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写真タイトル説明登録日
1舟道舟道山の手を通る甲州街道から高まま(高浜)の入り江の舟止(ふなと)へと下りる舟道(小路)に沿って半農半漁の村が形成された富部地区(第10区)。現在は旧国道(県道)と鉄道(JR)、国道20号線、により舟道は分断はされているがその面影は現在も残っている。2023-07-09
2長野県水産試験場長野県水産試験場昭和15(1940)年6月、下原小字蚊無川(春宮南西・浮島の南)に長野県水産試験場が建設された。この時本館と試験地が設置、同時に富部下の漁業組合の幼魚地を借用。翌16(1941)年高浜旅館の温泉プールを買収し、試験地とする。 写真は昭和17(1942)年侍従を迎えて撮影。2023-02-18
3水神碑水神碑明治39年3月、水上の安全と豊漁を祈り舟泊(ふなと)の口に祀った。碑の裏には漁業を営んでいた旧氏族をはじめ多数の人命が刻まれ、高浜を基地とした漁業の繁栄ぶりが偲ばれる。諏訪湖の埋め立てが次々と進み、湖は遠くなり、碑も二転三転した。2021-12-23
4大権現大権現高浜の宮坂氏宅前に[大権現」と彫られた石碑が祀られている。 この碑は上部にかけがあり文字の一部が見える。 碑には言い伝えが残されている。 それは村の辻の「金毘羅大権現」が明治維新の際二つに折られ高浜に運び諏訪湖に投げ捨てられたその後、ここに住んでいた宮坂氏が引き上げお祀りした。2021-12-23
5蒸気機関車蒸気機関車JR東日本が動態保存するSL、Ⅾ51型蒸気機関車498号が下諏訪町の高浜橋付近を走行した時の写真。2022-01-13
6高浜湾近景高浜湾近景令和の時代に入った高浜湾。かつてここが大きく入り込んだ入り江で、漁業や採氷やスケート、観光などで賑わっていた風景は古い時代の写真でしか見ることはできない。ただ、明治時代に開かれた国道20号線や中央東線の線路などは当時と同じ場所にあって人々の生活と深く結びついていいる。「高浜」で検索し、静かな入り江だった場所がやがて埋め立てられ大きく景観が代わってきた様子を見比べていただきたい。2021-06-23
7下諏訪町立博物館下諏訪町立博物館昭和26(1951)年12月3日下諏訪町に文化財保存会が出来翌27(1952)年秋宮神饌(しんせん)を借用して神社共有の博物館がた開館した。建物は「諏訪大社宝物陳列場」に併設されていた。 昭和46(1971)年4月1日、高浜湾岸に鉄筋コンクリート二階建ての博物館が出来た。 平成5(1993)年6月、「諏訪湖博物館・赤彦記念館」として湖岸通りの西高木にオープンした。2024-03-20
8水産試験場水産試験場県立水産指導所。(現長野県水産試験場。) 昭和15(1940)年に下の原春宮左手前の西田圃へ設置されあ、長野県水産試験場が、昭和20(1945)年に諏訪水産指導所となり、さらに22(1947)年に長野県水産指導所諏訪支所となり26(1951)年湖浜にできた。また、アユ種苗センターが高浜公園横にある。2022-01-20
9下諏訪町絵図下諏訪町絵図下諏訪町絵図。 地図の中に秋宮リンク、千尋池、四つ角に八十二銀行、高浜に水産試験場、高浜プール、町営グラウンド、小学校などがあることから、およそ昭和20~30年頃。戦後の可能性が大きい。2023-06-29
10高浜付近高浜付近新田中線沿いにあった「サンアイ」・「諏訪湖市場」の看板付近と右手前は高浜運動公園のフェンス。2020-03-06
11高浜公衆トイレ高浜公衆トイレ湖岸に設けられた公衆トイレ。2020-03-06
