2017)年11月26日市民新聞に掲載された。 「下諏訪小学校南校雨天体操場落成記念 昭和6年10月28日」。 南校は大正13(1924)年低学年収容の校舎として開設されていた。2020-03-06
227下諏訪小学校南校雨天体操場建設下諏訪小学校南校雨天体操場建設下諏訪小学校南校雨天体操場(講堂)建設。平成29(2017)年11月26日の市民新聞で紹介された写真。2020-03-06
228出征兵士と家族写真出征兵士と家族写真出征兵士と家族の記念写真、鷹野町にあった「三澤屋」。2020-03-06
229出征兵士と家族写真出征兵士と家族写真出征兵士と家族の記念写真、菅野町の武川運送。2020-03-06
230出征兵士と家族写真出征兵士と家族写真出征兵士(「まつや」番頭)と「まつや」家族の記念写真。 御田町にあった「丸七まつや」(立町に移転マツヤ洋品店に)後に荒井書店に現在は他の店になっている。2020-03-06
231更科そば店更科そば店湯田仲町(ムラグチ酒店のあった場所)にあった更科そば店。 御大典記念の写真で開業五周年大売り出しとある。 当時更科そば店。当時下諏訪町で最も繁盛した。 ラーメン店(当時は「シナそば」店)の栄軒はこれより遅れて開業、店主が北信州栄村の出身だったことから蕎麦屋を予定していたが、更科そば店の繁盛を見てラーメン屋にしたという。 町内ではそばと言えば更科と言われていた。2020-03-06
232青木健一町長就任記念写真青木健一町長就任記念写真現庁舎前。青木健一町長以下議員、役場幹部。 第29代町長、青木健一氏は昭和45(1970)年~昭和57(1982)年まで3期12年町長を務める。在任中新庁舎完成、北小開校、社中開校、町屋敷団地完成、東俣浄水場建設、老人福祉センター開設、清掃センター完成、体育館完成などに尽力した。2020-03-06
233黒田町長就任記念写真黒田町長就任記念写真役場旧庁舎前。黒田新一郎町長と議員。第26代下諏訪町長、黒田新一郎氏は昭和33(1958)年から昭和45(1970)年まで3期12年間町長を務める。在任中、温泉開発、明るい町づくり運動推進、陸上競技場完成、社ヶ丘団地造成、星ヶ丘団地造成、八島高原の保全、町誌づくり、新庁舎建設等に尽力した。2020-03-06
234臨時国税調査員記念臨時国税調査員記念役場旧庁舎前 臨時国勢調査員記念写真。 小口守一町長以下議員と役場幹部。昭和15(1940)年に発表された、第5回国税調査による下諏訪町の人口は男7670人・女9949人計17619人(世帯数3651)となっていた。2020-03-06
235新潟県人会新潟県人会この頃、県人会など絆が固くまとまっていた。 新潟県人会には魚屋さんが多かった。2020-03-06
236出征家族写真撮影関係者出征家族写真撮影関係者軍艦旗(旭日旗)と国旗が玄関前に飾られている。 写真にはないが幟も立てたとのこと。2020-03-06
237諏訪中入学の記念写真諏訪中入学の記念写真下諏訪からの通学者の入学後の記念写真。 1年生が後ろで5年生が前、現在では考えられない。 下諏訪黎明会という会を作っていた。 後ろの秋宮幣拝殿の前に釣り灯篭があるが、その後行方不明になっている。 前列の生徒の足元を見ると約半数は下駄をはいている。2020-03-06
238結婚式の記念写真結婚式の記念写真松葉屋(後の千尋館)での結婚式の記念写真。2020-03-06
239結婚式の記念写真結婚式の記念写真松葉屋(後の千尋館)での結婚式の記念写真。 男蝶、女蝶の子どもが写っている。三三九度のお酌をした。 男蝶・女蝶とは祝言で三三九度の酌人を務める男女の子どものことを言います。 読み方は「おちょう・めちょう」雄蝶・雌蝶と書くこともある。2020-03-06
240結婚式の記念写真結婚式の記念写真諏訪大社下社秋宮での結婚式の記念写真。2020-03-06
241成人式記念写真(女性)成人式記念写真(女性)この当時、成人式は諏訪大社下社秋宮で行われていた。人数が多く記念写真は男女別に撮っていた。2020-03-06
