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写真タイトル説明登録日
1継子神4 神紋梶の旗継子神4 神紋梶の旗年例祭では織とともに神前に掲げられる「神紋梶」の御旗一流。これは諏訪大社から下賜されたもので、きわめて異例のことである。ゆえあって民間祭祀となっているが、この一事は 、継子祭祀の本源がいかに至尊のものであるかをうかがわせるに十分だろう 。2023-04-01
2まつや呉服店まつや呉服店まつや呉服店は現在はまつや洋品店は下諏訪町矢木東に移転している。まつや呉服店があった場所は平成12(2000)年まで荒井書店が営業していた。 旗や看板等が見え、恵比寿講で多くの人々で賑わっている。2023-01-24
3御騎馬行列の豆人形御騎馬行列の豆人形この作品は御柱祭里曳の神賑わいのパレードで披露される騎馬行列を再現した豆人形です。人形は2013年に他界した故田中とくさん(下諏訪町富士見町)の作品です。旧制高等女学校で手芸などを学び、若かりし頃の恩師の教えを受けて製作。人形は15~20cmほどの大きさ、「騎馬大将」「曲傘」「草履取り」「先ほこ」「旗持ち」「長持ち」など38体が並んでいます。2022-04-20
4片倉製糸の運動会片倉製糸の運動会昭和10年頃の写真で、片倉製糸の運動会と記録されている。写真右下のオルガンに合わせて若い女性(女工)が裸足で集団演技をしている。万国旗の中心に飛行機の模型がつるされ、垂れ幕には「皇国興廃此一戦在女□□子一層奮励努力せよ」(日露戦争の時の日本海海戦時のスローガンをもじっている)と書かれ、戦時色が色濃く出ている。2022-06-09
5御騎馬御騎馬御騎馬が町内を分散してお披露目に回る様子。 「御騎馬第三班」の文字の旗。2022-06-09
6記念写真記念写真旭日旗・国旗が見え、服装(軍服・国民服)などから戦争中の写真では?詳細不明。2021-12-18
7町制施行100周年事業町制施行100周年事業「八島太鼓」「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗。No.1444の写真と同じ場所、同じ事業の会場と思われるが、場所や内容などは不明。2020-03-06
8町制施行100周年事業町制施行100周年事業町制施行100周年記念下諏訪町植樹祭の垂れ幕と下諏訪北小学校の旗が見える。町の理事者(高木町長など)の姿も見える。下諏訪北小学校には「みどりの少年団」があり「アマゴの放流」など自然環境について学ぶ学習が行われている。2020-03-06
9諏訪湖のスケート風景諏訪湖のスケート風景諏訪湖のスケート 諏訪中(旧制)の生徒か? 古田明氏寄贈2020-03-06
10出征兵士を送る出征兵士を送る出征兵士を送る下諏訪駅の風景。2020-03-06
11御柱祭御柱祭御柱祭。里曳きの長持衆。2020-03-06
12御柱祭御柱祭御柱祭の風景。2020-03-06
13お舟祭りお舟祭りお舟祭の風景。右手の建物に旗がたち長持ちや和服姿の人が見える。2020-03-06
14お舟祭りお舟祭りお舟祭。春宮下馬橋より少し下がったあたりを曳いている。(写真)左上に下馬橋の屋根が見える。曳き綱の先の細い綱が氏子の人々の間から見える。当時の人々の服装がよくわかる。2020-03-06
15出征兵士を送る出征兵士を送る秋宮境内、沢山の幟旗が立つ、出征兵士を送る光景。15年戦争(満州事変・日中戦争・太平洋戦争)で戦死した町民は533名と記録がある。(町政要覧より)2020-03-06