12湖岸道路開通湖岸道路開通昭和63(1988)年に開通した湖岸通り線竣工開通式。2020-03-06
13諏訪湖のスケート風景諏訪湖のスケート風景諏訪湖のスケート 諏訪中(旧制)の生徒か? 古田明氏寄贈2020-03-06
14女性のスケート風景女性のスケート風景芸者さんのスケート風景。 城取氏撮影。2020-03-06
15下駄スケートをする子どもたち下駄スケートをする子どもたち下駄スケートで滑る小学生、先頭は改良されたスピードの三本刃、後方は最初の日本刃のスケート。この写真の説明は昭和初期としてあるが、「写真いまとむかし(下諏訪町)」には、「大正後期のスケート遊び(矢島式下駄スケート)」と説明されている。また、「下諏訪町町制施工125周年(下諏訪今昔絵巻)」には大正14(1925)年頃と注釈がされている。2020-03-06
16スケートスケート諏訪湖高浜湾リンクで初めてのスケート大会発会式の様子。下駄スケートが考案されると共に、下諏訪町に「下諏訪諏訪湖氷辷(こおりすべり)会」ができて、その翌年の明治39(1906)年2月18日には写真の如く、高浜湾で諏訪湖で初めてのスケート大会が開催された。」。当時会員200名程のうち、50名程が外国人であったという。南信日日新聞後援であった。写真下には「第百三十二圖 諏訪湖スケート倶樂部發會式 (明治三十九年[一九〇六年]二月十八日) 下諏訪町高濱灣」と書かれている。№1367と同じ。2020-03-06
17スケートスケート馬が引く「氷上スキー」。背景の段々畑は一面桑畑、製糸業が盛んな頃の農閑期の諏訪の風景。場所は高浜湾付近。2020-03-06
18スケートスケートスケートに興ずる人々。2020-03-06
19スケートスケート諏訪湖高浜湾リンクで初めてのスケート大会発会式の様子。下駄スケートが考案されると共に、下諏訪町に「下諏訪諏訪湖氷辷(こおりすべり)会」ができて、その翌年の明治39(1906)年2月18日には写真の如く、高浜湾で諏訪湖で初めてのスケート大会が開催された。」。当時会員200名程のうち、50名程が外国人であったという。南信日日新聞後援であった。資料には「第百三十二圖 諏訪湖スケート倶樂部發會式 (明治三十九年[一九〇六年]二月十八日) 下諏訪町高濱灣」と書かれている。№1413、1861と同じ。1961の写真には「箒をもてるはグラウンドの掃除人夫なり」と書きもまれている。2020-03-06
20スケートスケート高浜沖の諏訪湖でスケートを楽しむ人々。2020-03-06
21諏訪湖の漁業諏訪湖の漁業沿岸の深さ2m位の湖中へ15~20㎝の角張った石を300~400個ほど入れて丸い塚のように積み上げ、冬ごもりに集まってきた魚を捕る漁法。ヤツカ量は冬の諏訪湖で欠くことのできない漁法だったが昭和40(1964)年代に漁場が護岸工事などで失われ、行われなくなった。諏訪湖ヤツカ漁、全盛期の写真。(ヤツカは屋塚・石塚とも書く)2021-03-24
22諏訪湖の漁業諏訪湖の漁業沿岸の深さ2m位の湖中へ15~20㎝の角張った石を300~400個ほど入れて丸い塚のように積み上げ冬ごもりに集まってきた魚を捕る漁法。「ヤツカ漁」は冬の諏訪湖で欠くことのできない漁法だったが昭和40(1964)年代に漁場が護岸工事などで失われ行われなくなった。諏訪湖のヤツカ漁、全盛期の写真。(ヤツカは屋塚・石塚とも書く)2020-03-06
23舟道舟道富部地区に残っていた舟道と漁業者の家。山の手を通る甲州街道から高まま(高浜)の入り江の舟止(ふなと)へ降りる舟道が通じ、これにそって半農半漁の村が形成されていたのだが、舟道も旧国道20号線(手前の道)と鉄道で断ち切られ、漁業もすっかり衰えて、平成元(1989)年には、昔の面影が残るのもこの家くらいしかなくなってしまった。この写真では船道は建物に向かって右の小路にあった。№1133参照。2020-03-06