242成人式記念写真(男性)成人式記念写真(男性)この当時、成人式は諏訪大社下社秋宮で行われていた。 人数が多く記念写真は男女別に撮っていた。2020-03-06
243昭和初期小学生の記念写真昭和初期小学生の記念写真山王台の銅像の台の前。 片倉蚕糸の創業者が岡谷の方向を指差した銅像があったが、お尻が皇居の方向を向いているとの批判があり取り壊された。2020-03-06
244図書館利用者の集合写真図書館利用者の集合写真戦前の下諏訪町青年会図書館。 昭和3(1928)年に下諏訪青年会が山王台に建てた、昭和11(1936)年4月、片倉公園造成のため山王台から下中のバックネットの裏に移設された。2020-03-06
245第4分団消防役員記念写真第4分団消防役員記念写真旧4区屯所前。 左側に手引きポンプが写っている。2020-03-06
246勤労奉仕集合写真勤労奉仕集合写真富部青年団神風社(しんぷうしゃ)秋の勤労奉仕、脱穀作業後の集合写真。2020-03-06
247下諏訪町消防団下諏訪町消防団下諏訪町消防団記念写真、前列右には市瀬消防医も加わっている。2020-03-06
248下諏訪町消防団下諏訪町消防団下諏訪町消防団記念写真。 後列の4人は警察関係者.2020-03-06
249下諏訪町消防団第3分団下諏訪町消防団第3分団下諏訪中学校講堂前で下諏訪第3分団記念の写真。2020-03-06
250下諏訪町警防団下諏訪町警防団下諏訪町警防団の集合写真、昭和14(1939)年1月警防団令により消防組を改組して下諏訪町警防団は昭和22~1947年まで設置された。 団長の高木十吉はこの後町長となるが昭和19(1944)年4月11日御柱祭山出祭において不慮の事故で殉職した。 中央には警察官の姿も見える。2020-03-06
251医師、歯科医の懇新年会記念写真医師、歯科医の懇新年会記念写真医師、歯科医の芸者を上げての新年会記念写真。     向かって右より 岡野先生、一の瀬先生、二木先生(歯医者)、下条先生、塚越先生、武井先生、三輪先生。 2列目 金丸先生、林先生、女性、黒河内先生。  3列目 宮下先生、小松先生、平山先生、池田先生、中根先生。2020-03-06
252ネオン灯完成記念写真ネオン灯完成記念写真駅前通り(現在はオルゴール通り)田村青果店前に「ネオン灯が完成したが、昭和34(1959)年の伊勢湾台風で倒壊した。「駅前通り」のネオンの下に町内の旅館の名前が揚げられている。2020-03-06
253第三区出征軍人健勝祈願記念写真第三区出征軍人健勝祈願記念写真第三区出征軍人の健勝を祈願した際の記念写真。多くの子ども、学生も動員されている。 昭和10(1935)年代に消防組から消防団となり、はっぴ姿も見える。供出前の狛犬も映っている。 狛犬は昭和19(1944)年に供出。2020-03-06
254裏参道開通記念裏参道開通記念昭和15(1940)年12月29日不況対策事業で裏参道開削がほぼ完成し通行できるようになった。 さらに同18(1943)年8月10日、字三王・久保・臺の公園敷地が川岸村長より寄附があり、同19(1944)年7月秋宮裏参道が竣工した。その際の記念写真、町長初め町理事者、地域関係者が写る。現在の「ヤマモト」の横付近で撮影、坂の中ほどに現下諏訪中学校、奥に諏訪大社下社秋宮の森が見える。2020-03-06
255殿村遺跡発掘調査殿村遺跡発掘調査復元住居の完成記念写真。 町理事者、町議、調査関係者。 「殿村原住民族住居跡」の看板。2020-03-06
256中央車両工業(中央工業)慰安旅行記念写真中央車両工業(中央工業)慰安旅行記念写真杖突峠の標識看板がある。トラックには中央車両工業株式会社の文字。2020-03-06
