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登録リスト(該当:27件)

写真タイトル説明登録日
1一本柳神社 大陸天一本柳神社 大陸天赤砂の一本柳神社の境内に大陸天を祀った石碑がある。大陸天は大変長寿の仏で疫病を防ぐ仏でもあるといわれている。明治の初期にコレラが大流行したときに建立されたといわれている。2024-03-19
23D万治の石仏3D万治の石仏
2024-02-14
3梶原塚梶原塚平安末から鎌倉時代の初頭に活躍した下社大祝・金刺盛澄の命の恩人梶原景時を祀ってある。盛澄は、木曽義仲軍の中心勢力であったため、源頼朝の怒りにふれ死罪を申し渡される。しかし彼の武技が消えるのを惜しんだ梶原景時のとりなしで、鶴岡八幡宮においてその技を披露することになった。その非凡な技量をみて頼朝は盛澄と義仲の家来六十余人の罪を許し、盛澄らは故郷へ帰ることができた。1200年に自刃した景時の人徳をしのび、盛澄が建立したと言い伝えがある。最初は四王ガード付近にあったが、何度か移転をし、現在は、菅野町会館の入口に祀られている。2023年に「地域の活力創生チャレンジ事業支援金」を活用して「菅野会館維持検討委員会」が整備をした。2024-02-03
4敬愛社の神変大菩薩と聖寶理源大師の碑敬愛社の神変大菩薩と聖寶理源大師の碑神変大菩薩の碑は昭和7年9月真言宗醍醐派修験道諏訪宗務支庁設置記念として建立された。書は真言宗醍醐派管長大僧正平之亮禅。高さ1.86m。神変大菩薩とは役の行者(役小角えんのおづぬ)のことで、1799年(寛政11)には,朝廷から役の行者に対して神変大菩薩という諡号(しごう)が贈られた。役の行者は奈良時代大和金峰山の修験僧として密教を修業したと伝えられている。 聖寶理源大師の碑は昭和7年9月信濃分教会設立記念として建立。高さ1.38m。聖寶は当山派修験の祖と仰がれる平安初期の真言僧で、理源大師はおくりなである。醍醐寺を創建し、金峯山で金剛蔵王菩薩を祀り、また大峰山の中興者ともされる。2023-09-24
5敬愛社の法光不動と泰力不動敬愛社の法光不動と泰力不動昭和13年9月、敬愛社に法光不動碑と泰力不動碑が建立された。法光不動碑は高さ0.95m、泰力不動碑は高さ0.97m。写真には唐木石工場の文字の入った法被を着た職人がみられる。2023-09-23
6唐糸・万寿姫五輪供養塔唐糸・万寿姫五輪供養塔唐糸は、手塚太郎光盛の娘で万寿は唐糸の娘。唐糸は十八歳の時に鎌倉に召し出された。光盛は義仲に従っていた。源頼朝が義仲を討とうとしている計画を知った唐糸は、頼朝を討つ機会をうかがっていたが捕らえられてしまう。十二歳の万寿姫は、母唐糸を助けようと素性を隠し鎌倉に出て頼朝の館に仕えた。万寿姫は頼朝の前で舞を奉納し、頼朝に「褒美」と言われた万寿姫は母唐糸の身代わりになりたいと願い出た。驚いた頼朝は孝行に免じ許し、母子ともに信濃の国に帰ることができた。唐糸と万寿は諏訪に帰ったのち、霞ヶ城の一部に館をつくって暮らしたという室町時代の「お伽草子」23編の一つ「唐糸草子」の言い伝えに基づいて建立した二人を祀る供養塔。2023-07-13
7松本藩士の墓松本藩士の墓元治元(1864)年、水戸浪士と高島・松本両藩の樋橋合戦の際、松本藩の戦死者4名を葬った墓である。建立は松本藩の隊長であった稲村元良で、当初浪士塚の近くに埋葬したところ、高島藩から反対されこの地に改葬されたという。2023-07-09
8山王台山王台 秋宮横山王台は「手塚太郎光盛(金刺盛澄の弟)」の居城跡。のちに比叡山王社を勧請(かんじょう)したので山王台とも呼ばれている。弓の名手として知られる兄金刺盛澄の像が建立されている。この場所は霞ケ城館(かすみがじょうやかた)・山王閣・青年図書館・公園・現在は駐車場になっている。 山王閣   開業 1965年  (昭和40)  閉館 2017年  (平成29)3月31日2023-07-29
9大和仁平翁像大和仁平翁像下諏訪町に上水道を設置した町大和仁平翁の像が水月公園幟口の東側に建立されている。大正14(1925)年に計画、昭和3(1928)年竣工の大工事で総工費38万円を要した。この経費は当時の町の経常総歳出の3倍を超す額で、水道管敷設事業実施は大英断であった。なお、水源は東俣から送水し、水月園下に配水池を置き、町内には自然流加で配水した。2022-03-24