16魁塚魁塚赤報隊幹部処刑の地、魁塚。慶応4(1868)年、江戸城後略の「官軍先鋒嚮導(きょうどう)隊」の旗を掲げて下諏訪宿入りした「官軍赤報隊」は東山道軍総督から偽官軍の烙印を押され、捕らえられた相楽総三ら幹部8人は3月3日、下諏訪宿外れの「はっつけ田」で斬首された。 魁塚正面中央の碑が相楽以下8人の墓碑、向かって左に渋谷総司贈従五位の碑、その隣が追分坂本で戦死した金原忠蔵ら4人の招魂碑。中央墓碑に向かった右が相楽総三贈正五位の碑、その右が高島藩で勤王の先駆をなした石城(いしがき)東山の招魂碑。地元の相楽会を中心に毎年4月第一日曜日に供養祭を行っている。2020-03-06
17大喪の礼の日の飲食店大喪の礼の日の飲食店昭和天皇の大喪の礼、弔旗をかかげて料理店「うな富」この日飲食店の大半が休業したため夜の街はひっそりしていた。2020-03-06
18小路の奥にも製糸の名残小路の奥にも製糸の名残右手は昭和34・35年頃まで操業していた「ヤマカ河西製糸所」の再繰部の建物。三協精機の創業者が、昭和23(1948)年の暮れ、この工場の一部を借り受け、旋盤機などをすえつけて旗揚げを図ったが、操業開始の前夜工場を焼失、やむなく諏訪市へ工場を移して創業したというエピソードがある。2021-04-13
19大喪の礼の日の飲食店大喪の礼の日の飲食店昭和天皇の大喪の礼の日の飲食店。弔旗をかかげて休業した料理店「うな富」。この日飲食店の」大半が休業したため、夜の街はひっそりしていた。2020-03-06
20河西製糸所河西製糸所小路の奥に製糸の名残り。昭和34(1959)・35年ころまで操業していた「ヤマカ社河西製糸所」の建物。三協精機の創業者が、昭和23(1958)年の暮れ、この工場の一部を借り受け、旋盤機などをすえつけて旗揚げを図ったが、操業開始の前夜工場を焼失、やむなく諏訪市へ工場を移して創業したというエピソードがあると「諏訪湖の町の平成元年」に紹介されている。2021-04-04
21翼賛壮年団(大社)参拝翼賛壮年団(大社)参拝のぼり端には諏訪郡内各町村の「翼賛壮年団」と書かれている。大日本翼賛壮年団は大政翼賛会の傘下団体の一つで昭和17(1942)年1月に結成された。各地区の若者組を退会した壮年団(組)が地域の行政にかかわる活動をしていたというがその活動は詳らかではない。その後戦時体制下にあっては戦争協力の会(大政翼賛会)として活動したところが多いという。写真は秋宮幣拝殿前と思われる。2020-03-06
22御柱山出し御柱山出し山出し記念写真。法被は「下諏訪消防組」。右後列には「救護、下諏訪消防組」の旗がある。「秋宮四之御柱」の前での撮影。柱の並んでいる様子から山出しの最終日の注連掛と思われる。2020-03-06
23表彰旗授与表彰旗授与昭和36(1961)年3月3日消防庁表彰旗が下諏訪駅に到着。駅頭にて団員及び町民に対して堀内忠夫団長が挨拶。2020-03-06
24下諏訪学校野球大会優勝下諏訪学校野球大会優勝明治41(1908)年秋、諏訪中学主催野球大会に下諏訪学校が優勝。なおうしろにかざられた優勝旗には明治40(1907)年春も下諏訪学校の名が刻まれている。2020-03-06
25秋宮鳥居前秋宮鳥居前「(官弊大社)諏訪神社下社秋宮社頭」と書かれた写真。「日本第一大軍神 昭和七年二月」(1932年2月)ののぼり旗が見える。手水舎が現在の位置と違う場所にある。2020-03-06
26スケートスケート秋宮リンク、桑畑や万国旗が見える。2020-03-06
27スケートスケート革のスケート靴を履いて秋宮リンクでスケートをする男性、万国旗も見える。2020-03-06