24漁業者の家漁業者の家富部地区、漁業者の家。山の手を通る甲州街道から高まま(高浜)の入り江の舟止(ふなと)へ降りる舟道が通じ、これにそって半農半漁の村が形成されていたのだが、舟道も旧国道20号線(手前の道)と鉄道で断ち切られ、漁業もすっかり衰えて、平成元(1989)年には、昔の面影が残るのもこの家くらいしかなくなってしまった。この写真では船道は建物に向かって右の小路にあった。№1174参照。2021-04-01
25温泉ボーリング温泉ボーリング高浜3号井温泉掘削起工。2020-03-06
26温泉ボーリング温泉ボーリング高浜3号井温泉掘削起工。新式の掘削機で温泉のボーリング。町の温泉第三号井の掘削がこの日湖畔の高浜で始まった。これまではローリー式だけの掘削に、ターンテーブル方式を加えた兼用掘削機が導入され高速化され、地上の振動も少ないという。深度200メートルまでは374.7ミリのトリコンビットを使って掘る。温泉掘削も石油開発技術の応用で高度化されている。町はこの年の11月、山の手の小田野の地籍での第四号井掘削にも着手した。町の新規温泉開発は町内全域へ温泉供給と温泉統合が目的だった。2020-03-06
27承知川河口承知川河口承知川河口付近。源は大見山(八の字山)の西に発し高浜湾に注ぐ、長さ6.1㎞の川。流れは大きくないが、暴れ川で度々出水し護岸工事も何度か行われている。2020-03-06
28電線地中化の高浜信号機電線地中化の高浜信号機電線地中化の湖畔道路の高浜信号機。この地方で初めて電線地下埋没が実現、使用が始まった。この道路はジョギングロードも合わせて整備が進めらている。2020-03-06
29高浜より、立春薄氷の湖を望む高浜より、立春薄氷の湖を望む高浜より、立春、薄氷の湖と湖畔の町を望む。この日、-9,0度(平年比2,0度低)と冷え込み、湖は三度目の結氷となったが、昼過ぎには解氷。2月立春となれば、朝の凍みはきつくても、陽は濃くなっていく。2020-03-06
30高浜付近高浜付近高浜の交差点の西側。ガラス屋根は「長野県水産試験場諏訪支場アユ種苗センター」。隣の赤と緑の看板は「リファイン花岡(当時)」、手前が興和自動車販売センター㈱。2020-03-06
31諏訪湖の風景諏訪湖の風景ガラス屋根は「長野県水産試験場諏訪支場アユ種苗センター」隣の赤と緑の看板は「リファイン花岡」、手前が興和自動車販売センター㈱。高浜湾の風景は埋め立てなどにより大きく様変わりしているので、他の写真と比較してその変貌ぶりを見ていただきたい。2020-03-06
32田植え田植えトラクターによる代掻きの様子。昭和42年撮影。2020-03-06
33田植え田植え田植え風景。昭和42年撮影。2020-03-06
34代掻き代掻き人力による代ふみの様子。富部下字浜辺。昭和42年5月撮影。2020-03-06
35高浜のメリヤス工場高浜のメリヤス工場高浜のメリヤス工場で自動大横編機を写す。 2020-03-06
36高浜田園高浜田園人力による昔ながらの田植え。2020-03-06
37高浜田園高浜田園ハンドルトラクターによる代掻き。2020-03-06
38高浜田園高浜田園富部の高浜田圃の人力による代掻き・しろふみと田植え。2020-03-06
39博物館博物館昭和46(1971)年4月1日高浜湾岸に鉄筋コンクリート二階建ての下諏訪町立博物館が開館。諏訪湖の漁具、先史時代から現代までの歴史資料が展示、二号館にはスケート及び民具を展示していた。2020-03-06