257下諏訪商業組合ビル完成記念下諏訪商業組合ビル完成記念下諏訪商業協同組合は前身が下諏訪商業組合で大正13(1924)年に設立し、物品の共同購入・保管・金融業務などを行い、昭和15(1940)年に事務所・倉庫を設置していた。(日本電産サンキョウ入り口の場所で現在の社名は「ニディックインスツルメンツ(株)」) さらに昭和22(1947)年に商業協同組合に改組している。写真は昭和15(1940)年の下諏訪商業組合ビル完成記念の時のものである。 その後、現在の商工会議所は昭和62(1987)年に鷹野町に新築移転している。2024-03-14
258出征軍人家族慰安会に於ける青年団仮装演劇記念写真出征軍人家族慰安会に於ける青年団仮装演劇記念写真出征軍人家族の慰安のために青年団で仮装演劇を行った。演劇は御田劇場などで開かれた。これは、3区公民館(現青雲館)において写された記念写真。 「昭和十七年 出征軍人家族慰安會記念 六月」と写真に記録されている。2020-03-06
259広瀬町町少年団広瀬町町少年団広瀬町少年団の団旗完成記念写真。 昭和12(1937)年7月7日に支那事変が勃発。 この時、町内の組長や在郷軍人等の要望により結成、小学1年から高等科2年の男子全員が毎週日曜日の朝6時に新道(三国座通り)へ集合、駆け足で諏訪大社秋宮へ必勝祈願し、その後帰町して町内道路と駅庭の清掃を実施した。そろいの帽子と腕章に少年たちの真摯(しんし)な眼(まなざし)が並ぶ。2021-04-15
260御田町商店会御田町商店会御田町通りのお祭の飾りつけ準備記念写真。 旧菱友付近。2020-03-06
261広瀬町町民遠足広瀬町町民遠足ざっと数えて100人。 子ども達の多さに驚きです。2020-03-06
262国鉄バス下諏訪営業所開業三十周年記念写真国鉄バス下諏訪営業所開業三十周年記念写真下諏訪駅2階にあった国鉄バス下諏訪営業所開業三十周年記念写真。右端にはバス整備場があり、懐かしい型のバスも見える。和田峠のバス路線は昭和8(1933)年3月25日丸子町・上和田間(和田峠北線)、並びに下諏訪・岡谷間(南線)が開通。さらに和田峠トンネルが同年1月に完成。道路の改修工事を経て同年10月13日に全線開通祝賀式を慈雲寺において開催した。当時下諏訪・丸子間の所要時間は2時間半。省営バス路線中日本最高の峠路を40人乗りバスで4往復した。2020-03-06
263商工会館落成記念写真商工会館落成記念写真駅前にあった商工会館落成記念写真。下諏訪町が活気のあった時代を支えていた人たちが多い。青年は落成記念に仮装行列を組み盛り上げた。建物は現在の日本電産サンキョーの入口の位置にあった。2020-03-06
264三国座落成記念写真三国座落成記念写真駅前から四ツ角方面の振興を目的に友之町の本通り・大社通り・菅野町・駅通りの商工業者が映画館「三国座」を建設した際の関係者の記念写真。昭和29(1954)年9月1日にオープンし、「ローマの休日」を上映した。諏訪の都座の系統で当時珍しかった洋画も上映した。昭和47(1972)年9月25日閉鎖された。館名は一般より募集した。(撮影日は下諏訪町誌参考)2020-03-06
265青年演劇青年演劇下諏訪町の青年演劇を演じていた人たち。御田劇場で演じたときに舞台で撮影された記念写真。当時、慰安目的でいろいろな場で演じていた。2020-03-06
266駅前通り舗装工事駅前通り舗装工事舗装工事中の駅前通り。 右側の洋風の建物はシロトリ写真館。突き当たりが下諏訪駅でその前には宮大工の手による前回の御柱用材を利用した鳥居が建てられていた。 作業中の人は、町の失業対策事業の人たちである。広瀬町の名前のとおり、地中には大きな川原石がゴロゴロしていた。 同写真館は、大正12(1923)年箕輪で創業、その後岡谷の丸山橋、下諏訪では昭和2(1927)年御田町で開業、その後現在の広瀬町に移った。2021-05-03
267秋宮周辺航空写真秋宮周辺航空写真勝山写真館(上諏訪)が赤砂飛行場を離陸撮影した航空写真。秋宮周辺の宿場町の町並みが残っている。左下に旧町役場庁舎、左端の中あたりに中部電力前身の信州電気、その前の立町通突き当りには二階建ての綿の湯、その周りには改築前の旅館、鳥居前は当時の街道の風情が色濃く残り千尋館なども見られる。 勝山写真館では霧ケ峰強清水のスキー場の写真などを空から撮影していた。2020-03-06