28スケートスケート秋宮リンク、万国旗の飾り見える。2020-03-06
29スケートスケート秋宮スケートリンク。万国旗と桑畑の広がる様子が見える。2020-03-06
30第1分団第1分団第一分団。2020-03-06
31第一区両社詣り第一区両社詣り出征軍人の健康祈願のため区の主催で区民がたびたび諏訪大社の上下両社に歩いてお詣りした。写真は上社石段での記念撮影。 前列中央の男性が「日本第一軍神」の旗を持っている。 両社参りとは豊作を祈り六月一日に行われていた。 戦争中はこの日に限らず諏訪上下社に参拝した。 上社へは上諏訪の駅から歩いて参拝した。2022-03-15
32出征軍人を駅で送る出征軍人を駅で送る下諏訪駅で出征兵士を送る風景。日の丸の旗や出征兵士の名前を書いた幟旗がたくさん見える。終戦近くなると、にぎやかな見送りは禁止となった。2020-03-06
33丸屋呉服店丸屋呉服店御田町にあった丸屋(まるや)呉服店、現在は共益金物になっている。 「連合大売出し御田町商業会」ののぼり旗も見え当時の御田町の賑わいが感じられる。 店の右端には「名実共ニ日本一福助足袋」の丸い看板も見える。 御田町通りは明治44(1921)年に新たに開かれた通りある。2021-05-03
34出征家族写真撮影関係者出征家族写真撮影関係者軍艦旗(旭日旗)と国旗が玄関前に飾られている。 写真にはないが幟も立てたとのこと。2020-03-06
35紀元二千六百年記念紀元二千六百年記念紀元二千六百年記念祭を高木津島神社で開催した時の記念写真。出征兵士の旗が立てられているが、もう1本は諏訪大社秋宮子安社付近へ立てた。2020-03-06
36広瀬町町少年団広瀬町町少年団広瀬町少年団の団旗完成記念写真。 昭和12(1937)年7月7日に支那事変が勃発。 この時、町内の組長や在郷軍人等の要望により結成、小学1年から高等科2年の男子全員が毎週日曜日の朝6時に新道(三国座通り)へ集合、駆け足で諏訪大社秋宮へ必勝祈願し、その後帰町して町内道路と駅庭の清掃を実施した。そろいの帽子と腕章に少年たちの真摯(しんし)な眼(まなざし)が並ぶ。2021-04-15
37中川旅館中川旅館下諏訪宿最後の旅籠中川旅館、道に面して大きな柱(離れ柱)があり牛馬を繫ぐ鉄輪がうたれていた。(現在、柱は下諏訪博物館に保存) 「中川治朗」と書かれた看板、その左右に「まねき」とよばれる、30㎝×50cmの布旗かけられている。 御嶽講のまねきが目立つが、他の講社のものも見える。 下諏訪宿の昔の姿をとどめていた中川旅館も昭和51(1976)年3月取り壊されてしまった。「2020-03-06
38広瀬町町内会ハイキング広瀬町町内会ハイキング広瀬町町内会の八島ハイキングの際の記念写真。写っている人数と手持ちの番号旗から何台かのバスに分乗していったのか.それにしても、子どもたちの多さは今では考えられない。2020-03-06
39秋宮鳥居前集合写真秋宮鳥居前集合写真徴兵検査合格者の記念写真。 旅館の名前の入った旗があることから下諏訪温泉に宿泊した県内の人たちが多数含まれていると思われる。また、学生服を着た大学生の姿も見られる。この写真では手水舎が現在と反対側にある。手水舎は昭和28(1953)年に八幡側から千尋池側に移った。向かって右に見える道は、昭和15(1940)年以前は武居に行く唯一の道であった。また、鳥居の左側の現在千尋池となっている場所に商家などの建物が見えている。鳥居前千尋館の二階から撮影された写真である。2020-03-06
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