40立体交差工事竣工立体交差工事竣工昭和30(1955)年10月に着工した 西浜の国道と鉄道の立体交差竣工。同32(1957)年5月20日開通式。完成した新道路の橋は高浜橋と命名された。2020-03-06
41赤砂飛行場赤砂飛行場昭和3(1928)年1月下諏訪町や製糸関係者等の協力で諏訪飛行協会を結成。翌年3月には格納庫ができ、4月には藤森飛行士が赤砂に着陸して同4(1929)年には郡内を飛ぶ。写真は赤砂飛行場の複葉機を使用し、和田嶺自動車㈱と富ヶ丘・高浜温泉が共同で飯田・甲府方面へ宣伝ビラまきに出発する直前。左から2人目が藤森飛行士、その右が下諏訪町に初めて自動車を持ち込んだ浜義雄氏。2020-03-06
42諏訪湖の夕照諏訪湖の夕照絵葉書「(諏訪名所)諏訪湖の夕照」。諏訪八景に「高浜夕照」の一節があるが、それを思わせる。2020-03-06
43諏訪湖高浜湾諏訪湖高浜湾絵葉書「諏訪名勝 諏訪湖高浜湾」。国道と中央東線(汽車が走る)が湖岸近くを走り、湖面との間には畑が一面続き、富士山を遠望する風景。2020-03-06
44高浜の信号高浜の信号国道20号から湖岸道路へ行く高浜の信号付近。2020-03-06
45高浜運動公園高浜運動公園高浜運動公園マレット場(左側)付近。手前は現在「高浜健康温泉センターゆたん歩」となっている。2020-03-06
46高浜高浜高浜。ここに温泉湧出し、旅館街があった。眺望のよさは諏訪湖周辺随一で、附近に舟遊場・釣り堀・温泉プール、水族館等があった。後ろには懐かしいボンネットバスが停まっている。 看板は「高浜釣堀」。2020-03-06
47高浜湾高浜湾高浜湾の風景。湖岸の道路に柳の木が見える。2020-03-06
48高浜高浜今はなつかしい、諏訪湖の遠浅の湖岸。 付近に温泉が湧出し、旅館街があった。また温泉プール・釣り堀・水族館もこの付近にあった。2020-03-06
49風薫る高浜湾風薫る高浜湾写真の説明に、「風薫る高浜湾」の文字がある。昭和6年度町勢覧に同様の写真がある。2020-03-06
50高浜埋立高浜埋立埋立工事に入る直前の高浜湾の風景。 諏訪湖治水計画により、諏訪湖浄化しゅんせつ事業(第一期)が昭和44(1969)年から始まった。続いて昭和46(1971)年から諏訪湖流域下水道が着工、そして昭和49(1974)年4月には諏訪湖岸の埋め立地に道路(湖岸線)が開通した。2020-03-06
51高浜埋立高浜埋立高浜湾遠望。 諏訪湖治水計画により、諏訪湖浄化しゅんせつ事業(第一期)が昭和44(1969)年から始まった。続いて昭和46(1971)年から諏訪湖流域下水道が着工、そして昭和49(1974)年4月には諏訪湖岸の埋め立地に道路(湖岸線)が開通した。2020-03-06
52高浜埋立高浜埋立埋め立て中の高浜湾。 諏訪湖治水計画により、諏訪湖浄化しゅんせつ事業(第一期)が昭和44(1969)年から始まった。続いて昭和46(1971)年から諏訪湖流域下水道が着工、そして昭和49(1974)年4月には諏訪湖岸の埋め立地に道路(湖岸線)が開通した。2020-03-06
53諏訪湖のしゅんせつ埋立諏訪湖のしゅんせつ埋立諏訪湖治水計画により、諏訪湖浄化しゅんせつ事業(第一期)が昭和44(1969)年から始まった。続いて昭和46(1971)年から諏訪湖流域下水道が着工、そして昭和49(1974)年4月には諏訪湖岸の埋め立地に道路(湖岸線)が開通した。2021-04-21
54高浜湾高浜湾諏訪湖で網いけす養鯉業がはじまったのは昭和39(1964)年。その頃の諏訪湖岸(高浜湾)の風情が感じられる写真。2021-03-24