10米守神社米守神社村の鎮守で、初めは「お鍬様(おくわさま)」と言って開拓神として祀っていたという。当時は今の鳥居の所にあったが、周りに人家等が増えたため現在地に移された。嘉永7(1851)年に新しく本殿と拝殿が建立され、この時奥の院として郷林に安置された石の祠には「正徳二年ミたつ四月日」と年号が刻まれている。2022-03-24
11万治の石仏万治の石仏昔、近在の人々は「浮島の阿弥陀様」と言いお参りをしていた。(№558で下ノ原の念仏講が行われていたころの写真を合わせてみていただきたい。) 江戸時代五代藩主忠林(ただとき)が、各村に命じて画かせた諏訪藩主手元絵図(東山田の図)には「えぼし岩」とある。また三代藩主忠晴が春宮の大鳥居建立の時、石工がノミを入れたとき血が流れ出たので阿弥陀如来を掘り祀った話も残されている。この石仏が世に知られるようになったのは故岡本太郎画伯が絶賛してからと言われる。「万治の石仏」の呼び名もそのころからと言われる。一方年号や願主の名が彫られていることや胸にみられる太陽・月・雲などの模様や逆卍などから江戸初期の木喰弾誓上人とも関係があると考える人もいる。2022-03-19
12神明館・神明社神明館・神明社神明館については№1173を参照していただきたい。神明館入り口に祀られている「神明神社」は大正12(1923)年に区民の寄付によって建立し、毎年10月10日を例大祭としている。なお、神社前には道祖神も建てられている。そもそもこの地区は「流れ」と呼ばれた砥川・鋳物師川・福沢川・十四瀬川の洪水常習地帯で、住宅ができたのは明治9(1876)年からで特に明治23(1890)年現国道20号線が開通してから戸数が増えてきた。新しい街だからこそ神明社は大事に守られてきたのだと思われる。2022-03-19
13承知川の石橋承知川の石橋道沿いの石垣に埋め込まれているこの大きな石は、かつて近くを流れる承知川の石橋に使われていたと伝えられている。重量およそ13tで輝石安山岩の一枚岩である。言い伝えでは武田信玄が川中島の合戦に際し、諏訪大社の千手観音に戦勝を祈願して社殿の建て替えと千手堂に三重塔の建立を約束した。合戦の帰途、信玄がこの橋を渡ろうとすると馬が動こうとしない。信玄は約束を思い出し、下馬して「神のお告げ承知つかまつり候」と申し上げたという。この伝承から承知川と呼ばれるようになったという。また石に刻まれた線刻が信玄の隠し財産の場所を示す地図になっているという話も伝わっていて、歴史ロマンを醸し出す場所になっている。2021-06-03
14明治天皇駐輦址明治天皇駐輦址明治13(1880)年、明治天皇は甲信地方の民情視察を行った。6月24日、石投げ場に車を止められ、諏訪湖の風景をめでられ、漁撈をご覧になられた。この日は小雨であったが、漁師たちは目のした3尺の大鯉を献上したという。後日「明治天皇駐輦(ちゅうれん)の記念碑」を建立した。 ちなみに、石投げ場の名前は、ここから石を投げれば諏訪湖に届くところから生まれた名称である。2021-12-26
15十四瀬川河口十四瀬川河口十四瀬川河口付近の諏訪湖畔。写真正面の船着き場の横に、大正14(1922)年平野村(現岡谷市)小井川部校4年生3名がこの地で遭難したのを慰めるために建立された延命地蔵が祀られ、湖畔を温かく見守っている。2020-03-06
16秋宮の七五三柱(しめばしら)秋宮の七五三柱(しめばしら)秋宮駐車場から参道を横から入るところにある七五三柱(しめばしら)、社務所横の秋宮駐車場から境内に入る場所に建立されている。大鳥居をくぐることを省略して参拝することになるので、平成元(1989)年に七五三柱を建て大鳥居をくぐったと同じになった。柱に「平成元己巳(つちのとみ)年十月二十五日全国諏訪神社連合会」と彫られている。この七五三鳥居を入るとすぐ右手に温泉を引いた手水が置かれている。2020-03-06
17水月園花見風景水月園花見風景明治35(1902)年に下ノ原の俳人らにより、水月園の開園と水月会が発足した。会の運動の一環として月見堂の建設、句碑が建立された。また桜・楓などが植樹され諏訪地方随一の桜の名所となった。2020-03-06
18水月園観音堂水月園観音堂明治35(1902)年12月10日水月会が会員32名で慈雲寺を会場に発足した。この年慈雲寺裏の金比羅山を開山し龍湖の句碑を建て水月園と命名した。また桜樹、楓200本を植え芭蕉・蕪村の句碑も建立。明治40(1907)年には観音堂を建て、子規の句碑を建てた。明治42(1909)年5月には碧倍桐来諏にあたり、水月会に招待した。その後、曽良の句碑を建てたり園域を拡大しつつじの植栽をするなどして整備されてきた。明治28(1895)年には町に寄付され「水月公園」と改称されている。写真は水月園観月堂の葉書。2020-03-06