268広瀬町町内会ハイキング広瀬町町内会ハイキング広瀬町町内会の八島ハイキングの際の記念写真。写っている人数と手持ちの番号旗から何台かのバスに分乗していったのか.それにしても、子どもたちの多さは今では考えられない。2020-03-06
269出征家族写真撮影関係者出征家族写真撮影関係者戦時中、朝日新聞では軍神の諏訪大社下社秋宮境内で出征した兵士の家族写真を撮影、戦地に送付していた。町内の写真撮影業者のうち組合加入の秋山(高札場上)・北原・城取氏の3人、アマチュアカメラマンが撮影に当たっていた。新聞社、新聞販売店、後援の役場職員も同席しての記念写真。2020-03-06
270星ヶ丘公会所落成記念写真星ヶ丘公会所落成記念写真新築された星ヶ丘公会所と下諏訪町長青木健一氏、区関係者による落成記念写真。背後にはまだ畑が見える。星ヶ丘団地の造成は昭和39(1964)年。2020-03-06
271みどり幼稚園みどり幼稚園新町下にあったみどり幼稚園の園庭にて、保護者・園関係者の記念写真。前列中央は園長の山田与八氏。 下諏訪教会では戦前の昭和10(1935)年から幼稚園経営をしていたが戦争中は町保育所に吸収され園舎は軍事工場に使用されていた。 戦後の昭和26(1951)年仮免許で始め、再び幼稚園を翌年正式の設立認可を得てみどり幼稚園と改名した。 2020-03-06
272戦前の下諏訪小学校(現下諏訪中学校と南小学校)戦前の下諏訪小学校(現下諏訪中学校と南小学校)写真上は明治41(1908)年建築の下諏訪尋常高等小学校(現下諏訪中学校の校舎)。第二次大戦中は東国民学校と改称され、青年学校・実科高等女学校を併設していた。写真下は大正12(1923)年に四王に作られた南校(戦争中南国民学校現南小学校)の敷地に、昭和6(1931)年に不況対策事業として建設された小学校講堂である。ともに卒業アルバムの写真で、写真下の講堂の規模は県下有数であった。2020-03-06
273ダイヤ豆腐周辺の航空写真ダイヤ豆腐周辺の航空写真当時景気が良かったダイヤ豆腐による航空写真。ダイヤ豆腐は線路横の煙突の立っている建物、現下諏訪南小学校前を通る田中線は砥川で止まっている。田中線の右端に小学校の校舎が見え、砥川の手前には昭和24(1979)年から整備されてきた総合運動所が見える。現在のジャスコ通りにあたる道沿いには昭和28(1953)年栄町から移転ひかり味噌が見える。線路下には、桑畑とりんご畑が広がっていた。2020-03-06
274千尋池千尋池改修工事完成の記念写真。 千尋池西側道路(現在の国道142号線)の開通に伴い千尋池は改修され、石橋が設置された。 大社関係者、横町などの地元住民、工事請負業者が並んでいる。現在は秋宮の管轄になっているが、二区の有志の皆さんが「ちひろ講」を設立し年1回の清掃奉仕や御柱祭を行っている。なお「ちひろ講」は青塚の清掃も行っている。2020-03-06
275秋宮鳥居前集合写真秋宮鳥居前集合写真徴兵検査合格者の記念写真。 旅館の名前の入った旗があることから下諏訪温泉に宿泊した県内の人たちが多数含まれていると思われる。また、学生服を着た大学生の姿も見られる。この写真では手水舎が現在と反対側にある。手水舎は昭和28(1953)年に八幡側から千尋池側に移った。向かって右に見える道は、昭和15(1940)年以前は武居に行く唯一の道であった。また、鳥居の左側の現在千尋池となっている場所に商家などの建物が見えている。鳥居前千尋館の二階から撮影された写真である。2020-03-06
276下諏訪駅下諏訪駅下諏訪駅は明治38(1905)年11月25日開業。 昭和25(1950)年3月に駅舎改築され、写真はその当時の駅舎である。2020-03-06
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