55高浜湾高浜湾昭和41年に撮影された富が丘から望む高浜湾。広い水田が広がっている。2020-03-06
56諏訪湖氾濫諏訪湖氾濫昭和36(1961)年の集中豪雨で氾濫した時の諏訪湖。写真手前の上諏訪側の湖岸はかなり水につかっている。特に諏訪湖の南側は諏訪湖が広がったように見える。また下諏訪高浜や高木と思われるあたりの湖岸も水に浸かっている様子が遠望できる。下諏訪町第三区の年表(近現代)には「6月28日、豪雨で十四瀬川氾濫、西赤砂4戸床上浸水、30余戸床下浸水の被害を受ける」とある。また、諏訪市史には「諏訪市の被害は浸水家屋2,680戸、橋梁流失5、浸水日数8日」と記載されている2020-03-06
57宅地化する前の湖浜地区宅地化する前の湖浜地区富部山の手から撮影。冬の高浜湾。2020-03-06
58旧高浜プール旧高浜プール埋め立てられた高浜湾から高浜プールを望む。2020-03-06
59旧高浜プール旧高浜プール各区対抗で行われた町民水泳大会。2020-03-06
60旧高浜プール旧高浜プール各区対抗で行われた町民水泳大会。50mプールはここしかなかった。コースロープにはコルクが使われていた。戦後の第1回町民水泳競技大会は昭和21(1946)年8月11日となっている。2020-03-06
61高浜プール開場式高浜プール開場式昭和5(1930)年に林嘉平氏(高浜温泉旅館)により完成した高浜プールは50m・4レーンであった。あわせて子ども用コースも付設されていた。その後、昭和22(1947)年に設備一切を町が県水指下諏訪支所から期間中受けて運営していた(7・8月の2ヶ月間)。 写真は、開場式の写真で、戦前と思われる。2020-03-06
62町民水泳大会町民水泳大会各区対抗で行われた町民水泳大会の関係者?背後には現国道のガードレールも見える。2020-03-06
63高浜プール高浜プール各区対抗で行われた町民水泳大会の様子で、場所は旧高浜プール(現在の県水産試験場の孵化場付近)。 プールの背景は、左に高浜湾(諏訪湖)、奥には高浜温泉旅館、プールの奥には石置屋根も懐かしい建物が見える。プールの右には富部新道と国道20号が見える。2021-12-15
64諏訪湖一周スケート大会諏訪湖一周スケート大会明治38(1905)年中央線開通とともに在京中の各国大公使が盛んにスケートに来湖するようになった。 第1回諏訪湖一周スケート大会の模様を記録した写真、背後に中央線を走る汽車も見える。 明治41(1908)年2月2日、下諏訪町諏訪湖氷辷会主催、南信日日新聞社後援「諏訪湖一周氷辷大会」が諏訪湖高浜湾氷辷場を基点に花岡・上諏訪の三角コースで行われれた。日本初の「スピード競技大会」で、大成功を収めた。この日は東京方面から団体客が乗り込み、東京大新聞記者が多数乗り込んできて、大変な賑わいであった。2020-03-06
65富ヶ丘から望む高浜富ヶ丘から望む高浜富ヶ丘旧道にあった桃畑(新井清水氏所有)から、高浜湾方面を望む。右側に下諏訪小学校や製糸工場、高浜の湖畔には水産試験場、網いけす、大四手網が見える。山の手の畑には桑畑が広がっている。2020-03-06
66石投場から望む諏訪湖石投場から望む諏訪湖石投場から高木・上諏訪方面へ諏訪湖を望む。富部から高木(殿村遺跡)は「うばのふところ」と言われ一日中陽が当たる暖かいところで、桜は石投げ場が1番、慈雲寺が2番に咲くといわれていた。走行するボンネットバスは、丸Sバス。諏訪湖の対岸に遠く片倉館が見える。当時の絵葉書(高浜湾の勝景)である。2020-03-06
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