19宮坂喜十先生胸像宮坂喜十先生胸像昭和4(1929)年11月18日、宮坂喜十先生謝恩会で胸像を下諏訪小学校南校の校庭入口に建立。昭和18(1943)年3月10日、大東亜戦争で供出したが、昭和26(1951)年10月7日ブロンズに復元する。製作者武井直也。宮坂喜十先生が教職についたのは明治18(1885)年以来44年間ひとすじに教育に尽くしてきた。下諏訪の初等教育の原点を担ったお一人である。「下諏訪の史話」「諏訪大神の信仰」などの郷土史の著者でもある。2020-03-06
20芭蕉句碑芭蕉句碑明治27(1894)年4月20日、萩倉観音堂坂登口(落合橋畔) 、芭蕉の句碑が建立。「雪ちるや穂屋のすすきの刈の残し」は芭蕉200年忌に下原の山田正倫(正之丞)ら9名」が発起で建立。2020-03-06
21春宮大門先大鳥居建立春宮大門先大鳥居建立この写真には「明治25(1892)年春宮大門先に建てる銅(からかね)鳥居を塩尻峠経由で到着させるとこ」と裏書あり。春宮大門先へ銅鳥居が建つ(明治25(189)2年)。大鳥居建設落札者河西準之助、河西寅吉と鋳造者小島大二郎(上田市)の三氏が礼服乗馬で指揮して、その部品を荷馬車で和田峠越えが困難なために保福寺峠を迂回して松本・塩尻峠経由で運んだという。2020-03-06
22春宮大門先石燈篭と 丸三倉庫春宮大門先石燈篭と 丸三倉庫旧中山道添の春宮大門先石灯篭(常夜灯)〔文政12年(1829)建立〕から春宮大門の銅鳥居を望む。鳥居の奥に見える屋根は第五倉庫、常夜灯横の建物は事務所。丸三倉庫現下諏訪倉庫(三井)の六号倉庫で昭和44(1969)年諏訪信用金庫下諏訪支店(信金は昭和38(1963)年四ツ角に新築、昭和44(1969)年12月現在の場所に移転した。)丸三倉庫は「倉荷証券」を発行し金融事業も手掛けた。支配人は小口文次郎他に共同倉庫、湖国倉庫(現イングスシナノ、大和電気)をも担当したが両倉庫とも「空券事件」により廃業となった。 改修後の写真№575と比較して見ていただきたい。2020-03-06
23春宮大門先石燈篭と丸三倉庫(現諏訪信金下諏訪店)春宮大門先石燈篭と丸三倉庫(現諏訪信金下諏訪店)旧中山道添の春宮大門先石灯篭(常夜灯)〔文政12年(1829)建立〕から丸三倉庫(現諏訪信用金庫下諏訪店)を左に見て、春宮大門の銅鳥居を望む。丸三倉庫№576(昭和37年)との違いが見える。2020-03-06
24忠魂碑忠魂碑明治44(1911)年3月10日八幡社裏手に総司令官大山巌筆の忠魂碑が建立されたが、社務所拡張で八幡社南に移され終戦で一時撤去させ戦後の昭和29(1954)年に再建。40(1965)年宝生橋の左袂に移される。2020-03-06
25片倉二代銅像片倉二代銅像第2代片倉翁銅像の写真絵葉書。 昭和10(1935)年に下諏訪や川岸村などの尽力により建立が決定した。 この時は宝生橋も裏参道の堀割に架設されている。 しかし、昭和18(1943)年金属回収のため撤去されてしまった。2020-03-06
26下社神宮寺方丈跡の石垣下社神宮寺方丈跡の石垣かつて下社秋宮の東側には下社神宮寺が16200坪とも言われた境内に仏殿千手堂や三重塔、仁王門、弥勒堂、方丈が建立され、たくさんの院坊が付属していた。 明治維新の時、太政官布告明治元(1968)年大政奉還で「神仏判然令」により仏教が排撃を受け、仏像の一部は他の寺に逃れたものもあったが、下社神宮寺は破却されてしまった。 写真は高台にあった下社神宮寺大坊方丈の石垣の跡である。(現言成地蔵尊横の石垣)2020-03-06
27横綱吉葉山来訪横綱吉葉山来訪大相撲下諏訪場所相撲巡業記念写真。 昭和32(1957)年9月に山王台で行われた諏訪大社相撲巡業。写真は横綱吉葉山{昭和22(1947)年入幕-昭和33(1958)年引退}、当時美声といわれた呼び出しの小鉄、行司式守与之助、民家に泊まった(小林家など)。左側に子ども達が立っているのは秋宮神楽殿前の狛犬の台座と思われるが戦争中供出されたままでまだ再建立されていない 。吉葉山は、十両昇進前に召集され戦地で銃弾2発を浴び終戦後再び土俵に上がった。大関で全勝優勝し「雪の全勝行進」で大人気となる。 しかし、病気や被弾による後遺症などで「悲劇の横綱」と呼ばれた2020-03-06
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