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写真タイトル説明登録日
1御神渡り御神渡り諏訪湖が全面結氷し寒い夜が続くと、氷の収縮で大音響とともに亀裂が生じ割れ目に沿って氷が盛り上がる。これを御神渡りという。 御神渡は諏訪七不思議の一つとして古くから知られ、諏訪大社の祭神=建御名方命(たけみなかたのみこと)が、上社から下社の妃=八坂刀売命(やさかとめのみこと)のもとへ通われた跡といわれている。 写真は2018年春の様子。2023-01-18
2筒がゆ神事筒がゆ神事諏訪大社下社春宮、神楽殿に向かって左に筒粥殿がある。毎年1月14日夜半から15日早朝にかけて筒粥の神事が執り行われ大釜の中に米と小豆・水、それに15センチほどに切ったアシの筒44本を入れ、中央の石の囲炉裏で一晩中炊き続ける。朝、アシの筒を取り出し、一本一本の筒に入った小豆粥の状態で、その年の農作物43種の豊凶を占い、最後の一本でその年一年間の吉凶を占う。この神の占いに誤りはないと、下社七不思議のひとつに数えられている。昔は上社でも行っていたというが現在は下社のみで行われている。2022-03-19
3東御宝殿建て替え東御宝殿建て替え御柱祭に合わせて建て替え工事が進む諏訪大社秋宮の東御宝殿。 御柱祭のたびごとに西と東の各御宝物殿が交互に建て替えられる。 昭和49年のこの年の今回は諏訪大社下社春宮・秋宮が東御宝殿、諏訪大社上社本宮は西御宝殿の建て替えが行われる。2021-05-03
4綿の湯綿の湯大正13(1924)年着任した柳沢警部補から、衛生保安の立場上、三湯(綿の湯・児湯・旦過の湯)とも改築の急務を力説されて、第二区では「綿の湯」をはじめ、三湯の改築に取りかかることになり、まず綿の湯から着手することになった。写真は大正14(1925)年8月、旧中山道沿い突き当たりの立町に建て直された綿の湯である。この時、階下は消防屯所で二階は集会所とし、二階屋上に火の見の望楼をのせた。 綿の湯はこの後、昭和35(1960)年に鉄筋コンクリート建築に改築されている。 綿の湯には伝説が2つ伝わっている。一つは建御名方命(たけみなかたのみこと)の妃である八坂刀売命(やさかとめ)が上社から下社へ住まいを移す際、上社前の温泉の湯を化粧綿に浸み込ませて持参し、下社前に置くとそこから湯が沸き出たというもの。もう一つは、穢れ2020-03-06
5秋宮社務所秋宮社務所座卓で執務、諏訪大社下社秋宮の社務所の風景。大社の社務所は「7年に1度」の御柱祭を節目に下社⇒上社⇒下社と移して上下両社の調和を保っている。平成元(1989)年当時は上社(平成4年の大祭まで)にあり、令和2(1990)年の現在は下社に社務所が置かれている。(令和4年から上社に移される)2020-03-06
6諏訪大社宮司諏訪大社宮司執務中の加藤宮司。諏訪大社宮司の加藤茂さん(当時82歳)は神社本庁から迎えられた宮司は「上下社の融合に一番気を使います。でもこの土地では御諏訪様は絶対で政党も新興宗教も超越して協力してくれます。これだけはよその土地とは違います。それだけに御諏訪様は怖い神様です。」と話していた。諏訪大社は上社(諏訪市・茅野市)下社(下諏訪町)に分かれているうえ、上・下両社とも二つのお社から成るというややこしさがあり、古くは上・下両社が血の抗争を繰り広げたこともあって、維新後、一つの神社となったが、氏子間の対抗意識が潜在していてかじ取りは難しいらしい。2020-03-06
7諏訪大社祈念祭諏訪大社祈念祭諏訪大社祈年祭。「祈年祭」は穀物の豊作を祈る祭り。「としごいの祭り」とも言う。現在は3月17日ころ、上社が午前中、下社は午後春宮にて行われる。2020-03-06
8第一区両社詣り第一区両社詣り昭和15(1940)年9月15日。第一区両社参り。2020-03-06
9第一区両社詣り第一区両社詣り両社参り昭和16(1941)年9月21日。の昭和13(1938)年の写真と比べると子どもや婦人(女性)の人数が多いように見える。2020-03-06
10第一区両社詣り第一区両社詣り出征軍人の健康祈願のため区の主催で区民がたびたび諏訪大社の上下両社に歩いてお詣りした。写真は上社石段での記念撮影。 前列中央の男性が「日本第一軍神」の旗を持っている。 両社参りとは豊作を祈り六月一日に行われていた。 戦争中はこの日に限らず諏訪上下社に参拝した。 上社へは上諏訪の駅から歩いて参拝した。2022-03-15
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