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登録リスト(該当:20件)

写真タイトル説明登録日
1水産試験場水産試験場県立水産指導所。(現長野県水産試験場。) 昭和15(1940)年に下の原春宮左手前の西田圃へ設置されあ、長野県水産試験場が、昭和20(1945)年に諏訪水産指導所となり、さらに22(1947)年に長野県水産指導所諏訪支所となり26(1951)年湖浜にできた。また、アユ種苗センターが高浜公園横にある。2022-01-20
2鎌倉街道鎌倉街道小湯の上に残る鎌倉街道。現在「鎌倉街道」(鎌倉道)は諏訪市大和から高木集落の下を通り富部・武居・下の原・慈雲寺裏を経て砥川を渡り、東山田など、町周辺の山付きの村の標高の高いところを通り、ところどころに道筋を残している。2020-03-06
3注連縄作り注連縄作り下の原注連縄作り講習会の風景。正月をひかえ注連縄つくりの講習会が行われた。ふるさとの民俗を残そうと区の公民館主催でこの催しが毎年続けられている。2020-03-06
4モノレールで新米の出荷モノレールで新米の出荷江戸時代下の原の名主を中心に藩の支援を受けながら、東俣蝶ヶ沢から東俣川の水を取り入れ城の沢で落とす長さ6650mの菰川汐(こもっかわせぎ)を作り水田化が図られた。昭和58(1983)年に、耕作者三人が県の補助金を受け、この山上の田(海抜900m)から農業用モノレール(全長202m)を設置した。写真は新米の搬出風景。モノレールは250㎏まで荷物を詰めるそうだ。この年、ミスズモチとフクヒカリを植え、平年作を上回る出来だったという。2020-03-06
5観月句会観月句会中秋の名月、下の原区の水月会(明治35年発足)の観月句会。春は観桜句会を催している。いずれも句会の後一献傾けて楽しむ。句会は親睦の場でもある。d会場は明新館。2020-03-06
6水月園花見風景水月園花見風景明治35(1902)年に下ノ原の俳人らにより、水月園の開園と水月会が発足した。会の運動の一環として月見堂の建設、句碑が建立された。また桜・楓などが植樹され諏訪地方随一の桜の名所となった。2020-03-06
7河東碧梧桐を囲んで句会河東碧梧桐を囲んで句会写真の下のメモに子規派、紫竹、木工外、水翁(浜孝吉)、玉羽英、李塘、鶴水、鵞水城の名が書かれている。明治42(1909)年5月河東碧梧桐の来諏にあたり、5月1日水月園(慈雲寺)で句会を開いている。写真はこの時のものか?なお碧梧桐は昭和2(1927)年ふたたび来諏している。紫竹は関一郎(M3・高木生)、木外は岩本木外(M5・高木生)、水翁は浜孝吉(慶応元年・小口村生)、玉羽英は中村幸義・・・いずれも俳句を愛した人々である。李塘は岩本長衛(下の原)、鵞水城は林重義(友之町)。2020-03-06
8下の原消防団 一分団下の原消防団 一分団法被に「下諏訪消防組第一部」とある。昭和13(1938)年撮影。下社春宮鳥居前。2020-03-06
9ガソリンポンプ車新調ガソリンポンプ車新調下の原で寄付金で購入したガソリンポンプ。大正7(1918)年10月27年、下諏訪町消防組で秋季演習のさい、森田式ガソリンポンプ(25馬力)新調の披露式を挙げる。諏訪地方最初のガソリンポンプであった。御田劇場の向かい合いに、ポンプ置き場を新築する。写真で見る下諏訪の百年には「組頭の伊藤玉蔵が中央に見えることから大正9(1920)年3月から11(1923)年5月の間のものであろう」と書かれている。 写真の裏書には大正15年12月15日と記録されている。2020-03-06
10明新館明新館古くは行屋(お堂)があったところで、明治10(1877)年に学校建築の費用に充てるため御堂と土地を民間に売ったが、明治24(1891)年にお堂を取り壊して集会所を建て、「明新館」と名付けた。 下諏訪町最初の集会所。その後何回か改修を重ねてきたが老朽化により昭和41(1966)年現在の建物に改築されている。 写真は改築直前の昭和40(1965)年の明新館。 下原中村勝五郎の日記(日嘉恵雑書帳)に「明治24年200円にて明新館建てる」とある。玄関と平石屋根は明治32(1899)年の改修。行屋にあった十王像(町文化財)は現在同館に保存されている。2020-03-06
11山田政之丞宅再建山田政之丞宅再建山田正倫(政之丞)宅再建。山田(1835-1903)氏は下の原東町の元名主。明治12(1879)年6月、長野県が16郡となり戸長が公選され副戸長が筆生(ひっせい)となり、この時郡区町村編成法が施工、下諏訪村初の公選戸長に当選した。山田政之丞氏については№705参照。2020-03-06
12花見新道花見新道花見新道の桜並木に「宮の上」(「宮の上」のバス停が天白の急坂の入口にある)の看板の文字が見える。現在とは違い新道北側にも桜並木が続いたり、人家がほとんどない当時の様子がよくわかる。 国道142号線が開通したのは、明治29(1896)年である。2020-03-06
13下の原青年会下の原青年会下諏訪町青年会陸上競技大会優勝記念写真、現在も明新館二階に飾ってある。2020-03-06
14平石葺きの屋根の民家平石葺きの屋根の民家下の原にあった平石葺きの屋根の民家。2020-03-06
15第一配水池第一配水池町営水道布設工事は総工事費38万円で昭和2(1927)年4月16日着工、昭和3(1928)年12月25日完工。水源地を東俣国有林の川路、大鹿の自然湧水に求め集水井を経て自然流下により水月園の配水池(下の原字天白)に送水されている。写真は第一配水池。2020-03-06
16航空写真 第一区航空写真 第一区昭和57年10月。第一区全景。2020-03-06
17カヤ屋根の葺き替えカヤ屋根の葺き替え茅ぶき屋根の家。大正末期までは区内に数十軒あったが生活様式の変化で昭和60年ごろには全てなくなった屋内で火を焚いて煤が茅につくので一代に一回葺き替えればよいとされたが大変な労力が入るので「ゆい」や「かや無尽」があった。2020-03-06
18大正年間の大門通り大正年間の大門通り大門の中ほどから下馬橋を望む、何かが通るので沿道の人が出てきていたところか?撮影者の河西氏宅は下馬本屋と呼ばれ暗箱(ガラス板)を使って写真を撮影していた。当時アマチュアカメラマンといえば下馬本屋さんといわれていた。尚下馬本屋(河西氏宅)は下の原の御洗川の水を利用して、精米水車を最後まで行っていた一軒であった。2020-03-06
19小田野段丘と砥川新扇状地小田野段丘と砥川新扇状地 機上から(諏訪市勝山為如氏)撮影した諏訪大社下社春宮下馬橋(太鼓橋)。 右が春宮の森、さわら並木は昭和9年の室戸台風でほとんどが倒れ今は見られない。左上が小田野段丘で昭和37年社が丘住宅団地ができた。その下が東山田の集落。参道両側の民家は平石屋根やかやぶき屋根が多い。2020-03-06
20出征家族写真撮影関係者出征家族写真撮影関係者軍艦旗(旭日旗)と国旗が玄関前に飾られている。 写真にはないが幟も立てたとのこと。2020-03-06
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